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2020/04/05

三州奇談卷之四 像有神威

 

    像有神威

 河北郡英田(あがた)鄕に御門(みかど)村と云ふあり。往昔大同丙戌(かのえいぬ)年、南山大師、石動山(いするぎやま)を越え給ふ頃、龍燈老松に懸り、如來の尊容奇雲の間に顯れたり。依りて一宇を建て大日尊を安置し、爰に留る事二とせ、太子二歲の尊像を彫刻ありて、弟子敎仙に授けて歸洛ありき。

[やぶちゃん注:「河北郡英田(あがた)鄕」現在の同郡津幡町(まち)の北部から西部にかけ、主に能瀬川に沿った長い形の村域を持っていた。東側の三国山は富山県との県境である。「今昔マップ」のここの左の明治末期の旧地図で当時の「英田村」を確認できる。実際、現在でも英田地区という呼称が残っている。「津幡町役場」公式サイトの後に出る「広済寺の聖徳太子像」(後で引用する)に『津幡町英田(あがた)地区の領家(りょうけ)区にある広済寺(こうさいじ)』とあるのである。この寺(グーグル・マップ・データ)である。字名が異なるが、御門地区に西で接する直近である。

「御門村」前の地図画面の西にある池に「御門池」とあり、その状態で左旧地図上へマウスを置き、左を押したまま西方向(右)ににずらすと、現在も津幡町字御門(みかど)集落があることが判る。グーグル・マップ・データではここ

「大同丙戌年」大同二(八〇六)年。

「南山大師」南山=高野山を開いたところから空海の尊称の一つ。

「石動山」石川県鹿島郡中能登町・七尾市・富山県氷見市に跨る標高五百六十四メートルの山(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「石動山」によれば、『加賀、能登、越中の山岳信仰の拠点霊場として栄え、石動山に坊院を構えた天平寺は、天皇の』『勅願所である。最盛期の中世には北陸七カ国に勧進地をもち、院坊』三百六十『余り、衆徒約』三千『人の規模を誇ったと伝えられる。祭神は五社権現と呼ばれ、イスルギ修験者たちを通じて北陸から東北にかけて分社して末社は八十を数える。南北朝時代と戦国時代の二度の全山焼き討ちと』、『明治の廃仏毀釈によって衰亡した』とある。但し、先の「御門村」は南西に三十六キロ近く離れる。

「龍燈」一般には海中の燐光が灯火のように連なって現れる現象、所謂、「不知火(しらぬい)」を指すが、その火が陸に上がって木に登って掛かるなどという伝説もある。水中から上がることから龍神が神仏に捧げる灯火とも言う。

「大日尊」大日如来。「摩訶毘盧遮那(まかびるしゃな)」と漢音写し、「大日遍照」「遍一切処」などとも漢訳される。真言密教の教主にして宇宙の実相を仏格化した根本仏であり、一切の現実経験世界の現象は、総てこの如来そのものであるとされる、最高の根源仏である。

「太子」仏法の守護者であった聖徳太子。「津幡町役場」公式サイトの後に出る「広済寺の聖徳太子像」に、『津幡町英田』『地区の領家』『区にある広済寺』『には、聖徳太子にまつわる伝説が残っています。現在は修正会(11日)と太子御忌(たいしぎょき=32122日)にご開帳があり、この聖徳太子像を見ることができます』。『その昔、弘法大師(こうぼうだいし)が石動(いするぎ)山を越えた時、竜燈(りゅうとう=神社に捧げる灯明)が古い松にかかって、如来様の姿が雲の間に現れました。そこで、太師はお堂を建て、大日如来(だいにちにょらい)を安置して、2年間そこに滞まり、その間に聖徳太子2歳の像を彫られたといわれています』。『1584(天正12)年、越中の佐々成政(さっさ・なりまさ)が能登の末森城攻略に敗退しての帰途、広済寺を焼き払ったにもかかわらず、焼け跡を探してみると、太子の木像には燃えた所は少しもなく、微笑んで立っておられたそうです』。『また、太子像を金沢へ移したところが、五穀(米・麦・粟・豆・黍または稗のこと)が実らなくなったので、村人たちが本山・本願寺に訴えて太子像を村に返してもらえるように願い出たところ、豊作が続いたそうです』。『ある時は、悪さをする者が太子像を盗み出して一晩中走ったけれども、夜明けの鐘に驚いて自分のいるところをよく見ると、御堂の前であったので恐ろしくなって、太子像を捨てて逃げ去ったそうです(英田地区の伝説「聖徳太子像」の話より引用)』。『一説によると、この聖徳太子像に順徳上皇(じゅんとくじょうこう)にまつわる伝説も残っています。順徳上皇が佐渡に流される途中、大しけに逢った際に、弘法太師が彫ったこの聖徳太子像が光明を放ち、上皇を王崎(現在のかほく市大崎)の浜に導き、上皇の命を助けたと伝えられています。その後3年間、上皇が滞在した地が現在の御門(みかど)で、広済寺がある領家の地名は、上皇の供奉(ぐぶ=お供)の住居があったことに由来します』。『笠谷地区の吉倉区にある聖徳山光楽寺(しょうとくざんこうがくじ)にも、同様の聖徳太子にまつわる伝説が残っています』とある。

「敎仙」不詳。先に注で出し、後に本文に出る津幡町字領家に現存する「龍松山廣濟寺」の原形の初代住職ということになるが、どうもこの「廣濟寺」の事蹟がよく判らないようだ。第一、今はすぐ近くに山号と同じ「龍松寺」(グーグル・マップ・データ)という別な寺さえあり、そこは単立寺院で宗派を挙げていない(次の資料によると現在は廃絶とある。但し、検索では存在することにはなっている)。また、宮本眞晴氏の調査記録「津幡町の神社と祭神の分析―種谷及び英田編―」PDF)の広済寺の北西直近にある「富士神社」(通し番号132223ページ)の解説の末尾に、平凡社「石川県の地名」から引用して、『龍松寺(単立)は広済寺の前寺号を継いだともいわれ、広済寺の金沢安江木町移転を受け』、『延享年中(174448)に創建されたと伝える(寺院明細帳)』とあって、先の通り、『現在廃絶状態』とある。また、以下、龍松山広済寺について、同じ引用書から、永正八(一五一一)年に『光受が当地に開創したとするが』、『寺院明細帳はもと真言宗龍松寺で』、『文明三(1471)年北陸巡錫の蓮如に徳斎が帰依して改宗したとする』(本文でも以下に出る)。『現集落の北西マッチャマ(松山)にあつたとされるが(河北郡誌)』、『菩提寺あったともつたえられる(中略)天正十二年(1584)佐々成政によって焼かれたといい(河北郡誌)』、『慶長二(1597)金沢安江町に移転したというが、それまで現領家集落の西側』、『河北潟縁にあったとの所伝もある』。『金沢移転後も「英田広済寺」を称し…明治16年(1883)金沢から旧地領家の現在位置に移転した』とあるのである。なお、現在、金沢市扇町に武佐山(むさやま)広済寺という浄土真宗の寺があるが、これは同名異寺である(沿革は公式サイトのこちらを見られたい)。ちょっと疲れた。これ以上は調べる気にならない。]

 夫より十三世の法印圓觀住職の頃、順德院佐渡國へ遷幸の頃、氣比(けひ)の宮敦賀より御船に召れしに、海上逆風吹きて、既に御座船沈まんとす。人々風闕(ふうけつ)鎭守の神々に祈禱して、忽ち南の松山に龍燈をかゝげ、其光りを目當にして御船をよすれば、一つの岸に至る。夫より爰を王崎と云ふ。帝此山に臨幸あり。承久三年霜月十日院主に勅して「龍松山廣濟寺」と綸命(りんめい)あり。斯くて二年御座候内、洛の明神遷座ありしを加茂村と云ふ是なり。皇居の跡は、今御門村と云ひ、百間の田地を領家と云ひて、其事跡炳焉(へいえん)たり。

[やぶちゃん注:「圓觀住職」不詳。

「順德院佐渡國へ遷幸」彼が後鳥羽天皇の第三皇子で父とともに「承久の乱」を起こし、北条義時によって佐渡へ流刑されたのは承久三(一二二一)年七月二十一日で、在島二十一年、仁治三(一二四二)年九月にそのまま佐渡で崩御した。享年四十六であった。

「氣比(けひ)の宮敦賀」福井県敦賀市曙町にある氣比神宮。中世以降は越前国の一宮に位置づけられ、「北陸道総鎮守」とも称されたという。古代から続いて中世にも広大な社領を有しており、その土地は越前を中心として遠く越中・越後・佐渡にまで及んでいた、とウィキの「氣比神宮」にある。

「風闕」荒き悪しき風を除くことの意。

「南の松山」寺位置がはっきりしないから何とも言えないが、仮に現在の御門の南方ならこれらの丘陵地がある(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「王崎」「津幡町役場」公式サイトの後に出る「御門屋敷跡と龍ヶ口井戸跡」に、『津幡町英田(あがた)地区の能瀬、御門(みかど)の両区は順徳上皇(じゅんとくじょうこう)ゆかりの地で、それにまつわる伝説が残っています』。『1221(承久3)年、承久(じょうきゅう)の乱に敗れた順徳上皇が佐渡へ流される途中、大しけに遭い、やむなく王崎(現在のかほく市大崎)の浜に上陸されて、御門に行在所(あんざいしょ=仮の御所)を定め、3年間ご滞在されたと伝えられています。こうして、村は御門と呼ばれようになり、「御門屋敷」と呼ばれた屋敷跡は、能瀬川沿いの田んぼにあったといわれています。隣の集落、領家(りょうけ)には、大しけの際に上皇を導く光を発したとされる聖徳太子像を安置した広済寺(こうさいじ)があります』。『能瀬川を挟んで対岸の英田郵便局(柏」)の真裏に、「龍ヶ口(たつのくち)井戸跡」の石碑が建っています。順徳上皇がご滞在された時に、飲料水として差し上げるために掘られた井戸跡といわれています。1986(昭和61)年の河川改修・道路拡幅によって埋められ、1989(平成元)年8月に石碑が建てられました(英田地区の伝説「龍ヶ口井」の話より引用)』とある。かほく市大崎はここ(グーグル・マップ・データ)。

「承久三年霜月十日」ユリウス暦一二二一年十二月二十五日。

「斯くて二年御座候」佐渡配流で途中のここに二年もの間、滞留したというのは信じられない。「加能郷土辞彙」の「順德天皇」にも配流の途中に加賀を通過したことは明らかであるが、『それを書いた文献は一もないやうである』とあり、以上の話は伝説に過ぎないことが判る。

「加茂村」河北郡津幡町加茂(グーグル・マップ・データ)。「洛の明神遷座ありし」とあるだけで社名を示しておらず、現在の域内にある加茂神社はその神社に該当しない。明神社(勧請元も名を出さないのはやはり信じ難い)は廃されたという謂いであろう。

「百間」百八十二メートル弱四方。

「炳焉」はっきりとしているさま。あきらかなさま。]

 其後文明三年[やぶちゃん注:一四七一年。]、本願寺の蓮如上人北國化導(けだう)の頃、當山十九世阿闇梨德齋、此蓮如上人に謁して法要を尋問し、密宗を改めて一向宗に入りぬ。則(すなはち)彌陀の尊像を與へ、名を改めて光一となる。是れ「廣濟生死流今身光一尋」の偈文によるなり。是より一向宗の道場となる。

[やぶちゃん注:「文明三年」一四七一年。

「蓮如上人北國化導」蓮如は同年四月上旬に比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れ、越前吉崎に赴いた。現在の福井県あわら市吉崎(グーグル・マップ・データ)で、吉崎御坊があった。吉崎御坊とは、同年七月下旬に本願寺系浄土真宗の北陸に於ける布教拠点としてこの地にある北潟湖(福井県あわら市北部(一部は石川県加賀市にかかる)にある海跡湖。面積約二・一六平方キロメートルの汽水湖)畔の吉崎山の山頂に蓮如が建立した寺院で、ここには北陸はもとより、奥羽からも多くの門徒が集まり、御坊周辺の吉崎一帯は坊舎や門徒の宿坊などが立ち並び、寺内町を形成した。文明七(一四七五)年八月、戦国の動乱で焼失し、蓮如は吉崎を退去し、永正三(一五〇六)年、朝倉氏が加賀より越前に侵攻した加賀一向一揆勢を「九頭竜川の戦い」で退けた後、未だ吉崎に残っていた坊舎をも破却したため、以後は廃坊となった(以上はウィキの「吉崎御坊」に拠った)。

「德齋」詳細事蹟不詳。読みは「とくさい」か。

「廣濟生死流今身光一尋」一応、訓せず音読みしているととる。「仏説無量寿経」の「往覲偈(おうごんげ)」の掉尾に前半が載り(「廣く生死(しやうじ)の流れを濟はん」)、後半の「今」を除いた「身光一尋」は阿弥陀如来が持つ二十四相好(そうごう)の第三十相「身光一尋」(仏身から発せられる光はその仏身の表面から一尋(ひろ)も先まで照らすという意)である。「一尋」は古代中国では八尺、本邦では六尺または五尺。]

 其後、佐々成政取合の頃、此御堂囘祿(くわいろく)に及ぶ。佛像經卷取退けぬる内にも、彼(かの)太子の木像は退け得ず。院主光誓悲歎して、灰燼の跡を探し見るに、彼木像一點損じなく微笑して立ち給ふ。

[やぶちゃん注:この最後の伝承は私は好きだ。

「取合」合戦。

「囘祿」火災に遭うこと。炎上すること。古代中国の火の神の名に由来する。

「光誓」広済寺の住職の名。詳細事蹟不詳。以下、判らない僧は注さない。]

 其後廣濟寺は[やぶちゃん注:国書刊行会本ではここに『金沢へ移住有(あり)し時も、此(この)木像重くして動き給はず。依而(よりて)領家村の』とある。その方がいい。]小室に殘し奉り、英田鄕數村の產神(うぶすながみ)と崇めて、二月二十四日を祭とす。

[やぶちゃん注:「領家」の「小室」の位置は不明。]

 其後廣濟寺の住持光雲の代、夢想告(つげ)ありて、領家村の太子の像を金澤へ迎へたるに、輕々と來り給ふ。是元文二年[やぶちゃん注:一七三七年。吉宗の治世。]二月の事なり。其後彼近鄕殊の外五穀不熟にして百姓穩かならず、是太子の他所へ移り給ひし故かと旦暮に歎き、又昔謂此太子の堂守たりし領家村權左門と云ふ者、取別け眞像遷座を欝憤に思ひ、密(ひそか)に上京して本山本願寺の役人に悉く讒言し、猶又國法にも訴訟を企て、終に廣濟寺の住持は退院に及び、太子の像舊室に歸り給ふ。此邊の七鄕、又元の如く五穀熟せしと云ふ。されども權左衞門が上京して讒を構へ、本山を欺(あざむ)きし事顯れて、本願寺より永く此者を一宗の改易をぞせられける。されば宗旨のなき者は一日も住居するの地なき事、天下一統の御掟故、忽ち故鄕を追出され一夜の宿貸す者もなく、貧窮至極して行方知れず。抑(そもそも)開祖上人、眞宗興行五百年已來、其宗門を剝がれし者なし、甚だ以て希有の事なり。是必ず木像の罰にやあらん。都(すべ)て像をなしては神ある物にや。

[やぶちゃん注:「永く此者を一宗の改易をぞせられける」一向宗(浄土真宗)徒からの永久追放をなされた。悪人正機説から見れば、この処分は始祖親鸞の教えに背くものである。寧ろ、太子像の帰還に伴って豊作に転じた事実や、或は広済寺の住職の夢告そのものに遡って検証すべきを、本願寺は怠っている。]

 京都の上今宮の邊に明智坊(みやうちばう)と云ふ石像あり。座して見あげ、にらみ付けたる躰(てい)なり。小兒戲れて、

「明智坊明智坊こちらむかんせ明智坊」

と云て引直すに、一夜しては又元の所を向く。傳へ聞く、是は叡山にて謂(いは)れありて殺されたる者にて、常に比叡山を白眼(にらみ)居(ゐ)ると云ふ。明智光秀山門を燒きたるは、此明智坊の生れ替りなりといふ。是又奇怪なり。

[やぶちゃん注:「都名所図会」の「巻之四 右白虎」に、

   *

明智坊(みやうちばう)石像

松尾(まつのを)社の北一町ばかり。明智坊は山門の碩德(せきとく)なり。大衆と諍論におよび、山門を退(しりぞ)きて此所に閑居す。

   *

とある(「日文研」の「都名所図会」のこちらを参考に電子化した)。京都府京都市西京区嵐山宮ノ前町辺りになるが、現存しない模様である。]

 寶曆十三年[やぶちゃん注:一七六三年。]夏金澤に一奇の燒物の像ありき。道具店に久しくありしかども、人知らざりき。其形は備前燒にして、大(おほい)さ三尺許なる布袋(ほてい)なり。是を井上兵左衞門と云ふ人、松屋七兵衞と云ものゝ店より買ひ得たり。誤ちて首を打折りければ、其中より金の匙(さじ)二本・金印一つ出でたり。ふしぎに思ひ振出し見たりしに、燒物の腹中に密(ひそか)に仕込みて堂あり。出し見るに、金銀を以て張れる堂なり。毛彫(けぼり)手を盡して、四方の柱皆最上の伽羅(きやら)なり。名木にして價ひ幾金と云ふを知らず。[やぶちゃん注:「近世奇談全集」のみ、ここに『其中に珊瑚樹(さんごじゆ)を以て神像(ざう)あり。壽老人の如し。何を祭るを知らず』とある。]故に其出所を尋ぬれども、賣買ひし間久(ひさし)うして其末知れず。只手を盡したる神物なりし。いか樣(さま)世を忍ぶ神にや有りけん。定めて不思議も有るべけれども、祭る道を知ず。只後來の奇妙を聞えて、此後に神靈威德も書き記(しる)さるゝならんと殘したるも又一奇談なり。

[やぶちゃん注:「布袋」(?~九一七年?)は唐末から五代にかけて明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧。本邦では専ら七福神の一人として知られる。「近世奇談全集」の「壽老人」は道教の神仙で中国の伝説上の人物とされ、やはり七福神の一人にも数えられるが、ここは寧ろ、本体が布袋であったから、それに引かれてかく感じたに過ぎないと思われる。そもそもが寿老人像を密かに祀り、信仰する必要がないからである。或いはイエス・キリストを模したもので(老いさらばえた老人のように見える点で寿老人はしっくりくる)、隠れキリシタンの持ち物であったのではなかろうかという気が私はする。「匙」はメダイヨンで、「金印」は或いは十字架を潜ませたそれではなかったか? などと夢想した。

「毛彫」金属や象牙などに細い鏨 (たがね) を用いて模様や文字を繊細な線で毛のように彫ること。彫金の中では最も基本的な技法で、古くから行われており、東大寺大仏の台座の蓮弁などが知られる。

「伽羅」香木の一種。沈香(じんこう)・白檀(びゃくだん)などとともに珍重される。伽羅はサンスクリット語で「黒」の意の漢音写。一説には香気の優れたものは黒色であるということから、この名がつけられたともいう。但し、特定種を原木するものではなく、また沈香の内の優良なものを「伽羅」と呼ぶこともある。詳しくはウィキの「沈香」を見られるのがよかろう。] 

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