早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 四 虎挾みと狸
四 虎挾みと狸
狸を虎挾みで捕つた時代は、もう三十年も前に通り過ぎて居た。宛もない山へ何程かけて置いても、自體居なくなつたものが、やつて來て掛りやうはなかつた。それよりも後を尋ねて出かけて行けば、間違が無かつたのである。一頃カンシヤク玉といふのを嚙ませて捕つた事もあつたが、警察が八釜しくて、直ぐ駄目になつた。
[やぶちゃん注:「虎挾み」「とらばさみ」。ウィキの「トラバサミ」によれば、罠の中央の板に獲物の足が乗ると、バネ仕掛けによりその上で二つの半円乃至は角型(かくがた)の『金属板が合わさり、脚を強く挟み込む』タイプの狩猟用具であるが、罠に『掛かった動物に長時間にわたる苦痛を与えること、密猟者が仕掛けた』それに『鳥や人間がかかる事故が発生することなどから、使用に対する批判がある』。『かつては、より強く脚に食い込み脱出を困難にするため、脚を挟む板に鋸歯状の歯が付いているものや、中』・『大型獣用のトラバサミでは、人間が誤って踏むと脚の骨を粉砕するほどの威力を持つ物もあった』。『以上のような問題から、日本では原則的に』二〇〇七年より『使用禁止となっている』とある。リンク先にはその写真・作動動画及び、フランスの写実主義の画家ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet 一八一九年~一八七七年) によって一八六〇年に描かれた「罠にかかった狐」(Renard dans la neige)が見られる。
「三十年も前」本書は大正一五(一九二六)年の刊行であるから、明治二九(一八九六)年前後。
「カンシヤク玉といふのを嚙ませて捕つた」同系色の餌に同型に作った癇癪玉を混ぜておいて、動物が噛んだ瞬間に弾けるようにしたものだろう。調べてみると、古い狩猟用語では「ドグスリ」と言うようである。]
でも虎挾みで捕つた頃には、面白いやうに捕れた事があつたさうだ。背戶の山へ三ツ掛けて、それがみんな外れて居た事もあつた。皮を剝いで軒に吊すか吊さぬ間に、もう皮買が來て買つて行つた。皮の値もいまから思ふと其頃は、噓のやうに廉かつたが、それでも齷齪[やぶちゃん注:「あくせく」。]百姓などして働くより割りが宜かつたと、北山御料林下の街道端に、茶店を出して居た爺さんは語つて居た。その頃は、前の畑もたつた一枚しか作らなんだ。後は全部ノバコ(草生)にしてあつたものだ。それが狸や狐が段々尠くなるに連れて、少しづゝ擴げて行つて、十年この方は、麥も每年何俵とか穫つた。五六年前から、田も造つて、去年は米が六俵もとれたと言うて居た。
[やぶちゃん注:「北山御料林」は旧長篠村内にあったことが三戸幸久氏の論文「愛知県におけるニホンザルの分布変化と猿害」(PDF)で確認は出来た。旧村域はここ(愛知県南設楽郡長篠村・歴史的行政区域データセットβ版)。その資料によれば別に「砥山(とやま)御料林」もあった。それは新城市横川砥山でここである。対岸に西山の地名があり、その東北に「上北地」という地名がある。さらに決定打は例の早川氏の手書き地図にあった。図の左の「寒峽川」(豊川の旧称)の左岸に「御料林」と書いてあった。則ち、この中央南北一帯が「北山御料林」であったのである。「街道」は広義の伊那街道であろう(現在の国道二百五十七号)。
「ノバコ(草生)」「草生」は「くさふ」で野原。「のばこ」は小学館「日本国語大辞典」にあって、『野原の痩せ地。のっぺ』とあった(方言ではない)。]
然し盛に虎挾みを使つた當時は、捕るにも捕つたが、一方隨分馬鹿な眞似をして、飛んだ詰らぬ目を見た事もあつたと言ふ。見事な狸が掛かつて、後肢だけ挾まれて、ピヨンピヨン 跳ねて居るのを、見す見す遁がした事があつた。今思ふと隨分、馬鹿げた譯だが、其時、遂妙な氣が出て、折角生きて居た物を、直ぐ撲殺しては[やぶちゃん注:「うちころしては」。]興が無いから、一ツ苦しむ處を見物してやれと、腰から煙草入を出して、傍に坐つて悠々煙草を喫み始めた。その時挾まれて居る肢の肉がもう破れてしまつて、中から眞つ白い筋がはみ出して居た。もうその筋だけで、挾みの鐵に引掛かつて居る危ない處だつた。狸がもがいて荒ばれる度に、少しづゝ伸びるのが判つた。それでもまさか遁げやうとは思はなんだと言ふ。手前がいくら荒ばれても、もはや遁げられぬぞよと、呑氣に毒づいたものだと言ふ。其の内狸が一段ひどく荒ばれたと思ふと、ブスリと音がして、どんどん遁げてしまつた。餘り馬鹿々々しくて、遂聲も出なんだと言ふ。筋を引斷つて[やぶちゃん注:「ひきたつて」。]しまつたのである。
後の挾みを提げて、澁々歸つて來たさうであるが、後になつて其話を狩人の一人にすると、俺も狸ではそんな目に遇つたと、同じやうな事を語つたさうである。して見ると狸には、間々ある事だつたのである。