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2020/04/13

三州奇談卷之五 祭禮申樂

 

 三 州 奇 談 卷五

 

    祭禮申樂

 人民政事は諸侯の寶、土地開け上下和し、誠に喜びを加ふる都會なり。殊に卯辰山(うだつやま)觀音院は、本城の東の岡に對し、靈驗と云ひ致景と云ひ、金城の貴賤日夜參詣し、昇平を樂しむ所なり。

[やぶちゃん注:表題は「さいれいさるがく」と読む。能(謡曲)は江戸時代までは「申楽」「猿楽」と呼ばれた。「狂言」とともに「能楽」と総称されるようになるのは明治以降のことである。

「卯辰山觀音院」卯辰山西麓にある真言宗長谷山(はせざん)観音院(グーグル・マップ・データ)。サイト「北陸三十三ヵ所観音霊場」の解説によれば、『卯辰山入口にある当寺は、本尊観音菩薩をまつり、金沢の発詳にちなむ歴史的由緒をもっています。すなわち、聖武天皇の天平年間(七四〇年ごろ)加賀国野々市の里に藤五郎という善人が居り、芋を掘って暮らしていたので、芋掘藤五郎と呼ばれていました。芋と共に砂金を見つけ、金洗沢で洗ったので「金沢」の地名がおこり、藤五郎は長者になりました。藤五郎夫婦は観音の信仰あつく、行基菩薩に願い、大和の長谷観音の同木で十一面観音を彫刻していただき、当寺を創建したところ、益々家運が栄えました。一族は七村となりその氏神として、大和、鎌倉と並び、加賀の長谷観音とうたわれました』。『その後、火災で焼失したのを、慶長六年(一六〇一)前田利長公により卯辰山に移築、毎年四月一・二日には神事能が催されました』(太字下線は私が附した)。『芋掘藤五郎の伝説は金沢の起源にちなむと共に、大昔の当地の様子を伝え、また一向一揆にほろぼされた富樫家をしのぶ言い伝えとも考えられます』。『富樫家は今の金沢郊外・野々市町あたりを中心に加賀国守として六百年にわたり栄えた名門で、特に源義経と弁慶一行を安宅の関で見破りながら逃した富樫泰家の話は有名で、二四代政親のとき高尾城にて一揆の勢力に敗れて一門の歴史を閉じました』。『当寺には仏像・仏画も多数伝わり、中でも藤五郎の寄進と伝えられる十一面観音は霊像として前田家にも厚く崇められたものです』とある。

「昇平」世の中が平和でよく治まっていること。]

 時は國初より第三主則ち微妙院殿の御二男千勝君と申すは御守殿天德院殿の御腹にて、上下の敬ひ殊に重かりし。時に元和(げんな)三年十一月朔日(ついたち)、此千勝君卯辰山觀音院の境内山王權現ありしに御宮參りあり。本堂觀音の堂の緣に御上りなされ、御休なされしに、其頃御年四歲とかや。後富山侯と成給ふ是なり。

[やぶちゃん注:「國初」藩祖前田利家(彼を初代とする考え方もあるが、私は別格として数えない)。

「第三主則ち微妙院殿」加賀藩第二代藩主で加賀前田家第三代当主前田利常。藩祖利家の庶子で四男。嗣子がいなかった加賀藩初代藩主で利家の長男であった異母兄利長の養子となった。微妙院殿は彼の戒名。

「御二男千勝君」前田利次。ここにある通り、後の越中富山藩十万石の初代藩主となった。

「御守殿天德院殿」跡の院殿は徳川秀忠の次女珠姫の戒名。頭の「御守殿」は江戸時代に於いて三位以上の大名に嫁いだ徳川将軍家の娘に対する敬称。利常は婚姻後の寛永三(一六二六)年に従三位権中納言となっている。

「元和三年十一月朔日」一六一七年。但し、この年月日と年齢「御年四歲」はおかしい。利次はこの元和三年四月二十九日生まれで、未だ生後六ヶ月だからである。「御年四歲」なら、元和六年である。

「山王權現」この社には隠された秘密がある。現在の卯辰山にある豊国神社であるが、実はこれは豊臣秀吉を主祭神とするもので、それに前田利常を併祀したものである。近くの卯辰神社(天満宮)・愛宕神社とともに卯辰山三社と呼ばれるが、これは元和二(一六一六)年に第二代藩主利常が藩祖前田利家の遺志に基づいて、卯辰山の卯辰山観音院に密かに秀吉の像を祀ったことに始まる。但し、徳川幕府に憚って「山王社」と称していた。歴代藩主が産土神として篤く崇敬し、祭礼は金沢の総祭りとして賑った、とウィキの「豊国神社(金沢市)」にある。なお、武野一雄氏の「金沢・浅野川左岸そぞろ歩き」の『金沢・観音町復活②昔の観音町と卯辰山王と観音院!!』を見ると、『観音院は、開祖祐慶が卯辰山愛宕社の別当明王院の』二『世で、隠居して観音山へ移り、観音堂と隠居所を建立し』て『観音院と号し』、『卯辰山山王の別当となります。宗派は高野山真言宗、山号は卯辰山(長谷山)。元々石浦山王社を勧請したもので』、『本尊十一面観音菩薩像は行基菩薩の御作で大和国長谷観音の末木で作られたと伝えられたものですが』、『愛宕明王院の祐慶が石浦山王から借り受けたものでした』とある。]

 其砌(みぎり)町方よりも多く參詣もありしに、觀音堂にて見やり給うて、殊に御機嫌よく、御伽(おんとぎ)に御傍へ出で、謠(うたひ)などうたひし子供もありしとかや。

[やぶちゃん注:「御伽」御傍(おそば)に仕って御慰みのお相手をし申し上げることを指す。]

 御悅(およろこび)にて御歸館ありしを、觀音院を初め町中にも殊の外有難き事に覺えて、則ち翌二日・三日兩日に、此祝(このいはひ)として町人等(ら)寄り集り、囃子(はやし)を興行せしに、御城よりも

「此儀御滿足」

とて、餠米二十俵・小豆三俵下さる。是觀音院能の格の始(はじめ)なり。翌四年より[やぶちゃん注:国書刊行会本では『同八年より』となっており、これなら不自然でない。]四月朔日・二日と定(さだま)り、「觀音御能」と稱し、諸事町役となりて、國中へ見物仰付けられ、本町棧敷(さじき)渡りて、兩家の能太夫を定め給ふ。波吉(なみよし)・諸橋(もろはし)是なり。

[やぶちゃん注:「本町」金沢には複数あった。町の中でも最も格付けの高い町で、地子銀(じしぎん)と呼ばれる銀で納められる土地税が免除された町という。

「兩家の能太夫」孰れも宝生流。加賀藩ではこの二人が神事能や勧進能を行ったことがADEAC「石川県史」の検索で判る。]

 其外、町中より是に堪能(たんのう)の者共、御扶持を蒙りて觀音御役者と稱(とな)ふ。されば此能國家の守り專一なるにや。故障ありて延びる時は、必ず國君凶事あり。不例はひとつひとつ言ふべからず。能は兩日とも、翁三番叟(おきなさんばさう)なり。

[やぶちゃん注:「翁三番叟」「翁」は能楽の演目の一つで別格に扱われる祝言曲。最初に翁を演じる正式な番組立てを「翁付」と称し、正月初会や祝賀能などで演じられる。翁・千歳・三番叟の三人の歌舞からなり、翁役は白色尉(はくしきじょう)、三番叟役は黒色尉という面をつける。原則として翁に続いて同じシテ・地謡・囃子方で脇能を演じる。]

 此翁の面に奇特あり。是も又靑木が原の波間より現はれ出し不思議を聞けば、其頃慶長の初め、能登國諸橋村に正直の父母一人の娘を持ち、彼も又孝順なり。且つ白雉山(はくちざん)明泉寺(みやうせんじ)の觀世音を信じ、步を常に運びしに、其頃此海邊の沖に夜な夜な光る者あり。或夜彼夫婦の者に、此の本尊枕上に立ちてのたまはく、

「汝等比國の始めを知まじ」

とて、彼(かの)比叡山開闢(かいびやく)の由來を懇(ねんごろ)に示し給ひ、且(かつ)

「此寺の藥師如來は行基菩薩の造る所なり。汝が娘此像に前生(ぜんしやう)の因緣あり。是を娘に與ふべし。今より五年にして悅(よろこび)あらん。八年にして男子あらん。後五十年を經て、大きに幸(さひはひ)を得べし。且つ此ほど波上の光り物は、白髭明神此(この)淨瑠璃(じやうるり)世界の主に逢はんと來れるなり。汝早く娘を伴なひ、尊像を抱きて海邊に至り、誠心に是を拜せば必ず奇特あるべし」

と見て、夢は覺めたり。

[やぶちゃん注:「靑木が原」国書刊行会本では『樒が原』(しきみがはら)とあるが、意味不明。或いはここで演ずる際には翁が、樒(アウストロバイレヤ目 Austrobaileyales マツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum。神仏の祭事に用いられる)或いは青い木の葉を飾った祭壇(それはこの叙述からは海を表象するようである)から出現するものか。通常の「翁」では舞台に祭壇は作るが、翁は橋掛かりから出る。

「慶長」一五九六年~一六一五年。

「能登國諸橋村」旧石川県鳳至郡諸橋村(歴史的行政区域データセット)。現在の石川県鳳珠郡穴水町(まち)の東方部分。

「白雉山明泉寺」石川県鳳珠郡穴水町字明千寺(みょうせんじ)にある真言宗白雉山明泉寺(グーグル・マップ・データ)。本尊は千手千眼観世音菩薩。白雉三(六五二)年に創建された古刹。開山は不明。因みに境内には、弘法大師がこの地で修行した折、空から降って来て夜を照らしたと言われる明星石があるとある。

「淨瑠璃世界」東方にあるとされる薬師如来の浄土。瑠璃を大地として、建物・用具は総て七宝造りで、多くの菩薩が住むとされる。]

 父子是を語り合ひて大いに驚き、頓(やが)て示現(じげん)に任せて曉早く海岸に下り、遙に沖を拜しけるに、例の光物間近く來りて、一つの岩に留まり、光明赫々(かくかく)として、微妙の音を發し謠(うた)ふ聲あり。

 父子、波にひたり近づき見れば、一の翁の面なり。

「是必ず靈夢の賜物なり」

と、感淚と共に納めて家路に歸り、明泉寺へも詣でゝ是を感嘆す。

 其後、泉州堺の富家小西次郞兵衞と云ふ者、遠く藥種を尋ねて爰に來り、彼(かの)家に宿りけるに、宿緣の故にや、年每に此夫婦が家を定宿(ぢやうやど)として懇に因(ちな)みける。

 其頃娘は十七歲、もとより美麗にして容姿も珍らし。[やぶちゃん注:国書刊行会本ではここに『次郎兵衛も青年の人、互に相捨(あひすて)ざる心より、終(つひ)にかぞいろ[やぶちゃん注:父母]につたへて』とある。]婦妻に貰ひて金澤に歸り、尾張町に家居して高岡屋次郞兵衞と名乘る是なり。父母も示現の詞(ことば)を合せたる如くなれば、大いに悅び、彼藥師の像と「溜息の面」を以て聟引出(むこひきで)とはなしたり。

[やぶちゃん注:「溜息の面」意味不明であるが、翁の面を指していよう。「溜息の」出るほどに優れた面ということか?

「聟引出」婿への引き出物とすること。]

 其後次郞兵衞に一人の男子を生じ、成人の後(のち)世を讓りて、夫婦共に法躰(ほつたい)して、父は「道善」と云ひ、母は「妙音尼」と云ふ。共に長生して大往生を遂げたり。二代の次郞兵衞、又嗣子に世を讓りて「宗齋」と云ふ。此時國主の惠(めぐみ)を蒙ること深く、次第に家榮えて巨萬の富を得たりしかば、大守の國恩を報ぜんとて、彼(かの)溜息の面を献じ奉る。國守是を甚だ奇とし給ひ、感悅斜(なのめな)らず、宗齋に

「何によらず願ふべし」

との君命有りかたく、

「日頃の願望は家に傳ふる所の靈佛、恐らくは汚穢(をゑ)不淨の家、其所を得ざるかなれば、父母追善のため一寺を建立せんこと」

を願ひけるに、是又國主の御感(ぎよかん)に預り、則(すなはち)卯辰山の邊にして寺地三千步を下され、其望を許されければ、宗齋大いに悅び、頓て一寺を建立し、直に洛陽淸淨慶院(しやうじやうけいゐん)に參り、寺號および開山と成るべき師を下し給はらんことを望みけるに、院主も是を嘆じ、則(すなはち)父の法名を直に用ひて「善導寺」とし、母の號を取りて「妙音山」と稱し、彼(かの)藥師佛を永く此寺の鎭守とす。此趣を公(おほやけ)に聞えければ、天氣殊に御快(おこころよ)く、忝(かたじけな)くも勅裁をなして寺號・山號共に額を下されければ、日頃の望(のぞみ)爰に足り、彼(かの)一寺に父母の影像を安置して、寺名四方にはびこれり。

[やぶちゃん注:「淸淨慶院」不詳。京都市上京区に清浄華院(しょうじょうけいん)があるが、この寺は浄土宗であるから違う。

「公」天皇。後陽成天皇か後水尾天皇であろう。

「天氣」天皇の御気分。]

 彼(かの)面は其後此能太夫波吉某に預けさせ給ひければ、彌々崇敬他に殊にして、其名を「諸橋小西」と號(とな)ふるなり。

[やぶちゃん注:「諸橋小西」「小西」はもとの旧蔵者の本姓。国書刊行会本では『諸橋小面』(もろはしこおもて)であるが、「小面」はあどけなさを残した最も若い可憐な若い女の能面を指すのでおかしい。]

 卯辰山の號は金城の東に當る故、初め「東山」と云ひけれども、

「寺院多くして洛陽に紛らはし」

とて、其當る方(かた)に依りて「卯辰山」と云ひならはせしとなり。

[やぶちゃん注:「卯辰」南南東。金沢城から卯辰山は東北東であるが、そこから卯辰連峰は南に伸びている。]

 「尾山八町」と云ふ號も、佐久間盛政が頃の舊名なり。其數は西町・堤町(つつみまち)・南町・金谷(かなや)町・松原町・安江(やすえ)町・材木町・近江(おうみ)町なり。尾張町は天正十一年[やぶちゃん注:一五八三年。]、大納言利家公尾州荒子(あらこ)より附添し御家人を置るゝ故、前田家よりの所號なり。他鄕の者爰に家居せし。則(すなはち)小西次郞兵衞も此尾張町に宅地せり。次第に他鄕の人多く爰に住居する程に、居餘り、新町と云ふも今町と云ふも、皆尾張町より出でたる號なり。

「かゝる佛場(ぶつじやう)の榮華も、偏へに觀音妙智力(くわんのんみやうちりき)によるとはいへども、國君の恩澤より起るにこそ」

と諸人普(あまね)く是を稱嘆す。

[やぶちゃん注:「尾山八町」「尾山」は金沢市の旧地名。戦国時代の金沢城跡と、その周辺の呼称である。加賀一向一揆の拠点となった金沢御堂(みどう)(尾山御坊)を、佐久間盛政(複数回既出既注。「大乘垂ㇾ戒」の私の注を見られたい)が落とし、金沢を一時期、「尾山」と称した。その後、御坊跡地は金沢城となり、寺内(じない)町を受け継いで西町・南町・堤町・松原町・近江町・安江町・金屋(かなや)町・材木町の城下町が形成され、「尾山八町」と称した。これらの町名は位置は違うものもあるが、現在も残っている。現在、城跡西部を統合して「尾山町」(グーグル・マップ・データ)という(ここは小学館「日本大百科全書」を参照した)。本篇を読解するのに、必要がないと思われるので、以上の旧町域の指示はしない。

「尾張町」石川県金沢市尾張町(グーグル・マップ・データ)。金沢城跡の北の浅野川に近い位置にある。

「尾州荒子」前田利家は尾張国海東郡荒子村(現在の名古屋市中川区荒子(グーグル・マップ・データ))の荒子城主前田利春の四男であった。]

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