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2020/04/02

三州奇談卷之四 屍骨毀譽


    屍骨毀譽

 松雲相公の代、竪町に土肥(どひ)彌十郞と云ふ士あり。遺知の内三ヶ一を給りて、十三歲にて病死せられぬ。國格として三ノ一の中(なか)、死去は斷絕なり。然るに同姓の女、一向宗の長德寺と云ふに嫁して七十有餘の人ありしが、此事を歎き度々組頭へ罷出(まかりい)で、

「彌十郞家には先祖土肥彌太郞實平が遺骨を持傳へ侍るに、茶湯(さゆ)すべき方便も盡申(つきまう)す段、歎き申す」

と云へども、

「十五才未滿の死去は國格なれば御上御聽にも達し難し」

と、頭中(かしらうち)も言はれしを、

「左候(ささふら)はゞ此遺骨を首に懸け登城致し、愁訴申さん」

と思ひ切(きり)たる躰(てい)故、一々組頭より言上に及びしに、[やぶちゃん注:ここに国書刊行会本では『松雲院殿綱紀公御笑ひに成(なり)、「婆めもさすがの者ぞ」とて、別格っを以(もつて)、』と入る。その方いい。]舍弟三十郞と云ふに本知六百石の御一行(おんいちぎやう)を給はり、其家今繁榮なり。

『賴朝十代・遠平十代見放すまじ』

との染筆は、七騎落(しちきおち)の時とかや。父子の忠義は千古の今日、猶尸(かばね)の名譽はありし。

[やぶちゃん注:「屍骨毀譽」返り点もないので読みは「しこつきよ」人の遺骨に係わる毀誉褒貶の話の意。

「松雲相公」加賀藩の第四代藩主前田綱紀(寛永二〇(一六四三)年~享保九(一七二四)年)。法名は松雲院殿徳翁一斎大居士であり、彼は参議であったが、「相公」(しょうこう)は参議の唐名である。ウィキの「前田綱紀」によれば、『叔父徳川光圀や池田光政らと並んで、江戸時代前期の名君の一人として讃えられて』おり、また、『隣国の福井藩との争いである「白山争論」』(延暦寺の末寺となった加賀国白山寺白山本宮・越前国霊応山平泉寺・美濃国白山中宮長滝寺の三者は白山頂上本社の祭祀権を巡って永く争いを続けたが、寛文八(一六六八)年、白山麓は江戸幕府の公儀御料となり、霊応山平泉寺が白山頂上本社の祭祀権を獲得した)『に決着をつけた。また、母の冥福を祈って白山比咩神社に名刀「吉光」を奉納した(これは現在国宝となっている)』ともある。

「竪町」金沢市竪町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。兼六園の南西直近。

「遺知の内三ヶ一を給りて、十三歲にて病死せられぬ。國格として三ノ一の中(なか)、死去は斷絕なり」亡くなった父親の知行地の三分の一を継いでいたが(出自が相応にしっかりしていた側室か妾か何かに複数の男子あったか、何らかの不利な出来事が晩年の父にあったために没収されたか)、十三歳で病死なされてしまった。加賀藩の御定めによって知行地三分の一の分け与えの者がそのまま急逝した場合は、知行召し上げの上、御家断絶と決まっていたのである、という意味でとっておく。

「同姓の女」亡き土肥彌十郞の父土肥家の直系親族に一人であろう。

「長德寺」石川県金沢市彦三町(ひこそまち)にある浄土真宗長徳寺

「土肥彌太郞實平」(?~建久二(一一九一)年?)は相模国土肥郷を本拠とする直参の鎌倉幕府御家人。もとは平氏であったが、源頼朝の挙兵に応じ、「石橋山の戦い」では頼朝の危機を救い、以後、源平合戦・奥州征伐に功を立て、備前・美作・備中・備後・播磨などの守護に任ぜられた。「吾妻鏡」の建久二(一一九一)年七月十八日の記事に見えるのが最後である。その子孫は小早川氏を称し、安芸国に下向して勢力を伸ばした。鎌倉史を研究している私には、とんでもない人物が出てきたぞって感じだ。

「賴朝十代・遠平十代見放すまじ」まず次の注を先に読まれたい。「遠平」はそこに出る土肥遠平(?~嘉禎三(一二三七)年)である。ウィキの「土肥遠平」によれば、『土肥実平の嫡男』で『父に従い、相模国土肥郷に隣接する早川荘を領し、小早川村に館を築いたことから後に小早川を名乗った。源頼朝方の有力豪族として治承4年(1180年)、源頼朝の挙兵に父とともに参加。その主力として戦うも石橋山の戦いで敗北。頼朝が安房国に脱出する際には使者となり、北条政子に頼朝が無事であることを知らせた。源平合戦(治承・寿永の乱)では、源義経らとともに平家追討のために西国に下る。平家滅亡後はその功により安芸国沼田荘等の地頭に任命される。平賀義信の子景平を養子に迎え、小早川景平と名乗らせて沼田荘を相続させ、相模国内には嫡男の維平を残して土肥宗家と所領を相続させた』。『しかし、建保元年(1213年)に幕府内の勢力争いから和田合戦が発生。和田氏と血縁関係にあった土肥氏は維平が和田方に加わるものの敗北。維平は囚われて同年9月に処刑された。遠平はこの戦いに無関係を貫き通し、土肥郷と沼田荘を引き続き』、『所領とした』。『遠平はその前後に沼田荘に下向し、そこで人生を終えたと思われる』とある。この書かれた誓文は犠牲となって戦地に残った彼に「頼朝から十代に亙って、土肥遠平から十代まで見放すことはせぬ」という謂いである。

「七騎落」「石橋山の戦い」で負けて敗走した際のエピソードで作者未詳の謡曲「七騎落」で特に知られる。筋立ては、小学館「日本国語大辞典」によれば、『石橋山の合戦に敗れた頼朝一行は船で房総の方へ逃げ落ちようとしたが、主従の数が源氏に不吉な八騎なので、土肥実平の子遠平を陸上に残して出る。翌日、和田義盛が遠平を助けて連れてきたので、一同は喜びの酒宴を催す』というものである。こちらに解説と詞章も載る。「八」を不吉とするのは、祖父為義(「保元の乱」で最後には後白河天皇方についた長男義朝の手で処刑された)や、父義朝(「平治の乱」で最後は都を落ち延びる途中に尾張国で年来の家人であった長田忠致(ただむね)・景致に裏切られて謀殺された)が敗走した折り、何れも八騎であったことによる。]

 坂東の行脚人の語りしは、實平が塚は伊豆の土肥にあり。次郞實平が舊地とて、石碑の廻り大いなる竹藪あり。然るに寶曆九年[やぶちゃん注:一七五五年。]五月四日、此藪の笋(たけのこ)を猪多く出て殘らず喰あらしぬ。塚守りの住持大に恨み、石碑に向ひ、

「往古の武勇も尸にては云ひ甲斐なき物かな。此貧寺は竹の子の爲に養はるゝことなるに、斯(かく)荒されては何を以て靈供茶湯をもすべきや。塚若(も)し靈なくば、掘穿(ほりうが)ちて打捨て他國すべし」

と、塚を敲き詈(ののし)り歸られしに、翌五日朝此塚の前に大いなる猪二ツ打殺してありき。其後、猪此藪へ來らずと話せり。

[やぶちゃん注:「實平が塚は伊豆の土肥にあり」現在、土肥一族の墓所は神奈川県湯河原町の曹洞宗万年山城願寺にある。城願寺のウィキによれば、本寺は『土肥実平の草創と伝える。その後衰退していたが、南北朝時代に土肥実平の末裔の土肥兵衛入道が、清拙正澄(大鑑禅師)の弟子の禅僧雲林清深を開山に招請して再興。もと密教寺院だったものを臨済宗に改め、清拙正澄を勧請開山(名目上の開山)とした。その後ふたたび衰退したが、戦国時代に大州育守(鎌倉海蔵寺三世)が再興し、曹洞宗に改宗した』。『土肥一族墓所』(ウィキの写真)『や、石橋山の戦いで源頼朝と共に逃げのびた頼朝七騎が祭られた七騎堂』(ウィキの写真)『が境内にある』とある。「伊豆の土肥」と筆者は述べているが、土肥郷は現在の伊豆の土肥ではなく、湯河原町・真鶴町・小田原市の一部であったとされている。話者が誤認したものであろう。]

 英雄の意氣、骸上の恥さへ厭ふに、時と人は替れど、尸にうるさき奇談もあり。

 近く寶曆十二年[やぶちゃん注:一七六二年。]の事也。小立野(こだつの)勝見屋五右衞門と云ふ酒家あり。隣町の錢湯へ行きしが、内にて頓死せり。頓(やが)て家に返し、一門歎きて遺骸を棺に入れ、佛間に置、親類兩人宿直(とのゐ)して居けるに、深更に及び此棺桶頻りに鳴り動きしかば、人々驚き内を改むるに、死骸甚だふとり、手足などふとく腫(はれ)たるにより、皆々ふしぎの事に思ひ、よく棺を結(ゆ)はへ直しけるが、次第に此棺鳴り動き、内より蓋を刎出(はねいだ)し、死骸太く逞しくなり、見るもけうとき躰(てい)なり。されど死相には紛れなければ、

「此上はいざや早く葬送して燒滅然るべし」

と僧と示談(じだん)して、

「兼ては明日未の刻と約談せしかども、明日にては遲し」

と辰の刻許(ばかり)に桶に千筋の繩を懸け、力者八人して是を舁き、旦那寺は福念寺なりしが、此趣故(ゆゑ)取置き・燒香も手早く濟して、燒場に臨むに、隱坊(おんばう)共、是又不審して、一門中(ぢゆう)より一札(いつさつ)を取りて是をやく。老伯父證(しよう)の爲(ため)一人殘り居りし。燒草(やきぐさ)山の如く、炭も數十俵用ひて火炎さかんなる中、靑き光り顯れ、竹を割(さ)く如き音して、一夜消えず。老人も驚嘆して、隱ぼう[やぶちゃん注:ママ。]に尋ぬるに、

「此(かく)の如き事なきにもあらず。此前江沼郡の百姓に如ㇾ此(かくのごとき)事ありて、隱ぼうも甚だ迷惑したりし事あり。また近江の獵師に此類(たぐひ)ありて、死して三日目に死骸忽ち六疊敷に餘り、壁を押してぬく事あり。詮方なくて其廻りを掘(ほり)埋(うづ)めしに、後(のち)公儀へ聞へ、六ヶ敷(むつかしく)、檢使來りて改葬しける事も聞きし」

とは云ひし。

[やぶちゃん注:「小立野」現在の金沢市小立野

「けうとき」「気疎き」(近世以降はこれで「きょうとき」とも口語発音されるようになった)は「恐ろしい・気味が悪い」の意。

「未の刻」午後二時頃。

「辰の刻」午前八時頃。

「福念寺」金沢市芳斉にある浄土真宗福念寺

「取置き」通常は「死骸を取り片づけること・埋葬」の意であるが、ここは葬儀の中の僧による読経などを指しているようである。

「隱坊」「隱亡」「御坊」などとも書く。死者の火葬・埋葬の世話をし、墓所を守ることを生業とした人。江戸時代は賤民身分の扱いとされて差別された。

「一門中より一札を取りて是をやく」如何にも急かしていることから、この男の死は病死などではなく、何らかの事件や犯罪に係わる変死体なのではないかと疑ったのである。されば、死者の親族が望んで急かして遺体を焼いた次第を記した証文を書いて貰ったのである。

「燒草」当時の火葬は遺体を充分に焼くために乾燥させた藁などを用いたのであろう。

(やきぐさ)山の如く、炭も數十俵用ひて火炎さかんなる中、靑き光り顯れ、竹を割(さ)

「江沼郡」現在の加賀市全域と小松市の一部。石川県の南端に当たる。

「壁を押してぬく事あり」遺体が部屋一杯に膨れ上がって壁を突き破ったことがあった。されば遺体を家から出すことも出来ず、仕方なく、縁の下に入り、その部屋の下の地面「廻り」を「掘」り下げ、床板の四方を切って、床板・畳ごと、遺体を「埋」めたということであろうか。

「公儀へ聞へ、六ヶ敷(むつかしく)、檢使來りて改葬しける」先の隠亡の不審と同じで、異常な仕方で敷地内に埋葬した(葬儀もろくに行っていない感じがする)ことが漏れ、事件性のある変死・殺人が疑われたためであろう。]

 また南都の靈驗記に、

『奈良の者他國へ行き歸りて、三笠山に詣で神前にて死す。見る内に尸三間四方となり、親類どもずたずたに切(きり)て是を葬りける。是(これ)鹿を喰(くら)ひし神罰なり』

と書きたり。

 いか樣(さま)如ㇾ此事も、日頃の不信心より起るとかや。恐るべき事にこそ。

[やぶちゃん注:「南都の靈驗記」不詳。以下の話からは「春日権現験記」を想起するが、ネットでいろいろと検索を掛け絵巻も縦覧したが、このような話は載っていない感じがする。識者の御教授を乞う。

「三笠山」奈良県奈良市春日野町の春日大社の御神体である御蓋山(みかさやま:春日前山とも呼ぶ)。

「三間」五メートル四十五センチ。]

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