薯蕷化ㇾ人
「山高からずとも仙あれば靈あり」と。寳達山(はうだつさん)は既に前段に述ぶる如く、平氏の公達を隱し、小松大臣の黃金(わうごん)を納む。然れば是仙境疑ふべからず。仙境ならば靈あるは固よりの事なるべし。地靈の變化(へんくわ)又他方にあるべきにあらず。さらば仙境にして金氣(きんき)を貯へ異人を釀(かも)す現證を述べんに、近き頃も此山の「北櫻馬場」と云ふ所に、山師の人靈神(れいしん)の意に戾りて、金山(きんざん)のしきを仕かけけるに、山潰れ穴塞がりて、山中死する人夥(おびただ)し。然れ共衆人こりず、猶神をいさめ、他所(よそ)にしきを構へて、今に金を掘るの催し絕えず。近年間部(まぶ)には掘當り得ざれども、其費用となす程宛(づつ)は、金子(きんす)出づること今に絕ゆることなし。何(いつ)の日いかなる人か、神の意に叶ひて多く金を掘得(ほりう)ることあらん。誠に賴母(たのも)しき寳山(はうざん)にはありけり。
[やぶちゃん注:表題は「薯蕷(やまいも)、人に化(か)す」と読んでおく。「薯蕷」は音「シヨヨ(ショヨ)」で狭義には所謂、「自然薯(じねんじょ)」=「山芋」=単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica を指す。日本薯蕷とも漢字表記し、本種は「ディオスコレア・ジャポニカ」という学名通り、日本原産である。ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea polystachya とは別種であり、別種であるが(中国原産ともされるが、同一ゲノム個体は大陸で確認されておらず、日本独自に生じた可能性がある。同種は栽培種であるが、一部で野生化したものもある)、現行では一緒くたにして「とろろいも」と呼んだり、同じ「薯蕷」の漢字を当ててしまっているが、両者は全く別な種であり、形状も一目瞭然で異なる。ここは無論、前者の真の「薯蕷」=ヤマノイモ Dioscorea japonica である。但し、ここでは通俗の呼称である「やまいも」と訓じておくこととする。
「寳達山」三つ前の「平氏の樂器」に既出既注。石川県中部にある山で、山域は羽咋郡宝達志水町・かほく市・河北郡津幡町・富山県氷見市・高岡市に跨る。山頂は宝達志水町で標高六百三十七メートル(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。能登地方の最高峰。その名は江戸時代に金山が存在したことに由来するとされる。平家落人伝説や「小松大臣」(平重盛)の「黃金」伝説(こちらは読むに耐えない凡そ信じられない牽強付会の話である)もそちらを参照されたい。
「地靈の變化又他方にあるべきにあらず」この「他方」は「ここ以外の各所」の意であろう。この宝達山の地霊の変化(へんげ)、則ち、地霊の引き起こす変容・変異(広義のメタモルフォーゼ)は、他の地方で知られているような、通り一遍の変異ではない、と言うのであろう。
「金氣(きんき)」五行の金気(ごんき)ではなく、具体な黄金(おうごん)、則ち、「金(きん)の気」と採って、かく読んでおく。
「異人」人ではない人型の異人、化け物の意。
「北櫻馬場」古い地図を見てもこの地名は見当たらないが、現在、石川県羽咋郡宝達志水町上田出(はくいぐんほうだつしみずちょううわだで)に「中尾平坑跡」が金山跡として史跡指定されており、「宝達志水町役場」公式サイト内のこちらに、『宝達山では江戸時代に金が掘られていました。金山としての開山は天正12(1584)年とされ、最盛期には150人以上が従事していました』。『宝達山の東北側の斜面に9か所の廃坑口が確認されており、中腹にある中尾平坑跡には開口部が残っています』とあり、「石川県観光連盟」公式サイト内のこちらでも複数の写真が見られる。この九ヶ所の孰れかの旧地名と考えてよいであろう。
「山師の人」山を歩き回って鉱脈を見つける職人。
「靈神(れいしん)の意に戾りて」この「戾る」は「欲張る・貪(むさぼ)る」の意で、霊神の気を感ずるなどと称して、金採掘をせんと欲を出して、の意であろう。
「金山(きんざん)のしき」この「しき」は「式」で、金採掘の「法」「仕儀」「事業」の意であろう。
「神をいさめ」そうした神霊の報復を不当として。
「間部」この「まぶ」は「間府」「間分」「間歩」で本来は鉱山で鉱石を取るために掘った坑道を指す語であるが、それを金脈の意で使用したものであろう。
「金子(きんす)」ここは鉱物としての金(きん)を売って相応の金(かね)にすることを縮約した謂いであろう。
「寳山(はうざん)」宝の山。宝達山に掛けた謂い。]
然るに近年の事とぞ、稀有の一說あり。密事(みそかごと)なれども、其邊(そのあたり)の里人のひそひそと云ひ傳ふる奇談あり。
元來此山は薯蕷(やまのいも)の名所にして、多く掘出だす。大いなる物は五六尺より一丈に及ぶ。太さ小臼(こうす)の如し。其味ひ甚だ美なり。依りて近邊の山里の婦女共、是を業(げふ)として必(かならず)掘る。
[やぶちゃん注:ヤマノイモの「根」(植物学的には実は根ではない特殊な組織体であって「担根体(たんこんたい)」と呼ばれる茎の基部についた枝の下側部分が伸びたもの)は一メートルを超えることがある。私の家の裏山は嘗てはよく人が掘りに来ていたが、幼少の頃に二メートルになんなんとするそれを見事に折らずに(後に「掘廻(ほりめぐら)」すと出る通り、担根体を取り出すには、慎重にも慎重を重ねて、周囲を根気よく掘る必要があり、少しでも先が欠けると売り物としては驚くほど安くなってしまう。その老人は蔓から掘り出し易い斜面に植わっているものを探すのが大事なのだと教えてくれた)掘り出した老人と親しくしたことがあるから、一丈(約三メートル)も誇張とは思えない。
「業」現代仮名遣「ぎょう」で生業(なりわい)の意。]
されば、この山里に白生と云ふ小村あり。此所に三四世も此山のいもを掘りて浮世を送る小民あり。いつしか末(すゑ)の露(つゆ)本(もと)の雫(しづく)となりて、今は娘一人になりて、猶(なほ)此山に土を穿ち岸を崩せども、隨分に山を尊(たつと)みて世を過ぎにけり。其娘名を「おさん」といふ。二十歲(はたち)許りにして、肥大ながら色白く、美女とも云ひつベき生れつきなり。
[やぶちゃん注:「白生」旧地図を見ても見当たらぬが、オックスフォードの明治四二(一九〇九)年測図の「石動」(いするぎ)の地図を見るに、宝達山の北に「南志雄村」・「北志雄村」を見出せ、現在の宝達志水町内の宝達山の北方の平野部には志雄小学校や志雄郵便局の名を見出せ、これらは現在「しお」と読んでいる。「白生」を「しお」と読むことは可能であり、「志雄」は歴史的仮名遣で「しを」乍ら、現代仮名遣(口語)では「しお」であるから、この旧「志雄」と「白生」が同一地名である可能性はあるかと思う。「近世奇談全集」では「しらふ」とルビするが、以上の私の推理から、それには従えない。
「末の露本の雫」葉末の露も、根元から落ちる雫も、後先はあれ、必ず消えるところから、「人の命には長短の差こそあっても何時かは必ず死ぬ」という人の命の儚さの喩え。]
然るに或日山に入りて、「鶴(つる)の嘴(はし)」と云ふ物にて土を深く掘り、大いなる薯蕷を掘廻(ほりめぐら)し、
「折らさじ。」
と心靜めて一心不亂に掘入りけるに、一念只(ただ)土にのみ染みて、意(い)、脫(もぬ)けたる如し。
[やぶちゃん注:「鶴の嘴」ピッケル様の「鶴嘴(つるはし」である。農学者大蔵永常(明和五(一七六八)年~万延元(一八六一)年)が著した農機具論「農具便利論」(全三巻・文政五(一八二二)年刊)は「木起こし」として紹介されているから、江戸後期には既にあった。恐らくは用途から見て、頭部の張り出しが片方にしかない「片鶴嘴(かたつるはし)」であろう。
「意脫けたる如し」「意」は意志・意識で、「他に何も考えることなく一心不乱となったような不思議な感じであった」の意であろう。既にして異界との接触が暗示されているのである。]
久しうして後、土の下より幽かに聲ありて、
「おさん、おさん、」
と呼ぶ者あり。おさん、大いに驚き恐れ、打捨て、家に迯(に)げ歸らんとせしが、
『扨(さて)しも、業(わざ)の捨つべきに非ず。』
と、又そろそろ本の所へ行きて土を掘るに、又々地中に幽かに聲して、
「おさん、おさん、」
と云ふこと、度々なれば、心靜まりて、
「何人(なんびと)ぞ。」
と問ふに、
「私はおまへの妹にて候。驚き給はず。」
と、
「今少し、深く掘給へ。」
と云ふ。
其時、何となく心にいたはしき事、生じて、
「然らば掘るべし。鶴に【「鶴」は「鶴の觜(はし)」の異語也。山人(さんじん)土を掘る物を「鶴」と云ふ。】あたらぬ樣にせよ。」
とて、又々、靜(しづか)に掘り入るに、今少しになりしと見えて、
「おさん樣、しばし待(まち)給へ。穴を明(あ)けん。」
と、下より押す樣にせしが、一尺許り、土、陷りてけり。
おさん、頓(やが)て鶴の嘴を其明きたる穴に差込みけるに、何かは知らずして、
「ひたひた」
と卷付く音して、無音なり。
[やぶちゃん注:何かが鶴嘴にしゅるしゅると巻き付く幽かな音と振動がしたが、すぐに静かになったというのであろう。]
おさん、恐ろしながら、力を極めて引上げければ、白き衣を纒ひたる、八、九歲許りの女子(をなご)、鶴の嘴の柄に、
「くるくる」
と纒(まと)ひて上(のぼ)る。
其さま、地中の「ことこと虫」と云ふ物の如し。
[やぶちゃん注:「ことこと虫」「虫」はママ。不詳だが、白い色、「ことこと」が土の中にいて「かさこそ」と音を発する程度には大きいことを意味していようから、甲虫類の幼虫のことと思われる。]
橫に倒れて引出(ひきいだ)したり。
之を見れば、色白く髮も又白し。然共、顏の愛こぼるゝ如く麗(うるは)し。
おさん、何となく恐しげ止みて甚だ可愛く、前に抱き、我宿に歸るに、物をも云はず、生氣も、なし。
久しく暖めて、稗(ひえ)の粥・ふすまの湯などにて口をうるほしければ、目を明け物を云ひ出で、暫くして動き出で、這ふことも叶ひたり。
[やぶちゃん注:「稗」単子葉植物綱イネ目イネ科キビ亜科キビ連ヒエ属ヒエ Echinochloa esculenta。近代まで本邦では主食穀物であった。
「ふすま」「麩」「麬」と書き、小麦を製粉したときに篩い分けられる糠(ぬか)のこと。]
おさん、嬉しく密(ひそか)に養ひて、三・四月(み・よつき)許り過しけるに、ふとりて、十二歲許の女子となる。
是より、おさんと、二人連にて、山に入り、薯蕷を掘るに、指圖する所、甚だ妙を得て、多く、いもを取得る。土の扱ひ手廻(てまは)しよく、程を知りて折ると云ふことなく、大いなる薯預の有る所を委しく敎へて、日頃三十日許も懸る仕事を、二日、三日許りには調へける程に、麓の里に出(いで)て賣るに、よき價(あたひ)を得て、食分[やぶちゃん注:「くひぶち」と当て読みしておく。]に餘りしかば、
「いも掘藤五郞とやらんが、富をも得べき有樣(ありさま)。」
と、おさんは殊に嬉び、着る物など能く拵へ與へなどし、名をば「おつる」と付くる。是「鶴の嘴」を山詞(やまことば)に「つる」と云ふ。其つるに取付きし爲に得たればとて、直(すぐ)に名に用ゆとなり。
[やぶちゃん注:「いも掘藤五郞」芋堀藤五郎。加賀国にいたとされる民話上の人物で「金澤」の地名由来譚の主人公ともされる。ウィキの「芋堀藤五郎」によれば、『山芋を掘って生計を立てる欲のない人物だったとされる。藤五郎が掘り出した山芋には砂金が付いていて、芋を洗った沢が「金洗いの沢」と呼ばれたことが、金沢という地名の由来とされる。また、金沢神社のそばにある金城霊澤』(きんじょうれいたく:ここ)『が、この「金洗いの沢」であるとされている』。『金沢市南部の山科には、芋堀藤五郎を祀る藤五郎神社がある』(ここ)。『「いずみの」泉野小学校三十年の歩みと地域発展の譜籍(平成4年、泉野小学校体育館改築記念事業実行委員会著)によると、里人の話から大乗寺の西にある二王塚』(先の藤五郎神社の北東直近に大乗寺と大乗寺公園があり、神社の南西直近には満願寺山古墳群があるからそれであろう)『が藤五郎の墓だととしている』とあり、「金沢市」公式サイト内の「いもほり藤五郎」で全十一回に亙る彼の長者伝説が読める。]
家居も少し繕(つくろ)ひて、おさんも新敷(あたらしき)着物を仕立て、立並びければ、彼(かの)「遊仙窟」に聞えし十娘・五娘と云ふも、かゝる類ひにやと稱すべし。
[やぶちゃん注:『「遊仙窟」に聞えし十娘・五娘』「五娘」は「五嫂」(ごさう)の誤り。初唐の伝奇小説。一巻。作者張鷟(ちょうさく 生没年不詳)は七世紀末から八世紀初めの流行詩人で、寧州襄楽県尉・鴻臚寺丞・司門員外郎(しもんいんがいろう)などに任ぜられた人とされる。物語は、作者が黄河上流に政務で向かった際、神仙の岩窟に迷い込み、仙女崔(さい)十娘と彼女の兄嫁であった王五嫂(おうごそう)という二人の戦争未亡人に一夜の歓待を受け、翌朝名残を惜しんで別れるという筋。文体は華麗な駢文(べんぶん)で、その間に八十四首の贈答を主とする詩を挿入し、恋の手管(てくだ)を語らせる。また、会話には当時の口語が混じっている。本書は中国では早くに散逸してしまったが、本邦には奈良時代に伝来し、「万葉集」では山上憶良が引用し、大伴家持が坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)に贈った歌に明白なその影響があり、その他、「和漢朗詠集」・「新撰朗詠集」・「唐物語」・「宝物集」などにも盛んに引用され、江戸時代の滑稽本や洒落本にさえも影響を与えている(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。]
されば一兩年には、隣村にも名に立つ美人の由をも云ひ立てし。
或人の俳句に、
薯預(いも)太き越(こし)の小里に暮したき
と聞こえしは、爰等(ここら)の事をや云ふならん。
[やぶちゃん注:一句の作者は不詳。「小里」は「こさと」「こざと」「おさと」「おざと」と読めるが、「太」に対で応じた美称の接頭辞であろう。]
然るに、二年許り過ぎて、或日、此お鶴、申出でけるは、
「我に白木綿(しらゆふ)の着物拵(こしら)へたべよ。金澤に出で薯蕷を賣らん。」
と云ふ。
[やぶちゃん注:「白木綿」白色の木綿(もめん)。
「拵へたべよ」「拵へ給(た)べよ」。新調して下されませ。]
おさん、
「然らば、我等も一所に出(いで)ん。」
と云ふに、お鶴、云ふ。
「先づ、我れ許り出(いだ)し給へ、樣子あらん。」
と云ふ。
「さらば、着物は、色よく染めて與へんに、好み候へ。」
といふ。お鶴、云ふ。
「我れ、是にも樣子あれば、只、白のまゝにて着るべし。」
とて、白無垢にして着す。
[やぶちゃん注:「樣子」特別に考えているところにある事情。思うところ。]
扨、大薯蕷(おほいも)二、三本、負ひて、まだ闇きより立出で、金澤へ行去れり。
然るに、二、三日立(たち)ても歸らず。六、七日に及べども、歸り來らず。
「金澤へは纔(わづか)に一日參りの道なれば、女足なりとも二日懸ることはあるまじ。是はいかなる事やらん。」
と案じ居る。
然れども、十四、五日も便りなし。おさん、思ふやう、
『是は直ぐに「伊勢參(いせまゐり)」にても致したるにや。何とも心元なし。兎角(とかく)金澤へ出で、樣子を聞かん。』
と身拵へする所に、夕暮に至りて、一人の武士らしき男、此白生村を尋來(たづねきた)り、
「おさん殿といふは、爰か。」
と云ふ。おさん、聞きて、
「成(なる)ほど是(ここ)にて、私(わたくし)、則(すなはち)、おさんにて御座候が、何所(いづく)より御出(おい)で。」
と尋ねたるに、彼武士、云ふ。
「お鶴殿の姊御(あねご)にて候か。お鶴殿より言傳(ことづて)にて御座候故、尋參る。」
よし申す程に、
「是は幸(さいはひ)なり、早々、樣子を聞かせ給はり候へ。」
といふに、侍、申しけるは、
「お鶴殿仕合(しあはせ)の事候て、今は、よき身におなりなされ候程に其元(そこもと)にも金澤へ御出(おいで)あるべし。迎へに籠(かご)にても進(しん)じ申さんや。但(ただ)、步行(かち)にて御出候か。」
と尋ぬる。
おさん、聞きて、
「我も金澤へ出(いで)たしと日頃用意する内なり。末寺の御庭(おには)へも御禮申度(まうしたく)も候間(さふらふあひだ)、必ず參り候べし。駕籠などは勿體(もちたい)なし、いやなり。此まゝ薯蕷を背負うて參るべし。扨、其行く所は、いづくいかなる所にて候ぞや。」
といふ。
侍の曰く、
「さきは御大家(ごたいけ)の事なり、今は云ひ難し。お鶴殿も『其許(そこもと)[やぶちゃん注:「おさん」のこと。]のさやうに仰せあるべし。』とて、此(これ)參り候(さふらふ)品(しな)どもの候(さふらふ)。是をめして御出候へ。」
とて、白木綿(しらゆふ)一疋、銀小玉五十目(め)、錢一貫文を出(いだ)し、
「是にて、跡仕舞(あとじまひ)よくして、白無垢も仕立て御待ち候へ。追付(おつつ)け、某(それがし)、御迎ひに參り、御同道申すべし。」
とて、色々、内證(ないしよう)を申(まうし)含め、
「必ず、他意は、したまふな。」
とて、堅く約して歸りぬ。
[やぶちゃん注:「末寺の御庭」ここは自身の先祖からの菩提寺の尊称。幕府の本山・末寺制度の中で、末端の「普通の寺」を「末寺」と呼んだに過ぎない。なお、ここの「御禮」とは、結果して自分がいなくなった後の先祖の永代供養を依頼することが既に含まれているのであろうと私は考える。
「銀小玉五十目」「銀小玉」は当時の銀貨である小玉銀(こだまぎん)。小粒の銀塊で普通は豆のような潰れた形をしたものが多い。個々の大きさは不定であるが、概ね約十匁(もんめ:ここの「目」に同じ。十匁は三十七・三グラム)以下で標準的なそれは一つが五~七グラム程度であった。通常の換算では銀五十匁が一両である。
「錢一貫文」は一両の四分の一である。
「跡仕舞」里の家の後始末。
「色々内證を申含め」総ての点で内密なことと言い含め。「内證」は「内緒(ないしょ)話」の「内緒」に同じい。
「必ず他意はしたまふな」「決して他言は御無用にてあらせられよ。」。]
おさんは、とくとく聞き得て、翌日、親類の末なる「およつ」なるものを呼びて、
「私は金澤へ出で、妹のたよりにてよき奉公の口もあり、又、京の本願寺へも參る望(のぞみ)なれば、今立出で候ても、歸り時(どき)、心もとなし。私、若(も)し、歸り申さず候はゞ、此家、又、此諸道具、皆、其許(そこもと)へ遣はし申候間、村への公儀向(こうぎむけ)の所置(しよち)、御取捌(おとりさばき)、これあるべし。」
と、跡の事、つくづく申置き、白木綿をひとへ物重ねに仕立て、山のいも苞(つと)をも、よき程、背負ひて待ちけるに、又々、金澤より侍分(さむらひぶん)の者、下人連れ來りて、
「迎ひに參り申(まうす)。」
よし申入れ、銀子(ぎんす)なども持參して、跡のこと、能く能く申置きて、おさんを同道にて、金澤へ歸りし。
[やぶちゃん注:「山のいも苞」手土産としての山芋を沢山、藁苞(わらづと)に包んだもの。
「公儀向の所置、御取捌これあるべし」は――有意に時間が経って帰って来なかった場合は、これこれこういうことを言い残して家を去った旨、肝煎や村役人に正直に届け出て、そこで多少のお取り調べやご処置やお前(およつ)への指示などもあるだろうが、それを言われた通りにすれば、家の家財道具その他もそのままに、皆、お前のものになるだろうから安心おし――といったニュアンスであろう。彼女は山中の一人住まいで、山芋のみを掘り、それを売って生活していた、ごくごく底辺の、耕作地を持たない特別な農民であるから、所謂、逃散(ちょうさん)などの大事には発展しないと踏んだものであろう。後で判るが、おさんは公儀を含めた関係者がそのように判断するような後始末をちゃんとしており、そんな感じに受け取られるよう、金目の物その他を、事件性が疑われないように綺麗に整理してあるのである。事実、以下で、概ね、おさんの想像した通りの展開を示すこととなるのである。]
扨、およつは、留守を預りて、此家に移り居(をり)しに、待てども、待てども、歸らず。其年も暮れ、又の春にも及ぶ故、今は左(さ)ばかりも隱し包み難く、夫々、手筋の人を招きて、右の次第をかたり、
「兎角、おさんが家居(いへゐ)を相見(さうけん)にて改め見ん。」
とてしらべ見るに、今迄少したまりたる錢金も其まゝあり、綿入・袷(あはせ)などの類(たぐひ)も相應にあり。五人前の輪島の朱椀家具、手次(てつぎ)の御坊を迎ふるとて用意せし器物(うつはもの)も、拵へしまゝにありし程に、此趣(このおもむき)村の役人へ達しければ、兎角、穩便にて、
「尋ねよ。」
とのみの事なりしかば、三年過ぎて、此およつ、身拵へし、路用など調へ、金澤より京都まで尋ねに出(いで)る。
[やぶちゃん注:「相見(さうけん)」「およし」や近所の者などと、村の「肝煎」が、揃って現場を立ち会い検分することであろう。]
然るに金澤に滯留して聞合はすれども、行衞(ゆくへ)を知りたる者なし。依りて、そろそろ小松・大聖寺・三國(みくに)などへ行𢌞(ゆきめ)ぐり、京都へ出で尋ぬれども、是又、似たる人も、なし。
[やぶちゃん注:現在の福井県坂井市の三国地区。旧越前国坂井郡内。九頭竜川の河口周辺に位置し、嘗ては北前船の拠点として栄え、名勝東尋坊で有名。]
是非に及ばす故鄕ヘ歸る道、又、
『金澤に再び逗留して、今一度、尋ね見ん。』
と思ひ、人立(ひとだ)ちある所を聞合はすに、其頃犀川の橋の上(かみ)覺源寺と云ふ寺の門過ぎて、藤の花多く咲く宮ありて、時しも開帳にて何やらん見物することもあるよしにて、人々、多くこぞり押合ひ行くに、
「いざや。彼のかたを尋ね見ん。」
と、そろそろ犀川の堤を上(かみ)に步み行くに、新竪町(しんたてまち)とやらんの後ろあたりにて、向うより下女に小者連れたる町方の内儀と見えて、美々しく拵へて、進物の包など多く下男に持たせて通る者を、行違ひさまに是を能く能く見れば.彼(かの)尋ぬるおさんなりしかば、大いに驚き、聲を懸けて、
「やれ、おさんさか。何をして居る事ぞ。」
といふに、おさんは、およつを見て、大いに驚き、
「先々(まづまづ)靜(しづか)に物を申し給へ。」
とて、近所の密かなる所をかりて、彼(かの)およつを伴ひ、密(ひそか)に申しけるは、
「今は斯の如き身になりたり。左に候へば、跡の家居・諸道具は其許(そこもと)御取候て、村へは沙汰なしにして給はるべし。」
と、吳々(くれぐれ)賴みける程に、およつも安堵して、
「村には何の替ることなし、只。行衞を案じ、自分(おのづ)と尋ねに出でたる。」
よし申す程に、おさんも心打解けて、内諸、吳々、語り、
「お鶴ことは、ふしぎの者にて、彼(か)の山にて拾ひたる女なりしが、因緣、如何なることにや、金澤へ白無垢を以て薯蕷賣(やまいもうり)に出で、或大名の御目にとまり、妻妾の類ひにめし近寄(ちかよ)せられ、其緣を以て、自らも白無垢にて金澤ヘ出で、町家の何某(なにがし)の女房となりて、お鶴は私の妹なるよし、慥(たしか)に急度(きつと)請け合ひて、事、濟み、さばかりの大人(だいじん)の御内室樣(ごないしつさま)に定まりたり。此上は其元(そこもと)、必ず、隱し包み給へ。以來、とても密(ひそか)に米・錢なども續け申さん。」
とて、相應の土產物(みやげもの)を吳れて、口を留(とど)めて歸しける。
およつは、寳達の麓の里に歸りて、村人・小役の者などへ、土產をすそわけして、彼(か)の家に住みて、今に富榮(とみさか)ふるよし。お鶴・おさんの二人は、世上へは奉公に出でたる分(ぶん)にて、事、濟めども、内證には通路もあり。各(おのおの)知りたることゝて、其家跡を指して能州の路人(ろじん)、委しく語りき。
[やぶちゃん注:「人立(ひとだ)ちある所を聞合はす」特に今、多くの人が参集する場所はないかと人に聴いたところ。
「覺源寺」石川県金沢市菊川にある浄土宗覚源寺。犀川右岸直近で、しかもすぐ角の交差点の名は「川上広見(かわかみひろみ)」で本文の「犀川の橋の上」(現在、近くの犀川に架かる菊川橋がある)とよく合う。この「上」は堤を歩くシーンでも用いられているが、「北」のことを指すのではないかと思われ、或いは「金沢城の方角」の意でも矛盾がない。
「藤の花多く咲く宮」不詳。そこを目指して歩く途中の「新竪町」で「おさん」とめぐり逢うわけだから、「新竪町」かその先にある神社でなくてはおかしいことになるが、どうもそれらしい神社は見当たらない。先の注に出した芋堀藤五郎の金城霊澤の隣りの金沢神社は、現在、藤の花が美しく、しかも最も大事な例大祭がその季節であるから、それを考えたが、グーグルアースを見ると、覚源寺から金沢神社は今は見えないようであるが、この文章、必ずしも藤の花やお宮が見えずともよい。そういう話を聴いたというのだから。一つの候補としては挙げておいてよいか。
「新竪町」ここ(グーグル・マップ・データ)。
「能州の路人」能登国へ行き来する、とある人。]
思ふに桂(かつら)の精は、女と化して明帝にまみえしためし。「ばせを」の女は、僧家(そうか)に宿りしとやらん。日本にても「かくや媛(ひめ)」は、竹の子より化して皇后に至り給ふよし、「竹とり物語」にも聞えし。竹の子・山の芋共に筍羹(しゆんかん)皿中(べいちゆう)の交りなれば、出世の例(ためし)眞(しん)にあたれり。此末(このすゑ)、串海鼠(くしこ)・靑山椒(あをざんせう)も心に留まる世なりけめ。浦島の龜・保名(やすな)の狐、何れも妻となる因緣にや。されど「つれづれ草」には、土大根の精、勇士と化して、日頃めしつる恩を謝して、敵(かたき)を防ぎ守る由聞えたれば、精魂、何とてか化(くわ)せずんばあらず。されば、淸正房の山伏は加藤虎之助と化し、武田信玄は由井正雪と再生せしとは、化(くわ)しそこなひの類ひにや。假令(たとひ)同じ物にても、伊勢道者(いせだうじや)の錢は蛇となり、作太郞が錢は蛙(かはづ)となるとや。いかなることなりともとは云はれざることながら、慥に、きのふけふ聞えし白生女郞の事は、正しく薯蕷の化したることは奇なりと云ふも餘りあり。其事はまのあたり證據ある事とやらん、委(くはし)くは書とゞめず。其障りあらんことの外聞を恐れてなり。是ぞ、山の芋のお内儀になるとは、かゝるためしにこそと思はるれ。されば、自然生(じねんじよ)のおさんが傳記、あらまし斯くの如し。化(くわ)、化(くわ)、何をか正(ただ)しとせん。例の三世の定(さだめ)に入りて、暫く一見を赦し給へ。
[やぶちゃん注:「桂の精は女と化して明帝にまみえし」う~ん、読んだ記憶があるのだが、何に出ていたどんな話か思い出せない。識者の御教授を乞う。なお、日本の桂はユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum を指すが、中国の「桂」クスノキ目クスノキ科ニッケイ属ニッケイ Cinnamomum sieboldii を指し、全くの別種である。
「ばせをの女は僧家に宿りしとやらん」唐の楚の湘水というところに山居する僧が、夜、「法華経」を読誦していると、一人の女が結縁を求めて来て消え失せ、後ジテで非情とされる植物である芭蕉(単子葉植物綱ショウガ亜綱ショウガ目バショウ科バショウ属バショウ Musa basjoo)の精であると告げて舞を舞って消え去って「花も千草もちりぢりになれば 芭蕉は破れて残りけり」と終わる、金春禅竹作の複式夢幻能を指している。台詞を含め、より詳しくは、『宝生流謡曲「芭蕉」』のページがよい。「古今百物語評判卷之一 第五 こだま幷彭侯と云ふ獸附狄仁傑の事」の私の注で細かく記してあるので参照されたいが、そこで示したように、この元の話は作者不詳の元の志怪小説集「湖海新聞夷堅續志」の「後集卷二 精怪門 樹木」の「芭蕉精」が元とされる。但し、他にも南宋の「夷堅志」に芭蕉の怪異の話があり、同書の「庚志卷六」の「蕉小娘子」、「丙志卷十二」の「紫竹園女」は芭蕉そのものが精怪になって出現する話である。
『かくや媛(ひめ)は、竹の子より化して皇后に至り給ふよし、「竹とり物語」にも聞えし』ブー! 皇后にはなっていませんよ! 麦水はん!
「筍羹(しゆんかん)皿中(べいちゆう)の交り」「筍羹」は、てっきり麦水が「管鮑の交わり」の「鮑」に引っ掛けて洒落た熟語だと思っていたら、小学館「日本国語大辞典」に「筍羹」として載ってた! 『筍を切って、鮑(あわび)』(!)、『小鳥、蒲鉾(かまぼこ)などと色よく煮含めて盛り合わせた普茶料理。節を抜いた筍に魚のすり身を詰めて煮たものもいう。しゅんか』で季語は夏だそうだ! 寛永二〇(一六四三)年刊の「料理物語」に出ており、サイト「江戸料理百選」のこちら(作り方有り)によれば、これは既に室町時代に流行していた筍の煮物だそうで、『冷めてから食膳に出された料理なので、別名、煮冷(にさまし)とも言われていた』とある(そうか! それで夏の季語なわけだ!)。『しかし』、享保一五(一七三〇)年刊の嘯夕軒・宗堅他の著になる「料理網目調味抄」に『なると、筍に限らず、菜類を中心に、海老、いか、あわびなどを加えた煮物のことになっている』とある。「料理昔ばなし」のこちらでは明らかに新春のそれとして「筍羹」(作り方と写真有り)が載ってます。これら見てると、うん、これに山芋かけて食べてもよかとデショウ!
「串海鼠(くしこ)」腸を取り除いた海鼠(なまこ:棘皮動物門ナマコ綱楯手亜綱楯手目シカクナマコ科マナマコ属マナマコApostichopus armata)を茹でて串に刺して保存できるように干したもの。ナマコの食用の歴史は古く、奈良時代には既にナマコの内蔵を抜いて煮干に加工した熬海鼠が(いりこ:この「くしこ」と基本的には同じような処理をしたもの)がまさにこのロケーションである能登国から平城京へ貢納されており、平安時代には海鼠の内蔵を塩辛にした海鼠腸(このわた)が能登国の名産物として史料に早くも登場している。則ち、現在に至るまで能登は海鼠の名産地なのである。
「靑山椒(あをざんせう)」初夏の実山椒は塩漬けにしてよう食べた。辛みがたまらんね。「心に留まる世なりけめ」という謂い添えからは、麦水は食には保守的で、ゲテモノではないものの普通でない「串海鼠」のような処理保存食や、ぐちゃぐちゃ詰めた非時期物(筍は夏じゃないでしょう)はあまり好まないタイプの人物であったのかも知れない。
「保名(やすな)の狐」安倍保名(やすな)。古浄瑠璃「しのだづま」の登場人物で摂津阿倍野の武士。和泉の信太(信田:しのだの)森で陰陽師芦屋道満の弟石川悪右衛門に追われた狐を助け、狐の化身の女「葛の葉」と結ばれて、二人の間に生まれた子が安倍晴明であるとされる。最も知られるのは「蘆屋道満大内鑑」であろう。
『されど「つれづれ草」には、土大根の精勇士と化して、日頃めしつる恩を謝して敵(かたき)を防ぎ守る由』「徒然草」の第六十八段。
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筑紫に、某(なにがし)の押領使(あふりやうし)などいふ樣なる者のありけるが、土大根(つちおほね)を、
「萬(よろづ)にいみじき藥。」
とて、朝(あさ)ごとに二つづゝ燒きて食ひける事、年久しくなりぬ。
或時、館(たち)の内に人もなかりける隙(ひま)をはかりて、敵(かたき)襲ひ來て、圍み攻めけるに、館の内に兵(つはもの)二人出で來て、命を惜しまず戰ひて、皆追ひ返してけり。いと不思議に覺えて、
「日比こゝにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戰ひし給ふは、いかなる人ぞ。」
と問ひければ、
「年來(としごろ)賴みて、朝な朝な召しつる土大根(つちおほね)らにさぶらふ。」
と言ひて失せにけり。
深く信を致しぬれば、かかる德もありけるにこそ。
*
「押領使」は平安時代に諸国に設置された令外の官の一つ。「押領」は「引率する」の意で、地方の内乱・暴徒鎮定・盗賊逮捕などに当たった。後に常設化された。「土大根(つちおほね)」ダイコン。
「淸正房の山伏は加藤虎之助と化し」強力な日蓮宗信者であったかの加藤虎之助(介)清正(永禄五(一五六二)年~慶長一六(一六一一)年)に対する、死後に発生した一種のファナティクな御霊信仰的再生伝承で「清正公信仰(せいしょうこうしんこう)」と音読みする。ウィキの「清正公信仰」によれば、清正の死から半世紀ほど過ぎた寛文年間(一六六一年~一六七三年)に成立した「続撰清正記(ぞくせんきよまさき)」に、清正は、その昔、六十六部の「法華経」を全国に納めることを成就した回国の聖「清正房(せいしょうぼう)」の生まれ変わりである、加藤清正の没後に廟の工事をしていると』、『清正房の遺骸の入った石棺が見つかったとする伝承を紹介している。同書の著者はこの伝承は史実ではないと否定しているものの、清正の没後』五十『年にしてこうした伝承が伝えられるほどの清正公信仰が既に成立していたことを示している』とある。
「化しそこなひの類ひにや」これは確かに清正と正雪の最期を知るに突っ込みたくはなるね。
「伊勢道者の錢は蛇となり」「柴田宵曲 續妖異博物館 錢と蛇」の本文と私の注をご覧戴きたい。
「作太郞が錢は蛙となるとや」原話を知らない。識者の御教授を乞う。一つ、山形の民話でサイト「日本むかしばなし」に載る「人が見たらカエルになれ」(銭緡(ぜにさし)に対して)という話があるのは見つけた(但し、これにはオチがあり、これは実際には銭が蛙に化したのではない)。
「白生女郞」「しらおじょろう」(現代仮名遣。「しらお」は前に注した)と読んでおく。女郎は単に(但しやはり卑称性はぬぐえないが)「女性」「少女」の意でも使う。
「其障りあらんことの外聞を恐れてなり」「おさん」は「町方の」かなり裕福な「内儀」となっており、それどころか、「お鶴」は、ある「大名の御目にとまり、妻妾の類ひにめし近寄(ちかよ)せられ」というのだから当然である。
「化(くわ)、化(くわ)、」大笑する「呵、呵」に引っ掛けたか。但し、そちらだと歴史的仮名遣は「か、か」になる。にしても私はマズいとは思わないがね。
「三世の定(さだめ)」六道を輪廻する前世・現世・後世の再生の因業。その因果(例えば「お鶴」は何故、山芋から大名の寵愛者になれたのかということ)は実は凡夫には判らぬわけで、さればこそ一つ奇っ怪な話という程度のものとして「暫く一見を赦し給へ」(管見下されば幸いで御座います)と遜ったのである。]
[やぶちゃん注:以下の段落は底本では全体が一字下げである。そのため、この後に一行空けた。]
此話は此十年許りの間とかや。證もある事とて不審がられしに、傍(かたはら)に物產先生あり。辨じて曰く、「是(これ)必ずあるべき事と思はる。山の芋年久しうして『大乙禹餘𩞯(たいいつうよりやう)』となると聞く。實(げ)に土のねばり、此(この)薯蕷に似たり。大乙禹餘𩞯强氣(つよきき)を請(う)くる時は、生物となると聞えたり。「おさん」薯蕷を掘りて一精土(いちせいど)に入る。月積りて人を化生(けしやう)すること、豈(あに)別に替りたる論ならんや。曾て聞く、外國に婦人のみ住む國あり。歸人子を求めんと欲(ほつ)しては、必ず井(ゐ)を覗きて影を移す。終(つひ)に孕みて女子を產すと聞えたり。おさん一婦(いつぷ)家を守る、一心只寳達の穴中に臨む。低向(うつむ)きて影をひたし、意を爰に留(とど)む。此時若(もし)大乙禹餘𩞯に化する薯蕷あらんには、陰氣を請けて生物を生ずるの理(ことわり)、豈なくて叶はざらんや。士中に向ひて化人(けにん)を求むること、別に珍らしき理とも思はれず」と、扇(あふぎ)「きりり」と廻して聞えぬ。予是を聞きて、『是も又奇談なり』として爰に書留(かきとど)む。是より彌々(いよいよ)能州に杖をつきて、北浦(きたのうら)の極(きはみ)を探さんとす。七窪(ななくぼ)は高松の上にして、加州の地爰に於て終り、北州の地理を論ずべし。然れば次の卷に、又立返りては金城の話を記さん。
[やぶちゃん注:「物產先生」一種の地方の博物学者である。
「大乙禹餘𩞯」中国の聖王「禹」の食べ残したもの、「大乙」は(「大一」「太乙」とも書く)古代中国に於ける宇宙の根元を神格化したもの。特定の超越的存在者が食べ残したものが化石などになり、際限なく増殖或いは再生することにより永遠に存在し続けるとするのである。こうしたものへの原始信仰は世界的に広く見られる。
『「おさん」』が「薯蕷を掘りて一精土(いちせいど)に入る。月積りて人を化生(けしやう)すること、豈別に替りたる論ならんや」「おさん」が孤独に一心に山芋を掘り続けた、その強い一念が、一心に土の中に「精」を入れ込み、その歳月が重なるに従って、遂に「人」(この場合、妹と称する「お鶴」)に変化(へんげ)して人と化して生まれたことは、どうしておかしな論であろうか、いや、正当な論理である。
「七窪」能登半島の南の端に、現在、石川県かほく市七窪(グーグル・マップ・データ。以下同じ)がある。
「高松」現在、石川県かほく市高松がある。ここは「七窪」の北であるが、現行の行政区域で問題とするに足らない。
というわけで、「三州奇談續編卷之二」は終わっている。それにしても、本篇は「三州奇談」の中でも異様なまでの長文で、草臥れたし、読み終えてみても、それほど面白い奇談でもない。麦水に、やや失望した。……正直言うと(言っておくと、この続編は読みながら電子化しており、過去に読んだことはないのである)……だんだん面白くなくなってきたなぁ……]