萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 新年
新年
新年來り
門松は白く光れり。
道路みな霜に凍りて
冬の凛烈たる寒氣の中
地球はその週曆を新たにするか。
われは尙悔ひて恨みず
百度(たび)もまた昨日の彈劾を新たにせむ。
いかなれば虛無の時空に
新しき辨證の非有を知らんや。
わが感情は飢えて叫び
わが生活は荒寥たる山野に住めり。
いかんぞ曆數の囘歸を知らむ
見よ! 人生は過失なり。
今日の思惟するものを斷絕して
百度(たび)もなほ昨日の悔恨を新たにせん。
【詩篇小解】 新年 新年來り、 新年去り、 地球は百度廻轉すれども、 宇宙に新しきものあることなし。 年々歲々、 我れは昨日の悔恨を繰返して、 しかも自ら悔恨せず。 よし人生は過失なるも、 我が欲情するものは過失に非ず。 いかんぞ一切を彈劾するも、 昨日の悔恨を悔恨せん。 新年來り、 百度過失を新たにするも、 我れは尙悲壯に耐え、 決して、 決して、 悔ゐざるべし。 昭和七年一月一日。 これを新しき日記に書す。
[やぶちゃん注:「悔ひて」はママ。
「凛烈」「りんれつ」と読み、「凜冽」とも書くので以下の初出の表記は誤りではない。寒気が甚だきびしいさま。「凛」「凜」の原義は「氷で閉ざされて身に沁みて寒いこと」を言う。
「百度(たび)」は後の「たび」という訓から見て、「ももたび」と読んでおく。
「いかなれば虛無の時空に」「新しき辨證の非有を知らんや。」は萩原朔太郎にしては、かなり難解な謂いである。「辨證」は弁証法で、「非有」は「ひう」で「非存在・非在」の謂いとしかとれないから、「どうして虚無の時空にあって、新しい弁証法の正・反・合の止揚(aufheben:アウフヘーベン)による、より高みへの自己存在の誕生・新生・進化があり得ようか、いや、それは決してない!」と朔太郎は叫ぶのだと私は解釈する。でなくてどうして、「見よ! 人生は過失なり。」「今日の思惟するものを斷絕して」「百度もなほ昨日の悔恨を新たにせん。」吐き出すように言うだろう! 私の解釈は以下の初出に於けるこの部分が、「いかなれば非有の時空に」「新しき辨證の囘歸を知らんや。」とあることではっきりすると私は思う。絶対の孤独者、過失者としての孤独者としての存在しかないと謂うのである。……にしても、新年を迎えてそうした新たな思念を持ち出そうとするところに、民俗社会的日本に抵抗しながらも捕われている彼を逆に私は哀れにも感じるのである。……といっても、私も同じ穴の虚無の哀れな貉であることは言うに及ばぬのであるが。
初出は昭和六(一九三一)年三月発行の『詩・現實』第四冊。
*
新年
新年來り
門松は白く光れり。
道路みな霜に凍りて
冬の澟烈たる寒氣の中
地球はその週曆を新たにするか。
われは尙悔ひて恨みず
百度(たび)もまた昨日の彈劾を新たにせむ。
いかなれば非有の時空に
新しき辨證の囘歸を知らんや。
わが感情は飢えて叫び
わが生活は荒寥たる山野に住めり。
いかんぞ曆數の囘歸を知らん。
見よ 人生は過失なり
けふの思惟するものを斷絕して
百度(たび)もなほ昨日の悔恨を新たにせむ。
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「悔ひて」「飢えて」はママ。]
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