三州奇談續編卷之三 三不思議
三不思議
抑(そもそも)長家(ちやうけ)三禁制の所以を尋ぬるに、鷹野の事は、遠く先祖長谷部信連公加州山中の湯を江沼郡に開き給ふ時、忽ち白鷺一羽鷹に蹴落されて、惱みながら芦間(あしま)に入りて湯にひたり養ふ。是を見給ひて溫泉の奇特(きどく)を知り、爰に湯坪(ゆつぼ)を開き給ふ。今の山中の湯是なり。其後白鷺觀音と化して鷹狩を戒(いまし)めしことなども、山中醫王寺の緣起に聞えたれども、昔語りにして其實(そのじつ)しかと知れ難し。されば今は長の家川狩のみにて、鷹狩の例なきこと、まのあたり見ることなれば、又別に鷹狩の此家に障(さは)ること近き理(ことわり)のありやしぬらん。【猶後に記す。】
[やぶちゃん注:「長家三禁制」前の前の「長氏の東武」を参照。各篇の重層・連鎖記載が止まらない。それは「三州奇談」本編にまで及んでいる(後注参照)。こういうことは「三州奇談」正編にはなかったし、どうも内容がダブってしまって怪奇談としての新鮮さが殺がれ、私はあまりいい気がしない。いちいち既出既注の注をするのは面倒なので、必ず「長氏の東武」を読まれて後にこちらを読まれたい。
「先祖長谷部信連公加州山中の湯を江沼郡に開き給ふ時、忽ち白鷺一羽鷹に蹴落されて……」これは「三州奇談卷之一 溫泉馬妖」に出、ここに出る「山中醫王寺」真言宗国分山医王寺のことなども含めて詳しい注も私が附してある。そこにも記したが、山中温泉は別名白鷺温泉とも呼ばれるのである。なお、白鷺が観音となるというのは、イメージとしてはごく腑に落ち、医王寺の境内には石仏が多数あり、中でも観音らしきものは多いらしい。但し、医王寺の本尊は薬師如来である。
「今は長の家川狩のみにて、鷹狩の例なきこと、まのあたり見る」ブログの「展宏 ki-dan.com」の『加賀藩「三州奇談」 藩老長家の三禁制』で本篇を紹介され、「三禁制」について述べておられ、『が、この奇談にある長家の鷹狩り禁制は事実でなく、鷹狩りをしたという史料がある。賤ヶ岳七本鑓の一人、豊臣秀吉に仕えた片桐且元に、長家から鷹狩りでとった鶴を贈った文書が「長家文献集」に記されている。長家鷹狩りの禁制は、別の理由で語られたものだと考えている』とあって、『戦国時代の長家は、鎌倉時代の長谷部信連を祖だとしているが史料はなく、それをつなぐのが稲荷信仰と鷹狩りだと考える』と述べておられ、別な記事では、やはり長家絡みの「三州奇談卷之四 異類守ㇾ信」を紹介された後記事として、『話の前半で、長家には「別家に変りし事多し」として、放鷹禁止をあげており、また長家始祖・長谷部信連が戦場で、狐の助けによって戦功をあげることができたので、今でも狐を大切に飼っているという』。『鷹狩りの禁止と狐はどのように結びつくのだろう』。『まず』、『長家の狐伝説とはどんなものか。これは『長家家譜』、『長家由来記』といった家譜に出ている。さきの話では、信連は戦場で狐に助けられたとするが、『長家家譜』では、信連が伯耆国に配流されていた際、女に化けた狐に助けられた恩を忘れず、今でも長家では稲荷を祀っているとしている』(ここに本篇「三不思議」の紹介が入るが、省略する)。『鷹狩り禁制の理由のひとつは、このように観音となった白鷺の戒めによるものだが、もうひとつは狐が関係している。鷹狩りは人・鷹・犬が一体となり、鳥獣を捕獲するものであり、狐・狸も猟の対象となる。鷹狩りがあると狐は捕えられてしまう。長家の鷹狩り禁制の伝承の由来はここにある』。『ところで、長家の狐伝承はいつ頃、どのようにしてできあがったのか。狐伝承を、家譜の編纂と稲荷信仰を手がかりにして、つぎのように考えてみた』。『長家では近世にはいり、稲荷社を祀って信仰しており、同じ江戸中期には、武家の間で、家譜編纂が大流行していた。まず家譜編纂の事情をみたい』。『(1)全国諸家で一家の系譜を書き記し、始祖にはじまる歴代の続柄・事績を書き上げる家譜編纂が、とくに江戸中期に流行した』。『(2)加賀藩は、殿様九人ありともいわれ、藩主と重臣八人が割拠し、相互に家格への意識が強く、それぞれが家格を誇るための史料をまとめた』。『(3)こうしたなか』、『長家には、中世の信連以来の歴史があり、他家にはない三州はえぬきの、栄光の歴史があった』。『こうした状況があったが、長家の中興の祖といわれる連竜(一五四六~一六一九)以後の歴史は確かなものの、それ以前の信連と連竜をつなぐ史料が不足していた。その役割を果したのが、稲荷信仰であったと考えたい。江戸時代、稲荷信仰は長家に限らず、全国的に流行した。こうしたことで、稲荷信仰にはいってからのちに、それに関連して長家の狐伝説ができあがったと考えたい』。『稲荷信仰にはいった長家では、稲荷社を建立し、あわせて狐も大事にした。この流れのなかで、信連・稲荷・狐をからめた伝承が成立した。時を同じくして家譜の編纂が進んでおり、この狐が信連と連竜をつなぐ役割をはたし、長家の歴史を一本化した。このようにして長家の狐伝説は家譜に組みこまれ、伝承を後世に伝えたのである』。『長家の狐伝承は稲荷信仰を介して家譜編纂とつながる。長家の近世と中世は狐伝承によって結ばれた。近世人ははるか昔の先祖とされる人物との関係を結ぶために、いろんな手段を使い、苦労してますね』と考証されておられる。確かに、森岡浩氏の長氏の系図を見ても、信連と連龍の間は十七代で、その間の嫡流の長氏の名の中には全く見たことがない名が結構あり、頼連と藤連の間などには「某」とさえある。そういう系図の脆弱部分を補うために、「三禁制」を持ち出したというのは、外野から攻める面白い手法で、私などは非常に共感出来る。少なくとも、本篇の最後の訳の分からない麦水の謂いより百倍納得出来る「近き理」としての仮説ではないか。]
「釣狐」の狂言の事は、先々よりなかりし所に、近年法船寺町ぬしや傳次、其頃「名人」と人の沙汰すればとて、此者に甲斐守殿仰付けられて、「こんくわい」の狂言ありし。其時は夜のことなりしとなり。庭の内
「どやどや」
として見物の來るが如し。傳次心の内大(おほき)に恐れを生じける。時しも狐の鳴聲の藝をする所にてありしに、かゝる時庭の内より聲を合せて聲を發せしに、「敎ふる」にも似て又「叱(しつ)する」にも似たり。
是より傳次夢中にて漸(やうや)くに勤めて歸りしが、其夜より亂心して、夜每に町外れの山に分け入りて、狐の鳴聲して歸り、明(あく)る夜は海外(うみはず)れの磯に出で、狐の聲して歸りしが、心終に調はず。幾程なくて死にけり。御主人甲斐守殿も一兩年に世を早うし給ふ。最も若死なり。されば不吉と見えたり。
[やぶちゃん注:最後の段落の「勤めて」は底本は「勸めて」であるが、誤判読か誤植と断じて、特異的に訂した。
「法船寺町」現在の金沢市中央通町(ちゅうおうどおりまち)及びその北端の外に接する長町二丁目付近(グーグル・マップ・データ)。中央に町名となった法船寺が現存する。
「ぬしや傳次」前の話ではただの「傳次」であった。「塗師屋(ぬしや)」で狂言師の屋号か。
「甲斐守」既出既注であるが、再掲しておくと、長連起(つれおき)の先代の加賀藩年寄で長家第六代当主長善連(よしつら 享保一四(一七二九)年~宝暦六(一七五七)年)は享年二十八で亡くなっており、正しく短命であったが、彼は叙任されていない。「甲斐守」であったのは同じく加賀藩年寄・長家第五代当主であった、その善連の父長高連(元禄一五(一七〇二)年~享保二〇(一七三五)年)で、彼も三十四で亡くなっているので、単に先代善連と先々代を混同したものである。]
扨(さて)河原毛(かはらげ)の馬のことは、何に障るとは見えねども、此長の御家(おんいへ)は多く狐を養ひ給ふ。是も能州軍戰の砌(みぎり)に、狐軍功を助けしことありし由舊話あり。故に此屋敷の内常に狐住み居ること、常の犬の如し。これ故犬を禁じて一疋も門内に入れず。尤も白狐・玄狐(げんこ)[やぶちゃん注:黒狐。]もありといへども、狐の色多くは河原毛なる物なり。此毛色を忌みて狐の嫌ふにや。又河原毛の色には狐氣の通じて怪(あやし)みをなす物にや。又何か幽冥に別理(べつり)あるにや。猥(みだ)りに測り知るべからず。
[やぶちゃん注:「能州軍戰の砌(みぎり)に、狐軍功を助けしことありし」「三州奇談卷之四 異類守ㇾ信」の『其上(そのかみ)信連(のぶつら)戰場(いくさば)にて途(みち)に迷ひ粮(らう)盡(つき)たりし時、野狐來て路を敎へ、終に食を求めて功を立られし』とあった。]
彼(かの)河原毛の馬(むま)來りて後、此厩(むまや)に色々怪しき事ありて、人の不審を立つること多し。馬取(むまとり)も夜を明し兼ね、馬もうつゝになりて、日頃の神駿(しんしゆん)の精氣失せ果て、阿房(あはう)[やぶちゃん注:「阿呆」に同じい。]の如くなりしと云ふ。
又折々此馬屋の前に女の彳(たたず)むことあり。折節は家中の娘に略々(ほぼ)見まがふものも來り立居(たちを)ることもあり。
爰に不思議なるは、此家の臺所懸りの人に宮田吉郞兵衞と云ふ者あり。此家の御先祖信連公を近年「武顯靈社(ぶけんりやうしや)」と崇め奉り、屋敷の内に御社(おやしろ)建つ。是に供御(くぎよ)を日々備ふる役を蒙れり。其跡は捨てゝ狐にあたふること言渡(いひわた)しあり。然るに折々は吉郞兵衞狐に與へず、隱して宿に歸り、妻子を育むを以て例とす。此故にや一度吉郞兵衞、供御の膳を持ちながら河原毛馬の厩へ迷ひ入りて、大きに驚きしことありと云ふ。
かゝること人の知らざること多し。狐妖も又甚だ多し。恐らくは鷹狩を禁ずることも、昔の白鷺物語りは差(さし)おき、近く狐妖の知らしむることあるか。其禁ずるの理(ことわり)は知り難しと難しといへども、かゝる事を思ひ廻(めぐら)せばなり。
[やぶちゃん注:「宮田吉郞兵衞」(きちろべゑ(きちろべえ))は事実、実在した長連起の家臣であることが判っている(「加賀藩資料」に載る。続く「宮田の覺悟」は彼を主人公にし、その内容が衝撃的なので次回の当該話の注で本文を示すこととする)。
「うつゝになりて」「うつつになる」は「夢か現(うつつ)か」などの形で用いられるところを意味を誤って「夢とも現実ともはっきりしない状態・夢心地」に転用したもの。「ぼんやりとした状態になって」。]