フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 三州奇談續編卷之一 獅山の舊譚 / 三州奇談續編卷之一~了 | トップページ | 柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 惟然 一 »

2020/05/08

三州奇談續編卷之二 藤塚の獺祭

 

 三州奇談續編 卷二

 

    藤塚の獺祭

 心(こころ)越路(こしぢ)の能(よき)浦にあり、杖を返して濱傅ひに步む。爰に一つの見出したることあり。聊(いささ)か記す。加州本吉(もとよし)は古(いにしへ)の名は藤塚なり。今繁華の地となりて、古名の然らしむる所謂(いはれ)なし。一里を去りて蓮池と云ふ里あり。今蓮池なし。多く塚ありて藤の多きこと、樹々亂石に纒(まと)はざる枝なく、這(は)はざる地なし。花のとき最も愛すべし。土地の人神木として折ることなし。此濱傳ひを又一里去りて石立(いしだて)村あり。此邊沼多く水淀みて、蓮・蓴菜(めなは)の類(たぐひ)生(しやう)ず。多く採れども盡きず。藤塚の名一里違ひ、蓮池の名又一里違へるが如し。

[やぶちゃん注:表題は「ふじづかのだつさい」。獺祭(現代仮名遣では「だっさい」と促音になる)は「礼記(らいき)」「月令(がつりょう)」にある「孟春之月、獺祭ㇾ魚」(孟春(まうしゆん)の月[やぶちゃん注:陰暦一月。]、獺(かはうそ)、魚を祭る)とあることから、獺(かわうそ)が捕らえた魚を食べる前に並べておくとするのを、魚を祭っていると捉えた語句。獺祭魚(だっさいぎょ)とも呼ぶ。春の季題とする。なお、晩唐の詩人李商隠がその詩に非常に多くの典故を用いたことを獺祭に譬えられたことから、「詩文を作る際に多くの参考文献を並べ広げること」や「詩文に故事を数多く引用すること」の意もある。

「心(こころ)越路の能(よき)浦にあり」推定で読んだ。まず「心越路」や「能浦」という地名や熟語がない(私は知らない。「能浦」は広義の「能登の浦辺」の意で麦水が用いることがあるようだが、ここでは以下のロケーションが能登とは有意に離れてしまっており、私は上手く意味を繋げられないと判断した)ことから、「心」(気持ち)が北「越」のそこここの「路」(みち)に惹かれて「能」(よ)き(良き)「浦」辺(海浜)を流離(さすら)ってそこに今辿り着いて「あり」の意で採った。「心越路」や「能浦」という地名がある(あった)となれば、お教え戴きたいが、個人的には以上は決して牽強付会とは思われないのである。何故なら、これは明らかに「奥の細道」の冒頭を俳人である堀麦水が念頭に置いたものに違いないと私は読むからであり、そう考えると、この表現はかなり腑に落ちる、と私は思うからである。則ち、「そぞろ神の物につきて《心》をくるはせ」て「白川の關《こえ》んと」「《道》祖神のまねきにあひて」「片雲の風にさそはれて」「漂泊の思ひやまず、《海濱》にさすら」ふのは「日々旅にして旅を栖とす」る「旅人」とは、とりもなおさず俳諧の風狂人の普遍的な理想像であるからであり、芭蕉はそこで「松島の月先(まづ)心にかゝりて」と松島の「能」(よ)き「浦」辺を見ることを一番に挙げているからである。大方の御叱正を俟つ。

「本吉は古の名は藤塚」これも私の「三州奇談」の注を丁寧に読んでくれている読者ならば、既に「水嶋の水獸」で考証した中にあることを記憶されておられるはずである。詳しくはその「本吉世尊院」の私の注を見られたいのであるが、そこでの考察をはしょって結論のみをここで言うなら、まず、現在の石川県白山市美川南町に藤塚神社(グーグル・マップ・データ)がある。ここは以下に出る海辺の白山市石立町の「石の木」遺跡の西南に実測(県道二十五号を使用)で四・七キロしか離れていない海辺に近い位置にある(リンクさせた地図の上方の中央より右手に「石の木」遺跡がある)。しかも「石川県石川郡誌」の「第十七章 美川町」の「行政」の項(国立国会図書館デジタルコレクション)の「町名」の条に(下線太字は私が附した)、

   *

元吉寺も荒廢せり。降りて明應八年[やぶちゃん注:一四九九年。]藤塚、羽左場の二邑を合して一邑となし、舊寺號を取りて元吉(モトヨシ)と稱し、加賀四港の一となりしが、河口變遷につれ、舟楫の便を得、次第に繁榮して承應元年[やぶちゃん注:一六五二年。]佳字を取りて本吉町と稱するに至る。[やぶちゃん注:中略。]明治二年[やぶちゃん注:一八六九年。]能美郡湊村を合し、兩郡の各々一字を取り美川町と命名し、舊本吉町を北郷、湊村を南郷と唱へ來りしも、同四年復び分離し本吉町のみを美川町と稱せり

   *

とあることから、この現在の「美川南町」内には、最も古くは「藤塚」という地名があり、それが後に「本吉」となったことが判るのである。というより、美川南町の南側に「美川本吉町」が現存するのである。

「蓮池」藤崎神社を起点とすると、「石の木」遺跡までの半分に当たる東北約三キロ位置に白山市蓮池町(はすいけまち)(グーグル・マップ・データ)がある。麦水は記していないが、ここにはかつて弘法大師所縁の万病に効くとされた「生水(しょうず)」の湧水があった。敗戦後に進駐軍の命令で道路の下に埋められてしまったが、昭和三十年代に竹内ユキという女性に弘法大師のお告げがあり、今、「由貴の水」として復活している(以上は同グーグル・マップ・データのサイド・パネルの解説板の写真の説明に拠った)。また、麦水は「今蓮池なし」とあるが、現在は町内に公営の「アプリコットパーク」があり、そこの「蓮の池庭園」が作られている。但し、「多く塚ありて藤の多き」とあるが、特に古墳があるわけでもなく、現在「神木」とする藤の木があるようでもない。

「又一里去りて石立(いしだて)村あり」以下に示す石立の「石の木」までは、浜伝い実測で二キロ強しかない。以下の「藤塚の名一里違ひ、蓮池の名又一里違へるが如し」というのもどう計測してみても、「一里」はなく、「半道」(一里の半分)というのが正しいようである。「半道」ではスケールが小さくなるので、それを避けて誇大に表現したものかも知れず(漂泊の感じが確かに薄れる)、また、グーグル・マップ・データ航空写真でこの広域を見ると、完璧な砂浜海岸で、砂地の浜を歩くのは思いの外難渋するから、倍に感じられたものかも知れぬ。

「蓴菜(めなは)」スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi。読みは国書刊行会本の正編の「三湖の秋月」でのそれに従った。]

 此石立に鳩崎と云ふ古名あり。石立の始(はじめ)何(いづ)れの代に起ることを知らず。里の外れに五七本の老松巡り立ちて、中に七尺計りの立石五つあり。人は云ふ

「是龍宮より生立ちたり」

とし、中頃の國主小松黃門公[やぶちゃん注:第三代藩主前田利常。]、人夫をして其根源を掘らせらるゝに、其根一本にして、數里を掘るに其底を極めず。或は

「龍宮の人出(いで)て語りし」

とも云ひ、又

「遠く能州石動山(いするぎやま)に其根(そのね)蟠(わだ)かまり入る」

とも云ふ。此石の立ちやう、さながら生(お)ひ出でたるが如し。故に里童(りどう)は「石の木」と云ふ。

[やぶちゃん注:「石の木」この不思議な石の柱(無論、人工物である)については、前の「三州奇談卷之四 怪石生ㇾ雲」に出た。加賀石川郡石立村は現在の石川県白山市石立町(いしだてまち)で、「石の木塚」(いしのきづか:グーグル・マップ・データ)として石柱が残る。奇体な人工物であり、鎌倉時代には既にそこにあったとされる。現在、石川県指定文化財(史跡)となっている。まず、リンク先のサイド・パネルの石川県及び石川県教育委員会署名の説明板の画像を電子化する(読みは一部に留めた)。

   *

 石の木塚は5基の立石(たていし)(流紋岩質凝灰石[やぶちゃん注:「石」のルビが「がん」になっている。])からできており、その配置は最大の立石を中心にほぼ東西南北に配置されています。

 石立町の町名の発祥ともなっており、正応4年(1291年)の「遊業上人縁起絵(ゆぎょうしょうにんえんぎえ)」[やぶちゃん注:ママ。「業」は「行」でないとおかしい。]の中に立石(たていし)の地名があることから、鎌倉時代にはすでに存在していたものと思われます。

 古来より広く奇石として知られ、[やぶちゃん注:「知られていますが、」とすべきところであろう。]立石の由来が伝えられていないことから人々のロマンを誘い石の木には多くの伝承が残されています。浦島太郎、弁慶にまつわるものや、石の根は能登石動山(せきどうさん)まで続いている等がその代表的なものです。

 平成5年には中心石(ちゅうしんせき)の南西を試掘調査し、10世紀後半から11世紀前半頃の土器が出土しています。

 また立石後(たていしご)[やぶちゃん注:「石を立ててから後(のち)、」の意。]40~50cmの土の堆積があり、本来の中心石の高さは217cmと大人の身長より遥かに高かったことが分かっています。[やぶちゃん注:右に立石の平面図が添えられてある。]

   *

正直、文章がこなれておらずミスもあり、署名の石川県教育委員会が恥ずかしい。次に白山市教育委員会のそれを示す。

   *

 石の木塚は5基の四角柱状に加工された凝灰岩の立石により構成され、最大の立積を中心にほぼ東西南北に配置されています。石立町の町名の発祥ともなっており、「遊行上人縁起絵」正応4年(1291)の記述に「石立」の名があることから、この頃には既に存在していたと考えられます。

 石の木塚はその性格[やぶちゃん注:「建造目的や独特の配置の意味」とでもすべきところであろう。]については不明とされながらも、古来より広く奇石として知られ、浦島太郎や武蔵坊弁慶にまつわるものや、石の根が能登石動山まで続いているなど多くの説話や信仰の対象となりながら、現在まで変わらぬ姿で保存され続けている貴重な遺跡として高く評価されています。

 平成5年(1993)に中心石の南西の試掘調査が実施されており、10世紀後半~11世紀前半の土器が出土しています。また造立後4050cmの土の堆積があり、本来の中心石の高さは217cmと大人の身長より遥かに高かったことがわかりました。立石が10世紀代に造立されたとすれば、水陸交通の要衝であった「比楽駅(ひらかえき)」、加賀の国津「比楽湊(ひらかみなと)」に近接して存在した古代交通路関連の遺跡であった可能性が高いと考えられます。[やぶちゃん注:やはり右に立石の平面図が添えられてあるが、県のそれとは90度右に回転させてある。恐らく解説板の位置の違いからそうしたものと思われる。]

   *

後者はルビがないという点でやや問題があるが(子供が読むのにという点で)、県のそれよりも遥かによい。特に北陸の海運や街道関連の何らかの施設か装置の遺跡であるという見解が添えられているのもよい。また、藤島秀隆氏の論文「浦島伝説異聞――近世加賀の石の木由来の伝承をめぐって――」(PDFでダウン・ロード可能。ここではブラウザで読める)が非常に面白い本伝承を伝えている。そこには加賀藩第二代藩主前田利常が人夫に命じて掘らせたてみたが、石の根を掘り起こすことが出来ず、伝承ではその石の根は遠く能登半島の南部の鹿島郡の石動山(いするぎやま)(グーグル・マップ・データ。直線で実に約六十五キロメートルもある)或いは竜宮城にまで続いていると伝えるのである。そこでも引かれている「石川県石川郡誌」の「第二十四章 笠間村」の「名蹟」の「石の木」(昭和二(一九二七)年石川県石川郡自治協会刊。国立国会図書館デジタルコレクション)によると、ここの竜宮伝承では、驚くべきことに、ここの太郎に相当する男は酒屋の主人で、亀は出ず、龍宮へは瞬間移動、乙姫との間に五人の子までもうけ、その後この世に戻って亡くなったが、その父を慕った五人の子が太郎を弔うために建てたのが、この五本の石の柱だとある。浦島伝承の中では特異点であり、その遺跡とするのも実に興味深い。今回は以上を電子化しておく。

   *

○石の木。石の木は石立にあり。五基の石柱相對し、長さ四五尺、廻り八九尺、中央のもの最も高くして六尺三寸餘あり、其の基根を知るものなし。右へ此の地は濱坂と唱へ、官道に當りて、海に瀕し川に沿ひたるが故に、當時の橋杭の遺ならんかともいひ、船の纜[やぶちゃん注:「ともづな」。]を繫げるならんとも云へり。石質軟弱なるも、形狀は毫も變化する所なし。傳說によれば石立の濱坂と云ひし頃、其所に一戸の酒造店あり、主人を浦島太郎と云ひしが、每日一人の少女、不思議の德利を持ちて酒を買ひ求むるを例とせり。主人怪しみ少女に隨ひ行きしに、少女は汀に進み、主人を省みて、妾は龍宮の乙姫なり、君を想ふこと久し、願くは暫く瞑目し給へと。依りて之に従ひ、幾くもなく[やぶちゃん注:「いくばくもなく」。]周圍を見れば、身は已に壯麗なる龍宮に在り。之れより浦島と乙姫と結婚し、五子を擧げたりしも、後浦島は慕鄕の念禁じ難く、遂に乙姫の許を得て歸鄕し、間もなく死亡せしかば、龍宮の五子父を慕ひて來り、五子基の石柱を立て〻之を弔ひしなりと。源平の時、辨慶の義經に従ひて北下せし際之を見、試に之を拔かんとせしも能はず。今石上辨慶の脊及び手足の痕跡を存すなどいへり。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げでポイント落ち。]

 〔加越能舊跡緖〕

石立領の内に、大き成石五本立て有[やぶちゃん注:「たちてあり」。]。往古左右石の一夜に出現の由、年號等不知。

〔石川縣史蹟名勝調査報告〕

 石川郡笠間村字石立に、通俗石樹と稱するものあり。石立の地名は、正應四年遊行第二祖眞敎の繪傳に見え、文安五年の八幡宮寄進狀にも記され、其の由來は此石樹に發すること明なるも、從來種々の臆說を流布するのみにて、其の配置技工等に注意を拂はざりしが、調査り結果次の諸點を認めたり。一、四個の石材を略[やぶちゃん注:「ほぼ」。]正方位に置き、其の中央に一個を建てたること。二、五個の石は何れも同質にして、人工を加へたるものなること。三、基礎工事として見るべきものなく、現在の地表下約三尺だけ埋沒しあること。四、石柱の形狀は底部太く、上部次第に細くなれること。五、中央の石柱及び南角の石柱に刻せる長方形の凹所は、何の爲めなるか不明なること。隨て[やぶちゃん注:「したがつて」。]浦島の墓と唱ふる事、舊手取川の橋杭設繫船柱等の説は取るに足らざること〻なり、他の解釋を施さざるべからず。

   *

また、「夜明け前だ」氏のブログ「住めば天国」の「石の木塚」(見易い写真もあり)の恐らく平成七(一九九五)年石川県教育委員会編の「加賀の道」の「第十章 特論」よりの引用と思われるものも孫引きしておく。一部のタイプ・ミスと思われるところは独断で訂した。

   《引用開始》

石立の立石

 松任市石立町は、町の東北部に立つ五基の立石を町名の由来としている。

 石立の名は嘉元二年(一二〇四)~同三年(一三〇五)頃の成立とされる『遊行上人縁起絵』の詞書に今湊、藤塚といった海沿いの集落とともに初めてみえる。このことより、立石が鎌倉時代後期にはすでに、村名となるほど象徴的で、周知化された存在であったことがわかる。近世に入ると地誌や紀行文にたびたびとりあげられており、「奇石」として耳目を引く存在となっていたようである。このなかで、天保一一年(一八四〇)に加賀藩士津田鳳卿が著した『笠間郷游記』は実見による立石の詳細な記録として注目されるものである。

 立石は写真で示したように、五基の四角柱より構成されており、四基の石が方形に配置され、中央に最も大きな石が据えられている。

 第一号と仮称する中央の立石は、地表からの高さ一七四cmを測る。この石は一九九三年の松任市教育委員会による試掘で基底が確認されている。それは、地表下九五cmにあり、総高は二六九cmと判明した。また、基底より上方五二cmまでは整形が粗く、この部分が造立時の地中部分であることが分った。したがって、造立時の地上高は二一七cmである。これは津田鳳卿の計測値とほぼ等しい。このほか、第二号立石は高さ一三四cm、第三号立石は上部を欠いており、同一一七cm、第四号立石は最も低いもので高さ七一cm、第五号立石は高さ九七cmである。

 立石の材質はいずれも凝灰岩で、医王山系から富樫山地、辰口~小松の丘陵にかけて産出するものであるという。

 造立時期については、試掘により一〇世紀後半から一一世紀前半にかかる土師器が出土していることから、この時期をその上限とみてさしつかえなかろう。

 立石は一見して性格が測りがたいことから、多様な説話や信仰が生まれている。一八世紀前半には、「立石の宮」として信仰の対象となっており、一八世紀後半に入ると立石の根が龍宮や石動山に続くという話もあらわれるほか、浦島型説話も生まれている。

 さて、古代の造立と推定されるに至った立石であるが、道との関わりはどうであろうか。木下良氏は全国の立石および立石地名に注目し、これらが古代道に沿って存在する例が多いことを指摘した。石立も源平争乱の軍事ルートや時衆の布教ルート上にあったことが明らかで、立石は古代道に面して立てられていた可能性が大きい。そして、その大きさから何らかの標識的な役割を担っていたものと考えられる。その標識の意味は古代的な環境のなかで検討すべき課題であるが、立石の場所は駅家跡や古代的諸施設、あるいは渡河点といった交通路の要地である可能性があるという木下氏の指摘にも留意しておきたい。

   《引用終了》

「鳩崎」不詳。但し、「加能郷土辞彙」には(そこでは「いしたて」と清音である)、

   *

イシタテ 石立 石川郡笠間郷に屬する部落。この村名は文安五年[やぶちゃん注:一四四八年。]六月の石淸水八幡宮寄進狀に見える。名義は同領に、五本の石をと立てたところがあるに因る。里人は之を石の木宮と稱する。鄕村名義抄には往古この村を濱崎といったと見え、また寶永誌には、この村に狩野隱岐という者の居住した屋敷跡があると記する。

   *

とあるから、「鳩」は「濱」の判読の誤りではなかろうか。ただ困るのは「加能郷土辞彙」が本底本の校訂者と同じ日置謙であることなのだが。「鄕村名義抄」は「加越能鄕村名義抄」「村名由來書」とも呼ぶ。元禄一四(一七〇一)年に加賀領内に命じて村の名義の濫觴を書き上げさせたもの。しかし、先の「石川県石川郡誌」には「濱坂」とある。「はまさき」と「はまさか」、さらに「はとさき」は孰れも音が似る。]

 此邊りは水多き地にて、大川(おほかは)の海に入る橫曲りにあたれば、水獺(かはうそ)多くして狗(いぬ)に類(たぐひ)す。又人を誑(たぶ)らかすことなし。此二三里の間の村長(むらをさ)のもとに、古ヘより云ひ傳へて獺(かはうそ)の魚を献ずる家あり。其家主は笠間氏にして、家の中を一小川流れ下る。此庭の石の上へ、年每に二月の始め、獺鱒(ます)の魚を喰(くは)へ來て備へ置く。今は其事絕えたるに似たれども、亭主替る時には、必ず其年の二月は、此献魚の事ありて絕ゆる事なし。予此地に遊びて此事を尋ぬるに、隣村の醫師阿閉氏なる男、我れに語りて云ふ。

「子(し)獺の魚を天に祭り、狼の獸を天に祭る、其所以を知れりや。」

予曰く

「知らず、只季候の然らしむるならん。」

阿閉氏曰く、

「七十二候の云ふ所誤(あやまり)ならざるに似たれども、爰に一僻見(へきけん)あり。密かに子(し)に告げん。獺の魚を祭るは天を敬するにあらず、女を求むるなり。我れ能く是をためし置けり。依りて思へば、狼の獸を祭るも、又婬を求むるに極まれり。我一年此石立邊(いしだてあたり)に遊びて、終日を窺ふに、一つの白斑(しらふ)の女獺(ぢよだつ)あり。衆獺(しゆうだつ)是に馴れんことを欲するに似たり。白獺(びやくだつ)肯(うけ)がはざるが如し[やぶちゃん注:底本『肯かはざるが如し』であるが、特異的に訂した。]。一つの蒼獺(さうだつ)あり。初春寒を侵して一鱒魚(いちそんぎよ)を得て、是を石上(せきじやう)に橫たへ、彼(かの)白女獺(びやくぢよだつ)を待つと見えて、其魚の側(かたは)らに敬恐して女獺の到るを待つこと半夜半日なり。白女獺到りて悅べる色あり。諸獺(しよらい)春寒うして小魚をも得ず。此蒼獺一大魚(いちたいぎよ)を得て能(のう)を示すに似たり。女獺顧(かへりみ)て魚を得るに巧(たくみ)なることを賞するが如し。歡喜して去る。其後又水邊(みづべ)を窺ふに、白斑獺(しらふのかわうそ)彼(かの)蒼獺(あをかわうそ)と馴戯(なれたはむ)れて、兩々(りやうりやう)相離れず。彼(か)の獺の風流雅(タハレメ)[やぶちゃん注:非常に珍しいが、このルビは底本の前の三字にあるもの。]と云ふものゝ如し。偖(さて)笠間氏の家の話を聞くに、百年許り先の事にや、此家の下(もと)の長獺(ちやうだつ)、いかなる事にか、此家の婦人に戯れし。此婦人の水に臨む每に、此長獺出迎ひ戯る。頻りに近寄りて帶に取付く程に、婦女大に呼(よば)はり恐る。家僕ども驚き打合(うちあ)へども、此獺放れ難きが如くにして去らず、終に生捕(いけど)らる。奴僕共(ぬぼくども)打殺(うちころ)さんとす。婦女ふしぎに相憐む心起りて、僕共に詑びて此獺を赦さしむ。是よりして魚を献ずる事斯の如しと云ふ。人は云ふ、『命(いのち)の禮(れい)なり』と。予は思ふ。此老獺(らうだつ)猶(なほ)婬心を含むに依りて、此行ひをなすか。年每の三四月に至り、魚多き時は衆獺も皆(みな)之を得。爰に至りては奇とするに足らず。春寒猶厚氷(こうひやう)ありて魚少なき間に初めて得れば、是を衆獺に示し、婦(め)に誇りて婬を求むる媒(なかだち)とす。傳へ聞く、戎主(じゆうしゆ)更に絃歌の術(すべ)なし、纔(わづか)に黃雀(くわうじやく)を射て婦女に媚(び)を云ふ。夫(それ)是に近きか。」

[やぶちゃん注:「此邊りは水多き地にて、大川(おほかは)の海に入る橫曲りにあたれば」話を最初の本吉(旧藤塚)まで戻したもの。同所及びその後の地区は御覧の通り(グーグル・マップ・データ)、手取川の右岸となる。地図を引いて見れば、「橫曲り」も腑に落ちるはずである。

「水獺(かはうそ)」二字でかく読んでおいた。日本人が滅ぼした食肉目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を見られたいが、当然、「カワウソは本当に獺祭に相当するような行動をとるか?」という疑問が出てこよう。まず、それは、上記リンク先の注で示したが、「淮南子(えなんじ)」の「繆稱訓(びょうしょうくん)」にある、

   *

鵲巢知風之所起、獺穴知水之高下。

(鵲、風の起こる所を知りて巢(すづく)り、獺、水の高下(かうげ)を知りて穴(あなつく)る。)

   *

辺りが恐らくルーツではあろうかと思う。則ち、寺島良安が言うように、「知、本(ほん)を報ひ、始めに反(かへ)るを知るなり」で、魚を殺生して生きている自分の存在を自覚し、天にその生贄を捧げて獺祭を行い、自己の無惨な生き方を自覚し、その在り方を原型に戻すことをちゃんと弁えている極めて知的にして倫理的な動物だという載道的解釈である。――「いやいや! そんな非科学的な話をしてるんじゃない! 事実、するかどうか? だよ!」――はいはい! 判りました! それについては、カワウソに詳しい kawausosu 氏がQ&Aサイトのこちらで非常に明快なお答えをなさっており(kawausosu 氏が動物園で撮影なさった動画でその実際の行動も見られる)、ユーラシアカワウソ Lutra lutra ならば「獺祭」に相当しそうな行動をとる(ということは絶滅したニホンカワウソもしたと考えてよかろう)という答えをなさっておられる(「ならば」という限定は南アメリカの一部に二亜種が棲息するカワウソ亜科オオカワウソ属オオカワウソ Pteronura brasiliensis は以下に示すような行動をとることを知らないし、しないであろうという推定に基づくもの)。以下、引用する(行空け部分は詰めた)。

   《引用開始》

「かわうそは獺祭する」
ここで言うかわうその種類は、「獺祭」という言葉の生まれた中国に居たカワウソ=ユーラシアカワウソです
カワウソは魚を獲って岸に上がり、一匹を食べきってまた川に戻るのが普通なんですが、ユーラシアカワウソの中には獲った魚を岸に食べずに並べて、また次の魚を獲りに川へ戻り…を繰り返す個体がいます
そうやって魚を並べる様子が、神を祭っているように見えることから「獺祭」と呼ぶようになりました
私が撮影した「獺祭をするユーラシアカワウソ」の動画がありますので参照してください[やぶちゃん注:ここにアドレスがあるが、以上の本文の直リンクに代えさせてもらった。](4:30あたりから)
岸に並べる事にどんな意味があるのかはよく分かっていません 魚をとっている間に別の動物に岸においた魚を取られることもあるようです
日本の園館で展示されているコツメ・ユーラシア・ツメナシカワウソは泳ぎながら食べることはできず、陸に上がって食事します
オオカワウソはカワウソの中で一番泳ぎに適していて、立ち泳ぎをしながら前肢で魚を掴んで食べることができます
カワウソにとっては水中のほうが安全な場所なので、オオカワウソは安全な川の中で食事することを選ぶでしょう
(オオカワウソのいるパンタナルでは、カイマンがいるので絶対安全ではありませんが)
なので岸に魚を並べる=獺祭をすることはしないと思われます
獺祭をするのはユーラシアカワウソの一部という認識で良いと思います

   《引用終了》

素晴らしい! 目から鱗!

「狗に類す」普通に野良犬が闊歩しているように、獺が常時、間近にいる。

「人を誑らかすことなし」獺は狐狸と等しく人を騙すと考えられていた。ウィキの「カワウソ」の「伝承の中のカワウソ」によれば、『伝承では、キツネやタヌキ同様に人を化かすとされていた。中国では、美女に化けるカワウソの話が『捜神記』『甄異志』などの古書にある』。『日本の石川県能都』(のと:石川県能登半島の中北部にあった奥能登の町。現在の鳳珠(ほうす)郡能登町(のとちょう:グーグル・マップ・データ))『地方では、20歳くらいの美女や碁盤縞の着物姿の子供に化け、誰何されると、人間なら「オラヤ」と答えるところを「アラヤ」と答え、どこの者か尋ねられると「カワイ」などと意味不明な答を返すといったものから』、『加賀(現在の石川県)で、城の堀に住むカワウソが女に化けて、寄って来た男を食い殺したような恐ろしい話もある』。江戸時代には「裏見寒話」・「太平百物語」・「四不語録」などの怪談、随筆、物語でもカワウソの怪異が語られており、前述した加賀のように美女に化けたカワウソが男を殺す話がある』(私の「柴田宵曲 續妖異博物館 獺」が手っ取り早いが、他にも私の「太平百物語卷二 十一 緖方勝次郞獺を射留めし事」「太平百物語卷五 四十六 獺人とすまふを取し事」など枚挙に遑がなく、以下の事例もこれらに含まれている)。『安芸国安佐郡沼田町(現在の広島県広島市)の伝説では「伴(とも)のカワウソ」「阿戸(あと)のカワウソ」といって、カワウソが坊主に化けて通行人のもとに現れ、相手が近づいたり上を見上げたりすると、どんどん背が伸びて見上げるような大坊主になったという』。『青森県津軽地方では人間に憑くものともいわれ、カワウソに憑かれた者は精魂が抜けたようで元気がなくなるといわれた』。『また、生首に化けて川の漁の網にかかって化かすともいわれた』。『石川県鹿島郡や羽咋郡ではかぶそまたはかわその名で妖怪視され、夜道を歩く人の提灯の火を消したり、人間の言葉を話したり』、十八、九の『美女に化けて人をたぶらかしたり、人を化かして石や木の根と相撲をとらせたりといった悪戯をしたという』。『人の言葉も話し、道行く人を呼び止めることもあったという』。『石川県や高知県などでは河童の一種ともいわれ、カワウソと相撲をとったなどの話が伝わっている』。『北陸地方、紀州、四国などではカワウソ自体が河童の一種として妖怪視された』。『室町時代の国語辞典『下学集』には、河童について最古のものと見られる記述があり、「獺(かわうそ)老いて河童(かはらふ)に成る」と述べられている』。『アイヌ語ではエサマンと呼び、人を騙したり』、『食料を盗むなどの伝承があるため悪い印象で語られるが、水中での動きの良さにあやかろうと子供の手首にカワウソの皮を巻く風習があり、泳ぎの上手い者を「エサマンのようだ」と賞賛することもある』。『アイヌの昔話では、ウラシベツ(現在の網走市浦士別)で、カワウソの魔物が人間に化け、美しい娘のいる家に現れ、その娘を殺して魂を奪って妻にしようとする話がある』。『またアイヌ語ではラッコを本来は「アトゥイエサマン(海のカワウソ)」と呼んでいたが、夜にこの言葉を使うとカワウソが化けて出るため昼間は「ラッコ」と呼ぶようになったという伝承がある』。また、『朝鮮半島にはカワウソとの異類婚姻譚が伝わっている。李座首(イ・ザス)という土豪には娘がいたが、未婚のまま妊娠したので李座首が娘を問い詰めると、毎晩四つ足の動物が通ってくるという。そこで娘に絹の糸玉を渡し、獣の足に結びつけるよう命じた。翌朝辿ってみると糸は池の中に向かっている。そこで村人に池の水を汲出させると糸はカワウソの足に結びついていたのでそれを殺した。やがて娘が生んだ子供は黄色(または赤)い髪の男の子で武勇と泳ぎに優れ』、三『人の子を儲けたが末の子が後の後金の太祖ヌルハチであるという』。さらに『ベトナムにもカワウソとの異類婚姻譚が伝わっている。丁朝大瞿越を建てた丁部領(ディン・ボ・リン)は、母親が水浴びをしているときにカワウソと交わって出来た子であり、父の丁公著はそれを知らずに育てたという』とある。以上の記載の事例に、現在の石川県のケースが多く含まれているとこから見ると、野良犬と遭うのと同じ程度に頻繁に獺を見かけることが日常であったという謂いが如何にも腑に落ちるではないか。

「笠間氏」先の「加能郷土辞彙」の「石立」に見る通り、これは石川郡笠間郷という地名由来の姓であることが判明する。

「年每に二月の始め」最初の注の「礼記」の「孟春之月、獺祭ㇾ魚」を思い出されたい。祭った後にお礼に献上するという民俗社会の時系列の確かな順列性が見て取れる。

「鱒」「ます」は現在でも特定の種群を示す学術的な謂いでは、実は、ない。サケ目サケ科Salmonidaeに属しながらも、和名の最後に「マス」がつく魚、又は、日本で一般にサケ類(ベニザケ・シロザケ・キングサーモン等)と呼称されて認識されている魚以外の、サケ科の魚を総称した広義な言い方でもある。狭義にはサケ科タイヘイヨウサケ属の、サクラマス Oncorhynchus masou及びサツキマス Oncorhynchus masou ishikawae、ニジマス Oncorhynchus mykissの三種を指すことが多い。但し、ニジマスは明治一〇(一八七七)年にアメリカのカリフォルニア州から移入されたのが最初とされていること、サツキマスは日本海側には棲息しなことから、ここではサクラマスに同定してよい。

「阿閉氏」古い氏姓の一つ。「あつじ」・「あとじ」・「あへい」・「あへ」・「あべ」などと読むらしい。こちらに「阿閉氏についての一考察」というかなり長い論文がある。

「子」聴き手である堀麦水を差す。

「七十二候」ウィキの「七十二候」(しちじゅうにこう)によれば、『古代中国で考案された季節を表す方式のひとつ。二十四節気をさらに約5日ずつの3つに分けた期間のこと』で、『各七十二候の名称は、気象の動きや動植物の変化を知らせる短文になっている。中には、「雉入大水為蜃」(キジが海に入って大ハマグリになる)のような実際にはあり得ない事柄も含まれている』。『古代中国のものがそのまま使われている二十四節気に対し、七十二候の名称は何度か変更されて』おり、『日本でも、江戸時代に入って』、『渋川春海ら暦学者によって日本の気候風土に合うように改訂され、「本朝七十二候」が作成された。現在では、1874年(明治7年)の「略本暦」に掲載された七十二候が主に使われている。俳句の季語には、中国の七十二候によるものも一部残っている』とあり、リンク先には全リストが載るが、その「雨水」の「初候」に本邦では『土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)』として、『雨が降って土が湿り気を含む』とし、中国では「獺祭魚」で『獺が捕らえた魚を並べて食べる』と載る。

「僻見(へきけん)」偏見。誤った考え。

「白斑(しらふ)の女獺(ぢよだつ)」体に白い斑点を持つ雌のカワウソ。

「能(のう)」雄々しい雄としての才覚・力量。

「兩々」ともに。

「風流雅(タハレメ)」「たはれめ」は「戲女・遊女」の訓で、本来は「歌舞で人を楽しませる女」・「売春をする女」又は「身持の悪い女・浮気な女」を指す語であるが、ここは当てている漢字からは、寧ろ、広義で比較的フラットな「男女の恋の戯れ」のニュアンスである。

「此家の下(もと)」この笠間家の建つすぐ下方の川辺。

「長獺(ちやうだつ)」「長」は「をさ(おさ)」で首魁格の長老のカワウソの意であろう。相応に妖獣としての人を誑かす術も既に持ちかけていたのかも知れないが、未だ術成らずであったものか、下僕らに生け捕られてしまって成すすべがなかったのである。但し、危機に瀕してこの婦人に対し、自分にシンパシーを抱くように仕向けるぐらいな術は体得していたのかも知れぬ。

「戎主(じゆうしゆ)更に絃歌の術なし、纔(わづか)に黃雀を射て婦女に媚(び)を云ふ」古代中国の西戎の王が女を得たが、如何なる奢侈(弦楽は例)の限りを尽くしても女は少しも心を許さず、夫を軽蔑している。しかし、或時、一羽の黄雀(本邦ではスズメ或いはアオジを指す)を夫が弓で射落とすの見て女は微笑み、夫に心を許したという謂いかと思う。而してこの話、私は確かに原典を読んだ記憶があるのだが、どうしてもものを思い出せない。識者の御教授を切に乞うばかりである。私も焼きが回ったもんだ……]

« 三州奇談續編卷之一 獅山の舊譚 / 三州奇談續編卷之一~了 | トップページ | 柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 惟然 一 »