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2020/05/02

三州奇談續編卷之一 僧辨追剝

 

    僧辨追剝

 明和五年戊子(つちのえね)[やぶちゃん注:一七五八年。]の冬、例の奇話を求め足らで、越中の國を吟行す。石動(いするぎ)の山並に冬梅梢する時、礪波の利(と)き劔(つるぎ)なせる形ち、何れも求めんとしては、草鞋(わらぢ)の向ふまゝなる行(かう)をなす時、七瀨川とか渡り倦(う)んじたる道にして、一僧に逢ふ。

[やぶちゃん注:表題は「僧、追剝(おひはぎ)を辨(べん)ず」。

「石動(いするぎ)の山並」(読みは私の親しんだそれを選んだ)は能登国石動山(グーグル・マップ・データ)。既出既注。現在の石川県鹿島郡中能登町・七尾市・富山県氷見市に跨る(標高五百六十四メートル)。「山並」とはそこから南南西に下る以下の砺波山や倶梨伽羅峠に連なる山塊を指すと考えれば躓かずに読める。

「礪波」旧富山県西砺波郡砺中町(とちゅうまち)(現在は小矢部市)にある標高二百六十三メートルの砺波山(となみやま)(グーグル・マップ・データ航空写真)。既出既注。旧称を源氏山とも称し、倶利伽羅峠直近にある。木曽(源)義仲の倶利伽羅合戦に於ける陣所であった。但し、砺波山は「利き劔なせる形」をしているとは思わない。

「七瀨川」不詳だが、「石川県史 第三編」の「第六章 經濟交通 第四節 交通」に出る「萬歳下道中」に(国立国会図書館デジタルコレクション。これは江戸時代の加賀万歳の歌詞の一つである)、『前坂越えて倶利伽羅の、餅に大小不動あり。三里の峠打越えて、埴生の八幡伏拜み、今石動や小矢部川、心にかゝる七瀨川、四里八町の道すがら、遙に見ゆる高岡の、御本陣に着きたまふ』とあることから、調べてみると、倶利伽羅峠を越えて、石動町(旧今石動)に下って、小矢部川を渡った後、高岡までの間には現在でも黒石川・唐俣川・岩渡(がんど)川(この名は瀬が多いことを意味しているように思われる)・亀川・荒又川・祖父川・千保川など、多数の細い河川が南北に流れており、私はこれらを合わせて「七瀨川」と呼んでいるのではないかと考えた。何度も何度も細い川を飽きるほど渡らなくては最初の大きな宿駅である高岡に着かないからこそ、本篇で麦水は「渡り倦(う)んじたる道」と言ったのではなかろうか?

 年二十許なり。淺黃(あさぎ)の絹の下着に、引破れたる衣をまとひ、其上に黑き木綿の道服[やぶちゃん注:袈裟。]を重ねたり。其躰(てい)怪しければ、かたへの商人らしき人に問ふに、則ち密(ひそか)に告げて曰く、

「是なん二日許りさきに、綠林黃牛(りよくりんわうぎう)の期せざることありて、貯へ皆取られ、淺ましき限りを見しが、漸々(やうやう)に高岡邊(あたり)の町の富める人、寺院の老僧など憐みて、斯く又都への道だちなし侍る」

[やぶちゃん注:「綠林黃牛」「綠林」は盗賊のこと(前漢の末期に王莽(おうもう)が即位して新を建国したが、王匡(おうきょう)・王鳳らが窮民を集め、湖北省の緑林山に籠って盗賊となり、征討軍に反抗したという、「漢書」の「王莽伝下」にある故事から、「盗賊のたてこもる地」或いは「盗賊」の意となった。後の「黃牛」は不明。或いは、これは「綠林」と違って、和語の諺を縮約して無理に繋げ、しかも漢語の故事の如く仕立てたものかも知れない。私が元と推理したのは「黃牛(あめうし)に腹を突かる」である。「あめうし」は「飴色の毛をした牝の牛(一般には性質が穏やかで立派な牛とされた)」で、その「角がなくておとなしい牝牛に腹を突かれる」で、「油断をして思いがけない相手から痛い目に遭わせられること」の喩えである。私の認識が誤りとならば、御教授戴きたい。]

と告ぐるに、奇話は我(わが)求むる所なり、心哀(あはれ)をも催せしかば、思慮なく打寄りて、

「盜難の事眞(まこと)にや」

と尋ぬるに、僧其事ともなき顏して、

「何か包み申さん、先の日富山の町を出づる頃、連(つれ)なる者の斯くは剝ぎてけり」

と聞えしに、

「我もひとり旅のよすがなき身なれば、狼(おほかみ)丘に倒(たふ)るゝ時、狐も只居(をら)ざる例(ためし)もあり。共に連旅(つれたび)の交りは心おき給ふな」

と諫めて力を助け、

「さらば今富山の宿へ歸りて、次第を公儀へ届けて沙汰し給へ」

と云ふに、僧の曰く、

「業果(ごふくわ)我より設(まう)く、又誰(たれ)か恨(うらみ)ん」

と云ひて、一步も歸らず。

[やぶちゃん注:「狼丘に倒るゝ時、狐も只居ざる例もあり」意味不明。出典も判らぬ。推理するに――自然界(「丘」)で殆んど捕食者の頂点にある「狼」が同じ「丘」の中で「倒」れた時には、普段は獰猛な「狼」を忌み嫌って逃げ回っている同属の悪賢い「狐」さえもただ漫然とそれを見て居ることはなく、助けてやろうとする理(ことわり)もありましょう。――といったニュアンスか。因みに、私が同属と言ったのは狡猾にして妖異を持つ狼と狐という民俗社会での伝承的比喩ばかりではない。狼は食肉(ネコ)目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミ Canis lupus であり、狐も同じイヌ亜科 Caninae に属している(下位タクソンはキツネ属 Vulpes ほか)犬の仲間であるからである。

「心おき給ふな」御遠慮なされるな。

「業果」前世の業(ごう)による報い。業報。]

 此語のいさぎよければ、則ち尋ねて、猶

「しかしかの趣(おもむき)語り給へ」

[やぶちゃん注:「しかしか」踊り字「〱」でママ。]

と云ふに、僧枯蘆(かれあし)の道の邊(べ)に腰掛けて、常の容貌にて打笑み聞えしは、

「世人の恐るゝたとへにも、『盜人(ぬすびと)の樣なり』と大きなることにも云ひ、追剝と云ふは熊坂長範(くまさかちやうはん)が盜(たう)、大(おほ)べしの面(めん)の形(かた)ちしたる物とのみ覺えしに、さらさらさはなきものにぞありき。

[やぶちゃん注:「世人の恐るゝたとへにも、『盜人(ぬすびと)の樣なり』と大きなることにも云ひ」世の人々が何かが恐ろしいことの喩えにも、「それは盗人の如く恐ろしいものじゃ」と大袈裟にも表現したりし。

「熊坂長範」生没年不詳の平安末期の伝説的な大盗賊。実在の人物として証拠立てるのは困難であるが、多数の古書に散見し、石川五右衛門と並んで大泥棒の代名詞の観がある。出身地は信州熊坂山、加賀の熊坂、越後との国境に近い信濃の関川など諸説がある。逸話によれば、七歳にして寺の蔵から財宝を盗んでからというもの、それが病みつきになったとされる。長じて、山間に出没しては旅人を襲い、泥棒人生を送った。承安四(一一七四)年の春、陸奥に下る豪商金売吉次を美濃青墓(あおはか)の宿に夜討ちし、同道の牛若丸に討たれたとも伝わる。この盗賊撃退譚は、義経伝承譚のモチーフの一つとして頓に知られるものの、俗説の域を出ない。幸若舞「烏帽子折(えぼしおり)」、謡曲「烏帽子折」・「熊坂」、能狂言「老武者」、歌舞伎狂言「熊坂長範物見松(ものみのまつ)」などで、後世、文芸譚のピカレスクとして有名になった(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠ったが、諸作での扱いについてはウィキの「熊坂長範」に詳しい)。

「盜」(冷血狂暴なる)盗賊。

「大べしの面」能面の一種である「大癋見(おほべしみ(おおべしみ))」のこと。圧口(へしぐち)をした面で、下顎に力を入れており、上下の唇を強く打ちに食い縛って結び、眉をうねるように顰(しか)めた表情のもの。鬼神を表わす異形の面で、「大癋見」(天狗)と「小癋見」(地獄の鬼)の区別があり、前者は「鞍馬天狗」や「善界(ぜがい)」、後者は「鵜飼」「野守」などの後ジテに用いる。単に「癋面(べしめん)」とも呼ぶ。サイト「文化遺産オンライン」の「能面 長霊癋見」(ちょうれいべしみ)「能面 熊坂」、及び、グーグル画像検索「大癋見」をリンクさせておく。]

 山下の波打ち際(ぎは)、親しらずのあたり念頃(ねんごろ)に問ひよりし旅友(たびのとも)ありき。優しき男ふたりにて、『仕官をのがれたるか』と思ふ躰(てい)なりし。終に道すがら語る。此時渠(かれ)に一點の盜心(たうしん)あらじ。畦(くろ)に立てば鶯に礫(つぶて)し、田川に下りては小魚を追ひて慰み戯れ、旅勞(たびのつかれ)も忘れ、いつしか日立ちて、越中の地、泊(とまり)の宿にやどる。

[やぶちゃん注:「山下の波打ち際(ぎは)、親しらず」北アルプスが日本海側に急峻なままに下っている親不知・子不知の地域。現在の新潟県糸魚川市の西端に位置する崖が連なった地帯。部分的には、現在の親不知駅がある糸魚川市大字(おおあざ)歌(うた:グーグル・マップ・データ。以下同じ。ここでは親不知・子不知を画面内に全域として入れた)の集落を中心に、西の市振(いちぶり)地区までが「親不知」、東の大字青海(おうみ)の勝山(かつやま)地区までが「子不知」とされる(市振から勝山までは約十五キロメートルある。日本海に面する断崖は飛騨山脈の北端が日本海によって侵食されたために生じたもので、崖の高さは三百から四百メートルほどもある。嘗て越後国と越中国の間を往来する旅人は、この断崖の下にある海岸線に沿って進まねばならず、古くから北陸道(越路)最大の難所として知られてきた。波間を見計らって狭い砂浜を駆け抜け、大波が来ると、洞窟などに逃げ込んだが、途中で波に飲まれる者も少なくなかったといわれる(以上は概ねウィキの「親不知」を参照した)。ストリート・ビューの親不知・子不知ポイントの三百六十度画像もリンクさせておく。

「仕官をのがれたるか」浪人か。

「泊の宿」富山県下新川郡朝日町泊附近。]

 我は少しの貯へに誇り、宿の主(あるじ)にはたり、留女(とめをんな)に誇りて威勢をなせしに、渠等(かれら)は貯へ少くて其躰(てい)の惡かりしも、何をかな賣代(うりしろ)なしけるさまにて、同じく旅舍に昂然として交り遊び、戯れ臥し、次の日は彌々(いよいよ)親しく、少し隔つれば呼合ひて、『我より放たじ』とむつび來りしが、其日富山の城下に宿りし時、纔(わづか)に我れ渠等より上に誇り、宿の女などにも物とらせて崇めまつられし。是らを『ねたし』と思ひ初(そ)めしか、其夜詞爭(ことばあらそ)ひ二つ三つせしに、彼(かの)二人

『汝を剝ぎて思ひ知らさん』

とは云ひしが、常事(つねのこと)の戯れの樣に思ひしに、富山の宿を夜こめて出で、一里許も來りつらん、『あんねん坊』とやらを越え來りし後、前後に人見えぬ野に至りて、終に我を剝ぎて、下着一つ赦(ゆる)し、小袖三つ・腰刀・印籠・紙入など皆取りて、氷の劍を咽(のど)にあてし時にこそ、初めて心しら波の人は盜人と云ふことを思ひ知りしなり。

[やぶちゃん注:「はたり」強く求め。いい部屋と食事が目的語であろう。

「留女」宿屋の客引き女。

「何をかな賣代(うりしろ)なしけるさまにて」何か私には判らぬ物所持品を売り物にしたようで、相応の宿賃を出だし。

「昂然と」意気盛んに。

「我より放たじ」どちら(僧と浪人たち)も「私の方からお別れしようなどとは思いも致さぬ」と言い合い。

「あんねん坊」地名。「妬氣成ㇾ靈」に既出既注で以下の場所に推定同定した。富山市五福の北西部の呉羽山丘陵の東側一帯にある「安養坊」(あんようぼう:グーグル・マップ・データ航空写真)。

「紙入」財布。]

 我れ若し貧窮の旅人ならぱ、渠等斯くは惡心を起さじ。我より業惡の人を求めなしてけり。又渠を惡(にく)むべきによしなし。何ぞ元の富山の宿に歸りて訴(うつたへ)に及び、人を勞し公儀を妨(さまた)ぐべきや」

と云ふ。

 予大(おほい)に感じて、

「我れ聞く、宗祇は髭切らるべき難に逢ひ、西行上人は天龍川に面(おもて)を打たる。我がはせを翁も、ごまと云へる者に逢侍りしを書置(かきおき)けり。連人(つれびと)は必ずかゝる難あり。君がさま良々(やや)是に似たり。」

[やぶちゃん注:「宗祇は髭切らるべき難に逢ひ」漂泊の連歌師宗祇は「髭宗祇」と呼ばれるほど美しい髭の持ち主だったとされ、また彼はその髭に香を焚き染(し)めていたと伝えられる。盗賊に遭って身包み剥がされ、大事にしている髭を切られそうになった話は、「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 盜賊、歌に和(やはら)ぐ」を読まれたい。

「西行上人は天龍川に面(おもて)を打たる」「西行物語」や阿仏尼「十六夜日記」等に載る西行伝説一つ。東国への行脚の途次、遠江の天龍川の渡しで発生した殴打事件。私の「諸國里人談卷之四 西行桜」を読まれたい。そこでは水主(かこ)が下船しろと言ったのをきかなかったことから打った(殴打物は不明)ことになっているが、「西行物語」の「卷之中」の「東國下向天龍の渡りにて難に合(あふ)事」では、水主ではなく、乗り合わせた武士がそう言い、降りなかった西行を鞭打ったという設定になっている(江見水蔭編校訂「高僧実伝」明治三六(一九〇三)年博文館刊)。しかしこの本のこの話の挿絵では水主が櫂を振り上げている。

「はせを翁も、ごまと云へる者に逢侍りしを書置(かきおき)けり」御存じない方はそれでよろしい。これは芭蕉の句であるかどうか疑わしい一句だからである。朱拙・有隣編「俳諧はせを盥(たらひ)」(享保八(一七二三)年刊)に、

  あふみ路を通り侍る比(ころ)、
  日野山のほとりにて胡麻といふ
  ものに上の絹とられて

 剝(ハガ)れたる身には砧(きぬた)のひゞきかな

と載るものに基づく。この前書自体が既にして如何にも嘘臭いではないか。因みに、貞佐編「箱伝授」(宝永三(一七〇六)年自序)には、

  美濃の山中にて

 はがれつゝ身には碪(きぬた)のひゞき哉

の句形で載り、こちらなら芭蕉の句の可能性は必ずしもないわけではないようだ(以上は一九七〇年岩波文庫刊「芭蕉俳句集」に拠った)。]

 僧の曰く、

「吾子(ごし)は最早半白を越えし氣色なり。未だ天命を知る人とは見えず。我を慰むること過ぎたり。賊に逢ふ只是自然の禍福なり。若し又連人(つれのひと)難に逢ひ、常人(つねのひと)無事ならば、幾何(いくばく)の世捨人、盜難に逢ひぬを皆無用の者とせんや。」

[やぶちゃん注:「吾子は最早半白を越えし氣色なり。未だ天命を知る人とは見えず」貴方はもう頭が半分白くなって、相応の年をお過ぎになられたものとお見受けする(ものの)、いまだ五十に達しておられるようには、これ、見えませぬ。

「我を慰むること過ぎたり」(失礼乍ら)私を憐れんで慰めんとされるのには(若過ぎており)出過ぎことで御座る。

「若し又連人難に逢ひ、常人無事ならば、幾何(いくばく)の世捨人、盜難に逢ひぬを皆無用の者とせんや」この部分、どうも今一つ意味が摑めない。一つ、私は「常人」は「當人」の誤判読ではないかと疑っている(但し、「近世奇談全集」も『常人』である。)。そうだとして、ゴリ押しで訳してみると、『例えば、もし今の私の連れであるあなたが難に遭い、当人である私が全く無事であったとしたならば、一体、どれだけの世捨て人――遁世僧は即ち〈無用の者〉であるのに、です――が盗難に遭ったのを――皆、〈無用の者〉として扱い、認識するでしょうか?』てな感じか。遁世僧と無用者の属性の二律背反ということか。判ったようで判らぬ。識者の御教授を乞うものである。]

 我爰に至りて詞なし。彼(かの)僧の曰く、

「行路の難は、水にしもあらず、山にしも非ず。人間反覆のこと目(ま)のあたり見しぞや。先の日迄も、きのふ宿を出(いで)し迄も、顏和らかに詞やさしき人の、衣服を奪ひ刀を打振り、立去りし後姿は、誠に鬼形(きぎやう)の心地ぞせられてける。斯くて此近邊及び小杉とやらんあたりの人問ひ來て、其盜める二人をそしること、只に獸畜と云ふとも是に劣れり。彼(か)の盜める輩(やから)も、人の見聞かんことを恐れて、山へや上り去りけん、谷へや下り去りけん。人中へ出で得ず、生れながら鬼畜の友となしてけりとは思ひやらるれ。心合ふ時は菩薩の思ひ、心隔たる時は鬼魅(きみ)となる。人中(じんちゆう)の變轉爰に至りて悟らる。彼れも又我が師なり。」

 予再び感じて爲(せ)ん所を知らず、纔に懷(ふところ)の紙のはしに、

  露にそひて氷さとれる旅人かな

と云ひて差出しけるに、僧は笑ひて、

「あら聞きともなの俳諧や、かばかりの理屈は今宵の宿のあるじに書きあたへて、一飯のつひへを防がれよ。我に聞かする者にあらず。子(し)は奇談を求むと聞く。奇を聞きて奇とするは、奇の奇たる物にあらず。奇の源は常(つね)なり。常に向ひて奇を求めば、奇の奇たるを得ん。さらば常を翫(もてあそ)ぶべし。大(おほい)に語らふは易く、鷄口となるは苦し。世人の徒(と)大房と賞せん日、奇の至るを見るべし」

と、流れに口すゝぎて立別れ、また再び顧みず

[やぶちゃん注:文末に句点なしはママ。

「人間反覆」人間の属性が一瞬にして善から悪へと反対に覆ってしまうこと。

「小杉」現在の富山県射水(いみず)市のこの付近。丁度、高岡市と富山市の境に当たる。二人の浪人が僧を襲い、追剥ぎして、後ろ影の消えていった辺りがここになろう。

「人問ひ來て、其盜める二人をそしること」その二人の浪人の風体をその小杉辺りの民草に問い質(ただ)し、その追剥ぎ二人を探し出して謗(そし)るという行為は。

「只に獸畜と云ふとも是に劣れり」人間以下の畜生(のなせること)と表現しても、それよりももっと下劣極まりない行為である。

「露にそひて氷さとれる旅人かな」「露(つゆ)に添ひて氷(こほり)悟れる旅人(りよじん)かな」。「つゆにそひて」は「露と親しくすることで」と「僅かな間だけ連れとなって」の意を掛けているのであろう。――液体である種おだやかな潤いを持った露に近づいてみて初めて、それが冷酷無惨なる人間の氷のような存在に変ずるという理(ことわり)を悟った旅の人であることよ――といった謂いか。さても、作者堀麦水は俳人であるのに、考えてみると、本「三州奇談」でここに至って初めてはっきりと自作の発句をぽろりと出すというのは、かなり謙虚に過ぎたということに気づくのである。しかも、その評価は以下であり、最低なものという他者の判が示されるという為体(ていたらく)なのである。自虐的とも言える出し方である。

「あら聞きともなの俳諧や」「聞きとも無(な)」は形容詞「ききともなし」(「ききたくもない」の転じた「ききとうもない」の音変化。近世語)の語幹で、「聞く気もしない・聞くのもいやな」の謂い。「おやまあ! 耳にもしたくないつまらぬ発句ですなあ!」。

「一飯のつひへを防がれよ」宿の食事代の費用に当てて所持金の減るのを防がれるがよかろう。その程度の価値しかない駄句であるという強烈な匂わせがある。

「大(おほい)に語らふは易く」好き勝手に語るのは簡単で。

「鷄口となるは苦し」「鶏口牛後」で知られる通り、鶏の嘴(くちばし)。弱小なものの首長のたとえであるが、ここはそれを逆説的に用いていよう。「そういう存在は致命的に苦しいものだが、そうした『常の中の奇』を探る孤独な困難をこそ味わえ! と彼は言っているのではなかろうか?

「大房」不詳。或いは麦水は俳人で法体(ほったい)であったとすれば、「優れた坊さん」で「俳諧の大宗匠」の意かも知れぬ。

「流れに口すゝぎて」麦水は、たかだか二十ばかりにしか見えない僧が、追剥ぎに遭ったのを憐れんで話も交わし、助力も添えてやろうとしたのにも拘わらず、逆に自身の認識の低さや俳諧の凡庸さをコテンパンにされたのである。さればこそ、近くの清水の流れに立ち寄り、自身の凡庸なる俗に穢れた口を漱いだのである。屈原の「漁父之辭」(漁父(ぎよほ)の辭)の終局を迂遠に使い、いい所の何もない滑稽にして愚鈍な「枕石漱流」にさえなれない自身をカリカチャライズしたものであろう。]

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