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2020/05/12

三州奇談續編卷之二 石蛇の夾石

 

    石蛇の夾石

 越中礪波郡庄川・千保川(せんぼがは)はもと一流にして、水源は飛州高山にて、凡(およそ)四十餘里を下る。もと是北陸道第一の大川なり。正保・慶安の間、瑞龍寺境内水勢障(さは)るにつき、小松黃門公の命を以て、材木・切石に鐡道具(てつだうぐ)を用ひて川除(かはよ)けを築かれて、兩川(りやうせん)の間良々(やや)易(やす)し。爰を大淸水村と云ふ。

[やぶちゃん注:表題は「せきじや(せきじゃ)のきやうせき(きょうせき)」と読んでおく。

「千保川」「西住の古碑」の私の注を参照されたい。庄川や瑞龍寺(高岡市関本にある曹洞宗高岡山(たかおかさん)瑞龍寺。開基は加賀藩第二代藩主にして前田家第三代当主前田利常で、開山は広山恕陽。高岡城を築城して、この地で亡くなった初代藩主で前田家二代当主前田利長を弔うために建立された。私の好きな寺である)との関係もその引用で明らかである。このグーグル・マップ・データで、西に南北流れているのが現在の千保川、中央に原庄川の流れで境内の損壊を受けた瑞龍寺、右に斜めに流れる大きな川が現在の庄川を配して三者の現在の位置関係を押さえるようしておいた。

「水源は飛州高山」ウィキの「庄川」によれば、『岐阜県高山市南西部の山中峠(1,375m)の湿原を水源としている。ただ、庄川水系の幹川は高山市荘川町一色で合流する一色川で、飛騨高地にある烏帽子岳(1,625m)が水源であ』『り、より厳密にいえば、鷲ヶ岳(1,671m)と烏帽子岳の間の谷が水源である』とある。国土地理院図のこの中央であり、グーグル・マップ・データで見ると判る通り(中央が先の水源)、飛騨高山、現在の高山市の西南の外れに当たる。

「凡四十餘里を下る」百五十七キロ超えとなるが、現在の測定では庄川の総延長は百十五キロである。

「正保・慶安の間」一六四五年~一六五二年。

「小松黃門公」加賀藩第二代藩主前田利常。「小松」は彼が小松城に隠居したことによる(彼にとっては思い出深い地で六歳の時、「関ヶ原の戦い」直前の「浅井畷の戦い」の後、講和を望んだ丹羽長重の人質となったが、その時の丹羽の居城は小松城であった)、「黃門」は中納言の唐名。利常は権中納言であった。

「大淸水村」現在、大清水地区というと高岡市戸出大清水であるが、瑞龍寺から有意に南(五キロ強)に離れた庄川左岸である。但し、上流で大規模な河川改修して流れを変えたはずであり、ここと見て問題はない。現在の戸出大清水地区は、拡大してみると、地域内と西地域外端を千保川及びその支流の複数が縦断していることが判り、同地区内の千保川の右岸には大清水神社もある。従って、ここと同定しておく。]

 此一里上(か)みに太日村といふに、般若野(はんにやの)と名づくる所あり。是者(これは)源平の戰(いくさ)の頃、今井四郞兼平越中の次郞兵衞と戰ひし所といふ。大淸水より半道下りて、六道寺(ろくだうじ)の海に近し。【淸水より六道寺迄五里余なり。】爰を二つ塚と云ふ。彼(かの)「太平記」に見えし、名古屋遠江守が二ツ塚の城と云ふは爰なり。是も兩川の流(ながれ)の間なり。

[やぶちゃん注:「太日村」不詳。しかし、これは恐らく「太田村」の判読の誤りか、誤植ではないかと推定する。「今昔マップ」で明治期の地図の方を見ると、戸出大清水から庄川上流五キロ圏内(「一里上み」)に当たる位置に「太田村」があることが判る。

「般若野」上記の「今昔マップ」の古地図を再確認されたい。旧太田村から東の庄川を渡った先に「般若村」の名を見出せる。やはり「西住の古碑」で考証したが、ここは別名を「芹谷野」とも呼び、「芹谷野」はこれで「せんだんの」と読み、「栴檀野」とも書く。現在、砺波市芹谷(せりだに)の北西部直近一帯が「栴檀野」地区(グーグル・マップ・データ)であることは地図上の複数の施設名に「栴檀野」が冠せられてあることから判る。則ち、現在の芹谷周辺が古くは広域の「栴檀野」=「般若野」であったと考えてよいと思われるのである。

「今井四郞兼平」木曽義仲の名臣今井兼平(仁平二(一一五二)年~寿永三(一一八四)年)。

「越中の次郞兵衞」平氏にあってその豪勇を称えられた名将平盛嗣(?~建久五(一一九四)年)の通称。平盛俊(剛力の持ち主として知られ、清盛の政所別当をも務めた平家の有力家人。「一ノ谷の戦い」で猪俣範綱に騙し討ちにされた)の次男。ここの話は寿永二(一一八三)年五月九日にここで行われた平氏軍(平盛俊)と源氏及び北陸蜂起勢力連合軍(今井兼平)との間の「般若野の戦い」を指す(「西住の古碑」で示したように、これから三百二十三年後の永正三(一五〇六)年に同じ場所で行われた越中一向一揆と越後守護代長尾能景との間の「般若野の戦い」と混同しないように)。同日明け方、加賀より軍を進め、般若野の地で兵を休めていた平氏軍の先遣隊平盛俊の軍を、木曾義仲の先遣隊今井兼平の軍が奇襲、平盛俊軍は戦況不利に陥り、退却している。盛嗣の後の数奇な運命(落人となるも捕縛され、由比ヶ浜にて斬首となった)はウィキの「平盛嗣」を読まれたい。

「大淸水より半道下りて、六道寺(ろくだうじ)の海に近し。【淸水より六道寺迄五里余なり。】」何だか言っていることがおかしい。「大淸水」と「淸水」は同じとしか取り得ないが、そこから「六道寺」までは本文では「半道」(一里の半分。約二キロ)と言い乍ら、割注では「五里余」(十九・六三九キロ超)である。そもそもが「六道寺」がおかしい。これは「六渡寺」で射水市庄西町(しょうせいまち)地区(グーグル・マップ・データ)の旧称であろう。現地の駅名標などではこれで「ろくどうじ」(現代仮名遣)と読む。庄川河口右岸の海辺の地名である。現在の戸出大清水から六渡寺までは実測すると、十四キロはある。「半道」は「半日」の誤りではなかろうか?

「二つ塚」現在の戸出大清水から実測で四キロほど庄川左岸を下った富山県高岡市二塚(ふたづか)の「三ヶ首、鐘堀、太刀城跡の碑」(グーグル・マップ・データ)。

『「太平記」に見えし』巻第十一の「越中の守護自害の事付けたり怨靈の事」。

「名古屋遠江守」鎌倉最末期の越中守護であった名越(北条)時有(?~正慶二/元弘三年(一三三三)年五月)。北条氏名越流。ウィキの「北条時有」によれば、正応三(一二九〇)年、時有は越中国守護所として放生津城を築城している。正慶二/元弘三年に『隠岐から脱出し』て『鎌倉幕府打倒を掲げて後醍醐天皇が挙兵した際、時有は前年に射水郡二塚へ流罪となり』、『気多社へ幽閉されている後醍醐の』子である恒性(こうしょう/つねなり)『皇子が、出羽や越後の反幕府勢力に擁立され』、『北陸道から上洛を目指しているという噂を聞きつけた』第十四代執権(この時は既に退任)『北条高時から、皇子の殺害を命ぜられる。時有は』甥の『名越貞持に皇子や近臣であった勧修寺家重・近衛宗康・日野直通らを暗殺させた』。『同年、新田義貞や足利高氏らの奮闘で反幕府勢力が各地で優勢となり』、『六波羅探題が陥落すると、越後や出羽の反幕府勢力が越中へ押し寄せ、また、井上俊清を初めとする北陸の在地武士も次々と寝返り、時有ら幕府方は追い込まれていく。二塚城での防戦を諦めた時有は弟の有公』(ありきみ)・『貞持と共に放生津城』(ここ。グーグル・マップ・データ)『へ撤退するも、脱走する兵が相次いだ』。『放生津城の周りは、一万余騎に囲まれ』、『進退が行き詰った。時有は、妻子らを舟に乗せ』、『奈呉の浦(現射水市)で入水させた。それを見届けた後、城に火を放ち』、『自刃し』たとある。]

 二塚村に澤田次郞兵衞(じろべゑ)と云ふ百姓あり。是は名古屋遠江守が兩家老の一人なり。今一人の家老は某と云ふ。此跡は故ありて國君に功あり。今戶出(といで)に移りて居(きよ)し、大庄屋を勤むる戶出の又八と云ふものゝ先祖なり。

[やぶちゃん注:「澤田次郞兵衞」不詳。

「此跡は」とは「今一人の家老」「某」の後裔ということだろう。

「國君」加賀藩主。

「戶出」高岡市戸出町(グーグル・マップ・データ)。二塚の南西直近。]

 されば次郞兵衞が家に、今に「海濱筐(かいひんきやう)」とて、「石蛇夾石(せきじやきやうせき)」と云ふ物あり。執念の餘勢といへども、世にも又間々あるものなり。「石蛇」とは貝のぐるぐると交りて、紐の如きものなり。此貝に石氣(せきき)ありて、貝より石(いし)を出(いだ)して、互に挾みて土を離れて石(いし)を生ず。其の石「蛇床石(じやしやうせき)」に似たり。相抱(あひいだ)きて連々(れんれん)離れざるが如し。是(これ)人の執氣(しふき)石によるか。又石氣自(おのづか)ら連理(れんり)をなす物なるか。

 又一變して此浦渡り及び能浦(のううら)に「眞珠貝」と云ふ物あり、必ず眞珠を含む。玉を得ること石決明(あはび)に十倍す。里俗「眞珠貝」と云ふ。此「眞珠貝」のうち、稀に「喰違貝(くひちがひがひ)」といふあり。只裏面相違(あひたが)ひて抱(いだ)く、稀なり。此中の眞珠も又枝の如く粒(つぶ)出(い)で、少しく喰違(くひちが)ふたる珠となる。是又妙なり。是や思ひ合はざる者の氣の化(か)する所なるか。將(は)た自然なるか。執氣凝(こ)らば、不執氣(ふしふき)も又凝らずんばあるべからず。

[やぶちゃん注:「海濱筐」(現代仮名遣「かいひんきょう」)=「石蛇夾石」(現代仮名遣「せきじゃきょうせき」)。以下、多くは音読みしておいた。「筐」は「四角な竹製の籠」・「四角な寝台」・「小さな釵(かんざし)」の意があるが、後で「蛇床石に似たり」と言っているので、二番目の意味か。但し、「海濱筐」も「石蛇夾石」も、そして「蛇床石」も見たことがない熟語で、対象物が如何なるものかはここに書かれた内容から推測するしかない。而も似ているという手掛かりになるはずの「蛇床石」(じゃしょうせき)なるものも正体が全く判らぬのでお手上げである。かの石狂木内石亭(享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)の「雲根志」(安永二(一七七三)年(前編)・安永八(一七七九)年(後編)・享和元(一八〇一)年(三編)刊)にあっていいはずだと、知らべてみたが、それらしいものがいっかな、見つからなかった。当初、私は三葉虫(節足動物門†Artiopoda 亜門三葉虫綱 Trilobita のトリロバイト(Trilobite:カンブリア紀に現れて古生代の終期であるペルム紀に絶滅した)やアンモナイト(軟体動物門頭足綱アンモナイト亜綱 Ammonoidea のアンモナイト(Ammonite))の重合化石ではないかと思ったのだが、前者は日本では殆んど出土せず、後者も現行では北海道を除いて、あまり出土しないから、ハズレだろう。「石蛇とは貝のぐるぐると交りて、紐の如きものなり。此貝に石氣ありて、貝より石を出して、互に挾みて土を離れて石を生ず」という文を眺めながら、ここで「ハッ!」とした。自分が幼い頃から貝類研究をしてきたにも拘わらず、初っ端から実際の現生貝類を候補の中に全く想定していなかった愚かさに気づいて、「あれ? これって、オオヘビガイとかミミズガイとかの殻じゃあねえの?」と膝を叩いたのだ。

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目ムカデガイ科オオヘビガイ属オオヘビガイ Serpulorbis imbricatus

吸腔目カニモリガイ上科ミミズガイ科ミミズガイ Siliquaria cumingii

などである。記載の感じは、螺形が細く紐状で「ぐるぐると交」わっているとなると、後者のミミズガイがまさにぴったりなのだが、ミミズガイは房総半島以南の太平洋にしか分布しないので、だめだ。前者でとっておく。ウィキの「オオヘビガイ」を引用しておこう。言わずもがなであるが、変則的な形をしているが、巻き貝の一種であり、『岩石の上に殻を固着させて生活する。巻き方は不規則で、時にほぐれた形にもなる』。『岩の上に殻を固着させて成長するため、岩の形などによってその形は多少変わる』。『おおよそでは成貝で殻径50mm、殻高20mm程度になる。殻口の径は老成貝で15mm程度。固着して後は次第に殻の径を増しながら巻き上がってゆく形になり、上から見ると左巻きに見える』。但し、『巻かずに伸びてしまった形で育つ例もある。なお殻口部分はそこまで巻いてきた殻の上に乗るか、または多少基盤を離れて立つ傾向がある』。『螺管断面が半円形から円形で、表面には幾筋かの瓦状の螺肋と多数の糸状の螺肋がある。殻の表面は淡灰褐色で、殻口の内面は白い』。『殻は巻き上がっているので見た目は左巻きに見え、これを超右巻き(Superdextral)という』。『活動として殻から肉体を出すことはなく、せいぜい頭が見える程度である。摂食方法としては粘液を分泌してそれを水中に網状に広げ、これに引っかかったデトリタス等を回収して食べる』。『網となる粘液は足』(外套膜の辺縁)『から分泌される』。『食べる際は粘液ごと回収してしまう』。『繁殖時は夏で、卵の入った袋を殻の入り口の内側に』吊るす。『卵はこの嚢内で孵化し、ベリジャー幼生となって泳ぎ出』、『胎殻は右巻き』『で滑らかで光沢がある』。なお、『繁殖には他家受精が必要であるが、本種は集団を作らない。つまり他個体と接触する方法がない。受精に関しては雄が精子のカプセルを放出し、雌が粘液の糸で絡め取ってそれを回収、体内で受精が行われる、との報告がある』。『日本では北海道以南、それに台湾と中国に分布』し、棲息『地は沿岸岩礁の潮間帯で』、日『当たりの弱い岩場やタイドプールでよく見られる』。『日本本土ではどこでも普通だが、奄美ではこれに代わってリュウキュウヘビガイ Serpulorbis itrimeresurus が』いる。但し、『この種は四国南部からも知られ』、また、『殻に薄紫や褐色の斑があるソメワケヘビガイ』(Serpulorbis dentiferus)『も紀伊半島以南に分布する』。『なお、別属の』Dendropoma属フタモチヘビガイ Dendropoma maximum は殻に蓋を持』ち、『紀伊半島以南に見られる』。『本種の死んだ殻は岩の上にパイプ状の構造を作ることになり、岩表面の構造を複雑化し、他生物が利用することで種』の『多様性を高める効果がある。ナベカ』(スズキ目ギンポ亜目イソギンポ科ナベカ属ナベカ Omobranchus elegans)『やクモギンポ』(ナベカ属Omobranchus loxozonus)『が産卵床として利用することが知られている』。『コケギンポ』(ギンポ亜目コケギンポ科コケギンポ属 Neoclinus bryope)『では二枚貝に産卵する例もあるが、本種の殻を利用する率が高い。また』、『この種では雄が卵の保護を行うが、その際に雄が殻口から頭部だけを出すと、頭についている皮質の突起が周囲の付着生物と紛らわしく見え、一種の隠蔽の効果を持っているとみられる』。また、『本種の殻の隙間にはゴカイ類などが住み着いている。その中には本種が出して栄養分を集める粘液を食べるものがあると考えられる』。環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ亜目ゴカイ科クマドリゴカイクマドリゴカイ Perinereis cultrifera は『実験室内の観察で』は、『本種が粘液を引き戻して摂食する際に殻口に出てきて、その一部を摂食することが観察された。これは一種の』「盗み寄生」と『考えられる。他にもゴカイの』一種 Nereis sp. やシリス科の一種 Ophisthosyllis sp. が同様の行動を取っているらしいことも観察されており、同様の関係を持っている可能性がある』。但し、『これらのゴカイ類の摂食が本種の栄養にどれほど影響があるかなどは未知である』。『一般に広く利用されるものではないが、肉は食べれば美味であり、食用とする地域がある』。『ハンマーや鏨』(たがね)『などを使って剥がす必要があるが、茹でたところで殻の口のところを割ってから口からすすり込むと食べやすく、粘液が多くとろりとした舌触りと甘みのある貝独特のうまみが絶品とのことである』とある。いつか食うてみよう。

「能浦」これは明らかに、富山湾の西方北の能登半島の海浜を指している。

「眞珠貝」ウグイスガイ目ウグイスガイ科アコヤガイ属ベニコチョウガイ亜種アコヤガイ Pinctada fucata martensii伊藤勝千代氏の論文「能登和倉の海產貝類目錄」PDF)によって富山湾にアコヤガイが棲息することの確認がとれた。

「石決明(あはび)」腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis。アワビ類は「鮑玉」と称された天然真珠を作ることが古くから知られている。

「喰違貝」左右の貝の形状が異なるという謂いであろうが、アコヤガイは両貝殻の辺縁が薄い層状になっており、折れ易い突起があり、また、容易に薄く剥がれる。そうした大きい損壊をきたして、その部分から大きな異物が入った場合に大きな真珠が形成されることは想像に難くない。

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