三州奇談續編卷之二 平氏の樂器
平氏の樂器
奇は實の中に求め、理(り)は直(ちよく)の中に求めば、得て易く、說きて當ることもあらん。然共予が性虛惰にして爰に倦む。又廢して元の歌談となる。是をさまでは咎むまじ。
[やぶちゃん注:初めの語りは本巻の冒頭の「僧辨追剝」で若き僧がのたもうた見解である。「直」は「なほきこと」(歪んでいない事実・正直な話)を意味していよう。
「歌談」詩歌の話。]
中昔(なかむかし)に聞けり。宗祗法師連歌の席に宗匠たる日にや、櫻井基佐(さくらいもとすけ)
「花舟(はなふね)くだす」
と云ふ事を云ひ出せしに、
「詞(ことば)艶(えん)なれども證歌なくては」
と難ぜらる。基佐取敢へず、
「石山櫻谷(いしやまさくらだに)の古歌にあると覺え候」
と云ふに、
「其歌は」
と問はれける。基佐俄(にはか)に作意して一首をつらね、
「古歌なり」
とて吟ず。
水上は櫻谷にやつゞくらん花舟くだす宇治の川をさ
と申されしかば、宗祇も打笑みて其日の席興ありしと聞く。
[やぶちゃん注:「櫻井基佐」(生没年未詳)は室町~戦国時代の連歌師で、初め心敬に、後に宗祇に学んだとされる。名は元佐、元祐とも書く。通称は弥次郎、弥三郎、法名は永仙。歌集に「桜井基佐集」。晩年は山城に住した。宗祇らと多くの連歌会に加わったが、明応四(一四九五)年の宗祇の撰した「新撰菟玖波(つくば)集」には一首も選ばれていない。稲田利徳氏の論文「桜井基佐の作品における俳諧的表現」(PDF)によれば、『基佐といえば、宗祇の撰した『新撰菟玖波集』に一句も入集されなかったため』、
遙見二筑波一錢便入、不ㇾ論三上手與二下手一
足なくてのぼりかねたるつくば山
和歌の道には達者なれども
『という落首を残し、賄賂としての金銭の多少によって、入集が左右されたことを揶揄した人物として著名である。この他、山名邸の連歌会で、自句の連歌の付合を正当化するため、自作の即興歌を「万葉歌」と偽って提出したが、宗祇に見破られて降参したとか、生活に貧窮したとき「露」を質に入れ「終生不ㇾ吟ㇾ露」と約束し、「露之質」と言い囃されるなど、逸話の多い人物である』とある。漢文部分は「遙かに筑波を見るに、錢(ぜに)、便(すなは)ち入るる、上手と下手とを論ぜず」であろう。ともかくも小賢しい詐術家であったようである。
以下の漢詩は三段組であるが、一段に代えた。題や作者の字間も再現していない。]
詠雪 梁 簡文帝
鹽飛テ亂二蝶舞一
花落テ飄二粉奩一
奩粉飄二落花一
舞蝶亂二飛鹽一
呈秀野 宋 朱熹
晚紅飛盡テ春寒淺
淺寒春盡テ飛紅晚
樽酒綠陰繁シ
繁陰綠酒樽
老仙詩夕好シ
好夕詩仙老
長恨送ㇾ年芳
芳年送ㇾ恨長シ
是等は詩の狂體(きやうたい)、廻文(くわいぶん)類(たぐひ)なるべし。簡文皇帝は風流の君、縱橫(じゆうわう)左(さ)もあるべし。ただ堅親仁(かたおやぢ)の朱先生、猶斯くの如きの吟あらば、風韵狂醉左迄(さまで)事實にも拘るまじきにや。
[やぶちゃん注:筆者の述べる如く、以上の漢詩は回文である(但し、中国の詩の回文詩とは逆に詠むと全く別の意味になる詩を指すのが普通である)。前者は艶麗な宮体詩の確立者で「玉台新詠集」の編纂を命じたことで知られる南朝梁第二代皇帝簡文帝蕭綱(しょうこう 五〇三年~五五一年/在位:五四九年~五五一年)の作とされるもの。中文サイトでは「玉台新詠集」を出典とするのだが、私の持つ「玉台新詠集」には見当たらない。
雪を詠ず
鹽(しほ) 飛びて 蝶(てふ)の舞ひの亂れ
花 落ちて 粉奩(ふんれん)に飄(ただよ)ひ
奩粉 落花に飄ひ
舞ふ蝶 飛ぶ鹽に亂る
全体は雪の降るさまを喩えたもの。「粉奩」は白粉箱(おしろいばこ)。
後者はかの朱子学の創始者として知られる南宋の大儒朱熹(しゅき 一一三〇年~一二〇〇年)の作。題は「菩薩蠻」とも。これはちゃんと朱熹の正規の詩篇として中文サイトに載る。こちらは私にはうまく訓読出来ないが、無理矢理示すと、
晚紅 飛び盡して 春寒 淺く
淺寒の春 盡(すべ)て飛ぶ 紅(くれなゐ)の晚
樽酒(そんしゆ) 綠陰 繁し
繁陰(はんいん) 綠酒の樽
老仙の詩 夕べに好(よ)し
好き夕べ 詩仙の老
長き恨み 年送りて 芳(かんば)しく
芳年 恨みを送りて 長し
当てにならぬ私の推測であるが、「晚紅」は晩秋の紅葉で、一行中に半年が経過して春となるのではないか? その時の経過をも「飛び盡して」が表わすのではと思った。二句目は意味が判って訓読しているわけではないので説明できないが、牽強付会させると、「紅の晩」は夕陽の時刻とするならば、「盡て飛ぶ」のは青空か、はたまた夕べの雲か、或いは夜空の星か? 「詩仙」は李白の異名であり、「芳年」は「若き日の年月」で、後半部は半可通ながらも、意味は通りそうではある。訓読から訳まで識者の御教授を乞うものである。【当日削除・改稿】教え子の中国語に堪能なS君に頼んだ。以下にその鮮やかな答えを示す。
《引用開始》
私もなかなか解読できません。自信も全くありません。とはいえ、いくつかの点について感じたことをもとに、書き記してみます。
『晩紅』:この言葉は、①花の色が暫し保たれているさま、②茘枝、という二つの意味で使われます。ここは前者と受け取りました。
『淺寒春盡』:ここは二字熟語の組み合わせと取り、和らいだ寒気のうちに春が終わりに近づいた、または和らいだ寒気のうちに春の一日も尽きようとしている、という意味かと思いました。
『飛紅』:花が散る、という意味で使うのが一般的かと思いました。
『老仙詩夕好』:年老いた翁が詩を嗜むこの良き夕べよ、というほどの意味と感じました。
『詩仙』:ご指摘の通り、やはりどうしても李白が思い浮かびます。
『年芳』:春の麗しい景色、と取ります。
『芳年』:麗しき青春時代、と取ります。
私の乱調破格勝手訓読および口語訳は次の通りです。
晚紅 飛び盡して 春寒 淺く
淺寒 春を盡す 飛紅(らくくわ)の晚(ゆふべ)
樽酒(そんしゆ) 綠陰 繁く
繁陰(はんいん) 綠酒の樽(たる)
老仙 詩の夕べ 好(よ)く
好ましき夕べに 詩仙 老ゆ
長き恨み 年芳(ねんはう)を送り
芳年(はうねん) 恨みを送ること 長し
最後まで残っていた紅(くれない)の花も今散り終え、寒氣も和らいだ。
肌寒さの中に一日も盡きようとしている。この黄昏(たそがれ)、最後に宙を舞う花びらよ。
もう夏がやってくる。樽には酒が満たされ、樹樹の葉は生い茂る。
ああ、仄暗(ほのぐら)い木陰に、翠(みどり)の酒。
年老いたこの私が、詩に遊ぶ麗しき、たそがれ時。
この黄金の時に、かの李白も静かに老いて行ったか。
私のとめどない想いは、春の後ろ姿を見送る。
そう! あの青春時代! 私は尽きせぬ想いに惱んだものであったのだ……
《引用終了》
これ以上のこの解釈は――私は――「ない!」――と思う。S君に心から感謝申し上げるものである。
「縱橫」ここは「自由自在」の意。
「堅親仁」頑固親父。大学時代の漢文で「論語」の朱子集註(しっちゅう)の読解には一年間痛く苦しめられたのを思い出す。「論語」本文をあそこまで神経症的にほじくらずんばならずという朱熹は殆んど病気だ、という気が強くしたものだ。
「風韵狂醉左迄(さまで)事實にも拘るまじきにや」「風韵」(一字一句の形態や平仄・韻)に「狂醉」(狂ったようにのめり込むこと)して「さまで」「事實にも拘る」(四書読解で一字一句も蔑ろにしないで神経症的に拘ったことを指す)「まじきにや」(ことはなかったのではなかろうか?)の意でとっておく。]
寳達山(はうだつさん)は密かに聞く、平重盛子孫を隱し殘されし所と云ふ。育王山(いわう)に金(かね)を納め申されしとは、若(もし)くは此山の事にや。寳達の文字も良々(やや)似たり。又夫(それ)かと覺えたる一奇談を聞けり。
[やぶちゃん注:「宝達山」石川県中部にある山で、山域は羽咋郡宝達志水町・かほく市・河北郡津幡町・富山県氷見市・高岡市に跨る。山頂は宝達志水町で標高六百三十七メートル(グーグル・マップ・データ航空写真)。能登地方の最高峰。その名は江戸時代に金山が存在したことに由来するとされる(以上はウィキの「宝達山」に拠った)。三つ後の「薯蕷化人」でも頭で、『寳達山は既に前段に述ぶる如く、平氏の公達を隱し、小松大臣の黃金を納む』と述べており、この周辺には実は平家の落人伝説が多い。「津幡町役場」公式サイトの『平家伝説が残る「平知度の首塚」』を引いておく。『津幡町津幡地区の通称「平谷(へいだん)」には、平知度(たいらのとものり=平清盛の7男)の墓と伝えられている首塚が残っています。1183(寿永2)年の源平合戦の時、平維盛(たいらのこれもり=清盛の嫡男重盛の長男)の兵7万は倶利伽羅山に陣を取り、知度は従兄の通盛(みちもり)とともに兵3万で志雄山(現在の宝達山から北に望む一帯の山々)に陣を取っていました。倶利伽羅峠の戦いで、維盛が木曽義仲(きそ・よしなか)に敗れたことを聞いて援軍に来た知度は、激しい戦いの末、平谷において自害したと伝えられています(津幡地区の伝説「平知度の墓・首塚」の話より引用)』。『『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』29巻には、赤地錦の直垂に紫裾濃(むらさきすそご)の鎧を着け、黒鹿毛(くろかげ)の馬に乗る容貌優美な姿とともに、目じりは裂け、眉は逆さにつり上がった激しい表情で奮闘する知度の様子が描写されています』。『一帯の地名は「平谷」と呼ばれ、源平の戦いに敗れた平家の落武者が隠れ潜んで生活したところと伝えられています。『加賀志徴』によると、平谷は「平家谷」と記され、集落の入口にある首塚の側には大木の松が生え、「首塚の松」と呼ばれていました。ここに住み着いた末裔は、平田、平能、平林、平村を名乗り、現在でもこの首塚を大切に守り続けています』。『津幡町には、平家伝説が数多く残っています。河合谷地区の牛首(うしくび)・木窪(きのくぼ)の両区や英田(あがた)地区の菩提寺区も、平家の落人が村の開祖と伝えられています。菩提寺から近い「上矢田温泉・やたの湯」は、義仲に敗れた維盛がこの湯を見つけ、傷を癒(いや)したのが始まりとされています』とある。
「育王山に金を納め申されし」「育王山」阿育王山の略で現在の浙江省寧波(ニンポー)の東にある山(グーグル・マップ・データ)。二八一年に西晋の劉薩訶(りゅうさっか)がインドのマガダ国マウリヤ朝第三代の王阿育王(アショカ王)の舎利塔を建立した地で宋代には広利寺として中国五山の一つがあった。「平家物語」巻第三「金渡(こがねわた)し」の段に基づく(新潮日本古典集成版を参考に正字で示した)。
*
大臣(おとど)は天性(てんせい)滅罪生善(しやうぜん)の心ざし深うおはしければ、未來のことをなげいて、
「わが朝にはいかなる大善根をしおきたりとも、子孫あひつづきてとぶらはんことありがたし。他國にいかなる善根をもして、後世(ごせ)を戶ぶらはればや。」
とて、安元のころほひ、鎭西より妙典(めうでん)といふ船頭を召して、人をはるかにのけて對面あつて、金(こがね)を三千五百兩召し寄せて、
「なんぢは大正直の者であるなれば、五百兩をなんぢに賜(た)ぶ。三千兩を宋朝へわたして、一千兩をば育王山(いわうざん)の僧に引き、二千兩をば帝(みかど)へ參らせて、田代(でんだい)[やぶちゃん注:寺領としての田畑。]を育王山へ申し寄せて、わが後世(ごぜ)とぶらはせよ。」
とぞのたまひける。妙典、是を賜はりて、萬里(ばんり)の波濤(はたう)を凌ぎつつ、大宋國へ渡りける。
育王山の方丈、佛照禪師德光に會ひたてまつり、このよしを申したりければ、隨喜感嘆して、一千兩を僧に引き、二千兩をば帝へ參らせて、小松殿の申されける樣に、具(つぶさ)に奏聞(そうもん)せられたりければ、帝、大きに感じおぼしめして、五百町の田代を育王山へぞよせられける。されば、
「日本の大臣(だいじん)平朝臣重盛公の後生善處」
と、今にあるとぞうけたまはる。
*
「寳達の文字も良々(やや)似たり」活字で見ると、凡そ似ているように見えぬが、草書の崩し字の「育」は、「寳」の簡体である「宝」のそれと、また「王」の方は、「達」の最も簡略した崩し字にかなり似ている。リンク先は「人文学オープンデータ共同利用センター」の「日本古典籍くずし字データセット」のそれぞれの字の画像付きの検索結果である。]
石動(いするぎ)の宿より一里半ばかり、寳達の山根によつて井勢村と云ふ一在所あり。昔は國主の命を請けずと云ひ傳へしも、今は礪波領の支配の内なり。
[やぶちゃん注:「井勢村」不詳。条件からみると、現在の高岡市福岡町の山間部と思われるのだが、いっかな、古地図を探しても「井勢」の名は見つからない。識者の御教授を乞う。]
されども此一在所へ、他村の人を聟嫁(むこよめ)にも奉公人にも迎ふることなし。表向は公命に隨ふと云へども、内は別に「村の主人」と云ふ者ありて、其命を守ること神佛の如し。此主(あるじ)に尋ねて、後に公命にも隨ふなり。其主人と云ふ者別に立つにあらず。村中を年每に廻(まは)し預る。長持(ながもち)一棹あり。是を預る者「村の衆の頭(かしら)」にて、主人の如し。其長持の内何たることを知らず。封の上に封を付けて、大(おほい)さ一抱へに及ぶ。幾百年以前よりにやあらん。斯くの如きの例(ためし)と定めり。
[やぶちゃん注:「公命に隨ふ」庄屋・肝煎・村役人などは無論、定めるが。
「長持」ウィキの「長持」より引く。『主に近世の日本で用いられた民具の一つで、衣類や寝具の収納に使用された長方形の木箱』。『箱の下に車輪を付けて移動の便をはかったものを、車長持という』。『室町時代以前には収納具として櫃(ひつ)が用いられていたが、時代が進むにつれて調度品や衣類が増え、さらに江戸時代には木綿が普及したことで掻巻や布団など寝具が大型化し、より大型の収納具が必要とされたことで武家で長持が使用され始め、やがて庶民の間にも普及するようになった』。『一般的なそれは長さが八尺五寸(約一メートル七十四センチ)前後で、幅と高さは二尺五寸(約七十五センチ)が標準であった。『錠を備えたかぶせ蓋がある。上等の品は漆塗り、家紋入りのものもある』。『長端部には棹(さお)を通すための金具があり、運搬時はここに太い棹(長持棹)を通して』二『人で担ぎ、持ち運ぶ』。『移動しやすいように底部に車輪を組み込んだ車長持が普及したこともあったが』、明暦三(一六五七)年に『江戸で発生した明暦の大火で、家々から外へ運び出した車長持が路上にあふれ、人々の避難を妨げるという事態が生じたため、江戸・京都・大阪で使用が禁止された』。『一方、地方では引き続き用いられ』、宝暦四(一七五四)年の『仙台では火災のたびに車長持が引き回される状況があった』。『長持は代表的な嫁入り道具の一つでもあり、嫁入りに際して長持を運ぶ際の祝い歌は「長持歌」として伝承されたが、明治時代・大正時代以降、長持の役割は箪笥に譲られることとなった』とある。
「封の上に封を付けて」代々の後退した「村の主人」が主人になる度に蓋にある封印の上にさらに封印をして。]
然るに寳曆元年[やぶちゃん注:一七五一年。]の事とにや、始て此里へ他鄕の者入聟(いりむこ)したり。是も例なきことゝて、村に肯(うけが)はざる人々多かりしかども、其年の主人役の者吞込(のみこ)みたる上、人もよきものなり。其頃また公用に色々の新法ども出來(いでき)て、物むづかしきこと度々(たびたび)なりしに、此入聟上公邊(じやうこうへん)の諸事を辨じ、能(よ)く村の難題を遁(まぬが)れしめければ、終に聟入り能く調ひける。是は石動(いするぎ)の花陽庵と云ふ人の甥なりし。
[やぶちゃん注:「人もよきものなり」その入り候補の人柄も評判よい人物であった。
「上公邊の諸事を辨じ、能く村の難題を遁れしめければ」たまたま、お上や御公儀の諸公事に彼が詳しく、それについて仲介に入って、上手く村の抱えていた難題を有利に処理して呉れたので。
「石動」これは現在の富山県小矢部市石動町(いするぎまち)(グーグル・マップ・データ)。
「花陽庵」不詳であるが、寺の庵号というよりも俳号っぽい。麦水の知れる俳人である可能性がある。]
されば事整ひて、此井勢村の家主(やぬし)なりしに、其翌年此家の主人番とて、長持を荷ひ來りて、是に封印せんことを人々勸めけるに、此入聟の人(ひと)能く公邊馴れたる男なれば、一應に領承せずして、令を傳へ村中をよせて申しけるは、
「某(それがし)儀主人番にて長持を預り申すことに及べり。然共(しかれども)物として其主(ある)じなる者中を見ずして預かると云ふ理(ことわり)なし。此中いかなる罪にあたるべき物ならんや知らず。よしやさまでのものならずとも、紙などの物にても虫の入りたらんや、或は風にあて爭ば朽ち行きなん物にやあらんも知らず。預る者某(それがし)なれば、封を切りて開き見んと思へども、各(おのおの)年々(としどし)の封印を致され置かれぬれば、一應案内に及ぶなり。各(おのおの)立寄り申さるゝの上は、只今封を切りて中を改めん」
[やぶちゃん注:「虫」の字体はママ。]
と申渡す。村中の者色を失ひ、
「さればこそ『他鄕の方(かた)は宜(よろし)からず』と申したる是(これ)なり。こは何と成りぬべし。其長持は何百年に成りたるも知れず。『あけることはならぬ』と、往古よりの云ひ渡しなり。是(これ)は氣の毒のこと出來(しゆつたい)して、今の主人番の垣破(かきやぶ)りなる事云ひ出(いだ)したり」
[やぶちゃん注:「氣の毒」私は中高の六年間を富山で過ごした。富山では「大変ですな」「厄介かけます」の意で普通に「気の毒な」と言う。]
とて、皆々恨み泣きて差留めける程に、彼(かの)新來の聟申しけるは、
「各(おのおの)は惡くも聞入(ききいれ)られたる物哉(ものかな)、我等の預りたる物を毀(こぼ)ち捨てん云ふにこそあれ。『此中損じなばいかゞ』と、大事にかくるうへに念を入れて申候(まうしさふらふ)ことなり。其上明けしとて何の咎(とが)かあらん。若(も)し又罰(ばつ)にても當る趣(おもむき)ならば、其(それ)身一つに請けぬべし。よき事を云ふを支(ささ)へ給ふこそ心得ね」
[やぶちゃん注:「惡くも聞入られたる物哉」私の行為を悪しきものとしてお聞きになられたものだ。
「我等の預りたる物を毀(こぼ)ち捨てん云ふにこそあれ。『此中損じなばいかゞ』と、大事にかくるうへに念を入れて申候(まうしさふらふ)ことなり」と句点であるが、ここは読点であるべきところで、「こそ~(已然形)……」の逆接用法であり、「私が預かったものを壊してその中の物を捨てると言うのであれば、その言いも御尤もと言えましょうが、逆に『この中の大事なる物とされるそれが損壊していたなら、大変だ』と、心配に思うておりますれば、それに念を入れて確認致しましょうと申しておるので御座います」の意である。
「支(ささ)へ給ふ」邪魔をなさる。]
といへども、
「其元(そこもと)は外より來り給ふ故(ゆゑ)、譯を知り給はず。其箱は何(なん)にもせよ明(あく)ることならぬに極(きは)まりたり。あら物憂(ものうき)の人を此村の主人番にせしかな。主人番の云付(いひつ)けを聞かぬも、今迄の此村の例(ためし)に背くなり。偖々(さてさて)悲しき世に下(くだ)りし哉(かな)」
と、人々怪しみ留(と)むる。今の聟は
「とかく其理(ことわり)心に落ちず。歎くことは猶更に心元(こころもと)なし。さほど人に隱す物は、所詮見ずにはすまぬことなり。今は郡奉行(こほりぶぎやう)へ申出(まうしい)で、斯樣(かやう)の隱し物の候(さふらふ)段を、金澤へ披露するより外なし」
と申放(まうしはな)つにぞ。
村の者共詮方なく、
「さらば是非なし」
とて日を極(き)め、鹽水(しほみづ)を打ちて淸めをなし、其上にて開きけるに、中には書き物一つもなし。裝束(しやうぞく)の如き物朽果(くちは)て、土の如くなり居たり。太刀(たち)二振(ふたふり)、是又損じて物の用に立たず。琵琶一面・太皷(たいこ)一挺(ちやう)入れ置きたり。
其外何もなし。
傳記も知れず。持主も知れず。主人役と云ふこと、猶々傳來知れず。只『大切の物、御主樣(おんあるじさま)なり』とて、『此品々を預る者を主人と號(よ)べり』と許(ばか)りなり。是(これ)に依りてさしてもなき事なれば、本(もと)の如く納めて封印し、主人番を廻して今に別條なし。往古より知れざる箱の内、緣(えん)ありて寳曆二年の秋初(はじめ)て開き、又納めしよし、珍說を聞けり。
[やぶちゃん注:「傳記も知れず。持主も知れず。主人役と云ふこと、猶々傳來知れず。只『大切の物、御主樣(おんあるじさま)なり』とて、『此品々を預る者を主人と號(よ)べり』と許(ばか)りなり」――中の物についての由来書も附属しない。その元の持ち主も不詳である。「村の主人」役という呼称の謂われも判らぬ。それ以外にもこの長持の由緒・伝来などを補助する資料などもなく、全く以って不明である。ただ『大切な物であり、これが御主(おんあるじ)さまの物なのである』と言い伝えるばかりにして、『この何の価値もないようにしか見えぬ品々を預かる者を「村の主人」と呼ぶのである』と言うばかりの口碑しかない――というのである(但し、次の部分で、納得出来る言い伝えがあることが附記される)。但し、この外から婿入りした人物はやはり人格者であった。この役に立たず、重宝とも思えぬものを元の通りに長持に収めて、封印を総て元通りにして、自身も封印し、今まで通り、御主人番廻りを続けたのである。この村の民俗社会のしきたりを守って続行させたのである。よい人物を村は迎えた。それだけにこの村が特定出来ないのは残念至極である。]
思ふに平氏は伊勢なり。井勢村は平氏の緣あるに似たり。其上育王山に何某(なにがし)の公家(くげ)來り、爰に壽を以て病死す。其衣服・手廻りを主人と崇(あが)めて、守り奉るよしをほのかに云ひ傳へり。若しくは小松殿なるか。
[やぶちゃん注:「平氏は伊勢なり」平氏には桓武天皇から出た桓武平氏、仁明天皇から出た仁明平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、光孝天皇から出た光孝平氏の四流があるが、後世に残ったその殆んどは葛原親王(かずらわらしんのう 延暦五(七八六)年~仁寿三(八五三)年:桓武天皇の第三皇子)の流れの桓武平氏であり、武家平氏として活躍が知られるのはその内の高望王流坂東平氏の流れのみで、常陸平氏や伊勢平氏がこれに当たる。その伊勢平氏は「承平天慶の乱」に功のあった平貞盛の四男平維衡より始まる平氏一族の一つである高望王流坂東平氏の庶流である(ここまでは概ねウィキの「平氏」に拠り、以下はウィキの「伊勢平氏」に拠る)。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛の系統(「六波羅家」或いは「六波羅流」)を狭義に「平家(へいけ)」と呼ぶ場合がある(但し、『「平家」の語は本来』は『桓武平氏でも高棟王流(いわゆる「公家平氏」)を指すのに用いられ(『江談抄』(二))、伊勢平氏の全盛期には同氏が率いる他姓の家人・郎党を含んだ政治的・軍事的集団を指す呼称として用いられるなど、時代によって異なる用法があり、「伊勢平氏=平家」とは必ずしも言えないことに注意』が必要ではある)。十世紀末から十一世紀にかけて、同族の平致頼(むねより)との『軍事抗争に勝ち抜き、軍事貴族としての地位を固める。だが、当初は河内源氏ほどの勢力を築き得ず、白河上皇の院政期前半までは辛うじて五位であり、当時の貴族としては最下層』の侍品(さむらいほん)であった。『伊勢平氏の家系は桓武平氏の嫡流の平国香、平貞盛の血筋であり、他の坂東八平氏に代表される家系と同様に、関東に住した。しかし、次第に清和源氏の有力な一党である河内源氏が鎌倉を中心に勢力を拡大し、在地の平氏一門をも服属させていった中で、伊勢平氏の家系は源氏の家人とならず』、『伊勢国に下向し、源氏と同様、朝廷や権門貴族に仕える軍事貴族としての道を歩んだ』。『その後、伊勢平氏は藤原道長のもとで源頼信らと同様、道長四天王とまでいわれた平維衡』(これひら))『以来、源氏と双璧をなす武門を誇ったが、家系や勢力、官位とも河内源氏の風下に立つ存在であった。しかし、摂関家の家人としてその権勢を後ろ盾に東国に勢力を形成する河内源氏に対して、伊勢平氏は西国の国司を歴任して瀬戸内海や九州を中心とした勢力圏を形成し次第に勢力をかためていった』。『さらに、摂関家の支配が弱まり、天皇親政が復活した後三条天皇以降、源平間の形勢は次第に逆転へと向かい、父と親子二代』で「前九年の役」・「後三年の役」を『平定し、武功と武門の棟梁としての名声、地方武士からの信頼ともに厚かった河内源氏の源義家に対する朝廷の警戒が強まり』、『白河法皇の治世下においては次第に冷遇されていくようになった。ことに勢力を伸張させて以降、河内源氏は仕えていた摂関家に対する奉公も以前のようでなく』、『摂関家と疎遠になりつつあったこともあり、次第に後ろ盾をなくし』、『勢力を減退させていった。一方』、『伊勢平氏の棟梁である平正盛は伊賀国の所領を白河院に献上したこともあり、北面』の『武士に列せられる栄誉を受けるようになり、次第に伊勢平氏が院や朝廷の重用を受けることとなり、伊勢平氏が河内源氏を凌ぐ勢いを持つようになった』。『殊にその流れを決定づけたのは、源義家の次男で河内源氏の後継者と目されていた対馬守の源義親が任地での濫妨により太宰府より朝廷に訴えがあり、流罪となり、その後も流刑地である隠岐国においても濫妨に及んだため、伊勢平氏の平正盛による追討軍により、討たれたことによる。正盛は』、嘉承二(一一〇七)年に『出雲で反朝廷的行動の見られた源義親の追討使として因幡国の国守に任ぜられ、翌年、義親を討伐したという触れ込みで、義親の首級と称するものを都へ持ち帰った』。『その子、正盛の子平忠盛も鳥羽上皇の時に内昇殿を許され、殿上人となり、刑部卿にまで累進するなどの寵愛を受け、伊勢平氏は公卿に準ずる地位にまで家格を上昇させるに至った。正盛は備前・伊勢などの国守を歴任し、忠盛は播磨・伊勢の国守となる。これが後の伊勢平氏の豊かな財政の基礎となった』。『平忠盛の死後、平清盛が継ぎ』、「保元の乱」・「平治の乱」を制して従一位太政大臣にまで昇進、平家一門の栄華を築き上げたことは御承知の通りである。
「小松殿」平重盛(保延四(一一三八)年~治承三(一一七九)年)のこと。六波羅小松第に居を構えていたことによる。史実上は病死(胃潰瘍・背部に発症した悪性腫瘍・脚気衝心などの説がある)で享年四十二であった。]