柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 嵐雪 三 / 嵐雪~了
三
蕪村は『鬼貫句選』の跋において「五子の風韻をしらざるものにはともに俳諧をかたるべからず」といって、其角、嵐雪、去来、素堂、鬼貫を挙げ、また『春泥発句集』の序においても、「其角を尋ね嵐雪を訪ひ、素堂を倡(いざな)ひ、鬼貫に伴ふ」といい、これを四老と称している。この五子乃至四老なるものは、蕪村の脳裏を常に離れざる先覚であって、その作物(さくぶつ)に何らかの影響を与えた人々である。今蕪村集中についてその影響の跡を尋ねることは、自ら蕪村研究の範囲に堕する虞があるけれども、多士済々たる蕉門作家のうちから、常に其嵐二子を推しているの一事は、蕪村及天明俳句の傾向を案ずる上において、看過すべからざるものと思われる。
[やぶちゃん注:「鬼貫句選」は炭太祇(たん たいぎ 宝永六(一七〇九)年~明和八(一七七一)年)編で明和六(一七六九)年刊。上下巻からなり、上巻は上島鬼貫(うえじまおにつら 万治四(一六六一)年~元文三(一七三八)年)の全発句から三百五十七句を校訂精選した句集で、下巻は彼が家に居ながらにして空想して書いた十三日間の東海道を大坂から江戸に下る創作の旅日記「禁足旅記(きんそくのたびのき)」から成る。後者は貞享三(一六八六)年から翌年にかけての東海道往復の経験に基づくものであって公刊は元禄三(一六九〇)年であるが、これは実は芭蕉が「奥の細道」(内容は元禄二年三月二十七日(グレゴリオ暦一六八九年五月十六日)出立、大垣着は元禄二年九月六日(一六八九年十月十八日))の旅をしたという情報を聴いた鬼貫が急遽発案し、出版を急がせたといういわく付きの仮想紀行文である。芭蕉の「奥の細道」自体は推敲を重ねたため、「禁足旅記」の十二年後の元禄一五(一七〇二)年に刊行されている。与謝蕪村(享保元(一七一六)年~天明三(一七八四)年)のその跋文のクレジットは明和六年『春正月』である。
「春泥発句集」蕪村の弟子である春泥舎召波(享保一二(一七二七)~明和八(一七七二)年)の遺稿を七回忌に子の黒柳維駒(これこま)が編したもの(但し、実質的には蕪村による撰とも言われる)。蕪村の序は安永六(一七七七)年十二月七日のクレジットで召波の祥月命日である。この文章は蕪村の〈離俗論〉として知られるものである。
「倡(いざな)ひ」「倡」(音「ショウ」。訓「となえる・わざおぎ」)には「詩歌を唱(うた)って聞かせる」・「明らかな声を長く引いて歌い起こす」・「闡明をして先駆けをなす」の意があるが、ここは「その詠風を再び呼び起こし」の謂いであろう。]
蕪村及天明諸作家の上に、其角の影響の少くないことは前に一言した。蕪村集中の自然は必ずしも其角集中の自然と同じではない。けれども両者の句の世界には、どこか相通ずるものを持っている。蕪村が其角に私淑するとか、その句を愛するとかいう意識を経たものでなしに、もっと根本的に似たものがあるように思う。其角と嵐雪とはこの意味においてさのみ歩趨(ほすう)を異にする作家ではない。子規居士のいったように「蕉門幾多の弟子中最も其角に似たる者は嵐雪」である。蕪村がいわゆる五子乃至四老の第一に其角を推し、次いで必ず嵐雪を挙げているのは、蕉門の作家中特にこの二者の作風に共鳴するためか、力量に重きを置くためか、いずれかに帰せなければなるまい。
[やぶちゃん注:「歩趨」「歩くことと、小走りに走ること」から転じて「物事の進み具合」「進捗状況」の意。]
山口素堂の如きは、今日から公平に考えて、蕪村の瞠目に値するほどの作家とは思われない。しかるにこれを五子乃至四老の中に算えて、推重(すいちょう)することを怠らなかったのは、主として素堂の漢詩趣味――漢詩漢語を採り来って句中のものとした点に存するのではあるまいか。「とかく句は磊落なるをよしとすべし」という蕪村の立場からいえば、嵐雪は固より其角に遜(ゆず)らなければならぬ。蕪村が其角を挙げ、また嵐雪を挙ぐる所以のものは、素堂に漢詩趣味を採ると同じく、嵐雪の雅馴なる古典趣味――これは其角にも絶無ではないが、ややその傾向を異にする――に重きを置いたためではないかと思う。蕪村が和漢両様の趣味を採って、巧に自家薬籠中のものとしていることは、その集を見る者の直に看取し得べきところであろう。
[やぶちゃん注:「推重」尊(たっと)び重んずること。]
けれども蕪村の嵐雪に対する推重の度は、所詮其角の如きものではなかったろうと思われる。それは五子乃至四老の順序において、常に其角を首位に置くからではない。『新華摘』に句集の事を論じた中にも、
[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が二字下げ。]
発句集は出さずともあれなと覚ゆれ。句集出てのち、すべて日来の声誉を減ずるもの也。玄峰集(げんぽうしゅう)、麦林集(ばくりんしゅう)なども、かんばせなきこゝちせらるれ。況汎々(はんぱん)の輩は論ずべくもあらず。よき句といふものはきはめて得がたきものなり。
とあって、嵐雪の句集たる『玄峰集』にあまり敬意を表しておらず、『五元集』の事を記した間にありながら、これと比較せずにかえって『麦林集』と併記しているからである。『麦林集』の作者たる乙由(おつゆう)は、支麦の徒と称して蕪村の貶斥(へんせき)して已(や)まぬ作家たるにおいてはなお更であろう。蕪村は其角の集についてすら「百千の句のうち、めでたしと聞ゆるは二十句にたらず覚ゆ」といった人である。嵐雪の集中から果して何ほどの採るべきものを認めたろうか。あるいは嵐雪の名声、力量よりして、多くの佳句を期待したものが、『玄峰集』を検(けみ)するに及んでやや失望の結果この歎声を発したのかも知れない。それにしても倫(たぐい)を『五元集』に採らず、『麦林集』に取った点は、多くの敬意を払う所以であるまいという気がするのである。
[やぶちゃん注:以上の引用は「新花摘」の文章篇のごく最初のここの部分(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの大正五(一九一六)年俳書堂刊の「俳諧名著文庫 第四編」の「新花摘」)。
「日来」「ひごろ」。
「かんばせなき」世間に胸を張って披歴するだけの面目がまるでない。
「汎々の輩」「輩」は「やから」。凡庸な連中。
「李青蓮」既出既注。李白の号。
「『麦林集』の作者たる乙由」中川乙由(延宝三(一六七五)年~元文四(一七三九)年)は伊勢の人。別号は麦林舎。材木商から後に御師(おんし:伊勢神宮の下級神職。参拝の案内・祈祷及び宿の手配や提供をし、併せて信仰を広める活動もした。伊勢神宮の者のみを「おんし」と読み、全国的な社寺のそれは「おし」と読む)。俳諧は、初め、支考に学び、後に岩田涼菟(りょうと)に従った。涼菟没後は〈伊勢風〉の中心となったが、その一派は平俗な作風で似通った支考の〈美濃派〉とともに、通俗に堕した句柄として「田舎蕉門」とか「支麦(しばく)の徒」と卑称された。]
嵐雪の句は大体に以て上来引用したようなものであるが、なお補足する意味で少しく『玄峰集』から挙げて置こうと思う。
ぬれ縁や薺こぼるゝ土ながら 嵐雪
[やぶちゃん注:「薺」は「なづな」。]
塩魚の裏ほす日なり衣がへ 同
[やぶちゃん注:「塩魚」は「しほうを」。「衣がへ」四月朔日(ついたち)の行事で夏の季題。]
煮鰹をほして新樹の煙かな 同
白露や角に目を持つ蝸牛 同
[やぶちゃん注:「白露」は「しらつゆ」、「角」は「つの」、「蝸牛」は「かたつむり」で夏の季題。]
夜雨吟
五月雨や硯箱なる唐がらし 嵐雪
さみだれや蚯蚓の徹す鍋のそこ 同
[やぶちゃん注:「蚯蚓」は「みみず」、「徹す」は「とほす」。]
江之嶋
日を拝む海士のふるへや初あらし 同
[やぶちゃん注:「海士」は「あま」。「初あらし」(初嵐)は立秋を過ぎて初めて吹く強い風で、初秋の季題。]
名月や柳の枝を空へ吹く 同
名月や煙這ゆく水のうへ 同
[やぶちゃん注:「煙」は「けむり」であるが、ここは霧を指す。「這ゆく」は「はひゆく」。]
名月や先ヅ蓋取りて蕎麦を齅 同
[やぶちゃん注:「齅」は「かぐ」。]
初菊やほじろの頰の白きほど 同
これらの句に現れたものは、嵐雪一流の繊細な趣である。こういう趣は其角にもないことはない。例えば「角に目をもつ蝸牛」の句は、其角の「枇杷の葉やとれば角なき蝸牛」に比すべきものであろう。ただ似たような傾向において、しずかに両者の句を比較する時、特にその相異点をしみじみと感ずることが出来る。
「日を拝む海士のふるへ」といい、「先ヅ蓋取りて蕎麦を齅」という。こうした繊細な感覚は、けだし嵐雪の擅場(せんじょう)であろう。其角の場合はこの種の句にあっても、なお才気と奇趣とが先に立って来る。嵐雪の句としても、これらは単なる雅馴の語を以て評し去るべきものではあるまい。「蚯蚓の徹す鍋のそこ」に至っては更に奇である。しかもこれを読んで、その趣の奇を感ずるよりも、先ず嵐雪の繊細な神経に感ずるのは、彼の持味であるにもよるが、この種の趣を現すに当って、とかくの奇を弄せぬにもよるのであろう。
「柳の枝を空へ吹く」「煙這ゆく水のうへ」の名月の二句は、ここに挙げた十余句の中で、最も自然の匂の多いものである。一読澄みきった名月の夜の大気に触れるような想(おもい)がある。けれどもこの句の底に横わっているものは、やはり繊細、鋭敏な都会的神経である。自然の裡(うち)に没入するような趣ではない。(この点は蕪村及天明の諸作家と共通するところがあるように思われる)
[やぶちゃん注:「白露や角に目を持つ蝸牛」この句の妙味は「しらつゆやつのにめをもつかたつむり」の確信犯の連音の心地よさが、さわやかにしてしっとりとした実景のクロース・アップを見事に支えている点にある。
「五月雨や硯箱なる唐がらし」「陸奥鵆(むつちどり)」(桃隣編・元禄一〇(一六九七)年跋)では、
五月雨や硯箱なる番椒(たうがらし)
である(「番」は「蕃」が正しい)。唐辛子は湿気や虫除けのため入れてあったものと思われるが、モノクロームの画面にゆっくりとモノトーンの硯箱に近づいて、そこに紅色のそれが浮き上がるそれは、あたかもアンドレイ・タルコフスキイの映像のように美しい。私の好きな一句である。
「さみだれや蚯蚓の徹す鍋のそこ」私の偏愛する一句。「俳諧曾我」(白雪編・元禄十二年自序)の句形。「陸奥鵆」では、
五月雨や蚓(みみず)の潜(くぐ)ル鍋の底
であるが、「徹(とほ)す」となって初めて、本句の怪奇なまでの五月のおぞましい湿気(しっき)を伝えて余すところがない。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」の評釈では『じめじめした台所にみみずが這い出してきて、片隅に置いてある古鍋の底に小さな穴をあけて顔を出している、というのである。梅雨時の薄暗い勝手口の一角の気味の悪いような感じが、よくとらえられている』と鑑賞されているが、果してそうだろうか? 寧ろ、これは一種のべたつくまでの恐るべき湿気の感覚的イメージとして蚯蚓が鍋の底を貫き透すという超現実的(シュールレアリスティク)な変奏とすべきではあるまいか? 少なくとも私は今も昔もそう解釈している。
「名月や柳の枝を空へ吹く」「名月や煙這ゆく水のうへ」孰れも極めて映像的で一読、その景が頭に浮かんで固着する。リアリズムでありながら、そのスローモションの効果が夢幻的で素晴らしい。
「名月や先ヅ蓋取りて蕎麦を齅」サイト「信州の旅.com」の「信州のそば処」に、『東京では「更科ソバ」といえば信州に由来するが、信州では麻績村』(おみむら)『から更埴』(こうしょく)『周辺を指す「更科」という地域ではあまり蕎麦は栽培されていなかった』。『それが江戸時代、信州の名物になっていたソバとこれまた「姥捨物語」の中で当時信州のイメージとして有名だった「更科の名月」とが結びついて「更科そば」という名で全国に知られるようになった』という辺りで、この句を当時の新しいそうした流行りから解釈してよいのではないかと私は思っている。
「初菊やほじろの頰の白きほど」「ほじろ」はスズメ目ホオジロ科ホオジロ属ホオジロ亜種ホオジロ Emberiza cioides ciopsis。成鳥の顔の部分は喉・頰・眉斑が白く目立つ。ここはホオジロが画面の中にいるわけではない。則ち、咲き始めの白菊の、草体に於ける白い部分の配合や割合が、丁度、ホオシロの顔の白い部分と同じほどである、と比較して見立てた句である。]
都会生活者たる嵐雪は、其角などと同じく、芭蕉に随って遠く飄遊(ひょうゆう)するようなことはなかった。けれども其角程度の旅行は試みたらしく、紀行も二、三残っている。
あやめ草加茂のかり橋今幾日 嵐雪
[やぶちゃん注:下五は「いまいくひ」。]
七夕や加茂川わたり牛車 同
経を焼(たく)火の尊さや秋の風 同
嵯峨中の淋しさくゞる薄かな 同
の如きは、『装遊稿(そうゆうこう)』所載のものであるが、『玄峰集』中にも
清涼紫宸のあらたにつくりみがゝれたる
中に
新月や内侍所の棟の草 嵐雪
京にて
ふとん著て寝たる姿や東山 同
など、京洛の所泳が見える。この二句はいずれも嵐雪の特色を見るに足るものであろう。
[やぶちゃん注:「飄遊」生活上の目的もなく、あちこち旅して回ること。
「あやめ草加茂のかり橋今幾日」「かり橋」は「仮橋」。「京都出町・でまち倶楽部」のサイト「出町 観光ガイドにはない京都」の「出町四橋ものがたり」の『今出川口橋』に『現在、出町(桝形通)と出町柳(田中)の間は、出町橋と河合橋の二つの橋で結ばれています』(グーグル・マップ・データのここ)。『しかし、明治以前には、この辺りでは既に加茂川と高野川が合流しており、1つの橋が両岸を結んでいました』。『といっても、江戸時代ここに架かっていた橋は、本格的な橋ではなく、中洲に板を渡して作った仮橋でした(幅は2メートル半ほど)。この橋は、今出川口橋と呼ばれていました』。『仮橋と言うと、正式な通路ではないように思うかもしれませんが、当時の鴨川では、本格的な橋は三条大橋と五条大橋だけで、四条橋も幕末近くまで仮橋でした』。『さらに、北の方では橋そのものが少なく、数少ない橋は重要な交通路となっていました』。『今出川口橋は、若狭街道(いわゆる鯖街道)の終着点に架かっており、洛北の人々がその産物を都に売りに行き、必要な物資や糞尿(肥料)を都から運ぶために使う、大変重要な橋でした』とあり、江戸中期の安永七(一七七八)年の同所の地図(「今出川口橋(出町橋)と葵橋 当時は板を渡した仮橋」というキャプションがある)が載る。この一句は恐らくそこを端午の節句の前に渡って菖蒲の咲きかけたのを見たのであろう。それに「六日の菖蒲(あやめ)」(五月五日の節句の翌日の菖蒲の意から「時機に後れて役に立たない物事の譬え」)を匂わせて、あの時からもう何日経ったかしら、と追懐しているものと思う。
「七夕や加茂川わたり牛車」天界の逢瀬と地上の王朝人のそれを対にした時代詠。
「経を焼(たく)火の尊さや秋の風」元禄一四(一七〇一)年に嵐雪が編した「杜撰(ずさん)集」所収で、
十六日は山々の送り火、如意が岳の大文字、
松が崎の妙法、河原にも麻殼に火をとぼして
魂送りし侍りぬ
經を燒(た)く火の尊(たふ)とさや秋の風
とあるので、上五は「五山送り火」の「妙」の字形の松ヶ崎西山(万灯籠山)、「法」の字形の松ヶ崎東山(大黒天山)などのそれを「魂送り」の「經」に喩えたものであろうと読める。実際の経文を送り火に焼いているという解釈をしておられる方の記事を見かけたが、それはいくら何でも不遜で「尊とさや」とは続かぬ。
「嵯峨中の淋しさくゞる薄かな」「装遊稿」は元禄十三年、嵐雪が江戸から東海道を行き、吉田から舟で伊良湖崎を経て、伊勢に参詣した後、京へ廻って都見物した紀行。堀切氏の前掲書によれば、「嵐雪句集」には『のゝ宮にまいりて』(「まいり」はママ)と前書があるとあるので、京都市右京区嵯峨野々宮町の野宮(ののみや)神社(グーグル・マップ・データ)附近がロケーションである。中七の謂いが如何にも静謐で幽遠である。
「新月や内侍所の棟の草」「新月」は陰暦で月の初めに見える非常に細い月。特に陰暦八月三日の月を指す。夜、早い時間に昇る。「内侍所」(ないしどころ)は温明殿(うんめいでん)の別名。女官の内侍司(ないしのつかさ)が詰めて奉仕したことにより、その南側には宮中三殿の一つである賢所(かしこどころ:「三種の神器」の一つである「八咫(やた)の鏡」が安置されてあった)があった。前書にある内裏中央やや南の紫宸殿からは、東北方向六十メートルほどの位置にあった(但し、旧平安京の内裏図に拠ったので、嵐雪が見た時と同じとは限らない)。光源の殆どない状態で、甍の上に生えている雑草にフレーム・アップしてゆく手法が素敵である。嵐雪は実に優れた映像作家なのである。
「ふとん著て寝たる姿や東山」堀切氏は前掲書で、『おそらく元禄七』(一六九四)『年冬、師翁の死の直後に京へ出た時の見聞による吟であろう』とされる(芭蕉の逝去は元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)で、嵐雪は既に師とはぎくしゃくした関係になっていたが、十月二十二日、江戸で師の訃報を聞くや、その日のうちに一門を参集し、芭蕉追悼句会を開き、桃隣とともに芭蕉が葬られた膳所の義仲寺へ向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、
此下(このした)にかくねむるらん雪佛
であった。また彼は翌元禄八年一月に嵐雪は黄檗済雲に参禅して法体となり、師の喪に服して追悼集「芭蕉一周忌」自序を編している)。言うまでもなく、東山三十六峰の山容を擬人化したもの。]
嵐雪はまた『玄峰集』中に次の如き句をとどめている。
紀の山きの浦、海にいり江に入る。禹益の
水を治て異物をしるせる海外山表のありさ
ま、ルスンカボチヤなどいふ遠津嶋根の人
がらは、画にのみ見たり。目前に南のゑび
すの洞にかくれ、いはほに走るを、鬼にも
せよ人にもせよ、こゝろおかるゝ旅寝也
蛇いちご半弓提て夫婦づれ 嵐雪
この前審は多少雲煙的で、十分に解し得ぬところもあるが、とにかく嵐雪は南洋土蕃(どばん)の姿に似たものを一句のうちに捉えている。「蛇いちご」は季題のために置いたばかりでなく、これを以て一風変った空気に反映せしめようとしたのであろう。其角は例の「新渡の鸚鵡」をはじめ、「あるまんす所持の掛物自画賛」という蘭人のための句まで作っているが、一句の世界としてこの「蛇いちご」の句ほど変ったものは、畢(つい)に見当らぬように思う。嵐雪は果して那辺よりこの想を得来ったか。俳句の題材としては、ひとり『玄峰集』中の珍たるのみならず、長く俳壇に異彩を放つべきものである。
[やぶちゃん注:この句は私が嵐雪の句中、最も偏愛するものであるからして、正字化して示す。嵐雪と朝叟による伊勢・熊野に参詣した折の紀行文「その濱ゆふ」(其濱木綿)に載る。底本として国立国会図書館デジタルコレクションの勝峰晋風編「日本俳書大系 篇外 蕉門俳諧続集」(昭和二(一九二七)年日本俳書大系刊行会刊)の当該部分を使用した。読点は私の判断で増加させた。
*
紀の山・きの浦、海にいり、江に入る。禹(う)、益の水を治(をさめ)て、靈物をしるせる、海外山表のありさま、ルスン・カボチヤなどいふ遠津島根(とほつしまね)の人がらは、𤲿(ゑ)にのみ見たり。目前に南のゑびすの洞(ほら)にかくれ、いはほに走るを、鬼にもせよ、人にもせよ、心おかるゝ旅寢也。
蛇いちご半弓(はんきゆう)提(さげ)て夫婦(めをと)づれ 雪中
*
「雪中」は同書での嵐雪の別号。前書を自分勝手流で訳してみると、
――紀伊の山々、並びに、紀伊の浦々は、海に入り込み、入江に入り込んで、これ、複雑怪奇な自然の相(そう)を見せている。聖王禹(う)が、黄河の溢(あふ)れる水を治めて[やぶちゃん注:「益」を「溢」と採った。]後も、さまざまな霊異な怪しい物どもに就いて記すところのありとある書物には、海の果てから、峨々たる山脈の彼方に至るまでの有様が文字で綴られてはいる。ルソンとかカンボジアなどと称する遠く遙かなる島々に住む人々に関しても、それらは絵にのみ描かれて見るに過ぎない。しかし、この度のこの旅は、眼前に南の野蛮人が真っ暗な洞窟の中に隠れ潜み、突兀たり巌(いわお)の上を恐ろしい速さで走り抜けるのを見るは、それが鬼であるにもせよ、同じ人間であるにもせよ、何んとも心の落ち着かぬ旅寝の日々にてある。――
といった感じか。「靈物をしるせる、海外山表のありさま」とは中国最古の幻想地誌「山海経」や西晋の郭璞(かくはく)によるその「伝」(注釈)や、明の王圻(おうき)撰になる壮大な類書(百科事典)「三才図会」(一六〇七年成立)の奇体な妖獣や異人の図と解説を挙げればこと足りる。ああしたものに慣れ親しんだ私のような者なら、この句は難解でも何でもない。というか、私はこの前書もいらないと感じているぐらいである。
而して一句は、そうした異界の異人の恐るべき夫婦の姿を点描したものに違いない。「蛇いちご」は宵曲の言う通りで、単に季題を入れ込むために持ち込んだ(初夏)だけでなく、異界への装置として満を持して配したものだ。想像力の働かない者は尋常なバラ目バラ科バラ亜科キジムシロ属ヘビイチゴ Potentilla hebiichigo が驚くほどさわに咲いている、それしか咲いていない密林か原野を思えばよい。自在に飛べる者は東宝映画の「マタンゴ」みたような巨大な人形(ひとがた)をしたヘビイチゴなる異物がそこを這い、覆っている景観を想起すればこと足りる……
……そこに、向こうからムンムンとした湿気か陽炎に揺れながら、二つの寄り添った人影が近づいてくる……
……二人とも異形(いぎょう)で裸形(らぎょう)だ――鬼か人か――それは判らぬ……
しかし雌雄、男女で、如何にも夫婦然として、何か訳のわからぬ言葉で発しながら互いに笑っている……
……その二人の手には――如何にも実用的で難なく男女の区別なく即座に放つことのできるコンパクトな、しかも完璧な殺傷力を持つ半弓を、悠然と、ブラ提げている…………
「土蕃」土着の野蛮人。
「新渡の鸚鵡」「其角 二」を参照。
『「あるまんす所持の掛物自画賛」という蘭人のための句まで作っている』昭和三(一九二八)年刊の「名著全集 俳文俳句集 」所収の「五元集拾遺」の「春之部」に発見した。
あるまんす所持の掛物自畫讃
風なりに靑い雨ふる柳かな
「靑い」はママ。しかし、「あるまんす」はオランダ人らしいが不詳で、何の絵なのかも不詳、されば句意も不詳とお手上げである。識者の御教授を乞う。]
鶴が岡の放生会(ほうじょうえ)拝ミにと
て待宵(まつよい)の月かけて雪の下のや
どりに侍り。試楽(しがく)の笛に夜すが
らうかれぬ。明れば朝霧の木の間たえだえ
に楽人鳥のごとくつらなり社僧雲に似て、
たなびき出る神のみゆきの厳重なるに、階
下塵しづまり松の嵐も声をとゞめぬ。
烏帽子著て白きもの皆小田の雁 嵐雪
この句については子規居士の説がある。烏帽子白衣の人を雁に譬えたので、その点からいえば、むしろ鷺の方がいいわけだけれども、鷺では季にならぬから、雁を持出してその列を為すところまで利かしたのである、鳥に譬えたのは放生会ということを現そうとしたものだ、といのである。この種の句はとても前書なしに解することは出来ない。子規居士もこれを評して「十七字にはとても包含すべからざるほどの事を前言に現し、しかして後その全体の趣味(もしくは一部の事物)を季に配合して文学的ならしめんとする者」だといっている。前の「蛇いちご」の句にしても、異常な題材の人を驚かすに足るものはあるが、嵐雪の描こうとしたところを伝えるためには、所詮長い前書の力を借りなければなるまい。「小田の雁」に至ってはそれよりも更に甚しいものがある。これらの句は前書なしには通用しがたいから、一句としては不完全の譏(そしり)を免(まぬか)れないかも知れぬ。但長々しい前書を用いて、これらの材料を一句に収めようとしたところに、嵐雪の文学的野心がある。また複雑極まるこの種の内容を取扱うに当って、十七字に盛るべからざるものを前書中に繰入れ、飽くまでも俳句の範囲における表現を企てたところに、嵐雪の手際(てぎわ)はあるのである。こういう傾向が其角に多いことは、固より怪しむに足らぬであろう。比較的穏健雅正に見える嵐雪にして、時にこの手段に出ずるのを異としなければならぬ。嵐雪は慥(たしか)に其角と同じく「危所に遊ぶ」名人の一人であった。
[やぶちゃん注:以上の正岡子規の見解は、前に出た「獺祭書屋俳話」(明治二五(一八九二)年新聞『日本』初出(連載)・翌明治二十六年五月日本新聞社刊)の出版後に、不満な点や認識訂正などを記した明治二八(一八九五)年十二月の「獺祭書屋俳話正誤」として発表したものの嵐雪の論についての修正記事の中にある。国立国会図書館デジタルコレクションの完本「獺祭書屋俳話」(明三五(一九〇二)年十一月弘文館刊)より当該ページを視認して引く。
*
この外前書長き句は譬喩的の者多し。これ已むを得ざるに出づるなり。前書長き者は複雜なる事物卽ち十七字には迚も包含すべからざる程の事を前書に現し而して後其全體の趣味(若しくは一部の事物)を季に配合して、文學的ならしめんとする者なれば、此場合に於て季の景物(又は色彩を施すべき配合物)を譬喩に使はねばならぬやうになるなり。
烏帽子着て白き者皆小田の雁
と云ふ句ばかりを見ても何の事とも解せぬなり。其前書を見れば
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]
鶴が丘の放生會拜みにとて待宵の月かけて雪の下のやどりに侍り試樂の笛に夜すがらうかれぬ明れば朝露の木の間たえだえに樂人鳥の如くつらなり社僧雲に似てたなびき出る神のみゆきの嚴重なるに階下塵しづまり松の嵐も聲をとゞめぬ。
とあり。卽ち知る烏帽子云々の句は、鶴ヶ丘放生會の景况を叙したる者にして小田の雁とは烏帽子着たる人のつらなりたるさまを斯く喩へたるなり。烏帽子白衣の人の形狀は小田の雁と餘り似たる處も無きを斯く言ひたるは何故ぞと言ふに、第一、放生會と云ふことを現すに烏帽子の人ばかりにては固より不十分なる故せめては譬喩になりとも鳥を出さんとて雁を持ち出したるなり。第二、鳥を出すには寧ろ鷺の方善かるべきなれど、雁といはねば秋季にならぬ故雁と置きて、其刊[やぶちゃん注:「列」の誤植であろう。]を爲したる處を譬喩の眼目としたるなり。斯る些細なることは文學上に左迄の價値無けれども此句にても嵐雪の用意周到なる處卽ち其言ひこれし[やぶちゃん注:「こなし」の誤植であろう。]の上手なる處をあらはすに至れり[やぶちゃん注:句点なしはママ。]
*
因みに、私はこの句、前書を一読しただけで、直ちにその句の描いた映像を即座に脳内に再現出来た。そうしてそれは恐らく他の誰よりも早かったものと自負するのである。何故なら、私はこの句の描こうとしたものが既に絵として完全に既知のものであったからなのである。これである。
右上にあるキャプションは、
建久三年八月十五日供養
の放生會終て同舞樂を
修せる迦陵頻並胡蝶の
一樂なり舞童是を修せり
である。以上の絵は私の電子化注した上田孟縉(もうしん)著になる鎌倉地誌「鎌倉攬勝考卷之二」の鎌倉鶴岡八幡宮についての「鶴岡總說」に載る毎年四月十五日行われた放生会についての挿絵なのである。]
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