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2020/05/31

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 國定忠冶の墓

 

   國定忠冶の墓

 

わがこの村に來りし時

上州の蠶すでに終りて

農家みな冬の閾(しきみ)を閉したり。

太陽は埃に暗く

悽而(せいじ)たる竹籔の影

人生の貧しき慘苦を感ずるなり。

見よ 此處に無用の石

路傍の笹の風に吹かれて

無賴(ぶらい)の眠りたる墓は立てり。

 

ああ我れ故鄕に低徊して

此所に思へることは寂しきかな。

久遠に輪廻を斷絕するも

ああかの荒寥たる平野の中

日月我れを投げうつて去り

意志するものを亡び盡せり。

いかんぞ殘生を新たにするも

冬の肅條たる墓石の下に

汝はその認識をも無用とせむ。

          ――上州國定村にて――

 

【詩篇小解】 國定忠冶の墓  昭和五年の冬、 父の病を看護して故鄕にあり。 人事みな落魄して、心烈しき飢餓に耐えず。 ひそかに家を脫して自轉車に乘り、 烈風の砂礫を突いて國定村に至る。 忠治の墓は、 荒寥たる寒村の路傍にあり。一塊の土塚、 暗き竹籔の影にふるえて、 冬の日の天日暗く、 無賴の悲しき生涯を忍ぶに耐えたり。 我れ此所を低徊して、 始めて更らに上州の肅殺たる自然を知れり。 路傍に倨して詩を作る。

 

[やぶちゃん注:「國定忠冶」(文化七(一八一〇)年~嘉永三(一八五一)年)は江戸後期の侠客。本名は長岡忠次郎。父は上野(こうずけ)国(群馬県)佐位(さい)郡国定村の中農与五左衛門。十七歳の時、人を殺(あや)め、大前田英五郎の許に身を寄せて博徒の親分として売り出した。博奕(ばくち)を業とし、縄張りのためには武闘を辞せず、子分を集めては私闘を繰り返した。天保五(一八三四)年、敵対する島村伊三郎を謀殺したことから、関東取締出役(所謂「八州廻り」。文化二(一八〇五)年に設置された幕府の役職。関東地方の無宿者・博徒などの横行を取締って治安維持強化を図り、幕領・私領の別無く村を回って警察権を行使する強大な権利が与えられていた。代官の手代・手付から八名(後に十人)を選任した)に追われる身となり、以降、一貫して長脇差、鉄砲などで武装し、赤城山を根城としてお上と戦い、「関東通り者」の典型となった。逃亡・潜伏を繰り返すうち、同七年、信州の弟分の茅場長兵衛(兆平とも)を殺した信州やくざの原七(波羅七)を討つため、大戸(群馬県)の関所を破ったり、同十三年には博奕場を急襲した八州廻りの手先で二足の草鞋を履いた三室勘助を子分の板割浅太郎(忠治の甥)を使って殺すなど、幕府の御膝元関八州の治安を脅かす不遜な存在となった。その間の逃亡や潜伏を支えたのは、一家の子分の力もあるが、忠治を匿った地域民衆の支持もあった。伝承によれば、同七年の「天保の大飢饉」の際には私財を投じて窮民に施したり、上州田部井村の名主西野目宇右衛門(にしのめうえもん)と協力して、博奕のアガリで農業用水の磯沼を浚(さら)ったりした。忠治の存在は幕府にとって沽券に係わるものとなっていた。嘉永三(一八五〇)年夏、潜伏先の国定村で中気となり、隣村(田部井村)の宇右衛門宅で療養中、捕らえられ、江戸に送られて勘定奉行の取調べられたが、罪状が余りに多過ぎるため、最も重い「関所破り」を適用されて磔(はりつけ)と決まった(宇右衛門も彼を匿った罪で打首となった)。磔に当たっては、刑場大戸まで威風堂々、道中行列を演技し、十四度まで槍を受けて衆目を驚かせた。忠治の対極にいた代官羽倉簡堂は「劇盗忠二小伝」(「赤城録」)を著し、『凡盜にあらずして劇盜』と評した。死後の忠治は、時代が閉塞状況となる度、国家権力と戦う〈民衆のヒーロー〉として映画や芝居などを通して甦った。墓は金城山養寿寺(群馬県伊勢崎市国定町)と善応寺(伊勢崎市)にある(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。萩原朔太郎が行ったのは前者で、ここ(グーグル・マップ・データ。同サイド・パネルの墓の画像はこちら)。サイト『「風雲児たち」に登場する人物の事典(第一期)』の「国定忠治」によれば、『萩原朔太郎は、 昭和』五『年冬に実家から』二十キロメートルも『離れた国定村まで』、『自転車で墓参りに行』き、本詩を詠んだと記す。これは正しいが、但し、初出の吟詠のクレジットは以下に見る通り、昭和八(一九三三)年一月である。

「蠶」「かひこ」と訓じでおく。

「閾(しきみ)」内外の境として門や戸口などの下に敷く横木。現在の敷居に当たる。戸閾 (とじきみ) 。

「悽而(せいじ)」陶淵明の「閑情賦」の中に用例があるが、それは「色慘悽而矜顏」(色は慘悽として顏を矜(きよう)す)であって、「顔の色は如何にも痛ましい感じで、泣いてさえいる」で、このような熟語は普通に使用されることはない。萩原朔太郎の勝手な造語の一つと考えてよい。以下の初出の「悽爾(せいじ)」も同様である。

「肅條」「しゆくでう(しゅくじょう)」であるが、意味不明。「蕭條」(せうでう(しょうじょう):ひっそりともの寂しいさま)の、やはり朔太郎お得意の例の思い込み誤用である。

 昭和五四(一九七九)年講談社文庫刊の那珂太郎編著「名詩鑑賞 萩原朔太郎」では本篇について、『自らのさだめを見さだめる』と題して以下のように述べておられる。底本の傍点「ヽ」を太字に代えた。

   《引用開始》

 ここには、「品川沖観艦式」におけるような、外的客体物への主観の投入、その融一化というより、もっと冷静に、主観と客観とは分離しているようです。いうまでもなく第一連では、寒々とした竹藪の影の「無頼の眠りたる」忠治の墓が描かれ、第二連では、ついに自らが墓石と化する日を、まざまざと見て、おのれの感懐(かんかい)をのべるのです。忠治の墓は、「路傍の笹の風に吹かれ」て、ひえびえと彼の眼前にあります。それは、現実の、歴史的時間の中に、非情にも「亡び尽」される一切の実存の姿にほかなりません。ここにおいて、彼は、巨大な、という形容さえこと足りぬ、外部現実の中に置かれた、実存の、のがれ得ぬ絶対的条件に直面し、自らのさだめを見さだめます。

  いかんぞ残生を新たにするも

  冬の蕭条(せうでう)たる墓石の下に

  汝はその認識をも無用とせむ。

 第一連の描写的記述の中に、「人生の貧しき惨苦を感ずるなり。」の感懐表白の一行が置かれたのと対比的に、この第二連の感懐表白体の中に挟まれた、「冬の蕭条たる墓石の下に」という一行のイメェジは、きわめて効果的で、「かの荒寥たる平野の中」の行とともに、けっして感覚的に多彩でもこまやかでもありませんが、その大づかみな抱え方において、よく前後の重い観念的詩句と均衡(きんこう)を保っています。そして、「日月我れを投げうつて去り」の一句が、陶淵明(とうえんめい)の「日月擲ㇾ人去」(「雑詩」其二)に基づくかどうかはともあれ、つづけて「意志するものを亡び尽せり。」と読むとき、それは詩句としての異常な緊張力のゆえに、読者を感動させるのを知ると同時に、やはりそこに、これまで見てきた萩原朔太郎という詩人の久しい間の詩業と、その精神の歴史がまざまざと甦(よみがえ)り、ほとんど劇的といっていい感動となって迫ってくるのを、おぼえずにはおれません。

   *

この絶賛は過褒ではない。

 初出は昭和八(一九三三)年六月発行の『生理』「Ⅰ」である。

   *

 

   國定忠冶の墓

 

わがこの村に來りし時

上州の蠶すでに終りて

農家みな冬の閾(しきみ)を閉したり。

太陽は埃に暗く

悽爾(せいじ)たる竹籔の影

人生の貧しき慘苦を感ずるなり。

見よ 此處に無用の石

路傍の笹の風に吹かれて

無賴の眠りたる墓は立てり。

 

ああ我れ故鄕に低徊して

此所に思へることは寂しいかな。

久遠(くゑん)に輪廻を斷絕するも

ああかの荒寥たる平野の中

日月我れを投げうつて去り

意志するものを亡び盡せり。

いかんぞ殘生を新たにするも

冬の肅條たる墓石の下に

汝はその認識をも無用とせん。

   ――上州國定村にて、一九三三年一月――

 

   *]

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