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« 柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 嵐雪 三 / 嵐雪~了 | トップページ | 三州奇談續編卷之二 藤塚の獺祭 »

2020/05/07

三州奇談續編卷之一 獅山の舊譚 / 三州奇談續編卷之一~了

 

    獅山の舊譚

 西住上人の終焉の地を尋ね、墳を探すに、此江沼の郡も其證顯然たり。猶聞けば、越前かへる山の麓、或は路の北邊り、紀州の高野にも聞えしよし、知れる人語れり。然れども北國の終焉ぞ正しかるべき。圓位上人の白骨を袂にして、所々に塚を置(おか)れんには、何國(いづこ)か慥かならざるならん。佛家・修行者流(りう)の人は、多く死ぬものにこそ。强ひて尋ぬとも益なし。

[やぶちゃん注:表題は「獅山(ししやま)の舊譚(きうたん)」と読んでおく。「獅子塚について記された古い話」の意。冒頭は前項の「西住の古碑」のダイレクトな続きとなっているものの、西住古跡の探索は期待に反して僅かに以上で終わってしまっているのに、麦水は西住終焉(出身地でもある)の地を前項の通り、越中三谷に間違いなしと断定し、その根拠を全く示していないのは失望の極みであり、見に行った加賀の西住の古跡についても、何ら、具体的な場所・様態・現状も殆んど記しておらず、全くの期待外れである。実は行って見たものの、それらしい塚跡もなく、目ぼしい伝承も聴き出し得なかったからなのかも知れない。

「越前かへる山の麓、或は路の北邊り」小学館「日本国語大辞典」には『福井県中部の南越前町南今庄(旧帰村)にある丘。蛙山。海路山。歌枕』とあり、恐らくは同地区にある鹿蒜(かひる)神社(グーグル・マップ・データ)の後背地或いは社地の前の道の北ということであろう。調べてみると、同神社の社名は「かえる」「かいる」とも呼ばれているらしい。旧村名からも納得がゆく。こばやしてつ氏のサイト「すさまじきもの~「歌枕」ゆかりの地★探訪~」の「帰る山(福井県南越前町)」が、多くの諸家の和歌や同神社の写真及び縁起を載せておられるので参照されたい。但し、ここに西住の塚があるという情報はネット上では見当たらない。

「紀州の高野」「西住の古碑」で示した「山家集」の西行の歌を見るに、西行が亡くなったのは高野ではなく、西行が二人の思い出も詰まった修行の地である高野へと西澄の遺骨を運んで、そこに塚を作ったかも知れぬ(高野にも西住塚は見当たらない)というのがまともな理解であろう。「撰集抄」(西行作とされるが、完全な仮託であり、成立は鎌倉後期であろう。但し、江戸時代までは西行の真作と信じられていた)の「巻六 第五 西住上人發心之事」にも(一九七〇年岩波文庫刊西尾光一校注を使用した)、

   *

 扨も又、西住上人、なやみの事侍りと聞えしかば、今は限りの對面(たいめ)もあらまほしく覺えて、高野の奧より都にまかり出でて、聖(ひじり)の庵(いほり)にたづねゆきてみ侍れば、事のほかおとろへて、はかばかしく物も言ひやらぬが、我をうち見て、

「うれしく」

とて、淚ぐみしことのあはれに覺え侍りて、そぞろに淚をおとし侍りき。

「閑居のつれづれをば、われこそなぐさめ申(まうす)に、そこの一人殘り給ひて、いかに多く歎かん」

とて、袖をしぼり侍れば、たゞあはれさ身にあまりて、その夜(よ)はとまりて、よろづひまなく、後のわざなんど聞こえしかば、

『さりとも、やがて事はきれじ』

とこそ、思ひ侍りしに、そのあかつき、西にむかひて、念佛して、終りをとり侍りき。

「今の別れざま、まことに悲しく侍れども、一佛淨土の會(くわい)はさりとも」

と、心をやり侍りて、淚をおさへて、最後の山送りして、泣く泣くけぶりとなし、骨をばひろひとりて、

「高野に」

と心ざし侍りき。

   *

と記されてある。

「佛家修行者流(りう)の人は、多く死ぬものにこそ」「りう」の読みは「近世奇談全集」に拠った。『「仏教徒」・「仏教僧」或いは「修験道の修験者」などの宗教の流派の者たち』の意で採った。恐らくここを書いた時の麦水は、芭蕉の「奥の細道」の冒頭を意識して――仏教僧や修験道の修行者という「流」浪の旅を住み家とする者たちは、同時に多く旅に死を迎えることが当たり前なのであり、逆説的に言えば、それが彼らの〈死の常住〉でこそあったのだ――というようなことを本来は意図して謂っているように私は採った。]

 序でに

「獅子の塚あり」

と聞きて、分魚の隱士を尋(たづ)ぬ。此地や海道を去ること半道許り、片山津の湖(うみ)を一望して、松間寂なる傍に松山の古城あり。鵜川の水右に流れて、漁獵四時に樂しみあり。此水は「平家物語」に「鵜川(うがは)合戰」と出(いだ)せり。石を切出(きりいだ)して「鵜川石」と云ふ。今動橋川(いぶりばしがは)と云ふ是なり。

[やぶちゃん注:「獅子の塚」不詳。現在は確認出来ない。本文で後述はされる。

「分魚の隱士」「分魚」不詳。隠遁者の号にしては、生臭い。隠居している人物の俳号か。

「片山津の湖」片山津は柴山潟の南西岸にある(グーグル・マップ・データ)。

「半道」一里の半分。約二キロ弱。

「松間寂なる」「松間(まつのあひだ)寂なる」では如何にもおかしい。「松閑寂なる」の誤植ではなかろうか。

「松山の古城」松山城跡(グーグル・マップ・データ)。ここのところ、よくお世話になっているPEI氏の個人サイト「城郭放浪記」の「加賀・松山城」に、『築城年代は定かではない。当初一向一揆が籠ったいわれ、永禄10(1567)加越和睦によって廃城となったという』。『天正4(1576)佐久間盛政の将徳山則秀が一向一揆攻略の際に松山城に籠り、一向一揆平定後に松任城へ移った』とある。

「鵜川」不詳であるが、後に出る「平家物語」を見ると、川の名前ではなく、涌泉寺という寺の別称である。但し、場所が明後日の方角で、遥か東北十五キロメートルも離れた小松市遊泉寺町(グーグル・マップ・データ。ポイントに現在も「涌泉寺」という同名の浄土真宗の寺はあるが、「加能郷土辞彙」の「涌泉寺」の記載を見るに、一度断絶しているようである)、以下の『「平家物語」に「鵜川合戰」と出(いだ)せり。石を切出(きりいだ)して「鵜川石」と云ふ。今動橋川(いぶりばしがは)と云ふ是なり』という部分は「動橋川」の川名を除いて総て無効となる。因みに「鵜川合戰」は、「平家物語」巻第一に載り、「鹿ケ谷の謀議」の一人であった西光の、子息近藤師高・師経兄弟の悪行のサイド・ストーリーであるが、源平合戦の火つけ役とも言える事件となる。安元元(一一七五)年十二月に加賀守に任命された師高は、諸社寺・権門の荘園を横領収奪するなどの非法非礼を繰り返し、翌年の夏に弟の師経を加賀の目代に任命するや、師経はこの白山本宮の末寺であった鵜川寺(涌泉寺)の僧たちに騒動を仕掛け、戦いの末、坊舎を悉く焼き払ってしまう。怒った寺側は団結して二千人余名で師経の館に反撃を掛けたが、師経は逸早く都に逃げ去っていた。このため、僧兵らは比叡山に神輿を振り上げることとなるのである。「鵜川石」は角礫凝灰岩と呼ぶ石で、火山灰が固まったもので、鵜川を下して小松城の石垣に用いられた。砕石跡は現在も残る(グーグル・マップ・データ)。

「動橋川」既出既注であるが、再掲する。片山津の東、柴山潟にそそぐここ(グーグル・マップ・データ)。因みに、この名前は同じ加賀の小松と大聖寺の間に設けられた北国街道の旧宿場町の名前としてよく知られるが、この川名は下流に近いこの宿場に基づくものであろう。]

 地仙境に似て、あるじ又仙に似たり。椎・栗其外の果實庭に滿ちて、全く貧を覺えず。爰に至りて獅子塚を問ふ。あるじ一遍[やぶちゃん注:ママ。]の野文(のぶみ)を出して、

「此邊の狂士、我が家の百回忌をなせし日、賀して書く。詞いやしといへども、其物語に換(か)ふ」

とて示さる。依りて紀譚の儘に留む。

[やぶちゃん注:「野文」とは、江戸時代、布施料の払えない貧しい者の葬式のために、僧が直接出向いて引導を渡す代わりに交付した文書のことを謂うが、ここは僧ではない、相応の学識のある在野の風流人が百回忌法要に際して認めた文書のこととなっている。]

『獅子山の主(ある)じ此居にありて、祖の百回忌を催さる。法會終るを賀して爰に日を移す。此境内に三つ四つの假山(かざん)[やぶちゃん注:「築山(つきやま)」に同じい。]あり。獅子山は其一つなり。因みにあるじの話を聞くに、此獅子山の謂れは、いつの頃にや、此邊りに廢宮(はいぐう)あり。【今二社を一社にして祭る。門前にあり。白山と八幡なり。】此壇に一つの獅子あり。此獅子妙の精か、木石の神か、威靈あること儘多し。殊に汚穢(をゑ)を忌みて曰く、

「田夫の荷ひ去る不淨の類(たぐひ)を、或は繩を斷ちて地に落し、或は人を跌(つまづ)かせて其前を過(すぎ)させず。」

 甚だ農路の妨げとなる。

 一農夫壯氣(さうき)の者あり。

「必ず此獅子の所爲(しわざ)なるべし」

と、鈍勇をふるひ抱きおろし、地を掘りて埋(うづ)む。故に此號あり。

「其來由を知れりや」

と聞えし。

「予元來學ぶに疎く、聞くに狹し。只野書(やしよ)の軍(いくさ)物語のみを好めり。故に其頃を指すこと能はずといへども、一夜目覺むること多く、庭際(にはきは)の凉月に嘯(うそぶ)き、つらつら思ふに、北邊(ほくへん)の事は殊に聞くこと少し。大彥命(おほひこのみこと)北陸を征せしは、其の事知るべからず。其後(そのの)ち行基・泰澄の大德(だいとこ)能く山々を探し、花山法皇能く谷々に芳蹟(はうせき)をとゞめ給ふ。此等の中にてもあるべからず。長谷部信連(のぶつら)此あたりに領ありて溫泉を求め、鷹を放ちて逍遙あり。此頃としもはかられず。また「平家物語」に云ふ。加州鵜川合戰、僧徒頽敗(たいはい)し、白山(しらやま)・劔(つるぎ)の社人、所々に起りたるなど聞えたれど、猶此時とも思はれず。名護屋太郞時兼、津葉(つば)・千足(せんぞく)に寄りし頃、桃井(もものゐ)播州・鹿草(かくさ)羽州が江沼・能美(のみ)を擾亂(じやうらん)せし類(たぐひ)、其後富樫氏の興廢に懸り、朝倉氏の盛衰に依る。若しくは此等の間か、おぼろげなり。爰に於て蓬山兼上人、此地に敎化(きやうげ)大(おほい)に行はれて、諸宗皆一向專念に改門して、諸神社靈威ある事なし。思ふにかゝる折のことなるべし。其後丹羽長秀が政(まつりごと)を行ひしより二代の長重、村上・山口等の事跡に及べば、近うして其事聞えずんばあらじ。思ひつゞくる程、文明の頃のことなるべし。考ふること心當(こころあたり)あらずと云へども、此宗(むね)の長く久しきを述べんとて、拙(つたな)きを忘れて爰に記す」

とあり。

 先(まづ)爰にても止むべきか。

[やぶちゃん注:「今二社を一社にして祭る。門前にあり。白山と八幡なり」ロケーションの近く(下方が松山城跡)では凡そ一キロ強の圏内の、この北部分(グーグル・マップ・データ)に「白山(はくさん)神社」と「八幡神社」が別々にある。但し、東西に八百メートルほどしか離れていない。但し、ここだというわけではない。

「妙の精」天然自然の霊妙なる気の精霊(すだま)。

「木石の神」古い霊木や霊石の神に変じたもの。

「鈍勇」蛮勇、馬鹿力(ばかぢから)の意か。

『「其來由を知れりや」と聞えし』私は――この「野文(のぶみ)」を書いている人物に、嘗て誰かが「そもそもその獅子塚と呼ぶところの獅子とは何であるか、その由来を御存じか?」と訊ねられたことがあった。――という意で採った。

「野書」興味本位で書かれた事実かどうか判らぬ内容の雑書といった謂いであろう。

「故に其頃を指すこと能はずといへども」であるからして(軍記物をよく読んでいるという事実)、それが何時頃の出来事であったと、確かに指し示すことは出来ないけれども。

「一夜目覺むること多く」無学ながらも、かく歴史に係わることは気になって仕方がなく、「獅子」とは何であったのか? と自ずと疑問に思うて、眠っていても、それが気になって、思わず目が醒めてしまうことも多く。

「庭際(にはきは)の凉月に嘯(うそぶ)き」そんな時は無理にまた眠ろうとはせずに、庭先に降り立っては涼しい月影の中、詩歌を口ずさんでみたりしつつ。

「つらつら思ふに、北邊(ほくへん)の事は殊に聞くこと少し」いろいろと、ない頭を絞っては考えてみるのであったが、だいたいからして、この都から遠く離れた北の端の出来事については、これ、判っていること自体、その絶対量が頗る少ないものなのである。

「大彥命」記紀等に伝わる古代日本の皇族の名。「日本書紀」では「大彦命」、「古事記」では「大毘古命」と記される。ウィキの「大彦命」によれば、第八代孝元天皇の第一皇子で、第十一代『垂仁天皇の外祖父である。また、阿倍臣(阿倍氏)を始めとする諸氏族の祖。四道将軍の』一『人で、北陸に派遣されたという』とある。しかし、以下は――そうは言うものの、具体的にその大彦の命が「北陸を征せし」たという事実について記された信頼出来る資料や記録の類いは、これ、全然、存在せず、それについては誰も知るすべがないのである。――と言うのである。

「行基」(天智天皇七(六六八)年~天平二一(七四九)年)は法相宗の僧。彼は難民救済・民間布教・土木事業などを進めたが、朝廷から下される僧の資格を得ずに行ったために弾圧された。しかし、後に民衆の支持を背景に、東大寺大仏建立への協力を要請され、大僧正の位を受けた。既出既注だが再掲した(以下の二名も同じ)。

「泰澄」(たいちょう 天武天皇一一(六八二)年神護景雲元(七六七)年)は奈良時代の修験道の僧で当時の越前国の白山を開山したと伝えられ、「越(こし)の大徳」と称された。越前国麻生津(現在の福井市南部)で豪族三神安角(みかみのやすずみ)の次男として生まれ、十四歳で出家し、法澄と名乗った。近くの越智山に登って、十一面観音を念じて修行を積んだ。大宝二(七〇二)年、文武天皇から鎮護国家の法師に任ぜられ、豊原寺(越前国坂井郡(現在の福井県坂井市丸岡町豊原)にあった天台宗寺院。白山信仰の有力な拠点であったが、現存しない)を建立した。その後、養老元(七一七)年、越前国の白山に登り、妙理大菩薩を感得した。同年には白山信仰の本拠地の一つである平泉寺を建立した。養老三年からは越前国を離れ、各地にて仏教の布教活動を行ったが、養老六年、元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師(じんゆうぜんじ)の号を賜っている。天平九(七三七)年に流行した疱瘡を収束させた功により、孝謙仙洞の重祚で称徳天皇に即位の折り、正一位大僧正位を賜り、泰澄に改名したと伝えられる(以上はウィキの「泰澄」に拠った)。

「花山法皇」花山天皇(安和元(九六八)年~寛弘五(一〇〇八)年/在位:永観二(九八四)年~寛和二(九八六)年)のこと。冷泉天皇第一皇子で母は摂政太政大臣藤原伊尹(これまさ)の娘懐子。寛和二年六月二十二日(九八六年(ユリウス暦)八月五日(グレゴリオ暦七月三十一日、僅か二年足らず、しかも数え十九歳で宮中を出て、剃髪し、仏門に入って退位した。そこに右大臣藤原兼家(道隆・道長の父)の野望がうごめていたことは、さんざん古文の「大鏡」でやったじゃないか。如何にもいやらしい嘘泣き道兼が絶品だったね。尤もあれを好んでやった理由は大好きな安倍晴明が予知して式神を使うシークエンスがあるためだったし、そこで晴明の話に脱線出来たからだったのだが。だいたい、この花山天皇は性的に異常嗜好傾向のあった人物である可能性も強いのだ。ウィキの「花山天皇」にも、『花山天皇は当世から「内劣りの外めでた」等と評され、乱心の振る舞いを記した説話は』「大鏡」・「古事談」に『多い。即位式』(満十五歳)『の際、高御座』(たかみくら)『に美しい女官を引き入れ、性行為に及んだという話が伝わ』り、『出家後も好色の趣味を止めることなく』、『女性と関係を持ち』、女絡みの『「長徳の変」』(長徳二(九九六)年花山法皇二十九歳の時、中関白家の内大臣であった兼家の子藤原伊周と隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件。同年一月の半ばのこと、伊周が通っていた故太政大臣藤原為光の娘「三の君」と同じ屋敷に住む「四の君」(藤原儼子。かつて花山天皇が寵愛した女御藤原忯子(しし)の妹)に花山法皇が通い出し、それを伊周が自分の相手の「三の君」に通っていると誤解して弟隆家と相談、隆家が従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜いた(「百錬抄」ではそれに留まらず、花山法皇の従者の童子二人を殺して首を持ち去ったともある)。花山法皇は体裁の悪さと恐怖のあまり、口をつぐんで閉じこもっていたが、この事件の噂が広がるのを待ち構えていた末弟道長に利用される形で、翌月、伊周・隆家はそれぞれ、大宰府・出雲国に左遷の体裁で流罪となった。但し、数年後に許されて京に戻った。但し、これによって道長が政権を握ることとなり、道隆を始めとする中関白家は排斥されることとなった)『出家後の話である。また、同時期に母娘の双方を妾とし、同時期に双方に男子を成している。その二人の子を世の人は「母腹宮」(おやばらのみや)「女腹宮」(むすめばらのみや)と呼んだ』とある。一方で、『法皇となった後には、奈良時代初期に徳道が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺(兵庫県宝塚市)でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し』、『修行に勤め、大きな法力を身につけたという。この花山法皇の観音巡礼が「西国三十三所巡礼」として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となって』おり、『この巡礼の後、晩年に帰京するまでの十数年間は巡礼途中に気に入った場所である摂津国の東光山(兵庫県三田市)で隠棲生活を送っていたと』も『され、この地には御廟所があり』、『花山院菩提寺とし西国三十三所巡礼の番外霊場となっている』。また、『彼は絵画・建築・和歌など多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、ユニークな発想に基づく創造は』、『たびたび』、『人の意表を突いた』とも言われ、『特に和歌においては在位中に内裏で歌合を開催し』、「拾遺和歌集」の親撰や「拾遺抄」の増補もした『ともいわれ』ている才人でもあったことも言い添えておこう。

「芳蹟」遺跡を貴んでいう語。貴い御遺跡。

「長谷部信連(のぶつら)」(はせべのぶつら ?~建保六(一二一八)年)は平安末から鎌倉前期にかけての武将で長(ちょう)氏の祖。ウィキの「長谷部信連」によれば、『人となりは胆勇あり、滝口武者として常磐殿に入った強盗を捕らえた功績により左兵衛尉に任ぜられた。後に以仁王に仕えたが』、治承四(一一八〇)年、『王が源頼政と謀った平氏追討の計画(以仁王の挙兵)が発覚したとき、以仁王を園城寺に逃がし、検非違使の討手に単身で立ち向かった。奮戦するが捕らえられ、六波羅で平宗盛に詰問されるも屈するところなく、以仁王の行方をもらそうとしなかった。平清盛はその勇烈を賞して、伯耆国日野郡に流した』(「平家物語」巻第四「信連」)。『平家滅亡後、源頼朝より安芸国検非違使所に補され、能登国珠洲郡大家荘を与えられた』。『信連の子孫は能登国穴水』(現在の石川県鳳珠(ほうす)郡穴水町(あなみずまち)附近)『の国人として存続していき、長氏を称して能登畠山氏、加賀前田氏に仕えた。また、曹洞宗の大本山である總持寺の保護者となり、その門前町を勢力圏に収めて栄えた』とある。以上も既出既注であるが、再掲した。

「此頃としもはかられず」「獅子の最初の原形がこの頃のことがあった、ということも、はっきり言い得ることではないのである」の意であろう。

「名護屋太郞時兼」北条時兼(?~建武二(一三三五)年)は鎌倉末期の武士。北条氏名越流。名越太郎。越中守護名越時有の子。名越(なごえ)時兼とも表記される。ウィキの「北条時兼」によれば、正慶二/元弘三年五月二十二日(ユリウス暦一三三三年七月四日/グレゴリオ暦換算七月十二日)の『鎌倉幕府の滅亡後、幕府再興と建武の新政転覆を謀り』、『北条氏の残党が各地で蜂起』したが、建武二(一三三五)年七月、鎌倉幕府最後の得宗であった北条高時の遺児『北条時行が信濃で諏訪頼重らに擁立され鎌倉奪還を目指し』て『挙兵すると(中先代の乱)、時兼もそれに呼応して、越中や能登・加賀で長沢氏や井口氏、野尻氏ら新政に不満を持つ武士を結集し』、『北陸で蜂起した』。『時兼は杉本城を拠点とし、松倉城の椎名六郎入道等北陸の新政権側の勢力を攻撃しつつ』、三『万騎余を率い』、『上洛を目論んだが、加賀の大聖寺城に拠り迎撃した福田・敷地・山岸・上木といった狩野一党や、援軍として派遣された』当時は新田義貞配下の武将であった瓜生保(うりゅうたもつ)を『初めとする越前の武曽・深町ら武士団に敗れ』、『討ち取られた』とある。

「津葉」大聖寺城(グーグル・マップ・データの城跡)の別称。建武四(一三三七)年に新田義貞に荷担した敷地伊豆守や山岸新左衛門らが大聖寺城を攻めるがその時、大聖寺城を守っていたのが津葉清文であった。参照したサイト「古城盛衰記」の「大聖寺城」に、『津葉城は大聖寺城の奥の丘陵とみられるが、異名同城といえるほど密接な関係の堡塁である』とある。

「千足」加賀市作見町(グーグル・マップ・データ)にあったとする千足城。現在、痕跡なし。

「桃井播州」桃井播磨守直常(ただつね ?~天授二/永和二(一三七六)年)は南北朝時代の武将・守護大名で、足利氏一門にして家臣。既出既注。「靈社の御蟹」を参照。

「鹿草羽州」不詳だが、南北朝時代の延元三/暦応元年(一三三八)年に越前国藤島(現在の福井県福井市)付近において、越前平定と上洛を目指していた新田義貞率いる南朝方の軍勢(新田勢)と、北朝方の足利(斯波(しば))高経が激突した「藤島の戦い」について、ウィキの「藤島の戦い」には、「太平記」には、その斯波軍の主力部隊を細川出羽守と鹿草公相(彦太郎)らが率いていたとあるから、ここはそれを底本校訂で前の「桃井播州」に引かれてカップリングしてしまった誤りではないかと私には思える。「新潮日本古典集成」の「太平記 三」の「巻第二十」の巻頭「黒丸城(くろまるのしろ)初度軍(いくさ)の事付けたり足羽(あすは)度々(どど)軍(いくさ)の事」頭注を見ると、「鹿草」は越中の豪族で守護の代官を務めた鹿草(かくさ)兵庫助で、「羽州」は「細川出羽守」で詳細人物不詳ながら、前の「巻第十九」の「新田義貞越前の府の城を落す事」に『「尾張守の副将軍」として見えた』とある人物である。

「江沼」現在の石川県の南端部。加賀市全域と小松市の一部。

「能美」前記江沼郡の北側に接する。現在の能美市全域と小松市の大部分及び白山市の一部。

「富樫氏」富樫氏は藤原利仁(芥川龍之介の「芋粥」の彼)に始まるとされる氏族で、室町時代に加賀国(現在の石川県南部)を支配した守護大名。今までさんざん出てきて、多くの注も施したので、これ以上は注さない。

「朝倉氏」越前朝倉氏。ウィキの「朝倉氏」より引く。『越前朝倉氏は南北朝時代、足利氏の一族である斯波氏に仕えた朝倉広景から始まる。通字は「景(かげ)」』。『次代の朝倉高景は斯波高経に仕えて、高経が守護に任じられた越前国に所領を与えられた。高経が室町幕府によって越前守護を追われて討伐された貞治の変の際には、幕府軍に寝返って所領を安堵されている。その後、外来の武士ながら越前国に定着して勢力を築いた。斯波氏が越前守護に復帰すると帰参するが、既に越前に勢力を築いていた朝倉氏の存在を斯波氏も無視する事は出来ず、室町時代に入ると、甲斐氏・織田氏とともに守護代に任ぜられるようになった』。『室町時代後期に入ると、朝倉孝景(英林孝景)は守護代の甲斐常治とともに、主である斯波義敏と対立して長禄合戦を引き起こした。足利将軍家の家督争いなどから発展した応仁の乱では、山名宗全率いる西軍から細川勝元率いる東軍に寝返った。越前では甲斐氏を圧迫して国内をほぼ統一し、斯波氏に代わって越前国守護に取り立てられた。孝景は分国法である『朝倉敏景十七ヶ条』を制定し、戦国大名としての朝倉氏初代となった』。『軍記物『朝倉始末記』によると、孝景が1471年(文明3年)に一乗谷城を築いたとされる。近年では、15世紀前半には朝倉氏が一乗谷に移っていたとの見解が出されている。それ以前に朝倉氏が本拠としていた黒丸については、坂井郡三宅黒丸(現・福井県福井市三宅町)説のほか、足羽郡北庄黒丸(現・福井市中央)説がある』。『旧主の斯波義敏が越前守護職を回復せんと朝倉氏の越前実効支配について幕府に異議を申し立てると、孝景は、かつて守護であった斯波義廉の子を鞍谷公方(足利義持の弟、足利義嗣の子・嗣俊を祖とする。足利将軍家の越前における分家、鞍谷御所と呼ばれて尊崇を集めていた。)の養子として足利義俊と名乗らせた上で、幕府の反対を押し切ってこの義俊を"名目上の越前国主"として擁立。越前守護の斯波氏に対抗した。後に朝倉氏自体が越前守護に任じられることとなったため、鞍谷公方足利氏は朝倉氏の客将と化し、朝倉氏が名実ともに同国の大名となった(ただし、異説として鞍谷公方は後世の創作で、実は奥州斯波氏の嫡流に近い斯波氏の庶流で斯波氏宗家に準じた家格を持つ家であったとする説もある)』。『戦国時代には早期から越前一国を安定的に支配し、その余勢で隣国の若狭、加賀、近江、美濃にも出兵した。謀反で殺された室町幕府第13代将軍・足利義輝の弟である足利義昭が落ち延びて来ると、第11代当主・朝倉義景はこれを庇護した。だが義昭を擁しての上洛はせず、代わってそれを実行した尾張国の織田信長が京都の政権を掌握した後に従うこともしなかった。義景は浅井長政らと同盟して信長と度々戦ったが、1573年(天正元年)に敗れて一乗谷を焼かれ、義景は自刃。戦国大名としての朝倉氏は滅んだ』。『越前朝倉氏の一族とされる朝倉在重が徳川家に仕え、子の宣正は徳川忠長の附家老・掛川城主になるが、忠長の改易に連座して宣正も改易となった。宣正の弟の家は江戸幕府旗本として存続した』とある。

「蓬山兼上人」不詳。蓮如(応永二二(一四一五)年~明応八(一四九九)年)のことじゃあないかと思うのだが。彼の本名は「兼壽」だもの。

「丹羽長秀」(天文四(一五三五)年~天正一三(一五八五)年)は安土桃山時代の武将。長政の子。尾張国児玉村(現在の名古屋市西区)生まれと伝える。通称五郎左衛門。父の死後、織田信長に仕え、信長の養女(姪)と結婚。元亀二(一五七一)年、近江国佐和山城(滋賀県彦根市)を守る浅井氏家臣磯野員昌を降伏させた功で同城主となる。天正元(一五七三)年、信長の命で琵琶湖用の大型船を建造、同三年に惟住(これずみ)の姓を与えられ、翌四年には安土城普請の指揮に当たっている。信長の進める天下統一戦の殆んどに参加して各地を転戦した。同十年六月、四国に向かうため、織田信澄と共に大坂まで出陣していた時、「本能寺の変」を聞き、備中国から駆け戻ってきた羽柴(豊臣)秀吉と合流し、明智光秀を破った。清洲会議で若狭一国と近江国高島・滋賀二郡を領することとなり、坂本城(大津市)に移って、秀吉・柴田勝家・池田恒興らとともに織田家を支えた。翌十一年の「賤ケ岳の戦」では秀吉方に属して勝家倒滅に武功を上げ、越前国の大部分と加賀国能美郡が与えられて北庄(福井市)に移ったが、その二年後に没した。秀吉が「丹羽」「柴田」から一字ずつとって羽柴姓としたことからもわかるように、秀吉と長秀の関係は深く、秀吉は病床の長秀の要請で医師竹田定加を派遣し、長秀も秀吉宛に遺書を書いて形見の品を贈り、跡目を全面委任するなど、ふたりの間の絆は終生固かった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「長重」(元亀二(一五七一)年~寛永一四(一六三七)年)は丹羽長秀の長男。通称は五郎左衛門。豊臣秀吉に仕え、天正一三(一五八五)年、父の遺領を継いだ。「関ケ原の戦い」で西軍に味方したため、戦後、所領を没収されたが、後に赦されて常陸古渡(ふつと)に一万石を与えられ、「大坂の陣」に出陣、後に陸奥棚倉藩(現在の福島県内)を経て、寛永四(一六二七)年に陸奥白河藩(福島県)藩主丹羽家初代となった。十万七百石。

「村上」越後国村上藩主村上氏。越後国村上藩主村上頼勝・村上忠勝。もと丹羽長秀家臣。丹羽氏の没落後は堀秀治の与力大名となり、加賀国能美郡で六万六千石を領し、慶長三(一五九八)年に堀氏の越後移封に伴い、本庄九万石を領し、本庄を村上と改めた。慶長八(一六〇三)年、三万石を加増され、都合十二万石となった。慶長一五(一六一〇)年、堀氏のお家騒動の後に、高田藩主松平忠輝の与力大名となったが、元和四(一六一八)年に家中騒動により改易されてしまった(ウィキの「村上氏」に拠る)。

「山口」。豊臣秀吉の家臣で加賀国大聖寺城主であった山口宗永(天文一四(一五四五)年?~慶長五(一六〇〇)年)か。別名、正弘。尾張国鳴海の山口甚介光広の子。従五位下・玄蕃頭。秀吉に仕え、天正一一(一五八三)年の「賤ケ岳の戦い」で戦功を挙げ、同十七年頃には丹波の山奉行を務めている。秀吉の命によって小早川秀秋の補佐役となり、「慶長の役」では朝鮮に渡海、その後、秀秋と不和になり、加賀大聖寺城主として六万石を与えられたが、「関ケ原の戦い」で西軍に属し、大聖寺城に籠って東軍前田利長の軍勢と戦い、落城の際に自刃して果てた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「等の事跡に及べば、近うして其事聞えずんばあらじ」以上のような時代までの事跡と、この獅子が関係するのであれば、それは近い頃のことなのであるから、丸で判らないということはあり得ず、相応の事実や由緒が判らないはずはない。

「思ひつゞくる程」そのように考察してみても何も由来が判らぬということは。

「文明の頃のことなるべし」この獅子に係わる出来事というのは、「応仁の乱」から「享徳の乱」と続いた混乱した文明(応仁の後で長享の前。一四六九年から一四八七年まで。室町幕府将軍は足利義政或いは足利義尚の時)のことなのであろうかとも考えるのである。

「此宗(むね)の長く久しきを述べん」この正体の判らぬ獅子に対する信仰が、訳の分からないものでありながらも、長く久しいものではあることを叙述せんものと。

「先(まづ)爰にても止むべきか」麦水のまとめ。「まあ、ここまで考証しても判らぬものなのであるから、この「野文」を書き写してやめにしておくのがよかろうか。」という感想である。

 以上を以って「三州奇談後編」の巻之一は終わっている。]

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