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2020/05/18

ブログ・アクセス1360000万突破記念 梅崎春生 演習旅行

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三六(一九六一)年一月発行の『世界』に発表された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第一巻を用いた。

 主人公の「私」である「暗号兵曹」の経歴は梅崎春生のそれとよく一致する。作中に出る「通信自動車」は「眼鏡の話」にも出たが、今回、画像を探してみたが、陸軍のものは見出せたが、海軍のそれは見当たらなかった。

 なお、本電子化注は2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが昨日、1360000万アクセスを突破した記念として公開する。コビッド-19による籠城でアクセスが増え、二十日で一万を超えた。【2020518日 藪野直史】] 

 

   演習旅行

 

「どうせこの戦争は敗けよ。いくら張り切っても、何にもならん。なあ、暗号兵曹」

 話が戦争や戦況のことになると、いつも岩本兵長はそう言う。投げ出すような、あるいはねばりつくような口調で、そう言う。顔を私に向けて言うのだ。

「だって……」

 若い甲斐兵長が傍から口惜しそうに、口をもごもごさせる。もごもごさせるだけで、あとは続かない。沖繩がすでに取られた現在、甲斐兵長にしても、日本は絶対に不敗だと主張し得る根拠はない。ただ甲斐は、岩本がそんな断定的なことを、そのような口調で言うのが気にくわないのだ。しかし面と向って、甲斐はそれをなじることは出来ない。兵長として、甲斐は岩本よりもずっと後輩になるからだ。

「だっても蜂の頭もねえよ」

 初めて甲斐の存在に気付いたように、そんなふりをよそおって、岩本はきめつける。

「それよりも早く飯を取って来い」

 岩本兵長はもう四十歳近くに見える。よく肥っていて、腕も丸太棒ぐらいの大きさはある。昭和初年に海軍に召集され、三年きたえられて水兵長となり、この度十何年ぶりに再召集されて来たのだ。昭和初年の兵長だから、甲斐のような近頃なり立ての兵長なんか、逆(さか)立ちしたって追付かない。

 岩本兵長の職種は、自動車の運転員だった。A基地で自分で志願して、わが通信自動車の運転手として乗り込んで来たのだ。年かさだし、再応召の兵長だから、その点、なまなかな下士官よりかなりわがままがきく。

 通信自動車というのは、戦争末期に海軍でつくられた通信専用の自動車だ。まだ試作品程度で、性能はあまり上等でなかった。それでも一応装甲された大型車で、屋根にはアンテナが立っている。その装甲されているというところが、岩本兵長の気に入ったのかも知れない。

「うん。こいつは具合がいいや」

 初対面の時、装甲をこんこんと叩きながら、私の方を見てにやりと笑った。

「敵さんが上陸して来たら、こいつをすっ飛ばして逃げればいいな。なあ、暗号兵曹」

 通信車の構成人員は、電信員が一人、暗号員が一人、それに運転手ということになっていた。その暗号員というのが私で、兵曹とはいうもののなり立ての二等兵曹で、しかも正規の二等兵曹でなく、即席の下士訓練(学校出だけにほどこされた)を経た下士官であった。海軍では階級よりも、食った飯の数の方が重視される。即席下士官は飯の数で、古い兵長に頭が上らないのだ。岩本は一目見て、私の年恰好や体格からして、私が即席下士官であることを直ちに見破ったのだろう。私に話しかけるのに、私の名前を呼はず『暗号兵曹』という言い方をもってした。若干なめている証拠である。初めから摩擦を起すのはイヤだから、摩擦は自分にマイナスにしか働かないことを、一年の海軍生活で骨身にしみて知っていたから、私は気軽に応じる。

「そうかね。逃げおおせるかね」

「逃げおおせるとも。決してあんたらに犬死にはさせないよ。わしに任せなさい」

 戦争末期の南九州には、たくさんの海軍基地があった。われわれの通信自動車はA基地で仕立てられ、所要人員を乗せて出発、点在する各基地を歴訪、最後にQ基地に着いて、そこで待機せよというのが、A基地の通信士の命令であった。別段それは作戦と関係あるのではない。通信車の性能をためすための演習旅行だということで、義務といえは、各基地に到着、また出発の際に、無事到着、只今出発、と暗号電報で報告するだけで、あとは何もなかった。ただ地図にしたがって移動さえしていれはよかった。

「いい配置だのう。岩本」

 見送りに来た岩本兵長の僚友らしい下士官が、岩本の肩をたたいて、しきりにうらやましがった。A基地は砂岩質の丘陵を縦横にくりぬいた洞窟陣地で、じめじめして陽の目にあたらない場所だから、陽光のもとのさして緊急でない演習旅行は、羨望のまとになるのも無理はなかった。しかしまかり間違えは、大型装甲車はきらきら光るため、グラマンあたりの好箇の銃撃の対象になるおそれはある。

 電信員は司令部通信科から出た。それが甲斐兵長だ。司令部通信料とあまり交渉がなかったので、私は彼の顔によく見覚えはない。うっすらと無精髭を生やして、二十二三に見えるから、おそらく徴募兵上りの苦労して来た兵長なのだろう。志願兵と徴募兵は、その年齢でも見分けられるが(志願兵の方がずっと若い)その顔付でもおおむね見分けられる。徴募兵は眉目のどこかに、蟹(かに)のような苦渋の色をたたえているのだ。

 司令部の掌暗号長が甲斐兵長にいろいろ指示を与えている間に、岩本兵長は烹炊所(ほうすいじょ)にかけて行き、三人分の弁当、それに若干量の生米と味噌を仕入れて、かけ戻って来た。岩本の顔だからそれが出来るので、私だの甲斐だのではそういうわけには行かない。

「不時着ということがあるからなあ。不時着ということが」

 機械か何かの故障でエンコした時の食料だという意味だ。岩本はそれを運転台に放り上げ、自分も飛び乗った。司令部の掌暗号長は来ているが、私の方の分遣隊から誰も来ていない。うやむやのうちに私たち二人も乗り込んだ。通信自動車は斜めにかしぎながら、赤土の坂道をゆるゆると降り始めた。ある解放感が私の胸にもひろがって来た。

 

 弁当は各自握り飯二箇にコオナゴのつくだ煮。それを食べてしまって、そこらの海岸で一泳ぎしようと言い出したのが岩本で、それに反対したのが甲斐だ。朝十時A基地出発の、午後一時昼食だから、まだいくらも来ていない。大型で重いので、揺れがはげしく、スピードが出ないのだ。

「それじゃB基地に着くのが遅れるじゃなかとですか」

 甲斐は眼をいからせて、私に詰め寄るようにした。司令部掌暗号長から、かなり気合をかけられて来たものらしい。私に詰め寄るより、岩本に詰め寄るのが本筋だと思う。何故かというと、岩本がそれを言い出したのだからだ。岩本は細い木の枝を折って、口にくわえながら、そっぽを向いていた。

「え。そうじゃないですか。兵曹」

 甲斐は目をいからすと、黒眼が中央に寄って、寄り目になるのだ。それはへんに真面目っつぽい、愚直といつたような印象をひとに与える。私は真面目なことは好きだ。こちらと関係のない真面目さは大好きだ。しかしこちらを巻き込むような、押しつけがましい真面目さは、たいへん苦手だ。かかわって、ろくなことはない。だから私は黙っていた。

「張り切るなよ」

 岩本がぺっと木の枝をはき出して、のっそりと立ち上った。

「そんなに張り切って、何になるんだい」

「張り切っちゃ、いかんのか」

「おや。お前、おれにそんな言葉使いをしていいのか!」

 岩本が身体ごと向き直った。大きな体軀(たいく)だから迫力がある。それで甲斐はすこしたじろいだ風だった。

「そんなに急ぎたきゃ、お前だけ急いで行きやいいだろ。おれはちょいと泳いで来る。いいね、暗号兵曹」

 岩本も是が非でも泳ぎたかったわけじゃあるまい。ちょっとの行きがかりで妙にこじれて、岩本はさっさと略服の上衣を脱ぎ始めた。車は林の中の、空からは見えない繁みに姿をかくしているが、ここから小さな砂丘を越えて彼方に海が見えるのだ。甲斐は顔を戻して、訴えるような眼で私を見た。私は黙って、空気を眺めるようなつもりで、景色を眺めていた。岩本はすっかり服を脱ぎ捨てると、悠々と砂丘の方に歩き出したが、砂が太陽に熱射されて灼(や)けていたのだろう、やがてぴょんぴょん飛びはねる恰好で、丘の向うに姿は消えた。私は笑いながら言った。

「運転手がいなきゃ、急ごうにも急げないじゃないか」

 そういう私の言い方は、甲斐の癇(かん)にさわったかも知れない。しかし私は気分としては、岩本の主張の方に傾いていた。何時何分までにB基地に到着せよと、指示があったわけでない。車の性能に応じて、到着すればいいのだ。私は久しぶりの解放感をたのしみたかったのだ。久しくしめっぽい洞窟に閉ざされていたから、ここに少時停止して気ばらししてもいいじゃないか。そんな気持で、私は甲斐の肩をたたいた。甲斐の肩はびくんと反応した。慣れ慣れしくたたかれて、不本意だったのだろう。

「それよりもA基地と連絡を取ってみたらどうだ。具合を調べて置かないと、あとで困るぞ」

 通信車の内部に電信台があり、その傍につくりつけの金庫がある。その金庫が私の所轄(しょかつ)で、内に暗号書が入っている。甲斐はむっつりした顔で通信車に入り、電鍵(キイ)をカチャカチャとたたき始めた。車内は熱気がむっとこもって暑い。無線機械は甲斐の所轄で、私のあずかり知ったところでないから、私は単に入ることはせず、皆の弁当の食べがらなどをまとめて林の奥に投げこみ、そこらの地相などをしらべて歩き廻った。やがて岩本がまた飛びはねながら、海から戻って来た。耳に水が入ったとみえ、服をつけながら片足飛びをしている。

「さあ。出かけるか」

 車内では甲斐がレシーバーをつけ、首を傾けて電鍵をぽつりぽつりとたたいている。連絡がつかないらしい。

 

 B基地に着いたのは、午後六時頃だ。季節が季節だから、もちろんまだ四辺は明るい。基地の入口に自動車をとめて、甲斐がしきりに電鍵をたたくが、A基地からいっこうに応答がない。電信連絡は甲斐の責任だから、彼は真剣な表情で、車から出て来ようとしなかった。岩本がじれてうながした。

「おい。何を張り切ってんだ。こんなところでカブを上げたって仕様がないじゃないか」

 特に張り切っているわけじゃないが、もし連絡がつかなきゃ、何のために通信車が動いているのか判らない。岩本はハンドルをとつて車を動かしておれは任務は済むので、通信については全然同情がないのだ。

「早く烹炊所(ほうすいじょ)に行って、食事を取って来い」

 電鍵の音がはたとやんだ。

「今勤務中だ。暇な人が行ったらいいじゃないですか」

「なに? 勤務中だ?」

 岩本がとげとげしい声を出した。

 車からすこし離れた道端に、牛が臥(ふ)した形の大きな岩があって、私はそれに腰をおろして、そのやりとりを聞いていた。今日一日働いたのは誰だと思う。おれではないか。そう岩本が言っている。考えてみればそれに違いない。岩本が運転をして、私たち二人はただ乗っていたに過ぎないのだ。甲斐が車から降りて来た。ふくれ面(つら)をしている。それらしい方向に歩き出す。

「へっ。近頃兵長になったくせに殿様になったような気でいやがる」

 岩本が私のそばに腰をおろしながら、はき出すように言った。

「あんなのが兵長で通るんだから、もう戦争は敗けだね」

「敗けかねえ」

 私は煙草をふかしていた。この事の主導権を握っているのは誰だろう。そんなことをぼんやり考えていた。階級からいうと、私が一番上だけれども、任務の点からでは何も力がない。車を移動させることが演習の目的なら、岩本が第一の実力者だし、連絡通信が目的なら、甲斐が立役者ということになる。私なんかそえものみたいなものだ。甲斐が連絡に成功しなきゃ、私はしばらく開店休業の形だ。それならそれでいいけれども、二人の実力者がいがみ合っているのに、私がそれに介入できないことが、なんだかひどく中途はんばな感じだった。煙草をはじき飛ばしながら、私は言った。

「まあゆっくりやろうや。先は長いんだから」

 やがて甲斐が飯をとって戻って来た。一層ふくれっ面になっている。時間がかかったのは、食事の請求が時刻過ぎで、烹炊所員に散々イヤ味を言われたに違いない。烹炊所とか看護科の連中は、どこの部隊でも、よそ者に対しては、ひどく意地悪をするのだ。当然ながら、おかずも少かった。岩本兵長みたいな海千が行けは、要領よく仕込んで来るだろうが、甲斐兵長じゃやはり貫禄が足りない。

「しけたおかずだなあ」

 岩本はじろりと食事をにらんで言った。

「これだけしか呉れなかったのか」

「これだけしか呉れんかったです」

 甲斐がぶすりと答える。先刻気合を入れられたから、言葉使いだけは丁寧になっている。

「ふん」

 岩本は通信車に戻って、罐詰(かんづめ)一箇取って来る。食事場所は臥牛石(がぎゅうせき)の上だ。岩本はキコキコと罐を切った。暮れて行く海面を眺めながら、私たちはほとんど無言で、食事を終えた。罐詰を私にも分けて呉れるのかと思ったら、分けて呉れない。もちろん甲斐にも分けてやらない。ひとりで三分の二ぐらい食べてしまって、あとは大事そうに蓋(ふた)をしたところを見ると、翌日またその続きを食べるつもりらしい。

「暗号兵曹」

 木の小枝を楊枝(ようじ)に使いながら、岩本は奥歯をこすり合せ、考え深そうに言った。

「わしはこの部隊に泊るのはイヤだから、そこらの民家に頼んで泊ることにするよ」

「そうかね」

「そいで、兵曹は、自動車に泊って呉れるかね?」

「それでもいいよ」

 見知らぬ部隊に泊るのも窮屈なことだし、夏だからどこに寝たって寒いということはない。それで私は承諾した。

 甲斐は手をのろのろ動かして、食器のあと片付けをしている。海面はついに昏(く)れわたった。

 

 自動車の中は案外寝苦しかった。私は運転台に寝たのだが、窓をあけ放って置いたから、暑苦しい筈はなかった。空気が妙に濃密のようで、昨日までの洞窟陣地より寝苦しく、盗汗とともにしばしば眠が覚めた[やぶちゃん注:「盗汗」は「とうかん」で主に医学用語で寝汗(ねあせ)のことを言う。]。

 甲斐もうしろの通信室の床に毛布をしいて寝たが、そちらは閉め切りでなお寝苦しかったのだろう。夜半に毛布をかかえて出て行く気配がした。朝眠が覚めて車を降りると、臥牛石の上に毛布がひろげられていた。甲斐は石の上で一夜を明かしたらしい。毛布に腰をおろして、ぼんやりと海を眺めている。日はすでに昇っていて、私は空腹を感じた。

「甲斐兵長。飯を取って来いや」

 出来るだけ気軽に響くように発音する。命令として言うと、あとあとさしさわりがあるからだ。

「岩本兵長はとうしたとですか?」

「岩本ももう戻って来るだろう」

 どうも一番気弱なのは私で、こんな若い甲斐にまで気がねをしている。

「だから三人分、取って来て呉れ。昨夜烹炊所に、三人と通してあるんだろ」

「そうですか」

 甲斐が歩き去ったあと、私は大急ぎで崖をまっすぐにかけ降りた。海岸に出た。岸は石が洗濯板みたいになっていて、ところどころの窪(くぼ)みに泥をため、きれいな海水がゆらゆらと通っている。私は上半身裸になって汗を拭き、手を海水で洗った。顔を洗おうかとも思ったが、塩分で顔がこわばるのがイヤなので、そのまま手拭いを腰につるした。泥の窪みに、小さな蟹やヤドカリが何匹も這っている。比較的大型のヤドカリをつまみ上げ、また崖をよじて戻って来た。その時甲斐が食事を提げて、ゆるやかな坂道を登ってくるのが見えた。

 まだ岩本兵長は戻って来ない。

 だから臥午石の上で、二人だけで食べ始めた。昨夜と同じく無言である。生れつきかどうか知らないが、むっとしたような顔をしているから、こちらから話しかける気もしないのである。食事はうまかった。今日は味噌汁もたっぷりあったし、漬け物の味もよかった。あの地方に産する漬け物は、伝統的に味がいいのだ。

 食事が済んだが、岩本はまだ帰って来ない。今日も天気がよく、暑くなりそうな気配がある。

 所在がないから私は通信車の運転台に戻り、さっき取って来たヤドカリを膝や腕に這わせながら遊んでいた。海水を離れてもヤドカリは元気で、私の腕のやわらかいところでは爪を立てようとする。

「まだ出発せんとですか。兵曹」

 甲斐が窓からのぞき込んだ。私を見る甲斐の眼が、もう寄り眼になっている。

「この調子で、いつQ基地に着けますか?」

「運転手がいないのに、出発できるか!」

 私の語調もやや強くなる。

「それよりもお前、A基地と早く連絡取って置かないと、掌暗号長に叱られるぞ」

 部隊の方の坂道から、兵隊が五六人、ぞろぞろと登って来た。暑いせいか、部隊のしつけがゆるんでいるのか、皆じだらくな恰好をしている。上衣を脱いで肩にかけ、上半身裸のやつもいる。臥牛石のまわりに足をとめて、ものめずらしそうにこちらを眺めている。皆十六七の若い兵長だ。聞いてみるまでもなく、彼等は予科練出身で、船や飛行機がもうなくなって使い所がないから、ここらの基地に集団的に配属されているのだ。彼等がくずれたような恰好をしているのは、ちゃんとした仕事がなく、頽廃しているせいだろう。その中の一人が靴をはいたまま、いきなり石の上の毛布にあぐらをかいた。

「おい、おい、きさまらぁ!」

 甲斐は運転台の下から離れ、けわしい声でそちらの方へ歩いた。

「きさまらぁ、昨日や今日兵長になったくせに、大きな顔をすると、承知せんぞ。何だ、貴様らあ、予科練の青二才ども!」

 あぐらをかいていたのは、あわてて石からずり落ちた。次の瞬間その連中は顔を見合せた。その中の勇敢なのが一人、やって来た甲斐の向う脛(ずね)を、略靴で力まかせに蹴り上げた。甲斐はうっと殺気あるうめきを洩らしながら、腕を宙に振った。

「……バカだな。甲斐兵長」

 甲斐のうめき声と共に、私の中を走り抜けた衝動がなかったわけではない。しかし私は扉を排して、外に出ることはしなかった。私はじっとしていた。じっとして、掌でヤドカリをもてあそんでいた。こんなところで喧嘩をおっ始めて、甲斐兵長よ、一体どうするつもりなんだ。殴り勝ったら殴り勝ったで、袋叩きにされたら袋叩きで、惨めになるのはお前じゃないか。お前だけじゃないか。何というバカなんだろう、お前という男は!

 

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