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2020/05/23

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 一

 

[やぶちゃん注:野澤凡兆(?~正徳四(一七一四)年:芭蕉(寛永二一・正保元年(一六四四)年生まれ)より年長かともされる)姓は宮城・越野・宮部ともするが、確かではない。名は允昌(むつまさ)。俳号は初め加生(かせい)、晩年は阿圭(あけい)とも称した。金沢の人で、京に出て医を業としたが、やがて蕉風俳諧に近づき、元禄三(一六九〇)年から翌年にかけて、近江・京方面に滞在していた芭蕉から親しく指導を受け、去来(凡兆は芭蕉対面以前、少なくとも元禄初年には彼と親交があった)とともに「猿蓑」(元禄四年刊)の編纂にあたるなど、一躍、蕉門の代表的作家の地位を獲得した。しかし、その後まもなく芭蕉から遠ざかり(各務支考の「削かけの返事」(享保一三(一七二八)年)によると、岡田野水・越智越人が凡兆を語らって芭蕉に八十村(やそむら)路通を讒訴したことが芭蕉の機嫌を損じたためともされる)、また、事に座して(具体的にはよく判らないが、一説には罪ある人と親しんで連座の罪を被ったとも、「抜け船」(密貿易)ともされる)投獄され、元禄十二、三年頃に出獄して大坂へ移住したが、作風は全く生彩を失うようになり、特に晩年は零落した生活を送ったらしい。「猿蓑」時代の俳風は、具象性・叙景性に優れ、感覚的で印象鮮明な句に見るべきものがあった。因みに、凡兆と同じく「曠野」に初めて

 佛より神ぞたうとき今朝の春 とめ

(「たうとき」はママ)の一句を見る女性は彼の妻で、後に法体して羽紅尼(うこうに)と称し、「猿蓑」には羽紅の名で十三句が入集している他、芭蕉の「嵯峨日記」(本文後注参照)の元禄四年四月二十日の条には、「尼羽紅」(「の吟」の意)と前書して、

 またや來ん覆盆子(いちご)あからめ嵯峨の山

の一句が載る(以上は小学館「日本大百科全書」の堀切實氏の解説を主文としつつ、潁原退蔵氏の「蕉門の人々」(昭和二一(一九四六)年大八洲出版刊)などの信頼出来る資料を、複数、参考にした)。]

 

     凡  兆

 

        

 

 凡兆について記すのは容易でない、というよりもむしろ改めて記すだけの材料がないといった方がいいかも知れぬ。中途で俳壇から消え去った凡兆の一生は、依然として不明である上に、凡兆の句については明治以来定評と目すべきものがあって、必ずしも異を立てるほどの余地を発見し得ぬからである。

 最初に『猿蓑』を点検して凡兆を賞揚されたのは鳴雪翁だそうである。翁が自ら好む所の純客観句を七部集中に求めて『猿蓑』を推し、『猿蓑』中の作家について凡兆を推すに至ったのは、明治の新俳句と重大な関係を持っている。明治俳句の特色としては第一に客観趣味の発達を挙げなければならぬが、蕪村に逢著する以前において、客観趣味の鼓吹に寄与するところ多かったものは、けだし凡兆を首(はじめ)とすべきであろうと思う。

 碧梧桐氏が明治三十二年[やぶちゃん注:一九八九年。]に著した「俳句評釈」は、当時においても問題の多い著作であった。子規居士はこの書を評して、天明的標準を以て『猿蓑に』臨んだものとし、種々見解の異る所以を列挙したが、最後に「各句の評論に至っては古今にない好著述で、彼趣味を解せぬ似而非註釈家などの及ぶ所でないのは勿論、猿蓑の作者を九原(きゅうげん)に起して一々読んで聞かせたい位である。もし彼らに読んで聞かせたら彼らは何というであろうか。芭蕉は黙っているであろう。去来は怒って論ずるであろう。凡兆は頻にうなずいているであろう」と断じた。居士が碧梧桐氏の評論に対して、ひとり凡兆の首肯すべき点を認めたのは、凡兆の句風乃至傾向が天明的標準――延(ひ)いては明治的標準に近いためであろう。凡兆の句が明治に至ってはじめて光彩を放ったのは偶然でない。

 但以上の説はいずれも『猿蓑』の凡兆に対する見解である。『猿蓑』における凡兆の四十四句は集中の最高点で、芭蕉よりもやや多く、去来、其角とは二十に近い差を示している。数において他を圧するのみならず、殆ど一句も捨つべきなしというに至っては、何人も凡兆の力量に驚かざるを得まい。明治以来の定評というのも、この『猿蓑』の凡兆に対してであって、他に存する凡兆の句なるものは自ら問題の外になっている。

 凡兆の句は大体『猿蓑』に尽くるものと一般に信ぜられていた。現に最初の凡兆讃美者であり、純客観派の本尊として凡兆を崇めたという鳴雪翁ですら、『碧子の俳句評釈』の中で、「惜(おし)いことには凡兆の句は本集中の四十金句の外(ほか)殆ど他に存していない(二、三句はあるそうだ)」といわれた位である。凡兆を純客観派の本尊とするためには、『猿蓑』の句だけを見るに如(し)くはない。むしろ他の句を存せしむる必要はないかも知れぬ。けれども実際は『猿蓑』以外にも相当の句を存しているとすれば、今までの定評以外に新に説を立つべきであろう。

[やぶちゃん注:「碧子の俳句評釈」『ホトトギス』明治三十二年七月号所収。]

 明治三十二年中の『随問随答』に「凡兆の句は猿蓑集以外にも有之候や」という質問があった時、子規居士は次のように答えた。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの「合本俳諧大要」(大正五(一九一六)年籾山書店)のここ(「隨問隨答」の「㈣」の「第七問」)で正字正仮名で読める。

 以下の引用は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

凡兆の句猿蓑以外には極めて少し。元禄の俳書には、時に凡兆のを見る事あれども、皆一句二句位に止(とど)まる。蝶夢の類題発句集には、猿蓑以外の句少しありたりと覚ゆ。因(ちなみ)にいふ。加生といふも凡兆の事なり。

[やぶちゃん注:「蝶夢の類題発句集」安永三(一七七四)年刊。]

 

 子規居士が作家別に分類した『俳家全集』には、凡兆の句が六十二句集まっている。出所は明記したのもありせぬのもあるが、『猿蓑』以外の材料として先ずこれから列挙しよう。

 曙や菫傾く土竜            凡兆

[やぶちゃん注:底本では「あけぼのやすみれかたぶくもぐらもち」とルビを振るが、一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」では、座五を「土龍」と表記し「うごろもち」とルビする。]

 山陰やいつから長き蕗の薹       同

[やぶちゃん注:座五は「ふきのたう(ふきのとう)」。]

 せり上げて葵をこぼす葵かな      同

 夕顔のあとからのぼる葎かな      同

[やぶちゃん注:「葎」は「むぐら」。]

 かゝる身を蝨の責る五月かな      同

[やぶちゃん注:「蝨」は「しらみ」(「虱」に同じい)、「責る」は「せむる」、「五月」は「さつき」。この句については、潁原退蔵氏が「蕉門の人々」(昭和二一(一九四六)年大八洲出版刊)のここで、この句の出典を宝永六(一七〇九)年序・跋の「ねなし草」(艸士編)とし、

   囚にありしとき

 かゝる身を虱のせみる五月かな

という前書とともに挙げ、『これは』獄中にあった『往時を追想したのであろう』と述べておられる。因みにその前で頴原氏は『ほゞ元祿六年』(一六九三年)『後に投獄せられ、同年前には釋放されえて京拂ひとなつたのではあるまいか』と推測されておられ、一説に獄中での句とする句も二句載っているので参照されたい。]

 桐の木の風にかまはぬ落葉かな     同(去来抄)

[やぶちゃん注:風が全く吹いていないのにはらはらと散る景である。「桐の落ち葉」が季題で秋。]

 白かりし花は昔に種瓢         同(類題発句集)

[やぶちゃん注:座五は底本では「たねひさご」とルビする。これはしかし「たねふくべ」の読みの方が一般的である。種子を採るために残しておく瓢簞の実を指す。蝶夢の原本を早稲田大学図書館古典総合データベースのこちらで見たが、

 白かりし花はむかしにたね瓢

で読みは不明である。]

 団栗や熊野の民の朝餉         同(袖草紙)

[やぶちゃん注:「団栗」は「どんぐり」、座五は「あさがれひ(あさがれい)」で朝飯のこと。]

 黍の根や心をつくる秋の風       同( 同 )

[やぶちゃん注:「黍」は「きび」。「心をつくる」は「気づかせる」の謂いであろう。]

 秋風に巻葉折らるゝ芭蕉かな      同

 残る葉も残らずちれや梅もどき     同(類題発句集)

[やぶちゃん注:この句は「曠野」に載るのでそちらを出典に出すべきである。「卷之四」の「暮秋」では、

 殘る葉ものこらずちれや梅もどき    加生

である。「梅もどき」はバラ亜綱モチノキ目モチノキ科モチノキ属ウメモドキ Ilex serrata。但し、本邦には近縁種複数植生する。木の高さは二~三メートルで雌雄異株。葉は互生し、楕円形を呈し、先端が尖り、葉の縁が細かい鋸歯状を成す。花は淡紫色で五~七月頃で、果実は九月頃から赤く熟し、十二月頃、落葉しても枝に残っている。このため、落葉後の赤い実が目立つ。庭木・鉢植・盆栽・活け花に使われるものの、この句で見るように鑑賞の対象は花より果実である。和名は、葉が梅の葉に似ていることや、花も梅に似ているころに由来する(以上はウィキの「ウメモドキ」に拠った)。]

 捨舟の内そと氷る入江かな       同

[やぶちゃん注:「捨舟」は「すてぶね」。私が凡兆の句で最も偏愛する一句である。漢詩の一首を読むような、まさに凄絶に凍りついた寂寥のモノクロームの景。堀切氏は前掲書の評釈で『晩年凡兆が住んだ難波近くの入江のさびしい光景であろうか』と記しておられるが、まさに落魄(おちぶ)れた孤独な彼の氷結したイメージが染み渡る絶句と言える。]

 こきまぜし雪の都を岡見かな      同

[やぶちゃん注:「古今和歌集」の「卷第一 春歌上」の素性法師の一首(五六番)

   花ざかりに、京を見やりよめる

 見わたせば柳櫻をこきまぜて都ぞ春の錦なりける

を冬の雪景色に転じたインスパイアである。]

 師走哉餅つく音の須磨の浦       同

 田の水のありたけ氷るあしたかな    同

[やぶちゃん注:この句も私は好きである。]

 煤掃や餅の序になでゝおく       同

[やぶちゃん注:「煤掃」は「すすはき」、「序に」は「ついでに」。堀切氏は前掲書で、本句を評釈されて、『師走も末になり、煤払いを済まさなければならないが、それほどの家具もない。そこで、餅搗きをした日、そのついでに、型ばかりちょっと煤掃きの真似事をしてみたことだ、というのである。煤掃きは厄介なことだが、いくら家財・什器が少ないといっても、正月を迎えるには、ともかく一年の埃を払っておかなければなるまい――まあ、手軽に片付けてむこう、といった気持であり、そこに興を覚えて詠んだものであろう。そうした心理が』座五の「なでゝ置おく」に『巧みに表わされている』とされる。また、「煤掃」に注されて『煤払い。近世では十二月十三日を煤掃きの日とし』てい『たが、実際にはそれ以後の適当な日を選んで行なわれた』とある。]

 秋篠や庄屋さへなきむらしぐれ     同(大和名所図会)

[やぶちゃん注:「秋篠」は現在の奈良市北西部の秋篠町(あきしのちょう)附近(グーグル・マップ・データ)。砧(きぬた)や霧の名所として知られた。「新古今和歌集」の歌人藤原良経の号秋篠月清の由来地。歌枕。「大和名所図会」は秋里籬島著で、竹原春朝斎画になる寛政三(一七九一)年刊の通俗地誌。]

 こりもせでことしも捨ぬ師走かな    同(大三物)

[やぶちゃん注:これは現実的な年の瀬の節目に、新らしい年を迎える際していろいろといらない無駄な物を捨てるべきだのに、捨てられずにいるという景よりも、世を捨てること(遁世者にとっては儚い一生の中のつまらぬ節目としての師走を意識する必要はない)が出来ない凡夫としての自身への自嘲の思いが含まれていよう。「大三物」は京都の井筒屋庄兵衛編で寳永八(一七一一)年刊の「大三物(おほみつもの)」か。但し、早稲田大学図書館古典総合データベースで同書PDF)を見ても載っていないようだが?]

 序いで三十四年になって、『ホトトギス』の募集週間記事の中に小洒(しょうしゃ)氏が「猿蓑研究日記」なるものを掲げ、『猿蓑』以外の俳書にある凡兆の句を抄出した。『俳家全集』に洩れたものとしては

[やぶちゃん注:「小洒氏」安井小洒は書肆で俳人・俳文学研究者。本名は知之。現在の兵庫県神戸市中央区上筒井通にあった「なつめや書店」店主。叢書『蕉門珍書百種』等の刊行を成した。]

 重なるや雪のある山たゞの山      加生(曠野)

 毒だめの其名もゆかし春の草      凡兆(薦獅子集)

[やぶちゃん注:「其名」は「そのな」。「毒だめ」コショウ目ドクダミ科ドクダミ属ドクダミ Houttuynia cordata の異名。「ゆかし」と言っているのは本草の和名の有力な一説である「毒を矯(た)める」の意に拠るものであろう。ウィキの「ドクダミ」によれば、『和名ドクダミの名称は、民間薬で毒下しの薬効が顕著であるので、毒を抑えることを意味する「毒を矯(た)める」から、「毒矯め(ドクダメ)」が転訛して「毒矯み(ドクダミ)」と呼ばれるようになったというのが通説である』とある。]

   のゝみや

 木枯に入相の鐘をすゞしめよ      加生(錦繡緞)

[やぶちゃん注:「のゝみや」嵯峨野(現在の京都市右京区西院日照町)にある西院野々宮神社(グーグル・マップ・データ。現在、東北六百メートルにある院春日神社が宮司を兼任)である。これは複式夢幻能の大曲の一つである「野々宮」を裁ち入れた一句であろう。サイト「the能.com」の「野々宮」から梗概を引く。――晩秋の九月七日、『旅僧がひとり、嵯峨野を訪れ、伊勢斎宮の精進屋とされた野の宮の旧跡に足を踏み入れます。昔そのままの黒木(皮のついたままの木)の鳥居や小柴垣を眺めつつ参拝していると、榊を持った上品な里女が現れます。女は、僧に向かい、毎年必ず長月七日に野の宮にて昔を思い出し、神事を行う、ついては邪魔をしないで立ち去るようにと話します。僧が、昔を思い出すとはどういうことかと尋ねると、かつて光源氏が、野の宮に籠もっていた六条御息所を訪ねてきたのがこの日だと告げ、懐かしそうに御息所の物語を語ります。そして、自分こそが、その御息所だと明かし、姿を消してしまいました』。中入。『別に現れた里人から、改めて光源氏と六条御息所の話を聞いた僧は、御息所の供養を始めます。すると、牛車に乗った御息所の亡霊が現れます。御息所は、賀茂の祭りで、源氏の正妻葵上の一行から、車争いの屈辱を受けたことを語り、妄執に囚われている自分を救うため、回向して欲しいと僧に頼みます。野の宮での源氏との別れの記憶にひたりながら、御息所は、しっとりと舞い、過去への思いを深く残す様子で、再び車に乗り、姿を消しました』――。「入相の鐘」(いりあひのかね(いりあいのかね))は日没の際に寺で勤行の合図に撞き鳴らす鐘のことで、座五「すゞしめよ」の「すずしむ」とは「涼しむ」或いは「淸しむ」と書くが、ここでは「涼しくする」の意ではなく、心を鎮め慰める。特に「祭事を行って神や霊などを慰める・鎮める」の意である。即ち、ここで凡兆はこの謡曲「野々宮」の六条御息所の亡霊に向かって呼びかけている、祈りかけているのである。木枯らしの吹き荒ぶ中、勤行の始まる入相の鐘に、そなたの裁ち切れぬ光源氏への思いを鎮めなされよ、と謂うのである。「錦繡緞」(現代仮名遣「きんしゅうだん」)は其角編「俳諧錦繡緞」(元禄一〇(一六九七)年刊)。但し、堀切氏の前掲書の「出典俳書一覧」には、本書について『この書の成立については、近年疑義がだされている』と注記がある(既出既注)。]

   かへりに

 都路や初夜に過たるもみぢ狩      同

[やぶちゃん注:この句は、もし前の句が並んでいるのであれば、「都路」「初夜」「もみぢ狩」は皆、謡曲に台詞や演題を組み合わせた遊びかと思うのだが、実際の「錦繡緞」(早稲田大学図書館古典総合データベース・PDF)を見ると、「13/133」(カーソルを画面の上に上げるとステイタス・バーが下りる)に載るが、前の句は「12/133」前のページの終わりで、間に其角・去来・其角・去来の四句が挟まっている。「初夜」「しよや(しょや)」で初更に同じで、現在の午後七時頃から九時頃まで。秋の京の町を夜遅くなって帰るのを紅葉狩りと洒落ただけのものか。]

等があるに過ぎぬが、なおこれによって「残る葉も残らずちれや」の句が『曠野』にあること、「曙や菫傾く」の句が『千鳥掛(ちどりがけ)』にあること、『猿蓑』所載の句のうち、「豆植る畑も木部屋(きべや)も名所かな」が『嵯峨日記』に、「渡りかけて藻の花のぞく流かな」が『卯辰集(うたつしゅう)』に、「門前の小家も遊ぶ冬至かな」が『韻塞(いんふたぎ)』に、それぞれ載っていること等を明にし得た。『曠野』及『卯辰集』は加生、『韻塞』だけが「不知作者」となっている。

[やぶちゃん注:「千鳥掛」「俳諧千鳥掛」は知足編で正徳二(一七一二)年序。

「豆植る畑も木部屋も名所かな」堀切氏の前掲書の評釈では、「猿蓑」所収(「卷之二 夏」)のそれを出して、

   題去來之嵯峨落柿舍二句

 豆植(うう)る畑(はた)も木べ屋も名処(めいしよ)哉

で出し(「題去來之嵯峨落柿舍」は「去來の嵯峨落柿舍に題す」。堀切氏の引用では前書を『「題去来之嵯峨落柿舎句」トアル内』とする)、『元禄四年四月二十三日、洛西嵯峨の落柿舎に去来を訪ねた折の挨拶吟である。このあたり、豆の植えてある畑も、焚き木を収めてある小屋も、よくよく尋ねると、みな由緒あるところなのだ、という句意である。落柿舎周辺に名所が多いという漠然としたことだけでなく、今では荒廃した庭になっているこの庭も昔はなかなかの名園だったのではないかなどと、いろいろ想像させるような趣を感じたのであろう。いずれにせよ、「名所」に「豆植る畑」「木べ屋」といった日常・庶民的なものを取り合わせたところに俳諧らしさがある』とされ、「豆植る」に注され、『夏の季題』と示された上で、『森田蘭氏の『猿蓑発句鑑賞』は陶淵明の詩「園田の居に帰る(其三)」(『古文真宝前集』『陶淵明集』)の冒頭の一節「豆を種(う)う南山の下 草盛んにして豆の苗は稀なり 晨(あした)に興(お)きて荒穢(こうわい)を理(おさ)め 月を帯び鋤(すき)を荷(にな)ひて帰る」をふまえたものか』とする(「荒穢」歴史的仮名遣は「こうくわい」で「雑草が生い茂って荒れ果てていること」を指す。「月を帯び」は「月の光を浴びながら」の意)。「木べ屋」は『焚き木などを収めておく小屋』とある。

「嵯峨日記」元禄四年四月十八日(グレゴリオ暦一六九一年五月一日)から同年五月四日(同前五月三十一日)までの芭蕉の落柿舎滞在中の日記。同記事は四月二十四日相当(日付を欠く、これは月待ちをして寝ずに明かしたことによるものと推定される)に出る。

   *

二十三日

 手をうてば木魂(こだま)に明くる夏の月

 竹の子や稚(をさなき)時の繪のすさみ

 一日(ひとひ)一日麥あからみて啼く雲雀

 能(のう)なしの眠たし我を行行子(ぎやうぎやうし)

 

    落柹舍に題す          凡兆

 豆植うる畑も木部屋も名所かな

 

 暮に及びて、去來、京より來たる。

 膳所昌房より消息。

 大津尙白より消息あり。

 凡兆來たる。堅田本福寺、訪ねて、その夜泊る。

 凡兆京に歸る。

   *

「卯辰集」楚常編・北枝補。宝暦年間(一七五一年~一七六四年)刊。

「門前の小家も遊ぶ冬至かな」堀切氏は前掲書で、『今日は冬至の日、寒さも一段と厳しくなるころである。ここの禅寺でも、それを祝っての休日で、僧衆は思い思いに暇を楽しんでいるようであるが、門前の小さな店屋の人たちも一日商売を休んで、のんびりと遊び暮らしている、という情景である。「門前の小家」を客観的に写生した句であるが、単なる写生にとどまらず、そこに庶民の生活ぶりの一端が生動しており、また、間接的に、いつもの厳しい空気とは異なってのんびりした禅寺の様子も描かれているのである』と評され、「門前」に注されて、『おそらく禅寺で』、『京東山あたりの寺の門前であろう』とされる。また、「冬至」に注されて、『陰暦十一月の中旬(陽暦では十二月二十二日ごろ)にあたり、昼が最短、夜が最長の日。冬の季題。この日から春がだんだん近づく日ということで仕事を休んで祝う。とくに医者と禅僧の祝い日であった。『滑稽雑談』に「和朝又禅家において朔旦に限らず、毎年冬至を専ら賀す。前一日冬夜と称して弟子の徒師家を饗す。俗に冬夜振舞と云ふ。冬至の目、師家又門弟に酒飯を送る」とある』とされる。凡兆は医師であった。「滑稽雑談」(こっけいぞうだん)は四時堂其諺(しじどうきげん)著の俳諧歳時記。正徳三(一七一三)年成立。「冬夜振舞」は「ふゆよぶるまひ」か。また最後に堀切氏は「韻塞」(李由・許六編で元禄九(一六九六)年刊)には『「冬至」と題し、「不知作者」』(作者知らず)『として収む。凡兆が刊行の年の元禄九年当時、獄中にあったからであろう』と述べておられる。]

 これだけの材料によって時代をしらべて見ると、『猿蓑』に先んじたものは第一に『曠野』(元禄二年)である。『卯辰集』は『猿蓑』と同じく元禄四年、『錦繡緞』は元禄十年で遥におくれているが、「木がらし」「みやこ路」の二句は、嵯峨遊吟として元禄三年の『いつを昔』に載っているから、『曠野』と『卯辰集』との間に入るべきであろう。加生というのは惟然の素牛と同じく、凡兆の前に用いたものであることも、ほぼこれで想像することが出来る。凡兆の注意者は早くからあったのである。

[やぶちゃん注:「いつを昔」(「何時を昔」であろう)別名「俳番匠(はいばんしょう)」と言う。其角編で元禄三(一六九〇)年刊。]

 私はその後気長に構えて凡兆の句を捜すつもりでいた。『俳家全集』所載の句の年代も出来るだけ知りたいと思ったが、容易に見つからない。「秋風に巻葉折らるゝ葉蕉かな」がやはり元禄三年の『華摘(はなつみ)』にあることを知ったのと、『錦繡緞』にない句が二句、『いつを昔』にあるのに気がついただけであった。

 草は皆女いじけぬさがの町       加生

 ひとつ松この所より浦の雪       同

 年代のわからぬ『俳家全集』中のものはあと廻しにして、『猿蓑』以前の加生時代の作品を通覧する。純客観派の本尊たる凡兆はまだ生れていないといって差支ない。この時代における凡兆は、他の作家に伍して異彩を放つほどの特色は持合せておらぬようである。ただその中で一つさすがに凡兆の作たるに恥じぬのは、「重なるや雪のある山たゞの山」であろう。いくつも重っている山の或峯には雪が白く積っており、或峯には雪も何も見えぬ、という眼前の景色をそのまま句にしたので、「たゞの山」という言葉は時と場合によっていろいろな意味に使われるが、ここでは「雪のある山」と続けたために、自ら対照的な意味になっている。巧な言葉ではないかも知れぬが、これ以上適切にこの感じを現す五文字は、恐らく見当るまいと思われる。

[やぶちゃん注:「俳家全集」正岡子規が手書きで作成した研究的労作。国立国会図書館デジタルコレクションのここから五冊分の子規の手書きのそれを総て見ることが出来る。

「華摘」其角編。元禄三年。

「草は皆女いじけぬさがの町」ネット検索では「さが」に「嵯峨」の漢字が当たったものが多数あり、一箇所で「女」に「おなご」(歴史的仮名遣「をなご」)と振ったものがあった。これは嵯峨野の草が「女がいじけたような感じで、しゃんと生えていない」ということに加えて、京の「嵯峨」野の地名と「女」の「いじけ」やすい「性(さが)」を掛けたものと読める。

「ひとつ松この所より浦の雪」「ひとつ松」は歌枕で近江八景の一つである「唐崎の一つ松」。サイト「京都の観光写真集」の「唐崎神社、唐崎の一本松」を参照されたい。]

 凡兆の『猿蓑』に収めた句に

 上行くと下くる雲や秋の天       凡兆

[やぶちゃん注:「天」は「そら」と読む。]

というのがある。上層の雲を吹く風と、下層の雲を吹く風と、その方向を異にするため、両方の雲が反対に動く。じっと仰いでいると、二つの雲の動きが交錯して目に入る。秋の空などによくある趣である。「上行くと下くる」という言葉によって、その反対の動きを現した手際も巧であるが、この句を一誦すると秋天の雲の動きが、まのあたり浮んで来るような気がする。

 凡兆の自然観察は精緻であってしかも生々としている。純客観派の本尊たる所以はこの辺に存するのであろう。

 「雪のある山たゞの山」は「上行くと下くる雲」ほど精緻な観察でもない。趣からいえばむしろ大まかであるけれども、雪のある山とない山との重り合った工合は頗る印象明瞭で、油画[やぶちゃん注:「あぶらえ」。]的な生趣に富んでいる。「重なるや」と上に置いたのも、下の大景を十分引緊めるだけの力がある。

 『曠野』と『猿蓑』との間には僅々二年の歳月しかないが、元禄の俳句はこの間において驚くべき飛躍を示した。『曠野』に発揮された平遠なる自然の趣は、『猿蓑』に至って更に高く更に深いものとなっている。ここに挙げた凡兆の二句の如きは、這間(しゃかん)の消息を語る好箇の一例であろう。『曠野』において「重なるや」の句を詠じた作者が、『猿蓑』に進んで「上行くと」の句を成すのは、極めて自然な径路である。凡兆の俳句生活は何時(いつ)頃からはじまるものかわからぬが、『曠野』に見えた「重なるや」の一句は、純客観派の本尊たるべき前途を語って余あるものと信ずる。

[やぶちゃん注:「這間(しゃかん)」「この間(かん/あいだ)」の意。「這」には本来は「この」という意はない。宋代に「この」「これ」の意を漢字で「遮個」「適箇」と書いたが、この「遮」や「適」の草書体を「這」と誤認して混同したことに拠る慣用表現である。既出既注。]

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