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2020/05/10

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 惟然 一

 

     惟  然

 

        

 多士済々たる蕉門の俳人のうち、世間に知られたという点からいえば、広瀬惟然(ひろせいぜん)の如きもその一人であろう。惟然の作品は元禄俳壇における一の異彩であるに相違ない。けれども彼はその作品によって知られるよりも、先ずその奇行によって知られた。飄々(ひょうひょう)として風に御するが如き奇行にかけては、彼は慥(たしか)に蕉門第一の人である。ただその奇行が何人にも奇として映ずる性質のものであるだけに、作品を閑却して奇行だけ伝えるか、あるいは奇行を説くのに都合のいい作品のみを引合に出すような結果になりやすい。子規居士が乞食百句の中で「ある月夜路通惟然に語るらく」と詠み、鳴雪翁が井月(せいげつ)の句集に題して「涼しさや惟然の後に惟然あり」と詠んだのは、いずれも後年の放浪生活を主としたものであるが、彼がそこに到るまでの径路を知るには、もっと前に遡って彼の作品を点検する必要がある。

[やぶちゃん注:「広瀬惟然」(「いねん」とも 慶安元(一六四八)年?~宝永八(一七一一)年)は美濃国関(現在の岐阜県関市)に富裕な酒造業の三男として生まれた。通称は源之丞。十四歳の時、名古屋の商家藤本屋に養子に入ったが、貞享三(一六八六)年三十九の時、妻子を捨てて関に戻り、出家した。貞享五(一六八八)年六月(この貞享五年九月三十日に元禄に改元)、松尾芭蕉が「笈の小文」の旅を終え、岐阜に逗留した折り、芭蕉と出逢って門下となった(宵曲は後でずっと後の元禄四年説をとるが、私は従えない)。翌年にも「奥の細道」の旅を終えた芭蕉を大垣に訪ね、その後、関西に滞在した芭蕉に近侍した。元禄七(一六九四)年、素牛(そぎゅう)の号で「藤の実」を刊行している。天真爛漫な性格で、晩年の芭蕉に愛された。芭蕉没後は極端な口語調や無季の句を作るようになり、同門の森川許六からは『俳諧の賊』と罵られている。一茶の先駆とも称される。「奥の細道」の逆順路の旅などもし、元禄一五(一七〇二)年頃からは芭蕉の発句を和讃に仕立てた「風羅念仏」を「風羅器」と呼ぶ木魚のような楽器を作り、それを唱えて芭蕉の追善行脚した(「風羅念仏」とは例えば「古池に、古池に、かはづとびこむ水の音、水の音、南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛」といった体(てい)のものであったという)。晩年は美濃に戻り、弁慶庵(ただ七つの什器のみで暮らすと決めたことに由来する)に隠棲した(以上は諸資料を合わせて作成した)。柴田宵曲が「其角」「嵐雪」に次いで蕉門のアウトローの一人である彼を選んだところに宵曲のオリジナルな炯眼を私は強く感ずる。私は蕉門の俳人で最も好きな句が多い俳人の一人が実にこの「惟然坊」なのである。されば、ここで伴蒿蹊(ばんこうけい)著で寛政二(一七九〇)年刊の「近世畸人傳卷之四」の「惟然坊」を示したく思う。底本は昭和一五(一九四〇)年岩波文庫刊森銑三校注本を用いた(踊り字「〱」は正字化した。【 】は二行割注)。

   *

惟然坊は美濃國關の人にしてもと富家なりしが、後甚貧しくなれり。俳諧好て芭蕉の門人なり。風狂して所定めずありく。發句もまた狂せり。されば同門の人彥根の許六、其句を集めて天狗集と名づく。ある時ばせをと供に旅寐したるに、木の引切たる枕の頭痛くやありけん、自の帶を解(とき)てこれを卷て寐たれば、翁みて、惟然は頭の奢(おごり)に家を亡(うしな)へりやと笑れしとなり。ある時、故鄕の篠田氏なる人のもとにて數日滯留し、浴に入たるが、いづこへか行んとおもひ出けん、其浴所に女の小袖のありけるを、あやまりて取かへ著つゝ、忽うせたり。さもしらで、其家くまぐままでをたづねて、大きにさわぎしが、四五里外の里にあそびてありしとなん。又師の發句どもをつゞりあはせて和讃に作りて常に諷ひありく。これを風蘿(ふうら)念佛といふ。【風蘿ははせをの號なり】

   まづたのむたのむ椎(しひ)の木もあり夏木立、音はあられか檜木笠、南無あみだ南無あみだ

此例にて數首あり。此人のむすめは尾張名護屋の豪家に嫁したるを、かく風狂しありく後は音信もせず。あるとき名古屋の町にて行あひたり。女は侍女下部など引つれてありしが、父を見つけて、いかにいづこにかおはしましけん、なつかしさよとて、人目も恥ず、乞丐[やぶちゃん注:「こつがい」。乞食。]ともいふべき姿なる袖に取つきて歎きしかば、おのれもうちなみだぐみて、

   兩袖に唯何となく時雨哉

といひ捨てはしり過ぬとなん。此人のかけるもの、或人のもてるをみしに、手いとよくて、詞書は、有ルモ千斤、不ㇾ如林下と書て、[やぶちゃん注:「千斤(きん)の金有るも、林下の貧にしかず」。千斤は約六百キログラム。)]

   ひだるさに馴てよく寐る霜夜哉

又關の人のもてるには詞書、世の中はしかじと思ふべし、金銀をたくはへて人を惠めることもあらず、己をもくるしましめんより、貧しうして心にかゝることなく、氣を養ふにはしかじ、學文して身に行ざらんより、しらずして愚なるにはしかじ。

   人はしらじ實(げに)此道のぬくめ鳥

これらにて其情その生涯のありさまをしるべし。

   *

「ぬくめ鳥」は「温め鳥」で、冬の寒い夜、鷹が小鳥を捕らえて摑み、足を暖めること。また、その小鳥。翌朝、鷹はその小鳥を放して、その飛び去った方向へはその日は飛ばぬとされた。]

 今普通に行われている『惟然坊句集』は、曙庵秋挙(あけぼのあんしゅうきょ)の編に成るもので、初版の総句数九十八、再版の増補のうち芭蕉の句の混入したものを除いて二十、更にこれを「有朋堂文庫」に収める時、藤井紫影(ふじいしえい)博士が追補されたもの三十二を加えても百五十句に過ぎぬ。(但この追補の中には重複の句が一つあるし、秋挙の編んだ中にある「梅さくや赤土壁の小雪隠」なども、『梅桜』にある桂山の句の誤入だとすれば、当然勘定から除かなければなるまい)しかし惟然の作品の諸俳書に散見するものは固よりこれにとどまらず、すべてを合算すれば「有朋堂文庫」所収の二倍以上に達するであろう。必ずしも材料に乏しいわけではない。

[やぶちゃん注:「曙庵秋挙」中島秋挙(安永二(一七七三)年~文政九(一八二六)年)は名は惟一、三河刈谷(かりや)藩士。井上士朗の門に学び、享和元(一八〇一)年、同門の松兄(しょうけい)とともに師の供をして江戸その他を旅した。翌年、致仕して郊外の小垣江(おがきえ)に曙庵を結んだ。生涯独身で諸国を巡り、俳諧三昧の暮らしをした。彼の編んだ「惟然坊句集」は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで明治四〇(一九〇七)年木下書店刊のそれが読める。

『「有朋堂文庫」に収める』昭和二(一九二七)年有朋堂書店刊「名家俳句集」で藤井紫影校訂。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める。

「藤井紫影」国文学者で俳人藤井乙男(おとお 慶応四(一八六八)年~昭和二一(一九四六)年)。紫影は号。兵庫県津名郡洲本町(淡路島の洲本市)生まれ。京都の第三高等学校を経て明治二七(一八九四)年帝国大学国文科卒、在学中に正岡子規を知り、句作を始める。福岡県立尋常中学修猷館の教諭から金沢の第四高等学校教授となる。金沢にて「北声会」を主宰し、『北国新聞』の俳壇選者となった。明治四一(一九〇八)年、名古屋の第八高等学校教授、翌年、京都帝国大学文科講師となり、後に教授、大正元(一九〇二)年に文学博士の学位を受け、昭和三(一九二八)年定年退職して名誉教授。二年後、帝国学士院会員。近世文学研究の基礎を作った学者の一人である(以上はウィキの「藤井乙男」に拠った)。

「梅さくや赤土壁の小雪隠」検索を掛けると、そこら中に惟然の句として掲げられてある。

「梅桜」(うめさくら)は四方郎(阪本)朱拙編で元禄一〇(一六九七)年刊。

「桂山の句の誤入」上記撰集の昭和一〇(一九三五)年に同原本を書写したものが、早稲田大学図書館の中村俊定文庫にあり(中村氏の筆写)、同図書館の「古典籍総合データベース」で確認したところ、ここの右頁の四句目に、

 梅さくや赤土壁の小雪隠吉井柱山

とある。宵曲は『桂山』とするが、この写本はどう見ても『柱』で「桂」とは読めない。但し、俳号としては「柱山」と「桂山」だったら、普通は後者を選びたくはなる。「吉井」という地名もどこの吉井か判らぬ。識者の御教授を乞う。しかし、ともかくもこの句は正直、句柄から見ても惟然の句ではないように私には見える。

 惟然は最初の号を素牛といった。彼が芭蕉の門に入ったのは何時頃か。

  関の住素牛何がし大垣の旅店を訪はれ
  侍りしに彼ふぢしろみさかといひけん
  花は宗祇のむかしに匂ひて

 藤の実は俳諧にせん花の跡       芭蕉

[やぶちゃん注:「住」は「ぢゆう」、「素牛」は「そぎう(そぎゅう)」、「彼」は「かの」。「ふぢしろみさか」は「藤白御坂」で「万葉集」以来の紀州の歌枕。]

とあるのが初対面であるとすると、元禄二年[やぶちゃん注:一六八九年。]の『奥の細道』の帰りか、元禄四年の秋、美濃を経て名古屋に遊んだ時か、いずれかのうちであろう。しかし『猿蓑』[やぶちゃん注:元禄四年刊。]には惟然の句は未だ見えず、元禄五年に至って、嵐蘭(らんらん)の『罌粟合(けしあわせ)』、支考の『葛(くず)の松原(まつばら)』、車庸(しゃよう)の『己(おの)が光(ひかり)』、句空(くくう)の『北の山』等にその句が見えるのだから、あるいは四年の方ではあるまいかと思う。但これは臆断で、慥な推定ではない。惟然はこの芭蕉の句によって自ら『藤の実』なる集を編むに至ったが、当時のこれらの書には皆「素牛」の名で出ている。

[やぶちゃん注:「ふぢしろみさかといひけん花は宗祇のむかしに匂ひて」「藤の実は俳諧にせん花の跡」飯尾宗祇の連歌の発句に山城国と近江国の国境にある「逢坂(おうさか)の関」を越えた坂道に白い藤の花の咲いているのを見た折り、

 關越えて爰(ここ)も藤白御坂かな

と興じた昔の花の香を受けて、の意。一説に宗祇の出身は紀州ともされる。「曠野」(卷之四)にはこの句を投げ入れて、

  美濃國關といふ所の山寺に藤の咲(さき)

  たるを見て吟じ給ふとや

と後書している。芭蕉は「俳諧連歌の祖たるかの宗祇は、優雅な白藤の花を連歌に読んだが、我らは、どうじゃ、このブラリとぶら下がる、雅趣もない「花の跡」の実鞘を訪ねて果敢に俳諧と致そうぞ」と、蕉門を叩いたばかりの素牛(惟然)に、興じながら、さりげなく俳諧の極意を示唆した巧まぬ挨拶に一句である。頴原退蔵は芭蕉の没する元禄七年作とし(これはもうあり得ない)、中村俊定や山本健吉は元禄二年の作とする。

「嵐蘭」松倉嵐蘭。既出既注

「車庸」潮江車庸。本名は長兵衛。大坂蕉門の一人。裕福な町人であったらしい。芭蕉の死の少し前の一句「秋の夜を打崩したる咄かな」(私の電子化)は彼の邸宅で詠まれたものである。

「句空」(生没年不詳)は加賀金沢の人。正徳二(一七一二)年刊行の「布ゆかた」の序に、当時六十五、六歳とあるのが、最後でこの年以後、消息は不明。元禄元(一六八八)年(四十一、二歳か)京都の知恩院で剃髪し、金沢卯辰山の麓に隠棲した。同二年、芭蕉が「奥の細道」の旅で金沢を訪れた際に入門、同四年には大津の義仲寺に芭蕉を訪ねている。五部もの選集を刊行しているが、俳壇的野心は全くなかった。芭蕉に対する敬愛の念は深く、宝永元(一七〇四)年に刊行した「ほしあみ」の序文では芭蕉の夢を見たことを記している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。]

 惟然の書いた「貧讃」を読むと、「今は十とせも先ならむ、芭蕉の翁の美濃行脚に、見せばやな茄子(なすび)をちぎる軒の畑、と招隠のこゝろを申遣したるに、その葉を笠に折らむ夕顔、とその文の回答ながら、それを絵にかきてたびけるが、今更草庵の記念となして、猶はた茄子夕顔に培(つちか)ひて、その貧楽にあそぶなりげり」ということがある。これだけでは書翰の応答のように解せられぬこともないが、『藤の実』には「芭蕉翁岐阜に行脚の頃したひ行侍て」という前書があって、「見せばやな」の句が出ているから、この時たずねて行ったのである。「藤の実は」の句を示したのと、茄子の絵を与えたのとは同じ時であるかどうか。芭蕉と惟然との交渉は慥に興味ある問題だけれども、遺憾ながらあまり資料とすべきものが見つからない。元禄五年にはじめてその句を見るという一事を以て、おぼつかない区劃にして置こうと思う。

[やぶちゃん注:「貧讃」芭蕉没後のもの。先に示した国立国会図書館デジタルコレクションの藤井紫影校訂「名家俳句集」に載るその全文を電子化する。

   *

  貧 讃

いにしへより富めるものは世のわざも多しとやらむ、老夫こゝの安櫻山に隱れて、食はず貧樂の諺に遊ぶに、地は本より山畑にして茄子に宜しく、夕顏に宜し。今は十とせも先ならむ、芭蕉の翁の美濃行脚に、見せばやな茄子をちぎる軒の畑、と招隱のこゝろを申遣したるに、その葉を笠に折らむ夕顏、とその文の囘答ながら、それを繪にかきてたびけるが、今更草庵の記念となして、猶はた茄子夕顏に培ひて、その貧樂にあそぶなりけり。さて我山の東西は木曾伊吹をいたゞきて、郡上川其間に橫ふ。ある日は晴好雨奇の吟に遊び、ある夜は輕風淡月の情を盡して、狐たぬきとも枕を竝べてむ、いはずや道を學ぶ人はまづ唯貧を學ぶべしと、世にまた貧を學ぶ人あらば、はやく我が會下に來りて手鍋の功を積むべし。日用を消さむに、經行靜坐もきらひなくば、薪を拾ひ水を汲めとなむ。

   *]

 素牛時代の初期における惟然の作品には

 山吹や水にひたせるゑまし麦  素牛(葛の松原)

[やぶちゃん注:「葛の松原」支考・不玉編。元禄五(一六九二)年刊。]

  南都の行

 此水に米頰ばらんかきつばた  同 (己が光)

[やぶちゃん注:「己が光」車庸編。元禄五年刊。]

 年の夜や引むすびたる繈守   同

[やぶちゃん注:「繈守」は「さしまもり」と読む。]

の如く『惟然坊句集』で御馴染のものもあり、

 蜻蛉や日は入ながら鳰のうみ  素牛(北の山)

[やぶちゃん注:「蜻蛉」は「とんばう」或いはトンボの古名としての「かげらふ」の孰れかで読んでいる。「鳰のうみ」は「にほ(にお)のうみ」で琵琶湖の異称。「北の山」句空編。元禄五年刊。]

 棹竹の雫落けりけしの花    同 (罌粟合)

[やぶちゃん注:「罌粟合」「俳諧罌粟合(けしあはせ)」嵐蘭編。元禄五年刊。]

 石菖の朝露かろしほとゝぎす  同 (己が光)

 初午や畠のむめのちり残り   同

 水無月や朝起したる大書院   同

[やぶちゃん注:「大書院」は「おほじよゐん」。]

  車庸子の庭興

 横わたす柄杓の露や錦草    同

[やぶちゃん注:「錦草」は「にしきぐさ」で紅葉の異称であろう。]

 一くゝり雙紙やしめる木槿垣  同

 鹿子ゆふ音きこゆ也夜の雪   同

 たてつけの日影ほそしや水仙花 同

の如く「有朋堂文庫」の追補に洩れたものもあるが、大体において極めて著実(ちゃくじつ)な発足を示している。「水にひたせるゑまし麦」は、山吹の句として永く価値の変らぬものであろうが、「蜻蛉や日は入ながら」の一句が最も感誦(かんしょう)に値する。かつて琵琶湖に浮ぶ夕暮の船中で、偶然こういう景色を見たため、直に船中の句と解していたが、湖畔の句としても差支ないように思う。琵琶湖のような大景に対して、無造作に夕暮の蜻蛉を点じ来ったのが、頗る自然で面白い。

[やぶちゃん注:「山吹や水にひたせるゑまし麦」「ゑまし麦」は「笑麥」「咲麥」で、大麦を水や湯に浸して水を含ませている状態。粒が膨らんで割れ目の出来たものを微笑んだ顔に喩えた呼称。そう処理したものを他の穀類と混ぜて炊いた。ここは、その含ませている最中の景。その水に鮮やかな黄色い花を咲かせた山吹の枝が挿してあるのであろう。静のリアリズムにして無駄のないかっちりとした構図である。

「南都の行」「此水に米頰ばらんかきつばた」前書に暫く躓いたが、「惟然坊句集」を見ると、この句は「夏」の部に、

   *

  於知足亭

    名所夏

涼まうか星崎とやらさて何處ぢや

澤水に米ほゝばらむ燕子花

   *

の形で出ているのに気づいた。「南都の行」は南都で行われる寺院の何の修「行(ぎやう)」だろうなどと考えてしまったのがそもそもの「なんとのかう」でただの「南都の旅」なのであり、しかもそれは句集にある通り、実際には「知足亭」での「名所」の「夏」の仮想吟なのであって「南都」に意味はないのではないか? と考えた瞬間、解けたは「伊勢物語」の第九段「東下り」の三河八橋のパロディだ。「そののほとりの木の蔭におりゐて、乾飯(かれいひ)食」おうとしたのだった。而して「そのに、かきつばたいとおもしろく咲きたり」ければ、「それを見て、ある人のいはく」、『「かきつばたといふ五文字を句の上に据ゑて、旅の心をよめ」と言ひければ』、男は「燕子花(かきつばた)」を折句(おりく)として「唐衣(らころも)つつなれにしましあればるばる來ぬる旅(び)をしぞ思ふ」と見事に「よめりければ、みな人、乾飯の上に淚おとして、ほとびにけり」だ。惟然は、その「乾飯」の「澤水にたっぷりと浸して「ゑまし米」にして頰ばってやる、とやらかしたのである。

「年の夜や引むすびたる繈守」「年の夜」は大晦日であるから、「引(ひき)むすびたる繈守(さしまもり)」とは緡(さし:銭に紐を通したもの)を善福の御守りとしてきりりと結んで借金取りを迎え撃つ姿ででもあろうか。いや、たいした緡でもないものを、一文字(注連繩)の代わりに結界として茅舎に引き結んで、借金取り以下の現世の魑魅魍魎を入れまいとする滑稽か。【2020年5月19日:追補】現在、「惟然坊句集」の電子化を行っているのであるが、そこでは、この句は五座が、

 年の夜や引結びたる𦄻守

という違う漢字となっていることに気づいた。そこで、この漢字表記の違いから、ネットを調べてみたところ、「𦄻」で「つなぎ」と読み、これは「繋ぎ」と同じで、特定地方の方言であり、米や銭などを各人各戸が出し合って相互扶助するという意味である、とブログ「言葉を“面白狩る”」のここと、ここにあった(そこには広島で近世に「𦄻」をそのような意味で用いる例があるように書かれてある)。確かに、小学館「日本国語大辞典」の「繋ぎ」の「方言」の条をみると、『各家などから金を出し合うこと。醵金(きょきん)』として採取地を長野県下伊那郡・広島県高田郡・徳島県を挙げ、別に『部落の共有物について一二月に決算すること』として、青森県三戸郡五戸を挙げている。これだと、確かに後者の決算は「年の夜」という時制とマッチする。しかし、そうなると、この一句は全くの映像の対象物が、少なくとも私には浮かんでこない。ある掟の概念だけで年の瀬の窮迫を惟然が詠むだろうか? という疑念が生ずる。しかも、岩波文庫は「繈守(さしまもり)」であって「𦄻守(つなぎもり)」ではないのである。さらに言えば、妻子を捨てて風羅に生き、そして死ぬことを望んだ惟然坊の句としては、歳末吟としては如何なものかとも思われるのである(いや、そうした俗に墮ちる側面も彼にはあり、それはそれで私には魅力的なのであるが)。やはり、識者の御教授を俟つ他あるまいというところである。

「鳰のうみ」の「鳰」は国字で、生物種としてはカイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ Tachybaptus ruficollis を指す。

「けしの花」キンポウゲ目ケシ科ケシ属ヒナゲシ Papaver rhoeas

「石菖の朝露かろしほとゝぎす」「石菖」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus。多年草。北海道を除く日本各地に自生し、谷川などの流れに沿って生える。庭園の水辺などにもよく植えられる。全体はショウブをごく細くした感じで同じ芳香もあるが、各部が小型で根茎は細くて硬く、葉も細くて幅は一センチメートルほど、長さ二十~五十センチメートルの線形を成し、ショウブと異なり中肋が目立たない。四~五月頃、葉に似た花茎を出し、中ほどに淡黄色の細長い肉穂花序をつける。グーグル画像検索「Acorus gramineus」をリンクさせておく

「初午」(はつうま)は、通常、稲荷社の祭の日である旧暦二月の最初の午の日を指す。稲荷社の本社伏見稲荷神社の祭神宇迦御霊神(うかのみたまのかみ)が伊奈利山へ降りた日が和銅四年二月のその日が初午であったことから、全国で稲荷社を祀るとされる。また、この日を蚕や牛・馬の祭日とする風習もある。江戸時代には、この日に子供が寺子屋へ入門した。本来はその年の豊作祈願が原型で、それに稲荷信仰が結びついたものである(以上はウィキの「初午」に拠った)。

「一くゝり雙紙やしめる木槿垣」双紙を一括りにして締めるのは引っ越しの体(てい)か。「木槿」はアオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属ムクゲ Hibiscus syriacus で夏の季語だが、これは「双紙」と言い、「木槿垣」(むくげがき)と言い(これはそこを覗いている景である)、ちょっと訳ありな女の存在を感じさせるのだが、今一つ、よく判らない。何か原拠の裁ち入れがあるか。

「鹿子ゆふ音きこゆ也夜の雪」「鹿子(かのこ)結ふ」は鹿子染め(絞り染めの一種で、布を結び縛って染色することで染まらない白い鹿の子の斑点のような模様を作り出すことを謂う)のために布地を摘まんでは糸で縛る作業を指す。

「たてつけ」「建付け」は戸や障子などを隙のないようにぴったりと閉めた状態を指す。]

 次いで元禄六年にも

 風寒き流れの音や手水鉢    素牛(薦獅子集)

[やぶちゃん注:「手水鉢」は「てうぢばち(ちょうずばち)」。「薦獅子集」「俳諧薦獅子(こもじし)集」巴水編。元禄六(一六九三)年自序。

 陽炎や庇ふきたる杉の皮    同

[やぶちゃん注:「陽炎」は「かげろふ(かげろう)」、「庇」は「ひさし」。]

 紫の花の乱やとりかぶと    同

[やぶちゃん注:「乱(亂)や」は「みだれや」。]

 洗菜に朝日の寒き豕子かな   同

[やぶちゃん注:「洗菜」は「あらひな(あらいな)」、「豕子」は「ゐのこ」。]

 起ふしにたばふ紙帳も破ぬべし 同 (流川集)

[やぶちゃん注:「紙帳」は「しちやう(しちょう)」、「破ぬべし」は「やれぬべし」。「流川集」(ながれがわしゅう)は露川編。元禄六年刊。]

その他の句があり、『薦獅子集』の肩書に「京」とあることなども、当時の居所を示す点で注意しなければならぬが、元禄七年に『藤の実』の出ずるに及んで、惟然の力量は完全に発揮された。『惟然坊句集』にある客観的好句なるものは、大部分がこの時代に成ったのではないかという気がする位である。

[やぶちゃん注:「とりかぶと」強力な有毒植物として知られるモクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum は本邦には紫色の独特の袋状の花序を持つヤマトリカブトAconitum japonicum var.montanum など約三十種が自生する。和名の由来は花が古来の衣装である舞楽で用いられる鳥兜や烏帽子(えぼし)に似ているからとも、鶏の鶏冠(とさか)に似ているからとも言われる。鳥兜に見えるのは萼(がく)で、花弁は下の画像の上に少し飛び出た部分だけである。

「豕子」は「亥の子の祝い」で旧暦十月の亥の日に行う収穫祭。この亥の刻(午後九時~十一時)に田の神様をお祀りする。特に西日本でかく呼び、関東地方では旧暦十月十日に行われる「十日夜 (とおかんや)」に相当する。この日、収穫を祝って新穀の餅を食し、子供たちが藁束や石で地面を打って回る。元は中国の俗信に基づく宮中の年中行事で、この亥の月の亥の日の亥の刻に餅を食べれば無病息災であるとされる。「玄猪 (げんちょ)」とも呼び、その餅を「亥の子餅」と呼ぶ。「亥の子餅」は新米にその年に収穫した大豆・小豆・大角豆(ささげ)・胡麻・栗・柿・糖(飴)の七種の粉を混ぜて作った餅で、多産である猪(いのしし)の子「瓜坊(うりぼう)」の色や形を真似て作られる。

「起ふしにたばふ紙帳も破ぬべし」「起き臥しに庇(たば)ふ紙帳も破(やれ)ぬべし」で、「紙帳」は紙を張り合わせて作った蚊帳 (かや) のことを指し、「庇(たば)ふ」は虫に刺されるのから「身を守る」ためのそれ「も」使い古して「破」れてしまいそう、役にたたなくなりそうだ、という心もとない夏の夜の侘しさを詠む。

「流川集」(ながれがわしゅう)は露川編。元禄六年刊。]

 張残す窓に鳴入るいとゞかな   素牛(藤の実)

[やぶちゃん注:俳諧撰集「藤の実」(素牛(=惟然)編)元禄七年跋。]

 朝露のゐざり車や草の上     同

  湖上吟

 田の肥に藻や刈寄る磯の秋    同

[やぶちゃん注:「肥」は「こえ」。「刈寄る」は「かりよする」。]

 物干にのびたつ梨の片枝かな   素牛

[やぶちゃん注:「片枝」は「かたえ」。]

 しがみ付岸の根笹の枯葉かな   同

[やぶちゃん注:「しがみ付」は「しがみつく」。擬人法。]

  尋元政法師墓

 竹の葉やひらつく冬の夕日影   同

[やぶちゃん注:「尋元政法師墓」は「元政(げんせい)法師の墓を尋(たづ)ぬ」。]

  万句興行のみぎりに

 初霜や小笹が下のえびかづら   同

 鵜の糞の白き梢や冬の山     同

  詣因幡堂

 撫房の寒き姿や堂の月      同

[やぶちゃん注:「詣因幡堂」は「因幡堂(いなばだう(いなばどう))に詣づ」。「撫房」は「なでばう(なでぼう)」。]

 茶をすゝる桶屋の弟子の寒かな  同

[やぶちゃん注:「桶屋」は「をけや(おけや)」。「寒」は「さむさ」。]

 枯蘆や朝日に氷る鮠の顔     同

[やぶちゃん注:「鮠」は「はえ」。]

 燕や赤土道のはねあがり     同

[やぶちゃん注:「燕」は「つばくろ」。]

 とりちらす檜木の中や雉の声   同

[やぶちゃん注:「檜木」は「くれき」。]

  詣聖廟

 二月や松の苗売る松の下     同

[やぶちゃん注:「詣聖廟」は「聖廟に詣(まう)づ」。「二月」は「きさらぎ」。]

 かるの子や首指出して浮萍草   同

[やぶちゃん注:「浮萍草」は「ひるもぐさ」と読む。]

  嵯峨鳳仭子の亭を訪し比

  川風涼しき橋板に踞して

 涼しさや海老のはね出す日の陰り 同

[やぶちゃん注:「鳳仭子」は「ほうじんし」、「訪し比」は「とひしころ」、「踞して」は「きよして(きょして)。」]

  遣悶

 雞鳴や柱蹈ゆる紙帳越      同

[やぶちゃん注:「遣悶」は「けんもん」と音読みしておく。「悶(もだ)えを遣(や)る」で「言い表せぬ苦悶を謂いやる」といった意。「雞鳴や」は「とりなくや」、「蹈ゆる」は「ふまゆる」、「紙帳越」は「しちやうごし(しちょうごし)」。]

 「梅の花赤いは赤いは赤いはな」流の句でなければ惟然らしくないと思う人は、こういう句の多いのをむしろ意外とするかも知れぬ。けれども元禄の俳句はそう簡単に片附かぬところに特色がある。素牛時代にこの種の好句を示した惟然が、早く芭蕉の認むるところとなったのは怪しむに足らぬであろう。

 われわれはこの十余句を通覧して、如何にも生々たる自然の呼吸を感ずる。しがみついている岸の根笹の枯葉も、鵜の糞のために白くなっている冬山の木の梢も、枯蘆の下の氷にじっとしている鮠の顔も、皆これわれわれの眼前に味い得べき趣であって、その間に時代の距離も何もない。惟然の感じた通りを、直に身に感ずることが出来る。それがこの種の句の強味であるが、同時にこれだけ手際よく纏めた惟然の伎倆(ぎりょう)にも注目しなければならぬ。

 深草の元政上人(げんせいしょうにん)は、予が墳には竹三竿(かん)を植えよと遺言して死んだ人である。竹三竿とは修辞上の詞であるのを、その辞句に拘泥して今に至るまで三本しか竹を残してないということが、往年『ホトトギス』の「随筆」に見えていたかと記憶する。惟然の詣(まい)った時代にも無論三本だったのであろう。その竹の葉が夕日の光の中にひらひらと動く。風などのない場合に相違ない。冬の夕方のしずかな空気は、この一句に溢れている。「ひらつく」という俗語が、竹の葉の動きと、それにさしている夕日の色とを如実に現しているように思う。巧にして自然な何である。

 因幡堂の句は『惟然坊句集』には「さむき影なり」となっている。影を点じた方が複雑になるかも知れぬが、調子は「寒き姿や」の方が引緊っている。撫房というのは撫仏(なでぼとけ)のことだそうである。

 「かるの子」というのは軽鴨(かるがも)のことであろう。『大言海』に軽鴨、なつがもに同じと出ている。「有朋堂文庫」の註には「かりの子」か「かもの子」の誤だろうとあるが、単にカルとのみ称える地方もあるようだから、このままで差支あるまい。小川芋銭氏の画にでもありそうな小景である。

 これらの句は前に挙げた『己が光』その他のものに比して、別に傾向を異にするわけではない。ただ調子が緊密に赴くと共に、内容においても深味を加えており、仮に『猿蓑』集中に移したところで、さのみ遜色を感ぜぬほどの出来栄であると思う。『藤の実』は惟然最初の撰集であるだけに、大に力を用いたものであろう、自己の作品のみならず、全体にわたりて佳句に富んでいる。しかして後はこの集を最後に素牛の名を棄て、惟然の号を用いるに到ったのであった。

[やぶちゃん注:「いとゞ」通常はカマドウマの古名であるが、「鳴入る」とあるので、ここはコオロギの異名の方。

「朝露のゐざり車や草の上」の「ゐざり車」は足の不自由な者や病人、多くはそうした乞食などが乗った台車。箱若しくは板に四つの木製の車輪を付けたもの。そこに胡坐などをかいたりして座り、手に持った棒で地面を突くか、車輪を手で動かすか、或いは取り付けた縄や手押し部分で介助する者が動かした。この映像には最早、乗り手はおらず、朝露に草も乗り捨てられたそれもぐっしょりと濡れたままにある。そこをゆっくりとクロース・アップしてゆく(やはりアンドレイ・タルコフスキイの映像のようではないか)。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」では、『客観的な叙景の句であるが、惟然の行雲流水の孤独な境涯と重ねると、しみじみとした思いが生じてくる』との評釈しておられる。

「湖上吟」琵琶湖磯辺の秋景を詠んだもの。

「田の肥」水田に肥料。淡水藻や水草を田のそれにして撒いた。そればかりではなく、湖沼の底の土なども一緒にそうした肥えにしたのである。

「元政法師」俗名を石井吉兵衛と言う日蓮宗の僧。堀切氏の前掲書によれば、『江戸前期の人』で、『はじめ彦根侯に仕えた武士であったが、のち京都深草の竹葉庵に隠棲し、深草の元政と称された。国学・和歌・茶に通ずる。寛文八』(一六八八)『年二月十八日寂。遺言によって遺骸を竹葉庵の傍らに埋め、竹二、三本を植えて墓の代わりとした』とある。また、箕園氏に書かれた「釣り鐘二題」の「その一 妙法寺の梵鐘(兵庫県福崎町指定文化財)および元政上人と高尾太夫の恋物語」次の二ページに及ぶ)に若き日の波乱万丈の詳しい話が語られてあるので参照されたい。そこには二十六才で出家し、享年四十六であったとする。

「万句興行」寛文一三(一六七三)年三月に当時は俳諧師として井原鶴永と名乗っていた三十二歳の井原西鶴が大坂の生國魂(いくくにたま)神社の南坊(みなみぼう)で行った、十二日間を費やして百韻百巻を成就した万句興行のこと(参照した「大阪府立中之島図書館」公式サイト内の「西鶴と生玉」によれば、『「出座の俳士総べて百五十人、猶追加に名を連ねた者を加へると、優に二百人を超える」』ものであったという。野間光辰氏の「刪補 西鶴年譜考證」より引用)。同年六月にはそれを「生玉万句」として板行し、西鶴の名(西鶴という号は翌年(寛文十三年は九月二十一日に延宝に改元した)延宝二年一月の「歳旦発句集」に初めて見える)を知らしめることとなったもの。

「えびかづら」ブドウ目ブドウ科ブドウ属ヤマブドウ Vitis coignetiae の古名。

「鵜」カツオドリ目ウ科ウ属カワウ Phalacrocorax carbo。堀切氏前掲書によれば、『一般には夏の季語であるが』混空(こんくう)著の『『産衣』(元禄十一年刊)に「ただ鵜とばかりは雑なり」と』見えるとある。

「因幡堂」京都市下京区因幡堂町(いなばどうちょう)にある真言宗福聚山平等寺(びょうどうじ)(グーグル・マップ・データ)の通称であろう。この寺の本尊は薬師如来であり、古くから病気平癒の御利益があるから、撫仏(宵曲にこれは「有朋堂文庫」の注に『撫房はなで佛をふ』とあるのを引いたもの)というのは腑には落ちぬことはない。

「鮠」の「はえ」の読みは底本に従ったが、堀切氏前掲書では「はや」とする。「ハヤ」類(「ハエ」「ハヨ」とも呼ぶ)で、これは概ね、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Pseudaspius hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

の六種を指す総称と考えてよい。漢字では他に「鯈」「芳養」とも書き、要は日本産のコイ科 Cyprinidae の淡水魚の中で、中型のもので細長いスマートな体型を有する種群の、釣り用語や各地での方言呼称として用いられる総称名であって、「ハヤ」という種は存在しない。以上の六種の内、ウグイ・オイカワ・ヌマムツ・アブラハヤの四種の画像はウィキの「ハヤ」で見ることができる。タカハヤカワムツはそれぞれのウィキ(リンク先)で見られたい。]

「とりちらす檜木の中や雉の声」「檜木」を「くれき」と読むのは(底本にそうある)、当て訓であろう。「くれき」は「榑木」が正しく、ヒノキやサワラなどから製した板材のことを指し、これは近世には屋根の葺き板材に使用された。「榑(くれ)」はもと、「切り出したままの皮のついた材木」・「厚い板材」で、次に「板屋根を葺くための薄いへぎ板」の意である。ここは雉が鳴くのであれば、原義の「切り出したままの皮のついた材木」が取り散らかされた山麓或いは貯木された野の景とすべきであろう。

「聖廟」「有朋堂文庫」の注には、『聖廟は天滿宮』とのみある。【2020年5月19日:改稿】これは句の「松の苗売る松の下」から、「曽根の松」で知られた兵庫県高砂市曽根にある曽根天満宮(グーグル・マップ・データ)である。ウィキの「曽根天満宮」によれば、『この神社の創建年代については不詳であるが、社伝では』延喜元(九〇一)年、『菅原道真が大宰府に左遷される途上に伊保の港から上陸し、「我に罪なくば栄えよ」と松を手植えした。後に播磨国に流罪となった子の菅原淳茂が創建したものと伝えている。江戸時代には江戸幕府から朱印状も与えられていた』。『道真が手植えしたとされる松は霊松「曽根の松」と称された。初代は』寛政一〇(一七九八)年に『枯死したとされる』が、一七〇〇年代初期に『地元の庄屋が作らせた約』十分の一の『模型が保存されており、往時の様子を知ることができる。天明年間』(一七八一年から一七八九年)『に手植えの松から実生した二代目の松は』、大正一三(一九二四)年に『国の天然記念物に指定されたが』、昭和二七(一九五二)年に『枯死した。現在は五代目である。枯死した松の幹が霊松殿に保存されている』とある。ここに出るのは、まさにその初代の松なのである。

「かるの子」宵曲の言う通り、これでカモ目カモ科マガモ属カルガモ Anas zonorhyncha でよかろう。

「浮萍草(ひるもぐさ)」は単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科ウキクサ亜科 Lemnoideae 類ととってよかろう。無論、ウキクサ属ウキクサ Spirodela polyrhiza としても問題はない。

「小川芋銭」(慶応四(一八六八)年~昭和一三(一九三八)年)は私の好きな日本画家。私はよく知っているが、知らない方のためにウィキの「小川芋銭」から引いておく。本名は茂吉。生家は『武家で、親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市城中町)に移り』、『農家となる。最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる』。『生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔(現在の牛久市城中町)で農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるという』。『身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られている』。『芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、「牛里」の号で俳人としても活発に活動した。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残している』とある。

「鳳仭子」坂井野明(やめい ?~正徳三(一七一三)年)は博多黒田家の浪人。奥西氏とも。去来と親交が深く、嵯峨野に住んだ。野明の俳号は芭蕉が与えた。鳳仭とも称した(伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「関係人名集」の記載に拠った)。

「橋板に踞して」堀切氏は前掲書で『川岸の桟橋にたたずんで』と訳しておられる。

「涼しさや海老のはね出す日の陰り」これは「藤の実」の句形。「有朋堂文庫」では下五が「日の曇り」である。視覚的にはこの「陰り」の方が断然よい。

「雞鳴や柱蹈ゆる紙帳越」「詩経」の「国風」の「鄭風」(ていふう)の「風雨」を諧謔したか。そちらは女が男に逢えた喜びであるが、ここは「遣悶」から、自ら選んだとは言え、中年男の孤独な悲哀を感じさせるものとなっている。中七「柱蹈ゆる」が魂の体感としてズシりと重くかかる。

「梅の花赤いは赤いは赤いはな」この座五は「去来抄」(自筆稿本)及び「惟然坊句集」のもの。同板本では、

 梅の花赤いは赤いは赤いかな

竹内玄玄一の「俳家奇人談」(正篇)(文化一三(一八一六)年刊)では、

 梅の花赤いは赤いはあかいはの

となっている。彼の口語調の直叙体の真骨頂を代表する一句である。「去来抄」では(昭和二六(一九五一)年岩波文庫刊の頴原退蔵校訂「去来抄・三册子・旅寝論」に拠った。一部に私が読みを振った)、

   *

  梅の花あかいハあかいハあかいハな 惟然

去來曰、惟然坊がいまの風大かた是の類也。是等ハ句ハ見えず。先師迁化の歲の夏、惟然坊が俳諧導びき給ふに、其秀たる口質(くちぐせ)の處よりすゝめて、磯際(いそぎは)にざぶりざぶりと浪うちて、或は杉の木にすうすうと風の吹わたりなどゝいふを賞し給ふ。又俳諧ハ季先(きさき)を以もつて無分別に作すべしとの給ひ、又この後いよいよ風體(ふうてい)かろからんなど、の給ひける事を聞(きき)まどひ、我が得手(えて)にひきかけ、自(みづから)の集の歌仙に侍る、妻呼雉子(つまよぶきじ)、あくるがごとくの雪の句などに評し給ひける句ノ勢、句の姿などゝいふ事の物語しどもハ、皆忘却セると見えたり。

[やぶちゃん補注:「季先」は気勢の意。

「妻呼雉子」去来の「妻呼雉子の身をほそうする」。

「あくるがごとく」惟然線編「藤の実」に載る野明の「ふるふがごとくこぬか雪ふる」のことであろう。]

   *

とボコボコに批判しているが、昭和五三(一九七八)年(第五版)小学館刊「日本古典文学全集 近世俳句俳文集」の栗山理一氏に評釈には、『こういう句風については同門の去来や許六(きょりく)らから非難されたが、ことさらに新奇を求めたというよりも、心の自然な流露にまかせたまでのことであろう、親交のあった鬼貫からの影響も考えられる』とあるのは私の肯ずるところである。私の最初の惟然坊との出逢いはこの句であった(当時、私は中学三年、尾崎放哉に惹かれて自由律俳句を作り、『層雲』にも入っていた。私の卒論は「尾崎放哉論」で、サイトでは完備した全句集も作ってある)。]

 素牛時代における惟然の句は、先ず以上説いたようなものである。これらの句は絶対に他人の窺うを許さぬ独造の天地とはいい難いにせよ、如是(にょぜ)の作品のみを以てしても、惟然は当時における有力な作家と称して差支ない。飄々たる惟然の風格を愛するの余り、この種の句における伎倆を閑却するのは、真に惟然を知る者ではあるまいと思う。

[やぶちゃん注:「独造」ママ。]

 子規居士は明治二十八年の須磨保養中、古人の集を点検してその好句を算えた結果を鳴雪翁に報告したことがあった。この居士の標準によると、好句百以上のもの蕪村、六十以上白雄(しらお)、四十以上几董(きとう)、三十以上去来という順序であるが、惟然は嵐雪、鬼貫、凡兆、嵐外(らんがい)等と同じく、自二十まで二十四の中にあり、「意外にも見あげたる」者の中にも惟然を挙げている。恐らく居士もそれ以前は惟然を以て単なる風狂的作家とし、自己の新なる標準に照して採り得べき句の少いものと解していたのであろう。居士は惟然の如何なる句を好句の中に算えたか、その実例がわからぬのは遺憾であるが、『藤の実』所収の句はその大半を占めておりはせぬかと思われる。少くとも居士が意外に見上げたという所以のものは、惟然がよく自然の趣を得た点にありそうな気がするのである。

[やぶちゃん注:「明治二十八年」一九九五年。これについては、宵曲は「子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 須磨保養院」にも書いている(リンク先は私の電子化注)。

「白雄」加舎白雄(かやしらお 元文三(一七三八)年~寛政三(一七九一)年)は与謝蕪村・大島蓼太などとともに「中興五傑」及び「天明の六俳客」の一人。名は吉春。信州上田藩士の次男として江戸深川に生まれた。五歳で生母に死別し、十三歳で家出、上州館林で禅寺に修行したともされるが、詳細は不詳。俳諧は初め青峨に学び、次いで烏明(うめい)に入門、さらに烏明の師鳥酔(ちょうすい)にも学んだ。諸国を遍歴したが、とくに信州へはしばしば足を運んで、多くの門弟を育てた。安永九(一七八〇)年、江戸日本橋に春秋庵を開いて俳壇に一勢力を築いた。師鳥酔の説を継ぎ、俗な世界を離れて自然な趣きを重んじることを主張した(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「几董」高井几董(たかいきとう 寛保元(一七四一)年~寛政元(一七八九)年)は京の俳諧師高井几圭の次男として生まれた。父に師事して俳諧を学んだが、特に宝井其角に深く私淑していた。明和七(一七七〇)年三十歳で与謝蕪村に入門、当初より頭角を現し、蕪村を補佐して一門を束ねるまでに至った。安永七(一七七九)年には蕪村と同行して大坂・摂津・播磨・瀬戸内方面に吟行の旅に出た。温厚な性格で、蕪村の門人全てと分け隔て無く親交を持った。門人以外では松岡青蘿・大島蓼太・久村暁台といった名俳と親交を持った。天明三(一七八四)年に蕪村が没すると、直ちに「蕪村句集」を編むなど、俳句の中興に尽力した。京都を活動の中心に据えていたが、天明五(一七八五)年、蕪村が師であった早野巴人の「一夜松」に倣い、「続一夜松」を比野聖廟に奉納しようとしたが叶わなかった経緯から、その遺志を継いで関東に赴いた。この際に出家し、僧号を詐善居士と名乗った。天明六(一七八六)年に巴人・蕪村に次いで第三世夜半亭を継ぎ、この年に「続一夜松」を刊行している(以上は概ねウィキの「高井几董」に拠った)。

「嵐外」辻嵐外(明和七(一七七〇)年~弘化二(一八四五)年)は江戸後期の俳人。越前の生まれ。名は利三郎。敦賀で呉服商を営む。高桑闌更・加藤暁台・五味可都里(かつり)に学んだ。後、甲府に移り住み、多くの門人を育て、「甲斐の山八先生」と呼ばれた。]

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