萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 遊園地(るなぱあく)にて
遊園地(るなぱあく)にて
遊園地(るなぱあく)の午後なりき
樂隊は空に轟き
廻轉木馬の目まぐるしく
艶めく紅(べに)のごむ風船
群集の上を飛び行けり。
今日の日曜を此所に來りて
われら模擬飛行機の座席に乘れど
側へに思惟するものは寂しきなり。
なになれば君が瞳孔(ひとみ)に
やさしき憂愁をたたえ給ふか。
座席に肩を寄りそひて
接吻(きす)するみ手を借したまへや。
見よこの飛翔する空の向ふに
一つの地平は高く揚り また傾き 低く沈み行かんとす。
暮春に迫る落日の前
われら既にこれを見たり
いかんぞ人生を展開せざらむ。
今日の果敢なき憂愁を捨て
飛べよかし! 飛べよかし!
明るき四月の外光の中
嬉々たる群集の中に混りて
ふたり模擬飛行機の座席に乘れど
君の圓舞曲(わるつ)は遠くして
側へに思惟するものは寂しきなり。
【詩篇小解】 戀愛詩四篇 「遊園地にて」「殺せかし! 殺せかし!」「地下鐵道にて」「昨日にまさる戀しさの」等凡て昭和五―七年の作。今は既に破き棄てたる、 日記の果敢なきエピソートなり。 我れの如き極地の人、 氷島の上に獨り住み居て、 そもそも何の愛戀ぞや。 過去は恥多く悔多し。 これもまた北極の長夜に見たる、 佗しき極光の幻燈なるべし。[やぶちゃん注:「エピソート」はママ。筑摩版全集校訂本文では「エピソード」に〈消毒〉(私は同全集の有無を言わさぬ強権的補訂校訂をかく呼称している)されてある。]
[やぶちゃん注:「たたえ」「向ふ」はママ。
「遊園地(るなぱあく)」とはルナ・パーク (Luna Park:月の公園) で、古くから世界各地にあった遊園地の愛称である。ウィキの「ルナパーク」他によれば、初めてのものは1903年開園で、アメリカ合衆国ニュー・ヨーク市ブルックリン区の南にあるコニー・アイランド(Coney Island)に作られた。この名は一九〇一年にニュー・ヨーク州バッファローで開催された国際見本市「汎アメリカ万国博覧会」(Pan-American Exposition)の出し物であった「月への旅行」(A Trip to the Moon) という遊園地アトラクションの宇宙船から名を取ったものであった。この初代のルナ・パークの成功によって、世界中の遊園地にこの名が用いられ、例えば本邦では浅草に「ルナパーク」明治四三(一九一〇)年九月十日に東京市浅草区公園六区「日本パノラマ館」の跡地約一万二千坪に開業し、夜間営業もしたため、「月の公園」といわれ、高さ十五メートの人工の山と瀑布、天文館・木馬館(メリーゴーラウンド)・汽車活動写真館・映画館「帝国館」・飲食店などを設けた。ここは人気があり、盛況であったが、翌一九一一年四月二十九日に漏電が原因で火災により焼失し、僅か八ヶ月のみの営業で再建されなかった。また、それを引き継ぐ形で、大坂に「新世界ルナパーク」が明治四五・大正元(一九一二)年に開園、大正一二(一九二三)年まで営業している。大阪の新世界にあり、こちらは敷地面積十三万二千平方メートルで、初代通天閣から入り口までロープウェイが伸びているなど、ユニークな造りであったという。朔太郎は明治四十三年一月二十九日に上京し、三月頃まで東京にいた。ハイカラ趣味の彼であるから、浅草の「ルナパーク」に行った可能性は頗る高く、彼がその「ルナパーク」という呼称を偏愛し、遊園地の別称と勝手にしたであろう可能性は想像に難くない。但し、この「遊園地(るなぱあく)」は浅草のそれではない。現在、群馬県前橋市大手町に正式名称「前橋市中央児童遊園」・愛称「前橋るなぱあく」がある(グーグル・マップ・データ)が、この名は本詩篇によるもの(公募)である。但し、この前橋市立の遊園地自体は昭和二九(一九五四)年開園で、ここで朔太郎が名指した直接のそれではない。nagashima氏のブログ「271828の滑り台Log」の「前橋市るなぱあく『写真で見る るなぱあくの歴史』続」によれば、
《引用開始》
『写真で見る るなぱあくの歴史』を見て初めて分かったことは、この遊園地の前史です。江戸時代からここは窪地であって、明治の中ごろには乳牛が飼育される「赤城牧場」が設立されました。四半世紀の営業の後、前橋市に譲渡され、動物園が設けられ遊具も置かれて、市街地から歩いて行ける公園として市民に親しまれました。戦後の昭和の大合併(1954年)を記念して、現在の「るなぱあく」の前身である前橋市中央児童遊園地となりました。
戦前の公園の様子が分かる一枚です[やぶちゃん注:リンク先に写真有り。以下、同じ。]。池から見た風景ですが、公園から臨江閣に通ずるトンネルが見えます。萩原朔太郎がこのトンネルを撮影した写真も残っています[やぶちゃん注:この写真は確認出来なかったが、所持する萩原朔太郎の撮影した立体写真集の中に「遊園地にて」というアヒルの泳いでいる池の一枚を見出すことは出来た。]。
昨日、このアングルからトンネルを撮影したいと思って足を運びましたが、建物が増え木立が大きくなってしまい撮影出来ません。結局冒頭の画像を撮影して諦めることにしました。
次の目的は赤城牧場の痕跡を確認することです。冊子の記述に寄れば飛行塔の西にあるはずです。ラジオ塔、飛行塔の脇を歩いて石碑を見つけました。自然石に「赤城牧場趾」と刻まれていました。
裏面に回るとこの碑の由来が刻まれていました。
明治二十八年 羽生田仁作 牧場設立
大正九年 羽生田俊次 当市譲渡
昭和五十三年 羽生田進 表碑建立
この碑を建立した羽生田進さんは中心市街地に眼科を開業されていたので、私もお世話になったと記憶しています。
この冊子で興味を惹かれたのは戦前の公園の遊具です。大正末期から昭和の初めの頃の画像が掲載されています。
この画像の中ほどに高い柱が見えます。クリックすると拡大します。よく観察すると、最上部に回転する機構があり、ここから複数のロープが下がっています。遊び方はロープに端部の取っ手を握り、柱の周りを周回したに違いありません。回旋塔の原型ではないでしょうか?回旋塔は遊びやすくするために、鉄のループを柱の頂点から鎖で支えています。
もう一枚は滑り台と2頭の木馬です。これもクリックすると拡大します。滑り台で遊んでいる子どもの服装は和服です。滑面はアーチで支えられ、当時のモダニズムが感じられます。デッキも広く、滑面も幅広と思われますので、複数入り乱れて遊んだに違いありません。亡父は1919年生まれなのでこの滑り台で遊んだかも知れません。
今の滑り台はコンクリートより摩擦係数の低い素材が使えるので傾斜も緩く、斜面も長く作れます。
《引用終了》
nagashima氏は、『久しぶりに前橋公園に来たので「さちの池」までトンネルを通って行ってみました。緑化フェアの大改修工事で池は奇麗にこじんまりとなりました。冒険心・探究心をそそる未知の領域は全く姿を消しています』。『この池から流れる水路からは前橋周辺では最初にホタルが飛ぶ名所でしたが、もう見られないと思うと何だか淋しくなってしまいます』と擱筆しておられる。因みに「前橋公園」というのは現在の「るなぱあく」の道路を隔てた西側に隣接する南北に広大なそれである。これら全体が萩原朔太郎の言う「遊園地(るなぱあく)」の後身であると考えてよかろう。
さて、昭和五四(一九七九)年講談社文庫刊の那珂太郎編著「名詩鑑賞 萩原朔太郎」では本篇について、『薄暮のなかに思惟するもの』と題して、「詩篇小解」を引用された上で以下のように述べておられる。
《引用開始》
これは当時の作者のじっさいの恋愛経験をもとに書かれた作品とみられます。しかしこの作品を味わうためには、現実の経験がどのようなものであったかを、詮索する必要はまったくありません。ただ前記「詩篇小解」にいう「殺せかし! 殺せかし!」「昨日にまさる恋しさの」が、はげしい感情のたかぶりを切迫した語調でうたうのに対し、これは、ずっと沈鬱(ちんうつ)に、静まったかたちで、おのれ自身をも客観硯するような内省的姿勢でうたわれているのに、注意すればよいのです。
第二連三行目の「側(かた)へに思惟(しゐ)するもの」は、作者自身のことをさし、恋びとのそばにあって思いにふけるもの、という意です。日曜日の遊園地、楽隊の囃子(はやし)、廻転木馬(かいてんもくば)、赤いゴム風船、群集、それら周囲の明るさの中にあって、恋びとといっしょに「摸擬飛行機」に座席を占めながら、「寂しきなり」という作者、ここにはかつての彼の作品にしばしばえがかれた、外部世界からの乖離疎隔(かいりそかく)の意識を、ふたたびみることができます。そういう作者の心がそのまま、恋びとの「瞳孔(ひとみ)」に「やさしき憂愁をたかへ」ているのを見る心なのです。
この作品の四つの連は、おのずから起承転結の構成をとっていますが、転にあたる第三連、模擬飛行機の座席から見はるかされる「高く揚り また傾き 低く沈み行」く地平のとらえ方もみごとなら、これにつづく作者の感懐(かんかい)の高潮した表白も、じつにみごとな詩句をなしています。「いかんぞ人生を展開せざらむ」という反語的断言、ついで「今日の果敢(はか)なき憂愁を捨て/飛べよかし! 飛べよかし!」とのつよい自己鞭撻(べんたつ)は、前掲「漂泊者の歌」における、一つの輪廻を断絶して/意志なき寂寥(せきれう)を蹈み切れかし」の詩的緊張力と呼応するものです。このはげしい感懐の高まりは、しかし、第四連終結部、全体を統括する「明るき四月の外光の中」で沈静させられ、やがて第二連三行目の詩句がつぶやくようにくりかえされます。「側(かた)へに思惟(しゐ)するものは寂しきなり」。
《引用終了》
私は那珂氏に鑑賞の他を寄せつけぬ鋭さを感ずるものである。
初出は昭和六(一九三一)年七月号『若草』であるが、本詩集に収録するに際して、かなりの推敲が施されてある。
*
遊園地にて
遊園地(ルナパーク)の午後なりき
樂隊は空に轟(とどろ)き
風船は群衆の上に飛び交(か)へり。
今日の日曜(にちえう)を此所に來りて
君(きみ)と模擬飛行機の座席(ざせき)に乘れど
側(かた)へに思惟(しい)するものは寂しきなり。
なになれば君が瞳孔(ひとみ)に
君の憂愁をたたえ給ふか。
見よ この廻轉する機械の向ふに
一つの地平(ちへい)は高く揚(あが)り また傾き、沈(しづ)み行かんとす。
われ既にこれを見(み)たり
いかんぞ人生(じんせい)を展開せざらむ。
今日(こんにち)の果敢なき憂愁を捨(す)て
飛べよかし! 飛(と)べよかし!
明(あか)るき四月の外光の中(うち)
嬉(き)々たる群集(ぐんしふ)の中に混りて
二人(ふたり)模擬飛行機の座席にのれど
側(かた)へに思惟するものは寂(さび)しきなり。
*
ルビ「しい」はママ。「たたえ」「向ふ」もママ。「飛(と)べよかし!」のルビが後ろにしかないのもママ。推敲後の本篇の方が遙かに、よい。
なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第二巻の『草稿詩篇「氷島」』には、本篇の草稿として『遊園地にて(本篇原稿一種二枚)漂泊者の歌』として以下の一篇「遊園地(ルナパーク)にて」が載る。表記は総てママである。
*
遊園地(ルナパーク)にて
遊園地(ルナパーク)の午後なりき
樂隊は空に轟き
𢌞轉木馬の目まぐるしく
艷めくゴムの風船は等
群集の上に飛び交へ行けり。
今日の日曜を此所に來りて
われら模擬飛行機の座席に乘れど
側へに思惟するものは寂しきなり。
なになれば君が瞳孔(ひとみ)に
やさしき憂愁をたたえ給ふか。
座席に近く肩をよ寄りそひて
接吻(きす)するみ手を借したまへや。
見よこの飛翔する空の向ふに
一つの地平は高く揚り また傾き 低く沈み行かんとす。
暮春に迫る落日の前
われら既にこれを見たり
いかんぞ人生を展開せざらむ。
今日の果敢なき憂愁を捨て
飛べよかし! 飛べよかし!
明るき四月の外光の中
嬉々たる群集の中に混りて
ふたり摸擬飛行機の座席に乘れど
君の圓舞曲は遠くして
側へに思惟するものは寂しきなり。
*]
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