三州奇談續編卷之三 長氏の東武
長氏の東武
行(かう)を能浦(のううら)に發して、眼を波路(なみぢ)の萬濤(ばんたう)に極(きは)む。又何となく頭(かうべ)を舊里金城に廻(めぐ)らす所に、忽ち一箇の旅人あり、我を突過(つきす)ぎて足を早うする者あり。『いかにや』とさし覗き見たるに、兼て知己の友なり。頓(やが)て呼留めて其急ぐ謂(いは)れを聞くに、其人息喘(あへ)ぎ胸踊るを、頓て手を取り引きて、卯の氣川(うのけがは)の流(ながれ)に到りて水を喫(きつ)して暫く憩ふ。
[やぶちゃん注:「長氏」(ちやうし)は「三州奇談卷之一 溫泉馬妖」の私の「長(ちやう)某公」の注の引用を参照されたいが、中世より長氏は能登の有力な国人領主であった。表題は「長氏の江戸参府」の意。
「能浦」能登の浦辺(ここでは能登半島の南西の根(南)の海浜となる)という一般名詞。前話「七窪の禪狐」からの続きの形をとるので、前回のロケーションに近い条件で探すと、「卯の氣川」が現在の宇ノ気川(うのけがわ)で、丁度、南の七窪と北の高松の間を流れることが判る(グーグル・マップ・データ)。但し、前話の注の古地図で判る通り、宇ノ気川の少なくとも中・下流は現在とはかなり異なっていた(河北潟がずっと北へ貫入していた)ことは念頭に置かねばならない。]
行人(ゆくひと)我れに向ひて曰く、
「金城に一變あり。其事に付きて我れ今至るといへども、吾子(ごし)が求むる所も爰にあり。日高くとも今宵は今濱の驛に一宿して、夜もすがら談(かた)り申さん。元來、長(ちやう)の家は能州に業(げふ)を立てし氏なれば、其話其因(ちな)みなきにしも非ず。十里去りて國の變話を聞く又珍らしからずや。幸(さいはひ)に怪異是に預れり、奇談とせすんばあらず。事は一毫(いちがう)より發す。爰に卯の毛(うのけ)【村名。】に談り出ださん。」
とて、たばこの口を留(と)め、左より煙管(きせる)を路次(ろし)の石に打たゝき、物語をはじむ。
[やぶちゃん注:以下、知人の川岸での一服に話に入ってゆき、それはそのまま以下、今浜宿での夜話に続いていると考えられる。
「吾子が求むる所も爰にあり」その友人はこれから語られる金沢での異変に絡んでここより先の能登の北の地に行かねばならない用が出来たようである。「吾子」は二人称代名詞。で親しみをこめて同僚格を呼ぶ語であるが、この謂いは、この友人は麦水と親しい故に彼の怪奇談蒐集癖をよく知っているという前提の言葉である。「君が求める怪奇なるところもまさにその異変の中にある」、さればこそ未だ日は高いが今夜は近くの今浜の駅で同伴にて一宿して、一つ、その奇体な話を夜もすがら、語り申そうぞ」というのである。但し、オープニングから後ろの金沢の方を何故か振り返って遠望するところに、友人が彼に気づかぬ勢いで抜いて行き、かく麦水嗜好の奇談夜話となるというのは、如何にも芝居がかって、作り話臭い感じがする。
「今濱」は現在の石川県羽咋郡宝達志水町今浜(グーグル・マップ・データ)、ここは宇ノ気川沿いからは凡そ直線で十キロほどであるから、この川辺で一休みして、三時間もあれば着く距離である。
「卯の毛」現在の石川県かほく市宇気(うけ)であろう(グーグル・マップ・データ)。ここはまさに前話の七窪の北に接し、私が先ほど試しに今浜までの距離を計算しようと何気なく基点していたのがまさに、この地区内を貫流する宇ノ気川の北の川沿いであったのである。
「たばこの口を留(と)め」これは煙草を吸うのを止めての謂いであろう。]
「抑々(そもそも)元來能州半郡(ハンコホリ)の領主、天下の英維、諸人の知る所なり。されば此異に傳はる「武衞御敎書(ぶゑいごきやうしよ)」と稱する物あり。其文に
[やぶちゃん注:以下、引用は原本では全体が一字下げ。前後を一行空けた。]
下能登國能登之郡。上日・下日・越蘇・八田・加島・與木・熊木・長濱・神戶。都合高三萬三千石。
右者三條之宮へ平家亂入之刻。其方一身働を以て敵數輩討捕、暫追拂、古今之高名一騎當千之働神妙也。仍下能登之國能登之郡所々充行者也。子々孫々長可有收納。則地頭職申付候可令百姓安撫、仍而執建如件。
文治二年六月廿二日 從二位大納言 源 賴朝 判
從四位下長馬新太夫 長谷部信連どの
斯くの如くありとなり。
[やぶちゃん注:「半郡(ハンコホリ)」珍しく原本のルビである。(能登)鹿島半郡(かしまはんごおり)或いは鹿島川西半郡とも表記する。鹿島郡全体はウィキの「鹿島郡」を見られたいが、現在の七尾市の大部分と羽咋市の一部である。鹿島川西半郡という名から判るが、この川は二ノ宮川(グーグル・マップ・データ)を指し、半郡は鹿島郡内の二宮川以西を指した郡域である。天正八(一五八〇)年、長九郎左衛門連龍(つらたつ)は織田信長より、この鹿島半郡を領することが認められており、翌年、信長が前田利家に能登四郡を宛がった際にも、利家は九郎左衛門を与力大名とし、半郡を知行させている。その連龍の子で、江戸初期の加賀藩家老にして長氏二十三代当主であった長連頼(つらより 慶長九(一六〇四)年~寛文一一(一六七一)年)がいるが、ウィキの「長連頼」によれば、元和五(一六一九)年に『父が死去し、すでに兄も死去していたため、家督と能登鹿島半郡ほか加賀国・能登国内』三万三千石を継いだ。『鹿島半郡は、織田信長から父の連龍が受領した地で、前田氏の家臣となってからも、本来なら他の家臣が分散して知行地を持っているのとは別格に、金沢のほかにも知行地の鹿島郡田鶴浜にも本拠を持っており、藩主もこれに手をつけることができなかった』。『そんな中、在地の家臣の浦野孫右衛門信里と金沢の家臣の加藤采女の対立があり、浦野が新田開発をし』、『それを私有しているという噂が流れた。そこで』寛文五(一六六五)年二月、『新田の検地を実施しようとしたが、これを加藤采女派の策謀と思った浦野派は』、同年三月二十七日に『検地反対の旨の書面「検地御詫」を連頼の子の元連を仲介して提出した』。九『月には検地が一部』で行われようとしたが、『浦野は元連と連携し、十村頭の園田道閑ら有力農民を扇動して検地の阻止に出て、検地をすることができなくなった』『これを重く見た連頼は、単独での処理はできないと判断し』、寛文七(一六六七)年二月十五日に、『本多政長、横山忠次、前田対馬、奥村因幡、今枝民部ら藩の重臣を通じて、浦野派の罪状を書いた覚書を加賀藩に提出した』。第四代藩主『前田綱紀は』、これを『鹿島半郡を直接統治する』絶好の『機会と考え』、『介入し、浦野孫右衛門、兵庫父子ら一派を逮捕した。このことを幕府の保科正之(綱紀の舅)に相談し』、同年中に『浦野父子ら一派の首謀者は切腹、切腹した者の男子は幼児であっても死刑に処された。協力した有力農民も一味徒党として捕らえられ、園田は磔』、三『人の子は斬首刑となるなど、軒並み死刑となった』。而して、『事件は長家の家中取り締まり不行き届となり、罪は子の元連にも及び、剃髪の』上、『蟄居となり、その子の千松(のちの長尚連)が後継者となるが、検地の場合は藩の命令に従うこと、諸役人の任免は藩の承認を得ることなどの条件がつけられた。この事件を浦野事件(浦野騒動)と』呼び、綱紀の思惑通り、『半郡も加賀藩の直接支配地とな』ったのであった。連頼は享年六十八で没した。彼の孫の尚連が十歳で『当主になると、前田綱紀は鹿島半郡を取り上げ、代わりに石高に見合う米を給することになった。これにより、長家の特権が完全に潰えた。その後、長家は高連(尚連の養子)、善連、連起、連愛、連弘』(加賀藩年寄本多政礼(まさのり)の次男)と、三『万余石の家老のまま、幕末に続いている』とある。調べてみると、以下に記される内容は時制的に見て、加賀藩年寄で加賀八家長家第六十七代当主であった長連起(つらおき 享保一七(一七三三)年~寛政一二(一八〇〇)年)の代のことと思われる。則ち、後半の主たる人物は彼その人であるということである。『父は先々代長高連の弟長連安。母は佐々木博太夫の娘。養父は長善連。正室は三田村監物の娘。子は長連穀、長連愛、長連郷。幼名小源太。通称右膳、津五郎、三左衛門、九郎左衛門、号は恵迪斎。官位は従五位下、大隅守』(下線太字は私が附した)。宝暦七(一七五七)年、『宗家善連の末期養子となり』、三月六日、家督と三万三千石の知行を相続、安永三(一七七四)年十二月に二十五歳で従五位下大隅守に叙任されている。天明五(一七八五)年に『長男連穀が早世したため』、翌年、『次男連愛を継嗣とする』。寛政一二(一八〇〇)年三月に『隠居して嫡男連愛に家督を譲り、恵迪斎と号する。隠居領として』二千『石を授かった』。筆者堀麦水は天明三(一七八三)年に没しており、齟齬がない。則ち、次の段の「今年長九郞左衞門殿大隅守に任官し給ひ」という部分から、本篇が安永三(一七七四)年十二月以降の年内年末の出来事であることが判る。因みに、当時の藩主は第十代前田治脩(はるなが)である。
「武衞御敎書」「武衞」は将軍。ここは源頼朝を指す。この下されたとする相手「長谷部信連」は長(ちょう)氏の祖である長谷部信連(はせべのぶつら ?~建保六(一二一八)年)で複数回既出既注でああるが、再掲しておく。ウィキの「長谷部信連」によれば、『人となりは胆勇あり、滝口武者として常磐殿に入った強盗を捕らえた功績により左兵衛尉に任ぜられた。後に以仁王に仕えたが』、治承四(一一八〇)年、『王が源頼政と謀った平氏追討の計画(以仁王の挙兵)が発覚したとき、以仁王を園城寺に逃がし、検非違使の討手に単身で立ち向かった。奮戦するが』、『捕らえられ、六波羅で平宗盛に詰問されるも』、『屈するところなく、以仁王の行方をもらそうとしなかった。平清盛はその勇烈を賞して、伯耆国日野郡に流した』(「平家物語」巻第四「信連」)。『平家滅亡後、源頼朝より安芸国検非違使所に補され、能登国珠洲郡大家荘』(おおやのしょう:現在の能登半島の輪島市から穴水市一帯の地域)『を与えられた』。『信連の子孫は能登国穴水』(現在の石川県鳳珠(ほうす)郡穴水町(あなみずまち)附近)『の国人として存続していき、長氏を称して能登畠山氏、加賀前田氏に仕えた。また、曹洞宗の大本山である總持寺の保護者となり、その門前町を勢力圏に収めて栄えた』とある。しかし、ここに既に「高三萬三千石」と、後代にもっと南の全く別な地域(しかも以下の地名は後代の鹿島郡内である)の石高と全く一致してあるのは、本御教書がそもそも偽物であることを物語っているように見える。なお、頼朝が征夷大将軍に任ぜられるのは後の建久三(一一九二)年七月十二日であるが、これは後にこの文書が長家に於いて「將軍御敎書」と呼ばれるようになったという意味であるから、その点では問題は全くない。しかし、後注するように、本状が真っ赤な偽物であることは、最後の肩書によって明白なのである。
「下」「くだす」と読んでおく。下知する。
「上日」上日(あさひ)。現在の石川県鹿島郡中能登町二宮(のとまちにのみや)にある天日陰比咩(あめひかげひめ)神社が上日庄郷十八ヶ村の総社氏神であったと「石川県神社庁」公式サイト内の同神社の解説にある。
「下日」「しもひ」か。サイト「千年村をみつける」の「能登郡下日郷(石川県)」に『現在の鹿島郡鳥屋町東武の大字良川・一青・春木・大槻付近から、七尾市の南西部の西三階町・東三階町にかけての地区とする説(地理志料)は妥当と見てよいであろう』とある(地図有り)。
「越蘇」「和名類聚抄卷七」の「加賀國第九十九 能登郡」に『越蘇【惠曾】』とし、読みは『エソ』と振る(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)。現在の比定地はサイト「千年村をみつける」では不明である。
「八田」同前で『八田【也太】』でルビは『ヤタ』。「千年村をみつける」の「能登郡八田郷(石川県)」に、『現在の七尾市八田町も遺称地に含め、ともに古代の八田郷の郷名を継承すつと説かれているが(能登志徴・郷土辞彙)、八田町は、江曽町・飯川町と至近の距離に連なっており、むしろ能登郡越蘇郷の合意期に属した可能性が強い(日本地理志料)』とある(地図有り。以下省略)。
「加島」同前で『加嶋(カシマ)【加之萬】』。同前の「能登郡鹿嶋郷(石川県)」に、『いまの七尾市の中心市街区の、特に西半部の御祓地区を郷域の中心とし、御祓川を挟んで東の八田郷と平行していたとする説(郷土辞彙)が妥当であり、加嶋津(香嶋津)も、当然現七尾港の一部に相当すると見なすべきである』とある。
「與木」同前で『與木(ヨキ)【與岐】』。同前の「能登郡与木郷(石川県)」に、『郷域は、邑知潟東岸と碁石ヶ峰北西麓の山麓線に挟まれた低湿地帯にあって、現在の羽咋市東端部から』旧鹿島郡『鹿島町西端部に連なる地区に比定され(日本地理志料・能登志徴)、郷域内に駅が置かれていた』とある。
「熊木」同前にあるのは『熊來【久萬岐】』で『クマキ』とルビする。これであろう。現在の比定地はサイト「千年村をみつける」では不明。
「長濱」同前にあるのは『長濱(ナカハマ)【奈加波萬】』。現在の比定地はサイト「千年村をみつける」では不明。
「神戶」同前にあるのは『神戸(カムヘ)』(割注なし)。現在の比定地はサイト「千年村をみつける」では不明。
「右者三條之宮へ平家亂入之刻。其方一身働を以て敵數輩討捕、暫追拂、古今之高名一騎當千之働神妙也。仍下能登之國能登之郡所々充行者也。子々孫々長可有收納。則地頭職申付候可令百姓安撫、仍而執達如件」推定で訓読しておくと、
*
右の者、三條の宮(みや)へ平家亂入の刻(とき)、其方(そのはう)一身(いつしん)働(はたら)きを以つて、敵、數輩(すはい)、討ち捕り、暫く追ひ拂ひ、古今の高名(こうみやう)一騎當千の働(はたら)き、神妙(しんべう)なり。仍(よ)つて、能登の國能登の郡(こほり)所々、充(あ)て行き下(くだ)す者なり。子々孫々、長く收納有るべし。則ち、地頭職、申し付け候ふ。百姓をして安撫(あんぶ)せしむべし。仍(よ)つて執達(しおつたつ)件(くだん)のごとし。
*
以上の内、「三條の宮」は以仁王の別称。
「文治二年六月廿二日」一一八五年。確かに、「吾妻鏡」の文治二年四月四日の条に、
*
四日辛亥 右兵衞尉長谷部信連者。三條宮侍也。宮、依平家讒。蒙配流官鳧御之時。廷尉等亂入御所中之處。此信連有防戰大功之間。宮令遁三井寺御訖。而今爲抽奉公參向。仍感先日武功。態爲御家人召仕之由。被仰遣土肥二郎實平【于時在西海】之許云々。信連自國司給安藝國檢非違所幷庄公畢。不可見放之由云々。
*
四日辛亥(かのとゐ) 右兵衞尉長谷部信連は三條の宮の侍なり。宮が平家の讒(ざん)に依りて、配流の官符を蒙り御(たま)ふの時、廷尉等(ら)、御所中に亂入するの處、此の信連、防戰の大功有るの間、宮は三井寺へ遁れしめ御(たま)ひ訖(をは)んぬ。而るに今、奉公を抽(ぬき)んでんが爲に參向す。仍つて先日の武功に感じ、態(わざ)と御家人と爲し召し仕ふの由、土肥二郞實平【時に西海(さいかい)に在り。】の許(もと)へ仰せ遣はさると云々。
信連、國司より安藝國檢非違所(けびいしよ)幷びに庄公(しやうこう)を給はり畢(をは)んぬ。見放つべからずの由と云々。
*
とある。「檢非違所」とは都でない国郡や荘園の検非違使が職務を行う庁所。信連は既に安芸国の国司から同国の検非違使及び「庄公」(私有地である荘園と公領である国衙領を含む総ての所領地の管理者)を命ぜられているから、そのまま捨ておくわけには行かないというのである。ここには既に北条時政らが進言して構想されていた、幕府の諸国への守護・地頭職の設置とその任免権の獲得が視野に入っていたからであろう。実際、この五か月後の文治元(一一八五)年十一月二十八日に朝廷から頼朝にその勅許が下るのである。
「從二位大納言 源 賴朝」これはおかしい。確かにこの前年の元暦二年四月二十七日(元暦二年八月十四日(ユリウス暦一一八五年九月九日)に文治に改元)に頼朝は従二位へ昇叙はしているが、彼が権大納言に叙任されるのは五年後の建久元(一一九〇)年十一月だからである。
「長馬新太夫」これは致命的な誤りである。「長馬(ながま)新大夫(しんたいふ)」というのは信連の父為連(ためつら)の通称だからである。例えば、「吾妻鏡」の長信連の逝去の記事を見よ(二十三巻の建保六(一二一八)年十月二十七日の条)。但し、無論、この能登の一帯に長連の領地が頼朝によって安堵されていた事実は疑いようはない。私が言いたいのはこの「武衞御敎書」なるもの自体は後世に作られたものだということである)。
*
廿七日丙寅。霽。秋田城介景盛爲使節上洛。依被賀申皇子降誕之事也。今日。左兵衞尉長谷部信連法師於能登國大屋庄河原田卒。是本故三條宮侍。近關東御家人也。長馬新大夫爲連男也。
*
廿七日 丙寅(かのえとら)[やぶちゃん注:乙丑(きのとうし)の誤り。] 霽(は)る。秋田城介景盛、使節として上洛す。皇子降誕の事を賀し申さるるに依つてなり。
今日、左兵衞尉長谷部信連法師、能登國大屋庄河原田にて卒(しゆつ)す。是れ、本(もと)は故三條の宮の侍、近くは關東の御家人なり。長馬(ながま)新大夫爲連が男なり。
*
この「皇子」は順徳天皇の第三皇子懐成親王(四歳で践祚したが、祖父鳥羽上皇が起こした「承久の乱」によって戦後に執権北条義時により廃された仲恭天皇(九条廃帝))のこと。「河原田」は現在の石川県輪島市山岸町に現存する。「石川県観光連盟」公式サイト内の「長谷部信連の墓」を見られたい(地図有り)。]
長家(ちやうけ)のことは「中外傳」附錄「昔日北華」と云ふに委し。餘事は是に依りて暫くさしおく。
[やぶちゃん注:『「中外傳」附錄「昔日北華」』さりげない自著の宣伝。「慶長中外傳」は本「三州奇談」の筆者堀麦水の実録物。「加能郷土辞彙」によれば、本体は『豐臣氏の事蹟を詳記して、元和元年大坂落城に及ぶ。文飾を加へて面白く記され、後の繪本太閤記も之によつて作られたのだといはれる』とある。]
然れば三萬三千石の數の事は久しき名目の事と覺えぬ。されば往古より一日として不覺不念の事なき家なり。
然るに今度(このたび)一變事ありて門戶を閉(とざ)さるゝは千古の一不思議と云つべし。
其所以を聞くに、今年長九郞左衞門殿大隅守に任官し給ひ、其謝(そのしや)として東武へ趣き給ひし折しも、國主は兼て江戶表に在府ましまして、專ら騎射馬術行はるゝのよし聞ゆる時なれば、定めて長侯、
「江戶表へ出府に於ては、先づ一番に家中の士を召させられ、馬術武藝覽(らん)せらるゝことあるべし」
とて、兼て馬術鍛鍊の人、諸人も皆此人と許したる田中源五左衞門【二百石を領す。】と云ふを撰びて召連(めしつ)れられ、江戶表に至り給ひぬ。
然るに江戶御着成(おつきな)され、
「先づ馬藝のことより」
とて駒(こま)御覽なり。別して奧州閉伊(へい)の出の駒を第一に引かせて見給ふに、さして御心(おこころ)に叶ふ馬(むま)もなし。爰に少しの内緣を以て勤むる駒あり。百金[やぶちゃん注:百両。]に少しく足らざる價(あたひ)なりとて、誠に古今の駿足と見ゆる氣色(きしよく)にて、河原毛(かはらげ)の馬[やぶちゃん注:全体の毛が淡い黄褐色から艶のない亜麻色まであって、鬣と四肢の下部が黒色の馬を指す。]を牽き來りけり。長君(ちやうくん)も良々(やや)氣に入りし由にて、近臣に尋ね給ふに、各(おのおの)皆(みな)「御内緣にて進め上ぐる駒」と聞えければ、何れも詞を揃へ、「最も秀でし馬」の由を申上る。
爰に一人の老臣あり。密(ひそか)に眉をそばめて申しけるは、
「昔より申傳(まうしつた)へし御家に三つの不吉あり。第一に鷹野(たかの)[やぶちゃん注:鷹狩りをすること。]、第二に「釣狐(つりぎつね)」の狂言、第三には河原毛の馬と申し傳へて候。未だ試みたることはこれなく候へ共、前々より格(かく)[やぶちゃん注:定まった禁忌の掟。]となり來り候。竊(ひそ)かに聞く所、鷹野遊(あそば)され候へば御家(おんけ)滅亡し、「釣狐」の狂言有之(これあり)候へば御命(おいのち)にたゝり、河原毛の馬を求め給へば、御門(ごもん)を閉ぢられ候(さふらふ)御仕落(しおち)[やぶちゃん注:手落ち。]を引出(ひきいだ)すよし申し來り候。されば此三事(さんじ)終(つひ)になし。御鷹野(おたかの)は川狩(かはがり)迄にて、御鷹は召されず候へども、狂言の儀は近年に至り先君甲斐守樣、狂言師傳次に仰付けられ、「こんくわい」の狂言ありて傳次(でんじ)も卽死し、先君も御短命にて候ひき。是も其たゝりかと、下々(しのじも)今に密(ひそか)に惜み奉り候。然るに只今あの馬を召上げられ候へば、俗言に申しならはし候所を御犯(おんをか)しのこと、甚だ御無用に奉存候(たてまつりぞんじさふらふ)。其上我々(われわれ)しき迄も意にかゝり奉存候間、御差止めも候はんや。」
と申し上げれば、大隅守殿も少し御意(ぎよい)にかゝりしや、無言にて座を立給ふが、又近々御殿中(ごてんうち)の馬合(むまあは)せもあれば欲しくや思(おぼ)し召けん。則ち田中源五右衞門を召して、段々を御語り成され、
「此馬求めて苦しかるまじき哉(や)。」
と御尋(たづね)の所、田中畏(かしこま)り謹みて申上ぐるは、
「此儀少しも御心に懸け給ふべきことに非ず。馬(むま)は則ち我が足なり、何の論かあらん。君子は斯言(しげん)に拘(かかは)らず。尤(もつとも)馬の色には相剋(さうこく)し候(さふらふ)趣(おもむき)も候へども、我等能(よ)く能く根元(こんげん)取り分けたること御座あれば、河原毛は必竟(ひつきやう)水色なり。御家は金(ごん)を以て立給ふことなれば、相生(さうしやう)して理(ことはり)よく侍る。俗說の申傳へは大人(おとな)に取(とる)べきことに非ず。女兒(をんなこども)の詞(ことば)豈(あに)用ゐるに足らんや。必ず必ず此度(このたび)の河原毛の馬(むま)求め給へ。」
と勸めければ、御納得ありて、彌々(いよいよ)其馬御求めに極(き)まり、上(あ)げ主(ぬし)大(おほき)に悅びて田中が發明を譽立(ほめた)て、「當世の士」とぞ感じける。されば是に決し、御求めありて歸國ありけるに、奧方大いに心に懸け給ひしとぞ。是は「彼(かれ)無用」と云ひし老臣、奧方に申して密(ひそか)に先君の例などを告げしとぞ。依ㇾ之(これによつて)所々災害他散の御祈禱どもありける。
別して御妾(おんせう)何某(なにがし)、甚だ心に懸けて、卯辰山(うたつやま)なる五行院といへる法華の行者へ步行(かち)にて賴みに行き、災(わざはひ)を轉じて他に移すことを專ら祈念賴まれ、五行院精心(しやうじん)を抽(ぬき)んでゝ修行せられ、專ら他に移す祈禱ありしとぞ。
[やぶちゃん注:「田中源五左衞門」「田中源五右衞門」無論、同一人物である。当時の通称は複数あるのが普通でこれは誤りではないと思われる。しかも、本時制より八年後のことであるが、「加賀藩資料」第九編の「天明二年」(一七八二)年のここに(国立国会図書館デジタルコレクション)彼の名を認めるのである。
七月九日。前田重敎、陪臣田中源五左衞門の馬術を觀る。
とあり、以下「政隣記」から引いた頭に、
七月九日、長大隅守殿給人君馬役領二百石田中源五衞門馬術、中將樣御覽。
と記されてある。「前田重敎」(しげみち)は第九代藩主で第十代藩主治脩の兄であり、この時は隠居していた。「長大隅守」は既に見た通り長連起である。これで史実上の実在は総て確認されるのである。なお、「給人」(きふにん(きゅうにん))とは大名から知行地或いは同等の格式を与えられた家臣を指す。
「奧州閉伊(へい)」馬の産地として知られた岩手県旧閉伊郡。旧郡域は明治一一(一八七八)年に発足した当時の郡域は現在の遠野市・宮古市・上閉伊郡・下閉伊郡及び釜石市の大部分に当たる。広いのでウィキの「閉伊郡」を参照されたい。
「内緣を以て勤むる駒あり」長連起の信頼出来る親しい内縁の人物が推奨する馬がいた。
「御家」長(ちょう)家。
『「釣狐」の狂言』狂言の演目。鷺流での名称は「吼噦(こんかい)」で、歴史的仮名遣は「こんくわい」だ。ウィキの「釣狐」によれば、「披(さば)き」(能楽師が特定の難曲や大曲を演じて修行の成果を披露し、一定の技量を持つことを周囲に認めて貰うための興行)として『扱われる演目の一つで、大蔵流では極重習、和泉流では大習と重んじられている』。『「猿に始まり、狐に終わる」という言葉があり、これは『靱猿』の猿役で初舞台を踏んだ狂言師が、『釣狐』の狐役を演じて初めて一人前として認められるという意味である』。『白蔵主』(はくそうず:本邦の妖狐・稲荷神の名。大阪府堺市にある少林寺に逸話が伝わっており、その逸話が本狂言の題材となったとされる)『の伝説を元に作られたとされており』、『多くの狂言師が、上演する際に白蔵主稲荷を祀る大阪府堺市の少林寺に參詣し、この稲荷の竹を頂いて小道具の杖として使っている』。あらすじは、『猟師に一族をみな釣り取られた老狐が、猟師の伯父の白蔵主という僧に化けて猟師のもとへ行く。白蔵主は妖狐玉藻前の伝説を用いて狐の祟りの恐ろしさを説き、猟師に狐釣りをやめさせる。その帰路、猟師が捨てた狐釣りの罠の餌である鼠の油揚げを見つけ、遂にその誘惑に負けてしまい、化け衣装を脱ぎ身軽になって出直そうとする。それに気付いた猟師は罠を仕掛けて待ち受ける。本性を現して戻って来た狐が罠にかかるが、最後はなんとか罠を外して逃げていく』とある。
「先君甲斐守」連起(つれおき)の先代は加賀藩年寄で長家第六代当主長善連(よしつら 享保一四(一七二九)年~宝暦六(一七五七)年)で、享年二十八で亡くなっており、確かに「短命」であったが、叙任されていない。「甲斐守」であったのは、同じく加賀藩年寄・長家第五代当主にして、善連の父であった長高連(元禄一五(一七〇二)年~享保二〇(一七三五)年)で、彼も三十四で亡くなっている。ただ、先代善連と先々代を混同したものであろう。
「狂言師傳次」不詳。
「我々(われわれ)しき迄も」私のような無学な老いぼれのような者でさえも。
「御殿中の馬合せ」金沢城内で主だった家臣が自慢の名馬を引き出し、馬芸をして品評する馬合わせ。
「何の論かあらん」何の論(あげつら)うことがありましょうや! あれこれとやかく言って批評する必要なんど御座りませぬ!
「君子は斯言(しげん)に拘らず」優れた人格者というものは、そのような馬鹿げた理(ことわり)を欠いた発言には決して係わらぬものにて御座る!
「相剋」(そうこく)は五行相剋。木・火・土・金・水の五つの根元要素が互いに力を減じ合い、打ち滅ぼして行くとする陰の関係を言い、「木剋土」(木は根を地中に張って土を締め付け、養分を吸い取って土地を痩せさせる)・「土剋水」(土は水を濁す。また、土は水を吸い取り、常にあふれようとする水を堤防や土塁等でせき止める)・水剋火(水は火を消し止める)・火剋金(かこくごん:火は金属を熔かす)・金剋木(ごんこくもく:金属製の斧や鋸は木を傷つけ、切り倒す。
「相生」(そうしょう)は相剋の対概念で、順送りに相手を生み出して行く、陽の関係性を言う。順送りに相手を生み出して行く陽の関係であり、「木生火(もくしょうか)」(木は燃えて火を生み出す)・火生土(物が燃えれば灰となってそれは土へと還る)・土生金(どしょうごん:鉱物・金属の多くは土中にあって土を掘ることによってその金属を得ることが出来る)・金生水(ごんしょうすい:金属の表面には凝結によって水が生じる)・水生木(木は水によって養われる)という循環である。
「河原毛は必竟水色なり」「河原」から「水」かい! ただ何故あの色を「河原毛」というかを考えると、水場に生えるヨシの穂の色じゃなかろうか? と思っている私には「河原毛」=「水」は腑には落ちる。
「御家は金(ごん)を以て立給ふ」何故、長家が「金」なのかは判らぬが、長家の家紋は「銭九曜」紋で金属ではある。サイト「武家の家紋」の「長氏」を見られたい。
「奧方」連起の正室は三田村監物の娘。三田村監物定敬(さだのり)か。姉は加賀藩第五代藩主前田吉徳の母(名は「町(まち)」)預玄院。ただ彼だと、ちょっと年が行き過ぎる感じはする。
「御妾」連起の側室。
「卯辰山なる五行院」不詳。現存しない。
但し、長連起が蟄居とか閉門になったりした事実はなく、恙なく逝去の年の二月十九日まで勤め上げた上、致仕して『惠迪齋』(「加能郷土辞彙」に拠る)と称し、隠居料二千石を賜って、九ヶ月後の寛政一二(一八〇〇)年十月十四日に享年六十九で亡くなっている(別資料でも確認した)。長連起自身、万一、これが事実と少しでも違っていたとしたら、麦水を訴えて捕縛し、著作の焚書や手鎖(てぐさり)の刑に処せられてしかるべきことだと思う。しかも「田中源五右衞門」なる実在する藩士の名を丸出し、正妻や妾の細かな話まで出すのは、事実としても如何なものかと私でさえ心配に思うのである。――しかし――ということは――かく今に平然と残っているということは、この出来事が実は、その出来事が起こって直ぐに広く知られてしまい、加賀藩では町人に至るまで知らぬ者のない周知の事実であったということを物語るものなのではなかろうか? さすれば「今度一變事ありて門戶を閉さるゝ」というのは、暫く自主的に戸を閉じて城に出仕しなかったという程度のことであり、そうした有意な自粛期間が実際にあった、ということになろうかと思うのである。【2020年5月25日:追記】現在、次の「田中の馬藝」を読み、注を施そうとしている最中であるが、これはどうも麦水の書き方がちょっとおかしいのであって、閉門の処罰を藩から受けたのは長善起ではなく、彼の家臣であり、本話後半の重要な人物であるところの田中源五右衞門(実は調べると記載によっては前に出る「田中源五左衞門」の名で出るものもある)のことらしい。しかし、だとしても、ますます善起にとって誤った記述となる。不審はやはり晴れないのである。]