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2020/05/27

三州奇談續編卷之三 宮田の覺悟

 

    宮田の覺悟

 田邊忠左衞門と云ふ士あり。祿糧(ろくりやう)に四百石なりといへども當たる時の諸用此身に懸り、百萬石の御用方勤め居る士なり。組外の番頭(ばんがしら)なれども、格別御用方當時一身に引受けて勤め居(を)るなり。惣領をば忠藏と云ひ、二十四歲、忠勇共に備(そなは)りて學問に精を入れ、剱術に油斷なく、日々に物を勵む。二番目は女子(ぢよし)なり。三男は忠三郞と云ひ、十五歲、是又勤むるに心利きたる若者なり。狗(いぬ)を好きて愛せしが、或夕暮に、惣構(そうがまへ)の川端を犬を引きて來りしに、何處(いづこ)ともなく

「侍ちませい。」

と呼懸くる者あり。

 其内犬猛りて聞かず。

 聲は慥に藪の内と聞きしかば、犬を放し聲を懸け、杖を打なぐりて、是を追ふに、古狐二疋飛出で川端を走る。

「此狐め、ならん。」

と頻りに追ふに、犬彌々(いよいよ)猛りて追掛くれば、狐ははうはう迯げて、長(ちやう)の家の塀に飛上りて隱れ失せぬ。

「己(おの)れ重ねて迯(のが)すべきか。」

と罵りて家に歸る。

[やぶちゃん注:「惣構」「総構え」は狭義には城郭の外郭或いはその囲まれた内部を言う語であるが、広義には城の他に城下町一帯全体をも含め、その外周を堀・石垣・土塁で囲い込んだ日本の城郭構造を特に指す。「総曲輪・総郭」(孰れも「そうぐるわ」と読む)とも称する。「金沢市文化スポーツ局文化財保護課」が作成した「金沢城惣構跡」の公式パンフレットがやや小さいがこちらで見られる。当該ページの解説に『金沢城には、内・外二十の惣構がつくられました。内惣構は二代藩主前田利長が高山右近に命じて慶長』四(一五九九)年『に造らせたといわれています。さらに慶長』十五『年には、三大藩主利常が家臣の篠原出羽守』『一孝(かずたか)に命じて外惣構を造らせました。堀の城側には土を盛り上げて土居を築き、竹、松、ケヤキなどを植えていました』。この「惣構の管理」は、『惣構肝煎(きもいり)・惣構橋番人などの』限定された独自の『町役人を配置して、堀にゴミを捨てること、土居を崩すこと、竹木を伐採することなどを禁じていました。北国街道出入口の枯木(かれき)橋と香林坊(こうりんぼう)橋、港へ通じる升形(ますがた)はとくに軍事・交通の要衝とされていました』とある。

「はうはう」「這う這うの體(てい)にて」の意。散々な目に遭って今にも這い出すようににやっとのことで逃げ出すさま。]

 かゝること兩三度もありしとや。跡に思ひ當ればふしぎなり。されば宮田吉郞兵衞と長の家中に身小姓組(こしやうぐみ)の者なり。一向宗にして堅律儀(かたりちぎ)千萬なる仁(ひと)なり。元來長家の臺所に勤めし故に、小料理も利きて、近付(ちかづき)の町中(まちうち)をも振舞(ふるまひ)の取持ち手傳(てつだひ)して、料理方も務め世を渡らるゝ故、人もその律儀を能く知り、多くは是に賴みけり。されど家貧しきが爲に、姊娘おらんといヘるを奉公に出す。十四歲の時、彼の番頭の田邊忠左衞門の許に在着(ありつ)く。

[やぶちゃん注:「小姓組」ここは警護方ほどの意。]

 

 三十日もや過ぎけん、或夏の暮、晚暑(ばんしよ)蒸して身も倦(うま)れ果つる夕つがた、荼色の木綿浴衣を持ちて居たりしが、洗濯して庭に干して忘れ置きける。

 爰に彼の忠左衞門三男忠三郞、夕暮過ぎて歸りしが、庭に出でさまよふ所に、彼の干し捨し單物(ひとへもの)を見付け、

「是は新參のおらんが忘れて干し置きし物。」

と知りて、

『幸(さいはひ)におどして戯れ、是を與へん。』

と思ひて、頭にあらぬ物を被(かぶ)り、身は黃茶の單物に包み、月影に隱れて庭の内に待ちけるに、おらんは此に心付かずして便所に行んとて立出でける所、忠三郞折よしと思ひ、遙に遠き庭の木陰より、

「わつ」

というて飛付きけるに、おらんは、

「つ」

と魂消(たまげ)てけるが、其まゝ死してけり[やぶちゃん注:気絶してしまった。]。

 爰に於て、家内の人々、大(おほき)に驚きて、色々と呼び起し、藥を與へ、

「水よ、湯よ、」

とさわぎけるに、暫くして心付きけれども、終(つひ)に氣もぬけ、聲おぼろげにて、

「彼(か)のかはらげなるは、何にてあるぞ。」

と恐れける。

「其方が單物なり。」

と出し見するといへども、

「是にはあらず、あのかはらげなるものが今も目に見ゆる。」

とて、少し物狂ひの躰(てい)に見えけるが。翌日も猶心よからざりける程に、御斷り申し我が宿に歸りける。

[やぶちゃん注:おらんの単衣の浴衣は茶色であったが、忠三郎の被り物の色が黄茶色でこれこそ「河原毛色」なのである。]

  扨(さて)家内の人に對し、色々と田邊氏の勤めがたき事を歎き訴へ、

「早く暇(いとま)を取りてたべ。」

と、父母へ乞ひにけるにぞ。

 父母も聞きとゞけて、人して暇もらひに遺しけるに、田邊屋敷は大に疑ひ、

「忰どもが少しおどしたりとて、根もなき事を申し立(たつ)にして暇を乞ふこと沙汰のかぎりなり。おらんに今一度出(いで)て奉公し、其うへ勤めがたき趣あらば、いかにも暇を遣すべし。此まゝ申來(まうしきた)らば、着替(きがへ)を押へて返すまじきぞ[やぶちゃん注:奉公に参った際に持ち込んだ衣類一式を押収して帰さぬぞ。]。」

と怒りて、返答に及びければ、其段々をおらんに語り聞かするに、おらんは氣分愈々重(おも)り、其中(そのうち)に、

「こゝの厩(むまや)の間(ま)かと覺えて、かはらけ[やぶちゃん注:ママ。]色なる物めしたる神の來り給ひて告(つげ)の有りし。」

とて、いよいよ、田邊氏を恨み出し、父吉郞兵衞に告げて、

「最早、我等は空しく相成申すべし。田邊ゆゑ果て申す事にて候へば、子の仇敵(かたき)なり。刀をさし給ふは何の爲(ため)ぞ。早く田邊の家へ切込み、撫切(なでぎり)にして其恨みを報じ給はねば、父とも思はれぬことに候ぞ。」

と、かきくどき歎くこと、日夜、絕えず。

 初めは聞捨(ききすて)にもしたりしが、每度のことなれば、其中に宮田吉郞兵衞もふと心に止(や)むことを得ぬやうに思ひなして、或日終に心を決し、我が屋の品々賣代(うりしろ)なし、白銀(はくぎん)五枚を整へ、是を東末寺(ひがしまつじ)の御堂に持行(もてゆ)き、我が法名を永代經に付けて、其請取(うけとり)を腰に括(くく)り、終に覺悟を極(きは)めたり。安心了解(あんじんりやうげ)の發願(ほつぐわん)、切死(きりじに)の用に立ちしも又妙なり。

 其後衣服を改め、一家知音(ちいん)の人々に暇乞(いとまごひ)に出づる。其たち樣(ざま)夫(それ)とは爾(しか)と聞えねど、後に思ひ合せてけふの哀れを語りあふに、家々の請けこたへをかしきことどもありし。是又怪異のことにして、正氣なることにはあらず。

[やぶちゃん注:「白銀五枚」「白銀」は銀を直径約十センチほどの平たい楕円形に作って白紙に包んだもの。通用銀の三分(ぶ)に相当し、主に贈答などに用いた。一両は四分であるから、十五分は四両弱となる。

「東末寺」真宗大谷派金沢別院(通称「東別院」)のこと(グーグル・マップ・データ)。

「永代經」「永代讀經」の略で永代供養のこと。ここはそれを菩提寺に依頼する願い状のようである。

「安心了解」安心 (=信心)を領納解了するの意で、「確かな信心のもとに、阿弥陀如来の命を受け取って、その道理を理解してしっかりと身につけること」を指す。

「其たち樣夫とは爾と聞えねど」その暇乞いに立ち出でた宮田の様子は、実際、どのようなものであったかは、はっきりとは判らないものの。

「をかしきこと」理解不能な部分。] 

 終に心を一定(いちぢやう)して、七月廿六日田邊氏の家へ切込まんとおもひ立ちて、道は法船寺町と云ふを過ぎ、所々にて田邊氏の家を尋ね問ひしこと數ヶ所なり。終に田邊の門に至り、折節田邊忠左衞門は役所より歸りて、大肌脫ぎて臥し居られ、惣領忠藏は屋根葺(やねふき)の手傳(てつだひ)して屋根の上にあり。三男忠三郞は瘧(おこり)を病み手を額(ぬか)にあて、次ぎの間にうつぶき居(ゐ)る。

 宮田吉郞兵衞式臺に於て大音揚げ、

「我は是れ長大隅守家來小姓組宮田吉郞兵衞なり。我が娘らん命期(めいご)今日(けふ)にあり。是を顧みざるのみならず、道具を押へ暇をくれず。是れ恨み死に死(じに)せしむるなり。子の敵(かたき)覺えあるべし。いざ、立合ひて、勝負あれ。」

と罵れども、元來覺えなきことなれば、居合ひたる家來は迯げかくれ、二歲の小兒を抱きけろ乳母立出で、

「何の事ぞ。」

と問ふ所を、宮田長き刀をすらりと拔き、乳母大いに恐れ迯入るを拂切(はらいぎり)に切りたるに、乳母の袖、二つにきれて、小兒の片足へ少し切込む。

 乳母大いに肝を潰し、逸足(いちあし)出して迯込むを、續いて追懸け、唐紙[やぶちゃん注:襖(ふすま)。]を蹴(けり)はなして次へ通(とほ)れば、三男忠三郞は瘧に目まひ立ちかねながら、刀を取らんと這ひ寄る所を、拔きまふけたる刀なれば、躍り掛りて一打に切放すに、肩先よりひばらに懸けて打込む。忠三郞は二言(にごん)もなくあへなき最期なり。

 此音に驚き、忠左衞門奧の紙ぶすま引明けて出づる所を、吉郞兵衞又躍りかゝりて、

「丁(てう)」

と切る。此疵、片耳より、後ろ、喉(のど)へかけて、深疵なり。

 忠左衞門飛び入りて刀の手を捕へ、左の手を右の手に支へて、

「えいや、えいや、」

と押し合ふ。

 此時、

「忠藏、忠藏、」

と呼はる聲、やうやう、屋根へ聞えしとなり。

 忠藏、驚き、屋根より飛び下り、父が躰(てい)を見るに、敵を捕へ、緣先きに、兩方、挑(いど)み合ふ。

 忠藏書院の鎗(やり)おつとり、吉郞兵衞が脇腹に、

「すつぱ」

と突込(つきこ)みしかば、組みながら、兩人共に、緣より、落つ。

 依りて、

「忠藏にて候。」

と聲懸けしかば、父は心安堵して、

「がつくり」

と、息、絕ゆる。

 忠藏、駈け寄りて、呼び生(い)ける間(あひだ)に、吉郞兵衞、起上り、鎗を取り拔き捨て、其樣、怪しく四つ這ひに飛廻(とびまは)り、人をはねのけて門へ出でんとする所を、田邊の家子共(いへのこども)、先づ門を固めて出(いだ)さず。故に庭を走り廻ること、飛獸(とぶけもの)の如く、其家の男女を追立(おひた)つること、度々(たびたび)なりしに、家來共、階子(はしご)を取りて是を押へんとするに、拔けくゞり出づること、四、五度なりしが、法船寺町の商家俵屋某(ぼう)の背戶へも至りしことありし、とぞ。

 忠藏は馳付けし一族共へ、父を預け、終に追懸けて詰め寄せ、吉郞兵衞を一打に打倒し、乘懸つて、とゞめをさす。

 吉郞兵衞、

「無念、無念、」

と、おめけども、

「不斷煩惱得涅槃。」

終に最後に及びける。

 依りて田邊一門知音、駈付けし者ども集り、先づ誰ならんと改め見るに、更に見馴れぬ者なり。入來(いりきた)りし時名乘りしを聞きし者もあれども、何と云ひしやらん慥(たしか)に聞きし者もなく、

「誰よ、彼よ、」

と云ふばかりなり。

 先づ、父忠左衞門、手疵を養ふに、深疵にして存命不定(ぞんめいふぢやう)なり。

 三男忠三郞は、一刀に息絕えたり。

 二歲の小兒は、疵纔(わづか)にして死に至らず。

 其外家内の者どもは、皆少々の手疵なり。或は、自ら轉びて疵付きし者も多かりし。

 偖(さて)、殘らず遠方の一門中(うち)も駈け付け、喧嘩追懸者(けんかおひかけもの)役の衆中も來會(らいくわい)して首尾を問ひ、國君[やぶちゃん注:第十代加賀藩主前田治脩(はるなが)。]よりも、御使者、立ち、手疵を尋ね、人參を下され、御懇意、又、冥加なき[やぶちゃん注:神仏の御加護が過ぎるかのように忝(かたじけな)い、あり難い。]に似たり。

 尤も深く忠左衞門を惜み給ひて、此討人(たうにん)を御吟味ありけるに、兎角、知れず。時は晝八つ時[やぶちゃん注:午後二時。]過ぎ宮田則ち田邊屋敷へ來りしに、落着は日落ちて切合ひすみし、とぞ。思へば長き間なり。

 夜に至りても、猶、知れざりしに、吉郞兵衞を裸にせしかば、下帶に永代經の受取括(くく)りありしとぞ。

 終に行衞知れて、長氏へ案内に及ぶ。長家は一向に知らず、付けとゞけ・案内等後手(ごて)になりて、首尾不都合なり。されば詮議は近隣の御坊土室(ごばうつちむろ)の常照寺にてありし。是も一向宗の因緣にや死骸を渡す時色々の論(ろん)[やぶちゃん注:言い争い。]ありし。

 田邊忠左衞門は六十歲なるに、二十餘の深疵なれば、外科名醫丹誠を以て療養なれども終に叶はず、二三日の内に死去せり。

 されば事濟みたる時、一時にやありけん、忠左衞門・忠三郞・吉郞兵衞葬禮三つ並びて行きしも、又、ふしぎの出合なり。此時葬所に於て葬らんとせし時、大いなる響きの音發して、人々膽を消しけること、

「猶、修羅道に戰ふにや。」

と、其頃人々申合ひしなり。

 されば、田邊氏の屋敷及び役所へ、每度宮田吉郞兵衞の妻子呼出(よびい)だされ、御吟味嚴しかりし所、妻子の口上には、

「私どもの更に恨みなることも無之(これなく)候。たゞし吉郞兵衞罷出(まかりい)で候儀は、畢竟、亂心に紛れあるまじく候。」

との申譯(まうしわけ)にて、事濟みて歸りけれども、長大隅守殿よりは、宮田の支族妻子迄皆々しまり仰付けられ、殘らず同役どもへ御預けなり。

 田邊の家士剛膽(がうたん)御吟味ありて、その後忠藏へ家督仰付けられ、又々役儀仰渡しありて相勤め、事故なく榮ゆるなり。

[やぶちゃん注:「付けとゞけ・案内」詫びや見舞いのつけ届けや、事件に対する即応した多方面での対応や処置を指す。

「法船寺町」既出既注であるが、再掲する。現在の金沢市中央通町(ちゅうおうどおりまち)及びその北端の外に接する長町二丁目付近(グーグル・マップ・データ)。ADEACの「延宝金沢図」(延宝は一六七三年~一六八一年)の中央下方のやや左部分をゆっくり拡大されたい(左が北)。長九郎左衛門(連起)屋敷(二ヶ所。下方に下屋敷)が見えてきたら、それを左上にして停止すると、右手犀川右岸に「法舩寺」が見えてくる(目がちらついて田邊の屋敷までは探せなかった。悪しからず)。

「瘧(おこり)」マラリア。現在は撲滅(戦後)されているが、近代以前は本邦全域に感染が見られ、特に西日本の低湿地帯や南日本を中心にかなり多くの感染者がいた(光源氏や平清盛も罹患している)。本州では琵琶湖を中心として福井・石川・愛知・富山で患者数が有意に多く、福井県では大正時代はでも毎年九千から二万二千名以上のマラリア患者が発生しており、一九三〇年代でも五千から九千名の患者が報告されていた。嘗ての本邦で流行したマラリアは三日熱マラリア(アルベオラータ Alveolata 亜界アピコンプレクサ Apicomplexa 門胞子虫綱コクシジウム目 Eucoccidiorida マラリア原虫三日熱マラリア原虫 Plasmodium ovale による)である(以上は概ねウィキの「マラリア」に拠ったが、より詳しくは「生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 二 原始動物の接合(4) ツリガネムシ及びマラリア原虫の接合)の私の注を参照されたい」。

「拂切」右利きなら、引き抜いて右横に強く大きく払って斬ること。

「其樣怪しく四つ這ひに飛𢌞り」この段落部分(私が段落にしたのであるが)には麦水の確信犯の狐の憑依を匂わすところの示唆があると私は読む。

「不斷煩惱得涅槃」親鸞の「教行信証」の「行巻」の末尾に所収する「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」の偈文。原拠は「維摩経」。「煩惱を斷たずして涅槃を得」。

「喧嘩追懸者」野次馬。

「御坊土室(ごばうつちむろ)の常照寺」これは「淨照寺」の誤り。法船寺の南東直近にある浄土真宗大谷派浄照寺である(グーグル・マップ・データ)。「加能郷土辞彙」に、『ジヨウショウジ 淨照寺 金澤下傳馬町に在つて、眞宗東派に屬する。寺記に、長祿二年[やぶちゃん注:一四五八年。室町時代。]慶正といふ者、之を能美郡土室に草創し、五代正慶の時金澤移ったが、今に土室御坊と稱するとある。能美郡德久の靜照寺と關係のあるものであらう』とある。旧町名もここの旧町名と一致する。よって田邊の屋敷はこの近くになくてはならないのだが、不思議なことにADEACの「延宝金沢図」にはこの寺さえも見つからない。不審。

「妻子の口上」私はここでおさんが何故、何も言わなかったのかが大いに不審なのである。真に狐憑きであったなら、役人など何するものぞ、ガツンと言い放つであろう。統合失調症その他の重い精神病であったとしても、同じように却って訳の分からぬことを訴えるはずである。その点が、私は頗る不審なのである。一つ――もしかすると、この田邊家の男(主人子息を含む。しかも複数である可能性も考える)からおさんは性的暴行を受けていたのではなかったか? そうすると、宮田の行動も説明がつくと私には思われるし、おさんがここで何も言わないのも、どこか納得出来るのである。

「家士剛膽」田邊家の家来は、その剛胆(肝が太く物に動じずにこの事件に対処したこと)が。

 またしても前話「三不思議」の強力な連関怪奇譚であるが、その内容は奇怪にして凄絶である。ここでは「三不思議」の最後の狐の話に登場する長大隅守連起(つれおき)の家臣である「臺所懸りの」「宮田吉郞兵衞」が思いもしなかった主人公として登場し、驚くべき仕儀をしでかしすのである。「前々篇からの、こんな連続的な怪異は如何にも作り物臭いぞ! 特にこれはねぇ」とお思いになる方が多かろうが、しかし、この異常にして凄惨な殺人事件は、確かに実際にあったことが「加賀藩資料」第九編の「安永二年」(一七七三)年のここに(国立国会図書館デジタルコレクション)はっきりと記されてあるのである(ポイント落ちや下げは無視した)。

   *

八月廿六日。長大隅守の家臣宮田吉郞民衞、御馬廻組田邊忠左衞門を殺害す。

〔政隣記〕

九月十五日、大隅守殿今日より御自分指扣。

但、右は前月二十六日大隅守殿家來宮田吉郞兵衞と申者、定番御馬廻御番頭田邊忠左衛門方へ罷越、式臺より入、三男勇三郎を切殺候に付、忠左衞門立合候處、忠左衞門にも三ヶ所深疵を爲負、嫡子八左衞門立合、吉郞兵衞を捕令切害。忠左衛門右手疵癒之御屆相濟候上、今月十二日死去。右之趣に付而也。

[やぶちゃん注:以下、頭注。]【平癒の屆出を爲したるは殺害せられたる者は遺知相續を得ざればなり】

   *

・本篇では「七月」と異なるものの、日付は正しい。八月二十六日ならばグレゴリオ暦十月十二日、七月二十六日ならば同九月十二日である。

・長大隅守連起の「指扣」は「さしひかふ」と読む。自分の意志で自主的に暫く閉門(謹慎)したというのである。

・「三男」を「勇三郎」とするが、本篇では「忠三郎」である。既に述べたように通称は複数あったから、特に問題にするに足らない。

・「嫡子八左衞門」が本篇の通称「忠藏」。

・「捕令切害」は「捕(とら)へ切害(せつがい)せしむ」。

・「右手疵癒之御屆相濟候上」は「右手疵、之れ癒(い)ゆの御屆(おんとどけ)相ひ濟み候ふ上(うへ)」。

・「付而也」「つき、しかなり」で「以上、確かな事実である」である。武家で殺人の被害者となった場合、何の抵抗もなしに殺された時は、被害者にも応戦しなかった点に於いて落ち度(現刑法で言う不作意犯)が認められてしまい、通常の病死や老衰死の場合に認められるはずの死後の家督相続が認められないことがあったので、こうした一見おかしなまどろっこしい手続きが必要とされたであったのである。江戸時代、そうした相続(特に末期養子)のために死を実際より遅らせて届け出ることはかなり頻繁に行われた。実際、本篇では彼は事件から二、三日後に死んだと記してあるのである。

 さて。ここまでくると、思うに、作者堀麦水(享保三(一七一八)年~天明三(一七八三)年)は寧ろ、この長連起(つらおき 享保一七(一七三三)年~寛政一二(一八〇〇)年)と個人的に親しかったのではないか? という逆の想像が働くのである。それは、今までもそうだが、長家絡みの話柄に於ける台詞や事件の経緯から結末に至るまでの内容が、実に克明に再現されているように見えるからである。これはまず、長家にごく近い人間が麦水にいなければ到底自信を以って記せるものではない。麦水亡きあと(連起はその後も十七年生きており、無論、長家は幕末まで続き、維新後は男爵家となっている)この「三州奇談」が書写されて加賀藩内で普通に読まれた可能性を考えると、そう考えるしかない。而して多少は長連起自身には都合の悪い部分、不名誉な箇所があるにしても、「三不思議」で引用させて頂いた展宏氏の仮説のように、この麦水の実録記載は――栄えある「畠山七人衆」として知られた能登畠山氏旧臣にして旧有力国人であった長(ちょう)一族の「三禁制」――として喧伝される効果を逆に持つ。この怪奇談が加賀藩の人持組頭(加賀八家)でありながら、今一つ、力を持てずに続いた長家の、しかしその武家一族としての正統性、サラブレッド性を補強するものとして、連起以後の長家に於いて確かな《実録》として容認されていたのではなかったか? とも思えてくるのである。

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