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2020/05/25

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 江上の曲

 

  江 上 の 曲

 

水緩(ゆる)やかに、白雲(しらくも)の

影をうかべて、野を劃(かぎ)る

川を隔(へだ)てて、西東、

西の館(やかた)ににほひ髮

あでなる姬の歌絕えず、

東の岸の草蔭に

牧(まき)の子ひとり住(すま)ひけり。

 

姬が姿は、弱肩(よわがた)に

波うつ髮の綠(みどり)なる

雲を被(いあづ)きて、白龍(はくりゆう)の

天(あめ)の階(はし)ふむ天津女(あまつめ)が

羽衣ぬげるたたずまひ。

牧の子が笛、それ、野邊の

白き羊がうら若き

瞳をあげて大天(おほあめ)の

圓(まろ)らの夢にあこがるる

おもひ無垢(むく)なる調なりき。

 

されども川の西東、

水の碧(みどり)の胸にして、

月は東に、日は西に

立ちならびたる姿をば

靜かに宿す時あれど、

二人が瞳、ひと日だに

相逢ふ事はなかりけり。

 

ふたりが瞳ひと日だに

あひぬる事はあらざれど、

小窓(をまど)、櫻の花心地(はなごゝち)

春日(はるび)燻(くん)ずる西の岸、

とある日、姬が紫の

とばりかかげて立たす時、

綠(みどり)草野(くさの)の丘(をか)遠く

いとも和(やは)らに、たのしげに

春の心のただよひて、

糸遊(いという)なびく野を西へ、

水面をこえて浮びくる

牧の子が笛聞きしより、

何かも胸に影遠き

むかしの夢の仄(ほの)かにも

おとづれ來(く)らむ思ひにて、

晝はひねもす、日を又日、

姬があでなる俤(おもかげ)は、

廣野(ひろの)みどりのあめつちを

枠(わく)のやうなる浮彫(うきぼり)と、

やかたの窓に立たしけり。

 

また、夕されの露の路、

羊を追ふて牧の子が

草の香深き岸の舍(や)に

かへり來ぬれば、かすかにも

薄光(うすあかり)さす川面(かはおも)に

さまよひわたる歌聲の

美(うるは)し夢に魂ひかれ、

ただ何となくその歌の

主(ぬし)を戀しみ、獨木舟(うつろぶね)、

朽木(くちき)の杭(くひ)に纜(ともづな)を

解(と)きて、夜な/夜な牧の子は

西の岸にと漕(こ)ぎ行きぬ。

 

ああ、ああされど日を又夜、

ふたりが瞳、ひとたびも

相あふ時はあらざらき。

姬が思ひはただ遠き

晝(ひる)の野わたるたえだえの

笛のしらべの心にて、

牧の子が戀、それやはた、

帳(とばり)ゆらめく窓洩れて

灯影(ほかげ)とともにゆらぎくる

淸(すゞ)しき歌の心のみ。

 

姬は夢見ぬ、『かの野邊の

しらべぞ、夜半(よは)のわが歌の

天(あめ)よりかへる反響(こだま)なれ。』

また夢見けり、牧の子も、

『かの夜な夜なの歌こそは、

白晝(まひる)わが吹く小角(くだ)の音の

地心(ちしん)に泌(し)みし遺韻(なごり)よ。』と。

 

牧の子は野に、いと細き

希望(のぞみ)の節(ふし)の笛を吹き、

姬はさびしく、紫の

とばりを深み、夜半(よは)の窓、

人なつかしのあこがれの

柔(やは)き歌聲うるませて、

かくて日每に姬が目は

牧野(まきの)にわしり、夜な夜なに

牧の子が漕ぐうつろ舟

西なる岸につながれて、

櫻花散る行春(ゆくはる)や、

行きて、いのちの狂ひ火の

狂ふ熖(ほむら)の深綠(ふかみどり)、

ただ燃えさかる夏の風

野こえてここにみまひけり。

 

ああ夏なれば、日ざかりの

光にきほふ野の羊、

草踏み亂し、埒(らち)を超(こ)え、

泉の緣(ふち)のたはぶれに

鞭(むち)ををそれぬこをどりや、

西の岸にも、葉櫻に、

南蠻鳥(なんばんてう)は眞夏鳥(まなつどり)、

來て啼く歌は、かがやかの

生(い)ける幻誘ふ如、

ふる里(さと)とほき南(みんなみ)の

燃(も)えにぞ燃ゆる戀の曲(きよく)、

照る羽つくろひ、瞳(め)をあげて、

のみど高らに傳(つた)ふれど、

さびしや、二人、日を又夜、

相見る時はあらざりき。

胸に渦卷くいのちの火

その熖(ほむら)にぞ燬(や)かれつつ、

ああ燬(や)かれつつ、かくて猶、

捉(とら)へがたなき夢追ふて、

水ゆるやかの大川の

(隔(へだ)てよ、さあれ浮橋(うきはし)の)

西と東に、はかなくも

影に似る戀つながれぬ。

 

夏また行きぬ。かくて猶、

ああ夢遠きあこがれや、

はかなき戀はつながれぬ。

牧野(まきの)の草に、『秋』はまづ

野菊と咲きて、小桔梗(をぎきやう)に、

水引草(みづひきさう)にいろいろの

露染衣(つゆぞめごろも)、虫の音も、

高吹(たかふ)く風も追々(おひおひ)に、

ひと葉ひと葉と水に散る

岸の櫻の紅葉(もみぢ)さへ、

夢追ふ胸になつかしく

また堪へがたき淋しさを

この天地にさそひ來ぬ。

 

ひと夜、月いと明(あか)くして、

咽(むせ)ぶに似たる漣(さゞなみ)の

岸の調(しらべ)も何となく、

底ひ知られぬ水底(みなぞこ)の

秘めたる戀の音にいづる

おとなひの如聞かれつつ、

まろらの月のおもて、また

わが心をばうつすとも

見えて、ああその戀心(こひごゝろ)

いと堪へがたき宵なりき。

牧の子が舟ゆるやかに

東の岸をこぎ出でぬ。

 

高窓洩れて、夢深き

月にただよふ姬が歌、

今宵ことさら澄み入りて、

ああ大川も今しばし

流れをとどめ、天地の

よろづの魂もその聲の

波にし融(と)けて浮き沈み、

ただ天心(てんしん)の月のみか

光をまして、その歌の

切(せち)なる訴(うた)へ聽くが如、

この世の外の白鳥の

かがなき高き律(しら)べもて、

水面(みのも)しづかにいわたれば、

しのびかねてや、牧の子は

櫂(かひ)なげすてて、中流(ちうりう)の

水にまかする獨木舟(うつろぶね)、

舟をも身をも忘れ果て、

息もたえよと一管(ひとくだ)の

笛に心を吹きこみぬ。

 

たちまち姬が歌やみて、

窓はひらけぬ。 月影に

今こそ見ゆれ、玲瓏(れいろう)の

光に浮ぶ姬が面(おも)。

小手(こて)をばあげて招(まね)げども、

櫂なき舟はとどまらず。

舟も流れて、人も流れて、

笛のしらべも遠のくに、

呼ぶ名知らねば、姬はただ

慣(な)れにし歌をうたひつつ、

背(せ)をのびあがり、のびあがり、

あなやと思ふまたたきに、

袖ひらめきて、窓の中

姿は消えぬ。 川のおも

月は百千(もゝち)にくだかれぬ。

 

かくてこの夜の月かげに

姬がみ魂も、笛の音も

はてなき天(あめ)にとけて去り、

かなしき戀の夢のあと

獨木(うつろ)の舟ともろともに、

人知りがたき海原の

秘密の底に流れけり。

           (甲辰九月十七日夜)

 

[やぶちゃん注:実はこの詩篇以降は前の「秋風高歌」の最後の二篇の全体字下げ位置のままで本文詩篇が組まれてしまっている(本篇の開始ページを底本の早稲田大学図書館古典総合データベースの画像で示す。この前のページと比較されたい。なんなら、全体(HTML見開き各個版ならこちらで、PDF一括ならこちら)を見て戴いてもよい)。どうもこれは、「秋風高歌」の最後の二篇の字下げを、本詩篇から引き上げるのを忘れた校正係がそのままやらかした誤りとしか思われない。されば、本篇以降は特に字下げを行わない。

 句点の後の字空けは見た目を再現した。

 さて、二ヶ所に現われる「櫂」(最初の方の「かひ」の読みはママ。歴史的仮名遣は「かい」でよいが、これはママとした)であるが、実は底本では「擢」となっている。しかし「擢」(音「タク」・「ジョク(ヂヨク)」・「テキ」(慣用音))は訓「ぬく」・「ぬきんでる」で、「抜擢」に見る「抜く」・「抜きん出る」・「より抜いて選び出す」・「取り去る」・「伸びる」・「長い」の意味しかなく、「櫂」(音「トウ(タウ)」・「ジョウ(デウ)」とは全く違う漢字で音も異なり、舟を漕ぐ「かい」(櫂・橈)の意味や代用慣用もない。筑摩版全集は二ヶ所ともそのまま「擢」としている。初めに「擢(かひ)」と読みが振ってあっても私ははっきり躓いた。しかし、初出((『明星』明治三七(一九〇四)年十月号。初出形原本を「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらで読むことが出来る。初出では全体が「一」から「四」のゴシック太字表記の整然とした四章構成となっている)でもこの誤った「擢」が二ヶ所とも使用されていることが判るのである(そちらでは二ヶ所とも正しい仮名遣で「かい」とある)ここここである。ところが、筑摩版全集の「雑誌に発表された詩」の「江上の曲」では二ヶ所とも「櫂」に消毒されてあるのである。してみれば、私は筑摩版「あこがれ」には従えない。特異的に二ヶ所ともに漢字を「擢」から「櫂」に訂したことをお断りしておく。

表題「江上の曲」は私は「かうしやうのきよく(こうしょうのきょく)」と読む。

「糸遊」陽炎(かげろう)。

「小角(くだ)」管(くだ)の形をした小さな笛。本来は古く中国で戦場で吹いたとされる動物の角で出来たホルン型のものを指すが、本邦ではまず見られないから、啄木のそれは牧羊神パンの吹くようなそれをイメージしてよかろう。

第八連八行目「牧野(まきの)にわしり」の「わしり」は「走り」に同じ。素早く牧野に向かって目を走らせ、の意。

同連の「をそれぬ」はママ。

「南蠻鳥(なんばんてう)は眞夏鳥(まなつどり)」啄木が如何なる鳥をイメージしているかは確定出来ぬが、一般的には「風鳥(ふうちょう)」、スズメ目スズメ亜目カラス上科フウチョウ科 Paradisaeidae のフウチョウ類をイメージするであろう。所謂、「極楽鳥」である。ゴクラクチョウは正式和名ではないので注意されたい。

「のみど」は「飲み門()」「のみと」「のみど」で漢字表記「喉」「咽」で「咽喉(のど)」のこと。

「水引草(みづひきさう)」ナデシコ目タデ科ミチヤナギ亜科 Persicarieae Persicariinae亜連イヌタデ属ミズヒキ Persicaria filiformis

「いわたれば」「い渡れば」。響き渡ってゆくので。「い渡る」は万葉以来の古語で「い」は意味を強めて語調を整える接頭語。

「玲瓏(れいろう)」対象が美しく光り輝くこと。

「招(まね)げども」初出(前掲)は「招けども」となっている。ここ。しかし私は古文の中で「まねぐ」という濁音表記を見た記憶があるのでママとした。筑摩版も濁音のままである。]

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