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2020/05/26

三州奇談續編卷之三 田中の馬藝

 

    田中の馬藝

 されば河原毛の馬(むま)凶(きよう)たるの說を破りて、其馬を求め得し田中源五右衞門と云ふ者の事を尋ぬるに、其親は浪人にて所々を奉公し世を渡りけるに、心中英雄にして終(つひ)に出世し、後は竹園(たけぞの)の攝家に仕へて、佐々木日向守とて五位の官職を給はり、近年御供して東武に出で、盛名を大に響かせし人なり。其子は故ありて、加賀の家中長氏の家臣田中氏へ送りてけり。故に田中源五右衞門と名乘る。されば幼少の時より、江戶表にありて名高き山鹿甚五右衞門が後(のち)山鹿藤助、其孫新五左衞門が方に内弟子として仕へ、武學飽く迄も稽古して、依りて名も甚五右衞門と云ひしなり。甚五右衞門と申すは、則ち北條安房守が高弟にて、天下の奇才なり。一年天下の咎めを受けて播州赤穗に蟄居せしことあり。次でながら其趣を語らん。

[やぶちゃん注:前話「長氏の東武」から直に繋がる形で書かれてあるが、私は前話の田中に係わる話の部分に甚だ不審を感じている。そちらをまず読まれたい。

「竹園の攝家」藤原北家高藤流(勧修寺流)の堂上家甘露寺家の支流に竹園家があるが、甘露寺家自体が摂家ではない。

「佐々木日向守」武野一雄氏のブログ「金沢・浅野川左岸そぞろ歩き」の『並木町(2)静明寺②』に、佐々木日向守丹蔵なる人物の記載がある。

   《引用開始》

元文元年(17366月下旬、身の丈6尺余、色青く目鼻立ち鋭い風体いやしい男丹蔵は、主家多羅尾家の系図を盗み金沢を出奔した。丹蔵は武家に仕える仲間で、夜な夜な博打にふけり、その夜、つきに付き大金を手にしたのである。

元禄のインフレ景気が去り、8代徳川吉宗の時代、政策の反動でデフレが起こり、享保の改革からインフレ期一石銀七十匁~百匁がデフレで三十匁~五十匁にな り、武士も百姓も生活は苦しくなり、世態は醜悪、風紀は紊乱し、一攫千金を夢見る投機心が勃興し富籤や頼母子講がはやり挙句の果てには、詐欺窃盗騒ぎが頻 繁に起こった時代だったと言う。

主家の多羅尾八平次(300石取り)も賭博に嵌り、収納米の二重売却や近隣に住む鶴見和太夫の刀、脇差4本を盗み打ちつぶし売り飛ばすなど詐欺窃盗の常習で、おまけに兄弟骨肉の相食む乱脈であったと言う。元文2年(1737615日八平次は能登島へ流罪、弟(定番御馬廻組清太夫)は五箇山へ流罪になる。奉公人灯篭竹の丹蔵は、このような主人のもとでは実直に働くことが出来なかったようで博打三昧に走ったのも頷ける。主家の没落で扶持にも離れ、江戸に 活路を求めての出奔であったものと思われる。

江戸では、常陸笠間城主六万石の井上河内守(後、浜松城主井上大和守)の仲間奉公の職を得る。博徒とは言え、才気煥発で理財の才があり、河内守の勝手を建 て直し、知行500石の家老職に出世した。老年に至り、傍輩の子を養子として跡式を譲り、隠居となり、京に上り佐々木北翁と改め九条家[やぶちゃん注:九条家は摂家である。](左大臣尚実の時) に仕え、雑掌を勤める。

ここでも財政整理に成功して、自身も一万四千両の分限者となる。経済的非常時に知恵と才覚で成り上がる。金力には公家も大名も膝を屈せざるを得なかったのである。

明和元年(176410月佐々木日向守 (左京高安)は九条家雑掌の格式で故郷金沢を訪れるのである。[やぶちゃん注:前篇「長氏の東武」は安永三(一七七四)年十二月以降の年内年末の出来事である。]

当時、金沢の法船寺町に実子田中源五左衛門(長家家来田中伴左衛門の養子御馬廻組200石)あり。大坪流の馬術の名手[やぶちゃん注:前篇「長氏の東武」には「兼て馬術鍛鍊の人、諸人も皆此人と許したる田中源五左衞門」と初めに出る。]で、灯篭竹の丹蔵が金沢時代博徒仲間、玄洞坊という山伏の妹との仲に生まれた長子である。

佐々木日向守(左京高安)が金沢に来た理由は、京の仁和寺、青蓮院の宮様の資銀を調達し、貸し付けると言う触れ出しで、当時は、どこも台所は火の車、長家 も前田駿河守家も村井家も、あからさまに言い出さないまでも、いずれも借銀に関する談合を円滑にしたいと思っていた事はうなずける。佐々木日向守(左京高安)は、金沢逗留6日間。

加賀藩では、10代重教の時代、藩では国賓として歓待した。また謝罪のため多羅尾家を訪れ、多羅尾家では憎しみを忘れ晴れ姿を祝福して迎えたという。

当時、養子縁組を利して苗字を改め諸太夫(従五位下)にまで昇進したものはいたが、この姓「佐々木」で諸太夫になった彼の手腕は稀有という。ちなみに当時、加賀藩での諸太夫(従五位下)を叙爵出来たのは、八家だけだった。

静明寺の墓は、源五左衛門により建立され、高さ六尺。法名は「義好院殿忠山北翁日勇大居士」左側面に俗名佐々木日向守、右側面に明和丁亥歳十一月二十二日、田中氏と刻してある。

参考文献 副田松園著(世相史話)石川県図書館協会発行より

(多羅尾家、旧味噌蔵丁、現在の消防署裏、珠姫に付いて来た甲賀忍者の末裔。菩提寺は蓮昌寺。)

   《引用終了》

即ち、前篇「長氏の東武」に出る「田中源五左衞門」或いは「田中源五右衞門」が、まさにここで語られるように、この佐々木日向守(左京高安)の実子である田中源五左衛門と考えてよいわけである。

「近年御供して東武に出で、盛名を大に響かせし人なり」これはどうにも、前篇「長氏の東武」の酷似した「田中源五左衞門」或いは「田中源五右衞門」のエピソードが被さってしまって混同が生じるのであるが、以下を読むと、納得出来ないことはない。ともかくも親子揃って野心家・自信家であったことが判る。

「山鹿甚五右衞門」山鹿素行(やまがそこう 元和八(一六二二)年~貞享二(一六八五)年)は江戸前期の儒学者・軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖。ウィキの「山鹿素行」によれば、『諱は高祐(たかすけ)、また義矩(よしのり)とも。字は子敬、通称は甚五右衛門。因山、素行と号した』。『陸奥国会津(福島県会津若松市)にて浪人・山鹿貞以』(山鹿高道とも)の『子として生まれ』、寛永五(一六二八)年に六歳で『江戸に出』、寛永七(一六三〇)年九歳の時、『大学頭を務めていた林羅山の門下に入り朱子学を学び』、十五『歳からは小幡景憲、北条氏長の下で甲州流の軍学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ』。『朱子学を批判したことから』、『播磨国赤穂藩へお預けの身となった』。承応二(一六五三)年には『築城中であった赤穂城の縄張りについて助言したともいわれ、これにより』、『二の丸門周辺の手直しがなされたという説があり、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている』。寛文二(一六六二)年『頃から朱子学に疑問を持つようになり、新しい学問体系を研究』し初め、寛文五年には、『天地からなる自然は、人間の意識から独立した存在であり、一定の法則性をもって自己運動していると考えた。この考えは、門人によって編集され『山鹿語類』などに示されている』。延宝三(一六七五)年に『許されて江戸へ戻り、その後の』十『年間は軍学を教えた』。『墓所は東京都新宿区弁天町』『の宗参寺(曹洞宗)にある』。『地球球体説を支持し、儒教の宇宙観である天円地方説を否定して』おり、『名言に「常の勝敗は現在なり」がある』とある。因みに、『山鹿素行といえば「山鹿流陣太鼓」が有名だが、実際には「一打ち二打ち三流れ」という「山鹿流の陣太鼓」というものは存在せず、物語の中の創作である』ともある。但し、これは素行の赤穂藩への思想的影響力が甚だ強かったことを傍証するものであることは間違いあるまい。他に若松一止(かずよし)氏のサイト「会津への夢街道 夢ドライブ」のこちらに、年譜形式の詳しい事績が載るが、そこにも、死後十七年目に『赤穂浪士の討ち入りが起こった』が、『赤穂藩での仕官ならびに謹慎で通算』二十『年ほど居住し、赤穂藩士へ与えた影響は大きかった』。『家老/大石良雄 (内蔵助) は素行の教えを直接受けており、用意周到に一致団結して主君の仇を討った行動は、素行の教え「死節論」そのものであった』。『忠臣蔵になくてはならない「一打ち二打ち三流れ」という「山鹿流の陣太鼓」は映画などでの創作であるが、いかに素行の影響が大きかったかの証であろう』と述べておられる。

「山鹿藤助」上記の若松氏年譜によれば、延宝九(一六八一)年素行六十歳の条に、『息子の萬助が元服し、藤助と改名する』とあり、さらに『息子/高基 (藤助) は、家督を継いで兵法を教えた。門弟も多かったという』とある。別な資料によると、彼は寛文六(一六六六)年(素行が赤穂にお預けとなった四十五歳の年)の生まれで、没年は元文三(一七三八) 年とあり、ウィキの「平戸城」によれば、第四代平戸松浦(まつら)藩主松浦重信(鎮信)は『山鹿素行と交流があり、平戸に迎えたいと希望したが叶わず』、『後に一族の山鹿高基・義昌(平馬・藤助とも)が藩士として迎えられた』ともあった。

「其孫新五左衞門」不詳。

「北條安房守」江戸前期の幕臣で軍学者にして北条流兵法の祖北条氏長(慶長一四(一六〇九)年年~寛文一〇(一六七〇)年)。]

 

 山鹿甚五右衞門元來儒學に入りて、林道春(はやしだうしゆん)の高弟にして朱子を尊む流(ながれ)なりしに、歌道は烏丸(からすま)公の一の弟子となり、神道は吉田卜部(うらべ)の源を盡(つく)し、佛學も終に黃檗(わうばく)の隠元禪師に參學して、其源を極められしが、次第に自らの見識を開きて、既に宋儒の說の惡(あし)きを見出し、自ら言を發して、

「我れ周公孔子を取りて漢魏晋宋以下の學說によらじ」

と、終に儒門を說き興(おこ)して自ら「聖敎要錄(せいけうえうろく)」を作り、「語類(ごるゐ)」を書して世に行ふ。號を素行子(そかうし)と云ふ。是(これ)日本「古學」を稱する初めなり。徂徠・仁齋の類(たぐひ)も是より心付くといへり。

[やぶちゃん注:「林道春」林家の祖にして朱子学派儒学者であった林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)の法号。羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)。

「烏丸公」没年ぎりぎりだが、細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、歌道の復興に力を注いだ烏丸光広(天正七(一五七九)年~寛永一五(一六三八)年)であろうか。

「吉田卜部の源を盡し」「徒然草」の作者卜部(吉田)兼好(但し、彼の出自は怪しく今も不明である)で知られる神職家卜部氏の流れを汲む公家で神職である吉田家(信長の推挙によって堂上家となった)。吉田家は江戸時代、後の寛文五(一六六五)年の「諸社禰宜神主法度」で神職に優位を得た。但し、先の若松氏の記載によれば、彼が学んだ神道家として廣田(忌部(いんべ))坦斎(たんさい 生没年未詳)を挙げておられ、彼は忌部正通の神道説をうけて「神代巻神亀抄」を著わし、元本宗源(げんぽんそうげん)神道=吉田神道に対抗して、根本宗源神道=忌部神道を唱えた人物であり、不審である。

「黃檗」承応三(一六五四)年に来日した明僧隠元(後注する)が開祖で、京都府宇治市の黄檗山万福寺を本山とし、明治九(一八七六)年には臨済宗から独立して一宗となった。「教禅一如」を提唱し、「念仏禅」に特色がある。

「隠元禪師」隠元隆琦(りゅうき 明万暦二〇(一五九二)年(本邦では文禄元年相当)~寛文一三(一六七三)年)。隠元は号。中国福州(現在の福建省)福清の出身で、俗姓は林氏。一度は学を志したものの、二十三歳の時、寧波の普陀山に登り、潮音洞で茶の接待役(茶頭(さずう))となって仏道修行に入り、二十九歳で福州黄檗山鑑源興寿について剃髪出家した。その後、嘉興の興善寺や峡石山碧雲寺などで学んだが、黄檗山に住した費隠通容禅師を知り、帰山して彼に参じ、四十三で費隠の法を嗣いだ。以後七年間、黄檗山に住して禅風を宣揚した。一六四四年に明が滅ぶに及んで、一六五二年(本邦の承応元年相当)から長崎の興福寺に渡っていた明僧逸然性融(いつねんしょうゆう)らの来日の懇請を受け、三年間の限定ででこれに応じ、承応三(一六五四)年、かの明憂国の士鄭成功(ていせいこう)の仕立てた船で来日した。興福寺・福済寺(ふくさいじ)・崇福寺(そうふくじ)の唐三箇寺は幕府の鎖国政策で長崎に集まった華僑の檀那寺であり、隠元は直ちに興福寺、次いで崇福寺に住した。この壮挙は日本の仏教界、特に禅僧たちに大きな反響を呼び、龍渓性潜(りゅうけいしょうせん)らは隠元を京の妙心寺に迎えようと奔走したが、愚堂東寔(ぐどうとうしょく)らの反対も強く、結局、摂津の普門寺に迎えられた。万治元(一六五八)年、江戸に赴き、将軍徳川家綱に謁見、翌年には酒井忠勝らの勧めで永住を決意、幕府から京山城の宇治に寺地を与えられ、寛文元(一六六一)年、一派本山としての黄檗山万福寺(新黄檗)を開創した。三年後に隠退、八十二歳で示寂した。隠元は、念仏と密教的要素を取り込んだ明末の禅風を齎し、万福寺は、行事・建築・仏像など、万事が明朝風で、以後の歴住も中国僧が続いた。また彼は能書家としても知られ、隠元の書は幕閣・諸大名などに珍重され、膨大な語録・詩偈集は今にその精力的な活動を伝えている(主文は来日前は平凡社「世界大百科事典」に、来日後は小学館「日本大百科全書」に拠ったが、他にも複数の辞書類の記載を参考にしてある)。

「宋儒の說」朱子学。

「聖敎要錄」(現代仮名遣「せいきょうようろく」)は寛文六(一六六六)年素行四五歳の折りに書かれた。本篇二巻と附録一巻で全三巻。門人への講義である「山鹿語類」(やまがごるい:全四十三巻)から、その学説の中核を集録したもの。「聖人」から「道原」まで、全二十八項の簡潔な解説から成り、直接に周公旦・孔子の教えを学び、日用実践を重んずべきことを説いた朱子学批判の先駆を成す書である。

「古學」江戸時代に起った本邦独自の儒学の一派。既存の朱子学・陽明学などの解釈を批判し、「論語」「孟子」などの経書(けいしょ)の本文を直接に研究して、その真意を解明しようとするもの。山鹿素行その嚆矢とされ、他に以下に出る伊藤仁斎・荻生徂徠などが代表的人物である。「復古学」とも呼ぶ。

「徂徠」儒者荻生徂徠(寛文六(一六六六)年~享保一三(一七二八)年)。名は双松(なべまつ)。通称、惣右衛門。荻生方庵の次男で父の蟄居により二十五歳まで上総で過ごした。荻生家は三河物部氏を先祖とし、修姓して物(ぶつ)とも称した。元禄三(一六九〇)年江戸に戻り、後に柳沢吉保に仕えた。朱子学から出発しながら、それを超える古文辞学(こぶんじがく)を提唱、茅場町に「蘐園(けんえん)塾」をひらき、太宰春台・服部南郭ら、多くの逸材を出した。また、「赤穂事件」の裁定提言や、第八代将軍徳川吉宗に「政談」を提出するなど、現実の政治にも深く関わった。

「仁齋」儒者伊藤仁斎(寛永四(一六二七)年~宝永二(一七〇五)年)。名は維楨(これえだ)。京の商家出身。朱子学を批判し経書復古を主張、寛文二(一六六二)年、京都堀川の自宅に塾「古義堂」を開き、古義学派(堀川学派)の祖となった。自由で実践的な学風で、広い階層に亙る門弟は実に三千人に及んだ。]

 

 されば水戶黃門公大いに是を稱し給ひ、此著本(ちよほん)を江戶御殿にて披露あり、紀州公・尾州公皆々感心に及ばれしとなり。然るに保科肥後守殿一人は御心に叶はず、不興して申されけるは、

「各々此書を御信仰と見えて候。左候はゞ某(それがし)に於ては只今迄公方樣を御後見申し上げ、天下の成敗を取行ひ候へ共、今日より御斷り申し上げ、逼塞仕るべきにて候。其故は、我ら今日迄御政務を執扱ひしは、全く宋儒の學を信じ、朱子の全書を以て執行(とりおこな)ひ來(き)申候。然る所此筋足らざる趣に依つては、明日(みやうにち)より退(しりぞ)き可申候(まうすべきさふらふ)」

と御斷(おことわり)に付、各(おのおの)大(おほき)に御驚き、色々と云直しありて、終に山鹿甚五右衞門に咎(とが)を歸(き)して、頓(やが)て罪科に極まりしなり。天下諸家中、皆々師範と賴む人なりし程に、事皆輕く取りて、先づ當分播州赤穗城主淺野内匠頭へ御預けにて年經しなり。是等の事(こと)「中外傳」附錄「南島變」等に記す。

[やぶちゃん注:「水戶黃門」大の廃仏家にして強力な儒教崇拝者として知られる常陸水戸藩第二代藩主徳川光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年)。寛文六(一六六六)年当時は三十九で、藩主となって五年目。

「紀州公」これは徳川家康十男で紀州徳川家の祖にして、当時、和歌山藩藩主であった徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文一一(一六七一)年)である。彼が嫡男光貞(吉宗の父)に跡を譲って隠居するのは寛文七年である。

「尾州公」尾張藩第二代藩主徳川光友(寛永二(一六二五)年~元禄一三(一七〇〇)年)。当時の名は光義。

「保科肥後守」江戸幕府第二代将軍徳川秀忠四男で三代将軍徳川家光の異母弟にして、当時は陸奥国会津藩藩主であった保科政之(慶長一六 (一六一一)年~寛文一二 (一六七二)年)。信濃高遠藩主保科正光の継嗣。当時の第四代将軍徳川家綱の補佐として幕政に強く参与した。彼は山崎闇斎の朱子学、吉川惟足の理学神道を信奉していた。

「罪科に極まりしなり」先の若松氏の記載によれば、寛文六(一六六六)年、

   《引用開始》

  921

 朱子学を非難した内容の著書「聖教要録」を、密かに著す。

 幕府が正学としていた朱子学を非難することは、幕府への反抗であり、死罪もありうる行為であった。

 幼い将軍/家綱の後見者として武断政治から文治政治への移行を進めていた保科正之公としては、見過ごすことのできない事であった。

 15年前に将軍/家光が死去した3ヶ月後に慶安の変 (由井正雪) が勃発したが、「聖教要録」の発刊の著者が、はるかに超える影響力のある素行だったからである。

 「山鹿子 当は王愷石崇に合し 弁は蘇泰張儀を驚かし 兵器を設け 兵馬を備え 好んで遊説の士 豪英の徒を集め 一挙に乗じて事を起さんとす」

 羅山の門下生でもあり、すでに死去していたとはいえ師を非難することでもあった。

 

 10 3日未明

 北條安房守氏長から、突然、

 「相尋ぬべき御用の儀に付 早々私宅まで参らるべく候 以上」

との手紙を受け取る。

 一瞬にして密かに刊行した「聖教要録」のことだと悟ったという。

 

 10 4

 遺書を懐に入れ出頭すると、播磨国/赤穂藩にて謹慎との命が下った。

 

 10 9

 江戸/浅野藩邸を出発し、播州赤穂へ護送される。

 家族は、17日に出立し、114日に赤穂へ着く。

 

 1024

 赤穂の刈屋城に到着。

 6年ぶりの、赤穂入りであった。

 45歳から54歳までの10年間ほどを過ごすこととなる。

 待遇は幽閉とは名許りで、衣料、食事、住まいまで不自由なく厚遇された。

 家老/大石頼母助良重 (良雄の祖父) からは、毎日朝夕の2回、欠かすことなく野菜を送り届け続けたという。辞退すると、藩主/内匠頭の命だと答えている。

 素行は、因山と号した。

 朝寝などすることもなく、無作法な態度もとらず、1室にて謹慎していた。

 国家老/大石良雄をはじめ赤穂藩士たちも、素行宅を訪れては諸学、特に軍学を学び、後の討ち入りへとつながる。

 皮肉にも討ち入り後、山鹿流が「実戦的な軍学」としい大いに評価される。

   《引用終了》

とある。

「播州赤穗城主淺野内匠頭」言わずもがな、播磨赤穂藩第三代藩主官浅野長矩(寛文七(一六六七)年~元禄十四年三月十四日(一七〇一年四月二十一日))のこと。

『「中外傳」』「慶長中外傳」。本「三州奇談」の筆者堀麦水の実録物。自作の宣伝。既出既注。]

 

 其後十年ありて御免にて召返され、江戶に於て家を求め遣はされしとなり。此家を探るに、古き筆にて書きたる額を見出し、其文字を其儘「積德堂(しゃくとくだう)」と云ふ。世人甚だ用ひ、天下に大(おほき)に行はれて、浪人ながら十萬石の大名格なりしこと、諸人の見る所なり。山鹿甚五右衞門歸り來(きたり)て、「聖敎要錄」を取り引さき捨て、一生の間再び儒學を手に取らず。武學に篤實を守ることのみ敎へられしとなり。

 其子山鹿藤助高基、業(げふ)を繼ぎて其名高く、馬場を持ち馬をも常に五疋を飼ひ、家内に内弟子として仕ふる者二百八十四人となり。されば荻生總右衞門なる徂徠先生も、此山鹿藤助高基が弟子なり。此家にして「要錄」・「語類」等を見て、學問發明ありしと云ふ。

 かゝ筋目(すぢめ)の家に仕へし田中源五右衞門の事なれば、此度(このたび)の江戶表に盛名を響かし、主人の名をも揚(あげ)んと思はれしに、國君大主公度々(たびたび)馬場に召され、馬藝をも御上覽ありといへども、更に御目に留(とま)らず。彼(かの)河原毛の馬も徒(いたづ)らに朽ち、何の一つの御詞(おことば)のかゝることもなく、徒らに江戶表を人並に立歸ることに至りぬ。加州金澤に戾り來(きたり)て、主人御意も常に變らずといへども、心に懸ることは、只河原毛の空しく厩(むまや)に引かれて、折節は心に障(さは)るの端(はし)となり、心怏々(あうあう)として暮されし内、不慮に失念の事起りて、田中源五右衞門閉門申付けられしとなり。是等も彼馬の故にやあらん。

[やぶちゃん注:「國君大主公」前話「長氏の東武」 は安永三(一七七四)年十二月以降の出来事であることが確定しているから、加賀藩第十代藩主前田治脩(はるなが)を指す。

「怏々」(現代仮名遣「おうおう」)心が満ち足りないさま。晴れ晴れしないさま。

「不慮に失念の事起りて」思いもしなかった、うっかりした落ち度の顛末があって。

「閉門」武士や僧侶に科せられた処罰の一種。「公事方御定書」によれば、「門を閉し、窓をふさぐが,釘〆 (くぎじめ) にする必要はない」とあるだけで不明確であるが、同条但書及びこれより刑の軽い逼塞・遠慮の規定と引き比べてみると、出入りはやはり昼夜ともに禁止されていたことが判る。但し、病気の際、夜間に医師を呼び入れたり、火事の時、屋敷内の防火に当たったりすることは勿論、焼失の危険ありと判断されれば、退去して、その旨を届け出ればよいとされていたという(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

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