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2020/05/30

萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 小出新道

 

   小出新道

 

ここに道路の新開せるは

直として市街に通ずるならん。

われこの新道の交路に立てど

さびしき四方(よも)の地平をきはめず

暗欝なる日かな

天日家並の軒に低くして

林の雜木まばらに伐られたり。

いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん

われの叛きて行かざる道に

新しき樹木みな伐られたり。

 

           ――鄕土望景詩――

 

【詩篇小解】 鄕土望景詩(再錄)  鄕土望景詩五篇、 中「監獄裏の林」を除き、 すべて前の詩集より再錄す。「波宜亭」「小出新道」「廣瀨川」等、 皆我が故鄕上州前橋市にあり。 我れ少年の日より、 常にその河邊を逍遙し、 その街路を行き、 その小旗亭の庭に遊べり。蒼茫として歲月過ぎ、 廣瀨川今も白く流れたれども、 わが生の無爲を救ふべからず。 今はた無恥の詩集を刊して、 再度世の笑ひを招かんとす。 稿して此所に筆を終り、 いかんぞ自ら懺死せざらむ。[やぶちゃん注:『再錄す。「波宜亭」』の間には有意な空きがないのはママ。]

 

[やぶちゃん注:私の偏愛する一篇。末尾の「いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん」「われの叛きて行かざる道に」「新しき樹木みな伐られたり」は〈絶対の孤独者萩原朔太郎〉の絶唱と言ってよい。芥川龍之介は嘗て「鄕土望景詩」群を朝の寝床で読み、勃然として床を蹴って、寝間着のまま萩原朔太郎の家を訪れたエピソードがあるが、龍之介が感銘したそれは本篇ではなかったかと密かに思っているぐらいである(私の古い(従って正字化が杜撰なのはお許しあれ)萩原朔太郎「芥川龍之介の死」(初出は雑誌『改造』昭和二(一九二七)年九月号)の第「7」章を参照されたい。なお、私はこれを芥川龍之介追悼文の白眉であると信じて疑わない)。さて、個人(松永捷一氏)サイト「高校物理講義のノートとつれづれの記」の「前橋の詩碑」の中の「小出新道」によれば、『小出新道という名は朔太郎がつけたもので固有名詞ではない。「小出新道」の詩から、現在の大渡橋の南にある上毛会館から住吉町交番へ向かう道と考えられる』。『前橋は製糸業が盛んになり、街は活気づき道路が広げられた。前橋で作られた生糸は横浜経由で輸出された。朔太郎がそれまで親しんできた小出新道に茂っていた楢や櫟などが切り倒され、朔太郎は自分では抗えないふるさとの変貌ぶりに心を痛めていたに違いない』。『左の写真』(リンク先参照)『は、小出新道と呼ばれていた道路の現在の姿である。市街地から西を眺めたもので、正面に見えるのは榛名山である。朔太郎には現在のような姿は想像だにできないだろう』とある。同氏の「前橋の詩碑」のメニューにある地図ではここである(Yahoo!地図)。後の散文詩集「宿命」(昭和一四(一九三九)年創元社刊)の「物みなは歲日と共に亡び行く」(添え題は「わが故鄕に歸れる日、ひそかに祕めて歌へるうた。」。「歲日」は「としひ」と読む)の一節では、本篇の一部を引きつつ、

   *

 と歌つた小出(こいで)の林は、その頃から既に伐採されて、楢や櫟の木が無慘に伐られ、白日の下に生生(なまなま)しい切株を見せて居たが、今では全く開拓されて、市外の遊園地に通ずる自動車の道路となつてる。昔は學校を嫌ひ、辨當を持つて家を出ながら、ひそかにこの林に來て、終日鳥の鳴聲を聞きながら、少年の愁ひを悲しんでゐた私であつた。今では自動車が荷物を載せて、私の過去の記憶の上を、勇ましくタンクのやうに驀進して行く。

 

   兵士の行軍の後に捨てられ

  破れたる軍靴(ぐんくわ)のごとくに

   汝は路傍に渇けるかな。

  天日(てんじつ)の下に口をあけ

  汝の過去を哄笑せよ。

  汝の歷史を捨て去れかし。

            ――昔の小出新道にて――

   *

という、本篇続編というか、〈追悼詩〉をさえ添え据えているのである。なお、昭和五四(一九七九)年講談社文庫刊の那珂太郎編著「名詩鑑賞 萩原朔太郎」では本篇について、『かえすすべない人生への思い』と題した中で以下のように述べておられる。

   《引用開始》

 最初七行は、叙景の体をとりながら、「さびしき四方(よも)の地平をきはめず」といい、「暗影なる日かな」といい、西日の下の荒茫(こうぼう)たる風景は、そのまま作者の心の境位をうつし出しています。「天日家並の軒に低くして/林の雑木(ざふき)まばらに伐(き)られたり」の簡勁(かんけい)な落日の叙景に次いで、詩句は一転して、「いかんぞ いかんぞ思惟(しゐ)をかへさん」という、感懐(かんかい)の激発的直叙となります。おのれがこれまで「思惟」し生きてきたところの一切、それはかえすすべもなく、やり直すすべもなく、しかもまたついにおのれを救うすべもないところのものです。「われの叛(そむ)きて行かざる道」、おのれの経てきた人生と別の人生を、たとい生きたとしても、それは同じだったでしょう。第一それは、最初から不可能でもあった、おのれの「思惟」は必然であり、ほかに生きようはなかったのです。しかも「われの叛きて行かざる道」に、まのあたり「新しき樹木」はみな伐り倒されているのです。この実景はそのまま、作者の悲劇的宿命感をうつし出しているものといえます。

   《引用終了》

私は那珂氏の解に、何らの屋上屋をも必要としない。

 初出は大正一四(一九二五)年六月号『日本詩人』(芥川龍之介はこれで読んだ。同号には後に「鄕土望景詩」と群名するものは他に「新前橋驛」・「大渡橋」・「公園の椅子」の四篇のみである。「大渡橋」(リンク先は私の古いブログでの電子化)も好きだが、龍之介の琴線に激しく触れたのは、やはり、間違いなくこの「小出新道」の最終三行であると思うのである。それは龍之介の中の自死へと激しく傾斜してゆく孤独者としてののっぴきならない激烈な共鳴であったのである。芥川龍之介の自殺は、この二年後の昭和二(一九二七)年七月二十四日であった)

   *

 

   小出新道

 

ここに道路の新開せるは

直(ちよく)として市街に通ずるならん。

われこの新道の交路に立てど

さびしき四方(よも)の地平をきはめず

暗鬱なる日かな

天日家並の軒に低くして

林の雜木まばらに伐られたり。

いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん

われの叛きて行かざる道に

新しき樹木みな伐られたり。

 

   *]

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