萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 波宜亭
波宜亭
少年の日は物に感ぜしや
われは波宜(はぎ)亭の二階によりて
かなしき情感の思ひにしづめり。
その亭の庭にも草木茂み
風ふき渡りてばうばうたれども
かのふるき待たれびとありやなしや。
いにしへの日には鉛筆もて
欄干(おばしま)にさへ記せし名なり。
――鄕土望景詩――
【詩篇小解】 鄕土望景詩(再錄) 鄕土望景詩五篇、 中「監獄裏の林」を除き、 すべて前の詩集より再錄す。「波宜亭」「小出新道」「廣瀨川」等、 皆我が故鄕上州前橋市にあり。 我れ少年の日より、 常にその河邊を逍遙し、 その街路を行き、 その小旗亭の庭に遊べり。蒼茫として歲月過ぎ、 廣瀨川今も白く流れたれども、 わが生の無爲を救ふべからず。 今はた無恥の詩集を刊して、 再度世の笑ひを招かんとす。 稿して此所に筆を終り、 いかんぞ自ら懺死せざらむ。[やぶちゃん注:『再錄す。「波宜亭」』の間には有意な空きがないのはママ。]
[やぶちゃん注:個人(松永捷一氏)サイト「高校物理講義のノートとつれづれの記」の「前橋の詩碑」の中の「波宜亭」によれば、『波宜亭は、かつての波宜亭に関する書類に「前橋市東照宮筋向ヒ坡宜亭」(萩亭ともいう)と刻まれている。筋向かいは斜め前のことだから、東照宮が現在の位置のままなら、波宜亭は現在の児童遊園地から臨江閣あたりだったようだ。波宜亭は元前橋藩士山本郷樹の創業による旗亭(きてい。茶店、料理屋など)であった。室生犀星、草野心平もここを訪れている』とある。同氏の「前橋の詩碑」のメニューにある地図ではここである(Yahoo!地図)。少し拡大すると、県道一〇号を挟んだ南側に東照宮があり、道を挟んだ東側は「遊園地にて」の「遊園地(るなぱあく)」の名を継いだ後身「前橋市中央児童遊園」(愛称「前橋るなぱあく」)である。本篇の初出(後掲)は大正一四(一九二五)年新潮社刊の「純情小曲集」であるが、同書には「郷土望景詩の後に」という自解パートが巻末にあり、
*
Ⅴ 波宜亭
波宜亭、萩亭ともいふ。先年まで前橋公園前にありき。庭に秋草茂り、軒傾きて古雅に床しき旗亭なりしが、今はいづこへ行きしか、跡方さへもなし。
*
と記し、後の昭和一四(一九三九)年創元社刊の散文詩集「宿命」の散文詩(というより多数の旧詩を用いた追懐感想である)「物みなは歲日と共に亡び行く」(添え題は「わが故鄕に歸れる日、ひそかに祕めて歌へるうた。」。「歲日」は「としひ」と読む)の一節では、本篇の一部を引きつつ、
*
少年の日は物に感ぜしや
われは波宜(はぎ)亭の二階によりて
悲しき情感の思ひに沈めり
と歌つた波宜(はぎ)亭も、既に今は跡方もなく、公園の一部になつてしまつた。その公園すらも、昔は赤城牧場の分地であつて、多くの牛が飼はれて居た。
*
と追懐している。また『一九一三、八』(大正二年八月)のクレジットを持つ筑摩版全集呼称「習作集第八巻(愛憐詩篇ノート)」の短歌に連作で、
*
その昔よく逢曳したる
公園のそばの波宜亭
今も尙ありや
波宜(はぎ)亭の柱に書きし戀の歌
かの頃の歌、今も忘れず
その昔
身をすりよせ君と我と
よく泣き濡れし波宜亭の窓
*
ともあり、彼にとっては殊の外忘れ難い思い出の強い場所であったことが判る。
なお、昭和五四(一九七九)年講談社文庫刊の那珂太郎編著「名詩鑑賞 萩原朔太郎」の本篇評釈の中で、那珂氏は詩中の「待たれびと」という語を採り上げ、これは『いうまでもなく恋びとのことで、独逸語の「Geliebte」などの連想からの、受身形による作者の造語でしょう』と述べておられる。「Geliebte」(ゲェリープテ)で男性名詞として用いると男の立場からの「恋人」で、「geliebt」は「lieben」(愛する)の過去分詞形で「恋しい・いとおしい」の意がある。
以下、「純情小曲集」の「鄕土望景詩」中の初出を示す。
*
波宜亭
少年の日は物に感ぜしや
われは波宜亭(はぎてい)の二階によりて
かなしき情歡の思ひにしづめり。
その亭の庭にも草木(さうもく)茂み
風ふき渡りてばうばうたれども
かのふるき待たれびとありやなしや。
いにしへの日には鉛筆もて
欄干(おばしま)にさへ記せし名なり。
*]