萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 中學の校庭
中學の校庭
われの中學にありたる日は
艶めく情熱になやみたり。
怒りて書物を投げすて
ひとり校庭の草に寢ころび居しが
なにものの哀傷ぞ
はるかに彼(か)の靑きを飛び去り
天日直射して 熱く帽子の庇(ひさし)に照りぬ。
――鄕土望景詩――
【詩篇小解】 鄕土望景詩(再錄) 鄕土望景詩五篇、 中「監獄裏の林」を除き、 すべて前の詩集より再錄す。「波宜亭」「小出新道」「廣瀨川」等、 皆我が故鄕上州前橋市にあり。 我れ少年の日より、 常にその河邊を逍遙し、 その街路を行き、 その小旗亭の庭に遊べり。蒼茫として歲月過ぎ、 廣瀨川今も白く流れたれども、 わが生の無爲を救ふべからず。 今はた無恥の詩集を刊して、 再度世の笑ひを招かんとす。 稿して此所に筆を終り、 いかんぞ自ら懺死せざらむ。[やぶちゃん注:『再錄す。「波宜亭」』の間には有意な空きがないのはママ。]
[やぶちゃん注:最終画面の強烈なハレーションが、我々のある種の普遍的追懐のへと収斂してゆく手法は見事と言わざるを得ない。萩原朔太郎は明治三三(一九〇〇)年(数え十五歳)三月に群馬県立師範学校附属小学校高等科を卒業し、四月に県立前橋中学校に入学した。明治三十七年三月に五年次生進級に際して落第し、翌年(二十歳)四月に進級、翌明治三九(一九〇六)年三月に卒業している。本篇については、case 氏のブログ「流体枷仔」(りゅうたいかせこ)の「萩原朔太郎『純情小曲集』「中學の校庭」小考」が驚異の解析力で初出からの推敲過程を推察されているので、是非、読まれたい。
なお、そこにも訂正・削除がされて少し書かれてあるのだが、筑摩版萩原朔太郎全集第二巻(昭和五二(一九七七)年刊)の「解題」の「初出形及び草稿詩篇」に、この「中學の校庭」については、大正一二(一九二三)年一月号『薔薇』が初出であることが判明しているものの、当該雑誌を採集することが出来なかった旨の記載がある。従って、本当の初出形は私は示すことが出来ない。
なお、大正一四(一九二五)年新潮社刊の「純情小曲集」には「郷土望景詩の後に」という自解パートが巻末にあり、「Ⅳ 前橋中學」という条が最後にある。
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Ⅳ 前橋中學
利根川の岸邊に建ちて、その教室の窓窓より、淺間の遠き噴煙を望むべし。昔は校庭に夏草茂り、四つ葉(くろばあ)のいちめんに生えたれども、今は野球の練習はげしく、庭みな白く固みて炎天に輝やけり。われの如き怠惰の生徒ら、今も猶そこにありやなしや。
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とある。「四つ葉(くろばあ)」の「くろばあ」は「四つ葉」三字に対するルビである。
さらに、後の昭和一四(一九三九)年創元社刊の散文詩集「宿命」の散文詩(というより多数の旧詩を用いた追懐感想である)「物みなは歲日と共に亡び行く」(添え題は「わが故鄕に歸れる日、ひそかに祕めて歌へるうた。」。「歲日」は「としひ」と読む)の一節では、
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ひとり友の群を離れて、クロバアの茂る校庭に寢轉びながら、青空を行く小鳥の影を眺めつつ
艶めく情熱に惱みたり
と歌つた中學校も、今では他に移轉して廢校となり、殘骸のやうな姿を曝して居る。私の中學に居た日は悲しかつた。落第。忠告。鐵拳制裁。絕えまなき教師の叱責。父母の嗟嘆。そして灼きつくやうな苦しい性慾。手淫。妄想。血塗られた惱みの日課! 嗚呼しかしその日の記憶も荒廢した。むしろ何物も亡びるが好い。
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と強い呪詛として語られてある。
以下、現在知り得るこれ以前の形である「純情小曲集」版のものを示す。
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中學の校庭
われの中學にありたる日は
艶(なま)めく情熱になやみたり
いかりて書物を投げすて
ひとり校庭の草に寢ころび居しが
なにものの哀傷ぞ
はるかに彼靑きを飛びさり
天日(てんじつ)直射して熱く帽子に照りぬ。
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