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2020/05/04

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 嵐雪 二

 

       

 『続虚栗』における嵐雪の句は、取立てていうべきほどのこともない。嵐雪の句として人口に膾炙した

 不産女の雛かしづくぞ哀なる     嵐雪

[やぶちゃん注:「不産女」は「うまずめ」。]

をはじめ、いわゆる嵐雪調を以て目すべき雅馴な句風は、已にこの時に完成されているように見える。

 あらおそや爪あがりなる花の山    嵐雪

[やぶちゃん注:「爪あがり」で「つまあがり」。「爪先上がり」に同じで、満開の桜の山が少しずつ登り坂になっているのである。]

  春朝

 蔀あけてくゝたち買ん朝まだき    同

[やぶちゃん注:「春朝」は「しゆんてう」。「蔀」は「しとみ」、「買ん」は「かはん(かわん)」。]

 けれども『虚栗』より『続虚栗』に至る四年間は、蕉門の徒が著しい進化を見せた時代で、芭蕉の「古池」もまたこの間に成っているのだから、特に嵐雪の諸句を挙げるわけには行かない。嵐雪についていうべきことは、これらの句に見えた言葉なり、心持なりのやさしみであろう。

[やぶちゃん注:「不産女の雛かしづくぞ哀なる」一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」の本句の評釈の中に、『遊女上がりであった嵐雪の妻烈女は子どもがなく、猫をかわいがっていたという』とある。

「蔀あけてくゝたち買ん朝まだき」「くゝたち」は「くくだち」で「くく」は茎のことで「莖立」。「くきだち」とも読み、所謂、菜花や根菜類(アブラナ・ダイコン・カブなど)の野菜が晩春に茎を伸ばして、花の咲く直前、薹 (とう) のたったそれらを指す。汁の実や漬物にする。「蔀」という語の古くに持つ王朝的雰囲気に、「くくたち」に庶民の明けやらぬ早朝からの生業(なりわい)・炊事の俗事を配したコントラプンクト(対位法)が利いている。]

 更に『曠野』において

  深川の庵にて

 菴の夜もみじかくなりぬすこしづゝ   嵐雪

[やぶちゃん注:「菴」「庵」(あん)に同じい。]

  九月十日素堂の亭にて

 かくれ家やよめ菜の中に残る菊     同

[やぶちゃん注:「かくれ家」は「かくれが」。隠居所であるが、隠逸の士の意を含ませる。]

の如きものとなり、『猿蓑』において

 出替や幼ごゝろに物あはれ       嵐雪

[やぶちゃん注:「出替」は「でかはり」。]

 下闇や地虫ながらの蝉の声       同

[やぶちゃん注:「下闇」は「したやみ」。]

の如きものとなるのも、極めて当然な進歩であって、嵐雪のために重きをなすほどのものではない。『曠野』『猿蓑』の二集における嵐雪の句は、数においていうに足らぬのみならず、桃と桜に擬して其角と並称されるほどの代表的作家とも思われぬのである。

[やぶちゃん注:「菴の夜もみじかくなりぬすこしづゝ」言わずもがなであるが、前書の「深川の庵」とは嵐雪のではなく、師匠である芭蕉の深川にある芭蕉庵のことである。季題は「みじかくなりぬ」「夜」で「短夜」で夏、門弟たちが芭蕉を囲んでつい明け方まで話し込んでしまう芭蕉あればこその蜜月のシチュエーションを上手く描いている。堀切氏の前掲書によれば、貞享三(一六八六)年か翌年の作であろうとする。

「かくれ家やよめ菜の中に残る菊」山口素堂(寛永一九(一六四二)年~享保元(一七一六)年)は葛飾風と呼ばれた江戸の一派の宗匠。名は信章。甲斐国北巨摩郡教来石字山口(現在の山梨県北杜市白州町(はくしゅうちょう)上教来石(かみきょうらいし)山口(グーグル・マップ・データ))の郷士の家に生まれた。少年時代、父に従って甲府に移り、さらに二十歳頃、江戸に出て林家(りんけ)について漢学を修めた。その後、暫く京へも遊学した模様で、俳諧は季吟門と伝えたが、最初の入集は加友撰「伊勢踊」(寛文八(一六六八)年)で、「江戸山口氏信章」として五句が載る。延宝三(一六七五)年五月,江戸下向中の談林の祖西山宗因を歓迎する俳席に松尾桃青(芭蕉:素堂より二歳年下)とともに出座し、以後、翌年には両人で「江戸両吟集」を発行するなど親交を深め、芭蕉らの蕉風を支持した。貞享二(一六八五)年か翌年には葛飾に隠棲して一派を成していたから、これもその葛飾の邸宅であろう。「九月十日」で重陽の節句の翌日であるから、長寿を祈って呑む「菊酒」にする菊の花の切り残りが、同じ菊の仲間で同じ頃に薄紫か白い可憐な菊型の花を咲かせる嫁菜(キク目キク科キク亜科シオン属ヨメナ Aster yomena)咲いているのが点景となるのである。御大への敬意が自然の発露となっている句である。

「出替や幼ごゝろに物あはれ」「出替」わりとは、主家に奉公している者が一年又は半年の年季を終えて交替するその日のことを指す。春(一年)又は春・秋(半年)が交代期であった。俳諧の季題としては「春」のそれと採っている。ここは「幼な」心にも、慣れ親しんだ子守や夜伽をして呉れてきた下男或いは下女が去ってゆくのに、「物」の「あはれ」を感じるというシークエンスで、主体は主家の小さな子からの視座からの詠と私は思う。それでこそそのある曰く言い難いペーソスが生きてくると言える。堀切氏の前掲書には、各務志考は「葛の松原」(支考著・不玉編・元禄五(一六九二)年刊)の中で『「嵐雪が幼の一字にて人に数行の涙をゆづりける也」と評している』とある。なお、サイト「芭蕉と義仲」の「木曽義仲と木曽氏の年表」という一見、嵐雪とは無関係に見えるページに嵐雪が取り上げられており、前にも述べたように、嵐雪は『杉風との軋轢を生じ』て、『師の教えに背き、点取俳諧』『に手を染めて、師の怒りを買』った。元禄四年の「嵯峨日記」の四月二十二日の条に「嵐雪が文に」として、
 狗背(ぜんまい)の塵に選(え)らるる蕨(わらび)哉
 出替りや稚(をさな)ごころに物哀れ
と『芭蕉は書き記している。嵐雪から送られた句である。芭蕉から遠ざかりつつあった嵐雪の心さみしさがよまれているようにも伝わる』とあるのを見つけた。私の所持する評釈にはこのことを問題にしたものがないが、非常に腑に落ちるものと感じたので追記しておく。

「下闇や地虫ながらの蝉の声」夏のハーレションを起したような陽射しの中、一本の木下闇(こしたやみ)で蝉が鳴いている。それがそこで籠って反響し、あたかも、地面の下で鳴いているかのように聴こえるというのである、というのである。感覚的に木下闇が異空間のように錯覚され、しかも地面の下、冥界から伝えているかの如き蝉の下方からの聴覚的幻覚が面白い。]

 しからば嵐雪は比較的早く雅馴なる作風を示し、その風を固守した蕉門の一作者とのみ目すべきであろうか。子規居士の如きも、はじめ『獺祭書屋俳話』を草した時分には「其角の変幻極りなきとは大(おおい)に異なりて却(かへ)りて味深き処あり。されば嵐雪の変化は其角の天地に渡りて縦横奔放するの類にあらずして、僅かに一小局部内に彷徨するものなれども、その雅味を存するの多きは其角もまた一歩を譲らざるべからず」という見解であったが、後に『獺祭書屋俳話正誤』を公にするに及んで先ず「嵐雪を論ずる処甚だ誤れり」といい、次のような補説を試みた。

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が二字下げ。]

大体において嵐雪をやさしきものに見て、総て其角の反対なりと論じたるは、いたく嵐雪を取り違へたるなり。嵐雪はむしろ其角に似たるなり。蕉門幾多の弟子中最も其角に似たる者は嵐雪なり。嵐雪の句の佶屈(きっくつ)なる処、斬新なる処、勁抜(けいばつ)なる処、滑稽なる処、古事を使ふ処、複雑なる事物を言ひこなす処等、甚だ其角に似てただ一歩を譲るのみ。

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年十二月の「獺祭書屋俳話正誤」の以上の部分(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部分)は既に「其角 三」で電子化したが、私がそこで『以下略。』とした部分に、実は子規が指すところのそうした嵐雪の属性を示す例句が出されてあるので示す。

   *

 殿は狩りつ妾餅賣る櫻茶屋     嵐雪

 煮鰹を干して新樹の烟かな     同

 煮取たくこゝでもお僧愚なり    同

 星合に我妹かさん待女郞      同

 稻妻にけしからぬ巫女の目ざましや 同

 蓮の實の飛ぶは飛びしかそもされば 同

 早雲寺名月の雲早きなり      同

   *

この後の部分が宵曲が本篇の後半で引く「此外前書を有する者は……」になっている。そこはまたそこで注する。なお、やり出すとキリがないので、以上の引用の句の中で宵曲が挙げていない句の注はしない。]

 由来撰集は佳句のうちの比較的平凡なるものを採録する傾がある。其角の句にしても『曠野』や『猿蓑』に出ているのは、さのみ特色の顕著なものではない。其角の面目の縦横に発揮されたものは、自己の撰集たる『虚栗』以下の諸集に索(もと)めなければならぬ。嵐雪の特色を知らんがためには、どうしても嵐雪自身の撰集について見る必要がある。

 『其袋(そのふくろ)』は元禄三年に成った嵐雪の撰集で、『曠野』に後(おく)るること僅に一年である。見方によっては前の『曠野』(尾張)、後の『猿蓑』(京)の中に介在して、江戸を代表するものといい得るであろう。この集中における嵐雪は必ずしも『曠野』『猿蓑』に散見するものと同一ではない。

  小奴吉斎に花をみせて

 小坊主よ足なげかけん松に藤      嵐雪

[やぶちゃん注:シチュエーション・句意ともに不詳。]

  うす井権現にて

 稲妻にけしからぬ神子が目ざしやな   同

[やぶちゃん注:「神子」は「みこ」。「目ざし」は「めざし」であるが、「まなざし」の意である。堀切氏前掲書によれば、ロケーションは『碓氷峠にある権現神社』(長野県と群馬県県境にあり、長野県側は熊野皇大(くまのこうたい)神社(グーグル・マップ・データ)、群馬県側は熊野神社を称する。現在、社殿は一つだが、別々な宗教法人となっている。それを説明するほど興味はないので、経緯を知りたい方はウィキの「熊野神社 (安中市)」をどうぞ)で、その『神楽殿で奉納神楽が演じられている』折も折、『電光一閃――突如として稲妻(いなずま)が光、神楽を舞っていた白衣』(びゃくえ)『の神子(みこ)の眼差(まなざし)が、神がのり移ったかのように怪しい光をを放ったように見えたというのである。「目ざしやな」という謡曲もどきの措辞が、神前の緊張した雰囲気をつくりあげている』とある。『貞享二』(一六八五)『年秋、江戸から越後高田へ赴いたときの吟か』とされる。季題は「稻妻」で秋。「けしからぬ」は程度の甚だしく普通でないことから転じた「すこぶる人間離れした」「不思議な」「神秘的な」の意である。]

  待乳山の社頭に雨を凌て

 空は墨に画竜覗きぬほとゝぎす     同

[やぶちゃん注:「待乳山」は「まつちやま」、「凌て」は「しのぎて」。「画竜」は「ぐわりゆう」。「待乳山」は東京都台東区浅草にある、当時は天台宗(現在は聖観音宗で浅草寺の子院の一つ)であった待乳山本龍院(まつちやまほんりゅういん:私は「まっちやま」だとずっと思っていたが、公式サイトでも「つ」は促音ではなった。リンク先はグーグル・マップ・データ)。本尊は歓喜天(聖天)・十一面観音で、古くから「待乳山聖天(まつちやましょうでん)」(社)の名で知られ、江戸時代には周囲が見渡せる眺望のよい山で、文人墨客が好んでこの地を訪れた名所であった。待乳は「江戸名所図会」などでは、「眞土」「信土」とも書く。一説に、もと、この辺り一帯は泥海であったが、ここだけが真の土であったことを由来とするとも言う。また同寺は推古天皇の御世に地中から忽然と湧き出た霊山で、その時に金龍が天より降って山を廻って守護したと伝えられる。さても「覗きぬ」は現実としては、社殿に降り込められて雨宿りた作者が、ふと、天上に描かれた龍を見上げたのであろうが、同時に主客は反転し、その墨み絵の中の龍が、むくむくと、墨を流したような空をぎろりと睨み、絵から抜け出して昇天するかと見えた――丁度、その瞬間!――「キョッキョッキョキョキョキョ!」というあのウグイスの鋭い雄の声に驚いたというのであろう。]

  抜ㇾ剣逐ㇾ蠅

 蠅はぢき怒る心よ手束弓        嵐雪

[やぶちゃん注:前書は「剣を抜き蠅を逐(お)ふ」。「手束弓」は「たつかゆみ」。自分が握るにちょうどよいほどの太さの弓。無論、町人の彼は剣も持たぬし、弓もないわけで、文字通り五月蠅い蠅を指で弾き飛ばすほどのことしか出来ないで、甚だいらついている気持ちをそれらのかこつけたのである。]

 ほし合に我妹かさん待女郎       同

[やぶちゃん注:「ほし合」は「ほしあひ」で七夕のこと。中七は「われ/いもかさん」。「待女郎」は「まちぢよらう(まちじょろう)」。婚礼の際に主の家の戸口で花嫁の到着を待ち受けて家内に導き、付き添って世話をする女。若き読者よ、「立ちんぼ」などととってはいけません!]

これらの句にはどこか尋常に甘んぜぬ、其角の句と相通ずるものがある。嵐雪が雅馴の一筋縄で行く作家でないことは、多言を須(もち)いぬであろう。

 次に嵐雪の特長として挙ぐべきものは、その句に漂う一脈の抒情味である。

  蚊足が鄰かへたりけるに申つかはしける

 此夕軒端隔ちぬいかのぼり       嵐雪

[やぶちゃん注:上五は「このゆふべ」。「蚊足」(ぶんそく)京都生まれで江戸で俳人となった和田蚊足。上五は「このゆふべ」。これは恐らくは正月前に和田蚊足の住まいの隣りに嵐雪は引っ越して来ていた、その挨拶句ということであろう。]

 あなかなし鳶にとらるゝ蝉の声     同

  逢恨恋

 我恋や口もすはれぬ青鬼灯       同

[やぶちゃん注:前書は音読みで「はうこんれん」と読んで「恨めしき戀に逢ふ」と訓じておく。下五は「あをほづき」。未熟の青鬼灯では、笛にしようと吸い出そうにも中身も吸い出せぬのを、接吻すらも出来ずに、はかなく散った恋に掛けたものであろう。]

 おもふ人にあたれ印地のそら礫     同

[やぶちゃん注:「印地」は「いんぢ」、下五は「そらつぶて」。「印地」は「印地打ち」で五月五日端午の節句に大勢の子供が河原などに集まって、二手に分かれて石を投げ合っては合戦の真似をした遊びである。中世にあっては、大人が互いに石を投げ合って勝負を競って秋の実りを占ったりしたものであったらしいが、近世以降は子供の遊びとなった。ここはその根源的な民俗伝承の中の恋の成就の共感呪術的な咒(まじな)いの類い――憧(あくが)れいづる魂の依り代である我が礫を、少年は空へ投げ上げるであろうと洒落たものであろう。この一句、現代俳句としてもおかしくない気さえする。但し、堀切氏が前掲書で述べておられるように、この思う少年の秘かな相手は、この遊びの特性から考えて、少女ではなく、少年である。ここには確かにそうした少年愛の美学が潜んでいる。]

  桐雨のぬし京うち参りとていでぬ。
  行かたの覚束なくしる人はそこそこ
  に道のほどはかうかうといひふくめ
  出したてつ。卯の花の雪消五月雨の
  くもらぬほどに帰り来べきなれどい
  と名残をしくて

 梅にさむる朝けわするな辛もの     同

[やぶちゃん注:「桐雨」「とうう」で俳人名であるが、不詳(この号では蓑虫庵二世の築山桐雨(?~天明二(一七八二)年)が知られるが、時代が後で合わない)。この前書や句からは尋常でなく親密な関係であったことが窺われる。「雪消」は「五月雨のくもらぬ」との対句であるから「ゆききえ」で、「雪解け」の意では無論なく、旧暦四月に咲く白い「雪」のような「卯の花」(ミズキ目アジサイ科ウツギ属ウツギ Deutzia crenata)が咲き「消え」ての意であろう。「朝け」は「朝餉(あさげ)」、「辛もの」は「からきもの」。旅中の健康のために食が進むようにということか。]

  冬の日客をもてなす

 君見よや我手いるゝぞ茎の桶      同

の如きは、それぞれ内容を異にしているけれども、抒情味によって生くることは軌を同じゅうしている。前に挙げた「不産女」の句、「出替」の句なども、やはりこの部類に入るべきものであろう。其角の句は才と力とにおいてよく儕輩(せいはい)を圧倒しているけれども、こういう抒情味に至っては、かえって嵐雪に一歩を譲らざるを得ぬかと思う。嵐雪の句は比較的柔軟であり、時に生温くさえ感ぜられるにかかわらず、この種の句においては最も内容との調和を得ている。

[やぶちゃん注:「冬の日」堀切氏前掲書によれば、元禄二(一六八九)年頃とされ、『なお、この句を立句に、伊丹の鬼貫は『犬居士』(元禄三年十月板行)において、嵐雪との架空の両吟歌仙を作りあげている』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像(活字本)でここから読める。鬼貫の付句は、

 鰒(ふぐ)によはる上かたの腹     鬼貫

である。「君見よや我手いるゝぞ茎の桶」堀切氏は、『まあ、ちょっとご覧ください、なにも珍味はありませんが、あなたをおもてなしするために、この通り』、冷たい茎漬けの『桶の中に我が手を突っ込』み、いい『漬(つ)かりごろの茎菜をとりだそうとして』おり『ますから、と軽く興じて呼びかけたのであろう』とされ、『「君見よ」は杜甫の詩句「君見ずや 管鮑(かんぽう)貧時の交(まじ)はりを」(「貧交行」)をひびかせたものであり、おそらく、かなり親しい知人へのもてなしぶりであったと思われる』との評釈しておられる。杜甫の楽府「貧交行」はサイト「詩詞世界 碇豊長の詩詞」のこちらがよい。

「儕輩」同輩。]

 立いでてうしろ歩や秋のくれ      嵐雪

この句は『其袋』集中における佳作の一であろうと思う。句は秋の夕暮の門に立出でて、徐(おもむろ)にうしろを向いて歩いた、というだけのことである。この句を誦すると、秋の夕暮のしずかな空気がひしひしと身に迫って来るような気がする。こういう微妙な趣を捉えたものは、其角にもないことはないけれども、嵐雪は嵐雪でまた別箇の天地に住している。これを説いて尽さず、直にこの句より妙を感ずべきものである。

[やぶちゃん注:「うしろ步や」は「うしろあゆみや」。底本は『うしろあるきや』とするが、従わず、堀切実氏の前掲書に載せる本句の表記(『立いでゝ後あゆみや秋の暮』(挙白編「四季千句」(元禄二年刊))に従う。「後あゆみ」は巷間でありながら、あまりの寂寥とした秋の気配に気押されて後退りしてしまいそうだと言うのである。堀切氏は良暹(りょうぜん)の「百人一首」にも採られた「さびしさに宿をたち出でて眺むればいづくも同じ秋の夕暮 (「後拾遺和歌集」・三三三番歌)を諧謔したものとされる。芭蕉絶唱一つ「この道や行く人なしに秋の暮」を直ちに想起してしまうが、そちらは元禄七年で、この句よりも後のものである。]

 子規居士は『獺祭書屋俳話正誤』において、こうもいった。

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が二字下げ。]

この外前書を有する者は嵐雪句集の過半にして、前言ある句はただ言ひこなしの処において人を驚かすものなり。けだし嵐雪は言ひこなしの力あるを頼みて、我から文学的の趣向を探ることに力(つと)めず、偶然に遭遇する雑事俗事一切これを俳句の材料として消化せんとしたるならん。

 言いこなしの力あるを頼むこと、偶然遭遇する雑事俗事を俳句の材料として消化せんとすること、これらは其角の上にも移していい得べきものである。その言いこなしなり、消化なりの上に異ったところがあるとすれば、それは其嵐二子の趣味乃至性格の相違から来るものであろう。

[やぶちゃん注:子規の引用は前に注した通り、「獺祭書屋俳話正誤」のここ(国立国会図書館デジタルコレクション)である。]

  睦月はじめのめをといさかひを

  人々に笑はれ侍り

 よろこぶを見よやはつねの玉はゝ木   嵐雪

  荏柄天神奉納

 こぼれ梅かたじけなさのなみだかな   同

 五位六位色こきまぜよ青簾       同

  善光寺にて みる喰尼に

 みる房やかゝれとてしも寺の尼     同

[やぶちゃん注:「喰」は「くふ」「みる房」は「みるぶさ」。]

 名月や歌人に髭のなきがごと      同

 第一句が家持の「始春乃波都禰乃家布能多麻婆波伎手爾等流可良爾由良久多麻能乎(はつはるのはつねのけふのたまばはきてにとるからにゆらくたまのをよ)」に拠り、第二句が西行の「何事のおはしますかはしらねどもかたじけなさの涙こぼるゝ」に拠り、第四句が遍昭の「たらちめはかゝれとてしもうば玉の我黒髪をなでずやありけむ」に拠り、第五句が『万葉』十六の「勝間田之池者我知蓮無然言君之鬚無知之(かつまだのいけはわれしるはちすなししかいふきみがひげなきがごと)」に拠っていることは、少しく書を読む者の直に気がつくところであろうが、第三句のみはしかく簡単に行かぬ点がある。

 この「青簾」の句は『源氏物語』の「若紫」に

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が二字下げ。]

立ち出で庭の木立池のかなたなど覗きたまへば霜枯の前栽絵にかけるやうに面白くて見も知らぬ四位五位こきまぜにひま無う出で入りつゝげにをかしき所かなとおぼす。

とあるのを踏えたのである。子規居士は『俳句問答』にこれを解して、嵐雪は「四位五位」を「五位六位」と改め、服色の赤と標(はなだ)に青簾の緑を配したもので、色彩を現すのに困難な俳句において、三種の色を配合したのは珍しいといっている。けれども嵐雪のこの句に取るべきものは、そういう色彩上の成功のみならず、『源語(げんご)』中の趣を巧に自家薬籤中のものとした点にある。この辺の呼吸は、其角が故事典故を踏えて縦横に奇才を振うのともまた異った妙味があるように思う。(『其袋』にはないが便宜のためここに引用すれば、「笋(たけのこ)や児(ちご)の齦(はぐき)のうつくしき」の句が、同じく『源語』「横笛」の巻、「御歯のおひ出づるにくひあてむとて、筒を握り持ちて雫もよゝと食ひぬらし給へば」とあるより得来ったのも同様の手段である。嵐雪は彼一流の詩眼に照して、『源語』五十四帖の随所にかくの如き俳句的情景を容易に見出し得たのであろう)

 嵐雪の俳句における手段にはおおよそかくの如きものがある。

  漁父

 蓑干て朝々ふるふ蛍かな        嵐雪

[やぶちゃん注:上五は「みのほして」。]

の如きは、単にこれだけの事実のようにも見える。漁師が掛けて置く蓑に蛍が止っているのを、毎朝これを著(き)るに当って振うというのは、奇は即ち奇であるが、いささか奇を弄した嫌がないでもない。上述の筆法に従ってこの前書を見つめていると、やがて屈原の「漁父(ぎょほ)」の中の「新スルㇾ冠。新スルㇾ衣」という文句が浮んで来る。この前書が屈原の「漁父」であるとすれば、朝々蓑を振うというのも決してかりそめの語ではない。嵐雪は「新浴者必振ㇾ衣」の語を以て実際の漁師の上に及ぼし、蓑の蛍を振うという別個の趣を点出したのではあるまいか。嵐雪の句に前書の多いのは子規居士説の通りであるが、この「漁父」なる前書は、単に蓑の主の漁師たることを現すまでのものとも思われぬからである。

[やぶちゃん注:「よろこぶを見よやはつねの玉はゝ木」「はつね」は「初音」と「初子」を掛ける。「初音」はその年最初の特に鶯の鳴き声を指すが、ここは夫婦喧嘩の怒鳴り合いを換喩する。「初子」は正月最初の子(ね)の日で、古くは「子の日の遊び」と称して、「玉はゝ木」、則ち、玉の飾りをつけた箒(ほうき)を飾って、その日に蚕室を掃き清めた後、宮中では饗宴や行幸が行なわれ、庶民は野外で小松を引き、若菜を摘む習慣があった。夫婦喧嘩が収まっての談笑をその祝祭(玉箒(たまははき)で掃き出す行為自体が穢れや憂いを払うことに通底する)に比したのであろう。なお、この句については、竹内玄玄一著「俳家奇人談」(正篇)(文化一三(一八一六)年刊)で作為的に戯画化されており、この句がそうして出来た事実とは思われないものの、実に面白いので引いておく。底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを参考にしたが、読み易く成形した。

   *

 また爰に可笑(をかし)き談(はなし)あり。その妻唐猫(からねこ)を愛する事、法に過(すぎ)たり。雪(せつ)諫めて、

「それ獸(けもの)を愛するにも程あるべし。人間に增りたる敷物・器物、いむべき日にも生肴(なまざかな)を食するなど宜(よろし)からず。」

といへど、忍(しのび)ても此を改めざりけり。

 ある日妻の他行(たぎやう)を幸ひ、潛(ひそか)に猫を遠方へ遣(つかは)しける。日暮に歸り來りて問ふ、雪、

「その行方を知らず。」

と答ふ。妻泣き叫びて戀慕ふこと切(しきり)なり。

 猫の妻いかなる君の奪(うば)ひ行く

と、かこちつつ、心地惡(あし)くなりぬ。隣女(りんじよ)ひそかに其詐(いつはり)を告(つげ)て、猫の行先を語る。妻大(おほい)に恨(うらみ)て夫婦數(しばしば)いどみ爭ふ。門人打寄(うちより)、詑(わび)させて雪の心を和(やはらげ)たりとかや。「睦月はじめの夫婦いさかひを人々に笑はれて」と、端書(はしがき)して、

 悅ぶを見よやはうねの玉はゞき

とは此時の事にぞ有ける。

   *

『第一句が家持の「始春乃波都禰乃家布能多麻婆波伎手爾等流可良爾由良久多麻能乎(はつはるのはつねのけふのたまばはきてにとるからにゆらくたまのをよ)」に拠り』「万葉集」の「巻第二十」の同書の終わりの方(最終歌は四五一六番)の大伴家持の歌(四四九三番)。

   *

  二年の春正月三日に、侍從・竪子(じゆし)・
  王臣等を召して、内裏(うち)の東(ひむ
  がし)の屋(や)の垣下(みかきもと)に
  侍(さもら)はしめ、卽ち玉箒(たまはば
  き)を賜ひて肆宴(とよのあかりきこしめ)
  し時に内相藤原朝臣(あそみ)の勅(みこ
  とのり)を奉りて、宣(のりたま)はく、
  「諸王卿等(おほきみたちまへついみたち)、
  堪(あ)ふるまにま、意(こころ)に任せ
  て歌を作り幷せて詩を賦(よ)め」と。
  仍(よ)りて詔旨(みことのり)に應(こ
  た)へ、各(おのがじし)心緒(おもひ)
  を陳べて歌を作り、詩を賦(よ)めり。
  【未だ諸人(もろひと)の賦める詩幷びに
   作れる歌とを得ず】

 初春の初子の今日の玉箒(たまはばき)手に執るからに搖らく玉の緖

   *

前書冒頭のクレジットは天平宝字二年丙子(ひのえね)で、ユリウス暦七五八年二月十五日(グレゴリオ暦換算二月十九日)。「竪子」は正しくは「豎子」(現代仮名遣「じゅし」)で未冠の少童。「肆宴」宴会。「内相藤原朝臣」藤原仲麿(慶雲三(七〇六)年~天平宝字八(七六四)年)。天平宝字二年に右大臣、同四年に従一位太政大臣、同六年には正一位となって、唐制を採用した極端な儒教的政治形態を推し進め、歴史編纂など文化的事業も企画した。しかし、孝謙上皇が道鏡と結ぶようになると、前途に不安を抱き、同八年道鏡を除こうとして謀反を起そうとしたが(藤原仲麿の乱)、発覚、近江に逃れるも、その地で追撃を受け、激戦の末に捕えられ、妻子とともに斬罪となった。「堪(あ)ふるまにま」それぞれの才力に合わせて。「搖らく玉の緖」「魂振(たまふ)り」の予祝の言上げ。

「こぼれ梅かたじけなさのなみだかな」鎌倉市二階堂の荏柄(えがら)天神社(グーグル・マップ・データ)。長治元(一一〇四)年の創建。源頼朝が幕府創建の折り、鬼門の鎮護として崇敬したと伝える。日本三天神の一つ(因みに、私はこの社地内にあった大工さんの二階に赤ん坊の頃に住んでいた)。『第二句が西行の「何事のおはしますかはしらねどもかたじけなさの涙こぼるゝ」に拠り』西行の「山家集」に載る、

 何事のおはしますかは知らねども忝なさに淚こぼるる

の裁ち入れであるが、芭蕉の「笈の小文」での、

  伊勢山田

 何の木の花とはしらず匂ひかな

絶妙の幻香の漂いに比して見れば、如何にもスケールが卑小である。『「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 何の木の花とはしらず匂ひかな』も参照されたい。

「五位六位色こきまぜよ青簾」王朝美の実に贅沢なセットとハイ・トーンのカラーを用いた視覚的時代詠である。「五位」の朝服は淡い緋色の袍(ほう)、「六位」は深い緑色の緑袍(りょくほう)。宵曲も指摘しているが、堀切氏曰く、「源氏物語」の第五帖「若紫」の、光が若紫を掠拐して二条隂に迎え入れたて後のシーンの、『東の對(たい)に渡りたまへるに、立ち出でて、庭の木立、池の方など、覗きたまへば、霜枯れの前栽、繪に描けるやうにおもしろくて、見も知らぬ、四位、五位こきまぜに、隙なう出で入りつつ、「げに、をかしき所かな」と思す。御屛風どもなど、いとをかしき繪を見つつ、慰めておはするも、はかなしや』の部分や(因みに「四位」は薄い青の袍を着用する)、「行幸」(みゆき:第二十九帖)の、玉鬘の話の内の冷泉帝大原野行幸に出る、『行幸といへど、かならずかうしもあらぬを、今日は親王たち、上達部(かんだちめ)も、皆心ことに、御馬鞍(むまくら)をととのへ、隨身(ずいじん)、馬副(むまぞひ)の容貌(かたち)丈(たけ)だち、裝束(さうぞく)を飾り給うつつ、めづらかにをかし。左右大臣・内大臣・納言(なふごん)より下(しも)はた、まして殘らず仕うまつり給へり。靑色の袍(うへのきぬ)、葡萄染(えびぞめ)の下襲(したがさね)を、殿上人、五位・六位まで着たり』に『拠ったものかとも思われる』と注しておられる。季題は「靑簾(あをすだれ)」で夏の季語。この簾の架け換えは旧暦四月四日の行事である。

「みる房やかゝれとてしも寺の尼」の「みる」「みる房(ぶさ)」は緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミルCodium fragile。本邦では古くは一般的な食用の海藻とされて租税としても納められた。漢字では「海松」と書き、「海松色(みるいろ)」この海藻の色を借りた、茶みを帯びた深い黄緑色(若いオリーブの実の色)として使われた。和歌では「見る」の掛詞として頻繁に詠み込まれており、「土佐日記」「伊勢物語」「源氏物語」にも出る、一般によく知られたものであった。乾したり、塩蔵されたりして送られたので、海のない信濃の善光寺がロケーションでも何ら違和感はない。「みる房」で春の季題である。なお、「みる房」と言った場合はミルの先端が房状になった個体原型を指し、小学館「日本国語大辞典」によれば、昔、髪削(かみそ)ぎ(女子の元服(十三~十六歳)で髪の先の少しの部分を切り揃える儀式)に用いたというとある。所持する宮下章著「ものと人間の文化史11 海藻」(一九七四年法政大学出版局刊)によれば、『そのとき婚約者または夫が彼女の髪の毛に、山橘』(藪柑子。常緑高木。ツツジ目サクラソウ科ヤブコウジ亜科ヤブコウジ属ヤブコウジ Ardisia japonica)、『海松、青目石』(蒼緑色の瑪瑙と思われる)、『(どれも年中青々している)の三種を結びつけ、「ちひろ、ももひろ」ととなえながら、鋏で少しそぐ』とあった。また、サイト「ToKiNo工房」の子規の「獺祭書屋俳話 中」の電子化注に、この句について、僧正遍昭の和歌(「後撰和歌集」の「巻第十七 雑三」。一二四〇番)、

  初めて頭おろし侍りける時、

  物に書きつけ侍りける

 たらちねはかゝれとてしもむば玉の我が黑髮を撫でずや有(あり)けん

とあるのを『踏まえて、「源氏物語」のなかで浮舟』『が尼になることに思いを致すあたりを詠じたものか』とあった。第五十三帖「手習」(この帖で浮舟は最後に出家する)辺りか(因みに、この遍昭の一首は直ちに尾崎放哉の一句「漬物桶(つけものをけ)に鹽(しほ)ふれと母は產んだか」を想起する。私の卒論は「尾崎放哉論」で、サイトでは完備した全句集も作ってある)。

「名月や歌人に髭のなきがごと」堀切氏は前掲書で、『まんまるな名月のさまは、あたかものっぺりした歌詠みの風貌――それに髭がないようなものだというのである。名月に対し、これに縁浅からぬ歌人の面影を対照させて興じた句である。『万葉集』巻十六に載る作者不詳(女性)の「新田部親王(にいたべみこ)に献(たてまつ)る歌一首」と題した「勝間田(かつまた)の池はわれ知る蓮(はちす)無し然言(しかい)ふ君が鬚(ひげ)無き如し」(勝間田の池には蓮がないのを私も知っています。あなたがお髭がないのと同じように)という歌が着想の原点にあったかとも思われる。新田部親王から、蓮の花の美しさに託して、愛情をほのめかされたのに対し、大げさに否定してみせた歌であるが、この歌では、親王に事実は髭が深かったのを反語的に皮肉ったものとみられよう。しかしまた、実際に髭がなかったものととれないこともない』と評釈されておられる。この歌は「巻第十六」の「由縁ある雑歌」の中の一首(三八三五番)で「新田部親王」は天武天皇の第七皇子。

『子規居士は『俳句問答』にこれを解して、嵐雪は「四位五位」を「五位六位」と改め、服色の赤と標(はなだ)に青簾の緑を配したもので、色彩を現すのに困難な俳句において、三種の色を配合したのは珍しいといっている』子規のそれは「俳句問答」(明治二九(一九九六)年)ここここ(国立国会図書館デジタルコレクション)。ここについて私は宵曲の指摘こそが眼目を突いていると思う。則ち、『けれども嵐雪のこの句に取るべきものは、そういう色彩上の成功のみならず』、「源氏物語」『中の趣を巧に自家薬籤中のものとした点にある。この辺の呼吸は、其角が故事典故を踏えて縦横に奇才を振うのともまた異った妙味があ』る、『五十四帖の随所にかくの如き俳句的情景を容易に見出し得た』のだという指摘である。先に宵曲が引いた、子規が嵐雪を批判するのに言い放った断言を思い出して欲しい。子規は、嵐雪は『言ひこなしの力あるを頼みて、我から文学的の趣向を探ることに』努めるところが微塵もないと、斬り捨てているのだ。では、子規よ、お前はどうだ? 有職故実をちまちまと並べ立てては、視覚的な美観を再現して悦に入っている、或いは、自身の知識による視覚的な再現力を「どうだ!」と読者の眼前に突き出し、そこに気づかなくては、この句を読んだ、読めたことにはならないとほくそ笑んでいるように私には見えるのである。

「笋(たけのこ)や児(ちご)の齦(はぐき)のうつくしき」小学館「日本古典文学全集 近世俳句俳文集」の栗山理一氏に評釈に、『竹の子を食べる童子の歯ぐきが美しい、との句意である。この竹の子は根曲竹(ねまがりたけ)で、今の竹の子とは異なり、とうもろこしを食べるように皮をむいたままのをゆで、かぶりつくようにして食べたのであろう。すでなければ「歯ぐき」が生きてこない。青みがかった象牙(ぞうげ)色の竹の子と薄桃色の童子の歯ぐきの色彩の対象は初夏の光のようにさわやかである。季語は「竹の子」で夏』とあり、非常に優れた鑑賞となっている。ここで栗山氏が言っておられるのは、「竹」というよりも大型の笹の一種である「千島笹」、正式和名は単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科タケ連ササ属チシマザサ Sasa kurilensis である。ウィキの「チシマザサ」によれば、『山地に群生し、笹としては大型の高さ』は一・五から三メートルほどで、『稈の上部でのみ枝分かれする』。『日本では、モウソウチク(孟宗竹)が全国規模で普及する時代以前、すなわち、薩摩藩支配下にあった琉球王国経由でモウソウチク』(タケ亜科マダケ属モウソウチク Phyllostachys heterocycla f. pubescens)『が移入されるより前の時代には、チシマザサは日本を代表する竹・笹類の一つであった』とあり、『チシマザサの筍(タケノコ)は』五~六『月に収穫でき、伝統的には』、『筍といえば』、『初夏の食べ物であった。本種の筍は山菜として特に人気があ』り、『灰汁が少ないので、皮を剥いて灰汁抜きせずに味噌汁や煮物にしたり、皮付きのまま焼いたあと』、『皮を剥いて食べたりする』とある。私も大好物で、栗山氏の見解に諸手を挙げて賛成するものである。同ウィキの採取直後の画像をリンクさせておく。栗山氏も頭注で「源氏物語」の「横笛」(第三十七帖)の宵曲の引く部分を引用された上で、『とあるのに着想を得たとの説もある。その当否は別としても、童子が竹の子をまるごと手に握ってかぶりつき、雫をたらしながら食べているさまは、この句の場合も同じであろう』と記しておられる。二歳の薫が歯の生えかけたところに、懸命に竹の子を噛み当てようとするシークエンスで、

   *

御齒の生ひ出づるに食ひ當てむとて、筍(たかうな)を、つと握り待ちて、雫も、よよと、食ひ濡らしたまへば、

「いとねぢけたる色好みかな」

とて、

憂き節も忘れずながら呉竹のこは捨て難きものにぞありける

と、率(ゐ)て放ちて、のたまひかくれど、うち笑ひて、何とも思ひたらず、いとそそかしう、這ひおり騷ぎたまふ。

   *

「つと」しっかりと。「雫も、よよと、食ひ濡らしたまへば」涎(よだれ)もたらたらとお垂らしになりながら、齧っていらっしゃるので。「いとねぢけたる」は「筍にご執心とは……これはまた、たいそう風変わりな」の意(ここには薫の将来の色好みへの危うさへの伏線となっている)。歌は女三の宮と柏木の秘密の密通を含んだもので、女房たちには聴かせることは出来ない歌なのである。だから、女房たちから「率(ゐ)て放ちて」(抱き取って膝に乗せるようにして彼女たちから離して)という仕草となるのである。

「蓑干て朝々ふるふ蛍かな」これは無論、「楚辞」の屈原の「漁父」のインスパイアと読める(この前書嵐雪編の「其袋」に拠り、他に「渡し舟」(順水編・元禄四(一六九一)年刊)と「浪花置炬燵(なにわおきごたつ)」(休計編・元禄六年刊)には前書がないと堀切氏は前掲書で言うが、後者二冊は嵐雪の編ではないから、寧ろ嵐雪がここに「漁父」と前書した意図をこそ汲まねばならぬと私は思う)。「新スルㇾ冠。新スルㇾ衣」はどうも新字が気に入らないので、正字に直して訓読しておく。「新たに沐(もく)する者は必ず冠を彈(はじ)き、新たに浴する者は必ず衣を振る」。原文と訓読・語釈は、やはりサイト「詩詞世界 碇豊長の詩詞」のこちらをお勧めする。堀切氏は『江村の漁人の朝におけるさわやかな行動であろう』と言われ、これを実景のリアリズムの点描ととっておられるのだが、だとすれば、何故、蓑から振るい落すのが最早光らなくなった「螢」(私は新字の「蛍」という字が生理的に嫌いである)なのか? という疑問が生ずる。屈原は儒家的なガチガチの憂国の孤高な士である。対しする漁父は自然のあるが儘に従い、自らを変容させて生きることを勧めるところの対峙的な道家的人物である。私は宵曲や堀切氏が引く部分ではなく、漁父の忠告を入れずに、自身独りが真に覚醒している仁者であると考える屈原を置いて去ってゆく漁父の舟唄にこそ、この句意を解く鍵があると考える。そこで漁父は、にっこりと笑うと、以下の舟唄に合わせて櫂(かい)を叩きつつ、去ってゆく。

   *

漁父莞爾而笑、鼓枻而去。

乃歌曰、

「滄浪之水淸兮、可以濯我纓、滄浪之水濁兮、可以濯我足。」

遂去、不復與言。

(漁父(ぎよほ)、莞爾(くわんじ)として笑ひ、枻(えい)を鼓(こ)して去る。

 乃(すなは)ち歌ひて曰く、

 〽滄浪(さうらう)の水 淸(す)まば 以つて我が纓(えい)を濯(あら)ふべし

 〽滄浪の水 濁らば,以って 我が足を濯(あら)ふべし

 遂に去つて復(ま)た與(とも)に言はず。)

   *

かくして太田蜀山人が詠んだように、「死なずともよかる汨羅(べきら)に身を投げて偏屈原の名を殘しけり」という顛末に陷るわけである。無論、ここで嵐雪は大袈裟に言うなら、漁人=道家で言う「眞人(しんじん)」たらんとしているのである。それは自然に中で水族を必要なだけ捕って貧しくとも莞爾として笑って生きてゆく大凡人である。しかし、大凡人は同時に自然に従って自由自在に変容(メタモルフォーゼ)する存在であることなのだ。そのためには、自身のダルで陳腐な昨日の風狂をすっかり払い落とさなければならぬ。昨夜(ゆうべ)光っていた「螢」とは最早捨つるべき自身の安易に信じ込んだ一時の流行の風趣である。そう考えた時にのみ、私は嵐雪という風狂を獲(か)る漁人として真に潔い面影として見えてくる気がするのである。]

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