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2020/05/21

三州奇談續編卷之三 七窪の禪狐

 

 三州奇談後編卷三

 

    七窪の禪狐

 七窪と云ふは海邊ながら地高うして、疇(うね)七つに下り上りありて高松に續く。則ち『「越の高濱」は爰を云ふ』とぞ。

[やぶちゃん注:前の「三州奇談續編卷之二」の掉尾の「薯蕷化ㇾ人」の擱筆で「七窪(ななくぼ)は高松の上にして、加州の地爰に於て終り、北州の地理を論ずべし。然れば次の卷に、又立返りては金城の話を記さん」と言っていた、その前の部分に相当する。

「七窪」「高松」「薯蕷化ㇾ人」の最後で示したが、現在、能登半島の南の端に石川県かほく市七窪があり、その北に少し離れて、かほく市高松がある。今回はグーグル・マップ・データ航空写真で示す(以下注なしのリンクは同じ)。下方の少し内陸の赤い枠(貫通する河川があるため、東西に分離しているように見える)が七窪、その上の海辺が高松(北東内陸部に複数の飛び地がある)である。参考までにここに高松北部海水浴場(但し、ここは現在はかほく市二ツ屋地区内である)のサイド・パネルの砂浜海岸の画像をリンクさせておく。因みに、ここから北へ十二キロほど行った千里浜海岸が長い砂浜海岸として美しいことで知られる。ここで大いなる不満を言っておくと、私は観光道路「千里浜なぎさドライブウェイ」と称して千里浜海岸に車の乗り入れを許している石川県の気が知れない。日本で海岸への車両の進入を許可して道路としているのはここだけなのである。

「疇(うね)」この場合は耕作地ではなく、山や丘の高くなっている部分を言う。スタンフォード大学の大正二(一九一三)年大日本帝國陸地測量部発行の「津幡」で七窪と高松の間を見ると、なだらかながら、高低に富んだ丘陵が続いており、概ね海側に針葉樹が、内陸側に広葉樹が植生し、ところどころに桑畑がある程度であるから、江戸時代後期にここに広大な耕作地(「疇」の第一義は人口の耕作地としての畝(うね)である)が広がっていたとは到底考えられないので、読みの「うね」を別にあるそのような意で採った。

「越の高濱」歌枕のように見えるが、私は知らないし、ネット検索でも掛かってこない。何かの聴き違いではないか。佐渡に「越の松原」「雪の高浜」があったという記事を見かけたが、それらは古く(歌枕とするには私は中世以前に詠み込んだものがなくてはならないと考えている)は遡れないようである。]

 されば低き地は必ず松あり。砂吹きならして一遍に見ゆ。爰に至りて行(ゆく)人路を誤る。古へより「狐共を飛砂(ひさ)の吹埋(ふきうづ)む故」とも云ふ。迷路(まよひみち)の理(ことわり)定め難し。廣野(ひろの)ながら樹(き)群立(むれだ)ちて妖もあるべき地と覺えたり。

[やぶちゃん注:「狐共を飛砂(ひさ)の吹埋(ふきうづ)む故」妖気を持つ狐らを飛砂が生きながら吹き埋め殺してしまい、その妖気が地に漂っているために。]

 此下(このしも)内高松(うちたかまつ)の池と云へるは、大洋よりの入江にして、渺々(べうべう)たる望(のぞみ)なり。近年も此池の中へ俄に島一つ吹出(ふきい)で、其上に草木も生ずる程なりしに、いつしか島消失(きえう)せて、今は元の入江の池となれり。地中の理は測るべからざること、まのあたりなり。

[やぶちゃん注:「内高松の池」「内高松」という地名ならば、高松の内陸に現在もかほく市内高松(うちたかまつ)(グーグル・マップ・データ)として高松に南北と西を抱かれるような塩梅で東に別個に存在する。そこに池もあるが、ここは内陸でとても潟として日本海と繋がっていた可能性はないように見える。しかし、もっと前の地図を見てみようと思った。そこで「ADEAC」を使って資料検索を掛けたところ、明治二(一八六九)年に描かれた加賀国絵図」を見つけた(北は左方向)。そこを開いて河北潟の部分をそのまま左部分を拡大して見て欲しい。すると、明治時代まで河北潟はずっと北まで驚くほど深く貫入していたことが判ったさらに左上方を「能登加賀國境」の文字が左側に大きく見えるまで拡大すると、国境のすぐ内側に二重丸(宿場町風)で囲われた「外高松」がある。これが現在のかほく市高松地区である。その右上を見て貰いたい。「内高松」(村であろう)とある。これが現在の内高松だ。そうしてその地名の脇に瓢簞型の池があるのが判る。それは地名で隠れた真下で左に流れる川に繋がっている。それを下って行くと村名が順に「橫山」・「宇氣」・「笠島新」・「鉢伏新」・「宇野氣新」とあって、「内日角」村の上方で河北潟に流れ入っているのが判る。この最後の三つの村名に「新」が附いていることに注目されたい。これは恐らくは江戸後期にここいら辺りまで、河北潟はさらに北に貫入していた、それを干拓して新しい村を作ったのではないか? とすれば、もっとずっと古くは、現在の横山や宇気にまで実は河北潟はあって、驚くべきことに現在の高松の東後方で入り江を作っていたのである! 諦めなかった結果、予想外の事実にたどり着くことが出来た! 目の前の日本海ではなく、ずっと南西から迂遠にぐるりと回って、日本海と繋がる汽水潟である原河北潟の北で、ここに正しく池を作っていたのである! 「地中の理」どころではない! 「海の貫入の理」こそ「測るべからざること、まのあたりなり」なのであった! 近現代の公式地図を見ていては到底思い至らぬことなのであった!

「渺々たる」現代仮名遣「びょうびょう」。果てしなく広いさま。遠くはるかなさま。

「望(のぞみ)」臨み。眺め。]

 七窪四疇(しうね)の高みには、地藏尊立ち給ひて、路次(ろし)の利益あること顯然たり。然れども今は砂、堂を吹き埋めて、八尺許りの尊像半ばを隱したり。

[やぶちゃん注:この地蔵尊は七窪地蔵として現存する。それも七窪神社の境内の中にちゃんと守られてある(元あった場所からここへ移転したもの)。「かほく市」公式サイト内の「七窪地蔵尊」に、『昭和の初め頃まで、宇野気から七窪に通じる道は低い沼地で、枯れた葦が風に揺れる寂しい光景が広がっていました。その上、「おまん狐」という人を化かす狐が出るので、夕方には人の往来もなくなっていました。これではいけないと思った七窪の人たちは、道行く人々の安全を願ってお地蔵様をつくり、道端に立てました。その後、お地蔵様は七窪神社の境内に移り、昔と代わらぬ微笑をたたえています』とあり、紹介動画(YouTube『石川県かほく市歴史・文化動画シリーズ「七窪地蔵」(かほく市教育委員会・かほく市ボランティア観光ガイド制作)もある! 必見! その中で地蔵は現在の津幡町(つばたまち)能瀬(のせ)に住んでいた渡邊家第六代当主で十村役(とむらやく)であった渡邊永忠弥右衛門が享保九(一七二四)年に造立したことが判っている。「十村役」とは加賀藩独自の制度で、名の通り十ヶ村ほどを纏めて取り仕切る頭役であるが、年貢の取立や藩からの掟の連絡・検地による地図作成・用水管理・各種の争い事の裁判まで殆んど藩の役人が行うべきことまで任されており、その屋敷には藩主や藩士が泊まることもあった非常に格式の高い百姓であった。因みに、本篇の作者堀麦水は享保三(一七一八)年生まれである。なお、上記動画の109のところに、国立国会図書館所蔵の「御鷹場等御定并繪図」の拡大図が出るが、そこでも前の内若松にあった池が見られる! ちょっとフライングするが、以下の話のロケーションをここで示す。妖狐の名は「おまん狐」という。「石川県神社庁」公式サイトの高松にある額(ぬか)神社の解説に、『当所は、加賀国より能登国に通じる街道にして街道の南、河北潟より七窪を経て当社に至る街道は、おまん狐の出でし所にして』とあることから、後のロケーションはここの中央南北の海寄りに相当する。]

 夏日(かじつ)景よしといへども、砂燒けて步み難く、秋日(あきび)は靜(しづか)なりと云へども、松覆ひて日(ひ)物凄し。冬・春は例の北地(ほくち)の雪風(ゆきかぜ)、奈何(なん)ぞ風景の望(のぞみ)に落ちんや。元來濱地の能登道(のとみち)なり。實(げ)に「砂場入ㇾ夜風雨多。人云親シク鐡騎來る」と云ひし、戰後の地異をも寫すべし。

[やぶちゃん注:「松覆ひて日(ひ)物凄し」松が覆いかぶさるように生えているので、木下闇(こしたやみ)深くて日中でも陽光が差し入らず、何やらん、物凄い感じがする、という意味か。

「奈何ぞ風景の望に落ちんや」どうして風景を眺めようなどという気持ちになれようか、いや、なれぬ、一時も立っていられないほど寒く凄絶なる状況である。

「砂場入ㇾ夜風雨多。人云親シク鐡騎來る」この前後の鍵括弧は私が附したもの。訓読すると、

 砂場(さじやう) 夜(よ)に入つて 風雨 多し

 人 云(いは)く 「親しく鐡騎(てつき)を提げて來(きた)る」

か。どうもこの最後の「る」が私は気に入らない。この「る」は衍字で「來と」で、

 人 云(い)ふ 「親しく鐡騎(てつき)を提げて來(きた)れ」と

と読みたくなる。而してしかし、この七律の出来損ないのようなものの原拠は判らぬ。識者の御教授を乞うものである。二句目の意味は『人は言う。「ここを通りたくば、鉄の鎧兜つけた勇猛な騎兵を身近に連れて通れ」と』の謂いか。

「戰後の地異をも寫すべし」これはこの付近で実際に戦闘があったことを指すのではないだろう。その一年を通してこの辺りに漂っている、どこか荒涼とした感じは、あたかも、沢山の人が死んだ戦場の地に染み滲んだ死者たちの古血の恨みの地妖を再現したような感じと謂うべきものがある、という謂いであろう。]

 享保[やぶちゃん注:一七一六年~一七三六年。]何れの年にや、爰に人を殺して懷中の物を奪ひ立ち隱れし事あり。金澤の檢使某(なにがし)死骸をとくと改むるに、

「切疵(きりきず)の躰(てい)刀・脇差の類ひにあらず。小刀(さすが)樣(やう)の物なり。况や糞・いばりを殘すに、其所方々と隔たる。」

檢使の人心(こころ)利(き)きて、

「是(これ)常人の所爲にあらず。必ず穢多(ゑた)仲間の者どもの仕業(しわざ)なるべし。人間には違(ちが)へる所あり」

とて、則ち役人を以て非田地(ひでんち)の者どもを吟味するに、終(つひ)に殺人(さつにん)知れて、穢多兩人刑に逢ひたり。

 さればいばりに付きて替りありと聞えしが、是に似たる怪談を近くも聞けり。

[やぶちゃん注:以上はこの辺りで起こった、一つの異常な殺人事件と、その不思議な捜査・判例を挟んだものである。

「檢使某」検死役としてやって来た役人の某(ぼう)。

「糞・いばりを殘すに、其所方々と隔たる」犯人は大小便を犯行現場に残しているが、その糞や小便が広範囲に、しかも方々に隔たってなされてある。

「心利きて」非常に利発で鋭く。

「穢多(ゑた)」「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀(Ⅲ)」の私の注を参照されたい。

「非田地」「加能郷土辞彙」に『ヒデンチ 非田地 藩政の間、非田地のものといふのは農業に從事せざるものゝ意味で、藤内・穢多・舞々・非人等の總稱である』とある。この「藤内」は「とうない」と読むが、加賀藩独特の呼称で、藩内にいる被差別部落民の最上位のぐるーぷを指した。 「舞々」(まいまい)は中世に発生した曲舞(くせまい)・幸若舞(こうわかまい)などの流れを受けた歌舞音曲を演じて門付した芸能者たちを指す。

「人間には違(ちが)へる所あり」「たがへる」でもよい。小便の仕方に通常の人間とは違うところがある、というのである。それにしても「人間には」という物言いの、驚くべき差別感に慄然する。これが以下の話に繋がるポイントとなる。]

 安永初めの年、稀有なる狐妖(こえう)あり。秋も尾花の色ふりて、うら枯の野の露多き冬空近き頃なりき。能登の惣持寺(そうぢじ)へ行く僧の多き時なりし。

[やぶちゃん注:「安永初めの年」明和九年十一月十六日(グレゴリオ暦一七七二年十二月十日)に安永に改元している。

「惣持寺」表記はママ。現在の石川県輪島市門前町門前にある曹洞宗諸嶽山總持寺祖院(そうじじそいん)。旧曹洞宗大本山總持寺。本山機能が神奈川県横浜市へ移転する際、移転先が「大本山總持寺」となり、能登の「總持寺」が「總持寺祖院」と改称されて別院扱いとなった。ウィキの「總持寺祖院」によれば、『加賀藩時代を通じて手厚い保護を受け』た寺で、『江戸幕府は』元和元(一六一五)年に『永平寺・總持寺をともに大本山として認めるとともに徳川家康の意向で』一千『両が寄付されて幕府祈願所に指定された。住持の地位は』五『つの塔頭(普蔵院、妙高庵、洞川庵、伝法庵、如意庵)による輪番制が採られたが』、明治三(一八七〇)年の『栴崖奕堂以後』、『独住の住持が置かれた』。明治三一(一八九八)年四月、『大火で開山廟所である伝燈院経蔵といくつかの小施設を除いた全山を焼失』、七年後に『再建されたものの、これを機に』、『より大本山に相応しい場所への移転を求める声が高ま』り、明治四四(一九一一)年十一月五日、横浜鶴見へ移されたとある。]

 一人の禪僧此七窪の砂道に行き倦(う)みて、松の古木に打もたれて一睡を快くせしに、秋の日早くたけて、夕風の冷(さむ)けさに忽ち驚き、夢打覺めて起返(おきかへ)り、傍らを見れば一僧あり。是れも今眠(ねむり)覺めたる躰(てい)に見えて、手を伸ばし欠伸(あくび)し、以前の僧をきよろきよろと見て物云ひたげなる躰(てい)なり。以前の僧は、元來關東出の遠慮知らずの氣儘坊主なれば、則ち問て曰く、

「偖(さて)此僧は何所(どこ)の僧だ、何方(どこ)へ往き召す」

と云ふ。跡の僧曰く、

「何所出(いづくで)の者でも僧は僧なり。夫(それ)を疑ふは何事ぞ。」

鬪東僧の曰く、

「此小僧は咎(とが)め好(ずき)の坊主だ。己(おれ)が問ふは尋ねるのだ。夫(それ)をはや疑ふとは是(これ)狐疑心(こぎしん)を持てるよな。」

跡の僧曰く、

「心中元來一物(いちぶつ)なし。疑ふを以て狐疑心と寫(うつ)すならば、汝も未だ五百生(ごひやくしやう)中(ちゆう)の野狐生(やこしやう)なり」

と云ふ。關東僧恐(いか)りて、

「野狐生とは其方が事よ。不落因果・不迷因果の理(ことわり)は濟んだか」

と云ふ。

 跡の僧曰く、

「偖(さて)も愚鈍なる問ひやうかな。不落も不迷も同じことにて、今日にては古反古(ふるほうご)書(かき)汚(けが)し紙の類(たぐひ)なり」

と云ふ。

 關東僧又橫に打倒れて足を延ばし、

「汝が師匠は誰じや[やぶちゃん注:ママ。]、何所(いづこ)の法嗣(はうし)ぞ」

と問ふ。

 跡の僧云ふ、

「我は師も求めず法も嗣(つ)がぬ。其方は不學者なれども氣丈なり。最(も)そつと問答せん」

と云ふ。

 關東僧彌々(いよいよ)怒りて、

「法も受けず師もなき者ならば、犬に劣れる類(るゐ)の者ぞ」

と云ふに、此僧又

「きよろきよろ」

と四方を見る。

 關東僧寢ながら片足を松にかけて、小便をみだりに放しけるに、跡の僧何と思ひ合せしや、驚く氣色(きしよく)見えしが、いかなる故にかありけん、

「クハイクハイ」

と鳴きて、三間[やぶちゃん注:五メートル四十五センチ。]許り飛んで四足(よつあし)の形ちと變じ、小松隱れに逃失(にげう)せける。

 關東僧

「こはふしぎ」

と思ひ怪しむ中(うち)に、暫くして人も通り來りければ、打連立ちて今濱へ出で、道々此(この)ありし事ども語るに、其中に酒井の永光寺(えうくわうじ)の僧ありて申されけるは、

「夫こそは此野邊に年經る『黃藏主(くわうざうす)』と云ふ黃狐(きぎつね)ならん。我寺の和尙能く狐狸に馴るゝ故に聞けり。先々(まづまづ)日も暮るゝに今濱迄來られよ」

と。先達して宿をも指圖して、偖(さて)委しく語らせて聞合ふに、關東僧も心付き、

「思へば目付き物云ひ、是非(ぜひ)野狐には極まれり。犬に劣れる類(たぐひ)の者と云ひし時、けしからぬ顏付なりしに、小便する關東風(のふづ)の野躰(やてい)を見て、本(もと)より狐疑の者なれば、『若しや此僧は狗(いぬ)の化けたるなるか』と思ふより、急に逃去(にげさり)しとは覺えぬ」

と、今濱・子浦など宿々の夜話なり。

 七窪は禪僧の能く通る所なれば、かゝる法語を覺えてや、猶も疑ひを晴(はら)さんと出でたるなるべし。

 能(よ)く能く思へば、野狐生返つて人間の上に出づる說をなす。久しく諭ぜば妙論を出(いだ)すべき躰(てい)なりしに、狗の化けたるかと恐れて、半ばに止みしは残念にや。

 扨は人間の妖物を恐るゝのみにはあらず、狐狸も又妖物を恐るゝに違ひなし。さらば奇談の妙、人中(じんちゆう)のみの間(かん)にはあらず。

[やぶちゃん注:「以前の僧」「以前」は「もとより」の意。

「五百生中」五百年を生きて妖術を得たの意。

「野狐生」面白い。自ら「野禪」(禅の修行者が未だ悟りきっていないのに悟ったかのようにうぬぼれるこ)に掛けて名乗っているのである。あり得ない。

「不落因果・不迷因果」私の「無門關」の「二 百丈野狐」を参照。

「クハイクハイ」面白い。表面上は狐の鳴き声のオノマトペイアであるが、一般には狐の鳴き声は歴史的仮名遣では「クハウクハウ」である。恐らくここには「解、解」(但し、これは「クワイクワイ」となる)、則ち、「悟ったぞ! 悟ったぞ」の意に掛けてあるのかと私は読んだ。

「今濱」高松の少し東北の海辺のこの付近であろう。

「酒井の永光寺」石川県羽咋市酒井町にある曹洞宗洞谷山(とうこくざん)永光寺(ようこうじ)

「黃藏主」tera 氏のブログ「【妖怪図鑑】 新版TYZ」にこの後半部が現代語訳されてあり、『加賀の化け狐』とある。この訳は完全ではないものの、なかなか本腰が入ったいいものである。

「是非」必ずや。

「關東風(のふず)」この当て訓は「近世奇談全集」を参考にした(但し、そこでは「のふづ」とあり、歴史的仮名遣としては誤りであると思う)。「のふず」とは「のふうぞく(野風俗)」の音変化で、「無作法であること・図太くいばっていること」、また、そのさまで、「のふうぞう」とも呼んだ。関東の男子が犬のように片足を上げて小便をするというのは、江戸期の風俗画の中で確かに見たことがある。

「子浦」今浜の少し北に子浦川が流れる。]

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