三州奇談續編卷之一 西住の古碑
[やぶちゃん注:本篇(国立国会図書館デジタルコレクションの底本ページの画像)に登場する和歌は前書が全体が一字下げ、和歌は二字下げ、署名は前書最終行の下二字上げインデントであるが、私独自の配置に代え、和歌前後に行空けも施してある。なお、表題の「西住」は「さいぢゆう(さいじゅう)」と読む。この人物、西行と親しい僧で、西行と行脚をともにしたことが確認されてはいる人物である。しかし、この西住なる者については先行する作品ではその事蹟を確認出来るものが少ない。ただ、西行は「山家集」の中で、只一人、「同行(どうぎょう)」の名を以って呼んでいる人物であり、その実在は疑いようがない。名は出ぬものの、本篇「三州奇談續編卷之一 僧辨追剝」で語られた、「西行上人は天龍川に面(おもて)を打たる」というエピソードの同行者を西住として語るものとして、「諸國里人談卷之四 西行桜」がある。また、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 72 今日よりや書付消さん笠の露――曾良との留別』で引いた、安東次男氏の岩波同時代ライブラリー「古典を読む おくのほそ道」(一九九六年刊。但し初版単行本は同書店から一九八三年刊)の中に、芭蕉が曾良と別れた際、曾良が芭蕉に西行の面影を感じたならば、自らを西住に擬えぬはずがないと述べておられる。以上の「諸國里人談卷之四 西行桜」の注で西住については考証したので繰り返さないが、そこで大きな力となったのは、山村孝一氏の論文「西住と西行」及び察侃青(サイハイセイ)氏の論文「『西行物語』の方法――東海道を歩む西行――」(PDF)である。この二本を読めば、西住についての現在のネット上で知り得る知見は概ね尽きるものと思うが、ここに出る、西住の故郷が越中で、西行とともに行脚の途中に亡くなり、西行がその碑銘を刻んだというのは、後注で示すように後世の作話であり、全く信じられない。取り敢えず、彼の歌が四首載る「千載和歌集」(他には載らない)の、一九九三年岩波書店刊の「新古典文学大系」第十巻の「千載和歌集」(片野達郎・松野陽一校注)の人名索引の記載を示しておこう。
西住(さいじゅう) 俗名源季政。清和源氏。生没年未詳。源季貞の養子。右兵衛尉入道。左兵衛尉とあるか。久安二(一一四六)年・同三年の「顕輔歌合」に参加。西行より年上であり修行の同行者として深い交流を持つ。入寂に際し、西行・寂然とが哀傷歌を贈答する。]
西住の古碑
越中の舊跡、別書にあれば多く略しつ。礪波郡芹谷(せりだに)には、上杉憲景戰死の塚あり。升山は神保某が古城。佐々成政が爲に落城す。此の次の村を大淸水と云ふ。是(これ)昔四ツ井次郞兵衞と云ひし忍(しの)びを得し男、盜賊の事現れて自殺せし地なり。事は「越のしら波」と云ふ書に記す。昔は此邊(このあたり)北陸の本海道なりし。中頃より大門川・千保川(せんぼがは)兩川洪水して、地狹(せば)められて人家減り、今は海道小杉の下道に變りて、此所は舊跡のあれ增(まさ)る躰(てい)なり。
[やぶちゃん注:「礪波郡芹谷」富山県砺波市芹谷(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「上杉憲景」これは恐らく上杉謙信の祖父に当たる越後守護代長尾能景(よしかげ 寛正五(一四六四)年~永正三(一五〇六)年)の誤認である。ウィキの「長尾能景」によれば、彼は『越後守護である上杉房定・房能の二代に仕えた』が、『房定の死後、事実上』、『越後の実権を握り、守護の権力強化を目論む房能とはしばしば対立したが、名目上はあくまで守護代の立場に留まっていた』。永正元(一五〇四)年の「立河原の戦い」で『大敗を喫し』て『危機的状態にあった房能の実兄である関東管領・上杉顕定を救援するために関東地方に出兵し、疲弊した扇谷上杉家の上杉朝良』(ともよし)『を攻撃』した。永正三(一五〇六)年九月、『能景は畠山卜山の要請を受けて一向一揆との戦いのため』、『越中国へ出兵するが』、「般若野(はんにゃの)の戦い」で『戦死した。越中守護代・神保慶宗の裏切りによるとされる』とあるのだが、この「般若野の戦い」(リンク先は同ウィキ)とは別名を「芹谷野の戦い」とも呼ばれ、「芹谷野」はこれで「せんだんの」と読む。ところが、現在の前注の「芹谷」の北西部直近一帯が「栴檀野」地区なのである。則ち、現在の芹谷自体が古くは広域の「栴檀野」であり、「般若野」であったと考えてよいと思われるのである。さらに個人サイトと思われる「不識庵謙信と上杉家」というページには、上杉『謙信の父・越後守護代・長尾為景はしばしば越中に出陣』したが、加賀藩士で郷土史家であった富田景周(とだかげちか 延享三(一七四六)年~文政一一(一八二八)年)の「越登賀三州志(えつとがさんしゅうし)」によれば、『為景は天文十四』(一五四二)『年に越中・栴檀野で戦死したとされ、現在為景の墓とされる「為景之塚」が残されてい』るものの、『これはどうも為景の父親・能景の事蹟』(「芹谷の戦い」で戦死)との混同の産物のようで』あるとあることから、二代に亙る人物がグチャグチャに混同されているようなのである(因みに現在の資料では為景は戦死しておらず、隠居して天文五(一五三七)年或いは天文十一年に死去しているとされる)。
「升山」この名の城は富山にない。恐らくは富山県魚津市舛方(ますがた)にある升方城であろう。この城は升形山城とも呼ばれた。サイト「城郭放浪記」のこちらを参照されたいが(地図あり)、そこに、『松倉城の支城の一つで椎名氏の家老小幡九助(または九郎)が守った』。『佐々氏の時代には佐々新左衛門、前田氏の時代には竹田宮内が城主だったという』とある。
「神保某」「鹿熊の鐵龜」の注を参照。但し、前注の引用にあるように、神保氏が升方城の城主であったとする記載は見当たらない。
「佐々成政」複数回既出既注。「妬氣成ㇾ靈」の私の注を見られたい。
「大淸水」芹谷の北北西約六キロメートルの位置に高岡市戸出(といで)大清水があり、後に出る「永願寺」がこの地区内にある。
「四ツ井次郞兵衞」前田利家に仕えて加賀忍軍を率いていたという忍者に四井主馬(よつい/しいしゅめ 生没年不詳)は、戦国時代、安土桃山時代の(初代)[1] 。安土桃山時代、江戸時代初期の加賀藩士、富山藩士(二代)。四井は「しい」とも読む。ウィキの「四井主馬」によれば、『初め甲斐国の武田氏に仕えていたと』もされるが、出自は不詳。天正一三(一五八五)年二月、『村井長頼に従い』、『加賀・越中国境沿いの蓮沼城を攻めている』。『関ケ原では大聖寺城落城の際に利長の命により城内に火を放ち、後に』利家の次男『前田利政に西軍の人質となっている利政室(蒲生氏郷の娘)の救出を命じられ、大坂に赴いたという』。『その後』、『主馬が利政室を救出したとの記述は無く、結局利政は七尾から動かず』、『西軍に味方したとされて改易になった。なお、加賀忍軍は、大坂の陣終結後に解散されたとされるが、徳川方の警戒を解くための偽情報とも言われており、事実は定かではない』。『子の四井喜兵衛は利政の伏見在番衆として名前が見え』、『元和侍帳では四井喜兵衛』『百石と記され、御馬廻衆に属した。その後』、『父と同様に主馬を名乗った事が「寛永四年侍帳」に見える』。寛永一四(一六三七)年、『本多政重・横山長知から、江戸金沢間の伝馬の賃金見積りを通知されている』。同一六(一六三九)年、『前田利次の富山立藩に従い』、三十『石を加増された』。承応四(一六五五)年、『越中婦負郡内から年貢が納入され、主馬に』二十三『石が支給された記録が残る』。『二代藩主正甫』(まさとし)『の分限帳に四井氏の名前は見えず、絶家となった』ようであるとあるから、この縁者であろう。
「越のしら波」「慶応義塾図書館和漢図書分類目録」第二巻(グーグル・ブックス)に昭和一〇(一九三五)年刊の石川縣立圖書館編「稗史集」(はいしゅう)の下巻に、この書名が見られるだけで、書誌データは全く分からない。
「大門川」不詳。射水市大門(だいもん)があるが、この「大門」はこの周辺の広域旧地名であった。次の千保川の解説で判る通り、当時の庄川は現在の庄川の流路とは大きく異なっており、複数の流路があったことが判る。現在の大門地区の西で庄川に合流する和田川のように、広域としての大門地区を流れていた旧流路を、かく呼んでいたものかとも思われる。ウィキの「庄川」を見ても、『砺波平野は東の庄川と西の小矢部川による複合扇状地で』、『古い時代の流路は不明だが、庄川は平野に複数の分流を持ち、江戸時代まで、大洪水のたびに主な河道が別の分流へと切り替わる、という歴史を経てきた』。『庄川というのは「雄神の庄」』(現在の富山県砺波市庄川町庄の雄神神社(庄の宮)附近)『あたりの呼び名で、下流では「野尻川」「中村川」「千保川」「中田川」など、それぞれ分流の名で呼ばれていた』とある。
「千保川」現在は戸出大清水地区の西を平穏に流れる川であるが、ウィキの「千保川」によれば(下線太字は私が附した)、『江戸時代までは、庄川の本流として豊富な水の量を誇る河川であった』。流域では現在の高岡市街が慶長一四(一六〇九)年に、戸出の町域(元和三(一六一七)年が作られ、発達したが、『この頃の千保川は、西は戸出公園から東は大清水神社(高岡市戸出大清水)までの川幅』が実に約八百メートルにも達する大河であったのである。承応三(一六五四)年、『加賀藩主・前田利常は瑞龍寺』(ここ)『の地を千保川によって削られた事を受け、千保川の水を現在の庄川の本流である中田川へ移すことを命じた。しかし、庄川の左岸の地域の住民の反対により、すぐには移されなかった』。寛文一〇(一六七〇)年、『加賀藩主・前田綱紀は庄川の扇状地扇頂部の弁才天(現・雄神神社)前で千保川などの各分流を中田川へ一本化するという大工事を始めることとした。これは、大変な工事であり』、正徳四(一七一四)年に実に四十四年もの『年月をかけて、ようやく完成した。これにより、現在の千保川の流域が確定した』とある。本「三州奇談」の成立は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定されているので、この新流路確定後のことではある。
「小杉」旧小杉町。現在の射水市のこの中央附近の広域。]
此所に永願寺と云へる門徒寺あり。此門外竹橋のもとに、高さ三四尺、厚さ二尺ばかりの石碑あり。文字甚だ古雅に、
『阿字十萬三世佛、彌字一切諸菩薩、陀字八萬諸聖敎、皆是阿彌陀佛、西住』
と文字あり。是西行圓位上人の筆にて、同行なる西住、道に終る爲に爰に建つるとなり。實(げ)にも石の彫り、建久の頃の古(ふる)びとや。千古の哀れ、逆旅(げきりよ)になやめるに過ぎたるはあらじ。かなしき限りや盡したりけん。臨終の健(すこや)かならんも又々かなし。
[やぶちゃん注:ここに示された文字列は、後に出す「西住塚」にあるものの原形のものと思われる(永願寺に現存するらしい)。我々が現在、見られる砺波市庄川町三谷にある「西住塚」のそれとは微妙に違うからである(グーグル・マップ・データのサイド・パネルの碑面写真)。後者は、碑の一番上に大きく阿弥陀如来を意味する梵字「キリーク」が彫られ、その下に四行で、
十方三世佛
一切諸菩薩
八万諸聖教
阿弥陁佛
嘉應二年 亡靈菩提
とあって、それらの下方に草書で恐らくは、
もろともになかめなかめて夜の月
ひとりにならん事そかなしき
西行
道柴の露の古へかへりきて
馴れし三谷の里そ悲しき
西住
と記されている(「なかめなかめ」の後半は碑面では踊り字「〱」)。なお、サイト「digital 西行庵」の「西行ゆかりの地」というページに(このサイトは、昔、ネットを始めたころに毎日のように読みに行ったのを思い出す懐かしいサイトである)、「戸出商工会」(リンクがあるが、既に機能しない次の「西住墳碑」も同じ)の「西住墳碑」(高岡市戸出大清水383永願寺境内)という項があって、
《引用開始》
石碑は、高さ1.21m(4尺)、幅52cm(1尺7寸)、厚さ33cm(1尺1寸)の堅い自然石で、嘉応2年(1170)西行が建立したといわれています。文字は上品な書風であり、所々消えて読みにくいのですが、西行の筆であるといわれています。昭和4年台石を積んで、その上に石碑を移建しました。
この碑はもと西行法師(佐藤兵衛尉憲清、後に剃髪して名を円位と改める)の法弟西住 (俗名季政)の郷里砺波郡三谷村(雄神村)にありました。西住は師とともに諸国を行脚し、 三谷の地に帰り病にかかりました。今を限りとなった時、西行は、
「もろともに眺め眺めて秋の月 ひとりにならん事ぞ悲しき」
となげけば、西住は瀕死の身でありながら、師と同行する心強く
「駒のあとはかつ降る雪に埋もれて おくるる人や 道迷うらん」
と詠んで往生しました。
西行は丁寧に葬り、1基の塚を築き、供養の文句を刻んだ石碑を建て、菩提を弔うために庵を結び悲しみのうちに下の2首を詠んで住んだと伝えています。時に西行53才でした。
「散花を惜むや□□□とどまりて 又来ぬ春の種となるべき 西行」
「諸共に眠り眠りて倒ふせんと 思うもかなし道芝の露 西行」
享保10年(1725)の旧跡調書によると、大清水村に、藩の御亭造営の際、砺波郡奉行原五 郎左衛門が、諸方から大石、奇石を集めさせました。その時、運送人夫が誤って西住の石 碑を運んできました。奉行はすぐ元へ返すよう命じましたが、永願寺住職が「この石が此 処まで来たのは、何かの因縁があるからであろう。愚僧の寺地に建てさせて欲しい。」と 懇願しました。奉行はこれを許し建てたといわれています。
この石碑が寛政の初め頃(1789〜)まで、永願寺の御堂前門の入口に建っていましたが、 ある夜三谷村へ取り戻されていきました。後日また元の所へ持ち帰り現在に至っています。
尾崎康工の「西住墳記」によると、安永年中(1772〜80)永願寺門の入口へ移建しました。寺主が風雨のために碑の文字の消えることをおそれて東向きにして建てると必らず倒れたので、三谷の方向に建てたと記しています。
昭和33年11月24日、著名な歌法師の石碑として、また、真宗以前の念仏宗の布教を知る 資料として、戸出町文化財に指定されました。
《引用終了》
とあり、ここに記されているのが、原型のそれと思われる。
「建久」さても文治六年四月十一日(ユリウス暦一一九〇年五月十六日)に建久に改元されているのだが、実は西行は文治六年二月十六日(一一九〇年三月三十一日)に亡くなっているのである(享年七十二)。
「逆旅」「逆」は「迎える」の意で、「旅客を迎える宿屋」或いは「旅」の意。
「臨終の健かならんも又々かなし」臨終の時、西住が、かくも穏やかな辞世をしっかりと詠めたことは、凡夫である私(堀麦水)を含めた第三者からみれば、一入(ひとしを)しみじみとしてしまうものだ。]
「山家集」を開き見るに。
同行(どうぎやう)の上人西住、
秋の頃煩(わづら)ふ事ありて、
かぎりに見え侍りければよめる。
西行上人
もろともに詠め詠めて秋の月獨りにならん事ぞかなしき
西住上人は、心たけくや、猶も同行の心を勸めて行路の處、
駒の跡はかつ降る雪に埋れておくるゝ人や道迷ふらん
など聞えし。實(げ)にも北陸のさまなりし。されば其頃の話を聞くに、淚こぼれるゝ事のみ多し。
[やぶちゃん注:「同行の上人西住」これは「新千載和歌集」のもの。「西行法師歌集」(「山家集」異本)では「西住上人」とあり、知られた「山家集」では「同行に侍ける上人」である(「侍ける」は「はべりける」)。「山家集」では全体が、
同行に侍ける上人、例ならぬ事大事に
侍けるに、月の明(あか)くてあはれ
なりければ詠みける
となっている。
「もろともに詠め詠めて秋の月獨りにならん事ぞかなしき」「詠め詠め」はママ(後半は底本では踊り字「〱」)。「詠」は「ながむ」と読め、「声を長くのばして詩歌を口ずさむ」の意があるので誤字ではない。「山家集」では「中 雑」にあり(七七七〇番)、
もろともに眺め眺めて秋の月ひとりにならん事ぞ悲しき
である。「千載和歌集」(藤原俊成撰(定家が助手を務めたともされる)・文治四(一一八八)年)完成)では「巻第九 哀傷歌」に載る(六〇三番歌)。
「駒の跡はかつ降る雪に埋れておくるゝ人や道迷ふらん」「千載和歌集」の「巻第六 冬歌」に西住法師と記す一首(四六三番歌)、
行路雪といへる心をよめる
駒の跡はかつふる雪にうづもれておくるゝ人やみちなどふらん
これは経験の豊かな者は物事の方針を誤ることがない喩えとする「老馬(ろうば)の智」という「韓非子」の「説林(ぜいりん)」の上に出る故事を踏まえたもの。斉(せい)の管仲が桓公(かんこう)に従って孤竹君を伐った折り、雪中で道に迷ったが、老馬を放ってその後(あと)について道が判ったという話に基づき、前書は「行路雪」(雪中に行路難渋す)という見立てで詠んだという意味である。]
西住法師身まかりける時、をはり正念
なりけるよし聞きて、圓位法師の許に
遣しける。 寂然法師
亂れずと終り聞くこそ嬉しけれさてもわかれはなぐさまねとも
返し 西行法師
此世にて又逢まじきかなしさに勸めし人ぞ心みだるゝ
とかくの業(わざ)果(はて)し、
跡の事どもひらひて歸らると
聞(きく) 寂 然
いるさにはひらふかたにも殘りけり歸る山路の友は淚か
返し 西 行
いかにとも思ひわかれぞ過(すぎ)にける夢に山路を行(ゆく)心地して
かくなん諸書に見えし。
「此證據(しやうこ)を今見するなり」
と、戸出の康工(かうこう)なる男と共に、石碑の前に淚こぼし侍りしを、かたヘに加賀の江沼郡なる人居合せて、
「老は必ず爰ぞとのみ思ひ給ひそ、我鄕(わがさと)の山中(やまなか)なる道に西住の塚あり。何がしの寺に其筐(はこ)のもの正し殘りあり」
など云ふに、
「道も遠からず、そこも知る人のある所なれば」
と、しばし加州へ杖を返して是を尋ねぬる。
[やぶちゃん注:「亂れずと終り聞くこそ嬉しけれさてもわかれはなぐさまねとも」も「千載和歌集」に載る。「寂然」(生没年未詳)は僧で貴族・歌人。俗名は藤原頼業(よりなり)。藤原北家長良流で丹後守藤原為忠の四男(末子)。官位は従五位下壱岐守。ウィキの「寂然」によれば、元永年間(一一一八年~一一一九年)の『生まれとされる。近衛天皇の下で六位蔵人を務め』、康治元(一一四一)年に『従五位下に叙され、翌年に壱岐守に任ぜられるが、遅くても久寿年間』(一一五四年~一一五六年:保元の前)には出家しており、大原に隠棲した。『法名を寂然と称し、同じく出家した兄弟の寂念・寂超と共に大原三寂・常盤三寂と呼ばれた。西行とは親友の間柄であったと言われている。また、各地を旅行して讃岐国に流された崇徳院を訪問した事もある。寿永年間には健在であったとみられるが晩年は不詳』。『和歌に優れ』、私撰集に「唯心房集」・「寂然法師集」・「法門百首」があり、「千載和歌集」以下の勅撰和歌集に四十七首が入首する。『強い隠逸志向と信仰に裏付けられた閑寂な境地を切り開いた。また、今様にも深く通じていた』とある。一首は「巻第九 哀傷歌」で(六〇四番歌)、
西住法師みまかりける時、終り正念
なりけるよし聞きて、圓位法師のも
とへつかはしける
亂れずと終り聞くこそうれしけれさても別れはなぐさまねども
であるが、一読、本篇の「臨終の健かならんも又々かなし」はこの一首を文章にインスパイアしたのだということが判明する。
「此世にて又逢まじきかなしさに勸めし人ぞ心みだるゝ」は前の寂然に続く「千載和歌集」の西行(署名は「圓位法師」)の「返し」とある一首であるが(六〇六番)、
この世にて又あふまじきかなしさにすゝめし人ぞ心亂れし
と末尾が異なる。西行にしては特異的に悲哀の背後の心の激しい乱れを包み隠さず詠じている。西行と西住の同性愛的関係を謂い立てするネット記事があるが、なるほど、確かにという気はする。ここで西行は臨終正念を生前に西住に勧めていた自分が、かくも取り乱していることを〈後悔〉しており、ここには仏法の正法(しょうぼう)から意識的に離れた、凡夫としての西住への宿命的愛執が吐露されてしまっているからである。ここに私は強い西行の脆弱な一面を見、それ故にまた、西行を愛するのである。
「いるさにはひらふかたにも殘りけり歸る山路の友は淚か」これは「山家集」異本の「西行法師歌集」の「雑」に載るもので、寂然の一首(七八〇〇番)、
とかくにわざ果てて、後(あと)の事ども
拾ひて、高野(かうや)へまゐりて歸りた
りけるに 寂然
入るさには拾ふかたみも殘りける歸る山路の友はなみだか
と載る。「拾ひて」とは「西住を焼いた後の骨を拾って」の意。高野へ入って彼を送る時には骨であっても西住と同行二人であったものが、帰る山路の友は、ただ、涙だけであったか、というのである。
「いかにともおもひわかてそ過きにける夢に山路を行く心地して」前の「西行法師歌集」の「雑」の寂然のへの「返し」として載る一首(七八〇一番)、
いかにとも思ひ分(わか)ずぞ過ぎにける夢に山路を行(ゆく)心地して
で、上句は西住の耐え難い喪失感の中で、自己存在の見当識失調にまで至った自分を吐露する一首である。但し、こう詠んでしまった瞬間に見当識は復活しているわけで、〈詩〉としてそれを詠うのは私は生理的には好みではない。そうしたところに西行の尋常でない醒め過ぎた感覚を私は感ずるとも言える。
「此證據を今見するなり」とは、「前の句に現れた西行の夢現の強烈な喪失感がまことであったことの証左を、今我々は、この「西住塚」の前で痛烈に見せられて感ずすものです」というのであろう。
「康工」不詳。麦水と同派の戸出町の俳人であろう。
「老」年長者である麦水への「康工」の尊敬の二人称であろう。
「山中(やまなか)」これは一般名詞ではなく、固有名詞と採る。何故なら、加賀の旧江沼郡の山中温泉に、また別に「西住の墓」なるものがあるからである。個人サイト「石川県:歴史・観光・見所」の「神人(じんにん)の滝」に、『神人の滝は石川県加賀市山中温泉杉水町』(ここ)『に位置しています。案内板によると「歌人の西行法師は、鎌倉時代に弟子の西住とともに諸国行脚を行う中で加賀の国を訪れて大聖寺川支流の杉ノ水川近く(現山中温泉西住町)に滞在しました。やがて両僧が都へ戻ろうとしたとき、西住法師は渓谷の美しさを好んで杉ノ水川周辺に残ることにし、西行法師と別れたといいます。その後、西住にちなんで地名が西住村となりました。尚、神人の滝は法師の修道の場といわれます。」とあります。西住村には「西住法師の墓」、西行と別れた橋(加賀市八日市)の近くにには「都戻りの地蔵(地蔵自体は江戸時代後期作)」が建立されています』とあるからである。
「筐(はこ)」小箱。文箱。
[やぶちゃん注:前にも紹介した砺波市教育委員会のサイト「砺波正倉」の「2古くひらけた村の新しい村(その2)」の「西行と三谷の里」に、榎木淳一氏の著になる「村々のおこりと地名」の中の「地名のルーツ=庄川町」(そこには昭和五十四年刊とあるが、調べたところ、初版は昭和四七(一九七二)年刊である)からの抜粋として以下が載る。長いが、本篇を読み解くのに重要な事実が記されてあるので、関係する三分の二ほどを引用させて戴く。
《引用開始》
三谷の県道脇に西行塚といわれる一画がある。この塚には高さ1.7メートル、幅0.9メートル、厚さ0.4メートル余りの歌碑が立っている。この西行塚は、われるところも県道が拡幅改良される以前はもっと大きく、そこには、西行桜という老木がり、近くに西行庵跡といわれるところもあったという。碑面には、梵字(キリーク)の下に「十方三世仏 一切諸菩薩 八方諸政教 阿弥陀仏」と4行にしるされ、さらにその下に次の歌がしるされている。
もろともにながめながめて夜の月
ひとりにならん事ぞかなしき 西行
道柴の露の古へかへりきて
馴し三谷の里ぞ恋しき 西住
年号として、嘉応2年 亡霊菩薩 としるされている。[やぶちゃん注:リンク元では「嘉応」は『慶応』とあるが、続く解説から誤りと断じて訂した。]
この詠まれた歌の原文については諸説が多く、また、歌碑に刻まれた年号嘉応2年(1170)をそのまま信じるならば、県下で最古の歌碑ということになる。ところが、高岡市戸出地区大清水にある永願寺の境内に三谷の歌碑とよく似たものがある。この説明として、近世の中ごろの越中の地誌『越の下草』などから判断すると、永願寺にあるものは明らかに古く、年号は読み取れない。これは、もとは三谷村にあったものであるが、慶長16年(1611)、大清水村に御亭を建てた際に、庭石としてあつめた大石・奇石のなかに誤ってまぎれこんだものであるという。このことが後にわかって、両村で奪い合いとなったらしいが、永願寺の僧が御奉行に願って、ここへきたのも何かの因縁であるから長く供養したいとして認められた。三谷村では、近世の中頃(1700年代)になって、永願寺にある石碑に似せ、さらに歌を刻んでもとの地に再建したものであろう。
しかし、近年専門家によって明らかにされたところによると、永願寺の石碑については年号もなく、歌も刻まれておらず、また、西住のもじ[やぶちゃん注:ママ。「文字」。]があるが、後の追刻であり、この石碑の造立当時の正確は、西行とはおよそ関係のない像仏起塔の利益を信じてつくられた塔婆(墓の類)であったであろうという。年代はは[やぶちゃん注:衍字であろう。]近世初期に、三谷村の文人によって、それまでの「伝え」を石碑に託したのであるまいか。
西行法師は、在俗のころ、佐藤左兵衛尉義清といい鳥羽院北面の武士であったが、後に出家し、歌一筋に諸国行脚の旅を続けた、中世の代表的な歌人である。また、西住というのは西行の愛弟子、あるいは友であったともいうが、この西住の生まれたところが三谷村とつたえている。『雄神村誌(大正13年発行)』には次のようにしるされている。
西行法師このちに巡り来られし折、当地出身の再住の知能をためさんため、西行法師は「折り燃かん無明の山の柴枝を」と口すさみし折、西住の才能を賞賛し、これを村人に語りしより、この村を「三谷」と呼ぶに至りしなり。その三谷とは「一の谷」「谷内谷」「尾の谷」の3つの谷をいうなり。……[やぶちゃん注:以上の部分、私が馬鹿なのか、言っている意味がよく判らない。識者の御教授を乞う。]さらに同誌に
西行法師行脚して諸国を巡り、嘉応2年その弟子西住なるものを召し連れ、西住が郷里なる三谷村に至りしに、偶(たまたま)西住病にて死せり、西行大いにこれを追悼し小さき庵を建て、中陰7週目の業を行い、塚を築きて骨を納め、その上に石碑を建て、その傍に法師手向の花として桜花を植えり。土人呼んで西行桜という。……
これらの伝説・史実の『より分け』は別としても、この三谷の里は、古く東大寺庄園『井山庄』とも関係あっただろうし、その他、南北朝時代、康永元年(興国3年・1342)、鎌倉覚園寺の文書目録のなかの「越中般若野庄内三谷等寄進状」にみられるように、古くからひらけていたことを物語る史料は多い。[やぶちゃん注:以下略。]
《引用終了》
なお、この石碑は砺波市庄川町三谷に「西住塚」として現存する。ここは最初の芹谷地区の南西二・七キロメートル位置である。上記のサイド・パネルの中のこの写真が碑面をよく写しているので見られたい。かなりの陰刻の字を現認出来る。そこにある別な写真の解説板の説明を電子化しておく。
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【砺波市指定文化財】 西住塚
この西住塚は、県道が拡幅される以前はもっと大きく、そこに西行桜という桜の老木があり、近くに西行庵跡といわれる所もあったという。
西行法師(昔時北面の武士佐藤憲清)が心を許した友、西住法師とともに諸国を巡り、西住の郷里、三谷村に至ったとき、西住が病にかかり急死、西行は追悼し塚を築き、法師手向の花として桜を植え、碑石に西行直筆の歌を刻んだものと伝えている。「越中志徴」「越の下草」など旧記によると、慶長十六年(一六一一)、碑石は大清水村(髙岡市戸出)に移され、永願寺に引き取られ、今のものはその後に連[やぶちゃん注:ママ。「建」の誤字。]てられたものという。
もろともにながめまがめて夜の月
ひとりならん事ぞかなしき 西行
道柴の露の古へかへりきて
馴れし三谷の里ぞ恋しき 西住
昭和六十二年三月 再指定
砺波市教育委員会
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但し、西住がこの現在の庄川町三谷であったという資料は少なくとも現在はなく、また、西住が西行とこの付近を訪れ、そこで亡くなったという記事や、そうした伝承を補完する一次資料もない。因みに、この永願寺には「鬼のミイラ」がある。(例えばこちら、或いはこちらの個人記事を参照。写真があるが、かなりエグい。自己責任で見られたい)。麦水なら飛びつきそうだが、残念ながら、近代になって別なところから持ち込まれたものらしい(なお、実は南南西一・七キロメートルの直近に全く同じ浄土真宗の永願寺があるが、ここは同じ戸出であっても戸出大清水ではないので考証外とした。リンク地図の下方端にある)。
さて、最後の部分から推測されると思うが、実は次の章「獅山の舊譚」は『西住上人の終焉の地を尋ね、墳を探すに、此江沼の郡も其證顯然たり』とダイレクトに続く形で、江沼郡を筆者がそちらを訪ねるところから始めているのである(但し、それは簡単な枕となって内容はじきに西住から離れて別な奇譚に移ってゆくのであるが)。しかも、その「獅山の舊譚」を以って早くも「三州奇談續編卷之一」は僅か五篇で終わっているのである。これは続編自体が全体に言えることで、正編に比べて、一巻中の話柄数が有意に少ないのである(底本の国立国会図書館デジタルコレクションの目次をリンクで示すと、正編はこことここ及びここの二話で、最後のリンク先に續編八巻総ての目次が総て載る。全体は正編五巻九十九話、続編四巻五十話で全百四十九話からなる。因みに「三州奇談」の完成は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定されている)。しかも、構成の見かけの体裁だけでなく、書き方も話の内容が本話のように連続する形で書かれたものが有意に出てくるのである。本電子化の冒頭注で述べたように、この「三州奇談」には参考にされた先行する原作がある。作者堀麦水と同派の俳諧師麦雀(生没年未詳。俗称住吉屋右次郎衛門)が蒐集した奇談集である。その散逸を麦水が憂えて再筆録したものが、「三州奇談」であるとされるのである(後の坂井一調の「根無草」の記事に拠る)が、思うにそれは正編部の一部のみで、正編でも麦水が大幅に加筆・変形を加えていることが、電子化する中で見て取れた。さすれば、この続編に入ってからの、構成変更や各篇の連続性を見るに、続編は麦水の完全なオリジナルなのではないかと私には思われるのである。]
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