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2020/05/13

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 惟然 二

 

       

 

 惟然に関する逸話はほぼ、『惟然坊句集』所収のものに悉(つく)されているといって差支ない。『近世畸人伝』なども句集に先立ってそのうちの若干を伝えているが、いずれもやや時代を隔てて書かれたものだけに、事実の興味はあっても、年次の徴すべきものは殆どない。庭前の梅花が時ならず鳥の羽風(はかぜ)に散るのを見て、しきりに隠遁の志を起したというのは何時(いつ)頃か、妻子を捨て薙髪して蕉門に入ったのは何時頃か、そういう点になると明瞭な経過がわからぬのは遺憾である。正徳元年に歿したということは慥(たしか)であったにしても、享年が未詳というのであれば、逆算して『藤の実』時代の年齢を知ることも困難になって来る。

[やぶちゃん注:伴蒿蹊著寛政二(一七九〇)年刊の「近世畸人傳卷之四」の「惟然坊」は「一」の注で示した。]

 『藤の実』の中には「素牛を宿して」という前書で「すゝみ出て瓜むく客の国咄(くにばな)し」とある智月の句、「素牛にこととはれ侍折ふし我宿のことしけゝれは鄰寺に伴て」という前書で、「古寺をかりて蚊遣(かやり)も夜半かな」とある正秀(まさひで)の句などが見える。これらも惟然との交游の模様を知り得る点において面白いが、更に

  訪素牛市居 二句

 蚊遣火の鄰は暑しつるめさう     史邦

 涼しさや竈二つは有ながら      洒堂

  素牛か家に宿して

 菊の香や御器も其儘宵の鍋      支考

等の句あるによって、素牛時代の彼がどこかに居を定めていたことを推察出来る。但この「市居」というのが『薦獅子集』にある「京」の家であるかどうか、そこまではわからない。素牛の名が『藤の実』以後に見えぬことは、前に記した通りであるが、何時どういう動機で惟然と改めたかは不明である。元禄七年秋、芭蕉最後の旅行に随った時は無論惟然であり、芭蕉の書簡に出て来る名前も、多くは素牛でなく惟然になっている。

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が二字下げ。]

昨日は渡紙沢山御恵辱存候処昨夜惟然一宿例之むだ書剰筆の先棒になし困入申候、今四五枚申請度候、此人に御こし可被下候

などという杉風宛の書簡は、年代不明の部に入っているけれども、素牛以後、最後の旅行以前であることは間違ない。こういうものを見ると、如何にも両者の様子の打解けていたことが窺われる。尤も親疎は必ずしも年月の多寡によらぬ。近く子規居士の例を見ても、晩年の病牀に侍しただけで、十年の故旧よりも親しかった人はいくらもある。芭蕉と惟然とは俳句以外にも何か契合(けいごう)すべきものがあったのであろう。(惟然の号は普通「イネン」と呼ばれている。しかし実際は「イゼン」であったのかも知れない。惟然が鬼貫を訪うて「秋晴れたあら鬼貫の夕べやな」と詠んだ時、「いぜんおじやつた時はまだ夏」と鬼貫が脇をつけた話は、相当人口に膾炙している。あれは以前ということにかけるため、特に洒落ていったものかと思っていたが、句集の中にも「いせん」と仮名書にしたものが散見するようである)

[やぶちゃん注:「訪素牛市居」「素牛が市居(いちゐ)を訪(おとな)ふ」。

「つるめさう」「弦賣僧」で、中世から近世にかけて大社に従属した被差別階級の一集団と認識された下級神官の犬神人(いぬじにん)のこと。神人(じにん:同じく神社に隷属して雑役を行った下級神職。寄人(よりうど))よりも格下で、境内や参詣路の不浄死穢の除去・清掃などに従事した。特に京の祇園神社(八坂神社)の犬神人がよく知られる。ウィキの「犬神人」によれば、治暦五・延久元(一〇六九)年出された「荘園整理令」で『鴨川東岸の三条~五条間の河原田畑の領有を認められたとき、これを社恩として非人に賜い、犬神人と号したのが』、康永三/興国五(一三四四)年の事である(「八坂神社文書」百三十三号「感神院所司等申状案」)。『これは建仁寺との争論に基づいて出されたものであり、延久の事情を語るものではない』が、『境内を追い出された葬送法師たちが近辺の河原に移り住んだのが』、既に『平安・鎌倉のある時点で「犬神人」として把握され』ていた『とみられる』。『祇園社犬神人の初見は、日蓮の『御書』に』嘉禄三(一二二七)年に山門(比叡山延暦寺)の僧兵らによる『法然墓所破却が』行われているが、その際、『「犬神人(つるめそう)」に命じて行ったとある』。『犬神人が祇園関係の史料にはっきりと現れるのは』弘安九(一二八六)年の「感神院所司等申状案」で、『「以公人、宮仕、犬上人等」とあり、山門或いは祇園社家に仕える用務の者として使役されている』。『先述の墓所破却以前にも犬神人によるものかは定かではないが』、『祇園社家が承久元』(一二一九)年に『犯科人の住宅を破却している』。康永四/興国四(一三四五)年には『夢窓疎石の天龍寺供養に天皇の臨幸を仰いだ事に憤激した山門延暦寺大衆が犬神人に仰せ付けて破却しようとしている。このように犬神人の用務は一向宗・法華宗・禅宗などの宗徒住所破却など、山門の他宗弾圧の尖兵としての使役が多い』。その他、正平七/文和元(一三五二)年頃の「祇園執行日記」に『散見する犬神人の用務は、境内触穢物取捨清掃、祭礼の警護、社家および山門の検断の住居破却の執行、地子などの譴責などである。時には数十人の犬神人が催集されており、度々の用務に「疲労」と称して出てこないこともあった。この記録の存在の他、祇園社が山門を背景に犬神人の新たな編成に乗り出したためか、南北朝時代には犬神人の活動が夥しく見られる』。康永三/興国五(一三四四)年の『「感神院所司等申状案」には「為社恩死賜非人之間、号犬神人、所相従祭礼以下諸神事也」と、祇園社の領域に居住する非人は犬神人であるということになっている。いわば論理の転換・拡大であるといえ、戦国時代から近世にかけての犬神人は弓矢町に集住していたが、南北朝期にはまだ三条~五条の広い範囲に渡っており、「宮川分犬神人」などがいる。また、関連は不明だが「犬法師」と呼ばれる者もあった』。『この時代、犬神人と清水坂の坂者が同一視されて』おり、『犬神人を別の所で坂者と称している』。永正七(一五一〇)年頃の文書では、『「当坂者事、山門西塔院転法輪堂寄人、祇園御社犬神人」とあり、坂者と犬神人は同一のものであると同時に転法輪堂寄人となっている』。寛元二(一二四四)年、『以前から奈良坂と激烈な闘争(奈良坂・清水坂両宿非人争論)を繰り広げていた「清水坂非人」集団と犬神人とが同じであるかどうかは不明である。しかし』、承久三(一二二一)年の「承久の乱」以前に『清水坂非人の先長吏法師を殺そうとした帳本の阿弥陀法師が祇園林に籠居して祇園を号したことから、坂非人の一部が犬神人になっていた可能性があ』り、『更には建保元』(一二一三)『年に清水寺を延暦寺の末寺に寄進しようと「乞食法師」が諜書をつくり画策した事も無関係とは言えない』(「明月記」)。正平七/文和元(一三五二)年頃の『犬神人は宿老、奉行を選出して集団を為しており、しかも「諸国犬神人」も存在した。これが犬神人の組織したものか、坂非人と同一化することで坂支配下の諸国末宿を諸国犬神人としたのかは判らない。前記永正』七『年頃の申状には、西岡宿者は譜代百姓とあり、宿者全てが諸国犬神人になったとは考えられない。よって、清水坂非人と犬神人との実態が同一化したとて、犬神人の感神院祇園社下級神職=職掌人としての身分と、上下京の葬送・乞食の支配権を有した坂非人の区別は守られていた』。文安二(一四四五)年、『東寺は三昧輿を使用して葬送を実施する権限を坂非人によって承認され、遺体の移動・火葬を坂に任せている。この定書には坂の執行部たる薩摩以下七名の署印花押がしてあり、また、坂之公文所(坂惣衆公文所)・沙汰人=奏者、奉行・坂番頭中などの署名があり、これらが坂執行部と見られる。下部の非人との関係は不詳だが、犬神人の構成員と重複したとしても組織としては別物であった』。『江戸時代においても非人銭請受は「坂豊後」でなされており』、『坂非人と犬神人は使い分けられていた』。『犬神人は上下京の葬送権を独占していたといわれ、その起源は祇園の神輿渡御の道路清掃に基づくという説がある。だが神輿渡御や祇園祭礼は下京のみであるため、上下京に渡る独占の根拠とは考えにく』く、「部落史用語辞典」では『葬地と葬送従事に基づく独占であると推測している。既に』文永一二(一二七五)年の『叡尊の非人施行に当たっての非人長吏の起請文の第一条に、葬送の時に身に付けた具足を取っても葬家に言って責め取ってはならぬと箇条があり、それが坂非人と犬神人との同一化の結果、神輿渡御の不浄物撤去に原因を求める説ができたのだろうとしている。また、東西本願寺門主の葬式には、宝来=犬神人=つるめそが、祇園祭礼と同じ服装で先導を務め、荼毘の事を行っているが、これも坂非人と犬神人との同一化の結果だろうとしている』。『祇園会神輿渡御の際、「六人の棒の衆」として先行し、法師姿で赤い布衣に白い布で覆面し、眼だけ出して八角棒を持つという』。『犬神人は弓弦を作って売ったので「弦売り」「弦指」と呼ばれ、その「弦召せ」の呼び声から弦召(つるめそ)と呼ばれた』。「七十一番職人歌合」(室町時代の一五〇〇年末頃に成立したとされる中世後期最大の職人を題材とした職人歌合)に於いても、『もの弦売りの絵も、祇園祭礼と同じ様に僧形の覆面し、笠を被っている』。『江戸時代、彼らの住所は弓矢町と呼ばれ、弓矢・弦・沓・弓懸を作った他、辻占いの一種「懸想文売り」を行った。この占いは細い畳紙の中に洗米二三粒を入れたもので、中世にも同じく賎民であった声聞師』(しょうもんし)『が卜占・寿祝を行っていた。これについて前記永正』七『年頃の申状に元三日に中御戸で千秋萬歳の祝言を行う事が書かれてあり、江戸時代にも元日寅の刻に禁裏日華門で毘沙門経を唱える事がいわれており、これらも声聞師の千秋萬歳に繋がる』。「雍州府志」(山城国(現在の京都府南部)に関する最初の総合的体系的地誌。歴史家の黒川道祐によって天和二(一六八二)年から貞享三(一六八六)年に書かれた)には『犬神人が京中の寺院から埋葬料を取った事や』、正月二日に『愛宕寺で牛王加持を行い』、『それが「天狗酒盛」と呼ばれたとある』。

「史邦」中村史邦(ふみくに 生没年不詳)。本名は大久保荒右衛門、他に根津宿之助とも。尾張犬山出身で、元禄期(一六八八年~一七〇四年)に活躍した蕉門俳人。尾張藩寺頭であった寺尾直龍(なおたつ)の侍医で、医名は春庵。後に京に出て、御所に出仕、さらに京都所司代の与力も勤めた。職を辞してから江戸に下り、諸俳人と交流した。俳人としての全盛期は「猿蓑」の頃で、以後は句作活動は衰えた。芭蕉の遺物二見文台や「嵯峨日記」などを伝承した人として知られる。

「竈」「かまど」。

「洒堂」浜田洒堂(?~元文二(一七三七)年)は医師で蕉門の俳人。近江出身で名は道夕。別号に珍碩・珍夕(ちんせき)。元禄三(一六九〇)年に俳諧七部集の一つ「ひさご」の編者となり、同六年には江戸深川の芭蕉庵滞在を記念して「深川」を板行、同年夏、大坂に移って点者となり、同七年に「市の庵」を出したが、俳壇経営には失敗した。晩年の芭蕉からは遠ざかった。

「元禄七年」一六九三年。

「昨日は」以下の書簡は恣意的に正字化し句読点を打って、読みを推定で添えてみる。

   *

昨日は、渡紙(わたりがみ)澤山(たくさん)御惠辱存候處(おめぐみかたじけなくぞんじさふらふところ)、昨夜、惟然(いぜん)、一宿、例之(の)むだ書(がき)剩(あまつさへ)筆の先(さき)棒になし、困入申候(こまりいりまうしさふらふ)、今四、五枚申請度候(まうしうけたくさふらふ)、此(この)人に御こし可被下候(くださるべくさふらふ)

   *

この「渡紙」が判らぬ。金銭の隠語かとも思ったが、以下の文面からは書信用紙のようではある。最後は書信を届けた使い走りのことか。

「契合」合わせた割り符のようにぴったり一致すること。

「惟然が鬼貫を訪うて……」これは鬼貫の自撰句文集「佛兄七久留万」(これで「さとえななくるま」と読む)(享保一二(一七二七)年序)。「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典総合データベース」で大阪興文堂刊の天明三(一七八三)序のものを視認して以下に示す。ここ。調べたところ、これは元禄一五(一七〇二)年の付合であることが判っている。

   *

  惟然か伊丹の我宿に

      來りていふ句

 秋晴たあら鬼貫のゆふへやな

  とりあへず

 いせんおしやつた時はまだ夏

   *

因みに、芥川龍之介は昭和二(一九二七)八月一日発行の雑誌『文藝春秋』に掲載された「續芭蕉雜記」の「三 芭蕉の衣鉢」で本句を挙げて以下のように述べている(リンク先は私の「芭蕉雑記」及び「續芭蕉雜記」の「芭蕉雜記」の草稿を纏めた古い電子化)。

   *

      三 芭蕉の衣鉢

 芭蕉の衣鉢は詩的には丈艸などにも傳はつてゐる。それから、――この世紀の詩人たちにも或は傳はつてゐるかも知れない。が、生活的には伊賀のやうに山の多い信濃の大詩人、一茶に傳はつたばかりだつた。一時代の文明は勿論或詩人の作品を支配してゐる。一茶の作品は芭蕉の作品とその爲にも同じ峰に達してゐない。が、彼等は肚の底ではどちらも「糞やけ道(だう)」を通つてゐた。芭蕉の門弟だつた惟然も亦或はかう云ふ一人だつたかも知れない。しかし彼は一茶のやうに圖太い根性を持つてゐなかつた。その代りに一茶よりも可憐だつた。彼の風狂は芝居に見るやうに洒脫とか趣味とか云ふものではない。彼には彼の家族は勿論、彼の命をも賭した風狂である。 

     秋晴れたあら鬼貫の夕べやな 

 僕はこの句を惟然の作品中でも決して名句とは思つてゐない。しかし彼の風狂はこの句の中にも見えると思つてゐる。惟然の風狂を喜ぶものは、――就中輕妙を喜ぶものは何とでも勝手に感服して善い。けれども僕の信ずる所によれば、そこに僕等を動かすものは畢に芭蕉に及ばなかつた、芭蕉に近い或詩人の慟哭である。若し彼の風狂を「とり亂してゐる」と言ふ批評家でもあれば、僕はこの批評家に敬意を表することを吝まないであらう。

   *

(「吝まない」は「をしまない」と読む)私も芥川龍之介に激しく同感である。]

 芭蕉最後の旅行に伊賀から随従したものは支考と惟然とであった。支考はこの間の消息を『笈日記』に伝えているが、惟然には何も書いたものがない。病中祈願として

 足がろに竹の林やみそさゞい      惟然

の句、歿前歿後にわたって

 引張てふとんぞ寒き笑ひ声       惟然

[やぶちゃん注:「引張て」は「ひつぱりて」。]

 花鳥にせがまれ尽す冬木立       同

等の句が残っているだけである。一切をふり捨てて芭蕉のいわゆる「此(この)一筋」に縋(すが)ろうとし、芭蕉によって道を歩んだ後は、半途にして師と別れなければならなかった。蕉門の高足(こうそく)は固(もと)より乏しくなかったにせよ、一度芭蕉において魂の契合を見た彼が、他人によってこれを補い得ぬのは当然である。偉大なる百世の師を得ることは、人生の至福であるに相違ないが、不幸にしてこれと永訣するに及んでは、何者を以てしても償い得ぬ悲哀に陥らざるを得ぬ。この意味からいえば、孔子をして「天予(われ)を喪(ほろぼ)す」と歎息せしめた顔回は、師を失うの悲哀を味わずに済んだ点で、むしろ幸福だったといえるかも知れない。

[やぶちゃん注:「高足」門人や弟子の中で特に優秀な者。高弟。

「「論語」の「先進第十一」の一節。

   *

 顏淵死。子曰、「噫、天喪予、天喪予。」。

 (顏淵、死す。子曰く、「噫(ああ)、天、予(われ)を喪(ほろ)ぼせり、天、予を喪ぼせり。」と。)

   *

孔子が最も愛した高弟顔回(紀元前五二一年~紀元前四八一年(四九〇年とも)。諱(いみな)は回、字(あざな)は子淵(しえん)。そこから顔淵(がんえん)とも呼ぶ。魯の出身。孔門十哲の一人にして随一の秀才にして学才・徳行ともに第一と称された。孔子は彼を自身の後継者と目していたが、孔子七十一の時、四十一の若さで病死した。]

 師の道は常にその高弟によって継承される。けれども高弟によって代表せられるものは、決して師の全部ではないから、そこに自ら領域の差を生じて来る。其角、嵐雪、去来、丈艸(じょうそう)、いずれも蕉門の逸材たるに恥じぬ人々ではあるが、その世界は所詮分割の形になって、芭蕉在世当時の如き盛観を呈するわけには行かなくなった。大店(おおだな)の主人が亡くなった後、一番番頭では店のおさまりがつかぬというようなのは、世間に珍しくない話である。いわんや芭蕉の如き人物の歿後、一癖ある蕉門の人々が動(やや)もすれば分散的傾向を帯びるのは怪しむに足らぬところであろう。

 惟然の如きも慥に芭蕉の死によって魂のよりどころを失った一人であった。『藤の実』時代の作品は一句一句完成されたものに富んでいるけれども、一面からいえばいわゆる格に入ったもので、惟然の天縦(てんしょう)が材を十分に発揮したものではないかも知れぬ。芭蕉歿後に出た『有磯海(ありそうみ)』『続猿蓑』等にある句も、大体においてその継続と見るべきものである。

 馬の尾に陽炎ちるや昼はたご      惟然

[やぶちゃん注:「はたご」は「旅籠」のこと。]

 無花果や広葉にむかふ夕涼       惟然

[やぶちゃん注:「無花果」「いちじく」、「広葉」は「ひろは」又は「ひろば」、「夕涼」は「ゆふすずみ」。]

 粘ごはな帷子かぶるひるねかな     同

[やぶちゃん注:宵曲も後で言っているが、「粘ごはな」は「のりごはな」で「糊をごわごわと強く効かせた」の意。「帷子」は「かたびら」。]

 時鳥二ツの橋を淀の景         同

 磯ぎはをやまもゝ舟の日和かな     同

 肌寒き始にあかし蕎麦のくき      同

[やぶちゃん注:「始に」は「はじめに」。]

  悼少年

 かなしさや麻木の箸もおとなゝみ    同

[やぶちゃん注:前書は「少年を悼む」。「麻木」は「をがら(おがら)」と読む。]

 別るゝや柿喰ひながら坂の上      同

 更行や水田の上のあまの河       同

[やぶちゃん注:上五は「ふけゆくや」、「水田」は「みづた」。]

 待宵や流浪のうへの秋の雲       同

[やぶちゃん注:「待宵」は「まつよひ」。]

 銭湯の朝かげきよき師走かな      同

 こがらしや刈田の畔の鉄気水      同

[やぶちゃん注:「畔」は「あぜ」、「鉄気水」は「かなけみづ」。]

 冬川や木の葉は黒き岩の間       同

[やぶちゃん注:「冬川」は「ふゆかは」、「間」は「あひ」。]

水仙の花のみだれや藪やしき       同

 「粘ごはな」の句、「別るゝや」の句、「待宵」の句などには、多少惟然その人の様子を想わしむるものがある。「粘」の字は「ノリ」と読むのであろう。

[やぶちゃん注:「天縦」天が赦して恣(ほしいまま)にさせること。転じて、生まれながらに優れていること。天賦。

「馬の尾に陽炎ちるや昼はたご」一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」の本句の「昼はたご」(晝旅籠)の注に『「旅籠」はここでは宿屋での食事の意。もと、食物などを入れる器である「旅籠」を開いて食事をするところを「旅籠所」といった。また、当時、旅籠の玄関先には馬をつなぐ場所(馬つなぎ)があった』とあり、通釈では『道中の旅宿で昼飯をとって一休みしているのであろう。表につないだ馬が尾を振るたびに、かげろうの影がちらちらとして散るように眺められるのである。のんびりした街道筋の宿場の光景が目に浮かんでくる』と、惟然の映像的なそれを見事に説明しておられる。また堀切氏曰く、「惟然坊句集」では座五が『「昼多葉粉」となっている。「昼多葉粉」は昼間の小憩に吸う刻み煙草の意。馬子(あるいは農夫)などがのどかに煙草の烟を吹いていると、大地にかげろうが立ち、それが馬の尾のゆれるたびにちらちらと動く、という情景と解される』とある。うん! 確かに!

 馬の尾に陽炎ちるや晝多葉粉

の方が広角のワイドな画面になって、よい!

「無花果や広葉にむかふ夕涼」本句について、堀切氏は前掲書で『『藤の実』の正秀序に、京における惟然の住居を記して「寅丸坊のほとりに、家一つ三つに分(わけ)て、四畳半の座中に柱さへかどかどし、欠たる鍋、煤けたる行燈をしめして、月花のためには朝暮の煙をだにかへり見ず」とあるのが参考になろう』とある。

「無花果」バラ目クワ科イチジク属イチジク Ficus caricaウィキの「イチジク」によれば、中国語では「無花果」以外に古くからの表現に「映日果」(インリークオ)があるが、これはイチジクが十三世紀頃に『イラン(ペルシア)、インド地方から中国に伝わった』際、『中世ペルシア語』でイチジクを意味した『「アンジール」』『を当時の中国語で音写した「映日」に「果」を補足したもの』であるとする。『通説として、日本語名「イチジク」は』十七『世紀初めに日本に渡来したとき、映日果を唐音読みで「エイジツカ」とし、それが転訛し』て「イチジク」となった『ものとされている』。日本には天正一九(一五九一)年(千利休が自害した年)に、『天草に所縁のある神父がポルトガルのリスボンから伝えたとされ、天草はイチジク発祥の地とされる』。『伝来当時の日本では「蓬莱柿(ほうらいし)」「南蛮柿(なんばんがき)」「唐柿(とうがき)」などと呼ばれた。いずれも』「異国の果物」といった『含みを当時の言葉で表現したものである。なお現在でも天草地方ではイチジクを「南蛮柿」と表記する文化が残っている』とある。この「寅丸坊」がいっかな判らぬのだが、一部の資料では彼は京の岡崎の風羅堂に住んだとあり、調べると、個人サイト「私の旅日記」(ずっと昔から俳句ではしばしばお世話になっている)の「白河院庭園~諸九尼湖白庵・幻阿蝶夢五升菴址~」に現在の白河院庭園内にあるその標柱に「惟然坊旧蹟トモ伝フ」記されているとあるので、この付近か(グーグル・マップ・データ)。

「広葉」読みは通常の俳書では濁音でも濁点を省略することが多いため、清音か濁音かを特定することは出来ない。基本的には濁音でないとおかしい場合以外は清音で読んでおけば問題はない。]

「帷子」袷 (あわせ) の片枚 (かたひら) の意で、もとは裏をつけない衣服の総称。「単衣(ひとえ(もの))」であるが、ここは生絹 (すずし) や麻布で仕立てた夏に着る単衣の着物で、それで夏の季題となる。ぱりぱりに張ったそれに、夏の暑さをこれまたいや増す効果が与えられてある。

「時鳥二ツの橋を淀の景」この句に一見よく似した句が其角にあり、

 ほとゝぎす一二の橋の夜明かな     其角

である。また、荷兮に、

  東福寺開山諱(き)

 村しぐれ一二の橋の竹笠屋       荷兮

の句もある。堀切氏に前掲書に其角の句が挙げられており(荷兮はその注に「曠野後集」(荷兮編・元禄六(一六九二)年自序)からとして載っている)、この「一二の橋」については、『⑴京都市下京区本町、東福寺門前の大和大路にある一の橋、二の橋。⑵江戸本所の一つ目、二つ目の橋、の両説のうち⑴が有力とされる』とある。ロケーションがずれるものの、同じ京の景色で其角のそれを意識して作ったようにも思われる。

「磯ぎはをやまもゝ舟の日和かな」中七は「やままももぶね」と一語としたところが上手い。ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra。磯近くを山桃の黒赤色の艶の実をこんもりと積んだ小舟が行き、それに夏の陽射しがハレーションする――そんな「山桃舟磯際を行ける」という「日和」なのである。当初、私はなまじっか海産物に関心を持っているため、この句を、高知で行われるシイラ(スズキ目スズキ亜目シイラ科シイラ属シイラ Coryphaena hippurus:漢字表記「鱪」・「鱰」)を捕るための「シイラ漬(づけ)漁」の舟かと考えた。ウィキの「シイラ漬漁業」から引くと、『海面の浮遊物に集まるシイラの習性を利用し、シイラ漬(漬木)』(づけぎ)『という漁具を海面に設置してシイラなどをおびき寄せ、まき網(旋網漁業)あるいは釣漁業によってこれを捕獲する漁業で』、『漬漁業』(づけぎょぎょう)『は南方から日本に伝来した漁法で、主に鹿児島県から新潟県にかけての対馬海流域と黒潮域の高知県で行われている。漁期は夏から秋』。『海面に浮かぶよう』、六~八メートルの『長さの孟宗竹数十本をワイヤーあるいはロープで横向きに数カ所結束し、ここから垂直に』二メートル『程度の目印(旗・木・竹など)を立てる。そして、漬を海底に固定するため』、『水深の』二『倍程度の碇綱』(いかりづな)『を取り付け、その先端に碇となる数百』グラム『の土俵を取り付ける』。『高知県では、水中に葉の付いたヤマモモの枝を吊り下げ、それを隠れ場所にする小魚を餌とするシイラを、より集め易くする。ヤマモモは、『葉が取れ難く、効果が高い』とされるが』、一『ヶ月程で交換が必要と成る』とある。惟然は宝永元(一七〇四)年に四国讃岐に行脚していることは確認出来たが、しかし、非常に特殊な漁法であり、仮にそれ(ヤマモモの枝を満載して沖へシイラ漬けを作りに向かう舟)を詠んだとするならば、前書でそれを書くだろうし、その説明なしには殆んどの読者はその意味にはとれないから、やはりここは実を載せたそれである。

「肌寒き始にあかし蕎麦のくき」ナデシコ目タデ科ソバ属ソバ Fagopyrum esculentum。茎の色は緑もあるが、淡紅・濃紅色を呈するもの(在来種・品種)も多い(ウィキの「ソバ」の赤い茎の画像)。堀切氏は前掲書で、『晩秋の山路の景であろう。白い蕎麦の花の下にわずかに透けて見えていた赤い茎が、やがて葉が枯れてゆくにつれて、冴えざえと目につくようになるのである。茎の赤さは、底冷えの空気を象徴するように寒々として淋しく哀れな感じになる』と評されておられる(ソバの花は場所によっては新暦の九月下旬頃まで咲いている)。やはり、惟然は類い稀な映像詩人である。

「かなしさや麻木の箸もおとなゝみ」「麻木」は「苧殻」(おがら)。「麻幹」「麻殻」或いは「苧殻箸(おがらばし)」とも。麻の皮を剥いだ後に残る芯を干したものであるが、本邦では麻は古来より清浄なものとされて神社などで神事に使われてきたが、特に江戸時代以降、盂蘭盆(うらぼん)の迎火を焚くのに専ら使用され、また、その時、苧殻を折って箸にし、精霊棚(しょうりょうだな)の供え物に添えたりもする。ここはその「苧殻箸」である。以上から初秋の季題となる。堀切氏は前掲書で、『年若くして亡くなった子供を追悼した句である。孟蘭盆の精霊棚に供えてある数々の麻木の箸の中に、死んだ少年のぶんもまじっているが、それが大人の仏さまのものと同じ大きさなのが、余計に痛々しく悲しみを誘うというのである。命短くして箸長し――少年なのに、なにも死ぬことまで大人並みに真似をしなくてもよかったのに、という述懐が、「麻木の箸」の大きさを通じて』滲(にじ)み『出ているのである』とある。この句は「續猿蓑」の「釋敎之部 附 追善 哀傷」に

  悼少年 二句

 かなしさや麻木の箸もおとななみ   惟然

 その親をしりぬその子は秋の風    支考

として出るもので、「惟然坊句集」では前書がなく、

 悲しさや麻木の箸も長生並

とある。有朋堂の藤井紫影氏の頭注には『長生並は「おとななみ」と讀むべきか、一本に「悲しさよ」とし「悼少年」と前書あり』とある。支考の一句は支考著・一浮編「蓮二吟集」(れんじぎんしゅう:宝暦五(一七五五)年刊)では「しりぬ」を「しらぬ」とするが、支考没後のものであり、意味も突き放した感じになるので全く採れない。

「別るゝや柿喰ひながら坂の上」堀切氏の前掲書に、『師芭蕉とのしばしの別れを借しんで即興的に詠んだ句である。とある坂道の上のところまで見送ってきて、さあここでお別れだと、柿をかじりながら、別れの挨拶をかわしたのであろう。「柿喰ひながら」の別れとは、たがいの親愛感もあふれていて、いかにも瓢逸洒脱な惟然にふさわしい。一説には、坂の上に立つ惟然が、しだいに小さくなってゆく師の後ろ姿を見送りながら、手にした柿を無心に頬張っている情景とする』とある。「惟然坊句集」では、

  翁に坂の下にて別る〻とて

 別る〻や柹食ひながら坂のうへ

と載る。堀切氏はこの句に、『元禄七年七月上旬、芭蕉が大津の無名庵から京都の去来宅へ移り、さらに中旬に伊賀へ向かって帰るころの吟であろう』と注しておられる。

「更行や水田の上のあまの河」三百六十度の天地相写す全方向の至高の映像美である。

「待宵や流浪のうへの秋の雲」この「待宵」は表面上は「翌日の十五夜の月を待つ宵」の意で陰暦八月十四日の夜である小望月(こもちづき)を季題として示し、ロケーションを確定させるのだが、しかし同時にこの語は歌語として永く「来るはずの人を待つ宵」を意味する語であることをも疎かにはできない。さすれば、妻子を捨てた惟然にして以下「流浪のうへの秋の雲」と続けた「待宵や」の切れには甚だ強い苦さがあると読まねばならぬ。]

「こがらしや刈田の畔の鉄気水」堀切氏の前掲書の評釈。『荒涼とした田づらを木枯しが吹きすさんでいる。足もとを見ると、稲を刈りとったあとの田の畔際には、鉄気を帯びた赤黄色の水が吹き寄せられて、鈍く光っているというのである。木枯しの吹くころの季節感が冬田の情趣の中に見事にとらえられた句である。「刈田の畔の鉄気水」という描写がじつに的確である。「惟然坊句集」では、

 凩や刈田の畔の鐡氣水

である。次の、

 冬川や木の葉は黑き岩の間(あひ)

と一緒にアンドレイ・タルコフスキイに聴かせたかった句である。]

 しる人になりてわかるゝかゞしかな   惟然

 元禄七年の『其便(そのたより)』には「近付に」とあり、『惟然坊句集』にも「近付」となっている。芭蕉に随従して奈良から大坂へ出る途中の作らしい。田の中に立っている案山子(かかし)と御馴染になって、やがてまたこれに別れて行くというところに、この人らしい旅情が窺われる。とぼとぼ歩く昔の旅行でなければ味い得ぬ趣である。

[やぶちゃん注:「元禄七年」一六九三年。これは元禄七年八月(芭蕉五十一歳)に芭蕉が支考・維然・又右衛門・二郎兵衛を同伴して大坂に向けて出発し、奈良に一泊した、謂わば死の一ヶ月前の最後の旅である。]

 ひだるさに馴て能寝る霜夜かな     惟然

[やぶちゃん注:「馴て」は「なれて」、「能」は「よく」。]

これは旅中の吟であるかどうかわからぬが、惟然にあらずんば道破し得ぬ世界であろう。

[やぶちゃん注:「惟然坊句集」には、

   *

  有千斤金不如林下貧

 ひだるさに馴れてよく寝る霜夜哉

   *

とある。前書は「千斤(せんきん)の金(こがね)有るも、林下(りんか)の貧(ひん)に如(し)かず)」と読む。堀切氏は前掲書で『去来は『俳諧問答』(『青根が峯』)「答許子問難弁」において惟然につき「先師、彼が性素にして深く風雅に志し、能く貧賤に堪へたる事をあはれみ、俳諧に導き給ふ事切なり」と言っている』とある。

「道破」「道」は言う意で、ずばりと言ってのけること。言い切ること。]

 煤掃や折敷一枚蹈くだく        惟然

[やぶちゃん注:「煤掃」は「すすはき」、「折敷」は「をしき(おしき)」、「蹈くだく」は「ふみくだく」。]

などという句になると、軽快な調子といい、多少の滑稽味を帯びている点といい、よほど惟然らしいものになっている。が、それよりも惟然の面目を発揮したものは、『有磯海』にある左の一句であろうと思う。

  奈良の万僧供養に詣で片ほとりに一夜
  あかしけるに夜明て主につかはすべき
  料足もなければ枕もとのから紙に名処
  とともに書捨のがれ出侍りける

 短夜や木賃もなさでこそはしり     惟然

 宿賃の持合もなかったから、枕許の唐紙に住所姓名と共にこの一句を認(したた)めて逃出した、というのである。これを来山(らいざん)の

  しろしろと見ればよその天井なり

 みじか夜や高い寝賃を出した事     来山

と対照すれば、両者の世界が如何にかけ離れているかわかるであろう。「こそはしり」などという俗語も、極めて惟然らしいものである。

 元禄十二年の『けふの昔』に次のようなことが書いてある。

  李白が法外の風流を得て道にちかしと
  宋儒の評せられしは天機を動かさゞれ
  ばなり、惟然が諸州を跨て句をわるく
  せよわるくせよ、求めてよきはよから
  ず、内すゞしくば外もあつからじとい
  ふは生得の無為をたのしみて此為に塵
  埃をひかじとならむ。

    南部の雪に逢ひて

 木もわらん宿かせ雪の静さよ

    二本松にて

 先米の多い処で花の春

[やぶちゃん注:「先」は「まづ」。]

    松しまにて

 松しまや月あれ星も鳥も飛

[やぶちゃん注:「飛」は「とぶ」。]

    深川の千句に

 おもふさまあそぶに梅は散ばちれ

[やぶちゃん注:「散ばちれ」は「ちらばちれ」。]

  など一句として斧鑿にわたりたりとは
  見えず、地獄天堂は学ぶ人の心なるべ
  し。

[やぶちゃん注:「斧鑿」は「ふさく」で、詩文などに技巧を凝らすこと。]

 これは編者たる朱拙(しゅせつ)の筆に成るものに相違ない。ここに挙げた数句は悉(ことごと)くいわゆる惟然調であって、慥に法度(はっと)の外に出ている。「句をわるくせよわるくせよ」というのは無技巧論のようであるが、「求めてよきはよからず、内すゞしくば外もあつからじ」とあるのを見れば、単に技巧を排したのではない、技巧よりも自然を重んじたのである。巧を求める間はなお斧鑿の痕(あと)を免れぬ、自然に巧なるに及んではじめて全きを得る、というのがその眼目であろう。由来無技巧論は立派な手腕の所有者によって唱えられる。惟然が俳句においてすぐれた伎倆を具えていたことは、これまでに引用した句が何よりも明(あきらか)に語っている。妄(みだり)にこれを振廻す者が邪道に陥るのである。「地獄天堂は学ぶ人の心なるべし」とは朱拙がこの点を警(いまし)めたものと思われる。

 朱拙の批評は惟然本来の句風に比し、「木もわらん」以下の句を法度の外に遊ぶものとしたので、この見解は当を得ている。「生得の無為をたのしみて此為に塵埃をひかじとならむ」というのも惟然の意を忖度したのであるが、知己の言たるを失わぬ。

[やぶちゃん注:「煤掃」新年を迎える準備として屋内の煤や埃を払い清めること。江戸時代には年中行事として十二月十三日に行うのが恒例ではあったが、実際には多忙な時期であり、それ以降の大晦日前までにやることが多かった。

「折敷」檜(ひのき)のへぎで作った縁つきの盆。多くは方形で、食器などを載せる食台で高価なものではない。

「奈良の万僧供養」公家で一万人もの僧侶を集めて食を供養すること。また、その法事。本邦では村上天皇の応和元(九六一)年一一月に始まった。これは元禄五(一六九一)年の東大寺大仏開眼万僧供養か。

「来山」大阪出身の俳人小西来山(こにしらいざん 承応三(一六五四)年~享保元(一七一六)年)。通称、伊右衛門。少年期に死別した父が宗因門の俳人であったことから、同門の由平(よしひら)の後見を得て俳人となった。若くして法体となった。宗因直門となり談林風の句を作っていたが、元禄期に至るや、静寂な自然観照を主眼とする蕉風に近い俳風を示すようのになった。正徳三(一七一三)年の夏に今宮に閑居した。豪放磊落な人柄で、無類の酒好きで「生涯醒めたる日なく」と鬼貫の追悼文に見える。雑俳の点業にも力を入れた。「元禄十二年」一六九九年。

「けふの昔」朱拙編。

「宋儒」宋代の儒者。

「天機」生まれつきの才能。それを当時の社会のためには全く使わなかったからこそかく言われたというのであろう。どこかで官職に神経症的に拘り続けた親友杜甫とは対照的である。

「跨て」「またがりて」。

「無為」道家思想の根幹たる無為自然。をたのしみて此為に塵

「木もわらん宿かせ雪の静さよ」座五は「しづけさよ」であろう。芭蕉を崇拝していた彼は元禄一〇(一六九七)年、都を出て、北陸から東北に逆コースを行脚している。

「二本松」現在の福島県二本松市。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅21 早苗とる手もとや昔しのぶ摺』を見られたい。

「深川の千句」逆コース「奥の細道」を終えて深川の芭蕉庵に着いた時の句。「惟然坊句集」では、

  深川庵

 思ふさま遊ぶに梅は散らば散れ

で、この旅で千句を成就していたか。句は「奥の細道」の「上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし」を鮮やかに言い返したもの。

「地獄天堂」その俳人の到るところが地獄となるか、はたまた、天の神仏のあらせられる真の芸術家の迎えられる聖堂であるかは。]

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