あいつの名を呼んでやれ!
私は一点に於いて疑問を感じている。
我々を脅威に陥れているウィルスをメディアは一貫して「新型コロナウィルス」と呼んでいることである。
「彼」には「COVID-19」という呼称がある。何故、日本人はそれを使用しないかという素朴な疑問である。
何故、面倒くさい長々なしい「新型コロナウィルス」という呼び方に固執するのか?
民俗学的には「名指す」ことがそれを征服することに繋がるはずである。しかし、彼らはそれを脅威の禍々しいものとして「認めたくない」からなのだからなのか?
だったら、勝ち目はない。
日常に侵入した災厄は特定の名指しをすることによって、除去し得ると考えるのが、本邦の民俗社会の正統な常識である。不明なものを永遠に「新型ウィルスの仲間らしきもの」と称している状況自体が、既に「彼」に「負けている」のではないか?
恐らくは名指すこと――おぞましいが「愛称」を与えて、それを日常化することを拒否する――現代の馬鹿げたメディア・コード(無益な禁忌)があるのではないか?
仮に「ゴジラ」が実際に出現しても、国家はそれに実は絶対に対象生物を「ゴジラ」と名付けない気がする。
その理由は糞高度な文明世界はそれを認めたくないからである(嘗ての民俗社会にはそれは私はなかったと思う)。
その弱気――認めたくないから名指さない――という点に於いて、実は我々は「彼」がいないのだ思い込み、
「名前を呼んでやる必要もない下劣にして消え去るもの」
と思っているのではなかろうか?
しかし――私は言う――その時点で既にもう致命的に我々は「彼」に「負けているのだ」と――
まあ、いいや、俺も名指されることはもうなくなった――しかし――「彼」と同じように禍々しく生きることとしよう…………
追伸:なお、「COVID-19」が症状を指す症病名であって、「彼」を直に指す語ではないことは百も承知だと言っておく。揚げ足取りとは議論したくないから。
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