萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 珈琲店 醉月
珈琲店 醉月
坂を登らんとして渴きに耐えず
滄浪として醉月の扉(どあ)を開けば
狼藉たる店の中より
破れしレコードは鳴り響き
場末の煤ぼけたる電氣の影に
貧しき酒瓶の列を立てたり。
ああ この暗愁も久しいかな!
我れまさに年老ひて家鄕なく
妻子離散して孤獨なり
いかんぞまた漂泊の悔を知らむ。
女等群がりて卓を圍み
我れの醉態を見て憫みしが
たちまち罵りて財布を奪ひ
殘りなく錢(ぜに)を數へて盜み去れり。
【詩篇小解】 珈琲店 醉月 醉月の如き珈琲店は、 行くところの佗しき場末に實在すべし。 我れの如き悲しき痴漢、 老ひて人生の家鄕を知らず、 醉うて巷路に徘徊するもの、 何所にまた有りや無しや。 坂を登らんと欲して、 我が心は常に渴きに耐えざるなり。
[やぶちゃん注:「耐えず」はママ。「滄浪」既出既注の通り、「蹌踉」の誤用。「年老ひて」(「詩篇小解」のそれも)はママ。
「醉月の如き珈琲店は、 行くところの佗しき場末に實在すべし。」と「如き」「べし」あるからには、「醉月」という「珈琲店」は詩篇内仮想の幻の存在と読むべきであり、モデルはあっても実在したそれを探すことは徒労と思う。
初出は昭和六(一九三一)年三月発行の『詩・現實』第四冊。
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珈琲店醉月
坂を登らんとして渴きに耐えず
蒼浪として醉月の扉(ドア)を開けば
浪藉たる店の中より
破れしレコードは鳴り響き
場末の煤ぼけたる電氣の影に
貧しき酒瓶の列を立てたり。
ああ この暗愁も久しいかな。
われまさに年老ひて家鄕なく
妻子離散して孤獨なり
いかんぞまた漂泊の悔(くひ)を知らむ。
女等群がりて卓をかこみ
われの醉態を見て憐れみしが
たちまち罵りて財布を奪ひ
殘りなく錢を數へて盜み去れり。
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「耐えず」「蒼浪」「浪藉」「年老ひて」及び「悔(くひ)」のルビは総てママ。
なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第二巻の『草稿詩篇「氷島」』には、本篇の草稿として『珈琲店醉月』『(本篇原稿二種二枚)』として以下の二篇(黒丸印附き「珈琲店醉月」と無印の同題)が載る。表記は総てママである。
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●珈琲店醉月
坂を登らんとして渴きに耐えず
蒼浪として醉月の扉(ドア)を開けば
雜然たる店の中より
破れしレコードは鳴り響き
場末の煤ぼけたる電氣の影に
貧しき酒甁の列を立てたり。
ああこの悔恨暗愁も久しいかな!
われ正に年老ひて家鄕なく
妻子離散して孤獨なり
いかんぞ漂泊の悔を知らむ。
女等來りて卓を圖み
われの醉態をみて憐れみしが
たちまち罵りて財布を奪ひ
殘りなく錢を數へて盜み去れり。
珈琲店醉月
坂を登らんとして渴きに耐えず
蒼浪として醉月の扉(どあ)を開けば
浪籍たる店の中より
破れしレコードは鳴り響き
貪しき酒甁の列を立てたり。
ああこの
場末の煤ぼけたる電氣の影に
賃しき酒甁の列を立てたり。
ああ この暗愁も久しいかな!
我れまさに年老ひて家鄕なく
妻子離散して孤獨なり
いかんぞまた漂泊の悔を知らむ。
女等群がりて卓を圍み
我れの醉態を見て憫みしが
たちまち罵りて財布を奪ひ
殘なりく錢を數へて盜み去れり。
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