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2020/05/16

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 惟然 三

 

    

 

 惟然は党を立てて人と争い、論を以て他に見ゆる風の人ではない。けれどもその天縦(てんしょう)の材は、同門の士とも合わぬ点があったらしく、許六(きょりく)の如きは口を極めてこれを罵っている。その「贈落柿舎去来書」において、蕉翁歿後の俳諧を慨歎した末、特に惟然一人の名を挙げて攻撃を加えたのは、明(あきらか)に両者の肌の合わぬことを語るものであろう。

[やぶちゃん注:「天縦」天が赦して恣(ほしいまま)にさせること。転じて、生まれながらに優れていること。天賦。

「贈落柿舎去来書」俳諧論書「俳諧問答」中の一篇。本体は元禄一〇(一六九七)年閏二月附の去来発信の其角宛書状を皮切りに、翌年にかけて許六と去来の間で交わされた往復書簡の集成を中心に置いたもの。「贈晋氏其角書」(去来から其角宛。以下が許六・去来往復書簡)・「贈落柿舍去來書」(本「落柿舍が去來へ贈る書」)・「答許子問難辨」(後掲される。「許子の問ふ難(なん)に答ふる辨(べん)」)・「再呈落柹舍先生」(後掲される。「再び落柹舍先生に呈す」)・「俳諧自讚之論」・「自得發明辨」・「同門評判」から成る。去来は〈不易流行〉論、許六は〈血脈(けちみゃく)〉説を前面に打ち出して論を戦わせており、蕉風俳論書としては第一級の価値を持つとされる。天明五(一七八五)年、浩々舎芳麿により「俳諧問答靑根が峯」として出版され、寛政一二(一八〇〇)年になって現在の「俳諧問答」の題で再版された(以上は平凡社「世界大百科事典」を主文として使用した)。書写年代不詳の写本(寛政十二年竹巣月居序)でなら、早稲田大学図書館古典総合データベースのここで読める。メインの一部(宵曲引用部含む)の現代語訳が橘佐為氏のブログのこちらにある。

 以下の引用は底本では全体が二字下げ。]

惟然坊といふもの、一派の俳諧を弘(ひろむ)るには益ありといへども、却て衆盲を引の罪のがれがたからん。あだ口をのみ噺(はな)し出して、一生真の俳諧をいふもの一句もなし。蕉門の内に入て、世上の人を迷はす大賊なり。故に近年もつての外、集をちりばめ、世上に辱(はじ)を晒すも、もつぱらこの惟然坊が罪也。口すぎ世わたりの便りとせば、それは是非なし。惟然にかぎらず、浄瑠璃の情より俳諧を作り、金山談合の席に名月の句をあんずるやからも、稀にありといへども、これは大かた同門他門ともに本性を見とゞけ、例の昼狐はやし侍れば、罪もすくなからん。

 俳諧における論議がとかく漫罵に流れるのは、珍しいことでもないが、芭蕉歿後僅々数年にして、しかも同門より出づる評語としては、甚しきに過ぎたる憾(うらみ)がある。篤実なる去来がこれに答えて「雅兄惟然坊の評、符節を合したるが如し」といいながら異見を開陳したのは、むしろ当然であるとしなければならぬ。

[やぶちゃん注:「浄瑠璃の情より」浄瑠璃の義太夫節の一節の情趣の表現を安易に切り取って創造性も何もない。

「金山談合の席に」橘佐為氏は割注して『(賄賂か)』とされる。風流とは対極に位置する鉄気(かねっけ)が鼻を撲(う)つが如き怪しい大金の動く武家や商人の談合の場にあっての謂いであろう。

「昼狐」「ひるぎつね」で、昼間に図々しく巣の外へ出てくる狐の意から、「あつかましい人」や「きょろきょろとして落ち着きのない人」を謗ってい言う語。

「漫罵」(まんば)は漫(みだ)りにののしること。]

 去来の答弁はかなり長きにわたっているから、全文を引用するに堪えぬが、劈頭(へきとう)先ず「一生真の俳諧一句もなしといはんは、過たりとせんか。また大賊とは云ひがたからんか」といって、許六の説の感情に奔り過ぎたのを咎めている。去来の説に従えば、惟然は蕉門に入ること久しくして、芭蕉に昵近(じっきん)する機会が乏しかったのを、芭蕉最後の旅行に随遊した際、芭蕉は惟然の「性素にして、ふかく風雅に心ざし、能く貧賤にたへたる事をあはれみ」俳諧に導くことが切だったというのである。惟然の俳諧はこの間に長足の進歩を遂げたが、同時に芭蕉の感覚と、俳談とによって多少の迷[やぶちゃん注:「まよい」。]を生じた。惟然を迷える者とはいい得るが、自ら欺き人をたぶらかす者ではない、というのが去来の見解である。故に去来は撰集に関する許六の攻撃も誤解であるとし、事実を挙げて惟然のために弁じている。「口すぎ世渡りのたよりとせば、それは是非なし」という罵評に対し、「彼坊における、定て[やぶちゃん注:「さだめて」。決して。]この事なけん」といったのは、惟然の美点を認むるに吝(やぶさか)ならざるものがあったのだろうと思われる。

 けれども据傲(きょごう)なる許六は直にこれに承服しなかった。「再呈落柿舎書」の中に、次のような一節がある。

[やぶちゃん注:「据傲」驕(おご)り高ぶること。傲慢。

 以下の引用は底本では全体が二字下げ。]

二十四章惟然坊が評、猶以てさたなし。先生の論神の如し、一生真[やぶちゃん注:「まこと」。]の俳諧なしとは、予過論か、碌々たる石の中には、金に似たるものもあらん。

  世の中を這入かねてや蛇の穴

[やぶちゃん注:中七は「はいりかねてや」と訓じておく。]

は少し哀なる所もあり、これ坊素牛といへる時、藤の実といふ集を編り[やぶちゃん注:「あめり」。]。その時はさしたる事も無きやうに思ひ侍れども、この頃余りに集どもの拙き[やぶちゃん注:「つたなき」。]を見て、この集取り出し[やぶちゃん注:「いだし」。]見るに、中々頃日[やぶちゃん注:「けいじつ」。近頃。]の集に似たる物にもあらず、これは師在世したまふ光也(ひかりなり)。この藤の実専(もっぱら)洒堂が後見と見えて、奥の俳諧は珍碩(ちんせき)なり、丈艸(じょうそう)の手伝ひも見えたり、正秀(まさひで)が序文は丈艸の口なり、師の手伝とは見えず。

[やぶちゃん注:「予過論か」「よ、すぎたるろんか」と訓じておく。「私のそれは言い過ぎた論であろうか?」の意。本当は許六は反語的疑問として言っているのだが、直後に申し訳にそれほどでもない一句を挙げて「金に似たるものもあらん」とは「少し哀なる所もあり」とは糞のようない謂いだ。

「碌碌」石が転がっているさまも指すが、ここは平凡なさま、役に立たないさま、何事もなし得ないさまを言う。

「洒堂」「珍碩」同一人物で浜田洒堂(?~元文二(一七三七)年)のこと。初期は珍夕・珍碩とも名乗った。近江膳所の医師で、菅沼曲水と並んで近江蕉門の重鎮。元禄二(一六八九)年入門。努力の人で、元禄五年秋には、師を訪ねて江戸に上って俳道修業の悩みを訴えたりしている。後に大坂に出て専門の俳諧師となったが、薬種商で俳人の槐本之道(えもとしどう)との間で勢力争いを起こし、元禄七年、芭蕉はその仲裁のために大坂に赴き、取り敢えずの両者和解の直後に不帰の人となった。

「正秀(まさひで)が序文は丈艸の口なり、師の手伝とは見えず」水田正秀(みずたまさひで ?~享保八(一七二三)年)は近江生まれで大津膳所の湖南蕉門の有力な一人。通称、孫右衛門。藩士或いは町人であったとも言われ、後に医者となった。初めは尚白に師事したが、元禄三年秋に蕉門に入った。彼は膳所義仲寺に於ける芭蕉のパトロンでもあった。この部分は、「正秀の序文は丈草の口振りであり、丈草の手伝いどころではなく、正秀の代わりに丈草が全部代筆したものだ」と言いたいのである。]

 『藤の実』が出た時にはさほどにも思わなかったが、近年世間の俳書があまりに低下しているので、それに比べれば見上げたものだという説である。『藤の実』の価値は認めても、鉄中(てっちゅう)の錚々(そうそう)、庸中(ようちゅう)の佼々(こうこう)としか考えない。しかのみならず芭蕉在世の光とし、洒堂、丈艸ら手伝の賜(たまもの)とし、どこまでも惟然の力を減殺(げんさい)しようとかかっているのは、感情に偏する譏(そしり)を免れぬ。『藤の実』は元禄俳書の中でも出色のものである。許六、李由(りゆう)の撰に成る『韻塞(いんふたぎ)』の下風(かふう)に立つものではない。惟然の句も『藤の実』集中にすぐれた作品の少からぬこと、已に述べた通りであるにかかわらず、同書中の作は一も挙げることなく、僅に「蛇の穴」の一句を示して「碌々たる石の中には、金に似たるものもあらん」などと嘯(うそぶ)いているのは、公正なる批評とはいい得ぬであろう。この「蛇の穴」及(および)「磯際の波に鳴入いとゞかな」[やぶちゃん注:「鳴入」は「なきいる」。]「晩方(ばんがた)の声や砕(くだけ)るみそさゞい」等の諸句は、許六自身『韻塞』に採録したものである。これらの句が『藤の実』所収の句よりまさっているか否かは姑(しばら)く措(お)く。「一生真の俳諧なし」ということを頑守すれば、自らその句を採用した所以を弁じなければなるまい。すなわち前言を指して「予過論か」といい、自家撰集中より特にこの一句を挙げたものではないかと思われる。

[やぶちゃん注:「鉄中の錚々、庸中の佼々」鉄の中では、よい音のするもの。凡人の中で、少しすぐれている者を喩えた言葉。「後漢書」の「劉盆子」などに拠る。劉秀が降伏してきた敵将に対して、「卿所謂鐡中錚錚、傭中佼佼者也」(卿(けい)は所謂、鐡中の錚錚、庸中の佼佼たる者なり)「お前たちは鉄の中でも、多少は良い音のする鍛えたましな鉄材であり、平凡な連中の中にあっては、まあ、少しは優れている者ではある」と評した故事から。「鐡」は一般的で普通の金属を指し、「錚」は高価な或いはよく鍛えた金属が打ち当たった時に立てる涼やかな音の形容。相対表現で多少褒めたように見えるものの、多少はマシな存在だ程度の謂いである。特にここでの許六の謂いは以下で宵曲も批判するようにその極めつけに皮肉った雑言に近いものと言える。

「李由」河野李由(寛文二(一六六二)年~宝永二(一七〇五)年)は近江の生まれで同地の明照寺住職で蕉門の俳人。芭蕉とは特に親密な師弟関係を結んだ。許六と親しく、「韻塞」「篇突(へんつき)」などは彼との共同編集である。

「韻塞」李由・許六編。元祿一〇(一六九七)年刊。芭蕉三回忌に際して蕉門の規範を示すべく編集されたもの。彦根を中心に諸家の発句や連句・俳文を収め、許六と芭蕉の交流を伝える。

「いとゞ」前が「鳴入」(なきいる)であるから、ここもやはりカマドウマではなく、コオロギ。

「みそさゞい」スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes。漢字表記は「鷦鷯」。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 巧婦鳥(みそさざい) (ミソサザイ)」を参照されたい。小さな体の割りには声が大きく、囀りは高音の大変に良く響く声で「チリリリリ」と鳴く(引用元で音声が聴ける。私は彼の囀りが好きだ)。また、地鳴きで「チャッチャッ」とも鳴くが、私は「砕(くだけ)る」という感覚に合うのは囀りしかないと思う。]

 惟然に対する許六の非難は必ずしも以上を以て尽きず、惟然を引合に出すごとにこれを攻撃したというよりも、むしろ攻撃せんがために惟然の名を持出すかと思われる位である。某(なにがし)の集に

 閑なる秋とや鮹も壺の中        惟然

[やぶちゃん注:「しづかなるあきとやたこもつぼのなか」。]

を収めたことを難じて、「是師の句の下手なるもの也。予が集の時も、この句かきておくれり。大きにいやしみ我党は小便壺へかいやり捨るなり」といえるが如き、彼の筆は常に一種の毒気を含んでいる。何故にこれほど目の敵(かたき)にしなければならなかったか。湖東の天刑子の眼孔もまた僻(へき)せりといわなければならぬ。

[やぶちゃん注:この句は無論、芭蕉の「蛸壺やはかなき夢を夏の月」(私の『「笈の小文」の旅シンクロニティ――須磨~最終回』を参照されたい)へのオマジューである。それほどの句ではないが、「小便壺」に投げ込むというのは如何にも口を穢している許六自身、如何にも下品な物言いである。

「湖東の天刑子」許六のことを宵曲がその晩年に発症した病気から名指したものであろう。彼は彦根城下藪下生まれの彦根藩重臣で近江蕉門。晩年、宝永四(一七〇七年)年五十二歳の頃からハンセン病(旧癩病。皮膚変性が激しく、洋の東西を問わず生きながらにして地獄や煉獄の刑を受けているという意味で「天刑病」と呼ばれ、激しく差別され忌み嫌われた)を病み、同七(一七一〇)年に井伊家を辞し、家督を養子の百親に譲り、正徳五(一七一五)年に死去した。

「僻(へき)せり」「心がねじけている」「偏見に満ちている」「正しくない」の意。許六がハンセン病を患い、偏見に眼に晒されたであろう晩年を考えると、そうした他者への強いある種の偏見が、まさか自己に向けて照射されるとは考えていなかった彼を少し哀れにも私は感ずる。]

 前に引いた去来の「答許子問難弁」を読むと、芭蕉が惟然に教えた中に「俳諧吟呻(ぎんしん)のあひだの楽(たのしみ)なり。これを紙にうつす時は反故(ほご)に同じ」「当時の俳諧は、工夫を日ごろに積んで、句にのぞみてたゞ気先(きさき)をもって吐出すべし」「俳諧は無分別なるに高みあり」等の語があったと記されている。惟然はこれによって悟入すると共に、いささか迷[やぶちゃん注:「まよい」。]を生じたというのが去来の説であるが、這間(しゃかん)の消息を伝うべき例句は別に挙げていない。もし無拘束な惟然調なるものがこの辺[やぶちゃん注:「あたり」。]から顕著になったものとすれば、その可否は見る人によって異るであろう。朱拙が「生得の無為をたのしみて此為に塵埃をひかじとならむ」と評したのも、許六が徹頭徹尾罵倒したのも、時代からいえばほぼ同じ頃だからである。

[やぶちゃん注:「俳諧吟呻(ぎんしん)のあひだの楽(たのしみ)なり。これを紙にうつす時は反故(ほご)に同じ」真の芸術家の言う言葉である。「俳諧(芸術)とは魂を絞りに絞って詠吟する、その創作過程のプロセスにこそ楽しみがあるのであって、出来上がってしまった発句を紙に移し書いた瞬間、それは芸術作品としては何の意味も持たないゴミと同じである。」というのである。

「当時の俳諧は、工夫を日ごろに積んで、句にのぞみてたゞ気先(きさき)をもって吐出すべし」「吐出すべし」は「はきいだすべし」と読む。「現代の真の俳諧というものは、工夫を常に怠らず積みあげておいて、一句に対峙してただ荒々しい生の気の勢いの機先(きせん)を以って一気呵成に吐き出だすことが肝心である。」。

「這間」「この間(かん/あいだ)」の意。「這」には本来は「この」という意はない。宋代に「この」「これ」の意を漢字で「遮個」「適箇」と書いたが、この「遮」や「適」の草書体を「這」と誤認して混同したことに拠る慣用表現である。]

 芭蕉歿後における惟然は、多くの歳月を漂浪の旅に費した。

  広しまにて

 やがて花になる浦山や海苔日和  惟然(初蟬)

[やぶちゃん注:「やがてはなに なるうらやまや のりびより」。「初蟬」(はつせみ)は風国編。元禄九(一六九六)年刊。]

  周防岩国山の麓にて

 半帋すく川上清しなく雲雀    同

[やぶちゃん注:「周防」は「すはう(すおう)」、「岩国山」は「いはくにやま」、「半帋」は「はんし」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」の本句の評釈の中に、『元禄九』(一六九六)『年春、筑紫行脚の帰途、中国筋での旅中吟である。まだ余寒の残るころ、山国の川の流れはあくまで清く、雲雀はうららかに鳴いている――そんな山里では、名産の半紙を漉く光景が見られることだ』とある。「岩国山」は現在の山口県岩国市錦見(グーグル・マップ・データ)。標高二百七十七・八メートル。]

  長崎に入の吟

 朝ぎりに海山こづむ家居かな   同

[やぶちゃん注:「入」は「いる」。「家居」は「いへゐ」。「こづむ」は「一ヶ所に偏(かたよ)って集まる」「ぎっしりと詰まる」の意。]

  豊前小倉に舟つきて

 名月や筵を撫る磯のやど     同

[やぶちゃん注:「豊前」は「ぶぜん」、「筵」は「むしろ」、「撫る」は「なでる」。]

  象潟にて

 名月や青み過たるうすみいろ   同(菊の香)

[やぶちゃん注:底本では「象潟」は「きさかた」と清音。「うすみいろ」は「薄綠」で薄い緑色のことであろう。「菊の香」は風国編。元禄九一〇(一六九六)年刊。]

  湯殿山にて

 日のにほひいたゞく龝の寒さかな 同

[やぶちゃん注:「龝」は「あき」。秋。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 44 湯殿山 語られぬ湯殿にぬらす袂かな』を見られたいが、惟然は芭蕉の句を意識しながら、女陰秘蹟の山行に陽射しに嗅覚を以って応えたものと私は思う。]

  越中にて

 ゆり出すみどりの波や麻の風   同

  周防路を過るとて

 風呂敷に落よつゝまん鳴雲雀   同(鳥の道)

[やぶちゃん注:「過る」は「すぐる」、「落よ」は「おちよ」。「鳴雲雀」は「なくひばり」。]

  西国船かゝりの比

 あすのひのひより誉てや宵の月  同

[やぶちゃん注:「比」は「ころ」。「誉てや」は「ほめてや」。堀切氏の前掲書では、前書を「西國船(さいごくふな)がゝり」と読んで、『元禄八』(一六九五)『年秋、海路筑紫国(九州)に向かった折の吟である。明日の日和のよさを祝福するかのように、今宵は夕月夜がほの明るく照らしている、という意である』とされる。「宵の月」は「宵月夜(よひづきよ)」で、宵の間だけ月の出ている夜。特に旧暦八月二日から七日頃までの夜。また、その上弦の月を指す。宵のうちだけ月が見える。元禄八年ではグレゴリオ暦九月九日から九月十四日に相当するが、九日は新月なので見えぬから、八日から十四日。しかし厳密な宵月はその翌日の陰暦八月八日(グレゴリオ暦九月十五日)がこのロケーションのその日にするに正しいかと思われる。いつもお世話になっている「暦のページ」のこちらを参照されたい。]

  礪波山も程なく過て猶山そひ
  井波の麓にしるべ有まゝたづ
  ね入て

 真綿むく匂ひや里のはひり口   同

[やぶちゃん注:「礪波山」は「となみやま」。ここ(グーグル・マップ・データ)。「過て」は「すぎて」。「井波」は「ゐなみ」。現在の富山県南砺(なんと)市井波(グーグル・マップ・データ)。「有まゝ」は「あるまま」。「入て」は「いりて」。]

 いずれも芭蕉歿後数年を出でざる間の句である。前言の地名がこれを語っている通り、足跡の広きにわたる点においては固より芭蕉以上であろう。けれどもこれらの句は惟然としてその最高峯を示すものではない。『藤の実』以降の佳句に如(し)かぬのみならず

 どんみりと桜に午時の日影かな  惟然

[やぶちゃん注:「どんみりと」空の曇っているさま。「どんより」に同じい。「午時」は「ひる」。]

 曇る日や水雞ちらりと麦の中   同

[やぶちゃん注:「水雞」は「くひな(くいな)」。鳥綱ツル目クイナ科クイナ属クイナ亜種クイナ Rallus aquaticus indicus。全長二十三~三十一センチメートルで、翼開長は三十八~四十五センチメートル。体重百~二百グラム。上面の羽衣は褐色や暗黄褐色で、羽軸に沿って黒い斑紋が入り、縦縞状に見える。顔から胸部にかけての羽衣は青灰色で、体側面や腹部の羽衣、尾羽基部の下面を被う羽毛は黒く、白い縞模様が入る。湿原・湖沼・水辺の竹藪・水田などに棲息するが、半夜行性であり、昼間は茂みの中で休んでいるから、その景であろう。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 水雞 (クイナ・ヒクイナ)」を参照されたい。]

の如き、比較的平凡な句に比べても、なお物足らぬところがある。傾向として軌道を外れているというわけでなしに、どこか一点釘の緩んでいるような感じである。但(ただし)芭蕉生前の諸作と後の惟然調との間に、こういう中間的な時代のあることは、一顧を要するかと思う。

 惟然調を以て目せらるる句は、前に朱拙が『けふの昔』に引いたような種類のものであるが、なお少しく『惟然坊句集』によって実例を挙げる必要がある。

 梅の花赤いは赤いはあかいはな  惟然

 我儘になるほど花の句をさらり  同

 若葉吹く風さらさらと鳴りながら 同

  故郷の空ながめやりて

 あれ夏の雲又雲のかさなれば   同

 あそびやれよ遊ぼぞ雪の徳者達  同

[やぶちゃん注:「徳者達」は「たつしやたち」と読む。雪国の子らを詠んで、一茶の先駆者の面目を感じさせる句である。]

 水さつと鳥よふはふはふうはふは 同

 水鳥やむかうの岸へつういつい  同

[やぶちゃん注:「つういつい」の「つい」は踊り字「〱」であるが、韻律と語調から「つい」であると思われる。堀切氏も前掲書でそう詠むべきとされる。]

  芋鮹汁は宗因の洒落 奈良

  茶漬は芭蕉の清貧

 冬籠人にもの言ふことなかれ   同

[やぶちゃん注:「冬籠」は「ふゆごもり」。京都の一般家庭の惣菜料理として「おばんざい」という言葉が知られるが、これが使われた家庭料理本に幕末に出された「年中番菜録」という一冊があり、一説にはこの書から「おばんざい(御番菜)」が広まったとも言われるそうである。その「年中番菜録」で紹介された料理の一つが「芋鮹汁」で、この時代の「芋」は里芋でそれに蛸を合わせた味噌味の汁を言う。味噌汁としては意外な組み合わせであるが、参照したハムカツサンド氏のブログの「芋たこ汁」によれば、相応に美味いらしい。但し、「宗祇の洒落」というのは不詳。識者の御教授を乞う。

「茶漬は芭蕉の清貧」は芭蕉の三十八の折り、深川に隠棲した直後に記した「月侘斎(つきわびさい)」(延宝九(一六八一)年秋)の以下。

   *

 月を侘び、身を侘び、つたなきを侘びて、侘ぶと答へむとすれど、問ふ人もなし。なほ侘び侘びて、

 

  侘びて澄め月侘斎が奈良茶歌   芭蕉

   *

伊東洋氏の「芭蕉DB」の「月侘斎」の解説を引く。

   《引用開始》

 支考の『俳諧十論』によれば、芭蕉は、「奈良茶三石喰ふて後、はじめて俳諧の意味を知るべし」と弟子に語ったとある。ここに奈良茶とは、奈良の東大寺などで食する茶粥のことで粥の中に煎った大豆や小豆などを入れた質素な食事のこと。奈良茶歌とは、奈良茶を食いながらわび住まいの中で詠まれた歌という程度の意味であろう。一句中、月侘斎は侘び住まいの隠士で、芭蕉自らを指している。芭蕉修業時代の心意気を述べたものと解釈される。なお、この年延宝9年には16句が現存している。

侘ぶと答へんむとすれど、問ふ人もなし:言うまでもなく、『古今和歌集』在原行平の歌「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ侘ぶと答へよ」から引用している。

   《引用終了》]

 この種の句は『藤の実』時代の句が誰からも推奨されるのと異り、毀誉相半(あひなかば)するという結果になりやすい。その代り惟然らしいという点からいえば、頗る惟然らしいもので、容易に他人の廡下(ぶか)に立たぬだけの特色を具えている。俳諧は吟呻の間の楽で「紙にうつす時は反故に同じ」という言葉はこういう句の上に適切であるかも知れない。しかし惟然自身としては「工夫を日ごろに積んで、句にのぞみて、たゞ気先をもって吐出」したので、少くとも「無分別なるに高みあり」位の自負は持っていたであろう。この種の句が口を衝(つ)いて出ずるに及んで、「句をわるくせよわるくせよ、求めてよきはよからず、内すゞくば外もあつからじ」というような説法をするに至るのは想像に難くない。朱拙はそこが気に入ったらしいが、去来のような人から見ると、少し薬が利き過ぎた感がないともいえぬ。「水さつと」の句の外(ほか)、これらの句の出来た時代はよくわからぬけれども、もし「答許子問難弁」時代に当るものとすれば、去来の懸念も一応尤(もっとも)なわけである。

[やぶちゃん注:「廡下」廂(ひさし)の下。ある人の亜流。]

 但ここに列挙した中にも自らいろいろな種類がある。「若葉吹く」の句、「水さつと」の句、「水鳥や」の句などは、いい廻しが惟然的に自由なだけで、十分客観的な要素を持っている。「若葉」の句は『類題発句集』などには「若葉吹くさらくさらさらと雨ながら」となっており、雨が添えば更に変化を生ずるわけであるが、いずれにせよ爽(さわやか)な若葉の風を耳許(みみもと)に聞く思(おもい)がある。水鳥の二句にしても、畳みかけた俗語の使用によって、軽快な感じを現しているので、それがために動的描写の効果を収め得たのであるが、「あれ夏の」の句になると、そうは行かぬ。「雲又雲のかさなれば」の一語は、重畳たる夏雲の様を目に浮ばせぬではないけれども、故郷の空を望むという作者の主観が勝っているために、渾然として十七字に纏まりきらぬ憾(うらみ)があるかと思う。

 「梅の花」の句にしてもそうである。作者の興味は梅花の紅に集中されており、「赤いは赤いは」を繰返すあたり、無分別の尤(ゆう)なるものではあるが、俳句としては主観に傾き過ぎて、その梅の紅を読者の眼前に髣髴することが出来ない。田安宗武の「ひむがしの山の紅葉は夕日にはいよいよ赤くいつくしきかも」という歌は、同じく単純なものであっても、山を現し、夕日を現し、紅葉と相俟って一幅の画図をなしている。「赤いは赤いはあかいはな」は俳句として珍たるを失わぬけれども、真に成功したとはいい難いであろう。

「田安宗武」(正徳五(一七一六)年~明和八(一七七一)年)は第八代将軍徳川吉宗の第三子で国学者にして歌人。幼時から学を好み、初め荷田在満に国学を学び、後に賀茂真淵に師事した。歌人としても秀れ、また有職故実の研究者としても知られる。権大納言。

「ひむがしの山の紅葉」(もみぢ)「は夕日にはいよいよ赤くいつくしきかも」「紅葉」と前書する田安宗武の一首。]

 「あそびやれよ」の句は、句法の変化において「木もわらん宿かせ雪の静さよ」の句に似ている。ただ「木もわらん」の句が句法に伴って内容も変化に富んでいるに反し、「あそびやれよ遊ぼぞ」の繰返しには、それほどの妙味が認められぬ。『惟然坊句集』にはこの二句が並記してあるけれども、同じ場合の句ではなさそうである。

[やぶちゃん注:「木もわらん」国立国会図書館デジタルコレクションの「名家俳句集」では、

  越路にて

 薪も割らあむ宿かせ雪の靜さは

 あそびやれよ遊ぼぞ雪の德者達

とあり、前者は一本に座五を「靜さよ」とする。ここここ。]

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