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2020/05/18

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 惟然 四 / 惟然~了

 

       

 

 芥川龍之介氏は『続芭蕉雑記』の中で、惟然を評して「彼の風狂は芝居に見るように洒脱とか趣味とかいうものではない。彼には彼の家族は勿論、彼の命をも賭した風狂である」といい、更に附加えて「もし彼の風狂を『とり乱している』と言う批評家でもあれば、僕はこの批評家に敬意を表することを吝(おし)まないであろう」ともいった。桎梏(しっこく)を厭い、山野を恋うるの情は、何人といえども多少は持合せている。ただこれを実行に移すに及んで、惟然の如き勇気を持合せぬため、大概の人は首途に逡巡(しゅんじゅん)するのである。この意味から見れば、惟然は蕉門中最も芭蕉に近い一人といい得るであろう。『渡鳥集(わたりどりしゅう)』が集中の作者を国別にして挙げた中に、一処不住としたのは芭蕉、丈艸、支考、惟然、雲鈴(うんれい)の五人である。同じく一処不住であっても、支考と惟然との間には大なる径庭(けいてい)を認めなければなるまい。

[やぶちゃん注:以上は二ヶ所とも昭和二(一九二七)八月一日発行の雑誌『文藝春秋』に掲載された芥川龍之介の「續芭蕉雜記」(リンク先は私の「芭蕉雑記」及び「續芭蕉雜記」の「芭蕉雜記」の草稿を纏めた古い電子化)の「三 芭蕉の衣鉢」の中の一節。既に「惟然 二」の私の注で、その全文を示してある。

「桎梏」「桎」は「足枷(あしかせ)」、「梏」は「手枷」で、人の行動を厳しく制限して自由を束縛するもの。

「首途」「しゅと」或いは「かどで」と読む。元は「旅に出ること・旅立ち」で、転じて「物事を始始めること」の意にも用いる。

「逡巡」決断出来ずにぐずぐずすること。しりごみすること。ためらうこと。

「渡鳥集」去来・卯七編。丈草の跋文は元禄一五(一七〇二)年十一月、宝永元(一七〇四)年刊。

「一処不住としたのは芭蕉、丈艸、支考、惟然、雲鈴の五人である」但し、「芭蕉」は同書刊行の十年前に亡くなっている。「丈艸」は刊行時には没していた(元禄十七年二月二十四日(一七〇四年三月二十九日)没)が、跋文を書いているから問題はない。「支考」如きは論外だし、「雲鈴」は延宝二(一六七四)年~寛延四(一七五一)年)は堀内雲鼓の門人で京都に住んだと辞書にあるので、甚だ怪しい。

「径庭」「径」は「小道」、「庭」は「広場」の意で、二つのものの間にある懸隔が甚だしくあること。「荘子」の「逍遙遊」が典拠。]

 惟然は風狂のために家を捨て、妻子を棄てた。彼が芭蕉を喪(うしな)って後、その遺句をつらねた風羅念仏なるものを作って、「心の趣く所へはしりありく」うち、名古屋の町中で成人した自分の娘に遭遇した。この時

   両袖にたゞ何となく時雨かな    惟然

の句をいい捨てて逃れ去った事、娘が京都まで慕って来たと聞いて、自分の旅姿を画いた上に、

   おもたさの雪はらへどもはらへども 惟然

と題したものを人に托したまま、直に越路をさして走り去った事などは、惟然の生涯における最も有名な逸話で、同時に彼の風狂の如何なるものかを語る有力な資料になっている。その娘も遂に薙髪(ちはつ)して惟然の郷里に草庵を結ぶと、惟然も越路から帰って暫く起居を共にした。この辺は多少西行の俤(おもかげ)があるが、調度が七つしかないというので、その庵に弁慶庵と命ずるあたり、西行よりも洒脱な、平和なところがある。しかし折角の弁慶庵の生活も一年とは続かず、「又風雲の心おこりて風羅念仏を歌ひ浮れて走り出」てしまったのは、固より惟然の惟然たる所以で、彼は一切を捨てて風狂に身を委ねたのである。古え孔子の大聖を以てすら「七十ニシテ而従ㇾ欲スル不ㇾ踰ㇾ矩」といった。惟然のような天縦(てんしょう)の材が、心の赴くところに任せた迹(あと)を見て、常軌を逸したことを咎めるのは、そもそも咎める方が無理であろう。

[やぶちゃん注:前半の逸話の内容は既に「惟然 一」の私の注に電子化した伴蒿蹊著で寛政二(一七九〇)年刊の「近世畸人傳卷之四」の「惟然坊」にあるものだが(「風羅念仏」もそちらで説明した)、ここで宵曲が示した全体の原拠は惟然百回忌記念追善集として中島秋挙が編した「惟然坊句集」(曙庵秋挙及び朱樹叟士朗序・秋香亭巴圭及び三河宍戸方鼎跋・文化九(一八一二)年刊)の跋文によるものである。国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一〇(一九三五)年有朋堂刊「名家俳句集」の「惟然坊句集」を視認して典拠部分を示す。まず「心の趣く所へはしりありく」を含む箇所は以下。傍点「ヽ」は太字に代え、踊り字は正字化した。踊り字「ゝ」は「〻」であるが、濁点付きがあるので「ゝ」「ゞ」に代えた。

   *

  蕉像の事
  風羅念佛の事

翁の亡骸いとねもごろに粟津義仲寺に葬たてまつりて、幻住菴椎の木を伐りて、初七日のうちに蕉像百體をみづから彫刻し、之を望めるものに與へぬ。又「まづたのむ椎もあり夏木立降るはあられか檜笠 古池や古池や蛙とびこむ水の音南無アミダ南無アミダ」かゝる唱歌九つを作りて、風羅念佛となづけ、翁菩提の爲にとて古き瓢をうちならし、心の趣く所へはしりありく、そも風狂のはじめとぞ。

   *

「瓢」「ふくべ」或いは「ひさご」と読んでいよう。瓢簞のこと。続いて、自身の捨てた娘と遭遇した部分から最後まで。【 】は底本では二行割注。また、底本に載る本文中に記されてある真蹟「おもたさの雪はらへどもはらへども」の旅姿と一句の記された画像を補正してこの後に載せた。]

   *

  娘市上に父惟然坊に逢ふ事

坊風狂しありくのちは娘のかたへ音信もせず。ある時名古屋の町にてゆきあひたり。娘は侍女下部など引連れてありしが、父を見つけて、いかに何處にかおはしましけむ、なつかしさよとて、人目もはぢず乞丐ともいふべき姿なる袖に取付きて歎きしかば、おのれもうちなみだぐみて、

 兩袖にたゞ何となく時雨かな

と言捨てゝ走り過ぎぬとなむ。

  娘父を慕ひ都に登る事幷娘薙髮の事

娘父に逢はまほしくおもふ心明くれ已まざりけるを、ある時父都に在りと聞て、いそぎ都に登り、書肆橘屋何がしの家は諸國の風客いりつどふ處なれば、此家にゆきて問はゞ、父の在家もしらるべければとて、ゆきてあるじに逢ひていふやう、みづからは惟然坊といふものの娘にて侍る、父風雲の身となりてより、たえて音信なかりしを、さいつ頃ある街にてふと行逢ひ侍りていとうれしく、近くよりて過ぎこし程の事いひ出でむとし侍りしほどに、かきけすごとく遁れ隱れて、影だにみえずなり侍りつれば、いはむかたなく打歎きつゝ日數過しつるほどに、此ごろ都におはする由風のたよりに承りて、取るものもとりあへず、はるばる登り侍りぬ。父の在家知り給はゞ逢はせ給へ、いかでいかでと泣く泣く言出づれば、うちうなづきて、げにことわりなりけり、さらば尋ね求めて逢はせ參らせむとて、彼方こなたかけあるきつゝ、からうじて坊がありか尋ねあたりて、かくてしかじかのよしかたりければ、坊とかうの返事なく、硯とり出て[やぶちゃん注:「いだして」。]、墨すり流し、かゝる畫かきて、うへにほ句[やぶちゃん注:「發句」。]書ていふやう、あふべきよしなし、此一片の紙を與へて還したまひてよとて投出しつゝ、かくて其身は雪の越路の冬ごもりこそ好もしけれとて、うち立たむとしけるを、袖をひかへて引とゞむれど、ふりはなちて草鞋さへはかずして、越路をさして走りゆきぬ。橘屋何がしほいなく[やぶちゃん注:「本意なく」。不本意で期待外れに。]思ひけれど、せむすべもなく、かのかいつけたるを持て歸り來て、ありしことのよしを語りければ、むすめはたゞふしにふして泣きけり。あるじも共に淚にかきくれけるを、やゝありて娘頭を擡げて[やぶちゃん注:「もたげて」。]いふやう、かくまで淸き御こゝろを强ひて慕ひまゐらするは、わが心匠[やぶちゃん注:「たくみ」。思慮。]のつたなきなり、これぞ我身にとりてこのうへ無きかたみなるとて懷にいれて、いとねもごろにあるじに暇乞して、父のふるさとこそ戀しけれとて、關の里へかへり、みづから髻[やぶちゃん注:「もとどり」或いは「たぶさ」。]をはらひ、幽閑なる山陰の竹林に草の菴をむすび、かの都よりもて歸りたるを一軸となして、明暮父に事ふる心にして、かの一軸をぞかしづきける。坊かゝるよし越路にて聞て、遽に[やぶちゃん注:「にはかに」。]馳せ歸りて、かく染衣[やぶちゃん注:「ぜんえ」。僧衣。]の身となりぬれば、過ぎこし方の物語し、一椀の物をも分けつゝ食ひて、ともに侘住居[やぶちゃん注:「わびずまゐ」。]せむと、心うちとけて、多年の思一時に[やぶちゃん注:「おもひ、いつときに」。]はらし、かくて辨慶庵といふ額を自ら書て懸けつゝ、此庵の名としぬ。【調度七つをもて明暮の辨用とするゆゑとぞ】さるを一とせもたゝざるうちに、又風雲の心おこりて、風羅念佛を歌ひ、浮れて走り出ぬ。かくて播磨國姬路の里は親しき友多ければ、尋行てこゝに足とゞめしを、日あらずして病して終に姬路にて身まかりぬとぞ。

Omotasano

   *

この一句と絵は孤高の惟然の名品である。これはまさに山頭火の「うしろすがたのしぐれてゆくか」の遥かな真正の先取りであろう。

「七十ニシテ而従ㇾ欲スル不ㇾ踰ㇾ矩」「論語」の「爲政第二」の有名な一節。

   *

子曰、「吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲不踰矩。」。

(子曰く、「吾(われ)十有五にして學に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳(みみ)順(した)がふ。七十にして心の欲する所に從ひて矩(のり)を踰(こ)えず。」と。)

   *

「天縦」天が赦して恣(ほしいまま)にさせること。転じて、生まれながらに優れていること。天賦。]

 われわれは惟然の行蔵(こうぞう)を以て飽くまでも天賦の性によるものとし、こういう人物をも自分の翼(つばさ)の下に置いて自由に翺翔(こうしょう)せしめた芭蕉の包容力に敬意を表せざるを得ない。芭蕉さえ健在であったならば、惟然も風羅念仏を歌って浮れ歩く必要もなかったろうが、また一方から考えれば一たび芭蕉に遭い得たからこそ、風羅念仏を歌ってでも残生を全うしたのであろう。幸不幸は比較の問題である。芭蕉に別れた惟然の悲愁は同情に堪えぬけれども、芭蕉に遭い得なかった人、たとい遭い得ても彼の如く魂の契合を見出し得なかった人に比べれば、彼は遥に幸福であったといわなければならぬ。

[やぶちゃん注:「行蔵」進んで世に出て手腕を振るうことと、隠れて世に出ないこと。出処と進退。

「翺翔」鳥が空高く飛ぶように、思いのままに振る舞うこと。

「契合」合わせた割り符のようにぴったり一致すること。]

  翁身まかり給ひてふたゝび

  伊賀におもむく道中

 瘦顔のうつりて寒しむらの橋      惟然

[やぶちゃん注:「瘦顔」は「やせがほ」。]

  深川の旧庵に入て

 こゝらにはまだまだ梅の残ども     同

[やぶちゃん注:「残ども」は「のこれども」。]

  む月廿日あまりふかゝはの
  旧庵に入てこゝかしこなつ
  かしき事のみなれば

 鶯のなけば今朝尚おきられず      同

  芭蕉翁三回忌

 庵に寝るなみだなそへそ浦鵆      惟然

[やぶちゃん注:「浦鵆」は「うらちどり」。チドリ目チドリ亜目チドリ科 Charadriidae。博物誌や本邦の種群については「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴴(ちどり)」を参照されたい。]

  芭蕉翁七回忌追善

 空よそらさればぞ風の只寒み      同

[やぶちゃん注:元禄十三年十月十三日(グレゴリオ暦一七〇〇年十一月二十四日)作。芭蕉の忌日は「時雨忌」とも呼ばれる(「時雨」は旧暦十月の異称でもあり、芭蕉が好んで詠んだ句材でもあったことに拠る)が、この日はからりと晴れて、しかし、ただただ寒風ばかりの吹き抜ける寒々とした日であったものを、『空よ! そら! 今日はさても! かの芭蕉翁の「時雨忌」にてあらせらるるのだぞ!』と擬人法で呼びかけているである。「寒み」「み」は形容詞の語幹に付いてその状態を表わす名詞を作る接尾語で「寒い日和」の意。]

  芭蕉忌

 摺小木も飛て廻るか散木葉       同

[やぶちゃん注:「摺小木」は「すりこぎ」、中七座五は「とびてまはるかちるこのは」と読んでおく。芭蕉庵に散る木の葉と同じように、使う主もいないぶら下がった擂粉木が凩に吹かれてくるくると廻るという淋しい情景か。]

 こういう芭蕉歿後の作に、しみじみとした追慕の情を感ずるものは、勿論われわれだけではあるまいと思う。けれども静にその作品の迹をたずねると、芭蕉歿後の惟然は必ずしもいい道ばかり辿っているわけではない。許六が漫罵を逞(たくま)しゅうした『青根が峯』時代よりもむしろ後において、惟然の作品は「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の感を与えるものが多くなっている。

 きりぎりすさあとらまへたはあとんだ  惟然(きれきれ)

[やぶちゃん注:「きりぎりす」私はしばしば行われている古典で一律に「きりぎりす」を現在の「コオロギ」の古名とする立場には異を唱える人間であり、それについては私のオリジナルな考察を「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」の注で行っているので、是非、参照されたい。但し、一般人にとって分類の必然性がなかった中古・中世に於いて、「鳴く虫」の総称として「きりぎりす」や「こほろぎ」があり、それらが互換性を持っていたというのであれば、正しい。特に音数律に於いて「きりぎりす」の五音が歌語・俳語として使い勝手が良かったことから、事実はコオロギの鳴き声であっても「きりぎりす」と詠み込んだ可能性は大いにある点で中古・中世には特に雅語・歌語・俳語としてその逆転現象が優位であったとは思われる。しかし、では――古典では「こほろぎ」は現在の「キリギリス」であり、現在の「キリギリス」は古典では「はたをり」と呼ばれていた――などと鬼の首を捕ったように国語教師が言うのは非科学的である。そもそもが「こほろぎ」は既に「鳴く虫」の総称として「万葉集」で七首に用いられており、そこでは如何なる虫かを限定出来ないのである。されば、奈良時代に「こほろぎ」が「秋の虫の鳴き声の総称」の地位から追われて、音律の都合がいい「きりぎりす」が「秋の虫の鳴き声の総称」とって変わったが、本草学が博物学的なレベルまで広がってくる近世、それも江戸前期には既に現在と同じ正しい「こほろぎ」と「きりぎりす」になっていた(少なくとも本草学者や生物に関心のある知識人にとっては)と考えてよい。実際、江戸中期の日本の正徳二(一七一二)年成立した類書(百科事典)である寺島良安の、私の電子化注「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 莎雞(きりぎりす)」「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」をみて戴きたい。挿絵から既に正しく描かれているのである。しかし、では、この良安と同時代人であった惟然の句の「きりぎりす」はキリギリスかと言われると、これは、それを捕まえんとしているシーンを思い浮かべる時、どうして室内の景であり、大きさや動きからもキリギリスではどうにも役者の図体がでか過ぎてだめである。ここは歌語の伝統を踏まえる俳諧からして現在の「コオロギ」と採らざるを得ぬと言える。

「きれきれ」俳諧選集「きれぎれ」。白雪編。元禄一四(一七〇一)年自序。]

 何とせう名月なれどなぐれたは     同

[やぶちゃん注:「なぐれたは」「なぐれる」は「横に逸れる」の謂いで、ここは、「何んということか! ほんに味わうに最もよき名月であるのに、自分が見ているここからでは一番よい筋から横にそれたように動いて行きおるが!」で、月が何かの影に隠れてしまいそうなのであろう。]

 暖さ水仙があゝ莟んだぞ        同

[やぶちゃん注:「莟んだぞ」は「つぼんだぞ」。「蕾(つぼみ)を持ったぞ!」。]

 おしめたゞはや浅瓜かこれはこれ    同(三河小町)

[やぶちゃん注:「これはこれ」の後の「これ」の部分は底本では踊り字「〱」であるが、当時の口語音律から考えて、かく正字化して読んだ。

「浅瓜」(あさうり)はウリ目ウリ科キュウリ属メロン変種シロウリ Cucumis melo var. utilissimus の別名。身が緻密であるが、味が淡白なため、奈良漬けなどの漬物としての利用が適している。種を抜いて螺旋状に切り、塩をして干したものは「雷干し」と称し、夏の風物詩であった。惟然は好物であったのだろう。それが恐らくもうさわに乾されていた景を見ての好物ゆえの妙に惜しむ感慨ででもあろう。

「三河小町」白雪編。元禄一五(一七〇二)年刊。]

 よい節供でござるどなたも菊のはな   同

 新麦かさらばこぼれをほつほつと    同

 何でやはひとりわらひは涼しいか    同

 ふんきつて尚悪うなくちる梅か     同

[やぶちゃん注:「何か、踏ん切って思い切ったようにはらはらと散る桜、何とも、それもなお……悪うはないなぁ……」。]

 朧でも月に何にもあらばこそ      同(はつたより)

[やぶちゃん注:「朧」は「おぼろ」。「月にしろ何にしろ、その存在のあらばこその『朧(おぼろ)でもよい』というものであるよ」という意か。

「はつたより」「初便(はつだより)」。知方編。元禄一五(一七〇二)年序・跋。]

 おらもはや霞む知る人もゝすかち    同

[やぶちゃん注:「初便」には「聳ものは」の前書がある。「聳(そびき)物は」で「聳き物」は連歌・俳諧に於いて季題分類の「天文」の内で「雲・霞・煙などの聳え棚引くもの」を総称する語である。「もすかち」は「燃す勝ち」で「燃やしているように霞んで見える」の謂いか。]

  三栄軒の三字は二百才にたらざる
  寿老の手跡にこそ、窓前松あり菊
  ありながら再久世のおのおのに対
  面すといふことば書ありて

 先あきよ月をたがひの無事ながら    同(花の雲)

[やぶちゃん注:「三栄軒」不詳。以下、前書き全体も意味が判らない「再久世」は「ふたたび、くぜ」で「久世」は人名と思われるが、これも判らない。「先」は「まづ」か? 句の意味も判らぬ。識者の御教授を乞うものである。

「花の雲」千山編。元禄一五(一七〇二)年序・跋。]

  致景は作の内久世といふながれにこそ

 奪合ふものいちごから水雞から     同

[やぶちゃん注:「致景」は絶景の意だが、前の句の前書の「久世」がまた出現してこの前書の意味も不明。句の意味も不明。「いちご」は「苺」に「一語」を掛けたか。

「水雞」は「くひな(くいな)」。鳥綱ツル目クイナ科クイナ属クイナ亜種クイナ Rallus aquaticus indicus「惟然 三」で既出既注。]

  人丸の社頭を拝す

 やんはりと海を真向の桜の芽      同

[やぶちゃん注:現在の兵庫県明石市人丸町(ひとまるちょう)にある柿本大明神とも称される柿本人麻呂を祀る柿本(かきのもと)神社(グーグル・マップ・データ)。創建史はウィキの「柿本神社」を参照されたいが、ここの境内には「盲杖桜(もうじょうざくら)」がある。これは『筑紫国から参拝した盲人が、社頭で「ほのぼのとまこと明石の神ならば我にも見せよ人丸の塚」と詠じると、神験によって眼が開いたためにそれまで突いていた杖が不要となり、これを地に刺したところ、それが根付いたという桜の木。当地における杖立て伝説を示す』(サイト「神話の森」の「歌語り風土記」の「柿本神社 盲杖桜」には今少し経緯のある(和歌の歌い直し)話が載る)とあり、『境内は明石海峡を望む』淡路島を正面に見る『「ほのぼのと」の歌に相応しい景観を提供する地であるが、日本標準時子午線(東経135度)が通るのに因んで社前の山腹に明石市立天文科学館が建てられ、その高塔が聳えているため視界が一部遮られている』とあるから、惟然のこの一句もその和歌と致景に杖立伝承をインスパイアしたものであることが判る。]

  わらぢ解里は鴨方となん、その家

  あたらしう三つば四つ葉になど

 覚ふぞ十七日の夏の月         惟然(二葉集)

[やぶちゃん注:「解」は「とく」。「覚ふぞ」は「おぼえふぞ」。

「鴨方」恐らくは岡山県浅口市鴨方町(かもがたちょう)鴨方(グーグル・マップ・データ)であろう。

「三つば四つ葉になど」意味不明。

「十七日の夏の月」「十七日」は「とをなぬか」と読んでおく。立待月(たちまちづき)である。

「二葉集」(惟然編・元禄一五(一七〇二)年刊)は後で振られているが、現代仮名遣で「じようしゅう」と読む(歴史的仮名遣では「じえふしふ」)。]

  兀峰亭にて

 涼しいか草木諸鳥諸虫ども       同

[やぶちゃん注:「兀峰」桜井兀峰(ごっぽう 寛文二(一六六二)年~享保七(一七二二)年)は近江出身で備前岡山藩士。通称は藤左衛門・武右衛門。元禄五(一七九二)年に江戸勤番となってより、芭蕉に学び、其角・嵐雪らと交わった。]

  道は水のながるゝがごとくものと
  あらそはざれば、おのづから麦も
  あからむ時あれはなり。只潜竜を
  もちゆる事なかれと、浪々士禿峰
  のもとにおくる

 おのづからおのづからこそ雲の峯    同

[やぶちゃん注:「潜竜」「せんりよう(せんりょう)」。「せんりゆう(せんりゅう)」でもよい。池や淵に潜んでいて未だ天に昇らない龍の意で。しばらく高い位に就かずに敢えてそれを避けている人。世に出るに相応しい機会に未だめぐり逢わない英雄の謂い。

「禿峰」人物不詳。故に前書きの意味も「潜竜をもちゆる事なかれ」の部分が却って判らない。であるから、句自体も半可通である。]

 この雪に何がなとかく座禅かよ     同

  兵庫に入吟

 つげてくるゝ最とまれとや雉子の声   同(当座払)

[やぶちゃん注:「入」は「いる」。「最」は副詞の「もう」である。

「当座払」(たうざはらひ:千山編。元禄一六(一七〇三)年自序。]

 新麦で先しつとりと誰が命       同

[やぶちゃん注:「先」は「まづ」、「誰が」は「たが」。五座は自身を外化して卑称化したものであろう。]

 鮠ならば松茸ならば嘸や嘸や      同

[やぶちゃん注:「鮠」]は「はえ」(「惟然 一」で既出既注)、「嘸や」は「さぞや」。]

 『きれきれ』は元禄十四年、『三河小町』『はつたより』『花の雲』『二葉集(じようしゅう)』は共に十五年、『当座払』は十六年の刊行である。これらの句に著しいものは第一に俗語の駆使であるが、これは伊丹派にも同様の傾向があり、必ずしも惟然の擅場(せんじょう)と見るわけには行かない。ただこれを前に引いた「若葉吹く風さらさらと鳴りながら」「水さつと鳥よふはふはふうはふは」「水鳥やむかうの岸へつういつい」等の諸句に比べると、同じ俗語であっても効果に大分の相違がある。少くとも『三河小町』以下の諸書に散見する句は、この若葉の句乃至水鳥の句ほど、自然の趣を感ずることが出来ない。いわば惟然のひとり言(ごと)であって、この種のひとり言は動(やや)もすれば「ひとりよがり」に堕しやすいのである。

[やぶちゃん注:「伊丹派」「伊丹市」公式サイトの「伊丹風俳諧」によれば、『酒造業が盛んだった伊丹のまちでは、酒造家たちを中心に文芸が流行。「太くたくましい伊丹風俳諧」が起こり』、『その拠点だった俳諧塾「也雲軒(やうんけん)」には、西山宗因(そういん)や井原西鶴(さいかく)など諸国の俳人、文人たちが集い』、『そうした中に育った』のが、伊丹派の中堅とされる上島鬼貫であったとある。]

 惟然が芭蕉から教えられた「俳諧無分別」の語も、この辺に至るといささか横道に入り過ぎた嫌がある。「句をわるくせよく、求めてよきはよからず」という惟然の説も、徒(いたずら)に巧を弄する者に対しては慥(たしか)に頂門の一針であるが、句をわるくした結果が如上の作品に到達するとすれば、これも一考せねばならぬ問題であろう。生活の上において矩(のり)を踰(こ)えた惟然は、作品の上においても同じ轍(てつ)を蹈(ふ)んだ。それも惟然の特異な性格と相俟って、面白いと感ぜられる間はよかったが、ただ口を衝いて出るままを是(ぜ)とするに至っては、芥川氏のいわゆる「とり乱している」ものといわざるを得ない。

 歴史は繰返すという。中心人物の芭蕉を失った元禄俳壇は久しからずして乱離に陥った。俗語の濫用もまたその乱離の一現象である。ひとり惟然のみが好む所に偏したわけではない。『花の雲』『二葉集』『当座払』等の句集を執って検(けみ)すれば、皆滔々(とうとう)としてこれに赴く風のあったことを知り得るであろう。「和らかに女松(めまつ)生ひそふつゝじかな」「菜畠や二葉の中の虫の声」「藁(わら)つんで広く淋しき枯野かな」「よろよろと撫子(なでしこ)残る枯野かな」等の句に元禄期の最も雅馴なる傾向を示した尚白の如き作家ですら、『花の雲』になると、「見えましたお相撲見えた見えました」というような、たわいもない句を作っている。他は推して知るべしである。

[やぶちゃん注:「尚白」(慶安三(一六五〇)年~享保七(一七二二)年)は近江大津の人で医を業とした。姓は江左(こうさ)。本姓は塩川。初め貞門・談林の俳諧を学んだが、貞享二(一六八五)年に芭蕉の門に入った。近江蕉門の長老として、「孤松(ひとつまつ)」「夏衣(なつごろも)」などの俳書を編したものの、蕉風後期の展開について行けず、芭蕉から離反した。芭蕉より六歳つ年下。]

 俳諧が在来の連歌に対して新生面を開いたように、元禄に大成された蕉門の俳句なるものに新な展開を試みようとしたのが、惟然らの俗語駆使であったと解釈出来ぬこともない。また惟然は慥に俗語において或成功を収めている。但あまりにこれに偏するに及んで、無拘束の弊に堕したのである。俳句における口語の作品――今いう口語なるものは明治以後における言文一致的口語であって真の口気をうつしたものではない、その点からいえばむしろ俗語の天真なるに如かぬ――を論ずるならば、惟然は伊丹沢の作家と共に真先に挙げらるべきであろう。世人が一茶の俗語にのみ瞠目するのは、たまたまその限界の狭いことを証するに過ぎない。

 無分別を尚(たっと)び、無拘束を喜んだ惟然は、一方において無季の句をも作っている。

 うれしやなけさはねくさが生て出た  惟然(二葉集)

 船よふねこちがはやいか須磨の岡   同

これらは前のひとり言(ごと)的作品と類を同じゅうするもので、詩として成功したとはいい難い。われわれが以上の句に興味を感ずるのは、俳諧の拘束を脱しようとする運動が、元禄の昔から用語において口語(俗語)に傾く事、季を無視してかかる事の二途を出ない点である。惟然には破調の句もないではないが、大体において十七字を破壊するほどの傾向は認められない。『田舎句合(いなかのくあわせ)』『常盤屋句合(ときわやのくあわせ)』から『虚栗(みなしぐり)』を経て元禄の雅正に帰した当時からいえば、十七字破壊の如きはむしろ時代逆行の観があって、それほど新な意義を感じなかったのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「ねくさ」は「寢腐る」(だらしなく何時までも寝ている。一般には他人の寝ているのを罵って言う)を名詞化したものか。

「田舎句合」「田舍の句合」。其角編で延宝八(一六八〇)年序。

「常盤屋句合」「常磐屋句合之判」。杉風編で芭蕉判。延宝八(一六八〇)年奥書。

「虚栗」其角編。天和三(一六八三)年刊。]

 惟然の作品は比較的多くの俳書に散見するようである。これは彼の足跡が天下に遍(あまね)きにもより、その句の一風変っているにもよるが、またその人柄の天真愛すべき点も与(あずか)って力あるのではないかと思われる。秋挙は『惟然坊句集』を編むに当って必ずしも古俳書に拠らず、旅寝の折々に見たり聞いたりしたものを主としたようだけれども、句の佳なるものはほぼこれを集め、俗語の濫用に陥った時代のものは概ねこれを洩している。俳人としての惟然の面目は、殆ど『惟然坊句集』に尽くるといっても差支ない。以上惟然の句を説くに当り、爾余の作品に及んだのは、出来るだけ年代的に句作の跡を討(たず)ねようとしたに外ならぬ。蛇足的言説を咎められなければ幸(さいわい)である。

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