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2020/05/15

三州奇談續編卷之二 氣化有ㇾ因

 

    氣化有ㇾ因

 越中射水郡(いみづごほり)和田川といふあり。步渡(かちわた)りながら古戰(ふるきいくさ)の氣(き)あり。「木船の城」と云ふは、先段にも記す如く、地震の爲に地陷(おちい)りて今はなし。此城初めは石黑左近と云ふ者籠りし所と云ふ。其頃鎌倉將軍の御代と聞きし。其後和田合戰一亂終りて、木曾殿の妾(めかけ)巴(ともゑ)の前(まへ)、和田の家を出で遁れ來り、此石黑氏に寄宿して、此渡りに老死すと云ふ。故に越中多く「巴塚」と稱するあり。此和田川の川邊(かはべ)り蔓草(つるくさ)悉く力あり。葛(くづ)・蔦(つた)・葵(あふひ)・ぬかごの類(たぐひ)迄も、他に比すれば悉く肥えて甚だ異なり。山人(さんじん)葛などを以て柴を結び、或は重荷の「荷(にな)ひ繩(なは)」にして歸る。甚だしきものは蔓を以て、家居(いへゐ)のしまりにするともいへり。里俗

「是(これ)巴御前(ともゑごぜん)の執心なり」

とて「巴蔓(ともゑづる)」と云ふ、又妙なり。山中(やまなか)成(なる)べし。桃妖(たうえう)が

 山人の晝寢をしばれ葛かづら

と云ひて、ばせを翁の感を請けしは此咄(このはなし)に依りて案じたりと聞けり。

 又此渡りに德萬(とくまん)村と云ふあり。堂を建つるに、崇(たか)くして岩神(いはがみ)と云ふ產神(うぶすながみ)あり。此堂は岩を見立て、其上に堂を建つ。其岩年々大きくなり、五年許りにしては、堂を建て替へざれば堂傾くと云ふ。四十年許にては岩一倍に成りしを見ると、所の人の口實(こうじつ)なり。

 是は此里に往昔岩上德摩(いはがみとくま)と云ふ者住みにけり。領主などの如き者にやありけん。自ら身甚だ肥大にして、却りて是を愛す。召遣ふ所の婢妾奴僕(ひせうぬぼく)も、皆肥えふくれたる者にあらざれば愛せず。身終る迄是を求む。死して氣(き)岩に化すと云ふ。然れども何れの世なりけん、傳記とても傳はらず。俗諺と覺えたり。

[やぶちゃん注:表題は「氣(き)、化(か)するに因(いはれ)有り」と訓じおく。

「射水郡和田川」「西住の古碑」の注で示したように、現在の大門地区の西で庄川に合流する和田川(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の旧流路(現在とは庄川の流路自体が大きく異なる)。

「木船の城」「縮地氣妖」を参照。富山県高岡市福岡町木舟にあった木舟城。

「石黑左近」ウィキの「木舟城」によれば、元暦元(一一八四)年、木曾義仲に従って前年の「倶利伽羅峠の戦い」で活躍した越中国の豪族石黒光弘によって築かれ、以後、石黒氏が治めたとあって、鎌倉時代の事跡はよく判っていなようである。文明一三(一四八一)年八月、『越中国福光城主石黒光義が医王山惣海寺と組んで』、『越中一向一揆勢の瑞泉寺門徒らと戦うが』、『敗退(田屋川原の戦い)。光義ら一族は安居寺で自害し』、『石黒氏本家』は衰退し、『その後』、『徐々に木舟石黒氏が勢力を強め』た。天文年間(一五三二年~一五五四年)には『木舟城主石黒左近将監が越中国安楽寺城を攻めて城主高橋與十郎則秋を討っている』。永禄九(一五六六)年、『城主石黒成綱が一向一揆方の小倉六右衛門が拠る越中国鷹栖館並びに越中国勝満寺を攻め、これらに放火している』(中略)。後、天正二(一五七四)年七月、『上杉謙信に攻め落とされて臣従した』とあって、天正五(一五七七)年十二月二十三日に書かれたと考えられる「上杉家家中名字尽」に『石黒左近蔵人(成綱)の名が見える』とある。しかし、天正六(一五七八)年、『上杉謙信の死去を契機に成綱は上杉家を離反して織田信長方についた』。天正八、九年と二度に亙って『一向一揆勢の重要拠点で当時上杉方だった越中国安養寺御坊(勝興寺)を焼き討ち』にし、結果、『焼亡させているが、その直後に勝興寺の訴えを聞いた上杉景勝配下の吉江宗信によって木舟城は攻め落とされ』て奪われ、同天正九年七月に『成綱を始めとする石黒一門』三十『人が信長に近江国佐和山城へと呼び出されたが、その意図が彼らの暗殺である事に気づいた一行は逃走を図』ったが、『近江国長浜で丹羽長秀配下の兵に追いつかれて皆殺しに遭い、豪族としての石黒氏は滅亡している(成綱の子は後に加賀藩に仕えている)』とある。麦水は「初めは」と言っているが、彼の言う「石黑左近」はずっと後の、この石黒成綱(?~天正九(一五八一)年:通称は左近蔵人)との混同が生じていると考えるべきであろう。

「和田合戰」建暦三年五月二日から三日(ユリウス暦一二一三年五月二十三日~二十四日/グレゴリオ暦換算五月三十~三十一日)にかけて発生した鎌倉幕府初期の内乱。三浦義盛を筆頭とする和田一族が執権北条義時の策略によって滅ぼされた。その経緯と詳しい戦闘は、私の「北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白狀 竝 和田義盛叛逆滅亡」の、

〈泉親衡の乱〉

〈和田義盛の嘆願と義憤そして謀叛の企て〉

〈和田合戦Ⅰ 御所焼亡〉

〈和田合戦Ⅱ 朝比奈義秀の奮戦〉

〈和田合戦Ⅲ 和田義盛死す〉

を読まれたい。

「木曾殿の妾(めかけ)巴(ともゑ)の前(まへ)、和田の家を出で遁れ來り、此石黑氏に寄宿して、此渡りに老死すと云ふ」私の「北條九代記 坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍」を見られたい。そこで本文にブスの坂額(ばんがく:越後の平家方豪族で建仁元(一二〇一)年一月から五月にかけて実兄城長茂ら城氏一族が起こした鎌倉幕府への反乱に参加した女傑武将。但し、「吾妻鏡」の板額姐さんは超美人と出るから不当! なお、名前の表記は後世に「板額」に変化してしまう)と比較するところで、「和田義盛は木曾義仲の妾(おもひもの)巴女(ともゑ)を妻として、其力(ちから)を傳へて、淺比奈義秀(あさひなのよしひで)を生みたり。當時大力(ちから)の剛(がう)の者と世にその隱(かくれ)なし。是は美目善き女なり」と出るので、注をしてある。再掲する。ウィキの「巴御前」によれば、巴御前は義仲の妻と称されることが多いが、便女(びんじょ:武将の側で身の回りの世話をする下女。)であって、妻ではない(義仲は京で松殿(藤原)基房の娘藤原伊子(いし)とされる人物を正妻としている)。従って「妾(おもひもの)」という記載は正しい。一般には、義仲の討死の直前に別れて、消息不明となったとされるが、生きのびたのか、その消息は判らなくなったとされているが、「源平盛衰記」では、『倶利伽羅峠の戦いにも大将の一人として登場しており、横田河原の戦いでも七騎を討ち取って高名を上げたとされて』おり、『宇治川の戦いでは畠山重忠との戦いも描かれ、重忠に巴が何者か問われた半沢六郎は「木曾殿の御乳母に、中三権頭が娘巴といふ女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。乳母子ながら妾(おもひもの)にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず。今井・樋口と兄弟にて、怖ろしき者にて候」と答えている。敵将との組合いや義仲との別れがより詳しく描写され、義仲に「我去年の春信濃国を出しとき妻子を捨て置き、また再び見ずして、永き別れの道に入ん事こそ悲しけれ。されば無らん跡までも、このことを知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」と、自らの最後の有様を人々に語り伝えることでその後世を弔うよう言われ戦場を去っている。落ち延びた後に源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだ』。『和田合戦の後に、越中国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り』、九十一歳で生涯を終えた、という後日談が語られる。また、義仲と別れた際の彼女の年齢については、「百二十句本」で二十二、三歳、「延慶本」で三十歳程、「長門本」で三十二、この「源平盛衰記」では二十八歳としている、とある。

「蔓草」蔓(つる)植物。草本性蔓植物と木本性蔓植物がある。以下のクズ・ツタ及び「むかご」の本体植物であるヤマイモ類もそれらに含まれる。

「葛」マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ変種クズ Pueraria montana var. lobata

「蔦」ブドウ目ブドウ科ツタ属ツタ Parthenocissus tricuspidata

「葵」本邦では古くはアオイ目アオイ科 Malvaceae の内、概ねゼニアオイ属 Malva・フヨウ属Hibiscus に含まれるものを指すことが多い。

「ぬかご」本来は自然薯(じねんじょ=単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica)・長芋(ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea polystachya)などの葉腋に生ずる栄養体である緑褐色を呈する珠芽を指すが、ここはその本体の蔓部分。

「家居のしまり」家の戸締りのための内側の諸器具を固定する括り縄。

「山中(やまなか)成(なる)べし。」ここは句点ではなく、読点であるべきところ。「山中温泉でのことであるが、」と続くように読まないとおかしいからである。

「桃妖」(現代仮名遣:とうよう 延宝四(一六七六)年~宝暦元(一七五二)年)は俳人で加賀山中温泉の旅宿「泉屋」の主人。通称は甚左衛門。別号に桃葉。元禄二年七月二十七日(グレゴリオ暦一六八九年九月十日)にこの泉屋に到着して泊った松尾芭蕉から桃妖の号を送られた。但し、当時は未だ十三歳の美少年で、名は久米之助であった。享年七十六歳。著作に「首尾吟」。「石川県史 第三編」の「第三章 學事宗敎 第六節 俳諧」の彼の父でやはり俳人であった又兵衛の逸話と息子桃妖の話を載せるので(頭書「泉屋又兵衞 桃妖」)以下に引いておく。国立国会図書館デジタルコレクションのここ

   *

山中温泉の浴樓に泉屋又兵衞といひしものあり。諱は武矩、長谷部氏又は長氏を冐す[やぶちゃん注:「ばうす(ぼうす)」。姓を勝手に名乗る。]。洛の貞室曾て一面の琵琶を得たり。筐に南北と篆書し、四面に梅鶯鶴月の圖を描く。貞室之を愛すること深く、彼が山中に來りしとき日夕翫賞せり。又兵衞その名器なるに感じ、伊勢の望一が所藏したる南北にあらざるやと問ふ。貞室何を以て之を知るやを質しゝに、又兵衞は、望一が天滿宮に奉納せる獨吟百韻に、『梅ならば南の枝や北野殿。飛ぶ鶯の跡を老松。長閑なる光に鶴の羽をのして。月にほこりを拂ふ高窓。』とあるにより、所愛の琵琶を南北と名づけ、四絃を梅鶯鶴月と銘したることを以て答へたりき。是に於いて貞室は、自ら俳諧を知らざりしが爲に、田舍翁の愧かしむる[やぶちゃん注:「はづかしむる」。]所となりたるを思ひ、洛に歸りたる後、貞德に學びて遂に巨匠となれり。さればこの一村判詞を求むるものあるも、貞室は決して朱料を受くることなかりしといふ。この譚、奧の細道歴代滑稽傳に載せらるゝも、遲月庵空阿の俳諧水滸傳の記事を最も委しきものとす。芭蕉のこの地に至りて泉屋に泊するや、又兵衞既に死し、子久米之助家を繼ぎしが、彼は尚小童たりしも、能く俳諧を解したりき。芭蕉乃ちこれに桃夭の號を贈り、『桃の木のその葉ちらすな秋の風』と祝福せり。葢し詩經周南の桃之夭々其葉蓁々より採りしなり。而もこの後久米之助が常に桃妖の字を用ひたるものは、夭字に短折の義あるを忌みたればなるべく、楚常の卯辰集に桃葉に作り、句空の草庵集及び北枝の喪の名殘に桃蛘に作るも亦彼にして、所居を桃枝齋又は宿鷺亭といへり。その遠逝は寶曆元年十二月廿九日にして、周孝桃妖居士と諡せらる[やぶちゃん注:「おくりなせらる」。]、享年七十六。『山人の晝寢をしばれ蔦かづら。』『水鳥の藪に聲あり夜の雪。』等の吟あり。[やぶちゃん注:以下、次のページで、ここで突如別れることとなる曾良のその後の行程が書かれてある。]

   *

さても、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅』の、

「69 山中や菊はたおらぬ湯の匂ひ」

「70 桃の木の其の葉ちらすな秋の風」

「71 いさり火にかじかや波の下むせび」

「72 今日よりや書付消さん笠の露――曾良との留別」

「73 湯の名残今宵は肌の寒からむ――タドジオとの別れ」

も是非お薦めである。……芭蕉は元禄二年八月五日(グレゴリオ暦一六八九年九月十八日)、八日間も滞在した山中和泉屋を発った。……「奥の細道」では「曾良は腹を病みて、伊勢の國、長嶋と云ふ所にゆかりあれば、先き立ちて行く」とあるが、……事実は違っていて、「曾良随行日記」によれば、……金沢から見送りのために同道して山中温泉にも同宿していた立花北枝とともに、同日の『晝時分』に芭蕉が先に那谷寺へと発ち、……曾良はその後、程なく山中を発っているのである。……これは奇妙と思わない人の方がおかしいだろう。……そうして、何を隠そう、この桃妖の存在こそが、長い間同行二人であった曾良が、芭蕉とここで別れることになる原因を作っているのである。以上のリンク先でそれを見られたいのである。

「山人の晝寢をしばれ葛かづら」「石川県史」との齟齬でお判りの通り、本句は「續猿蓑」の「龝草」(しうさう(しゅうそう)/あきくさ)の部に、

 山人の晝寐をしばれ蔦かづら 加賀山中桃妖

の形で出るので「蔦」(つた)の誤りである。「山人」は「やまひと」或いは「やまびと」で、山男・山女・山姥(やまうば)・山童(やまわらわ)などの、山に住む人型妖怪の総称である。「ばせを翁の感を請けしは此咄に依りて案じたりと聞けり」と、まさに『桃「妖」にしてよく言い出したり』と芭蕉が諸手を挙げて喜んでいるさまが見えるようだが、それが前の「巴蔓」を元にして詠んだのだ、というのは少し出来過ぎた話で鼻白む感じが私はする。

「德萬村」現在の砺波市徳万(とくまん)(グーグル・マップ・データ)。芹谷の西方と南方に位置する。

「岩神と云ふ產神」個人サイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」の「五社神社」に、『この神社は県民公園頼成の森の西北西約2kmに鎮座しています。水田地帯の突き当たり、庄川が作った河岸段丘の下に鎮座するこの社の鎮守の杜は市保存樹林指定を受けており、遠くからその豊かさが確認できます。社名は「五社神社」ですが、入口の鳥居には「岩神」と刻まれた石の額が掲げられています』。『この社の南東約1kmに有る千光寺(真言宗)の守護神は、石動山の伊須流岐比古神社(五社権現)であったといわれ、昔の千光寺の参道入口は、庄川の方に1kmほど下った辺りにあったようなので、この社は明治の神仏分離で独立し、「五社神社」となった』ものか? とされ、『この社に案内は無く、御祭神・勧請年月・縁起・沿革等は全て不明』とある(写真有り)。他にも調べてみたが、そのような隆起現象は少なくとも現在は認められないようである。川の中のある種の堆積岩や激しい活動をしている火山地形ならいざ知らず、普通の沖積平野にあるただの岩が有意に成長肥大するというのは非科学的である。

「一倍」現在の二倍という意味か。

「口實」単なる言い草で事実ではない、の意か。

「岩上德摩」読みは『北日本新聞』の二〇一五年八月七日附の記事「岩のご神体すっきり 砺波・徳万の五社神社」に従った。そこに、『五社神社は古くから「岩神の宮」と呼ばれ、鳥居に「岩神」の社額が飾られている。同神社には「岩上徳摩(いわがみのとくま)」という長者の伝説があり、太っていた徳摩が亡くなった後で岩になり、その上に堂が建てられたという。岩は年々大きくなり、5年ほどで建て替えないと堂が傾いてしまうと伝わる。伝説は江戸期の加越能の奇談を収めた「三州奇談」に記されている』。『ご神体は神殿に安置され、1955(昭和30)年ごろにお身ぬぐいを行った後、地元住民も見ることができなかった。1913(大正2)年に近くにあった稲荷社が合祀されて100年が経つことから、毎年8月6日に行っている「六日祭」に合わせて、お身ぬぐいを行うことにした』。『手袋とマスクを着けた氏子が、拝殿と神殿をつなぐ階段を順番に上り、黒田紀昭宮司からおはらいを受け、ご神体の岩をきれいに拭いた。氏子の有志が神殿と拝殿、鳥居のしめ縄を奉納した』とあるから、御神体が事実、岩であることが判る。この記事以外に岩上徳摩という人物についてはネット上に情報はないようである。]

 又此隣村の芹谷の千杲寺[やぶちゃん注:ママ。後注冒頭参照。]の前には、細川勝光[やぶちゃん注:以下もママ。後注冒頭参照。]の塚あり。此所に稀れに兩面の蟹(かに)・蛙(かはづ)ありと云ふ。折々見たる者もあり。死したるを乾かして持ち傳へたる者もあり。怪しき物なりと聞えたり。今正しく索(もと)め得ざる故に測り難しといへども、此山の打越え飛驒の國の千杲寺[やぶちゃん注:ママ。後注冒頭参照。]は、兩面宿禰(りやうめんすくな)出でしこと年代記に見えたり。兩面の男子にして、這ひ步行(あり)くこと蟹の如しと聞えたれば、往昔若(も)し兩面蟹の見違へにや、心許なし。又思ふに、「細川勝光は其性(そのせい)蟾(ひきがへる)の化したるなり」と云ふ。今勝光が塚に蟾を出し、怪蟹(くわいけい)を出(いだ)すと聞くは、此氣の化したるも計り知り難し。變化(へんげ)は是より渠(かれ)に化し、渠又是に化せざれば、化の理(ことわり)叶ひ難しと聞きし故に、鱣(うなぎの)釣針を山の中に得たる話もあり。鶉(うづら)の猫に捕はれしも鼠へ戾りたる氣化(きくわ)にやあらん。

[やぶちゃん注:どうもこの部分、気に入らない。素人の私でさえ少なくとも後者の「飛驒の國の千杲寺」は「千光寺」の、「細川勝光」は「細川勝元」の誤りとしか思えないのに(孰れも本文中に二ヶ所もあるのに、である)、平然とこうしてあるということは、特に後者は有名人で気づかなかったはずがないとさえ思われてくるのである(日野富子の兄が日野勝光だが、室町史に冥い私でさえ間違いようはないぞ?!)。何故、ほかでは大々的に手を加えて校閲している日置謙氏がそれをかくもそのままにしておいたのかが大いに不審であり、不満であるからである。「杲」は「光」の書写或いは判読の誤りともとれなくもないが、千光寺は古く「千杲寺」と書いたなどとは公式サイトにも載らない。『堅いこと言わずに。「杲」には「日の光が明るいさま」の意があるからいいんじゃないか?』などとのたもう御仁がいるなら、それは絶対にダメなのである。何故かって? 「千光寺」の歴史的仮名遣は「せんくわうじ」、「千杲寺」のそれは「せんかうじ」で漢字としては意味は酷似するとは言えど、致命的に違う別な字であるからである。さあ! 万一、両方の千光寺或いは一方を嘗ては「千杲寺」と書いた、細川勝元ならぬ「細川勝光」という歴史上知られた人物が実在し、その人が勝元と同じくガマガエルの化身だったという証左をお持ちの方は是非とも御連絡戴きたいものである!

「芹谷の千杲寺」少なくとも現在は「千光寺」である。別名、千光眼寺。富山県砺波市芹谷にある真言宗芹谷山(せりたにざん)千光寺(グーグル・マップ・データ)である。ウィキの「千光寺(砺波市)」によれば、開基は大宝三(七〇三)年とされ、『彌勒山安居寺(南砺市安居)とともに砺波地方でもっとも古い寺とされる。浄土真宗の多い富山県にあって真言宗の寺院は珍しく、その中でも特に古い伝承と多くの寺宝を保持しており、越中真言の古刹として著名である。また、閻魔像を安置する寺としてもよく知られる』。『天竺(インド)の僧法道円徳上人』(後述される)『の開基。桓武朝以後』、七『代に亘り皇室勅願所であった。上杉謙信侵攻の際焼失。その後』、元和四(一六一八)年の『火事で再度被災した。豊臣秀吉の越中平定のとき、復興を命じ禁制朱印状(現存)を下した。以後加賀藩の祈祷所となり』、『寺領安堵され』、『現在に至る』。『法道仙人は天竺(インド)の霊鷲山に住む五百時妙仙の一人で、日本に渡来したという伝説上の人物である』。『法道開基の寺は北陸では能登の石動山や越後の米山、越中では砺波市の千光寺(真言宗)のほか、氷見市の大栄寺(浄土真宗)、上日寺(真言宗)、小矢部市の観音寺(真言宗)などがある』とある。

「細川勝光」以下の『「其性(そのせい)蟾(ひきがへる)の化したるなり」と云ふ』(「その本性(生まれつき与えられた真の姿)は人間ではなくヒキガエル(本邦固有種と考えられているヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus と考えてよい(以下に述べる中国産種はヒキガエル属ではあるが、別種である)。「卷之一 蛙還呑ㇾ蛇」に後足が一本の前足とで三本の蛙が登場したが、捕食されて欠損したものや奇形で幾らも自然界に実在はするが、中国では蝦蟇仙人(がませんにん)が使役する「青蛙神(せいあしん)」という霊獣(神獣)がこの三足だとされ、「青蛙将軍」「金華将軍」などとも呼ばれて、一本足で大金を掻き集める金運の福の神として現在も信仰されており、それを形象した置物も作られて売られている。ヒキガエルは妖怪としての巨大な怪獣であったり、妖気を吐いて人を誑かしたり、襲って食ったりする伝承や言い伝えは中国でも本邦でも枚挙に遑がなく、私のこの「怪奇談集」にも複数既出である。例えば、「北越奇談 巻之四 怪談 其十三(蝦蟇怪)」と、その次の「北越奇談 巻之四 怪談 其十四(大蝦蟇)」(驚くべき大きさの「仮面の忍者 赤影」で見たような巨大蝦蟇(がま)の挿絵有り)。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」も参照されたい)であり、それが人に姿を変えていたものなのだ」と言う)話から、これはかの「応仁の乱」の一方の張本で東軍総大将であった細川勝元(永享二(一四三〇)年~文明五(一四七三)年しかいないわけよ! だけどね! 麦水さんよ! 細川勝元の塚がなんでこないな場違いな所にあるのかを探らずして、突然、言い出すのはどう考えてもおかしいだろ?! 何の関係もなかろうが?! ネットで調べても、今、この砺波の千光寺に細川勝元の塚なんか、ないぜ? あったら、嘘臭くても、誰かが採り上げて「おや!?! コンナところに細川勝元の塚がある!?!?」と絶対書き立てるはずだもん! それともやっぱり「細川勝元」でなくて「細川勝光」なる別人だと仰せかい!?! 何んとか言えや! 麦水!

「兩面の蟹・蛙」顔を二つ持った蟹や蛙。頭部の結合双生個体奇形。ヒト・ヒツジ・ヘビなどで時に知られるが、カエルのケースは想像できる(三つの個体が腹部で一部が繋がってしまったまま成体になったカエルの国外の事例が動画(ニコニコ動画)で見られる。視聴は自己責任で)ものの、蟹の双頭というのは頭部自体が非常に狭いから、ちょっと考え難い。柄眼が四本並んでいるということか? それでも「National Geographic」の「動物の奇形:3つ目のカニ、双頭のカメ」(画像有り。自己責任で。但し、それほど衝撃的ではない)に『目が3つ、鼻が2つ、頭から触覚が1本生えている生き物がニュージーランドで見つかった。8月に「Arthropod Structure & Development」誌で紹介されたヤワラガニの一種で、学名Amarinus Lacustrisと呼ばれる沢ガニの珍しい奇形だ。「3つ目」のカニの奇妙な体と脳の異常は、複数の奇形が重なった結果だと思われる。まず、体の一部が2匹分存在するというシャム双生児(または結合双生児)の特徴として、第3の目がついている。また、カニは目を損傷すると新しい目を再生する能力があるが、それがこの場合はうまく再生できずに触覚となって生えてしまった』とある。しかし、この解説はやや不満がある。甲殻類の場合は、眼よりも遥かに触覚の方が生活するに際して利用度・必要度が高い。しかも触覚と柄眼は多くの種ではごく近くにある。そのため、再生領域の認識を誤るか、或いは確信犯で眼(柄眼)を一つ欠損した場合にはある程度の確率で同じ部分に触覚が再生してくるのである。この場合、それを再生不全・奇形と見るか、実用的な意味における補完再生と見るかは、研究者によって見解が異なるものと思う。私はその三本目の触覚の再生する事実を高校時代に生物の再生に係わる参考書で実験結果の図を見て以来、非常に印象に残って今も脳裏を去らないのである。私はそれを奇形再生・誤再生とは思わない。生物体自身が実用度を勘案した結果として選んだのがそれであって、それは立派な正常な補完再生であると考えるからである。なお、私は生物再生では全くのド素人ではない。私は高校時代に演劇部と生物部を掛け持ちしていたが、生物部ではイモリの手足を切断して再生実験を繰り返し行った。残念ながら、水槽の汚染を防ぐための抗生物質の投入が予算上出来なかったために、多くの個体を感染症のために死に至らしめてしまったが、中でも一体、体部の切断面から複数の指状のものが伸びてきて再生する様子を見せつつ、そこで再生がとまった個体があった。その子は永くそのまま元気に生きていた。

「怪しき物なりと聞えたり」奇怪な生きた生物体であると聴いている。「存在が怪しい物」=「偽物」の意ではあるまい。そういう意味で突き放した場合は、以下の「今正しく索(もと)め得ざる故に測り難しといへども」という謂い方はしないからである。

「此山の打越え」あのねぇ……南東の峨々たる山脈を幾つも越えて……五十四キロメートルも先にある寺をこうは言わないと思いますがねぇ……

「千杲寺」これも「千光寺」の誤り。飛驒千光寺が過去に「千杲寺」と書いた事実はない。岐阜県高山市丹生川町(にゅうかわまち)下保(しもぼ)にある真言宗袈裟山(けさざん)千光寺(グーグル・マップ・データ)である。なお且つ、前の芹谷の千光寺とは同じ真言宗であるだけで、何の関係もない。両面蟹や両面蛙と両面宿儺を牽強付会するには、遥かに遠く、遥かに無縁、遥かに致命的に馬鹿げている! 「千光寺」公式サイトから引用する(円空物の写真も有り、以下に出る「両面宿儺」像も見られる)。同寺は仁徳天皇の御代、今から1600年前に飛騨の豪族両面宿儺(りょうめんすくな)が開山し、約1200年前に真如親王(弘法大師の十大弟子の一人)が建立された古刹です』。『最近は「円空仏の寺」としても、その名は広く知られています』。『海抜900メートルの袈裟山に広がる寺の境内には、大慈門の近くに「円空仏寺宝館」があり、館内には64体の円空仏と寺宝の一部が展示され、年間2~3万人の拝観者が訪れます』。『仏教の寺院としては、平安時代に、嵯峨天皇の皇子で弘法大師の十大弟子の一人、真如親王が当山に登山され、本尊千手観音を拝し、法華経一部八巻と二十五条袈裟が奉祀されていたことから袈裟山千光寺と名づけ、自ら開基になりました』。『それ以来』、『高野山の末寺となり、「飛騨の高野山」とも呼ばれています』。『また、鎮護国家を祈祷する道場でもあったため、朝廷の帰依を受け、寺運は隆昌を極め、山上に19の院坊を持ち、飛騨国内に30ヶ寺の末寺をかまえていました』。『飛騨一宮神社の別当職も兼ね、天皇御即位の際には、国家安穏玉体安穏、万民豊楽、諸人快楽を祈念して一位の笏木の献上もしていました』。『ところが、室町時代に飛騨国内の内乱で一時衰退し、戦国時代に入り』、『永禄7年(1564年)、甲斐の武田軍勢が飛騨に攻め入った折、全山炎に包まれてしまいます。そして、諸伽藍や末寺、数万の経典儀軌等も悉く灰燼に帰してしまいました』。『しかし、本尊は守られ、その法灯は今も連綿として続いています。本尊は秘仏となっており、7年に一度御開帳があります』。『現在の堂宇は、江戸時代以降、高山城主金森長近公を始めとして、檀信徒や高山の旦那衆の力によって順次再興、建立されたものです』とある。ウィキの「千光寺(高山市)」も見ておこう。『両面宿儺像など、円空の手になる仏像が63体あり、円空仏の寺としても知られている』。『伝承によれば、仁徳天皇65年(伝377年)、両面宿儺が開山したと伝えられる。両面宿儺とは、『日本書紀』に拠ると、飛騨国に現れ、民衆を苦しめていた異形の人であり、朝廷が差し向けた武将・武振熊命(たけふるくまのみこと)により退治されたとされている。頭の前後に顔が二つ付いており、腕が前後一対の四本、足も前後一対の四本あるといわれている。しかし、飛騨国、美濃国では両面宿儺は伝説的人物であり、洞窟から現れた際、「我は救世観音の使現なり。驚くこと無かれ。」と村人に伝えたという』。『養老4年(720年)、泰澄により白山神社が開かれ、嘉祥3年(850年)頃、真如親王(弘法大師十大弟子の一人。俗名高岳親王。平城天皇第3皇子、嵯峨天皇皇太子)が開基する』。『天文年間、兵火で焼失し、天文15年(1546年)に桜洞城(現在の下呂市萩原地域に存在した城)城主三木直頼により再建されるが、永禄7年(1564年)に武田信玄の飛騨攻めにより』、『再度焼失する。天正16年(1588年)、高山城城主金森長近により再建される』。『貞享2年(1685年)頃、円空が千光寺に滞在し、両面宿儺像などを彫ったという』とある。さても、どこを見ても、越中の千光寺とは縁も所縁もない。因みに、私は大学生の時、父母とともにこの寺を訪れている。その時、丁度、その「円空仏寺宝館」が建築中であった。住職が親切に案内してくれ、特別にその竣工に近かった「円空仏寺宝館」の内部へも入れてもらい、既に運び入れてあった数体の円空仏も見た。父が頼むと、両面宿儺以下三体の写真の撮影も許可して下さった。その両面宿儺の衝撃は凄かった。それ以来、私は円空と両面宿儺の大ファンとなったのである。

「兩面宿禰」「両面宿儺」(現代仮名遣「りょうめんすくな」)の方が今は一般的だが、誤りではない(「宿儺」は「宿禰」とも書き、「足尼」「足禰」「少名」などとも書いて、本来は「すくね」の読みが一般的である。「すくね」は古代日本における称号の一つで、大和朝廷初期(三世紀~五世紀頃)にあっては武内宿禰のように武人・行政官を表わす称号として用いられていた。主に物部氏や蘇我氏の先祖に宿禰の称号が与えられた)。ウィキの「両面宿儺」によれば、彼は『上古、仁徳天皇の時代に飛騨に現れたとされる異形の人、鬼神で』、「日本書紀」においては武振熊命(たけふるくまのみこと)に『討たれた凶賊とされる一方で、岐阜県の在地伝承では毒龍退治や寺院の開基となった豪族であるとの逸話ものこされている』。「日本書紀」仁徳天皇六十五年丁丑(三七七年?)の条に以下のように両面宿儺が登場する(ウィキに拠らず、独自に示す)。

   *

六十五年。飛驒國有一人。曰宿儺。其爲人壹體有兩面。面各相背。頂合無項。各有手足。其有膝而無膕・踵。力多以輕捷。左右佩劒。四手竝用弓矢。是以不隨皇命。掠略人民爲樂。於是。遣和珥臣祖難波根子武振熊而誅之。

   *

以下、ウィキの『現代語訳』を示す。『六十五年、飛騨国にひとりの人がいた。宿儺という。一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ反対側を向いていた。頭頂は合してうなじがなく、胴体のそれぞれに手足があり、膝はあるが』、『ひかがみ』(「ひきかがみ」の音変化。膝の後ろの窪んでいる所。「膝窩(しっか)」「よぼろ」などとも呼ぶ)『と踵がなかった。力強く軽捷で、左右に剣を帯び、四つの手で二張りの弓矢を用いた。そこで皇命に従わず、人民から略奪することを楽しんでいた。それゆえ和珥臣の祖、難波根子武振熊を遣わしてこれを誅した』。『両面宿儺は、計八本の手足に頭の前後両面に顔を持つという奇怪な姿で描写される。神功皇后に滅ぼされたとされる羽白熊鷲』(はしろくまわし:筑紫の国に名を馳せた部族の長)や、「日本書紀」「風土記」に『しばしば現れる土蜘蛛と同様、その異形は、王化に服さない勢力に対する蔑視を込めた形容とも考えられる。仁徳記の記述は一般に、大和王権の勢力が飛騨地方の豪族と接触した』五『世紀における征服の事実の反映とされている』。『また、「ひかがみ」「かかと」が無いという描写から、脛当てを着け、つまがけ』(ここでは藁製の深い雪靴のことを指しているものと思われる)『を履いた飛騨の山岳民が想像されることもある』。「日本書紀」では『皇命に逆らう賊とされる両面宿儺だが、飛騨から美濃にかけての旧飛騨街道沿いには様々な伝承がのこり、その内容は』「日本書紀」のそれと『異なるものが多』く、例えば、元和七(一六二一)年の奥書を持つ「千光寺記」には、『高山市丹生川町下保にある袈裟山千光寺(高山市)の縁起が記されている』が、それによれば、仁徳天皇の頃、『飛騨国に宿儺という者があり、八賀郷日面(ひよも)出羽ヶ平(でわがひら)の岩窟中より出現した。身のたけは十八丈、一頭に両面四肘両脚を有する救世観音の化身であり、千光寺を開いた。このとき山頂の土中に石棺があり、法華経一部・袈裟一帖・千手観音の像一躯を得たという』。『同じく丹生川町日面』(ひよも)『の善久寺の創建も両面宿儺大士と伝え、本尊釈迦如来のほかに両面宿儺の木像を安置する』。『また、位山』(くらいやま:高山市一宮町内にある山。グーグル・マップ・データ)の『鬼「七儺」を、両面宿儺が天皇の命により討ったともされる』。『位山の付近には飛騨一宮水無神社があるが、享保年間に編纂された』「飛州志」では『神宝の一つとして「七難の頭髪」を挙げ、神主家の説として鬼神七難が神威により誅伐された伝承を記す』。『下呂市金山町の伝承』としては、「金山町誌」に『よれば、武振熊命が討伐に来ることを知った飛騨の豪族両面宿儺は、八賀郷日面出羽ヶ平を出て金山の鎮守山に』三十七『日間留まり、津保の高沢山に進んで立てこもったが、敗れて討死したという。これには異伝があり、出波平から金山の小山に飛来した両面宿儺は』三十七『日間大陀羅尼を唱え、国家安全・五穀豊穣を祈念して高沢山へ去った。故にこの山を鎮守山と呼び』、『村人が観音堂を建てて祭ったともいう』。『関市下之保の伝承』では、「新撰美濃志」に『引く大日山日龍峰寺の寺伝では、飛騨国に居た両面四臂の異人が、高沢山の毒龍を制伏したとする。その後行基が伽藍を創建し』、『千手観音の像を安置した。千本』檜『はこの異人が地に挿した杖が生い茂ったものという。或いはこの異人は、飛騨より高沢山に移ってのち、霊夢の告により観音の分身となったともいう。また』「美濃国観音巡礼記」では』『日龍峰寺の開基を「両面四手上人」として』おり、『この他に』も『両面宿儺を討った武振熊命の建立と伝わる八幡社が飛騨各地にある』。美濃や飛驒に点在する伝承は「日本書紀」の『記述に沿うものであっても、両面宿儺を単なる凶賊ではなく』、『官軍に討伐された飛騨の豪族とする。その』一方で、或いは『龍や悪鬼を退治し(高沢山・位山)』、或いは『寺院の縁起に関わる(千光寺・善久寺・日龍峰寺)など、地域の英雄にふさわしい活躍を見せている。大和王権に抗した古代の豪族を、その土地の人々が尊崇し続けてきたかのよう』に窺える部分が濃厚に感ぜられるのである。『とはいえ、伝説の多くは江戸時代以降に記されたものである。たとえ江戸期における信仰が在来の伝承に基づくとしても』、「日本書紀」に『登場する両面宿儺を寺院の創建と結びつけることは困難で』、『これらの伝説の起源については定説を見ないが、在地伝承に現れる両面宿儺に、王権によって矮小化され、観音信仰の蔭に隠れるようにして生き延びた英雄の名残を見いだし、位山を神体とする飛騨一宮水無神社の本来の祭神に想定する研究者もいる』とある。『日龍峰寺の縁起では、両面宿儺は身に鎧を着て、四つの手にはそれぞれ鉾・錫杖・斧・八角檜杖を持ち、その存在は救国の英雄だとされる。また至高神は双面神であるとする説があり、中国の武神である蚩尤(シユウ)に通じるという見方もある』。「日本書紀」の伝承については、仁徳天皇の時代は五世紀『前葉の時期であり、この時期に仏教が日本列島に到来したことは考え難く、また両面宿儺を退治したとされる武振熊命も仁徳朝より時期が少し早い成務天皇・応神天皇の時代に活動した武将であるため、伝承が全体として整合性がないと考えられる。しかし、両面宿儺伝承の記事は飛騨という地域の国史初見であり、現地に伝わる英雄伝承を考え合わせれば』、単なる『怪異伝承ではないと見る向きもある。これについて両面宿儺は双子(二人)の兄弟支配者を一体として表現した可能性も考えられ、また「宿儺」は「宿祢」(すくね、足尼)の敬称とも、斐陀国造の実質的な祖神である少彦名命を意味するとも考えられる』。『両面宿儺像は千光寺・善久寺・日龍峰寺などにあるが、いずれも頭の前後に顔があり、唐風の甲冑を着け斧や剣を帯びる。善久寺のものは合掌した手に斧を横に持ち韋駄天の像容に類似する。円空作と伝えられる像(千光寺蔵)は、二つめの顔が肩に並ぶ』。『ローマ神話のヤーヌスと外観上の類似(前後両面の顔)があるが、日本と地理的に近いのは、スマトラ西海のニアス島のシレウェ・ナザラタ(ロワランギの妹兼妻神)である。この神像は顔が二つ(かつ両性具有)として表現される』。『多面一身の神というだけなら』、「古事記」に『登場する伊予之二名島(四国島)・筑紫島(九州島)がそれぞれ四面一身の神として語られている』とある。

「年代記」上に示した「日本書紀」のこと。

「這ひ步行(あり)くこと蟹の如しと聞えたれば、往昔若(も)し兩面蟹の見違へにや、心許なし」両面宿儺についてどこにそんな記載があるのか? あんたが、前に出した両面蟹に合わせて作った穴(ケツ)の穴の小さいつまらぬ創作なんじゃないのかッツ?! 「心許なし」なのは、誰あろう、堀麦水! お前のことよ!

「細川勝光は其性蟾の化したるなりと云ふ」浮世草子作者で書肆の林義端(はやし ぎたん ?~正徳元(一七一一)年:もと京の両替商であったが、貞享二(一六八五)年に伊藤仁斎の古義堂に入門、元禄二(一六八九)年までには書肆に転業しているらしい。元禄五年に浅井了意の遺作「狗張子」に自ら序文を書いて板行し、それに倣って元禄八年に怪談集「玉櫛笥」(たまくしげ)を、翌九年に「玉箒木」(たまははき)を著している)の怪談集「玉帚木」の「卷之二」の巻頭に「蝦蟆(かへる)の妖怪」として出る。複数、活字本を所持しているのだが、山積みになって見当たらないので、国立国会図書館デジタルコレクションの国民図書株式会社編「近代日本文學大系」第十三巻の当該部を視認した。読みは一部に留め、踊り字「〱」は正字化した。読み易くするために段落を成形し、読点や記号も増やした。

   *

     蝦蟆の妖怪

 細川右京大夫勝元は、將軍義政公の管領(くわんれい)として武藏守に任じ、富貴(ふうき)を極め、威權を輝かし、凡そ當世公家武家の輩(ともがら)多くは、その下風(かふう)につき從ひ、その命を重んじ、敬ひあへり。かかりしかば、貸財・珍寶、求めざれども、來り集まり、繁榮日々に彌增(いやま)しにて、よろづ心に叶はずといふ事なし。

 その頃、洛西(らくせい)等持院(とうぢゐん)の西に德大寺公有(きんあり)卿の別莊あり、風景面白き勝地なれば、勝元、請ひ受けて菩提所の寺と爲し、義天和尙をもつて開祖とし給ふ。今の龍安寺(りうあんじ)是なり。

 勝元居宅の書院を引いて方丈とせり。この故に造作(ざうさく)の體(てい)、世の常の方丈とは變れり。

 勝元、元來、權柄(けんぺい)天下を傾(かたむ)けければ、私(ひそ)かに大船(たいせん)を大明國(だいみんこく)につかはし、書籍(しよじやく)・畫圖・(ぐわづ)・器財・絹帛(けんはく)の類(たぐひ)、かずかずの珍物(ちんもつ)をとり需(もと)めて祕藏せり。その時の船の帆柱は大明の材木にて造りしを、此の龍安寺普請(ふしん)の時、引き割つて方丈の牀板(とこいた)とせらる。その幅五尺ばかり、眞(まこと)に條理(でうり)堅密(けんみつ)の唐木(たうぼく)にて、和國の及ぶ所にあらずといふ。方丈の前に築山(つきやま)を構へ、樹木を植ゑ、麓には大きなる池あり、是は勝元自ら、その廣狹(くわうけふ)を指圖して、景氣おもしろく鑿(き)り開き給ふとなり。水上(すゐじやう)には鳧鴈(ふがん)[やぶちゃん注:カモとガン。]・鴛鴦(ゑんあう)、所得顏(ところえがほ)に羣れ遊び、嶋嶼(たうしよ)嶸𢌞(くわうくわい)[やぶちゃん注:高く廻(めぐ)ること。]して、松杉(しようさん)、波に映(うつ)ろふ、古人の、「綠樹影(かげ)沉(しづ)んでは魚(うを)木(き)に上る」と詠じけんも、こゝなれや。色々の奇石を疊みたる中(なか)に、勝れて大きなる石、九つあり。是れまた、勝元自ら配り置き給ふ。その作意絕妙なりとぞ。

 勝元、政務の暇(いとま)には、常に此寺に來り、方丈に坐して池中(ちちう[やぶちゃん注:ママ。])の景を詠め、酒宴を催し、殊更(ことさら)、夏の中(うち)、暑熱の頃は、しばしば池の邊に逍遙し、近習(きんじゆ)の人を退(しりぞ)け、たゞ獨り、ひそかに衣服を脫ぎて赤裸(あかはだか)になり、池水(ちすゐ)に飛び入つて暑さをしのぎ、しばらく、あなたこなた遊泳して立ちあがり、そのまゝ方丈に入つて打臥し、寐入り給ふ。

 ある年の夏の暮に、此の邊(あたり)を徘徊する山立(やまだち)の盜賊[やぶちゃん注:山を根城とする山賊。]ども七八人、此の寺に入り來り、ひそかに方丈の事をうかゞふに、人一人も見えず、いと物しづかなり。盜賊ども思ふやう、

『今日は管領も來り給はず、寺僧も他行(たぎやう)せしと見ゆ、究竟(くつきやう)一(いち)の幸(さひは)ひならずや、いでいで、しのび入つて財寶を奪はん』

とて、池の岸根をつたひ、隔(へだ)ての戶ども押し破り、方丈へはひあがらんとするに、おもひもよらず、座席の眞中(まんなか)に、その大きさ一丈[やぶちゃん注:約三メートル。]ばかりの蝦蟆(かへる)うづくまり、頭(かしら)を上げ、眼(まなこ)を見いだす、その光(ひかり)、硏(と)ぎたてたる鏡のごとし。

 盜賊ども、肝を消して絕入(ぜつじゆ)し、そのまゝ臥したふる。

 此蝦蟆、忽ち大將と覺しき人となりて、起ちあがり、傍(そば)なる刀、押取(おつと)り、

「汝等は何者ぞ、こゝは外人(ぐわいじん)の來(きた)る所にあらず。」

と大きに怒りければ、盜賊ども、怖れ戰(をのゝ)き、わなわな慄(ふる)ひけるが、

「まことは[やぶちゃん注:実に。ほんに。]盜人(ぬすびと)にて侍る。物の欲しさに忍び入りしなり。御慈悲に命(いのち)を助け給へ。」

と、一同に手をあはせ、ひれ伏したり。

 此の人、打笑ひ、

「しからば。」

とて牀(とこ)の間(ま)にありし金(こがね)の香合(かふがふ)を投げ出(いだ)し、

「汝等、貧困に迫り、盜竊(ぬすみ)するが不便(ふびん)さに、これを與ふるなり。かならず、只今見つけたる體(てい)を人に語ることなかれ、とくとく歸るべし。」

といへば、盜賊ども、香合を受けず、其のまゝ戾し、

「ありがたき御芳志なり。」

といひも敢(あ)へず、跡をも見ずして逃げ出でけり。

 遙かに年經て後(のち)、此盜賊の中(うち)一人(ひとり)、勢州北畠家に囚(とら)はれ、此始末をかたりけるとなり。

 抑(そもそも)此蝦蟆は勝元の本身(ほんしん)にて、かく、かたちを現じ、思ひかけず亂れ入りたる盜賊共に見つけられたるにや。

 然らずば、又、此の後(うしろ)の山中(やまなか)には、蛇谷(をろちだに)・姥ヶ懷(うばがふところ)などいふ木深(こぶか)き惡所もあれば、かゝる妖怪の生類(しやうるゐ)もありて出でけるにやと云ふ。

   *

「勢州北畠家」とは細川勝元(永享二(一四三〇)年~文明五(一四七三)年)と「応仁の乱」の前から抗争して京を追われ、伊勢から吉野に逃れて徹底抗戦し続けた畠山義就(よしひろ/よしなり 永享九(一四三七)年~延徳二(一四九一)年)であろう。

「鱣(うなぎの)釣針を山の中に得たる」読みはこれでは読めないので私が推定で施した。本邦ではかなり昔から「山芋変じて鰻となる」という俗説があった。ここはそれを反転させた諧謔であろう。面白くないが。

「鶉の猫に捕はれしも鼠へ戾りたる氣化にやあらん」これも俗説の「田鼠化して鶉となる」の諧謔。猫がウズラを襲うのは、ウズラの元のネズミの気が体から発散するからであろうか、というのである。但し、「田鼠」はネズミではなく、モグラだからこの洒落は厳密には不全に見えるが、実際、これは麦水に先行する蕉門の名俳宝井其角の句に「鶉かと鼠の味を問てまし」(「五元集」)があるので、広く田鼠が鼠に変換されていたものと見える(麦水より後代だが、小林一茶にも「飛鶉鼠のむかし忘るゝな」(「一茶句帖」)があるのを見ても、鼠が鶉に化すという言説は一般化していたのである。 なお、「田鼠化して鶉となる」は元は中国の「田鼠化爲鴽」で七十二候の一つである清明の第二候(現在の四月十日から十四日までの間に相当)を意味するもので、俳諧では晩秋のちゃんとした季題となっている。これは鶉が畑の麦の根元に巣食って(ここがモグラとダブる)、頻りに鳴くことに由来するようである。

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