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2020/05/01

三州奇談續編卷之一 靈社の御蟹

 

    靈社の御蟹

 放生津の町外れの松の本に古墳あり。里人桃井播磨守直常の塚と云ふ。直常北國に戰死すとは聞きしが、爰なりや猶考ふべし。

[やぶちゃん注:表題は「れいしやのおんかに」と読んでおく。

「桃井播磨守直常」南北朝時代の武将・守護大名で、足利氏一門にして家臣であった桃井直常(もものいただつね ?~天授二/永和二(一三七六)年)。ウィキの「桃井直常」によれば、『桃井氏は下野の足利氏の支族で、上野国群馬郡桃井(現在の群馬県榛東村、旧名桃井村)を苗字の地とする。1333年(正慶2年)には、桃井一族は新田義貞の鎌倉攻略戦に従軍したが、建武の新政崩壊後、武家方と宮方双方に分裂して南北朝動乱期を迎えた。特に武家方の桃井直常、直信兄弟は』勇将『として名を馳せた』。『足利尊氏に従い、延元元年/建武3年(1336年)頃に下野上三川城、箕輪城(国分寺町)を拠点に戦い』、『翌年(13377)には小山荘内の乙妻(乙女)、真々田(間々田)で北朝方の小山氏を助力するために派遣された軍監の桃井貞直として史料にあらわれる。下野国の茂木氏が桃井氏に属し南朝方と交戦していた。また高師冬らと常陸関城で北畠顕家ら南朝勢と合戦している。12月には南朝軍は鎌倉杉本の合戦で関東執事の斯波家長を壊滅させた際、北朝方の武将らと貞直は合戦から逃れている』。『延元3年/暦応元年(1338年)正月23日の青野原の戦いにも加わり、南都(奈良)で高師直軍配下として桃井兄弟として史料に見え、顕家軍を破り、河内に敗走させた。この際、桃井兄弟の配下で合戦により討たれた兵を葬った、または陣地を桃井塚と呼ばれた。この同年に若狭守護となる』。『興国元年/暦応3年(1340年)頃に伊賀守護、ついで興国5年/康永3年(1344年)に越中守護に補任された。越中に庄ノ城、千代ヶ様』(ちよがためし)『城、布市』(ぬのいち)『城、津毛』(つげ)『城を築き、越中支配の拠点とした』。『興国2年/暦応4年(1341年)324日、出雲国・隠岐国守護の塩冶高貞が京都を出奔すると、足利直義によって山名時氏と共に追討軍の主将に選ばれ、数日のうちに高貞を自害に追い込み、討伐を成功させた』・『正平5年/観応元年(1350年)に関東では南朝勢力が討滅されたころから』、『室町幕府内で尊氏の執事高師直と尊氏の弟直義との間に対立がおこり、10月には武力衝突に発展していった。(観応の擾乱)。この対立は尊氏と直義との抗争と変貌した。兄弟である桃井直信は高師直により所領が宛がわれ』、『正木文書(新田岩松文書)内の観応元年(1350年)1223日付、『高師直奉書』に岩松直国の安堵状に世良田右京亮に続いて桃井刑部大輔名で直信の名前が史料にみえ、直義方から尊氏方武将への引き込みの勧誘工作とみられる。直常は直義派の有力武将として北陸から入京して翌正平6年/観応2年(1351年)の打出浜の戦いで尊氏・高師直らを追い、引付頭人に補任された。しかし尊氏と直義の抗争が再発し、再び密かに上野国に戻り、勢多郡に苗ヶ島城を築き、(赤城山)麓を拠点に尊氏方と戦った。出身地桃井庄一帯は一族で尊氏方の桃井義盛の領地となっていた事、近隣の寺社勢力、榛名神社の社家も尊氏方に味方していた為、拠点を急峻な崖にある赤城山麓に勢力を持ったと考えられる。 正平6年/観応2年(1351年)正月15日には直義に属して越中の兵を率いて近江坂本に至り京都に入り』、『足利義詮と戦う。また上野国に戻り』、『直義方の長尾大膳とともに上野国那波庄(伊勢崎市名和)近辺、利根川辺りで尊氏方の宇都宮氏綱・芳賀禅可・益子貞正・山上氏、佐野氏らと戦)うも敗れ(上州桃井合戦)、『信濃国に徹兵し、11月に駿河国薩タ山で12月には相模国早河尻で尊氏軍と戦い、直義は敗れて降伏した。尊氏に降伏した直義が翌年鎌倉で2月に没すると、直常は行方不明となる』。『正平10年/文和4年(1355年)になると、直常は山名時氏らとともに直義の甥で養子の足利直冬を擁立して、反幕府武将や南朝勢力である越後国の南朝方をまとめていた新田義宗らと結び京都に進攻しようとしていた。12月に真冬の越前を越えて山城国に入り』、『如意嶽に陣して山崎に戦い、東寺などで合戦をした』(東寺合戦)。『洛中おいて度々攻防が繰り返され』、『二代将軍足利義詮が近江にのがれて京都に入り』、『洛中を占拠したが、再び勢力を盛り返した義詮に京都より追われた。 正平17年/貞治元年(1361年)6月には信濃より越中に至り』、『よしみの兵を集めて加賀の富樫介を攻める。以後も信濃・越中で合戦を続けたが、勢力の衰退は避けられず、鎌倉へ下向して鎌倉公方足利基氏の保護を受けた』。『正平22年/貞治6年(1367年)、基氏が没すると直常は出家、上洛して足利義詮に帰順した。そして斯波高経・義将父子の失脚(貞治の変)に伴い、弟の直信が越中守護に補された。しかし翌正平23年/応安元年(1368年)、斯波義将の幕政復帰と共に直信は越中守護を解かれ、直常は再び越中で反幕府の軍事行動を開始する。この際に元越中国司の井上利清と連携している』。『この期間にも南朝に帰順している』。『正平24/応安2年(1369年)412日に能登に入り、吉見氏頼の族将、頼顕、伊予入道らと戦う』。『建徳2年/応安4年(1371年)7月に直常は姉小路家綱の支援を受けて飛騨から越中礪波郡へ進出し、幕府方の越中国守護斯波義将、加賀国守護富樫昌家、能登守護吉見氏頼らと婦負郡長沢(現在の富山県富山市長沢)で直常方の長沢氏(土岐)一族らと共に合戦を行ったが大敗。さらに五位荘(富山県高岡市)の戦いでも敗北し、同年8月に同じく南朝方の飛騨国国司 姉小路家の姉小路尹綱を頼りに飛騨国へ撤兵、以後の史書からの登場も消えて消息不明となった』。『伝承として最期の地の候補が』幾つか『伝わ』り、①『元播磨隠棲』説『(上野国群馬郡桃井郷周辺)』(ここは実際の『直常の墓として信憑性が高いと考えられている』)、②『松倉城病死』説『(越中国新川郡松倉郷鹿熊)』、③『岩瀬城自害』説『(越中国婦負郡西岩瀬))』(ここが比較的放生津潟に近く、東へ五キロ半離れた神通川左岸である。但し『周辺には耕作地と墓地になっており』、『遺跡はない』とある。しかし、『この岩瀬城に越中守護斯波義将との戦いに敗れた直常が逃れて』、『この城も攻めたてられ』、『力及ばず』、『直常嫡子権太郎直政、四男康儀、桃井縫殿助庸治・鬼一十郎泰弘・岩瀬城主小出景郡、畠山重弘らと枕を並べ自害し』、『火をかけた』。『この際に直常子の直久は城から脱出し』、『直常の首を持ち去り』、『放生津(射水市)に逃げて、向かいの山に葬った。のち』、ここに柳井院(りゅうせんいん)と『呼ばれた寺が実在した、とあるが』、『関連する史跡が残っておらず』、『信憑性は低い』とある(太字下線は私が附した。これが本篇の「塚」とするものと一致すると考えてよかろう)。しかし、『西岩瀬海禅寺には直常形見と言われた『桃家之百夜露』という太刀と『桃花の鎧』という鎧が寺宝としてあった。直常の子孫が岩瀬近隣におり、弘治年間』(一五五五年から一五五八年)『に越中国に能登国より畠山義則が乱入』、『日蓮宗を深く帰依して人々に改宗を強いたため、これに反発し』、『寺院、土豪、村までが弾圧された。これを恐れて直常の子孫は武蔵国蕨まで逃れたという。この際、寺宝『桃花の鎧』が持ち出された。実際に埼玉県戸田市上戸田瑞光山海禅寺(明治時代住職越谷泰俊氏)はその別れた寺と伝える』(とあるのは寧ろ、ここでの自害説を信用出来る証左とも言えよう。④『長沢の戦い討死』『(越中国婦負郡長沢)』説(『越中守護斯波義将との戦いにおいて敗れ』、『子の直和が討ち死したと伝わるが』、『実際は直常が討ち死したと』するもので、『根拠として』、『その後』、『史料に登場しないことなど』による。『またこの際、飛騨に退いたのは直和とも』する)の四説が挙げられてある。]

 又此傍(かたはら)に靑塚と云ふあり。此塚の上の草冬に至りても枯れず。四時ともに靑しといふ。越中は嶺風(れいふう)烈(はげし)くして、白草原とも稱すべき地、風筋(かぜすぢ)としてまゝあり。此邊は風和(やは)らかなる所なり。然れども秋晚のうら枯さへ遁れ、衰への姿を顯はさずとや。いかなる若人の誓ひやこめけん、其昔床(ゆか)しきことなり。

[やぶちゃん注:「此塚の上の草冬に至りても枯れず。四時ともに靑しといふ」こうした場所は、全国にしばしば伝承として伝わる(一部のケースは所謂今の「ミステリー・サークル」みたような雰囲気がある)。例えば、「柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(47)「光月の輪」(2)」に、『薩摩薩摩郡東水引村大字五代の鏡野と云ふは、神代に、天孫、八咫鏡(やたのかがみ)を齋(いつ)き祀りたまふ處と稱す。此の原野の内に周圍一町ばかり、正圓にして、草の色、他處に異なる一區あり。四季共に茂りて、霜雪にも枯れず。又、年々の例として此の野を燒くに、圓き處のみは燒けずと云ひ、邑人(むらびと)、常に之れを尊(たつと)びて、牛馬を放ち繫ぐこと無し〔「三國名勝圖會」〕』とあるのがそれである。

「白草原」「しらくさはら」或いは「しろくさはら」か。但し、これは「靑塚」とは反対に、草原の中に一年中、草が生えないか、枯れたままである場所を謂うのであろう(よりこちらがミステリー・サークルっぽい)。しかし、現在、富山の民俗社会にこの語は生き残っていない模様であり、確認出来ない。なお、こちらは西洋で古くから「フェアリー・サークル」(fairy circle)などと呼ばれるものとかなり似ている。これは科学的に解明されており、「菌輪(きんりん)」と呼ばれる。ある種の菌類(茸(きのこ))が地面に環状或いは弧状をなして発生し、植物が枯れる現象で「菌環(きんかん)」とも呼ばれる。参照したウィキの「菌輪」によれば、『地中に菌輪が形成されると』、『その上層の草が枯死』する現象で、『これは、菌糸が草の根の表面を覆ってしまい、草が乾燥に耐えられなくなってしまうなどの理由による(菌の種類によっては、菌糸の表面に疎水性の物質を分泌するため)。他にも、菌類が土中の窒素源などの養分を使い果たしてしまうために草が変色する場合もある』とある。また逆に、『菌類の中には植物ホルモンの一種であるジベレリン』(gibberellin)『を産生する種もあり、この場合は逆に菌輪の周囲の植物の生育が異常によくなる現象が見られる。しばしば菌輪を形成する性質を持つコムラサキシメジから発見された2-アザヒポキサンチン(2-Azahypoxanthine,構造)にも、植物の成長を促す性質があ』るとあり、こちらで前の「靑塚」を説明することも可能かとも思われる。]

 又町中に諏訪の社には、今境地廣く、本社・拜殿など莊嚴(しやうごん)巍々(ぎぎ)として、別殿には一輿(いちよ)を入れ置く。是元祿の中頃より初まると云ふ。其謂れを聞くに、知る人數多(あまた)なり。此地初めは野なり。昔より神地とて田作りもせず。松・榎(えのき)生立ちて、町の小兒の遊び所なりし。然るに爰に小兒どもと共に遊ぶ白蛇あり。小兒共集り、

「諏訪樣諏訪樣」

と呼ぶ時は、必(かならず)穴より出で友とし遊べり。小兒走れば共に走り、

「輪になり給へ」

へといへば輪になり臥せり。

「穴に入り給へ」

と云へば穴に入る。

 或日小兒

「蟹を連れて出給へ」

と云ひしに、百五十疋許の澤蟹(さはがに)を引連れ出遊(いであそ)ぶ。折節は雨蛙をも引連れて、小兄と共に遊び戯る。

[やぶちゃん注:「諏訪の社」放生津潟近くの諏訪社は二つ現認出来る。一つは四日曽根諏訪社で、今一つはその南西直近の新町諏訪社である(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。両社は近く、同じ富山県射水市中央町内にあるが、情報が少なく、孰れがそれかは判らない。前者は個人サイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」のこちらによれば、『江戸時代初期に三日曽根村から四日曽根村が分村した時に、四日曽根神社は三日曽根神社』(やはり近く、ここ。前二社の北西の射水市本町にある)『から分霊勧請したのが創建と言う』とある。一つ気になるのは、新町諏訪社の社地には新湊曳山祭の新町曳山車御蔵がある(グーグル・ストリート・ビュー。奥にあるのが新町諏訪社で境内であることが判然とする。寧ろ、反対側に画像を向けると、四日曽根諏訪社なのだが、道を隔てているばかりでなく、不愛想な壁が設置されていることから、こちらとの関係性は断たれているように見える)ことである。但し、これがここに出る「一輿」であるとは一概には言えない。ただ、「新湊歴史ヒストリア Vo lume 3」の「新湊放生津曳山さんぽ」PDF)の同曳山の記載を見ると、この新町の大きな曳山は正徳五(一七一五)年に創建とあり、以下の元禄中頃からはかなり近いから、これがその「輿」の後身である可能性は非常に強いのでは? と思われるのである。

「巍々」厳(おごそ)かで威厳のあるさま。

「元祿の中頃」元禄十七年までで、一六八八年から一七〇四年まで。

「白蛇」諏訪明神とされている建御名方神(たけみなかたのかみ)は蛇神ともされ、また、出雲(国つ神)系の神はおしなべて蛇神であることが多い。但し、後に出る蟹とは、私の知る限りでは諸伝承や民話・説話では相性が悪く、蛇の化身の男に襲われた娘を蟹がずたずたにきって助ける報恩譚がすぐ想起される。「大日本國法華驗記」・「日本靈異記」・「三寶繪詞」・「今昔物語集」と枚挙に遑がないが、そうした先行作については私の「諸國百物語卷之四 十二 長谷川長左衞門が娘蟹をてうあひせし事」の注を見られたい。

「澤蟹」節足動物門甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目カニ下目サワガニ上科サワガニ科サワガニ属サワガニ Geothelphusa dehaani であるが、ちょっと不審である。本種は日本固有種で、一生を淡水域で過ごす純淡水性のカニで、河川の上流域から中流域にかけて生息し、こんな海辺や汽水湖に近いところには棲息しないからである。ロケーションから見ると、モクズガニやアカテガニが相応しく、体色の一部の共通性から、私はこれはイワガニ上科ベンケイガニ科アカテガニ属アカテガニ Chiromantes haematocheir を指している可能性が濃厚と判断する。誤認というよりは、総じて赤みを帯びた蟹をかく呼称していたであろうと推定するものである。

「雨蛙」両生綱無尾目カエル亜目アマガエル科アマガエル亜科アマガエル属ニホンアマガエル Hyla japonica。]

 或日近里(ちかきさと)の一百姓來りて、小兒の敬ふを嘲り、

「神如何(いかん)ぞ汝と共に遊ぶべき」

と、彼(かの)蛇を熊手に懸け投捨てたり。

 忽ち此百姓足はれ痛みて、身もだヘ[やぶちゃん注:ママ。]すること八轉九倒、纔(わづか)に三十步許りを去り得て、神地と町地との間に死す。

 是に依りて人々大いに驚き、彌々(いよいよ)小兒を賴みて神の怒りを詑び、踊り等を催して神を慰め、一社を建立して、小兒三人を撰びて此神主分と定む。

 告(つげ)ありて、

「町中の火を防ぎ、疫病を除かん」

となり。此時より次第に里人尊びて、年每に宮居大となれり。

 然れども本社の中に、三尺許の白蛇となりて居給ふ故、里人ども恐れず。折々戶帳(ととばり)を開きて内を覗き、近鄕の見ものとする程に、神主分の町の者、此蛇に申しけるは、

「威なくんば人驚かず、恐れずんば人崇(あが)めず、今の世菊池寂阿入道如き武勇の人も稀なり、神大蛇(をろち)となりて覗く人を追ひ給へ」

と云ひしが、或日近鄕の者、幸(さひはひ)に不敬の事をなせしに、忽ち大蟒蛇(おほうはばみ)出來りて、林木を鳴らし追ひ懸けしかば、此者魂(たましひ)を失ひ肝を消して、逸足(いつそく)出(いだ)して逃去りけり。是より神威彌增(いやま)して、斯くの如き諸殿建立に及び、神輿(しんよ)の町を御旅(おたび)あることゝなれり。然れば八十年の今に至りて、小兒行きて

「諏訪樣諏訪樣」

と呼べば、或は木の根・拜殿の中より、三尺許りの蛇現る。今に靈驗絶えやらず。其昔の蛇にや、又新に來れる別の小蛇にや、其程は計り知り難し。澤蟹は多く出で、

「參詣の人を迎ふるは、此地の不思議なり」

とて、此所の鳥鼠(とね)なる人、先立ちて飯・菓子などまきちらせしに、蟹ども各(おのおの)挾みに戴せて、古樹の根に歸り去れり。大(おほ)やう「使はしめ」と云ふ者に似たり。いかなる神意にやいぶかし。

[やぶちゃん注:「然れども本社の中に、三尺許の白蛇となりて居給ふ故、里人ども恐れず」はおかしい。「故に本社の中に、三尺許の白蛇となりて居給ふと雖も、里人ども恐れず」で「菊池寂阿入道」菊池武時(正応五(一二九二)年~元弘三/正慶二(一三三三)年三月十三日)鎌倉最末期の肥後の武将。出家後、寂阿と号した。後醍醐天皇が配流先の隠岐から伯耆に脱出した際、倒幕の密勅を得て鎮西探題北条英時を博多に攻めたが、九州守護の少弐貞経・大友貞宗らが離反したため、戦いに敗れ、子頼隆らとともに敗死した(但し、武時の行動は以後に菊池氏が九州の南朝方勢力の中核となる端緒を作った)。ここは「太平記」巻第十一の「筑紫合戰の事」に基づく謂いである。

   *

元弘三年三月十三日の卯の刻[やぶちゃん注:午前六時頃。]に、僅かに百五十騎にて探題の館(たち)へぞ押し寄ける。菊池入道、櫛田の宮の前を打ち過ぎける時、軍(いくさ)の凶をや示されけん。又乘り打ちにしたりけるをや御咎めありけん、菊池が乘つたる馬、俄かにすくみて一足(ひとあし)も前へ進み得ず。入道、大きに腹を立てて、

「如何なる神にてもおはせよ、寂阿が戰場へ向はんずる道にて、乘り打ちを咎め給ふべき樣(やう)やある。その儀ならば矢一つまゐらせん。受けて御覽ぜよ。」

とて、上差(うはざし)の鏑(かぶら)を拔き出だし、神殿の扉を二矢(ふたや)までぞ射たりける。矢を放つと均(ひと)しく、馬のすくみ直りにければ、

「さぞとよ。」

とあざ笑うて、則ち打ち通りける。その後、社壇を見ければ、二丈許なる大蛇(だいぢや)、菊池が鏑に當りて死たりけるこそ不思議なれ。

   *

「幸(さひはひ)に」うまい具合に。渡りに舟のように。

「逸足(いつそく)出(いだ)して」早走りして。韋駄天の如く。

「鳥鼠(とね)」これで「とね」と読む姓が存在するので、それに拠った。

「大(おほ)やう」概ね。

「使はしめ」神仏の使者。

 なお、前の「龜祭の紀譚」の最後に紹介したように、本篇と前話をカップリングしたものをアレンジして「放生津物語」として田中貢太郎が怪談小説にしている(「日本怪談全集」(昭和九(一九三四)年改造社刊)の第四巻所収)。私は一九九五年国書刊行会刊「日本怪談大全」第五巻(新字新仮名)で読んだが、幸い、「青空文庫」のこちらで電子化されている(底本は異なるが、親本は同一なので問題ない)ので是非、読まれたい。]

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