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2020/05/27

三州奇談續編卷之三 擧ㇾ頭猫兒 / 三州奇談續編卷之三~了

 

    擧ㇾ頭猫兒

 前條日久し、樹上空しく鳴りて、宮田吉郞兵衞舊宅には、今は番人付きて徒(いたづ)らに秋を送る。然るに兩三夜續けて屋根の上に一聲あり。大方百貫目ばかりの物を投げ付くる勢ひなり。家内の人躍り上りて恐れけれども、夜明け見れば何の事もなし。いかなる由緣を知ることもなし。

[やぶちゃん注:またまたまたまた前話の続編である。表題はよく判らぬ。「頭(かうべ)を擧(あ)ぐる猫の兒(こ)」或いは「頭を擧ぐれば、猫の兒か?」か? 内容とぴったりはこない変な題である。

「百貫目」三百七十五キログラム。]

 隣家に小森番助と云ふ者あり。宮田とは前々より入魂(じつこん)[やぶちゃん注:「昵懇」に同じい。]にて、今も折節は訪(とぶ)らひ來りけるが、或時家内嘆きのあまり、娘おらんを中に取り卷きて、妻子集ひ座して泣き恨み、

「汝(なんぢ)がいらざることを父に進めて、『敵(かたき)を討ちてたべ』の、『命終る』のと云ひしより此事起りて、大勢の子ども詮方なく、世に出づべき期(き)も見えず。又邊りの人々へも御厄介を懸けて、何一つ云ふベき方なし。汝が口一つなり。さらば死にもする事か。其身は息災に居ながら、父を殺し主(あるじ)を殺して、何の役に立つことぞ」

とせぐりかけて打うらみけるに、おらんも返答なく、泣くより外に申譯もなし。

[やぶちゃん注:「せぐりかけて」「せぐり掛ける」は忙(せわ)しく詰め寄ること。]

 あやまり入りたる樣子なりしに、側に隣家の小森番助有合(ありあ)ひしが、恨みながら傍(かたはら)へ寄り見るに、此おらん小猫を抱き居る樣子なり。

「さてさてかく眞實(まこと)に泣入る中(なか)に、慰みごとするは沙汰の限(かぎり)」

と、灯など引寄せ能くよく見るに、小猫とは見えながら、能く見れは河原毛色にして、猫にあらずとも見ゆ。狐にてもあらんか、顏付細きやうにも見えし。

 番助

『何にしても引出だしておらんをしからん』

と思ひ、頓(やが)て袖をまくり、手を急に懷にさし込み捕へけるに、初めは何ぞ捕へたると思ひしが、忽ち減(へ)り失せて、乳(ち)の間、腹の皮をしかと摑みたるなり。

 外に迯げ出づべき所もなし。

 人々取卷きし中のことなりしに、更に別物(べつもの)も見えずなりにけり。

「おらんに付居(つきを)るものにやありけん。病(やまひ)の形(かたち)にや」

と見合ひたる人々不審止まず。

[やぶちゃん注:「付居る」「憑きをる」。憑依している。

「病の形にや」(憑き物ではなくて)罹患している心の病いが形となって外に現れたものか?]

 番助が「しか」と摑みしは相違なしとなり。

 其後おらん病重(おも)り、日を經て直らず、終に死にけり。

「此ものは益氣湯(えききたう)を用ひしことありし。其間は家療治なりし」

と長家の醫師橫井三柳の物語ありし。

[やぶちゃん注:「益氣湯」現在の補中益気湯(ほちゅうえっきとう)であろう。これは漢方処方に於いて「天下の名方」と呼ぶべき薬剤で、金の李東垣(とうえん 一一八〇年~一二五一年)が創方し、既に約七百五十年に亙る歴史があり、中国・日本に限らず幅広く応用され続けてきているものだそうである。詳しくは北里研究所東洋医学総合研究所の医史学研究部室長真柳誠氏の論文「補中益気湯の歴史」を読まれたい。「漢方のツムラ」の解説によれば、『生命活動の根源的なエネルギーである「気」が不足した「気虚」に用いられる薬です。「補中益気湯」の「中」は胃腸を指し、「益気」には「気」を増すという意味があります。胃腸の消化・吸収機能を整えて「気」を生み出し、病気に対する抵抗力を高める薬です。元気を補う漢方薬の代表的処方であることから、「医王湯(イオウトウ)」ともいわれます』。『脈もおなかの力も弱く、全身倦怠感や食欲不振などをともなう、さまざまな不調が処方の対象となります。気力がわかない、疲れやすいといった人から、胃腸虚弱、かぜ、寝汗など、また、病後・産後で体力が落ちているときや夏バテによる食欲不振にも使われます』とある。]

 されば、此首尾、何となく宮田陪臣の身として御直參(ごぢきさん)の歷々を斬り、國主の御用を缺(か)きて妨(さまたげ)をなし、國君の御憤(おんいきどほり)をむかへ奉ることを忘れ、猶又萬事案内のことなど、長家より後手(ごて)になりしことゞも種々憚りあれば、長大隅守殿、當九月に至り自ら門戶を閉ぢて遠慮して愼まれしことありき。尤も三十日を經て、國君より

「夫(それ)には及ばざる」

よしの御使者ありて開門せられけり。

[やぶちゃん注:「陪臣」ここは家臣の家来。

「御直參」ここは藩主の直の家臣で、特に目を掛けられて領地や料米を受けいるものを限って言っている。

「後手」底本は『御手』であるが、意味が通らぬので「近世奇談全集」で特異的に訂した。この不首尾は前話に出た。

「長大隅守殿、當九月に至り自ら門戶を閉ぢて遠慮して愼まれしことありき」事実。前話の私の最後の注の引用を参照。]

 然れども

「河原毛の馬の怪は其儘違(たが)はず、終に門を閉ぢさせし」

と人々申合へり。

[やぶちゃん注:間違えてはいけない。これは長連起が閉門処分を受けて退いたという意味ではない。最初の「長氏の東武」で連起の老臣が三つの禁制を語った際、彼は「河原毛の馬」の禁忌を犯すと、『河原毛の馬を求め給へば、御門を閉ぢられ候御仕落を引出すよし申し來り候』と言ったことを指しているのである。ここでは、門を閉じなくてならない大変な間違い禍いを引き起こす、と言っているのであって、具体的な「閉門」の処罰を主人から受ける、とは言っていないのである。「この度の宮田乱心の一件で長大隅守連起の家は、ほうれ、言に相違せず、河原毛の馬の怪異がために、遂に家の門を自ら閉じさせて謹慎されたではないか!」言っているのである。]

 

 長大隅守殿にも忌み思はれてやありけん。河原毛の馬は、越中の末なる博勞(ばくらう)にとらせて遣はされしとぞ。

 其後又馬の譽れありてや、金城へ牽きたりとも云ふ。

 されば此河原毛色の妖を引くこと、其家其節に依りて必ず怪をなすと聞えたり。

 是は其後の事にやあらん、似たるかはらげの一變あり。後條に記して餘意を扶(たす)く。

[やぶちゃん注:「末なる博勞」「末」は越中の果ての、身分の低い知れる博労(牛馬の仲買人)。

「其家」でもいいが、これは「長家」の判読の誤りか、誤写ではないかとちょっと疑う。

 以下は底本では全体が一字下げ。一行空けた。]

 

一說に田邊父子を葬る地は野田山なり。宮田を葬る地は六道林(ろくだうりん)なり。然るに氣相結びて、折々見ゆるよしを見たる人もあり。附たり、田中の門を閉ぢたる事等略ㇾ之[やぶちゃん注:「之れを略す」。]。

[やぶちゃん注:「野田山」既出既注であるが、再掲する。前田利家の墓のある金沢市野田町(のだまち)であろう。拡大すると「野田山」という呼称も見える(グーグル・マップ・データ、以下同じ)。

「六道林」「三州奇談卷之四 陰陽幻術」(おどろおどろしい名であるが、関係ない。リンク先でそれも書いてある)で既出既注であるが、再掲する。金沢市弥生公民館刊の弥生公民館新館十周年記念の文集「弥生の明日のために」(平成七(一九九五)年刊・PDF)の記載によれば、現在の金沢市弥生一丁目及びその北の野町三町目附近の旧呼称であることが判る。

「氣相結びて、折々見ゆるよし」上記の二箇所は北東・南西に二キロほどしか離れていない。或いはその間辺りで、不可解な発光現象などを見ることがある、とでも主張する者がいたらしい。

「田中」河原毛馬の購入を強く勧め、三禁を否定した家臣の「田中源五左衞門」(「田中源五右衞門」とも)のこと。

 本篇を以って「三州奇談續編卷之三」は終わっている。]

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