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2020/06/30

三州奇談續編卷之六 七尾網ㇾ燐

 

    七尾網ㇾ燐

 今の七尾は、松尾山の古城を引きたるなり。古城を「舊七尾(もとななを)」と云ひ、山の尾に七つの名あり。鶴の尾・烏帽子の尾・龜の尾・袴の尾・牛の尾・松の尾・竹の尾と云ふ。宇多天皇の御宇に、源の順(したがふ)能州剌史として此所に居せり。此の院の御宇に、武部の判官師澄(もろずみ)館(たち)を此上の南麓に構ふ。後醍醐天皇の御宇、中院(なかのゐんの)少將定淸(さだきよ)國吏として居す。後花園院御宇永享の頃より畠山數代居城たり。正親町院(おほぎまちゐん)の御宇天正年中に、國君利家公、人家を今の長洲の波打際に遷(うつ)され、「所口(ところぐち)」と云ふ。然(しか)れども七尾とも稱す。

[やぶちゃん注:「七尾網ㇾ燐」「七尾に燐を網(あみと)る」と読んでおく。

「松尾山の古城」七尾城の別名を松尾城と呼ぶ。サイト「城郭放浪記」の「能登 七尾城」によれば、

   《引用開始》

築城年代は定かではないが畠山氏によって築かれた。能登畠山氏は室町幕府の要職である三管領の一家畠山氏の庶家で、畠山基国の次男畠山満慶を祖とする。

初代畠山満慶は次男であったが、父の畠山基国が没したとき兄の畠山満家が蟄居中であったがために畠山氏の家督を継いだ。しかし、後に満家が赦免されたため、満慶は家督を兄に返還した。これに感謝した満家は、能登一国を満慶に分与し能登畠山氏が誕生した。

満慶の後、義忠・義統と続いたが三代までは在京が多く、本格的に能登に下向したのは四代畠山義元の頃であったという。

天文年間(1532年〜1555年)の八代畠山義続の頃になると、畠山氏は内乱状態になり、次第に重臣たちの力が増していき、能登七人衆(温井紹春・遊佐続光・遊佐宗円・長続連・三宅総広・平総知・伊丹続堅)と呼ばれた。永禄9年(1566年)には九代畠山義綱は重臣たちに追放され、家督を継いだ畠山義慶もまた、天正2年(1574年)に急死(暗殺という説もある)し、家督は弟の義隆が継いだ。こうしたなか、越後上杉謙信は越中から能登へと勢力を広げ、天正4年(1576年)には七尾城を囲み、富木城・熊木城・穴水城・正院川尻城など周囲の支城を攻略していった。 天正5年(1577年)ついに重臣遊佐続光が内応し、上杉の兵を城内に引き入れ七尾城は落城した。

上杉氏が七尾城を落とした後は、鯵坂長実が城代として置かれ、遊佐続光とともに支配した。しかし、天正9年(1581年)には織田信長の軍勢により支配され、能登は前田利家に与えられた。利家はいったん七尾城に入ったが、小丸山城を築いて移り、さらには金沢城へ移った。

   《引用終了》

リンク先に地図もある。

「鶴の尾……」「日本100名城ガイド」の「七尾城」に、『七尾という地名は、七尾城が築かれた松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾の七つの尾根に由来するといわれ、本丸の置かれた松尾から松尾城、末尾城の別名がある』とある。写真の防塁を見るに、山寨としては、かなり手の込んだ造りであったことが判る。

「宇多天皇の御宇」仁和三(八八七)年~寛平九(八九七)年であるが、源順は生まれてもいない頃で、大間違いである。彼が能登守に補任されたのは天元三(九八〇)年或いは前年とされるから、五代も後の第六十四代円融天皇の治世(安和二(九六九)年~永観二(九八四)年)である。

「源の順(したがふ)能州剌史として此所に居せり」「古碑陸奥」に詳しく注した。

「此の院の御宇」以下を見れば、これも大間違いのコンコンチキである。「此の院の」という振り自体が意味が通じぬ。良心的に見ると、以下に示す通り、院政期と合致はする。

「武部の判官師澄」は、「加能郷土辞彙」『能登誌に、久安・仁平』(一一四五年~一一五三年)『の頃七尾城に武部判官師澄が代官として居したといひ、越登賀三州志因概覽に、康治又は文治』(前者は一一四二年から一一四四年(近衛天皇の世であるが鳥羽法皇の院政期ではある)、後者は一一八五年から一一九〇年まで(後鳥羽天皇の世であるが後白河院の院政期ではある))『の頃武部判官師澄が能登の國司であったともある。しかしこの師澄は他に所見がない』とあって全体に信ずるに足らない

「後醍醐天皇の御宇」文保二(一三一八)年~延元四/暦応二(一三三九)年。

「中院少將定淸」(?~建武二(一三三六)年)は鎌倉末期から南北朝時代にかけての公家で武将。源定清としても知られる。越中守。「建武の新政」(元弘三(一三三三)年七月十七日より開始)の頃、父定平が護良親王に仕えると、左近衛中将、越中守に任じられ、越中国へ赴いた。建武二(一三三五)年八月に「中先代の乱」が起こると、越中でも北条時兼が蜂起し、定清は一旦は鎮圧に成功したものの、次いで守護である井上俊清が蜂起すると、抗しきれず、越中・能登国境にあった寺院石動山を頼ったものの、同年十二月に井上俊清が石動山を攻めた際に戦死している。

「後花園院御宇」正長元(一四二八)年~寛正五(一四六四)年。

 

「永享」一四二九年~一四四一年。

「畠山」複数回既出既注。この時期の畠山氏はウィキの「畠山氏」の「能登畠山家(匠作家)」の「室町時代」以降を参照されたい。

「正親町院の御宇」正親町天皇の在位は弘治三(一五五七)年から天正一四(一五八六)年。

『國君利家公、人家を今の長洲の波打際に遷(うつ)され、「所口(ところぐち)」と云ふ。然(しか)れども七尾とも稱す』既出既注であるが、補足すると、天正九(一五八一)年に畠山氏の七尾城に入った前田利家は、翌年、七尾湾に面する所口村に小丸山城を計画、旧七尾城下の町人を移して新城下町を経営しようとしたが、天正十一年に金沢城へ移ったことから城築は中止された。しかし、この地の軍事的・経済的重要性から町作りは続けられ、元和年間(一六一五年~一六二四年:徳川秀忠・家光の治世)には町奉行が置かれ所口町のほかに能登全域の治安と流通をも支配した(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

 

 此の古城に燐火あり。鬼燐(きりん)は何國(いづこ)にもありて、奇なりとす。然れども試み考ふるに、多くは鳥(とり)に類(たぐひ)す。されど大小ありて、慥かに夫と定め難し。

 所口には「夜鳥(やてう)」と云ふもの多し。形ち見えず。水筋(みづすぢ)に飛下りて水鷄(くひな)に似て大(おほい)なる聲をなす。其なす事は一向知れずといへども、夜每に出づるは必(かならず)餌(ゑ)を求むる所ありと見ゆ。稀に空中を過ぐるを見る。大さ鳩より勝れて尾長し。飛行(ひぎやう)燕に似て、羽(は)がへしの强きこと類(るゐ)すべき物なし。或は大蟲喰(おほむしくひ)の類(たぐひ)ともいへども、しかと定めず。忽ち數里を去つて音をなす。折々火光(くわくわう)ありと云ふ。「冶鳥(やてう)」の類にや。古へより捕へ得たる者なし、只「夜鳥」とのみにて實(じつ)に無名なり。又「闇夜茸(やみよたけ)」と云ふ物あり。闇中に二三莖を下げてあるけば、三四尺四方は明るくして晝の如し。多く積む所には、遠望(えんばう)火光に似てけり。是を煮て喰ふに、吐潟(としや)[やぶちゃん注:「潟」はママ。「瀉」の誤字。]して多く煩(わづ)らふ。味も又劣れり。必ず食すべからずとかや。

 「蜘(くも)の火」・「海月(くらげ)の火」は前段にも云へり。

 されば七尾の東邊(とうへん)の町に、越後屋仲介と云ふ人、元文年中の事にや。七月も過ぎての頃(ころ)汀(みぎは)に出で、鰡魚(ぼら)を打たんと網をはどりして持ちけることありしに、彼(か)の畠山(はたけやま)の古城の跡松尾山の尾のうへより、いつも出づる鬼火此夜も飛來りしが、水の上へ落下(おちくだ)りてけるを、

『是は珍し面白し』

と思ひ、潜(ひそ)み足(あし)して伺ひよるに、此鬼火も隨分近く飛下りしを、

『時分よし』

と思ひければ、投網を

「ざぶ」

と打掛けしに、怪しや此火忽ち數千萬の小光(しやうくわう)になり、網の目を漏れ出で空ヘ飛出づる。

 其樣金箔の風に吹かるゝ如く、億萬の螢の散亂するに似て、

『雲の上迄行くべくは秋風(しうふう)吹くか』

と思ひしに、二三丈許上りて又打(うち)かたまり、一團丸(いちだんぐわん)の火となりて、空を飛びて田の面(も)の方(かた)へ行去れり。

 網を引寄せて見るに、網には何もさはらずとなり。

 扨は氣のみありて形ちなき物と見えたり。

 是は蟲魚鳥獸の類(たぐひ)とは見えず、古血(こけつ)の變をなすにやあらん。

 又安樂寺と云へる御坊の前及び寺町と云ふ間には、昔より「すゝけ行燈(あんどう)」と云ふ火あり。年每に四五度人を驚かさゞることなし。只煤(すす)びたる角行燈(かくあんどう)の如し。地を離れて五七尺より外(ほか)上へは上らず。人(ひと)行違ふ時は暫く消えて、去れば又灯(とも)すと云ひ、又人によりて火飛び越ゆる如きことありとも云ふ。狸・貉(むじな)の類(たぐひ)の火と覺ゆ。多くは雨夜にあり。此程も行逢ひし人ありとの噂なり。

 然(しか)れば夜光(やくわう)は物として具せざるはなしと見ゆ。「下(した)てる姬」の山谷を照し、「衣通姬(そどおほりひめ)」の衣を透(とほ)すは、只美光(びくわう)の沙汰ながら、「玉藻の前」の夜光も、實(じつ)は人にて火光を得たる故にやあらん。佛菩薩の光明とても、夜中のことならば是又心得難からん。

[やぶちゃん注:「水鷄(くひな)」はツル目クイナ科クイナ属クイナ亜種クイナ Rallus aquaticus indicus。全長二十三~三十一センチメートルで、翼開長は三十八~四十五センチメートル。体重百~二百グラム。上面の羽衣は褐色や暗黄褐色で、羽軸に沿って黒い斑紋が入り、縦縞状に見える。顔から胸部にかけての羽衣は青灰色で、体側面や腹部の羽衣、尾羽基部の下面を被う羽毛は黒く、白い縞模様が入る。湿原・湖沼・水辺の竹藪・水田などに棲息するが、半夜行性であり、昼間は茂みの中で休んでいる。但し、ここで麦水は「水鷄に似て」いるが、有意に「大なる聲をなす」と言っており、これはクイナではなく、クイナ科ヒメクイナ属ヒクイナ Porzana fusca ととってよい。同種はその独特の鳴き声から、古くから「水鶏たたく」(「戸を叩く」の意)と言いならわされてきたからである。しかもクイナやヒクイナは夜行性(或いは半夜行性)である。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 水雞 (クイナ・ヒクイナ)」の注のリンク先で鳴き声が聴ける。

「羽(は)がへし」羽虫を取るために何度も嘴で羽を強く扱(しご)くこと。

「大蟲喰(おほむしくひ)」スズメ目スズメ亜目スズメ小目ウグイス科メボソムシクイ属オオムシクイPhylloscopus examinandus。但し、本種が同定されたのはごく最近のことなので、ウィキの「ムシクイ類」にあるムシクイ類の別種の大型の種の可能性がある。サイト「Macaulay Library」で鳴き声と動画が見られ、サイト「さえずりナビ」の「オオムシクイ」で鳴き声を複数聴くことが出来る。

「冶鳥(やてう)」私の『和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 治鳥(ぢちやう) (実は妖鳥「冶鳥(やちょう)」だ!)』の本文と私の考証注を参照されたい。

「闇夜茸(やみよたけ)」本邦で最も明るく自発発光する茸は、菌界担子菌門菌蕈亜門真正担子菌綱ハラタケ目クヌギタケ科クヌギタケ属ヤコウタケ Mycena chlorophos であるが、ウィキの「ヤコウタケ」にある通り、『日本では小笠原諸島や八丈島を主な自生地とし、関東以西の太平洋側地域に分布が見られる』ばかりであるから、違う(そこには本種の発光度は『世界一と紹介される場合も多』く、十『個程度集めれば』、『小さな文字も読めるほどに明るい』とある、但し、子実体は三日と短命である)。また、本種は毒性はないが、『水っぽくかび臭いため食用には適さない』とある。そうなると、あれしかない。ハラタケ目ホウライタケ科ツキヨタケ属ツキヨタケ Omphalotus japonicus である。ウィキの「ツキヨタケ」によれば、『子実体の各部のうち、発光性を有するのはひだのみで、かさや柄は、表面においても内部においても光らない。また、ひだが堅いものに触れたりして損傷した部分は光らなくなる』。『発光のピークはかさがじゅうぶんに開いた後の』二日から三日『程度であるという』。『また、菌体が古くなると、光量は次第に小さくなる』『が、小動物などにより食害された部分などを除けば、ひだの光量の低下は一個の子実体中において均等に起こり、部分的に光のむらが生じることはない』。『ひだの断面は』一様に『発光するが、胞子については「発光性を欠く」という報告』『と、「湿った場所に落ちると光る」という報告』『とがある。さらに、菌糸体については、当初は発光しないとされていた』『が、測定機器の進歩により、肉眼的には検知することができない微弱な光を発していることが判明した。培養した菌糸において、多数の胞子を起源とした菌糸(重相菌糸)は、唯一個の胞子を発芽させて得た菌糸(単相菌糸)と比較して』一千『倍ほど高い光量を示したという』。『ひだの発光は、ランプテロフラビン(5’-α-リボフラノシルリボフラビン)に起因するものである』とある。本種は有毒で、『摂食後』三十『分から』三『時間で発症し、下痢と嘔吐が中心となり』、『あるいは腹痛をも併発する』。『景色が青白く見えるなどの幻覚症状がおこる場合もあり、重篤な場合は、痙攣・脱水・アシドーシスショック』(acidosis shock)血液のpHが七・三五未満の酸性になった状態。過呼吸・意識障害(重症化すると昏睡)・手足の震戦をきたす)『少数ではあるが』、『死亡例』『も報告されている』。『ツキヨタケから得られた毒成分は』、現在、『日本未産の有毒きのこである Omphalotus illudens から単離されたイルジン(Illudin)と同一物質であることが明らかにされ』ている。中毒症状も麦水の記載と一致する。というより、同ウィキの「古典上での記述」には、『日本では古くから毒キノコとして広く知られており、『今昔物語集』では和太利(わたり)という名で登場し、ヒラタケと偽ってこの菌を入れた汁物でもてなす毒殺未遂事件が取り上げられている(二十八巻「金峰山別当食二毒茸不醉語第十八」)』(金峰山(みたけ)の別当、毒茸(どくたけ)を食ひて酔(ゑ)はざる語(こと)第十八。こちらで原文が読める)。『また、同じく二十八巻の十七話として、「藤の樹に発生した平茸を食したことによる中毒事件」』(「左大臣御読経所僧酔茸死語第十七」(左大臣の御読経所(みどきやうどころ)の僧、茸に酔ひて死す語第十七)が『題材とされている』(ここで読める)『ほか、同じ巻の第十九話「比叡山横川僧酔茸誦経語第十九」』(比叡山(ひえのやま)の横川(よこかは)の僧、茸に酔ひて経を誦する語第十九。ここで読める)『として、平茸とおぼしき茸を持ち帰ったところ、「これは平茸ではない」という者と「いや、平茸だから食べられる」という者とがあり、汁物にして食したところ中毒を起こした、と記述されている。後者の二つの例においては「和太利」の名こそ登場しないものの、これらもまたツキヨタケによるものではないかと推測されている』とした後に、本「三州奇談續編卷之五」の本篇が引用されてある(略す)。その後に、『同じく、江戸時代の天保』六(一八三五)年に『坂本浩然が著した「菌譜(第二巻毒菌之部)」にも、「月夜蕈又一種石曽根等ノ朽木横倒スルモノニ生ズ状チ硬木耳ノ如ク紫黒色夜間光アリ余野州探薬ノ時友人櫟齋卜同ク山中ノ栗樹ノ立枯二生ズルモノデ見ルニ香蕈ノ如シ傍テ是チ得テ家ニ帰リ酒肴トス食スルモノ皆腹痛、吐瀉急ニ樺皮チ煎ジ服サシメテ漸ク解ス故ニ知ル此菌ノ大毒アルコトヲ余ハ幸ニシテ免ガルルコトヲ得タリ謹ズンバアル可カラズ(石曽根などの倒木上に発生するもので、形状はキクラゲに似て紫黒色を呈し、夜になると光る:また立ち枯れたクヌギに発生しているシイタケに似た茸をみかけたが、これを酒の肴として食したところ、食べた者はみな腹痛と吐瀉とをきたしたので、カンバの樹皮を煎じて服用してことなきを得た:この茸に激毒が含まれているのは明らかなので、食用にしてはいけない)」との記述がある。「黒紫色で夜になると光る」菌が、現代の分類学上でなにに当たるのかは不明だが、「クヌギの立ち枯れ木に生じた、香蕈(=シイタケ)類似の茸」については、ツキヨタケを指すものである可能性が考えられる』とある。

「闇中に二三莖を下げてあるけば、三四尺四方は明るくして晝の如し」ツキヨタケの発光画像と動画及びその露光時間などから見て、一メートル四方が昼のように明るく見えるというのはあり得ないことと思う。「遠望(えんばう)火光に似てけり」も色が全然違う。これらは嘘である。

「蜘(くも)の火」「三州奇談卷之二 八幡の金火」参照。

「海月(くらげ)の火」「三州奇談卷之一 火光斷絕の刀」参照。

「七尾の東邊の町」所口を中心とするなら、その東側で、しかも旧七尾城を見上げる河川となると、この大谷川辺りか(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ボラは淡水域までよく遡上する。特に幼魚は驚くべき数の群れを成して遡上することで知られる。

「越後屋仲介」不詳。

「元文年中」一七三六年~一七四一年。徳川吉宗の治世。「三州奇談」の完成は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定される。

「鰡魚」ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus

「網をはどりして」不詳だが、「はどり」とは「端取(はど)り」ではないかとも思った。所謂、投網(とあみ)を打つ際に、網を摘まんで束ね、その内の鎖の附いた端部分を片手で持って、全体を回して投げうつようにすることを言っているのではあるまいか。

「二三丈」約六~九メートル。

「是は蟲魚鳥獸の類(たぐひ)とは見えず、古血(こけつ)の變をなすにやあらん」と言っているが、別段、これは蛍の群舞と見て、何ら不思議はあるまい。交尾行動をとる際の♂ホタルは想像を絶する群れを成して発光し、活発な飛翔を行うので、ここはそれで解釈は可能のようにも思われる。また、ボラ用の投網ならば、目はかなり粗くてよいから、ホタルなんぞは皆抜け落ちてしまう。

「安樂寺と云へる御坊の前及び寺町と云ふ間」石川県七尾市鍜冶町に浄土真宗安楽寺が現存する。また、この鍛冶町の東北に接する七尾市郡町(こおりまち)には地図上で現認出来るだけで五つの寺院を数える。ここの町名の旧称か?

「すゝけ行燈(あんどう)」実はこの話、私の『柴田宵曲 妖異博物館 「狸の火」』で触れられてある。

「五七尺」一・五二~二・一二メートル。

「然(しか)れば夜光(やくわう)は物として具せざるはなしと見ゆ」以上から察するに、夜の妖しい光物は、一つとして全くの孤立した単一個体で出現し、何者も引き連れずに現れるものはないと考えられる。ここで或いは麦水は「具す」対象を人間と捉えているのではあるまいか? 則ち、「夜光」する妖怪はどんなものでも人間に添うてこそ出来(しゅったい)するのであって、人がいなければ、妖怪「夜光」は出現しないと言っているのではないか? 何だか、量子力学の話みたようになってきた。月は人が観測している=人が見ている間は存在しても、目を離したら、この世界に月は存在しないという例の命題である。

「下てる姬」「古事記」では本名を高比売命(たかひめのみこと)、またの名は「下照比売命(したてるひめのみこと)」、「日本書紀」では下照姫、たまの名は「高姫」「稚国玉(わかくにたま)」とする。記紀では、葦原中国(あしはらのなかつくに)平定のために高天原から遣わされた天若日子(あめのわかひこ)と結婚した。天若日子が高天原からの返し矢に当たって死んだ時、下照姬の泣く声が天まで届き、その声を聞いた天若日子の父の天津国玉神は葦原中国に降り来たって天若日子の喪屋(もや)を建てて殯(もがり)を行った。それに阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこねのかみ)が訪れたが、その姿が天若日子にそっくりであったため、天津国玉神らは彼が生き返ったと喜んだ。阿遅鉏高日子根神は「穢わしい死人と間違えるな」と怒り、喪屋を斬り崩し、蹴り飛ばして去って行った。下照姫は遅鉏高日子根神の名を明かす歌を詠んだとある(以上はウィキの「シタテルヒメ」に拠った)。

「衣通姬」は記紀に伝承される女性。「古事記」では「衣通郎女」「衣通王」で「そとおりのみこ」、「日本書紀」では「衣通郎姫」で「そとおしのいらつめ」と表記されるが、記紀の間で衣通姫の設定が異なっており、叔母と姪の関係にある別の人物の名である。大変に美しい女性で、その美しさが衣を通して輝くことがこの名の由来である。「本朝三美人」の一人とも称される。「古事記」には允恭天皇皇女の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名とし、同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるインセスト・タブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚して伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たし、二人は心中する(これが「衣通姫伝説」となる)。「日本書紀」では、允恭天皇の皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の妹である弟姫(おとひめ)とされ、允恭天皇に寵愛された妃として描かれる。近江坂田から迎えられて入内し、藤原宮(奈良県橿原市)に住んだが、皇后の嫉妬を理由に河内の茅渟宮(ちぬのみや:現在の大阪府泉佐野市)へ移り住んだものの、天皇は遊猟にかこつけては彼女の許に通い続けた。皇后がこれを諌め諭すと、以後の行幸は稀になったという。紀伊の国で信仰されていた玉津島姫と同一視され、和歌に優れていたとされて「和歌三神」の一柱とされる。現在では和歌山県和歌山市にある玉津島神社に稚日女尊(わかひるめのみこと:高天原の斎服殿(いみはたどの)で神衣を織っていた際に素戔嗚が生き馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込んだために驚いて梭(ひ)で火登(ほと:女性生殖器)傷つけて亡くなった、あの天照大神の岩戸隠れの発端の犠牲者である)及び神功皇后ともに合祀されてある(以上はウィキの「衣通姫」に拠った)。

「玉藻の前」鳥羽上皇の寵を得たとされる伝説上の美女で、大陸から飛び来った金毛九尾の狐が変じたもの、陰陽師に見破られ、那須の殺生石になったという伝説の妖狐。御伽草子「玉藻の草紙」・謡曲「殺生石」、浄瑠璃・歌舞伎・合巻(ごうかん)に広く脚色された。詳しくはウィキの「玉藻の前」がよい。

「人にて火光を得たる故にやあらん」「幻惑され対峙する人間の存在があったればこそ、人の手に入れた火の光を以って、自己の幻術に用いることが可能となったというのが真相ののではないのか?」の意であろう。

「佛菩薩の光明とても、夜中のことならば是又心得難からん」仏・菩薩らの大慈大悲の光明と言うても、これ、人の寝静まってしまった真夜中の闇の中にあっては、これ、また、それに照らして証するなら、凡夫がそれを心得るというのも難かしいことなんじゃなかろうか? と終わりに諧謔したのである。あんまり面白くないぜ、麦水さんよ。]

今日、「先生」は言う――「本当の愛は宗敎心とさう違つたものでない」――

 それ程女を見縊(みくび)つてゐた私が、また何うしても御孃さんを見縊る事が出來なかつたのです。私の理窟は其人の前に全く用を爲さない程動きませんでした。私は其人に對して、殆ど信仰に近い愛を有つてゐたのです。私が宗敎だけに用ひる此言葉を、若い女に應用するのを見て、貴方は變に思ふかも知れませんが、私は今でも固く信じてゐるのです。本當の愛は宗敎心とさう違つたものでないといふ事を固く信じてゐるのです。私は御孃さんの顏を見るたびに、自分が美くしくなるやうな心持がしました。御孃さんの事を考へると、氣高い氣分がすぐ自分に乘り移つて來るやうに思ひました。もし愛といふ不可思議なものに兩端(りやうはじ)があつて、其高い端(はじ)には神聖な感じが働いて、低い端(はじ)には性慾が動いてゐるとすれば、私の愛はたしかに其高い極點を捕(つら)まへたものです。私はもとより人間として肉を離れる事の出來ない身體(からだ)でした。けれども御孃さんを見る私の眼や、御孃さんを考へる私の心は、全く肉の臭(にほひ)を帶びてゐませんでした。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月30日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十八回より)

2020/06/29

家デ『朝日新聞』夕刊ヲ購ツテヰル「こゝろ」ヲ愛スル高校生諸君總テニ告グ!

本日の夕刊の三頁目を殘して置きなさい。

「まちの記憶 小石川界隈」だ。其處にある地圖の中に――「こゝろ」の「先生」と「K」と「お孃さん」「靜」と「奥さん」の居た家は――この中に――あるのですよ!!!

私の「『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回」がヒントです。

いや……さうして……今日のこの新聞記事を讀んでゐて私(わたくし)は――「はつ」と――氣附いたのです。……

「蒟蒻閻魔」ですよ!……

「蒟蒻閻魔」が「こゝろ」に登場するのは――まさに上記の――あの――決定的致命的瞬間――なのです!

……私は知らなかつた……蒟蒻閻魔の閻魔像は……右目が……濁つて、ゐるのです…………

「先生」も「心」の片目が致命的に濁つてゐたのではないですか?……さればこそ……「先生」は遂に眞實を――「K」の眞意を――致命的に讀み違へる――魔へ――陷ることとなつたのではないでせうか?…………

 

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) ふるさと 奥附・広告 / 北原白秋 抒情小曲集 おもひで オリジナル注附~了

 

ふるさと

 

人もいや、親もいや、

小(ちいさ)さな街(まち)が憎うて、

夜(よ)ふけに家を出たれど、

せんすべなしや、霧ふり、

月さし、壁のしろさに

こほろぎがすだくよ、

堀(ほり)の水がなげくよ、

爪(つま)さき薄く、さみしく、

ほのかに、みちをいそげば、

いまだ寢(ね)ぬ戶の隙(ひま)より

灯(ひ)もさし、菱(ひし)の芽生(めばえ)に、

なつかし、泌みて消え入る

油搾木(あぶらしめぎ)のしめり香(が)、

 

[やぶちゃん注:最終行末の読点は原本のママ。後の昭和三(一九二八)年アルス刊の北原白秋自身の編著になる自身の詩集集成の一つである「白秋詩集Ⅱ」の本篇(国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ画像)では句点に変わっているが、私は断然、読点を支持するので、そのままとした。

 以下、奥附。配置・ポイント・太字等は一致させていない。]

 

 

明治四十四年五月二十日印刷

               正價九十錢

明治四十四年六月 五日 發行

        著  者   北 原      白 秋

  不 許  發 行 者  西 村 寅 次 郞
  複 製     京橋區南傳馬町三丁目十番地

        印 刷 者  橫 田 五 十 吉
           神田區松下町七、八番地
     ―――――――――――
 發行所          東 雲 堂 書 店
       東京市京橋區南傳馬町三丁目十番地
       電話京橋一六三九、振替五六一四番

 

[やぶちゃん注:以下、奥附の左ページ及びその裏にある広告。同前。]

 

 

  北原白秋氏既刊書目

邪   宗   門  第一詩集   賣  切

思   ひ   出  抒情小曲集 新  版

 

 

  北原白秋氏近刊書目

東 京 景 物 詩  新  詩 集  一  卷

抒  情    歌   集  第 一 歌 集  一  卷

 

 

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 旅役者

 

旅役者

 

けふがわかれか、のうえ、

春もをはりか、のうえ、

旅の、さいさい、窓から

芝居小屋を見れば、

 

よその畑(はたけ)に、のうえ、

麥の畑(はたけ)に、のうえ、

ひとり、さいさい、からしの

花がちる、しよんがいな。

 

[やぶちゃん注:これは静岡県三島市などで歌われ、全国的にもよく知られる民謡農兵節(のうへいぶし)をインスパイアしたもの。ウィキの「農兵節」を見ると判る通り、曲中には「のーえ」「さいさい」という掛け声が入る。或いは実際の旅役者がそれらの掛け声を入れて即興で唄っていたを聴いた記憶に基づくものかも知れない。

「しよんがいな」(歴史的仮名遣「しょんがいな」)は感動詞。民謡で一節の終わりに附ける囃子言葉。「しょんがえ」「しょんがい」。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 韮の葉

 

韮の葉

 

芝居小屋の土間のむしろに

いらいら泌みるものあり。

畑(はたけ)の土のにほひか、

昨日(きのふ)の雨のしめりか。

あかあかと阿波の鳴戶の巡禮が

泣けば…………ころべば…………韮(にら)の葉が…………

 

芝居小屋の土間のむしろに、

ちんちろりんと鳴いつる。

廉(やす)おしろひのにほひか、

けふの入日の顫へか、

あかあかと、母のお弓がチヨボにのり

泣けば…………なげけば…………蟲の音が…………

 

芝居小屋の土間のむしろに

何時しか泌みて芽に出(づ)る

まだありなしの韮の葉。

 

[やぶちゃん注:「韮」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ニラ Allium tuberosum

「鳴いつる」「なきいつる」であるが、やや不審。「鳴き居つる」と存続或いは確述の助動詞「つ」の連体止めによる余韻の用法ならば、「ゐつる」でないとおかしい。幾つかの刊本を見るに、「鳴いづる」としており、それが一番しっくりはくるものの、後の昭和三(一九二八)年アルス刊の北原白秋自身の編著になる自身の詩集集成の一つである「白秋詩集Ⅱ」の本篇(国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ画像)でも「鳴いつる」のママであるので、そのまま電子化した。

「お弓」不詳。

「チヨボ」浄瑠璃や歌舞伎の劇場で義太夫節を演奏する場所。通常、舞台上手の上部に設けられており、簾 () が掛けられて客席からは見えないようになっている。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 梅雨の晴れ間

 

梅雨の晴れ間

 

廻(まは)せ、廻(まは)せ、水ぐるま、

けふの午(ひる)から忠信(ただのぶ)が隈(くま)どり紅(あか)いしやつ面(つら)に

足どりかろく、手もかろく

狐六法(きつねろつぱふ)踏みゆかむ花道の下、水ぐるま…………

 

廻(まは)せ、廻せ、水ぐるま、

雨に濡れたる古むしろ、圓天井のその屋根に、

靑い空透き、日の光

七寶(しつぱふ)のごときらきらと、化粧部屋(けしやうべや)にも笑ふなり。

 

廻(まは)せ、廻せ、水ぐるま、

梅雨(つゆ)の晴れ間の一日(いちにち)を、せめて樂しく浮かれよと

廻り舞臺も滑(すべ)るなり、

水を汲み出せ、そのしたの葱の畑(はたけ)のたまり水。

 

廻(まは)せ、廻せ、水ぐるま、

だんだら幕の黑と赤、すこしかかげてなつかしく

旅の女形(おやま)もさし覗く、

水を汲み出せ、平土間(ひらどま)の、田舍芝居の韮畑(にらばたけ)。

 

廻(まは)せ、廻せ、水ぐるま、

はやも午(ひる)から忠信(ただのぶ)が紅隈(べにくま)とつたしやつ面(つら)に

足どりかろく、手もかろく、

狐六法(きつねろつぱふ)踏みゆかむ花道の下、水ぐるま…………

 

[やぶちゃん注:「忠信」実在した義経の家臣で義経四天王の一人である佐藤忠信(仁平三(一一五三)年或いは応保元(一一六一)年?~文治二(一一八六)年)を登場人物(狐の変化)としてモデル・インスパイアした「義経千本桜」(延享四(一七四七)年大坂竹本座初演。二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作)のトリック・スター「狐忠信」こと「源九郎狐」のこと。同外題についてはウィキの「義経千本桜」を参照されたい。ここは田舎歌舞伎のその舞台を見た少年期の記憶(それを真似した自分自身の記憶を含む)を素材としている。

「狐六法(きつねろつぱふ)」(「六方」は「六法」とも書く)ここは「義経千本桜」の四段目の口 「道行初音旅」(=「吉野山」)での、非常に知られた花道への引っ込みで見せる独特の「狐六方」のこと。YouTube の衣裳地歌舞伎氏の『岐阜の地歌舞伎「義経千本桜 吉野山道行の場」をみる』を見られたい。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 六騎

 

六騎

 

*御正忌(しやうき)參詣(めえ)らんかん、

情人(ヤネ)が髮結ふて待(ま)つとるばん。

 

御正忌參詣(めえ)らんかん、

寺の夜(よ)あけの細道(ほそみち)に。

 

鐘が鳴る。鐘が鳴る。

逢うて泣けとの鐘が鳴る。

  親鶯上人の御正忌なり。

 

[やぶちゃん注:注記号は底本では「御」の字の右側上方に打たれてある。なお、「しやうき」のルビは「正忌」の二文字のみに振られてある(原本を見られたい)。思うに、白秋は「御正忌」に「ごしやうき」と振りたかったのだが、「*」を組んだ関係上、物理的(植字上)に「ご」が振れなくなったものと私は思う。則ち、ここは「ごしやうき」(ごしょうき)と読まなければならない。浄土真宗の信徒(この場合の作中の「御正忌參詣らんかん」と言った六騎の民)にとって「ご」を外して呼ぶことは、有り得ないからである。

「六騎」は「ろくきゆ(ろっきゅ)」で白秋が自序「わが生ひたち」の「3」の冒頭で説明しているが、柳川の東の沖端地区の漁師達の総称(綽名)である。少し長いが、本篇の字背に潜む民心の見事な解読ともなっているので煩を厭わず引いておく。

   *

 柳河を南に約半里ほど隔てて六騎(ロツキユ)の街(まち)沖(おき)ノ端(はた)がある。(六騎(ロツキユ)とはこの街に住む漁夫の諢名[やぶちゃん注:「あだな」。]であつて、昔平家沒落の砌に打ち洩らされの六騎がここへ落ちて來て初めて漁り[やぶちゃん注:「すなどり」。]に從事したといふ、而してその子孫が世々その業を繼襲し、繁殖して今日の部落を爲すに至つたのである。)畢境は柳河の一部と見做すべきも、海に近いだけ凡ての習俗もより多く南國的な、怠惰けた[やぶちゃん注:「なまけた」或いは「だらけた」か。]規律(しまり)のない何となく投げやりなところがある。さうしてかの柳河のただ外面(うはべ)に取すまして廢れた面紗(おもぎぬ)のかげに淫(みだ)らな秘密を匿(かく)してゐるのに比ぶれば、凡てが露(あらは)で、元氣で、また華(はな)やかである。かの巡禮の行樂、虎列拉避(コレラよ)けの花火、さては古めかしい水祭の行事などおほかたこの街特殊のものであつて、張のつよい言葉つきも淫らに、ことにこの街のわかい六騎(ロクキユ)は溫ければ漁(すなど)り、風の吹く日は遊び、雨には寢(い)ね、空腹(ひもじ)くなれば食(くら)ひ、酒をのみては月琴を彈き、夜はただ女を抱くといふ風である。かうして宗敎を遊樂に結びつけ、遊樂のなかに微かに一味の哀感を繼いでゐる。觀世音は永久(とこしへ)にうらわかい町の處女に依て齋(いつ)がれ(各の町に一體づつの觀世音を祭る、物日にはそれぞれある店の一部を借りて開帳し、これに侍づくわかい娘たちは參詣の人にくろ豆を配(くば)り、或は小屋をかけていろいろの催(もよふし[やぶちゃん注:ママ。])をする。さうしてこの中の資格は處女に限られ、緣づいたものは籍を除かれ、新しい妙齡(としごろ)のものが代つて入(はい)る。)天火(てんび)のふる祭の晚の神前に幾つとなくかかぐる牡丹に唐獅子(からしし)の大提灯は、またわかい六騎(ロクキユ)の逞ましい日に燒けた腕(かひな)に献げられ、霜月親鸞上人の御正忌となれば七日七夜の法要は寺々の鐘鳴りわたり、朝の御講に詣(まう)づるとては、わかい男女(をとこをんな)夜明まへの街の溝石をからころと踏み鳴らしながら、御正忌參(めえ)らんかん……の淫らな小歌に浮かれて媾曳(あひゞき)の樂しさを佛のまへに祈るのである。

   *

「御正忌」(ごしょうき(現代仮名遣))親鸞の忌日を指す。親鸞は弘長二年十一月二十八日(ユリウス暦一二六三年一月九日/グレゴリオ暦換算同年一月十六日/享年九十(満八十九歳))に入滅した。浄土真宗は一向宗として越前・越中・越後に信者が多いことは知られるが、親鸞の師である法然の浄土宗は、現行でも最有力派閥である鎮西派が北九州ですこぶる強く、親鸞自身は浄土宗の真の教えを伝えるという意味で自身で宗派を名乗ったわけではなかったことや、キリスト教禁教の影響もあって、浄土真宗の信者も実は多い。因みに、薩摩藩は浄土教を禁教としたため、隠れて信仰を守り、現在でも鹿児島は実はダントツに浄土系信者が多い。

「情人(ヤネ)」小学館「日本国語大辞典」に「やね」で「情人」を当て、『九州地方で愛人をいう』とする。しかし、その後にはまさに本篇のそれが引用されているだけで、結局、語源を探し得ない。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 水門の水は

 

水門の水は

 

水門(すゐもん)の水は

兒をとろとろと渦をまく。

酒屋男は

半切(はんぎり)鳴らそと擢を取る。

さても、けふ日のわがこころ

りんきせうとてひとり寢る。

 

[やぶちゃん注:これ。短篇乍ら、一読忘れ難い。「兒をとろとろと渦をまく」は「兒」の命を(或いは生肝を)「取ろ」う「捕ろ」うとと、水渦の「とろとろ」のオノマトペイアの掛詞が効いて、「酒屋男」が「半切(はんぎり)鳴らそ」う「と擢を取」った櫂で打つその「コン! カン!」という音が鋭く聴こえ、少年のトンカ・ジョンは「悋気したろう!」という不条理の理由から「ひとり寢る」というコーダが、一つの弛みもなく、モンタージュされているからである。

「擢」はママ。「かい」で「櫂」が正しい。酒の仕込みでかき混ぜるのに用いるもの。

「半切(はんぎり)」「半切桶」(はんぎりおけ)の略。多種多様の用途持った平たい桶(一般の桶を半分に切った浅さの意)を指す。これも酒造の用具。

「りんき」「悋氣」男女間のことなどで焼きもちをやくこと。嫉妬。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) あひびき

 

あひびき

 

きつねのてうちん見つけた、

蘇鐵のかげの黑土(くろつち)に、

黃いろなてうちん見つけた、

晝も晝なかおどおどと、

男かへしたそのあとで、

お池のふちの黑土に、

きつねのてうちん見つけた。

  毒茸の一種、方言、色赤く黃し。

 

[やぶちゃん注:菌界担子菌門菌蕈(きんじん)亜門真正担子菌綱スッポンタケ目スッポンタケ科キツネノロウソク属キツネノエフデ Mutinus bambusinus の異名。サイト「きのこ図鑑」の「キツネノエフデ」に、林や『竹林の中、草地や道のほとり、家の庭など様々な場所に発生し』、『直径約』一・五センチメートルの『の卵型の幼菌から』、『先端が濃い紅色の本体が伸びて出ている強いにおいを持つキノコで、上部の先端には暗褐色の粘液部分(グレバ)があり』、『これが悪臭を放』つ。但し、『先端部分が中に隠れている卵状の幼菌の段階では特に匂いは』ないとある。『キツネノエフデは一般的なキノコのようなカサの部分はなく』、『先端部分は尖るように細くなってい』おり、『頭部と柄の部分があまりハッキリしないという事も特徴のひとつで』あるとある。『夏から秋にかけて見られるキノコで』あるが、『大体、梅雨の時期から発生し始め』、『キツネノエフデに似ているキノコとしてはキツネノロウソク』(キツネノロウソク属キツネノロウソク Mutinus caninus)『などがあげられ』る。本種には『毒があるという情報は』ないものの、前述の如く、『悪臭がきつく、食用には適さないキノコだと言われてい』いるともある。写真あり。かなり妖しい感じである。なお、白秋は「赤く黃」(きいろ)「し」と言っているが、キツネノエフデは紅いが、黄色くはない。キツネノロウソクは橙色の子実体の頂部のグレバと呼ばれる胞子を含んだ粘着性器官が生ずるが、これは黄色いから、或いは両種がそこには生えていた可能性もあるように思われる。

「蘇鐵」裸子植物門ソテツ綱ソテツ目ソテツ科ソテツ属ソテツ Cycas revoluta。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 目くばせ

 

目くばせ

 

門づけの*みふし語(がた)がいふことに

高麗烏(かうげがらす)のあのこゑわいな。

晝の日なかに生れた赤子

埋(う)めた和尙が一人(ひとり)あるぞえ。

 

古寺の高麗烏(かうげがらす)のいふことに、

みふし語(がた)のあの絃(いと)わいな。

今日(けふ)も今日とて、かんしやくもちの

振(ふ)られ男がそこいらに。

 鄙びて粗末なる一種の琵琶を抱きて卑近なる
  物語を歌ひながらゆく盲目の門づけなり、
  地方特殊のものにてその歌ひものをみふし
  云ふ。

 

[やぶちゃん注:「みふし語(がた)」「みふし」の太字部分は底本では傍点「ヽ」。但し、「語」にルビを振った関係上、「語」には傍点が実はない。しかし、これは版組上の止むおえない仕儀と考えられるので、特異的に「語」も太字とした。また、その冒頭部分の「*」は底本では「み」の右上方位置にある。部分は底本では注は底本では全三行であるが、ブラウザの不具合を考えて、四行で示した。

「みふし語り」「みふし」孰れも確認出来ない。小学館「日本国語大辞典」にも載らない。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 道ゆき

 

道ゆき

 

鰡(ぼら)と黑鯛(ちんのいを)と、

黑鯛魚(ちんのいを)と、

鰡と、のうえ

肥前山をば、やんさのほい、けさ越えた、ばいとこずいずい

 

後家(ごけ)と、按摩(あんま)さんと、

按摩さんと、

後家と、のうえ

蜜柑畑から、やんさのほい、昨夜逃げた、ばいとこずいずい

 

[やぶちゃん注:ポイントの変形はママ。小文字(底本では右寄せであるが、ここでは上寄せ。底本ではもっとポイントが小さいが、読み難くなるので、これ以上は小さくしなかった)のそれは思うに、囃子言葉と思われる。サイト「d-score」の『作曲白秋民謡集「道ゆき」 北原白秋』には、『これは、ばいとこずいずいぶしである』。『前聯は柳河地方のそれをそのまゝ用ゐた』(昭和四(一九二九)年改造社刊「北原白秋民謠集」から)とあるのだが、「ばいとこずいずい」節なるものを調べ得なかった。従って「ばいとこずいずい」の意味するところも不詳である(囃子言葉とすると、意味も不明な可能性はある)。識者の御教授を乞う。

「鰡」ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus

「黑鯛(ちんのいを)」スズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii。異名は「ちぬ」がよく知られるが、九州の地方名で「ちん」と呼ばれ、「ちんのうお」という呼称も確認出来た。

「肥前山」肥前修験道の一拠点であった佐賀県多久市東多久町納所天山にある両子(ふたご)山(グーグル・マップ・データ)のことか。標高三六六メートル。柳川の北西二十五キロメートルほどの位置に当たるが、その間は有明海湾奥の平地であるから、柳川からは見えるものと思われる。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 氣まぐれ

 

氣まぐれ

 

逢ひに來た*ちの

日の照り雨のふるなかを、

*Odan mo iya, Tinco Sa!

 

しやりむり別れたそのあとで、

未練(みれん)な牡丹がまたひらく。

Odan mo iya, Tinco Sa!

 1ちのは雅言のとやなり。來たの、來たん
   ですつて。柳河語。
 2Odan はわたしなり、Tincosa は感嘆詞なり、
   全體の意味はあら厭だよ、まあ。同上。

 

[やぶちゃん注:注記号は底本では前者が「ち」の右側上方に、後者が「O」の右上方に打たれてある。太字「ちの」と「とや」は底本では傍点「ヽ」。注は全三行であるが、ブラウザでの不具合を考え、四行で示した。

Odan はわたしなり」山口県長門の方言で「私」の意が確認出来る。

Tincosa は感嘆詞」確認出来ない。

Odan mo iya, Tinco Sa!」は恐らく、「おら、もう、厭(い)や! 全くもう!」とか「あたい、もう、厭やや! あんれ、まあ!」といった謂いか。但し、拒絶ではなく、実は内心は嬉しがっての対位表現ということであろう。

「しやりむり」源田仮名遣「しゃりむり」で、副詞。「いやでも応でも。是が非でも。何が何でも。むりやり。しゃにむに」の意。方言ではない。

ちのは雅言のとやなり」古語「とや」は格助詞「と」+疑問の係助詞「や」で、「と」の受ける内容が疑わしいか、不確かであることを含む万葉以来の古語。「ちの」は確認出来ない。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 牡丹

 

牡丹

 

ほんにの、薄情(はくじやう)な牡丹がちりかかる。

風もない日に、のう、

紅(あか)い牡丹が、のうもし、ちりかかる。

ひらきつくした二人(ふたり)がなかか、

雨もふらいで、のうもし、ちりかかる。

 

[やぶちゃん注:「牡丹」ユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 曼珠沙華

 

曼珠沙華

 

GONSHAN. GONSHAN. 何處へゆく、

赤い、御墓(おはか)の曼珠沙華(ひがんばな)

曼珠沙華(ひがんばな)、

けふも手折りに來たわいな。

 

GONSHAN. GONSHAN. 何本(なんぼん)か、

地には七本、血のやうに、

血のやうに、

ちやうど、あの兒の年の數(かず)。

GONSHAN. GONSHAN. 氣をつけな。

ひとつ摘(つ)んでも、日は眞晝、

日は眞晝、

ひとつあとからまたひらく。

GONSHAN. GONSHAN. 何故(なし)泣くろ。

何時(いつ)まで取つても、曼珠沙華(ひがんばな)、

曼珠沙華、

恐(こは)や、赤しや、まだ七つ。

 

[やぶちゃん注:「曼珠沙華」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ属ヒガンバナ Lycoris radiata。因みに私は嘗てヒガンバナの異名(本邦では滅法、多い)を集めてみたことがある。「曼珠沙華逍遙」をご覧あれ。

GONSHAN」複数回既出。北原白秋の注に『良家の娘、方言』と出る。以下、再掲。現代仮名遣「ごんしゃん」。個人サイトらしい「世界の民謡・童謡」の「ごんしゃん GONSHANの意味・語源 北原白秋の詩集『思ひ出』で多用された柳河地域の方言」によれば、『語源・由来については諸説あるが、まず「ごん」については、姉御(あねご)・娘御(むすめご)など女性への敬称「御(ご)」が変化したとの説が有力なようだ』。『この「ごん」にさらに敬称の「さん」または「様(さま)」が語尾について「ごんさん」となり、そこから変化して「ごんしゃん」となったとのこと』。『柳河地域には「おんご」という方言もあり、これは上述の「ご」の前にさらに尊敬語の「お」がついた「おご」が長音化したもの』で、『「おんご」と「ごんしゃん」の使い分けについては、一般的に、前者の方が少女・幼女に使われるという』。また『狂言』『の中にも、ごんしゃん』『の語源・由来と関連性が認められる用語が存在』し、狂言では『主人・太郎冠者・次郎冠者など、登場人物が名前ではなく役柄で呼ばれるが、その数ある登場人物の中に「おごう」という役柄がある』。『「おごう」の役割は「良家の娘/若妻」であり、ごんしゃんが意味する人物像と一致している』。『主人に「様」がつくように、「おごう」にも「様」がつくのであれば「おごうさま」となり、「ごんしゃん」へ音変化することも十分に考えられる』とある。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) AIYAN の歌

 

AIYAN の歌

 

いぢらしや、

ちゆうまえんだのゆふぐれに

蜘蛛(コブ)が疲れて身をかくす、

ほんに薊の紫に

刺(とげ)が光るぢやないかいな。

*ANTEREGAN の畜生はふたごころ。

わしやひとすぢに。)

 1、下碑、兒守女、柳河語。
 2、あの畜生?

 

[やぶちゃん注:太字「ちゆうまえんだ」(複数回既出既注。北原家の庭園の名)は底本では傍点「ヽ」。12の注記号がないのはママ。「1」は表題の「AIYAN」に、「2」は「*ANTEREGAN」に対応。

AIYAN」は「酒の精」で「下婢(アイヤン)」の形で既出であるが、そこで注した通り、語源未詳。

「蜘蛛(コブ)」広義のクモの異名。小学館「日本国語大辞典」に「こぶ」の見出しで出、『くも(蜘蛛)の異名』とし、用例を『日葡辞書「Cobu(コブ)〈訳〉大蜘蛛』、『重訂本草綱目啓蒙―三六・卵生「蜘蛛」〈略〉こぶ 薩州』の後、まさに本篇の当該部が近代の例として引かれてある。以下、方言として三十二に及ぶ採取例が並ぶが、九州・南西諸島が圧倒的である(他は岩手・石川の二例のみ)。ここから九州では広く蜘蛛を「コブ」と呼ぶことが判明する。あるネット記載では「よるコブ=喜ぶ」として縁起が良いともされるとある。以上の通り、ポルトガル語由来らしい。ただ、「日本国語大辞典」の「方言」欄の筆頭は福岡県八女(やめ)郡で(柳川の東北直近である)、そこには種としての『ひらたぐも(扁平蜘蛛)』と載る。この辞書記載の場合の種は節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目ヒラタグモ科ヒラタグモ属ヒラタグモ Uroctea compactilis に限定出来る(本邦に棲息するヒラタグモ科 Urocteidae のヒラタグモ類はこの一種のみだからである)。但し、ウィキの「ヒラタグモ」によれば、『中型の扁平なクモで、人家の壁面などに巣を作っているのを見かける。腹部にはっきりとした黒い斑紋があり、また、特徴的な巣を作るので見分けやすい。人家に生息することが多く、身近なクモでもある。巣は広い壁の真ん中にもあることが多いからよく目立つ。ただし、本体は常に巣にこもっていて出歩くことは少ない』(太字下線は私が附した)とあるので、本種ではない可能性が高く、別種の庭園の葉陰にいるクモ類であろう。

ANTEREGAN」「あの畜生?」とするのだが、もし、これが白秋が聴いた下女の戯れ歌の一節であったとするなら、この「?」の意味(白秋自身がこの語の意味がよく判らない、自信がないということ)が判り、しかもその白秋の推測では「あの畜生の畜生は……」と畳語になっておかしいと誰もがちょっと思う。卑称は畳みかけても別段いいわけだが、しかし、調べてみると、「あんてれがん」という言葉は、「うんてれがん」「うんでれがん」という語に近似している。こちらは方言ではなく、小学館「日本国語大辞典」によれば、『愚かな者をさげすんでいう語。ばか。あほう。のろま。まぬけ。江戸末期の流行語。うんてらがり』とあり、また、別に『幕末から明治時代に流行した女髷(まげ)の一種』とある。唄っているのが下女だから、前者で「阿呆の畜生野郎は二心持ち、あたしは一筋だに」の意で腑に落ちるのである。]

2020/06/28

三州奇談續編卷之六 雷餘の風怪

 三州奇談續編 卷 六 

 

    雷餘の風怪

 宋の蘇過が「颶風(ぐふう)の賦」に、「赤雲夾ㇾ日而翔ㇾ南」と云ふ。實(げ)に斯かる日なりけり。安永七年五月七日は予が所口(ところぐち)に寄宿せし間なり。此の夜大風大雷あり。されば

「此の邊(あたり)は雷落ちて、必ず餘火(よか)家を燒くこと度々なり」

とて、町々に皆提灯を出だし、家々に灯を照らして家財を片付け、戶障子をはづし、人々身構へして、

「只今も隣家に燒亡の起ることもや」

と罵りて喧噪なり。

 遠火の見ゆるとは沙汰ありし。

 然れども其夜何のこともなし。雷は十(とお)許强く響き、雨は纔(わづか)に降り、風は三時(さんどき)[やぶちゃん注:六時間。]ばかり强く吹きて止みぬ。

 扨(さて)翌日來(くる)人ありて語り、風怪の一段を聞けり。

 其夜雷餘の火災ありし地は、所口より三里、堀松と云ふより半道ばかり西、福居(ふくゐ)と云ふ所なり。爰は家五六十軒ありて、安部屋(あぶや)の湊へも三十町許の海濱へ近き里とかや。然るに其夜其村の家十四五軒悉く破壞す。此内二軒は實(じつ)に雷火の餘(あまり)燒亡となりしを、風吹散らしたるなり。十二軒は皆怪しき躰(てい)なり。

 雷落つると同時に一物あり、黑く丸く長き物なり。其形人々見るといへども、何と云ふこも見定めず。先づ一尺廻(まは)りに三尺許の立ちし形の者なり。

 家の内に飛入りて

「くるくる」

と舞ふ。此時に家内の道具・障子・唐紙など、皆悉く舞(まひ)あるき、暫くして家皆空中に舞上り、忽ち風の爲に吹散らされて、早苗田(さなへだ)の上へ吹きて落ち塵となる。

 其後向ひの家に飛入り、向ひ濟めば隣の家に飛び入りて同じ躰なり。十二軒の家皆斯くの如し。

 舞ふ所の異物一つにてやありけん、二つ三つにてやありけん。怪物の數は知り難し。

 十四軒共に吹亂(ふきみだ)され、粉となりて空中へ上り去り、落つる所田面(たのも)の間二三町に及ぶ。其風變(ふうへん)すさまじ。「鉅鹿(きよろく)の戰(いくさ)」・「昆陽の役」とも云ひつべし。

 其建具・敷物など空中に飛行(ひぎゃう)する躰、暫く眼中何に譬ふべきなし。是還りて席(むしろ)の大(おほい)さ雪片の如しといふとも可なり。田間(でんかん)地を見ざる躰なれば、今日より此埃塵(あいじん)を片付け、一番草(ぐさ)・二番草取るとは聞きしに、一番に早苗(さなへ)の筵菰(むしろこも)をひろへることは珍し。後に聞けば

「早苗皆損じて荒蕪となる故に、四五日にして又苗を植ゑ直したり」

と聞えし、此風怪是れ何物ぞ。さればかゝることにて、さまで害をなさゞりし。

 風怪は所口にも此七八年許り先きにありし。何れの日ならん、豆腐屋町富田屋と云へる四つ辻の間より風吹き卷き出で、町中を舞ひ過ぐる。此時店々の逍具・障子・上敷(うはじき)など、皆浮き出る。空に上る程にはなかりし。其後橋の上に至り、又川の中へ上る。一時ばかりは何のこともなし。『靜まりしや』と思ふ所に、二時(ふたとき)半許して川より跳り上るが如く見えて、中酒見の門、正屋(まさや)のあたりを又舞ありく。

 其時は人々も見馴れて、數百人立騷ぎ見物す。晝と云ひ、多く人々見たることなれば、虛談はあるまじ。實(げ)に怪しき物なりと聞えぬ。申の刻[やぶちゃん注:午後四時。]過ぎしに吹止みぬとなり。

 是等は辻風か羊角風(つむじかぜ)の類(たぐひ)と見えながら、其理(ことわり)知り難し。是には黑き物はなし。

「今度の福居村の風怪は雷の屬類(ぞくるゐ)にや」

と、生き物のやうに沙汰してけり。

[やぶちゃん注:「雷餘」「らいよ」と読んでおく。この「餘」は恐らく「後」の意であろう。

『宋の蘇過が「颶風の賦」』蘇過(一〇七二年~一一二三年)はかの蘇軾の第三子にして北宋の官人で文人。「颶風の賦」は蘇軾作とされるも、或いはこの子の蘇過の作ともされるらしい。「颶風」強く激しい風。近代には熱帯低気圧や温帯低気圧に伴う暴風を指す古い気象用語でもある。中文の「維基文庫」のこちらで全文が読める。

「赤雲夾ㇾ日而翔ㇾ南」「赤雲、日を夾(はさ)みて南に翔(かけ)る」。

「安永七年五月七日」グレゴリオ暦一七七八年六月一日。

「所口」現在の七尾市の中心部に当たる石川県七尾市所口町(ところぐちまち)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「堀松」所口からは西南西に直線で十五キロメートルほどの能登半島の西側中央の石川県羽咋郡志賀町(しかまち)堀松

「福居」現在、堀松から三キロメートル弱の位置に南東羽咋郡志賀町福井がある。

「安部屋」志賀町安部屋(あぶや)。麦水はその「湊へも三十町」(三キロメートル強)「許の海濱へ近き里」が「福居」だと言っている。実際には堀松の方がすぐ「安部屋」の後背地ではあるが、確かに、福井からは北西に四キロメートル弱は離れているので齟齬はないとは言える。

「其夜其村の家十四五軒悉く破壞す。此内二軒は賞に雷火の餘(あまり)燒亡となりしを、風吹散らしたるなり。十二軒は皆怪しき躰なり」「福居」村は戸数「五六十軒」で、その内、二軒が落雷による出火で全焼し、全壊した残りの十二、三軒は皆、奇っ怪な現象に襲われたようである、という意であろう。

「雷落つると同時に一物あり、黑く丸く長き物なり。其形人々見るといへども、何と云ふこも見定めず。先づ一尺廻(まは)りに三尺許の立ちし形の者なり」円筒形でその周囲は三〇センチメートルで、円筒の高さは九十一センチメートルほどとある。これは小型の竜巻と考えてよいであろう。以下の状況からも特に不思議はない。

「早苗田」稲の若苗を育てておく苗代田(なわしろだ)のこと。ここから代田(だいだ)へ移し植えるのが田植え。季節的にも齟齬がない。

「二三町」二一八~三二七メートル。複数発生した可能性もないとは言えないが、十二軒もの残骸がこの短い範囲内に総て収まっているとするなら、発生した竜巻は一つであったのかも知れないという感じはする。

「鉅鹿の戰」は「陳勝・呉広の乱」の直後の紀元前二〇七年に項羽の楚軍と章邯(しょうかん)の秦軍との間で鉅鹿(現在の河北省邢台(けいだい)市平郷県)で行われた戦い。ウィキの「鉅鹿の戦い」によれば、『項羽は腹心の英布に先遣隊を任せて鉅鹿に急行させた。しかし英布は兵力で勝る秦軍に苦戦したため、項羽は自ら軍を率いて黄河を渡り』、三『日間の食料だけを残して渡河の船や料理の鍋などを全て黄河に捨てた』。『後が無くなった項羽の楚軍は秦の大軍を相手に奮戦し、ついに秦軍を打ち破った。秦軍は王離が捕虜となり、蘇角が戦死し、渉間が自害して、章邯も退却を余儀なくされた』。『兵力で劣る項羽の楚軍が勝利したことにより、項羽の下には諸侯の兵が集まり始め』る一方、『章邯の秦軍はその後』、『九度に及ぶ項羽の諸侯連合軍との会戦に全て敗北し、最終的に章邯が部下の司馬欣・董翳の説得に応じて楚軍に降伏し』、『秦は継戦能力を事実上失うこととなった』。『項羽は章邯・司馬欣・董翳を配下に加えたが、秦軍の降兵』二十『万人は不穏な気配があるとして英布に皆殺しにさせた』。『その後、諸侯連合軍は咸陽へ進軍し、項羽は先に咸陽を制圧していた楚の将軍劉邦と咸陽郊外の』鴻門で会見することとなったのである。

「昆陽の役」前・後漢の交代期に劉秀 (光武帝) と、王莽 (おうもう) が、現在の河南省葉県で行なった戦い。紀元二三年、王莽の大軍四十二万は、劉秀の守る昆陽城を取囲んだが、劉秀は将士を激励し、自らは城を出て援軍を組織し、包囲軍の外側から攻撃を仕掛け、遂に王莽の軍は敗北、以後、勝利を得た劉秀の勢力が伸張した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「眼中」目に移ったさま。

「是還りて席(むしろ)の大(おほい)さ雪片の如しといふとも可なり」これは、敢えて言い換えるとなら、莚大の大きさの物が雪が降りしきるように落ちてくるようだったと言ってよい。

「早苗(さなへ)の筵菰をひろへる」早苗に被った家屋の破片の除去を「筵」や「菰」と言い換えたのである。

「又苗を植ゑ直したり」恐らくはその損壊が撒き散らされて全滅した場所以外のところに早苗田があってかなりの量が無事であったか、損壊を免れた村人が家内に保護しておいたものや予備で足りたということであろう。

「豆腐屋町富田屋」不詳

「中酒見の門」不詳。思うに、天正一〇(一五八二)年に現在の七尾市街地に前田利家によって築かれた平城小丸山(こまるやま)城の城門跡の地名ではなかろうか。 この城は幕府の一国一城令により江戸初期に廃城となっている。ここのどこかである。

「正屋(まさや)」不詳。読みは「近世奇談全集」に拠った。

「羊角風(つむじかぜ)」読みは「近世奇談全集」を参考にした。

「生き物のやうに沙汰してけり」「雷の屬類(ぞくるゐ)にや」という噂が幻獣とされた雷獣の眷属というニュアンスを持つからである。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) かきつばた

 

かきつばた

 

柳河の

古きながれのかきつばた、

晝は * ONGO の手にかをり、

夜は萎(しを)れて

三味線の

細い吐息(といき)に泣きあかす。

(鳰(ゲエツグリ)のあたまに火が點(つ)いた、

潜(す)んだと思ふたらちよいと消えた。)

 * 良家の娘、柳河語。

 

[やぶちゃん注:「かきつばた」キジカクシ目アヤメ科アヤメ属カキツバタ Iris laevigata。漢字表記は「杜若」「燕子花」。アヤメ・ショウブ・カキツバタの識別法は「たはむれ」の私の注を参照されたい。

「鳰(ゲエツグリ)」カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ Tachybaptus ruficollis。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) NOSKAI

 

NOSKAI

 

堀の BANKO をかたよせて

なにをおもふぞ。花あやめ

かをるゆふべに、しんなりと

ひとり出て見る、花あやめ。

 

[やぶちゃん注:「NOSKAI」既出既注。九州で広汎に見られる遊女の卑称方言。

BANKO」複数回既出。縁台のこと。

「花あやめ」キジカクシ目アヤメ科アヤメ属アヤメ Iris sanguinea。アヤメ・ハナショウブ・カキツバタの識別法は「たはむれ」の私の注を参照されたい。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 沈丁花

 

沈丁花

 

からりはたはた織る機(はた)は

佛蘭西機(ふらんすばた)か、高機(たかばた)か、

ふつととだえたその窓に

守宮(やもり)吸ひつき、日は赤し、

明(あか)り障子の沈丁花。

 

[やぶちゃん注:「沈丁花」フトモモ目ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属ジンチョウゲ Daphne odora。私の好きな花。雌雄異株であるが、本邦に植生するものは殆んどが雄株で、挿し木で殖やす。

「佛蘭西機」この場合は、「高機」と並べて孰れかと言っているからには織物をパターン通りに仕上げるためにパンチ・カードを利用した最初のジャカード織機(Jacquard loom)の古い手動式手織機であろう。内海まりお氏のブログ「極楽京都日記」の「【京都】宝絹展 2017 9/2~9/6【イベント】」の中のこちらの写真(但し、ミニチュア)を見られたい。

「高機」経巻具(たてまきぐ)の他に布巻具も機台に取り付けて経糸(たていと)水平に張り、腰かけて織るようにした手織機。古い地機(じばた)より全体を高くしてあるので、この名がある。機台(はただい)の腕木(うでぎ)に支えられた弓棚(新しいものは轆轤(ろくろ))につるした綜絖(そうこう:緯糸を通すために、経糸を上下に分ける器具)の下方を踏木に結び、この踏木を踏んで開口する。杼(ひ)は大杼から小杼になり、投げ入れるようになった。綜絖は二~十枚程度で、斜文などのやや複雑な組織(くみお)りを作ることが出来る。構造と変遷を見るには「三河テキスタイルネットワーク」のサイト「夢織」のこちらがよい。

「守宮」爬虫綱有鱗目ヤモリ科ヤモリ属ニホンヤモリ Gekko japonicus。中国東部・日本(秋田県以南の本州・四国・九州・対馬)・朝鮮半島に分布する。江戸時代に来日したジーボルトが新種として報告したために種小名が japonicus となっているが、ユーラシア大陸からの外来種と考えられており、日本固有種ではない。日本に定着した時期については不明だが、平安時代以降と考えられている。私の家には二十年以上に亙って何世代もが暮らしている。見かけないと心配にさえなる大事な同居人である。私は昆虫類は苦手だが、爬虫類は全く問題ない。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 紺屋のおろく

 

紺屋のおろく

 

にくいあん畜生は紺屋(かうや)のおろく、

猫を擁(かか)えて夕日の濱を

知らぬ顏して、しやなしやなと。

 

にくいあん畜生は筑前しぼり、

華奢(きやしや)な指さき濃靑(こあを)に染めて、

金(きん)の指輪もちらちらと。

 

にくいあん畜生が薄情(はくじやう)な(め)眼つき、

黑の前掛(まへかけ)、毛繻子か、セルか、

博多帶しめ、からころと。

 

にくいあん畜生と、擁(かか)えた猫と、

赤い入日にふとつまされて

瀉(かた)に陷(はま)つて死ねばよい。ホンニ、ホンニ………

 

[やぶちゃん注:「筑前しぼり」「福岡市博物館」公式サイト内の松村利規氏に手になる「企画展示室3 筑前絞り・再発見」の解説(まさに本詩篇のこの第二連が引かれてある)や、「甘木歴史資料館」公式サイト内の解説シートの副館長遠藤啓介氏の手になる「甘木絞りの基礎知識①~その起源と発展について~」PDF)及び「甘木絞りの基礎知識②~その起源と発展について」PDF)の「4.筑前絞り(甘木絞りと博多絞り)」がよい。

「毛繻子」は「けしゆす(けしゅす)」或いは「けじゆす(けじゅす)」で、綿と毛の交じった織物の一種。綿糸を経糸(たていと)に、毛糸を緯糸(よこいと)にして織った綾織(あやお)りの織物。繻子(しゅす:縦横五本以上からなる密度の高い、光沢の強い織物で、本来は絹製。サテンのこと)のように滑らかで光沢があり、服の裏地などに使う。

「セル」「セル地」のこと(但し、「地」は当て字)。「セル」はオランダ語「serge」の略で、布地の「セルジ」のこと(「セル地」という発音の偶然から「セル」と短縮された)。梳毛糸(そもうし:ウールをくしけずって長い繊維にし、それを綺麗に平行にそろえた糸)を使った、和服用の薄手の毛織物。サージ。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 酒の精

 

酒の精

 

『酒倉に入るなかれ、奧ふかく入るなかれ、弟よ、

そこには恐ろしき酒の精のひそめば。』

『兄上よ、そは小さき魔物(まもの)ならめ、かの赤き三角帽の

西洋のお伽譚(とぎばなし)によく聞ける、おもしろき…………。』

『そは知らじ、然れどもかのわかき下婢(アイヤン)にすら

母上は妄(みだ)りにゆくを許したまはず』

『そは訝(いぶ)しきかな、兄上、かの倉の内には

力强き男らのあまたゐれば恐ろしき筈なし』

『げにさなり、然れども弟よ、母上は

かのわかき下婢(アイヤン)にすらされどなほゆるしたまはず。』

酒倉に入るなかれ、奧ふかく入るなかれ、弟よ。』

 

[やぶちゃん注:「下婢(アイヤン)」方言と思われるが、語源未詳。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 酒の黴

 

酒の黴

 

  酒屋男は罰被(か)ぶらんが不思議、
  ヨイヨイ、足で米といで手で流す、
  ホンニサイバ手で流す。ヨイヨオイ。

 

  1

金(きん)の酒をつくるは

かなしき父のおもひで、

するどき歌をつくるは

その兒の赤き哀歡(あいくわん)。

 

金(きん)の酒をつくるも、

するどき歌をつくるも、

よしや、また、わかき娘の

父(てて)知らぬ子供生むとも…………

 

  2

からしの花の實になる

春のすゑのさみしや。

酒をしぼる男の

肌さへもひとしほ。

 

  3

酒袋(さかぶくろ)を干すとて

ぺんぺん草をちらした。

散らしてもよかろ、

その實(み)となるもせんなし。

 

  4

酛(もと)すり唄のこころは

わかき男の手にあり。

擢(かい)をそろへてやんさの

そなた戀しと鳴らせる。

 

  5

麥の穗づらにさす日か、

酒屋男(さかやをとこ)にさす日か、

輕ろく投げやるこころの

けふをかぎりのあひびき。

 

  6

人の生るるもとすら

知らぬ女子(をなご)のこころに、

誰(た)が馴れ初めし、酒屋の

にほひか、麥のむせびか。

 

  7

からしの花も實となり、

麥もそろそろ刈らるる。

かくしてはやも五月は

酒量(はか)る手にあふるる。

 

  8

櫨(はじ)の實採(みとり)の來る日に

百舌(もず)啼き、人もなげきぬ、

酒をつくるは朝あけ、

君へかよふは日のくれ。

 

  9

ところも日をも知らねど、

ゆるししひとのいとしさ、

その名もかほも知らねど、

ただ知る酒のうつり香。

 

  10

足をそろへて磨(と)ぐ米、

水にそろへて流す手、

わかいさびしいこころの

歌をそろゆる朝あけ。

 

  11

ひねりもちのにほひは

わが知る人も知らじな。

頑(かた)くなのひとゆゑに

何時(いつ)までひねるこころぞ。

 

  12

微(ほの)かに消えゆくゆめあり、

酒のにほひか、わが日か、

倉の二階にのぼりて

暮春をひとりかなしむ。

 

  13

さかづきあまたならべて

いづれをそれと嘆かむ、

唎酒(ききざけ)すなるこころの、

せんなやわれも醉ひぬる。

 

  14

その酒の、その色の、にほひの

口あたりのつよさよ。

おのがつくるかなしみに

囚(と)られて泣くや、わかうど。

 

  15

酒を釀(かも)すはわかうど、

心亂すもわかうど、

誰とも知れぬ、女の

その兒の父もわかうど。

 

  16

ほのかに忘れがたきは

酒つくる日のをりふし、

ほのかに鳴いて消えさる

靑い小鳥のこころね。

 

  17

酒屋の倉のひさしに

薊のくさの生ひたり、

その花さけば雨ふり、

その花ちれば日のてる。

 

  18

計量機(カンカン)に身を載せて

量るは夏のうれひか、

薊の花を手にもつ

裸男の酒の香。

 

  19

かなしきものは刺あり、

傷(きず)つき易きこころの

しづかに泣けばよしなや、

酒にも黴(かび)のにほひぬ。

 

  20 

目さまし時計の鳴る夜に

かなしくひとり起きつつ

倉を巡回(まは)れば、つめたし、

月の光にさく花。

 

  21

わが眠(ぬ)る倉のほとりに

靑き光(ひ)放つものあり、

螢か、酒か、いの寢ぬ

合歡木(カウカノキ)のうれひか。

 

  22

倉の隅にさす日は

微(ほの)かに光り消えゆく、

古りにし酒の香にすら、

人にはそれと知られず。

 

  23

靑葱とりてゆく子を

薄日の畑にながめて

しくしく痛(いた)むこころに

酒をしぼればふる雪。

 

  24

銀の釜に酒を湧かし、

金の釜に酒を冷やす

わかき日なれや、ほのかに

雪ふる、それも歎かじ。

 

  25

夜ふけてかへるふしどに

かをるは酒か、もやしか、

酒屋男のこころに

そそぐは雪か、みぞれか。

 

[やぶちゃん注:冒頭の添え辞は二行であるが、ブラウザでの不具合を考え、三行に分かった。太字「やんさの」と「もやし」は底本では傍点「ヽ」。各章の行空けは、底本では複数個所に不審があるが、それは総て版組のミスや、初行にルビ振ったために生じたやはり版組の不具合と判断出来るので、総て統一した。「4」の「擢(かい)」はママ。「櫂」が正しい。

「ホンニサイバ」方言とは思われるが、意味不明。「ホンニ」は「まことに」「実に」の意だろうが、「サイバ」が判らぬ。識者の御教授を乞う。

「からし」フウチョウソウ目アブラナ科アブラナ属セイヨウカラシナ変種カラシナ Brassica juncea var. cernua

「ぺんぺん草」アブラナ目アブラナ科ナズナ属ナズナ Capsella bursa-pastoris の異名。

「酛(もと)すり唄」日本酒の製法の一つである生酛(きもと)造りで、蒸米・米麹・水を混ぜ合わせたものを櫂棒(かいぼう)で摺(す)る作業の労働唄。

「櫨(はじ)」既出既注。

「そろゆる」「揃ゆる」。ハ行下二段活用の「揃(そろ)ふ」から転じて、室町時代頃から用いられた語で、多くの場合、終止形は「そろゆる」の形で他動詞ヤ行下二段で活用した。

「ひねりもち」「捻り餅」蒸した米を手で捻(ひね)って餅状にしたもの。酒造の際に酒米の蒸し具合を知るために作る。

「計量機(カンカン)」台秤(だばかり)・竿秤(さおばかり)などの俗称。古くは看貫(かんかん:商品や貨物の貫目を量ること。明治初期に横浜で生糸取引の際に貫目を改め見たことからいう)の時に用いた、西洋から渡来した台秤をいったが、後には竿秤などをも指すようになった。ここは本来の台秤であろう。

「いの寢ぬ」「寢(い)ぬ」+「寢(ぬ)」の畳語が訛ったものであろう。「いぬぬ」「いをぬ」などがある。

「合歡木(カウカノキ)」既出既注。]

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 去来 一

 

      去  来

 

       

 蕪村が『鬼貫句選』の跋において其角、嵐雪、去来、素堂、鬼貫を五子とし、その風韻を知らざる者には共に俳諧を語るべからずといったことは、前に嵐雪の条に記した。五子なる語はこれにはじまるのであろう。しかるに蕪村の弟子である大魯(たいろ)の閲を経て行われた『五子稿(ごしこう)』は、素堂、去来の外に来山(らいざん)、言水(ごんすい)、沾徳(せんとく)を挙げている。蕪村のいわゆる「五子」がその最も尊重する作家であったことはいうまでもないが、『五子稿』が其角、嵐雪、鬼貫を除いたのは、必ずしもこれを軽んじたものとも思われぬ。右の『鬼貫句選』の跋に「其角嵐雪おのおの集あり、素堂はもとより句少く、去来はおのづから句多きも、諸家の選にもるゝこと侍らず、ひとり鬼貫は大家にして世に伝はる句稀なり」云、とある筆法に従えば、一家の集ある其角、嵐雪、鬼貫の三者を除き、代うるに来山、言水、浩徳を以てしたものとも解釈することが出来る。

[やぶちゃん注:向井去来(慶安四(一六五一)年~宝永元(一七〇四)年)は蕉門十哲の一人。儒医向井元升(げんしょう)の二男として長崎市興善町に生まれた。堂上家に仕え、一時、福岡の叔父のもとに身を寄せて武芸を上達させ、その功あって二十五歳の時、福岡藩に招請されたが、なぜか固辞し、以後、京で浪人生活を送った。貞享初年(一六八四年)から文通によって松尾芭蕉の教えを受け、同三年に江戸に下って初めて芭蕉と会うことを得た。元禄二(一六八九)年の冬には、近畿滞在中の芭蕉を自身に別荘である嵯峨野の落柿舎に招き、同四年の夏には芭蕉の宿舎として落柿舎を提供している。この間、「俳諧の古今集」と称される「猿蓑」の編集に野沢凡兆とともに従事し、芭蕉から俳諧の真髄を学ぶ機会に恵まれた。その著「去来抄」は蕉風俳論の最も重要な文献とされているが、本書にはこのときの体験に基づく記事が多い。篤実な性格は芭蕉の絶大な信頼を得ており、芭蕉は戯れに彼を「西三十三ケ国の俳諧奉行」と呼んだという。しかしこの去来にも、若い頃は女性に溺れるような多感な一面があったらしく、丈草の書簡に「此人(去来のこと)も昔は具足を賣(うり)て傾城にかかり候」と記されてある。彼は、一生、正式な結婚をせず、しかし可南という内縁の女性と暮らしたが、この女性はもとは京都五条坂の遊女であったと伝えられる(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「蕪村」の「『鬼貫句選』の跋」今回は藤井紫影校訂「名家俳句集」(昭和二(一九二七)年有朋堂書店刊)の蕪村跋を国立国会図書館デジタルコレクションの画像でリンクさせておく。

「前に嵐雪の条に記した」「嵐雪 三」参照。

「五子稿」芦陰舎大魯序は安永三年、麻青菴直生跋は安永四(一七七五)年で大坂の書肆朝陽館編で安永四年板行。原本を早稲田大学図書館の「古典総合データベース」のこちらで画像で読むことが出来る

「来山」小西来山(承応三(一六五四)年~享保元(一七一六)年)は大坂(和泉)生まれ。芭蕉(寛永二一・正保元(一六四四)年生まれ)と同時代の俳人。父は薬種商。七歳で西山宗因門の前川由平に学び、十八歳で俳諧点者となった。禅を南岳悦山に学んで法体(ほったい)となった。延宝六(一六七八)年の西鶴編「物種集(ものだねしゅう)」に初出。元禄三(一六九〇)年以降に活動が活発化し、元禄三年から元禄七年の間に生前に発表された約二百六十句のうちの凡そ九十句が発表されている。その間の元禄五年には「俳諧三物」(来山の独吟表六句を巻頭に置いて他に知友門弟の句を所収)を板行したが、以後、自ら選んだ集は存在しない。元禄十年代以降は雑俳点者としての活躍が甚だしくなり、大坂の雑俳書で来山に無関係のものは殆どないともされる。但し、来山自身は纏まった自分名義の俳書は残していない。「常の詞」による俳諧を説き、素直で平淡な句作りや日常の中に美を求める姿勢を特徴とし、時に卑俗で理屈臭い句が多いともされる(以上はウィキの「小西来山」や諸辞書を参考にしたが、同ウィキの記載にはやや疑問がある)。私は彼の辞世とするものが忘れ難い(伴蒿蹊「近世畸人傳」に拠る)。

 來山は生まれた咎で死ぬる也それでうらみも何もかもなし

「言水」池西言水(慶安三(一六五〇)年~享保七(一七二二)年)はやはり芭蕉と同時代の俳人。ウィキの「池西言水」によれば、言水は奈良生まれで、十六歳で法体(ほったい)して『俳諧に専念したと伝えられる。江戸に出た年代は不詳であるが』延宝年間(一六七〇年代後半)に『大名俳人、内藤風虎』(ふうこ:陸奥磐城平藩第三代藩主内藤義概(よしむね 元和五(一六一九)年~貞享二(一六八五)年)の諡号。ウィキの「内藤義概」によれば、『晩年の義概は俳句に耽溺して次第に藩政を省みなくな』ったとある)『のサロンで頭角を現した』。延宝六(一六七八)年に『第一撰集、『江戸新道』を編集した。その後『江戸蛇之鮓』『江戸弁慶』『東日記』などを編集し、岸本調和、椎本才麿の一門、松尾芭蕉一派と交流した』。天和二(一六八二)年の『春、京都に移り、『後様姿』を上梓した後、北越、奥羽に旅し』、天和四(一六八四)年まで『西国、九州、出羽・佐渡への』三度の『地方行脚をおこなった』。貞享四(一六八七)年、『伊藤信徳、北村湖春、斎藤如泉らと『三月物』を編集した。但馬豊岡藩主・京極高住』とも交流した、とある。私の好きな句の一つは、

 凩(こがらし)のはては有りけり海の音

である。特に挙げずとも、俳句を嗜む御仁なら「エッツ!?!」と驚くであろう。特に出さぬが、近現代の誰彼の名句とされるものは粗方、この言水の名句の剽窃に過ぎぬとさえ私は思っているほどに好きな句なのである。

「沾徳」(寛文二(一六六二)年~享保一一(一七二六)年)江戸中期の俳人。姓は門田、のち水間。江戸生まれ。はじめ沾葉と号し、露言に師事。磐城平(いわきたいら)城主内藤風虎(前注参照)の息露沾(蕉門中で最も身分の高い人物として知られる。但し、二十八歳の時に御家騒動によって家老の讒言で貶められて麻布六本木の別邸で部屋住みのままに生涯を終えた世間的には不遇の人であった)から師弟に露・沾の各一字を授かったものとされる。俳壇への登場は延宝六(一六七八)年。露沾の寵を得て内藤家に仕え、山口素堂に兄事し、儒学を林家に、歌学を山本春正・清水宗川に学んだ。風虎没後に同家を去り、貞享四(一六八七)年に姓号を改めて俳諧宗匠となった。素堂の仲介で蕉門の其角と親交を結び、其角没後はその洒落風を継承し、過渡期の江戸俳壇を統率する位置に立ち、点者として一世を風靡した(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。彼は赤穂浪士の大高源五(俳号は子葉)の俳句の師として専ら知られるが、私は特にピンとくる句を知らない。]

 去来の名は芭蕉の生前から已に重きを成していた。芭蕉が杉風(さんぷう)を以て東三十三国の俳諧奉行とし、去来を以て西三十三国の俳諧奉行とするといったのは、固(もと)より一場の戯言[やぶちゃん注:「ざれごと」。]であろうが、彼の名は凡兆と共に事に当った『猿蓑』撰集のみを以てしても、永く俳壇に記億さるべきである。しかも凡兆の仕事が竟(つい)に『猿蓑』以外に出なかったに反し、去来は遥に多くの痕迹をとどめている。蝶夢が『去来発句集』の序において、西の去来、丈艸を東の其角、嵐雪に比し、「其角嵐雪は風雅を弘(ひろ)むるを業とし、もつぱら名利[やぶちゃん注:「みやうり」。]の境に遊べばまたその流れを汲む輩(やから)も多くて、其角に五元集、嵐雪に玄峰集といへる家の集ありて世につたふ。さるを去来丈艸は蕉翁の直指[やぶちゃん注:「ぢきし」。直伝(じきでん)のこと。]の旨をあやまらず、風雅の名利を深く厭(いと)ひて、ただ拈華微笑[やぶちゃん注:「ねんげみしやう(ねんげみしょう)」。]のこゝろをよく伝へて、一紙の伝書をも著さず、一人の門人をもとめざれば、ましてその発句を書集むべき人もなし」といったのは、主として俳譜に臨む態度の相違を述べたのであるが、あらゆる意味において其角、嵐雪と好箇の対照をなすものは去来、丈艸の二人であろう。

[やぶちゃん注:「蝶夢」五升庵蝶夢(享保一七(一七三二)年~寛政七(一七九六)年)は江戸中期の時宗僧で俳人(職業俳人ではない)。京の生まれ。出自・俗名などは不詳。幼くして京の法国寺(時宗)に入った。十三歳で阿弥陀寺内の帰白院に転じ、後に住職となったが、この頃より俳諧を志し、早野巴人系の宗屋(そうおく)門下に入るが、宝暦九(一七五七)年、敦賀に赴いたのを契機として都市風の俳諧から地方風の俳諧に転じた。俳人で行脚僧の既白や加賀国出身の二柳・麦水などと交流し、蕉風俳諧の復興を志した。やがて三十六歳で洛東岡崎に五升庵を結び、芭蕉顕彰の事業に力を注いだ。その活動は義仲寺の復興と護持・粟津文庫の創設・毎年忌日の「しぐれ会」の実施・全国的な地方行脚による芭蕉復興の地方拡大などであった。編著書の大半は芭蕉顕彰に関わるものであり、松尾芭蕉の遺作を研究刊行した「芭蕉翁発句集」・「芭蕉翁文集」・「芭蕉翁俳諧集』の三部作は、始めて芭蕉の著作を集成したものであり、「芭蕉翁絵詞伝」は本格的な芭蕉伝としてとみに知られる(以上はウィキの「蝶夢」他を参照した)。

「去来発句集」蝶夢編で明和八(一七七一)年刊。去来の逝去から六十七年後のことであった。先と同じ国立国会図書館デジタルコレクションの蝶夢の序の頭の画像をリンクさせておく。]

 去来の「贈晋氏其角書」を読むと、其角の作品に対しては、芭蕉生前から已に不満を懐いていた事がわかる。その意見は千歳不易、一時流行というような語によって現されているが、その本(もと)づくところはやはり其角なり去来なりの人物性行に存するのであろう。「不易の句をしらざれば本[やぶちゃん注:「もと」。]たちがたく、流行の句をまなびざれば風[やぶちゃん注:「ふう」。]あらたまらず。よく不易を知る人は往々にしてうつらずと云ふことなし。たまたま一時の流行に秀たる[やぶちゃん注:「ひいでたる」。]ものは、たゞおのれが口質[やぶちゃん注:「くちぐせ」。]のときに逢ふのみにて、他日流行の場にいたりて一歩もあゆむことあたはず」という去来の見解に従えば、其角現在の俳風は芭蕉のそれに一致せず、従って「諸生のまよひ、同門のうらみ」も少くないというのである。芭蕉はさすがに群雄を駕馭(がぎょ)するだけの包容力を具えていたから、去来の論を肯定すると同時に、其角の立場をも認め、「なをながくこゝにとゞまりなば、我其角をもつて剣(つるぎ)の菜刀(ながたな)になりたりとせん」という去来の評に対しては、「なんじが言慎むべし。角や今我今日の流行におくるゝとも、行(ゆく)すへまたそこばくの風流をばなしいだしきたらんも知るベからず」と戒めている。芭蕉の骨髄は去来、丈艸これを伝えたという蝶夢の見方も一理あるが、其角、嵐雪――去来、丈艸を左右の両翼として進んだものと見た方が、あるいは妥当であるかも知れない。

[やぶちゃん注:「贈晋氏其角書」「晋氏(しんし)其角に贈るの書」。「晋氏」は「晋子」とあるべきところ。これは俳諧論書「許六・去来 俳諧問答」の冒頭に配されたもので、実際に元禄一〇(一六九七)年閏二月附で去来から其角に送られた書簡の写しである。当該書はこれを皮切りに、翌年にかけて許六と去来の間で交わされた往復書簡を集めたもので、「贈落舍去來書」・「俳諧自讃之論」・「答許子問難辯」・「再呈落柿舍先生」・「俳諧自讃之論」・「自得發明弁」(「弁」はママ)・「同門評判」から成る。去来は〈不易流行〉論を、許六は万葉・古今から受け継いだ伝統的文芸の〈血脈(けちみゃく)〉説を前面に打ち出して論を戦わせており、蕉風俳論書として第一級の価値を有する。天明五(一七八五)年に浩々舎芳麿により「俳諧問答靑根が峰嶺」として出版され、寛政一二(一八〇〇)年に「俳諧問答」の題で再版された。以上は平凡社「世界大百科事典」を参考にしたが、叙述に不全な点があるので私が手を加えてある。「贈晋子其角書」はそれほど長いものではないので、以下に電子化を試みる。底本は所持する一九五四年岩波文庫刊橫澤三郞校注「許六 去来 俳諧問答」を用いたが、一部の読みは私が推定で歴史的仮名遣で補い、判り易くするために段落を成形し記号も増やした。歴史的仮名遣の誤りはママである。

   *

 故翁奥羽の行脚より都へ越給ひける比、當門の俳諧一変す。我(わが)輩(ともがら)、笈(おひ)を幻住庵にになひ、杖を落柿舍に受(うけ)て、畧(ほぼ)そのおもむきを得たり。「瓢(ひさご)」・「さるみの」是也。其後またひとつの新風を起さる。「炭俵」「續猿蓑」なり。

 去來問(とひて)云(いはく)、

「師の風雅見及(みおよぶ)處、次韻にあらたまり、『みなし栗』にうつりてよりこのかた、しばしば變じて、門人、その流行に浴せん事をおもへり。」

 吾、これを聞けり。

「句に千載不易のすがたあり。一時流行のすがたあり。これを兩端(たん)におしへたまへども、その本(もと)一(ひとつ)なり。一なるはともに風雅のまことをとれば也。不易の句を知らざれば本たちがたく、流行の句をまなびざれば、風、あらたならず。よく不易を知る人は、往々にしてうつらずと云ふことなし。たまたま一時の流行に秀(ひいで)たるものは、たゞおのれが口質(くちくせ)のときに逢ふのみにて、他日流行の場にいたりて一步もあゆむことあたはず。」

と。

「しりぞいておもふに、其角子はちからのおこのふことあたはざるものにあらず。且つ才麿(さいまろ)・一晶(いつすい)のともがらのごとく、おのれが管見(くわんけん)に息づきて、道をかぎり、師を損ずるたぐひにあらず。みづからおよぶべからざることは、書に筆し、くちに言へり。しかれどもその詠草をかへり見れば、不易の句におゐては、すこぶる奇妙をふるへり。流行の句にいたりては、近來(ちかごろ)そのおもむきをうしなへり。ことに角子は世上の宗匠、蕉門の高弟なり。かへつて吟跡の師とひとしからざる、諸生のまよひ、同門のうらみすくなからず。」

 翁のいはく、

「なんぢが言(いひ)、しかり。しかれども、およそ天下に師たるものは、まづおのが形・くらゐをさだめざれば、人おもむく所なし。これ角が舊姿(きうし)をあらためざるゆへにして、が流行にすゝまざるところなり。わが老吟にともなへる人々は、雲かすみのかぜに變ずるがごとく、朝々暮々かしこにあらはれ、こゝに跡なからん事をたのしめる狂客なりとも、風雅(ふうが)のまことを知らば、しばらく流行のおなじからざるも、又相はげむのたよりなるべし。」

 去來のいはく、

「師の言かへすべからず。しかれども、かへつて風(ふう)は詠にあらはれ、本哥(ほんか)といへども、代々の宗(そう)の樣おなじからず。いはんや誹諧(はいかい)はあたらしみをもつて命とす。本哥は代(よ)をもつて變(へんず)べくば、この道(みち)年をもつて易ふべし。水雪の淸きも、とゞまりてうごかざれば、かならず汚穢(おゑつ)を生じたり。今日諸生の爲に古格(こかく)をあらためずといふとも、なをながくこゝにとゞまりなば、我(われ)其角をもつて、剱(つるぎ)の菜刀(ながたな)になりたりとせん。」

 翁のいはく、

「なんじが言愼(つつし)むべし。角や今(ワガ)我今日の流行におくるゝとも、行(ゆく)すへ、また、そこばくの風流をなしいだしきたらんも知るべからず。」

 去來のいはく、

「さる事あり。これを待(まつ)にとし月あらんを歎くのみ。」

と、つぶやき、しりぞきぬ。

 翁、なくなり給ひて、むなしく四とせの春秋をつもり、いまだ我、東西雲裏(うんり)のうらみをいたせりといへども、なを松柏霜後のよはひをことぶけり。さいはいにこの書を書して、案下におくる。先生これをいかんとし給ふべきや。

   右                去來稿

   *

かなり判り易いことを言っていると思う。なお、藤井美保子氏の論文「去来・其角・許六それぞれの不易流行――芭蕉没後の俳論のゆくえ「答許子問難弁」まで――」(『成蹊国文』二〇一二年三月発行・PDF)がなかなかいい。一読をお勧めする。

「剣の菜刀になりたりとせん」は諺「昔の剣(つるぎ)今の菜刀(ながたな)」のこと。一般には「昔、剣として用いられたものも、今はせいぜい菜刀の役にしか立たない」の意を転じて、「すぐれた人も老いた今は物の役に立たなくなってしまっている」ということ、或いは「すぐれたものも、古くなると時世に合わなくなってしまう」ことの換喩。「昔千里も今一里」と同じ。]

 去来が芭蕉に接近するようになったのは、何時頃からかわからぬが、その句は貞享二年の『一楼賦』(いちろうふ)にあるのが最も古いようである。しかしその句は

 五日経ぬあすは戸無瀬の鮎汲ん  去来

[やぶちゃん注:「いつかへぬあすはとなせのあゆくまん」。「五日経ぬ」は若鮎の遡上が始まったと聴いて五日経ったということか。「戸無瀬」は京嵐山付近の地名でこの辺り(グーグル・マップ・データ)。「鮎汲ん」は春三月の季題で、「若鮎汲(わかあゆくみ)」のこと。若鮎が群れを成して川を遡って来るところを、網を使ってその中へと追い込み、柄杓(ひしゃく)や叉手(さで)で掬(すく)い上げて汲み取る川漁法を言う。所収する「一楼賦」は風瀑編で、貞享二(一六八五)年自序。]

 雪の山かはつた脚もなかりけり  同

[やぶちゃん注:よく意味が判らない。一面雪を被った山々はそうでない時の裾野(脚)の変化も何もなく変容しているさまを謂うのか?]

の二句に過ぎぬ。次いで同三年に

 初春や家に譲りの太刀はかん   去来(其角歳旦帖)

[やぶちゃん注:「其角歳旦帖」は複数あるが、確かに貞亨三年版が存在する。]

 一畦はしばし鳴やむ蛙かな    去来(蛙合)

[やぶちゃん注:「一畦」は「ひとあぜ」。「蛙合」は「かはづあはせ(かわずあわせ)」で、仙化編で、確かに貞享三年刊。]

等がある。「初春や」の句は翌年の『続虚栗(ぞくみなしぐり)』に至って「元日や」と改めたが、調子は「元日や」の方が引緊っていいように思う。作家としての去来の発足は先ず『続虚栗』以後と見るベきで、芭蕉の門下ではそう古い方でもなし、また新しい方でもない。『奥の細道』旅行を境として姑(しばら)く前後に分けるなら前期の弟子に属することになる。『続虚栗』は已に蕉門の醇化期に入っているから、去来の句には最初から生硬晦渋なものは見当らない。

[やぶちゃん注:「続虚栗」其角編。貞享四年刊。]

 蚊遣にはなさで香たく悔みかな   去来

[やぶちゃん注:「蚊遣」は「かやり」。]

 たまたまに三日月拝む五月かな   同

   木津へまかりて

 山里の蚊は昼中に喰ひけり     同

[やぶちゃん注:「昼中」は「ひるなか」、「喰ひけり」は「くらひけり」。]

 更る夜を鄰に効ふすゞみかな    同

[やぶちゃん注:「更る」は「ふける」、「効ふ」は「ならふ」。]

 旅寐して香わろき草の蚊遣かな   同

[やぶちゃん注:「香」は「か」。]

 鎧著てつかれためさん土用干    同

[やぶちゃん注:上五は「よろひきて」。]

   遊女ときは身まかりけるを
   いたみて久しくあひしれり
   ける人に申侍る

 露烟此世の外の身うけかな     同

[やぶちゃん注:「露烟」は「つゆけぶり」、「外」は「ほか」。この句は、いい。]

 躍子よあすは畠の艸ぬかん     同

[やぶちゃん注:「躍子」は「をどりこ」。]

 たれたれも東むくらん月の昏    同

[やぶちゃん注:「昏」は「くれ」。]

   嵯峨に小屋作りて折ふしの
   休息仕候なれば

 月のこよひ我里人の藁うたん    同

[やぶちゃん注:「仕候」は「つかまつりさふらふ」。後の落柿舎である。貞享二年秋に移った直後の吟であろう。]

 盲より啞のかはゆき月見かな    同

[やぶちゃん注:「盲」は「めくら」、「啞」は「おし」。「かはゆき」は「哀れで見て居られない」の意。]

 長き夜も旅くたびれにねられけり  同

 雲よりも先にこぼるゝしぐれかな  同

 年の夜や人に手足の十ばかり    同

[やぶちゃん注:大晦日に集った人々の夜更けて雑魚寝するさまを詠んだものであろう。]

 頭から一筋にいい下すような去来一流の調子は、この時已に出来上っている。機に臨み時に

応じて千変万化するが如きは、固よりその長伎(ちょうぎ)ではない。一見無造作にいい放ったようで、内に一種の力を蔵しているのが、去来一流の鍛錬を経た所以である。

[やぶちゃん注:「長伎」得意とする技法。]

 かつて目黒野鳥氏が去来の句に語尾を「ん」で止めたものが多いといって、『去来発句集』についてその句を示されたことがあった。『続虚栗』にある十四句のうち、「ん」を用いたものが五つに及んでいるのは、俳句生活の第一歩においてその実例に乏しからざるを語るものであるが、これは去来個人の特徴と見るべきか、この時代における共通の調子と見るべきか、俄に判定しがたいものがある。「ん」を用いたものは『続虚栗』全体で五十を超え、其角の作にも同じく八を算え得るからである。が、いずれにせよ、こういう句法の多いことが、去来の一本調子の作中において、一種の効果を収めているだけは間違ない。

[やぶちゃん注:「目黒野鳥」(めぐろやちょう 明治一四(一八八一)年~昭和三八(一九六三)年)は俳人で俳諧研究者。「芭蕉翁編年誌」(昭和三三(一九五八)年青蛙房刊)などがある。]

 蕉門の句は『続虚栗』より『曠野』に進むに及んで、一層雅馴なものになった。『続虚栗』はその題名が語っているように、『虚栗』一流の圭角(けいかく)がなお多少名残をとどめているけれども、『曠野』に至っては全くこれを脱却し得ている。あまりに平淡に赴いた結果、時に平板に失しはせぬかを疑わしむるものがないでもないが、俳諧史上における『曠野』の特徴は正にこの無特徴に似たところにある。この集に現れた去来の作品は次のようなものである。

[やぶちゃん注:「圭角」「圭」は「玉」(ぎょく)の意で、元は玉の尖った部分。宝玉の角(かど)で、転じて「性格や言動にかどがあって円満でないこと」を言う。]

 何事ぞ花見る人の長刀       去来

[やぶちゃん注:「長刀」は「なががたな」。]

 名月や海もおもはず山も見ず    同

 鶯の鳴や餌ひろふ片手にも     同

[やぶちゃん注:「餌」は「ゑ」。「片手」は「一方で」の意。]

 うごくとも見えで畑うつ麓かな   同

[やぶちゃん注:一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の本句の注で、元禄二(一六八九)年頃の作と推定されておられる。かなり遠く離れている農作業の景であるが、静止画像かと思われる中に、農具を振り上げる微妙な瞬間が捉えられている。面白い。]

 いくすべり骨をる岸のかはづかな  同

 あそぶともゆくともしらぬ燕かな  同

 笋の時よりしるし弓の竹      同

[やぶちゃん注:「笋」は「たけのこ」。]

 涼しさよ白雨ながら入日影     同

[やぶちゃん注:「白雨」は「ゆふだち(ゆうだち)」。]

 秋風やしら木の弓に弦はらん    同

[やぶちゃん注:「弦」は「つる」。]

 湖の水まさりけり五月雨      同

[やぶちゃん注:「みづうみのみづまさりけりさつきあめ」。琵琶湖の景。其角や許六が絶賛しているが、私は少しもいいと思わぬ。既にお判りかと思うが、私は嘗て去来の句にいいと思ったことは少ない。どこか理(り)に徹した、冷たさを感じるからである。

 榾の火に親子足さす侘ねかな    同

[やぶちゃん注:「榾」は「ほだ」。]

   いもうとの迫善に

 手のうへにかなしく消る蛍かな   同

[やぶちゃん注:「消る」は「きゆる」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の本句の評釈で、貞享五(一六八八)年(去来は満三十七ほど)『五月十五目に没した妹千子(ちね)への追悼吟である。愛する妹の命の象徴である蛍が、自分の掌の中ではかなく消えてしまったのは、なんともつらく悲しいことだ、というのである。千子が辞世吟で「もえやすく又消えやすき蛍かな」(『いつを昔』)と詠んだのに唱和するかたちで、深い哀悼の意を表した句である。蛍は、和泉式部の「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」(『後拾遺和歌集』第二十・雑)の歌以来、人の魂(命)に見立てられることが多かったのである』とされ、「いもうと」に注されて、『向井千代のこと。俳号を千子(ちね)といい、長崎の廻船問屋清水藤右衛門に嫁して一子をもうけたが、貞享五年五月、三十歳にもならぬ若さでなくなった。去来の一族には、妻可南女をはじめ、俳諧を嗜むものが多かったが、千子もそのひとり。貞享三年秋には、去来・千子連れだって『伊勢紀行』の旅をしている』とされ、また「句集では『「妹千子身まかりけるに」と前書する』とある。]

   李下が妻のみまかりしをいたみて

 ねられずやかたへひえゆく北おろし 同

[やぶちゃん注:「李下」(りか 生没年未詳)は蕉門の俳人。延宝九(一六八一年)春に彼が深川の師松尾桃青の草庵に芭蕉の一株を植えた。これを記念してこの翌天和元年三月の千春編の「武蔵曲」以降に、彼は「芭蕉」を名乗るようになったのであった。「曠野」・「虚栗」・「其袋」などに入集する、芭蕉の初期(芭蕉の立机は延宝六(一六七八)年であるが、それ以前に彼は芭蕉に従っていたものと思われる直参である)。李下の妻ゆきも門人であったが、この時(貞亨五・元禄元(一六八八)年秋「ゆき」没か。貞享五年九月三十日(グレゴリオ暦一六八八年十月二十三日)に元禄に改元)、芭蕉も彼女に、

   李下が妻の悼(いたみ)

 被(かづ)き伏す蒲團や寒き夜やすごき

追善句を贈っている。]

 『曠野』に収められている去来の句は、量においては必ずしも他を圧するに足らぬけれども、質においては嶄然(ざんぜん)頭角を現している。特に「秋風」の句、「湖の水まさりけり」の句の如きは、永く俳諧の天地に光彩を放つべき名句である。『曠野』集中の珍たるのみではない。

[やぶちゃん注:「嶄然頭角を現」すで、「他より一際抜きん出て才能や力量を現わす」の意。]

 寺田博士が高等学校の生徒だった時分に、はじめて夏目漱石氏を訪うて俳句に関する話を聞いた。その時の談片の中に「秋風やしら木の弓に弦はらん」というようなのはいい句である、ということがあったかと記億する。こういう格の高い句は、去来のような人物を俟ってはじめて得べきものであろう。去来の心より発する一種の力が粛殺(しゅくさつ)の気と共にひしひしと身に迫るのを覚える。「湖の水まさりけり」の句については、許六の『自得発明弁』にこうある。

[やぶちゃん注:「寺田博士」物理学者で随筆家・俳人でもあった寺田寅彦(明治一一(一八七八)年~昭和一〇(一九三五)年)。彼は熊本五に明治二九(一八九六)年に入学するが、当時、同校で英語教師であった夏目漱石と、物理学教師田丸卓郎と出逢い、両者から大きな影響を受けて科学と文学を志し、明治三一(一八九八)年には夏目漱石を主宰とした俳句結社『紫溟吟社』の創設に参加した。東京帝国大学理科大学入学はその翌年のことであった。

「自得発明弁」既出既注の俳諧論書「許六・去来 俳諧問答」の中の一篇。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

一、予当流入門の頃、五月雨の句すべしとて、

  湖の水もまさるや五月雨

といふ句したり。つくづくと思ふに、此句余り直にして味すくなしとて、案じかへてよからぬ句にしたり。其後あら野出たり。先生の句に

  湖の水まさりけり五月雨

といふ句見侍りて、予が心夜の明たる心地して、初て誹かいの心ん[やぶちゃん注:ママ。]を得たり。是先生の恩なりと覚て、今に此事を忘れず。

 

 ここに先生というのは去来の事である。傲慢不遜なる許六をしてこの言あらしめたのは、ただに同門の先輩であるというばかりでなく、この句に啓発さるるところが多かったためであろう。子規居士は更にこれを敷衍(ふえん)して、

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

「も」「や」の二字と「けり」の二字と、ただこれ二字、彼に執せば則ち直下に地獄に堕ち、これに依らば則ち忽然として成仏しをはらん。「も」の字元これ悪魔の名、能く妖法を修法を修す。一たび彼に触れんか、十有七字麻了痺了俗了俚了軟了死了す。人々須(すべから)く「も」の字除(よけ)の御符を以て自家頭中の「も」の字を追儺(なやら)ひて一箇半箇の「も」を留(とどむ)る莫れ。乃ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]天地玲瓏(れいろう)、空裡の一塵を見ん。

[やぶちゃん注:引用元不詳。発見したら追記する。]

 

と説いている。「湖の水まさりけり五月雨」の句は、漠々たる中に天地の大を蔵する概(がい)がある。子規居士の説は「水まさりけり」と「水もまさるや」との差を論破して余薀(ようん)なきものであるが、この差を生ずる所以のものは、やはり去来その人に帰するより外はあるまいと思う。『曠野』における去来の句は、外面的に人目を眩するものを持たぬにかかわらず、内実において慥に人の心を打つ力を具えている。

[やぶちゃん注:相変わらず、くどいが、私はそうは思わない。]

「柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 五」に「籠の渡し」の注を大幅追加した

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 五 /(再々リロード) 凡兆~了

に「籠の渡し」の「閑田随筆」にある記事を引用追加した。挿絵も添えたので、是非、見られたい。

2020/06/27

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 水路

 

水路

 

ほうつほうつと螢が飛ぶ………

しとやかな柳河の水路(すゐろ)を、

定紋(ぢやうもん)つけた古い提灯が、ぼんやりと、

その舟の芝居もどりの家族(かぞく)を眠らす。

 

ほうつほうつと螢が飛ぶ…………

あるかない月の夜に鳴く蟲のこゑ、

向ひあつた白壁の薄あかりに、

何かしら燐のやうなおそれがむせぶ。

 

ほうつほうつと螢が飛ぶ…………

草のにほひする低い土橋(どばし)を、

いくつか棹をかがめて通りすぎ、

ひそひそと話してる町の方へ。

 

ほうつほうつと螢が飛ぶ……………

とある家のひたひたと光る汲水場(クミヅ)に

ほんのり立つた女の素肌

何を見てゐるのか、ふけた夜のこころに。

 

[やぶちゃん注:第一連のリーダが九点で、第二と第三連のそれが十二点、第四連が十五点であるのはママ。

「水路(すゐろ)」読みはママ。当時は「水」の音「スイ」の歴史的仮名遣は「スヰ」と考えられていたので誤りではない。現在は中国の中古の音韻研究が進んだ結果、歴史的仮名遣でも「スイ」のままであることが確定されている。

「土橋」一般には木の橋の一種で橋の上面に土をかけて均(なら)した橋を指す。丸太を隙間なく並べて橋の上面を作った場合、渡る上面(橋面)が凹凸になって、そのままでは歩き難いから、そこに土をかけて踏み固め、凹んだ部分に土を詰めて平らにしたものを言う。江戸時代まで本邦で架橋されたものの圧倒的多数は土橋であった。]

今日公開された「青空文庫」の小泉八雲の「おかめのはなし」(田部隆次訳)の不審点

今日は小泉八雲の誕生日だからな。

私は以上の田部訳(底本も同じである)を既に昨年の九月六日にオリジナル注釈に原拠附きで公開している。無論、正字正仮名である。

さて。今日の公開された「青空文庫」のそれは、新字新仮名と名うってある。条規通り、

入力:館野浩美

校正:大久保ゆう

とある。しかし、ぱっと見て頗る不思議なことに気づく。

新字新仮名なのに、登場人物の「權右衞門」「八右衞門」の名が以上の通り、総てが正字なのである。固有名詞を正字で示すという絶対鉄則は「青空文庫」にはない。それはそれは面倒なことになるからな、有り得ねえ。 

よし、それは措くとしようか?

末尾を見給え! 「囘復」となっているじゃないか? 別人の校正者までいるのに、何故、気づかない?

いやさ、新字なのに手打ちのタイピングでこれは絶対にあり得ない「ミス」なのである。

私が何を言いたいかは、もうお判りのことと存ずるので、これ以上は言わぬ。

因みに、以下は独り言……私は昔から加工データとして他者の作成した電子テクストを使用する場合は、「青空文庫」に限らず、必ずそれを明記している。

まあ、さっさと直すがよかろうぞ! 天下の「權」威「青空文庫」さん、よ!

  

先生――靜に逢う――

 斯んな話をすると、自然其裏に若い女の影があなたの頭を掠めて通るでせう。移つた私にも、移らない初からさういふ好奇心が既に動いてゐたのです。斯うした邪氣が豫備的に私の自然を損なつたためか、又は私がまだ人慣れなかつたためか、私は始めて其處の御孃さんに會つた時、へどもどした挨拶をしました。其代り御孃さんの方でも赤い顏をしました。

 私はそれ迄未亡人の風采や態度から推して、此御孃さんの凡てを想像してゐたのです。然し其想像は御孃さんに取つてあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君だからあゝなのだらう、其妻君の娘だから斯うだらうと云つた順序で、私の推測は段々延びて行きました。所が其推測が、御孃さんの顏を見た瞬間に、悉く打ち消されました。さうして私の頭の中へ今迄想像も及ばなかつた異性の匂が新らしく入つて來ました。私はそれから床の正面に活けてある花が厭でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。

(中略)

 私は喜んで此下手な活花(いけはな)を眺めては、まづさうな琴の音に耳を傾(かたぶ)けました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月27日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十五回より)

   *

リンク先注で下宿先の推定平面図を示してある。この図は私のブログ内でもアクセスの特異点である。

2020/06/26

不思議にも

たかだか半月で10000アクセスだ――SNSの公開記事指示をやめたのに――その翌日から、ブログ・アクセスが毎日500を超え続けた――まんず、SNSはいらぬ――ということらしい――向後とも御用達よろしく――

サイト開設十五周年記念+ブログ1380000アクセス突破記念 梅崎春生 A君の手紙

[やぶちゃん注:この作品は、以下に見る通り、「カロと老人」と「凡人閑居」というもとは別々に発表された連作である。単行本「山名の場合」(昭和三〇(一九五五)年六月山田書店刊)に収録される際に一篇に纏められたものである。それぞれの初出は、

「カロと老人」→『文学界』昭和二七(一九五二)年五月号(但し、初出表題は後の単行本でのカップリングの総表題と同じ「A君の手紙」であった)

「凡人閑居」 →『文学界』昭和二八(一九五三)年五月号

で、一年ものスパンが空いてしまっている。但し、これは「凡人閑居」の書き出しからも確信犯の完全続編で、時制まで実時間に合わせている大胆不敵さがはっきりと見て取れるのである(ネタバレになるので詳しくは本文を読まれたい)。なお、前篇の「A君の手紙」=「カロと老人」を発表した同年の同じく五月一日、梅崎春生は人民広場(皇居前広場)で、かの『血のメーデー』の騒擾に立ち会い、自らルポルタージュして七月号の『世界』に「私はみた」を発表(リンク先は私のブログでの電子化)、後の法廷闘争にも弁護側証人として五日間に亙って立って、警官隊の暴力行為を証言したりしていた。それによって著作活動が停滞したわけではなかったが、そうした当時の背景と春生の体制への強い義憤の昂まりがあった事実は認識しておく必要がある

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第三巻を用いた。以上の書誌データも同書の古林尚氏の解題に拠った。

 途中で一部の語句に注を附した。

 なお、本電子化注は2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが百三十八万アクセスを突破した記念と、たまたま重なったサイト開設十五周年記念も含めて記念公開とするものである。【2020626日 藪野直史】]

 

 

   A 君 の 手 紙

 

 

     カ ロ と 老 人

 

 拝啓

 ながらく御無沙汰いたしました。この前お伺いした時から、もうそろそろ一年にもなりますでしょうか。あの節は、不躾(ぶしつけ)なお願いにも拘らず多額の金子(きんす)を御貸与下さり、また可愛い猫の仔(こ)も一匹分けていただきまして、まことに有難うございました。生来の筆不精からついお礼状もさし上げず、荏苒(じんぜん)今日に至りましたことは、まことに申し訳なく思っております。そこで今日は思い立ちまして、御無沙汰のお詫びかたがた、この一年間の御報告やら、またちょっぴり御依頼の筋をもふくめて、筆をとることに決心いたしました。生れつきの悪筆悪文、お読みづらいとは存じますが、なにとぞ御容赦下さいますよう。

[やぶちゃん注:「荏苒」歳月が過ぎるままに、何もしないでいるさま。或いは、物事が延び延びになるさま。副詞的にも用い、ここもそれ。「荏」には「力が抜けてだらしない」の意があり、「苒」には「物事が延び延びになる様子」・「歳月の過ぎてゆくさま」の意がある。]

 さて、いざ机に向いまして、一年間の報告と考えても、何から書き出していいのか、さっぱり戸惑うばかりです。御存じの通り長年の貧乏暮しで、頭がすっかり鈍磨したらしく、いっこう筋道が通らないのです。さっきから書いては破り書いては破り、机のまわりは紙屑だらけになってしまいましたが、(ここまで書くのに一時間余りもかかってしまいました)まだ書くことがハッキリしないような状態です。机のせいなのかも知れません。この机もしごく古びて脚が一本抜け、しかも表面に板の割れ目が出ているので、とても書きづらく、イライラするのです。実はこの机も十日ほど前、差押えられたばかりなのです。差押えたのは国税の方の役人ですが、この机の他に、ラジオ、柱時計など数点を押えて行きました。滞納金額は五千円足らずですが、こんながたがたの古机まで差押えるなんて、何というバカな役人でしょう。しかし今の差押えというのは、昔とちがって、赤紙を貼るのではなく、ただ差押えたという書類を手渡すだけです。だから使用する分にはすこしも差支えないわけで、現に今もこの机の上で、こうして手紙を書いているのですが、この差押えの話は後段において委しく御報告したいと思っておりますので、ここでは省略させていただきます。初めから不景気な話をお耳に入れるのも恥かしいことですし、この手紙全体の効果上からも、そうした方がいいと思いますので。

 ここまで書いてきた時、台所の方からカロが忍び足で入ってきましたので、私はさっそく蠅叩(はえたた)きを摑(つか)んでカロを追っかけ、そして今戻ってきたところです。まだ胸がドキドキと動悸を打っています。カロというのは、貴方(あなた)から頂いたあの猫の名前なのです。あの節お宅から金を借り、それを記念するためにカロと名を付けました。カロの顔を見るたびに、貴方からの借金を思い出そうという仕組みなのです。心情お察し下さい。

 カロもずいぶん大きくなりました。頂いた当座は、まったく西も東もわからないほんの仔猫でしたけれども、今では見るからにあぶらぎって、堂々たる体格です。身の丈は三尺ほどもありましょう。ここで身の丈と申しますのは、鼻の頭から尻尾のさきまでのことです。地面からの高さでしたら、ほぼ一尺ぐらいでしょう。毛色はごぞんじのように赤トラで、眼は琥珀(こはく)色にキラキラと光っています。この眼でうらめしげに私をにらみつけるのです。ほんとにふてぶてしく憎らしい猫です。

 実を申せば私はこのカロを憎んでいます。カロは全くひねくれているのです。どうぞお気を悪くなさらないで下さい。これもひとえに私の責任なのです。飼猫は主人の性格に似るという話ですから、きっと私がひねくれているからに違いありません。折角あなたから頂いた素姓(すじょう)のいい仔猫を、こんな性格に育て上げてしまって、ほんとにお詫びの申し上げようもないと思っております。しかし私としては憎まないわけには行かない事情もあるのです。まあ読んで下さい。

 さっき背の高さを一尺ばかりだと書きましたが、このカロが私の家の茶の間を通るとき、その高さがぐっと低くなって、五寸ばかりになるのです。ことにそれが食事時であれば、もっと低くなります。まるでジャングルを密行する虎か豹(ひょう)みたいに、頭を低くし背をかがめ、四肢を曲げてすり足で歩くのです。

 なぜカロがこんな姿勢になるかと言うと、それは私が彼を叩くためなのです。

 先程蠅叩きを摑んで追っかけたと書きましたが、蠅もいない今の季節に、なぜ蠅叩きが部屋に置いてあるのだろうと、きっと貴方は疑間をお持ちになるでしょう。ところが実際この茶の間には、蠅叩きが五本、あちこちに置いてあるのです。どこにいても手を仲ばせば、すぐ掌にとれるようにしてあります。もちろん蠅を叩くためではなく、カロを叩くためのものです。だからこれは、蠅叩きというより、カロ叩きと言うべきでしょう。もともとその目的のために、荒物屋から購入したものなのですから。

 カロが背を低くして忍び歩くのは、つまり私の眼をおそれ、このカロ叩きをはばかっているのです。背を低くすれば、私の眼にはとまらないと、畜生心にもそう思っているのでしょう。あるいは何時もその頭上に、幻のカロ叩きを感じているためかも知れません。とにかく卑屈で狡猾(こうかつ)な恰好(かっこう)なのです。そういう恰好自体が私の憎しみを更にあおるのです。その姿を見ると、もう私の手は知らず知らずのうちに、カロ叩きの方に伸びています。ちょっと条件反射みたいな具合です。

 なぜ私がこのカロ叩きをもって彼を打擲(ちょうちゃく)するか。それは理由が多すぎて、もう近頃では、叩くために叩く、そう申し上げる他はないような状態なのです。憎悪というのは、本来そんなものではないでしょうか。憎み続けているうちに、ついその根源は忘れられてしまい、ただもう憎むために憎む、そんな風になってしまうのではないでしょうか。

 食事時になりますと、カロは顔で襖(ふすま)をこじあけて、茶の間に入ってくるのです。まったく何気ない表情で、ただ通り抜けるだけだという風な顔付で、背を低くして部屋を横切って行きます。そして食卓の側を通る時、ちらと横目を使って、卓上のものをぬすみ見るのです。もちろん私がいる時は、ぬすみ見るだけで、そのままこそこそと通り抜けるか、あるいは私が振り上げたカロ叩きを見て、一目散に走り抜けてしまいます。

 ところが私がいない時とか、いても子供だけの時には、カロはたちまち非道な行為にうつるのです。すなわちいきなり頭を高くして、卓上に前脚をかけ、すばやく食物をかすめ取るのです。自分の行為が悪事であることは百も承知だし、その上カロ叩きをふりかざした私が、どこから飛び出してくるかも知れないので、カロは大あわてしてその事を遂行(すいこう)します。その結果、すこし眼がくらむと見えて、たとえば刺身やビフテキが卓の真中に置いてあるのに、それには手をつけず、芋の煮ころがしとかパンの耳などをくわえて、周章狼狽して遁走(とんそう)するのです。この間の如きは、一升壜(びん)のコルク栓をくわえて逃げました。

 なんという浅間しい猫でしょう。

 こう書きますと、私がカロに餌を全然与えてない、そうおとりになるかも知れませんが、事実はそうではないのです。台所にはちゃんとカロ用の皿があって、充分に食事を与えてあるのです。ところがカロはそれを喜んでは食べません。

 その皿上において、カロはおそろしく美食家なのです。まるで殿様猫です。汁かけ飯などには、てんで眼もくれません。煮干しを入れてやっても、よほど空腹でなければ、口をつけようとしません。鰯の頭のようなものなら、しぶしぶ食べます。

 この間などは、鯨(くじら)肉の煮たのを入れてやったら、前肢でつついてみただけで、匂いすら嗅ごうとしないのです。私は腹が立って、カロ叩きを振りかざして追っかけ、家のぐるりを三度廻り、とうとう屋根の上まで追い上げました。

 一体カロは鯨を何と思っているのでしょう。人間がいるからこそ、カロは鯨のようなものまで、口にすることが出来るのではないでしょうか。カロの態度はあまりにも無礼です。

 ほんとに、人間がいなければ、カロはどうして鯨を食えるでしょう。鯨を食べるためには、先ず南氷洋かどこかに行かなければなりません。猫には捕鯨船なんか造れないのだから、そのまま海に飛び込んで、鯨が游弋(ゆうよく)しているところまで泳ぎつかねばなりません。それだけでなく、こんどは鯨の背中に這いのぼり、あの厚い皮を食い破らねばなりません。そしてやっと鯨肉にありつけるのです。そんなことが猫ごときに、どうして出来るでしょう。途中で凍え死ぬか、溺れ死ぬか、万一泳ぎついても、逆に鯨から食べられてしまうだけの話ではないでしょうか。

[やぶちゃん注:「游弋」定まったルートを持たずに徘徊することであるが、特に軍艦が徘徊・航行して敵に備えることを言うことが多い。巨体のクジラを意識して用いたものであろう。「弋」には「浮かんで泳ぐ」の意がある。]

 だから猫が鯨を食べることは、これは大変なことなので、ひとえに人間の力によるものなのです。しかもそれを味良く煮て与えたのに、カロはほとんど見向きもしないのです。

 しかしそれは嗜好上の間題だと、あるいは貴方はおっしゃるでしょう。そうです。そのことだけなら、私も別に怒りはしません。

 私が腹を立てるのは、自分の皿ではなく食卓上のものならば、カロは何だって食べるということです。タクアンの尻尾だってコンニャクだって、何だってくわえて行って、庭の隅でこそこそと旨そうに食べるのです。この間のコルク栓だって、半分ほど齧って食ってしまいました。いくらなんでもコルクよりは、鯨の方が旨(うま)いでしょう。

 私はカロのその陋劣(ろうれつ)な心事を憎みます。人間だけが旨いものを食って、自分には不味いものをあてがわれている、そう思っているに相違ありません。しかもそれが固定観念になっているのです。

[やぶちゃん注:「陋劣」卑(いや)しく軽蔑すべきであること。

「心事」(しんじ)心の中で思っていること。心の在り様(よう)。]

 だから私はカロ叩きを五本も用意し、常々整備を怠らないのです。

 もっともカロの側からすれば、カロ叩きで防衛するからには、よほど美味なものが卓上に並べてあると、そう邪推しているのかも知れません。やり方がどうも意固地で執拗なのです。あるいはまた、何でもなく食えるものより、危険を冒して得た食物の方が旨い、そういう心理なのかも知れません。つまりスリルを楽しむというやつです。飼猫は主人の性格に似るそうですから、案外そんなことかも知れません。実を申せば私の側にしても、カロ叩きでカロを追っかけひっぱたくことに、妙に意固地な快感がないでもありません。カロのことを考えると、胸がワクワクして、ほっておけないような気がしてくるのです。小便をこらえている時に似た、息詰まるような疼(うず)くような、居ても立ってもいられないような、そんな苦痛と快感が同時に湧き起ってくるのです。

 この間などは一策を案じて、卓上にマグロの刺身を一片置いて、私は襖のかげにかくれてそっと覗(のぞ)いていました。その刺身には前もって細工がほどこしてあるのです。つまり、刺身の横から穴をあけて、内にワサビを沢山詰め込んでおいたのです。せっせとワサビを詰めこみながら、一体俺はどんな情熱でこんなことで一所懸命になってるのか、などと考えて、ちょっと自己嫌悪におちたりもしましたが、しかし人間の情熱とは大体そんなものでしょうね。そんなものだと私は思います。貴方が小説を書く情熱も、おおむねこれと同じようなものでしょう。そういう点で貴方も時々自己嫌悪におち入るようなことはありませんか?

 私はマグロの刺身が大好きなので、貧乏なのに無理をして時々これを食べるのです。でも考えてみると面白いものですね。海の底に棲(す)んでいるマグロに、山間に生えているワサビと、ひとつの皿の上で対面する。思えば奇想天外な話です。これも地球上に人間が居ればこそのことですね。もし人間がいなければ、ワサビは永遠にマグロにはめぐり逢えず、まして自分の味がマグロの味にぴったりしていることも露知らず、ただもしゃもしゃと山間に生えたり枯れたりしているばかりでしょう。マグロとても同じです。人間の食欲においてこの両者は統一された。そんなことを考えると、私ははかり知れない因縁というものを感じ、宗教的なショックに打たれます。私はもともと宗教的な傾向があるものですから、そんなことには特に感じ易いのです。

 話がそれました。私が襖のかげにかくれていますと、やがてカロが背を低くして四辺(あたり)を見廻しながら、のそのそと入って来たのです。私は期待と亢奮(こうふん)にワクワクして、心臓が咽喉(のど)もとまで出てくるような気がしました。カロの背が急に高くなったと思うと、がたんと前肢を卓にかけ、刺身をぱくとくわえて、一目散に庭の方に逃走しました。そして花壇のところに立ち止って、大あわてしてそれを食べました。

 とたんにカロは、衝撃を受けたみたいに、後肢だけでひょいと立ち上ったのです。そして前肢を曲げて、ぐいと鼻をこすり上げると、眼から琥珀(こはく)色の涙をぽろぽろと流しました。その時私は、縁側に立っていたので、それがよく見えたのです。ワサビが鼻に来た時の人間の動作と、それはまったくそっくりでした。思わずぎょっとした程です。次の瞬間、私は無意識のうちに庭に飛び降りて、カロ叩きをふりかざして、やみくもにカロを追っかけていました。そうでもしなければ、やり切れない気持だったのです。

 そういう私を、やはりカロを憎んでいるのだろうと思います。

 私は酔っぱらった夜は、必ず枕もとに酔醒めの水を置いておくのです。私はこの酔醒めの水が大好物で、他のどんな飲物よりも、この味わいを愛好しているのです。酒の話だの刺身の話だの書いて、貧乏じゃないじゃないかと思われそうですが、そうは考えないで下さい。あまり貧乏なので、だからこそやけくそになって私は酒を飲んだり、刺身を食べたりするのです。ところがその悲痛な酔いの果ての楽しみの水を、カロがこっそりと飲みに来るのです。何という邪悪な猫でしょう。台所に行けばいくらでも水があるのに、私の枕もとの酔醒めの水を飲みに来る。薬罐(やかん)の蓋(ふた)をくわえて外し、顔をつっこむようにして、べちゃべちゃ砥(な)めるのです。カロが砥めると、もうその水は猫臭くて、とても飲めたものではありません。怒ってはね起きた時は、もう間に合わないのです。カロの姿は電光のように、部屋の外に消えてしまっています。

 私の困惑や憤怒をサカナにして、カロはこの水を飲んでいるのではないでしょうか。どうもそうらしい。

 カロと私とは十日ほど前までは、以上のような間柄でした。折角いただいた猫に対して、良き飼主でなかったことを、私は深く恥じ入る次第ですが、カロとても良き飼猫でないことは、貴方も充分に御諒承下さったことと存じます。

 ですからカロは何時も私をはばかり、滅多に私に近づいて来ません。私が居間にいると、寒くてもやせ我慢して、縁側あたりで慄(ふる)えています。ところが来客などがあると、その時は平気で部屋に入ってくるのです。お客の手前、蠅叩きをふり廻すようなおとなげないことを私がやらない、そのことをカロはちゃんと心得ているのです。そして私に見せびらかすようにして、お客の膝の上に乗り、聞えよがしに咽喉(のど)をごろごろ鳴らしたりします。それでも私はにこやかに客と応対をしていますが、時にははらわたが煮えくりかえるような気持になったりしないではありません。

 この間の差押えの日もそうでした。

「ごめんください。ごめんください」

 と言って、玄関に変な男が入ってきました。出て見ると、痩せて眼のぎょろぎょろした、色の黒い二十七八の男です。私の顔を見るなり、低い猫撫で声で言いました。

「Aさんですね。あなたは昭和二十三年度の所得税が未納になっていますが、今日払っていただけますか?」

「いいえ」

 と私は答えました。払うにも払わないにも、その時私の家には、全部かき集めても五六十円ぐらいの金しかなかったのです。するとその男は、にやりと片頰に笑みを浮べました。その笑い方と言ったら、まるでこみ上げてくる嬉しさを押えかねると言ったような、うずうずするような笑いでした。女の裸の尻を見たサディストの笑いを、私はちらと聯想したほどです。そして彼は言いました。

「そうですか。それでは止むを得ません。今日は差押えさせていただきます」

 押しとどめる間もなく、もう靴を脱いで、玄関に上ってきたのです。職業的な習練を積んでいるので、有無を言わせないような自然な身のこなしでした。私はすっかり気を呑まれて、ついそのまま男を部屋に案内してしまったのです。

 男は座布団に大あぐらをかき、私が差し出した番茶を旨(うま)そうに飲みながら、部屋のなかをあちこち眺め廻しています。私はだんだん気色が悪くなって参りました。

「差押えと言いますと――」と私はたまりかねて訊ねました。「今日直ぐに持って行くんですか。一体何を差押えるつもりなんです」

「いやいや、御心配には及びません。直ぐ持って行く訳じゃありませんよ。さて、何と何を押えますかな」

 ふと気が付いて、私はあわてて次の間との仕切りの襖をしめました。三寸ばかり開いていたのです。すると男はまた可笑(おか)しそうににやにやと笑いました。そして皮鞄(かわかばん)の中から書類と万年筆を取出しました。

 その時です。台所の方からニャアと一声上げて、カロが入ってきたのは。

 カロはちらと私を横目で見て、そしていつもほどは低くならず、あたりまえの高さで悠々と歩いてきて、慣れ慣れしく男の膝にのそのそと這(は)い上りました。男はちょっと驚いたような様子でした。カロは膝の上に丸くなって、咽喉(のど)をごろごろと鳴らしているのです。私に見せつけているとは知らないものですから、その男はびっくりした表情で、

「おお、よしよし」

 などと不器用な仕草で、カロの背中をさすったりしていました。職業柄、あまり人間や動物からも親しまれないのに、はからずもこんな歓待を受けて、彼はいささか戸感ったらしいのです。私はすかさず言いました。

「その猫を差押えたらどうですか?」

 男はぎょろりと眼を動かして私を見、そしてカロを見ました。もうすっかり職業的な表情になっていたようです。

「猫ですか。どうも、猫は――」

「しかし動物だって差押えの対象になるんでしょう」と私はたたみかけました。「農家などで牛を差押えられた話をよく聞きますよ。猫だって役に立つんですからね。たとえば三味線の皮とかなんとか――」

 男は黙ってカロを見下していました。私はつづけて言いました。

「この猫はすばらしく素姓がいいんですよ。日本にも何匹とはいないやつです」

「ほう。そんな猫ですか」

「そうですとも。なにしろペルシャ猫とシャム猫の混血ですからね。名前もカロ三世と言うんです」

 男は疑わしそうに眼をぱちぱちさせていましたが、やがてにやにやと妙な笑い方をしました。私のでたらめを見破ったのかも知れません。そしてカロを膝に乗せたまま、卓の上に書類をひろげ、万年筆を握りました。

「まあ猫は猫として――」と男は押しつけるような声で言いました。「まず机とかラジオとかを押えることにしましょう」

 そして口の中で何かをぶつぶつ呟(つぶや)きながら、書類に書き入れ始めました。差押調書というやつです。書いているあいだ中、男の顔はぼっと血色が良くなり、表情も生き生きして、まことにこの事にやり甲斐を感じているらしい風なのでした。こいつら滞納者係というのは、滞納者を憎みいじめることに、なにか情熱を感じているのではないでしょうか。きっとそうだと思います。そうでもなければ、あんな表情が出来るわけがありません。我々を憎むことによって辛うじて職業的生甲斐を感じているのでしょう。そう思うと私はこの男に、強い反撥と妙な親近感を感じました。やがて男はにやりと面を上げて、調書の謄本をふわりと私に放ってよこしました。

「まあこれだけ押えておきましょう」

 その調書を点検して、私はぎくりとしました。それは差押財産の表示という欄です。そこには片袖坐机とか、柱時計とか、四球ラジオとか、そんな物件がずらずらと書き並べてあるのですが、私をぎくりとさせたのは、最後の方に中古ダンスとか鏡台とか、そんなものまで書き込まれてあることでした。何故かというとこんな品物は、隣りの部屋に置いてあるもので、この男の位置からは全然見えない筈だったからです。さっき三寸ほどの襖(ふすま)の隙間から、素早く見て取ったに違いありません。何という技け目のない、眼のするどい男でしょう。貴方は何時かしら、小説家という者はこの世で最も眼のするどい人種なのだと、自慢しておられましたが、この男の前に出たら、太陽の前のローソクに過ぎないでしょう。とても小説家如きが、人間や物を見ることにおいて、たとえば税務役人や高利貸ややり手婆の慧眼(けいがん)にかなう訳がありません。この間の貴方の言葉は、自惚(うぬぼ)れというものです。

 そしてその調書を前にしながら、私はしだいに腹が立ってきました。男は満足げに、万年筆をしまったり、鞄の鍵をガチャガチャさせたりしています。その時私はふと思い付いて、男に気付かれないように、そっとカロ叩きの方に手を伸ばしました。カロは咽喉(のど)をぐるぐる言わせながら、横目で私の動作をうかがっています。私はカロ叩きを摑(つか)むと、卓の下に突き出して、威嚇(いかく)するようにピュツと振りました。卓の下ですから、カロからは見えますが、男の眼からは見えないのです。そこが私のつけめでした。

 カロはぎゃっと声を立てて、男の膝の上ではね上りました。まさか来客中に私がカロ叩きを使おうとは、予測もしなかったのでしょう。大あわてにあわてて、男の膝から飛び降りるとたんに、男の手の甲をパリッと引っ搔き、一目散に縁側から庭に飛び降りて逃げました。

 男の手から血が流れていました。痛そうにそこを押えています。

 私が黙ってにこにこしているものですから、男の眼が急に吊り上ったようでした。歯を嚙み鳴らしている音が、かすかに聞えます。そこで私はにこにこしながら、ゆっくり煙草に火をつけました。

 男は手巾(ハンカチ)を出して、手の甲の血を拭きながら、やがてかみつくような声で言いました。

「よろしい。それでは猫も差押えましょう!」

「どうぞ。御随意に」

 男は私から差押調書をひったくると、差押財産表示欄の最後に『一、赤毛猫一匹』と乱暴に書き入れ、ぐいと私の方に押し戻しました。そして手の甲を押え、つんつんしながら玄関に出、扉をがちゃりとしめて帰って行きました。

 税務役人の怒りを見たのは、私はこれが初めてです。たしかにいくらか愉快な見ものでした。

 その晩、カロのその功績を賞(め)でて、鰯(いわし)か何かでも御馳走してやろうかと思いましたが、よく考えてみると、これはカロの功績というより私の功績ですし、それに差押えされた以上、カロはすでに私の猫ではなく、税務署の猫になったのですから、私はもう餌をやる義務はなくなったわけです。そこでそれはやめにしました。

 こういういきさつでカロの所属は、私から税務署の方に移ってしまいましたので、一応そのことを御報告申し上げます。一年足らずの、まことに果敢ない主従の縁でありました。

 税務役人の怒りについて、今書きましたが、今度はその失望落胆について、書こうと思います。どうぞ小説になるものなら、小説にして下さい。近頃貴方の小説を拝見していますと、なにか題材の単調と貧困さが感じられてなりません。現実からの刺戟を、あまりお受けにならないせいではないでしょうか。その点において、私の体験などは、多分に貴方の参考になり得るものと信じます。こんな恥かしい私の生活を、細大洩(も)らさず御報告申し上げるのも、一年前の貴方の御好意への御礼心のつもりですから、御遠慮なく小説の題材に御使用になって下さい。題材料をよこせなどと、そんなケチなことを申し上げるような私ではありませんから。

 そしてその翌日のことです。春めいてきた午後の空気をゆるがして、ふたたび玄関の扉がガタガタと鳴り、

「ごめん。ごめん下さい」

 というがらがら声がしました。私があわてて飛んで出ますと、四十がらみの肥った男がそこに立っています。すり切れた皮鞄を小脇にかかえていました。

「あなたがAさんですね」と男はもう鞄をあける恰好(かっこう)になっていました。「一昨年の区民税がまだ入っていませんね」

「ええ」

「もう何度も催促状を差し上げた筈ですが」

 と男は鞄から伝票綴りを取出して、ぴらぴらとめくりながら言いました。

「頂きましたけれども、なにぶんこんな貧乏暮しで――」

「貧乏? 貧乏とは関係ありませんよ。ちゃんと所得があって、それにかかっている訳ですからな。あなただけが払わないということは困ります。今日、半分だけでも払って呉れますか?」

「とてもとても。百円の金もないんです」

「じゃ仕方がない。一応差押えることにしますよ」

「どうぞ、そうして下さい」と私は落着いて答えました。

「昨日国税の方が来て、あらかた差押えされたところです」

「え?」と案の定男はぎくりと棒立ちになりました。「差押えたって? それ、ほんとですか」

「ほんとです。調書があるから、お目にかけましょうか」

 居間から差押調書を持ってきて見せた時、男は大声でうなりました。今まで私に対して見せていた優越感や傲慢さをすっかり振り落して、赤裸々の自分に立ち戻った風でした。

「残念だったなあ。一日違いだった。何ということだろう」

 男は頭をかきむしるようにして、そう呻きました。その失望落胆の状は、見るも可哀(かわい)そうなほどでした。ついに私は気の毒になって言いました。

「まあ上ったらどうですか。差押えは受けたけど、その残りがあるかも知れないし――」

「いや、駄目です!」と男は掌を振りました。「国税の奴等が通ったあとは、草も生えないというくらいです。私たち区民税の方は、区民の皆様の便宜をはかり、差押えもなるべく控え、話し合いで解決しようという方針なんです。それなのにあいつ等と来たら――」

 男は溜息混りに、国税役人の悪口を並べたり、自分の不運をのろったりし始めました。私は適当に相槌を打ちながら、区民税役人の表情や動作を観察していました。こうなると役人なんていうものは、まるでカスみたいですねえ。鋏をもぎ取られた弁慶蟹(べんけいがに)みたいなもので、恐くもなんともありません。あんまり落胆して愚痴ばかりをこぼしているので、私もとうとううんざりしてしまって、つけつけと言ってやりました。

「大体あんたがノロマだからですよ。早く次の家に行かないと、また国税に先廻りされますよ」

「あっ、そうだ。ほんとにそうです」男はぴょこんと立ち上りました。そしてそそくさと扉をあけました。「どうもお邪魔さまでした。ごきげんよう」

 彼が戻って行ったあと、私は居間に坐って、ぼんやりしていました。しおしおした税務吏員などを、あまり見たくなかった。ふん、面白くもない。そんな気持でした。つまり、抵抗が全くなかったということ、それが私に面白くなかったのではないでしょうか。これにくらべれば、前日の国税の小役人の方が、よっぽど張合いがあって、好もしかったようです。こういう私の気持を、貴方は判って下さいますでしょうか。

 差押えのいきさつは、ざっと以上の如くです。この差押えの件についても、何時までも放って置くわけには行かないので、いろいろ心を悩ましていたのですが、今朝はまた早々と陣内老人の訪問を受けました。もちろん金の催促です。私はほとほと困ってしまいました。金というのは、この家を買ったその残金なのです。

 一年前、貴方やその他から借り集めた金額が十五万円、それを陣内老人に支払い、残りの十万円は月々五千円ずつ、二十箇月月賦で支払うという約束でした。つまりこの私の家の価格は二十五万円なのです。最初から二十五万円調達して耳をそろえて買えばよかったのに、金の集まりが悪く(いえいえ、貴方の貸し方が少かったと申し上げているのではありません)、余儀なく残余は月賦ということになったのです。御存知の貧乏暮しですから、この毎月五干円というのは、私にとって仲々の苦労なのです。ところが陣内老人は、毎月二十一日に、鬼のような正確さをもって、取立てに来るのです。今朝もまだ七時前だというのに、庭に入って来て、縁側に腰かけ、

「約束ではないか。さあ払って貰おう!」

 それ一点張りで、二時間もねばって行きました。私はこの老人が苦手です。とても苦手なのです。

 老人は私を憎んでいるのです。私はちゃんとそれを知っています。私の払いが悪いから憎んでるのではなく、私が彼の家を買い取ったこと、その点において老人は私を憎んでいるのです。ちょっと不思議な言い方ですが、全くそうなのです。老人は私を憎むことによって、辛うじて生きているのです。この老人のことを少し書きましょう。

 老人は背が五尺八寸もあって、もうそろそろ六十歳ぐらいでしょう。家族はその老夫人と二人だけの生活です。子供が二人いたということですが、戦争で皆なくしてしまったのだそうです。老人の顔は仮面のように表情がなく、眼はラムネの玉のように光がありません。

 終戦後、老人は子供を失って、大へん虚脱したらしいのです。(これはその老夫人から聞いた話です)そして性格ががらりと変り、それまで働き好きな小まめな男だったのが、今度は何も仕事をしないで、ふところ手で生きて行こうと思うようになったらしいのです。しかし敗戦直後のこととて、収入の道は全然絶たれている。老人はどうやってその意志を貫いたでしょう?

 先ず彼は、自分の持ち家を売りました。この家は大変大きな家で、現在の価格にすれば、百八十万円位のものだそうです。そして百二十万円位(今の価格で)の家を買い取って、老夫人ともどもそこに入りました。つまり彼は、その差額の六十万円を手に入れたというわけです。

 老人はその金で、二年ほど徒食しました。そしてその金がなくなってくると、またその家を百万円で売り、七十万位の家を買いました。

 一年経ちました。老人は再びその家を売却して、ひと廻り小さな家を買い求めました。

 それから半年後、また同じやり方で、更(さら)に小さな家に引越しました。

 お判りでしょう。老人がふところ手をして生きてゆく代りに、その家はしだいに小さくなって行くのです。つまり老人は、自分の家を少しずつ齧って、居食いしているという恰好なのです。こうして今から一年前、老人は私に、この家を二十五万円で売り払ったのです。十五万円は即金で、あとは五千円宛の月賦という約束で。

 今、この陣内老夫妻は、私の家から半町[やぶちゃん注:五十四メートル半。]ほど離れた、ごく小さな家に住んでいます。家というより、掘立小屋といった方が早いでしょう。屋根も古トタンだし、粗末な板壁も隙間だらけです。いくらでこの小屋を買ったのかは知りませんけれど、もしあれを売りに出したとしても、せいぜい二万円かそこらでしょう。二万円でも買い手がつかないかも知れません。そんな家に相変らず頑固にふところ手して、陣内老人は生きているのです。働くことを意固地になって拒否しているような恰好で。

 現在の老人の収入は、おそらく私から受取る月五千円の金額だけらしいのです。それについて、この間陣内老夫人がやって来て、さまざま愚痴をこぼして行きました。老人はまだ身体も丈夫だし、頭もしっかりしているし、働こうと思えば働けない訳はないと言うのです。その時老夫人はこんなことを言いました。

「あの人もねえ、終戦後すっかりひねくれてしまいましてねえ、人を憎んでばかりいるんですよ」

「へえ、そんな方ですかねえ。憎むって、どんな具合に――?」

 老夫人は私を見て、気の毒そうに一寸言い淀みました。そして思い切った風(ふう)に、

「それがねえ、家を売るでしょう、その家を買った人を、ひどく憎むんですよ」

 私はぎくりとしました。

 夫人の話によると、最初の百八十万円の家を売った時から、その奇妙な憎悪が始まったんだそうです。それを買った男は、戦後の新興成金で、いくらか傲慢不遜な男だったという話です。きっと陣内老人に対しても横柄だったのでしょう。老人はその男を憎みました。口を開けばその男の悪口ばかりでした。家の中で言うだけではなく、近所近辺にも悪口を言いふらして歩いたということです。

 そして次に、百万円で家を売った時、老人の憎悪はこんどの買い手に移りました。前の新興成金のことはすっかり忘れ果てたように、新しい買い手を憎み始めました。こんどの買い手は、どこかの出版社の主人だったそうですが、陣内老人が悪口をふれ歩いたり、夜中に玄関に石を投げたりするものですから、すっかり怒ってしまって、告訴沙汰(ざた)になりかかったりしたという話です。

 こういう具合にして、老人の憎悪は、家を売る度に次々に移動しました。会社重役、某省課長、女金貸など。老人の憎悪は当面の買い手だけに限られていて、それ以前にはさかのぼらないのです。まったくふしぎな憎悪のあり方ですが、それは当人にとっても、どう処理のしようもないものでしょう。その心事は、いくらか私にも判るような気がします。老人はもう憎むために憎んでいるのです。しかし喜びや悲しみと異って、憎しみというものは、必ず核を必要とします。憎しみ自身が、その核を呼びよせるのです。

 こうして今、老人の憎しみは、私だけに向っているのです。つまり私は、この家を買ったばかりに、彼から烈しく憎まれているのです。

 老夫人のその愚痴混りの告白を聞いて、陣内老人の奇妙な態度や行動を、私はすっかり了解しました。どうも変だ変だと、実はずっと前から私も思っていたのです。まさかそんな役割を引受けていようとは、私は全然想像もしていませんでした。

 近所の人の話によると、老人は私のことを『サギシ』だの『ヘンタイセイヨク』などと、悪口を言って歩いているそうです。悪口されることに私は慣れているので、そんなことにはびくともしません。しかし老人は、悪口だけでなく、いろんな直接的な厭がらせを、私に試みてくるのです。月賦の催促に朝早くからやってくるのも、その一例です。また月賦が完済しないうちは、庭は俺のものだと称して、私の家の庭に畠をつくり、二十日大根だの小松菜などを栽培しています。それだけならばいいのですけれども、その肥料と称してウンコをまきに来るのです。しかもその時刻が、奇妙に私の食事時間と合致するので、どうも不思議なことだと思っていたのですが、老夫人の話によって、初めてその真相が判った訳です。まったく閉口な話です。

 この間などは、老人は羽織袴をつけ威儀を正して、私の家にやって来ました。カロが陣内家の食卓から塩鮭をくわえて逃げた、その抗議なのです。老人の要求は、その代金を弁償すること、並びにカロの髭を切りとること、その二項目でした。髭を切ると猫はおとなしくなって、ひとのものを盗らなくなるというのが、老人の言い分なのです。そこで私は老人に十八円弁償し、カロの髭についてはそちらでいいようにやって欲しい、と申し入れました。こういう人物にさからうのは損ですからねえ。それで老人は不満げに了承して、そのまま帰って行きました。それから二日後、カロの顔を見ると、両髭が根元からバッサリ断ち切られ、なんだか兎みたいな気の毒な顔になっていました。その代りに、それから四五日間、陣内老人の右手に繃帯(ほうたい)が巻かれてあったところを見ると、カロの髭切りもそう楽な作業でもなかったらしいです。としよりの冷水という諺(ことわざ)を思い出して、私はしばらくにやにや笑いが止まりませんでした。

 老人が今の掘立小屋を売り払って、さらに小さな家(これはあり得ないでしょう。あるとすれば、それはもう犬小屋です)に引越さない限りは、私は永遠に憎悪されるより仕方がありません。これも侘(わび)しい宿命でしょう。生きておればいろんな目に会うものです。

 陣内老人のことについては、まだまだ面白いことがたくさんあるのですが、疲れてきましたし、それにちょっと書くのが惜しいような気分もしてきました。ここらでひとつお願いがあるのですが、以上のような事情で、私は急に金が要るのです。老人への支払い、税務署への納付、あれやこれやで二万円、いや一万五千円もあれば、どうにか切り抜けられると思うのです。この前お借りした金もまだそのままなのに、こんなお願いをして厚かましいとお思いになるでしょうが、この哀れな私をたすけると思し召して、右金額をしばし拝借願えませんでございましょうか。その代り、と申しては変ですけれど、もし拝借出来ますならば、直ちに貴邸に参上致し、陣内老人の面白きことどもをお話し申し上げ、貴方様の小説の材料に差し上げたく存じております。私の赤心御推察の上、色よき返事を賜わらば、私の幸福これに過ぐるものはございません。なにとぞなにとぞよろしく御願い申し上げます。貴家の隆盛と万福を切に祈りつつ、筆をおくことに致します。草々不一。

[やぶちゃん注:「赤心」(せきしん)は「偽りのない心」「真心」。「赤」には「裸の」「何も覆いのない剝き出しの」の意。]

 

     凡 人 閑 居

 

 拝復

 どうも長い間御無沙汰いたしました。

 この前、愛猫カロのこと、税務吏員のこと、差押えを受けたこと、また陣内老人のことなど、近況御報告の手紙を差し上げたのは、たしか昨年の春のことですから、もうそろそろ一年にもなります。月並な言葉ながら、月日の経つのは早いものですね。あの節は、無理なお願いにも拘らず、一万五千円という大金を貸していただき、御厚情のほど身にしみて感激いたしました。それなのに生来の不精のため、以来荏再(じんぜん)と御無音に打過ぎ、まことに申し訳もございません。

[やぶちゃん注:「御無音」(ごぶいん)永く便りをしなかった(「無音」)相手に対して久し振りに書信する場合に、相手を敬ってその人への永の無沙汰を謝する語。]

 今朝、貴翰(きかん)落掌。表を眺め裏をうちかえし、さておそるおそる封を切りますと、果たせるかな用立てた金子(きんす)を早く返せとの御文言。再読三読、箸(はし)を置き、しばし自責と慚愧(ざんき)の涙にくれました。丁度食事中でしたが、すっかり食慾もなくなったほどです。そこで食事は中止して、こうして机に向い、お詫びやらお願いやら、かててこの一年の近況御報告やら、とりとめもなく書き綴ろうと思い立ち、筆をとることに致しました。悪筆悪文のほどは御寛容下さいますよう。

[やぶちゃん注:「慚愧」「ざんぎ」とも読む。自身の言動を反省して恥ずかしく思うこと。本来は仏語で、「慚」は「自己に対して恥じること」、「愧」は「外部に対してその気持ちを示し表わすこと」を意味した。

「かてて」「かててくわえて」(糅(か)てて加(くわ)えて)の略。連語で、「かて」は動詞「糅(か)つ」(タ行下一段(古語は下二段)活用)の連用形で「混ぜ合わせる・混ぜる」の意。ある事柄にさらに他の事柄が加わって。その上。おまけに。多くはよくないことや自己都合の事柄が重なる場合に用いる。]

 さて、何から書き出していいか、いろいろ気持が迷いますが、やはり先ず順序としては、貴方からいただいた仔猫カロの件につき、御報告申し上げたいと存じます。あの猫は、私が飼うようになってから、すっかりひねくれた性格となり、来訪した税務吏員の手をひっかいたりして、税務吏員の怒りを買い、我が家のあらかたの家財道具と共に差押えられたことは、すでに前便で御報告申し上げました通りです。幸い一週間後、貴方から拝借した金子で滞納分を納めましたので、カロの所属はめでたく手もとに戻って参りました。しかしその後、カロは妙に元気を失い、動作もきわめて不活潑となり、そして昨年の秋、ついに死亡いたしました。死因は未だに判りません。死亡の場所は、拙宅から半町ほど離れた陣内老人宅の天井裏です。どうしてそんな場所で死ぬ気になったのか、私はカロの心事を忖度(そんたく)しかねます。死亡の前後のことを、すこし書いてみましょう。

[やぶちゃん注:「不活潑」はママ。「ふかっぱつ」。「活発」に同じい。「潑」は「活潑潑」に見るように「勢いの盛んなさま」を意味する。]

 前の手紙に書きました通り、陣内老人というのは、拙宅の前の持主なのです。私はこの老人から、十五万円即金、残りの十万円は五千円ずつ二十箇月月賦という条件で、この家を買ったわけです。ところが御存知の手元不如意で、とかく月賦も滞(とどこお)り勝ちとなり、まだ五万や六万の支払い分が残っている筈です。もちろん陣内老人は、毎月催促にやって来ますけれども、私とても無い袖はふれないものですから、老人にはお気の毒ながら『睨(しら)み返し』のような手などを用いて、お帰りを願うことが多いのです。ところが向うも一筋繩でゆくような老人ではなく、相当なしたたか者ですから、月賦を皆済(かいさい)しないうちは、庭は自分のものだと称して、拙宅の庭を勝手に開墾して畠をつくり、さまざまの作物を栽培しているのです。今はホウレン草や小松菜、ニラやアサツキ、ミツバのたぐいなど。垣根に沿って、枸杞(くこ)がずらずらと植えてあります。この枸杞というのは、葉をおひたしにしたり、枸杞飯にしたり、なかなか精分のつく薬用植物らしいのです。陣内老人は毎朝早くやって来て、その葉をしごいて笊(ざる)に入れ、持って帰ります。つまり毎朝食べているのでしょうな。老人がかくしゃくとしているのは、きっとこの枸杞のせいに違いありません。

[やぶちゃん注:「アサツキ」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属エゾネギ変種アサツキ Allium schoenoprasum var. foliosum。普通のネギ(ネギ属ネギ Allium fistulosum)よりも色が薄く、食用とされるネギ類の中では葉が最も細い。梅崎春生は「南風北風」の「博多の食べもの」(私の電子化注)で普通の白ネギよりも所謂、「ひともじ」、タマネギとネギの雑種である単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ワケギ Allium × proliferum が好きだと言っており(「ひともじ」は主に北九州での異名で草体から「一文字」「一文字」のこと)、「ひともじ」は『「アサツキ」に似ているのではないか』と言っているから、アサツキも好きだったと思われる。但し、アサツキは九州には植生しない。

「枸杞」ナス目ナス科クコ属クコ Lycium chinense。葉や果実が食用・茶料・果実酒・薬用などに、また、根も漢方薬に用いられる。]

 この老人が、ある朝、老妻を伴って、なにか憤然とした面もちで、私の家にのりこんで来たのです。私が玄関に出ますと、老人は勢いこんで口を開きました。

「貴殿の猫は、どうした?」

 老人は、人を呼ぶのに、貴殿という呼称を常に用いるのです。こう呼ばれると、私もひとかどの侍(さむらい)になったような気がするから、不思議なものです。

「さあ。この二三日、見えないようですが――」

 と私はおとなしく答えました。老人が何をたくらんでいるのか、まだハッキリしないものですから、こう受身に出たわけです。実際この二三日、カロの姿を全然私は見かけていなかったのです。すると老人の眼玉が、急にするどい光を帯びて、僕を睨みつけました。

「自分の猫ぐらいは、自分で管理して貰おう。おかげで当方は、大迷惑しておる」

「ほんとに困りますのよ」

 と老夫人が傍から口を入れました。またもや何か仕出かしたなと、私はカロが憎らしくなりました。先だっても、陣内家の食卓から塩鮭をくわえて逃げて、弁償させられたこともあったのです。私はおそるおそる訊ねました。

「またあれが何かやりましたか?」

「やったどころの騒ぎでない」

 老人は強い口調できめつけました。

「うちの天井板の破れから、猫の足がぶら下っておる!」

「ぶら下ってる?」

 これには私もすこし驚きました。すると陣内老夫人が亢奮した身ぶりで、

「ええ。そうですよ。困りますよ。あたしゃ思わずキャッと悲鳴を上げましたよ。一体どうして呉れるんです!」

 陣内老夫人は、ふだんは人づきあいも良く、善良な老婦人なのですが、よほど立腹したと見えて、つんけんした口をききました。

 私は急いで老夫妻に、上り框(がまち)に腰をおろして貰い、粗茶を運び、おもむろに事情を聴取しました。老夫人の話によると、昨晩中天井裏で何か音がしていたそうですが、鼠だろうと思って放っておいたところ、今目の夜明け方、天井裏がめりめりと破れ、細長いものがにゅっとぶら下って来たそうです。夫人は直ちにはね起きて、懐中電燈で照らし出すと、そのものには茶色の毛が密生し、尖端にはするどい爪が生えている。さすが気丈な夫人も、思わず悲鳴を上げたという話です。

「他人様(ひとさま)の天井から足を出すなんて、何と性悪な猫でしょう」

 老夫人はそう言いながら、私の顔をにらむようにしました。まるでこの私が、天井を破った元凶だと言わんばかりです。それまで黙っていた陣内老人が、押えつけた声で凄味を利(き)かせました。

「早くあの猫を、天井裏から引きずりおろして貰おう!」

 もうあの猫とは主従の縁を切るから、そちらでいいようにして貰おう。そう言いたかったのですが、夫妻そろって私をにらんでいるものですから、つい気弱にも承諾し、仕度をして陣内家におもむきました。

 陣内家は、家というよりも、バラックあるいは掘立小屋に近い建物で、部屋はもちろん一つしかありません。見るとなるほど天井板から、猫の足がぶら下っています。その形や毛並からして、カロの足であることは、直ぐに判りました。足はぶら下ったまま、じっと動きません。老人の指はそれを差しました。

「早く処理して貰おう」

 カロを引出すのに、私は大汗をかきました。なにしろ足場は悪いし、天井板だってヘナヘナでしょう。あんな薄っぺらな天井では、カロが踏み破るのは当然の話です。やっと引下すとカロはすでに死んでいました。眼は白くなり、歯はむき出し、苦悶の表情がありありと見えました。鼠取りの毒団子でも食べたのだろうと思いますが、それにしても何故陣内家の天井に這(は)い込んだのか、その間の経緯(いきさつ)は一切不明です。こうしてカロは最後まで、私に迷惑をかけました。あるいはこんなところで死んだのも、私への厭がらせだったかも知れません。

 カロの死骸は即座に引取って、庭の一隅に埋葬いたしました。

 翌朝、陣内家より、ツケが廻って来ました。見ると天井板破損料三百円、慰籍(いしゃ)料二人前八百円、などと書いてあります。慰籍料というのは、猫の足を見て驚愕したり、不快を感じたりしたことの慰籍らしいのです。一人当り四百円ずつ、驚愕や不快を感じたのでしょう。いい加減なことを言うなと黙殺するつもりだったのですが、翌日から老夫人がやって来て、玄関で坐り込み戦術に出たものですから、とうとう私も根負けして、千百円持って行かれてしまいました。折角貴方から頂いた猫でしたけれども、おかげで私は大損害を蒙ったわけです。と申しても、別段貴方に弁償して呉れと言うのではありません。行きがかり上、事の次第を御報告申し上げたまでです。まことにひねくれた迷惑な猫でありました。

 これでもう生き物を飼うのは止そう。しみじみとそう決心したのですが、面白いもんですねえ、カロ死亡の翌々日の昼頃、見知らぬ黒斑(くろまだら)の猫が垣根をくぐり、ニヤアと鳴きながら、縁側にのそのそと上って参りました。そして私の傍にすり寄り、咽喉(のど)をぐるぐる鳴らしたり、背中をすり寄せたり、媚(こ)びるような、妙に慣れ慣れしい態度をとるのです。私はしばらく見て見ぬふりをし、相手にならないでいたのですが、いつまで経っても立ち去る気配がない。だんだん気味が悪くなって参りました。カロの怨霊(おんりょう)がついているのではないかと思ったからです。ついにその猫が、図々しくも私の膝の上に這(は)い上ろうとしたものですから、ついに私もたまりかねて蠅叩きを握り、頭や胴体をピシピシ殴り、あわてて庭に飛び降りたところを、私も足袋(たび)はだしで飛び降り、追っかけに追っかけて殴りつけました。猫は大狼狽して垣根にかけ上り、宙をふわっと飛ぶようにしてどこかに姿を消しました。

 するとその夕方、薄暗くなった庭の隅で、ピーコピーコという変な鳴き声が聞えるものですから、何だろうと庭に降りてみますと、なんとまたこれが猫の声なのです。生後一箇月ほどの猫が二匹、ピーコピーコと鳴き交しながら、縁側の方にそろそろと近づいて来るのです。ギョッとしましたな。大急ぎで両手で二匹の頸(くび)をつまみ上げ、陣内家の近くまで小走りに走って、そこらにぽいと投げ捨て、また小走りで家に戻って参りました。そして扉や雨戸をすっかりしめ、どこからも猫が入れないようにして、やっと大きな深呼吸をしました。どうしてこんなに次々に猫がやってきたのだろう。まさかカロの怨霊が、あちこちの猫に乗り移ったわけでもなかろうに、などとあれこれ考えている中、卒然として思い当るところがあり、私は思わず、はたと膝を打ちました。あの猫たちは、カロの死去を知り、その後釜(あとがま)に入ろうとしてやって来たのではないか。それに違いない。

 私が住んでいるこの界隈(かいわい)は、どういうわけか犬や猫がとても沢山いるのです。道を歩いているのも、うっかりすると人間よりも犬猫の方が多い位です。だから自然彼等の間に、一種の情報網みたいなものが発達していて、どこそこで猫が死んだから飼主が空いているとか、どこそこではもう一匹ぐらい飼いたい意志があるらしいとか、そんな風な情報が次から次へ伝わって行くのではないでしょうか。そうとでも考えなければ解釈がつきません。つまりさっきの黒斑猫と仔猫たちは、私に飼って貰おうと思って、お目見えに来たに違いないのです。

 ところが今書きましたように、私がむげに彼等を追い返したものですから、どうもあそこは猫はダメらしいという情報が、近所の猫界一般に散らばったらしいのです。猫の来訪は翌日からピッタリと途絶えましたが、その代りに今度は犬がやって来たのです。猫がダメなら犬ならどうだというつもりなのでしょう。それはなかなか堂々たる体格の犬でした。私は犬については、ほとんど知識はありませんが、見たところどうも純血種ではなく、雑種らしいのです。どこかセパードにも似ているし、秋田犬みたいなところもあるし、またブルドッグ的要素もあるし、テリヤのような風情(ふぜい)も持っておるし、どう見ても純血という柄ではありません。この犬がいつの間にか、私の家の縁の下に住みついてしまったのです。猫と異って、犬の宿所は戸外ですから、つい気が付かなかったのですが、私の家に押売りがやって来る度に、庭をかけて来て咆(ほ)え立てる犬がいる。なかなか感心なような、またお節介なような犬がいるものだ、と思って注意して見ますと、私にピョコピョコと尾を振って、それから縁の下にごそごそと這い込む。縁の下に何があるのかとのぞいて見て、驚きましたな。ちゃんとそこに巣がつくってあるのです。巣と言っても、わらむしろを一枚地べたに敷いただけ。そしてどういうつもりか、お釜敷きに似た五寸四方の木箱を置いてある。犬はむしろに長長と寝そべり、顎をだらしなく木箱に乗せ、私の顔を斜めに見上げながら、これは私の眼の錯覚だったかも知れませんが、ニコニコと愛想笑いをしたようです。うんざりしましたよ。むしろも木箱も、どこからかくわえ込んで来たものに違いありません。しかし、主人に相談もなく巣をつくるなんて、なんと横着な犬でしょう。よっぽど棍棒(こんぼう)をふるって追い出そうと思ったのですが、猫と違って、押売りには咆え立てるし、夜の用心にもなるし、と思い返して、追い出すのだけは許してやりました。つまり黙認することにしたわけです。これはあくまで黙認であって、飼犬としてのアグレマンを与えたわけではありませんが、一応名前だけはエスとつけてやりました。ところがエスの方では、名前を付けられたからには、主従の契約が成立したと思ったらしく、来る人来る人に咆えついて、大いに忠節を尽し始めました。

[やぶちゃん注:「セパード」shepherd。シェパード。

「アグレマン」はフランス語の“Agrément”で、外交用語の一つ。フランス語で「同意」「承認」「承諾」の意。具体的には国家が外交使節の長(大使若しくは在外公館の長としての特命全権公使)を派遣する際して予め事前に相手国に外交官待遇の「同意(アグレマン)」があることを確認することは、「ウィーン条約」(一九六一年四月十八日締結。日本では一九六四年七月八日から効力発生)以前からの国際慣習法として認知されていた。]

 私の家にも、日に四人や五人の来訪者があります。来訪者は勘定取りや集金人、押売りに税務吏員のたぐいで、おおむね私に不利益や損害をもたらす客ばかりなのです。ことにここらは押売りが多いところで、日によっては応接の暇[やぶちゃん注:「いとま」。]もないほどやって来ます。ふしぎなことに、彼等が持って来るのは必ずゴム紐(ひも)ばかりで、他の品物は何も持っていない。日本のどこかに、よほど大規模なゴム紐製造工場でもあるのでしょうか。言い合わせたようにゴム紐一点張りで、一々買い取っていた日には、家中ゴム紐ばかりになってしまうでしょう。売品は一律ですが、しかし彼等の押売りの態度は千差万別です。脅迫型。泣落し型。無口型。シャベリ型。いろいろですねえ。それに対して私の方は、睨み返し型かニコニコ型、この両方を適宜に使って、御引取り願うことにしています。

[やぶちゃん注:「ゴム紐」の押し売りは私の記憶では、小学校二年、昭和三九(一九六四)年に今のこの家に来たのが最後だったように記憶している。それは押し売りと言うよりはボロボロの服で乞食と呼ぶべき風体であった。母はゴム紐はいらない、と言って十円渡していたのを覚えている。]

 此の間やって来たのは、新手の証明書型というやつでした。中肉中背のがっしりした男で、いきなり身分証明書みたいなものを突きつける。しゃがれた低い声で、柔道で、身体をいためて、余儀なくこんなことをしている、決して乞食ではない、だからこのゴム紐を買って呉れ、そんな意味のことをぶつぶつしゃべるのです。しゃべるだけしゃべらして、相手が黙ったところを、私はニコニコして、

「ああ、間に合ってますな」

 と言いました。するとその男は、じろりと私をにらみつけ、急にすごい声を出しました。ここらが彼の演出の眼目なのでしょう。

「その前に何か言うことがあるだろう!」

 そうあっさり断らずに、何か同情の言葉でもかけろ、と言うつもりらしいのです。ところが私が相変らずニコニコしているものですから、そいつは拍子抜けしたように、なにか捨台辞(すてぜりふ)を残して、がちゃんと扉をしめて出て行きました。このニコニコ笑いが中々むつかしいのです。これがニヤニヤ笑いだと、かえって相手を刺戟して、悪い結果にならないとは保証出来ません。空気の如く透明な、白痴の如く純粋な、そんな笑い方なのです。よほどの人物でなければ、私のようなニコニコ笑いは出来ません。

 こんなのもいました。私が玄関に出て行くと、丁度(ちょうど)侍が刀の柄(つか)に手をかけたような恰好で、そいつが立っています。私の顔を見るなり、大刀を引っこ抜くといった型で、脇の下から、ゴム紐をさっと引っぱり出しました。なかなか鮮かな型で、私は内心すっかり感心しました。

「さあ、これを買わねえか」

 こういう派手なのに対しては、睨み返しが最も有効なのです。睨み返しといっても、別段睨むのではありません。仮面のように無表情になって、相手をひたすら眺めるという方法なのです。いささかの表情を浮べてもいけないのです。ここらのかね合いが、至極むつかしい。派手な切出し方をした奴に限って、この手を使用すると、相手は力の入れ場がなくなり、すっかり困ってしまうらしいのです。

 この二つの型は、押売りに対してだけでなく、あらゆる人物や事象に対しても割に有効ですので、私は交互に使用することに決めています。

 ゴム紐をほうり投げるようにして、玄関の板の間にずり上って来る奴もいますし、涙ぐんでしょぼしょぼ頭を下げるばかりのもいます。押売りの外には、暴力クズ屋がいます。いきなり庭に入って来て、黙ってそこらを物色する。縁の下から空瓶を勝手に持って行ったりするのです。これは押売りよりも苦手ですね。

「クズ物はないよ」

 と言っても、

「あるじゃねえか」

 とすご味を利(き)かせて、台所口や裏庭まで廻り、探して持って行くのです。十五六歳ぐらいの少女たちが、六七人組になって、そんな具合にやって来るのがいます。てんでに庭に乱入して、縁の下だの風呂場などを探し廻るのです。いつかなどはその一人が、土足のまま台所へずり上って来たものですから、流石(さすが)の私もニコニコ笑いでは済まされず、捕えてやろうとヤッと懸声(かけごえ)をかけて飛びつきましたら、キヤツと悲鳴を上げ、大いに身悶(もだ)えをし、ついに私を振り切って、仲間ともども一目散に遁走(とんそう)して行きました。女ながら相当に腕力もあったようです。抱きしめた感じでは、肩や胸あたりももうムチムチと肉がついて、少女の域をすでに脱しているような感じでした。まあこんな具合にいろいろなのがやって参りますが、貴方のような考え方に従えば、これも政治が悪いということになるのでしょうねえ。

 こういう悪者たちが、エスが縁の下に寓居(ぐうきょ)するようになって以来、あまり来訪して来なくなったようです。もちろんエスが懸命に咆え立てるからです。門を入って来る人影があると、エスはすばやく縁の下から這い出して、低くうなりながら、手負猪(ておいじし)のように猛り立って走ってゆく。すると人影はくるりと廻れ右して、あわてて門の外に出て行きます。一体に彼等は犬を大の苦手とするらしいのです。人間を怖がらずに犬を怖がるというのが、彼等に共通な特色のようです。

 彼等が来訪するのはおおむね午後で、午後は大抵エスが在宅中ですから、彼等は門内には入れません。午前中は別です。午前中はエスはいないのです。なぜいないか、その間の事情は後段において申し述べることにいたします。

 

 こういう事情で、私はエスと主従の契約を結んだわけではないのですが、押売りや税務吏員を撃退して呉れる関係上、報酬として残飯などをエスの面桶(めんつう)(さっき書いた五寸四方の木箱のことです)に入れてやることになったのも、自然の人情と言えましょうか。エスは割に食物の好き嫌いはないようですが、ちょっと妙なところがあって、待ちかねたようにガツガツ食べる時と、面桶に入れてやってもそっぽ向く時と、二通りあるのです。そのことが先ず私の興味をひきました。

[やぶちゃん注:「面桶(めんつう)」「ツウ」は「槽」の唐音。本来は一人前宛(ずつ)飯を盛って配る曲げ物であったが、後には乞食の持つ物受けを指した。]

 それから注意して観察していますと、大体夕方の食事はガツガツと食べるが、昼間に与えるとあまり食べたがらない、ということがしだいに判って来ました。私は幼ない時から生物学者的素質がありまして、その方面で名を上げたいと志したこともあるほどですから、生物観察は得意なのです。しかし何故エスは昼間食慾がないか、この解釈は私ほどの才能を以てしてもなかなか難渋(なんじゅう)なことでした。太陽との関係かと一応の仮説は立ててみましたが、それもどうもおかしい。もぐらやミミズなら、知らず、陽が照っているからといって、犬の食慾が減退するとは、前代未聞のことです。私も時に酒を飲み、二日酔をすると、朝昼はどうしても食えず、やっと夕方になって食慾が出る。それと同じかとも思いましたが、犬が酒をたしなむ訳がないし、従って二日酔をするはずがありません。あるいか寄生虫のせいかも知れないぞと、なおも相変らず観察をつづけている中に、エスの生活に不思議な節(ふし)があるのを発見しました。それはエスの我が家に於ける在宅時間のことです。

 さっき書きましたように午前中はおおむねエスは縁の下にはいないのです。例外はありますが、大体十一時か正午頃、どこからともなくエスは姿をあらわして、ごそごそと縁の下にもぐり込むのです。そういう時に残飯を与えても、あまり見向きもしない。

 夕方食事を済ませ、エスはまた縁の下にもぐりこむ。しょっちゅうもぐり込んでいるわけではなく、時には散歩に出たり、メス犬を追っかけたりすることもあるようですが、生れつき出不精な犬と見え、ねぐらに寝そべっている時間の方が多いようです。午前中は大体どこに行っているのでしょう。

 ある夜のことです。私は街で酒を飲み、午前一時頃酔っぱらって家に戻って参りました。たいてい私の帰宅の折には、エスが門まで出迎えるのが常ですが、どうしたものかこの夜は出迎えない。ふしぎに思って庭に廻り、縁の下をのぞきながら、

「エス。エス」

 と呼んでみました。ところが返事が全然ありません。よく見ると、ねぐらの中にエスの姿はないのです。月光に照らされて面桶が一箇ころがっているだけ。正式に飼っているわけではないが、主家防護の任を忘れて夜道びに行くなんて、大それた犬だとその時は少々憤慨しましたな。

[やぶちゃん注:不審を抱く若い方のために言っておくと、昭和三十年代前半ぐらいまでは、純系種や大型犬でもない限り、犬を鎖に繋いでおくのは、寧ろ少なかった。私の家の牡の柴犬の雑種のエルも小学校三年の時に病気で亡くなったが、夜になると、母が離していた。非常に大人しい犬で人に咬みつくことも、殆んど吠えることもなかったのだが、新聞屋さんの話によれば、二キロばかり離れた大船の市街地に下って行って、何匹もの野犬を引き連れ、隣り町の野犬集団と喧嘩して勝ち、親分になっていた、と後に聴いた。「1964年7月26日の僕の絵日記 43年前の今日 または 忘れ得ぬ人々17 エル」の一番下に在りし日のエルの写真(少年の私と)がある。]

 それから、その翌日から一週間ばかり、エスに気付かれないようにそっと注意していますと、次のようなことが大体判って来ました。すなわちエスは、昼間から夕方、それから日が暮れて午前零時頃まで、私の家の緑の下のねぐらにいます。零時を過ぎると、ねぐらからごそごそと這い出し、いずこへか姿をくらましてしまう。そして夜が明けて午前十一時か正午頃、何食わぬ顔で垣根をくぐって戻って来るのです。一体全体どこに遊びに行くのでしょう。

 エスの生活におけるこうした疑問が、ついに氷解する日が来ました。それはついこの間のことです。日曜日の朝のことでしたが、うらうらと好い天気で、もうそろそろ土筆(つくし)が出ているかも知れないと思い、私は近所の川べりに散歩に出かけたのです。すると向うから、犬を連れて歩いて来る男がいる。やはり散歩らしいのです。犬は嘻々(きき)[やぶちゃん注:「嘻」はママ。]として、草の芽を嗅いだり、片足あげてオシッコをしたり、じゃれ廻りながらついて歩いていましたが、だんだん近づいて見て、すっかり驚きましたな。それがエスだったのです。

 エスは私の顔をちらと見ました。そして立ち止って、ちょっと困ったような顔をしました。ところが先を歩いていたその男が、

「ジョン!」

 と呼んだものですから、エスは眩しげに視線を外(そ)らし、尻尾をピョコピョコ振って、その男の方に走って行きました。私は手にしていた土筆の束を、思わず取落していましたよ。どうも変だ変だと思っていたら、エスはよその家とかけもちで飼われていたんですな。

 その男は、私も顔だけは知っています。私の家から一町[やぶちゃん注:一〇九メートル。]ばかり離れたところに住んでいる大沼という男で、都庁かどこかの課長を勤めているという話です。四十がらみの、いかにも役人らしいこせこせした顔付の男で、私はあまり好きそうになれません。エスはこの大沼家ではジョンと呼ばれているのです。

 それからだんだん調べたところによると、エスは午前零時から正午頃まで、大沼家の犬小屋に住み、大沼家を守護しているらしいのです。朝食は大沼家で支給される。あとの半日は私の家で過し、そして夕飯を私から支給される。どうしてこういう生活態度をエスが選んだのか、これは私の推定ですけれども、大沼という男は大層ケチンボで、犬に対しても朝飯だけしか食わせないらしいのです。犬というやつはもともと大食いだし、一日一食ではとても足りないでしょう。そこでエスは、最低の食生活を確保する必要上、どうしてももう一軒飼主を見付けねばならなかった。ところが偶然私の家ではカロが死に、アキが出来たというので、強引に入りこんで来たらしいのです。この数箇月間、ジョンとエスの二つの名を使い分けて生活して来たところなど、やはり相当なやつですな。

 この食生活が原因だという私の推定は、おおむね当っているでしょう。まあ人間生活においても、生活の大ざっぱな基準は衣食住ということになりますが、『衣』の方は犬には必要がない。生れながらにして毛皮が具(そな)わっているからです。それから『住』という点では、私の縁の下に来ないでも、大沼家のでちゃんと間に合う。この間私は大沼家の塀の節穴から、そっとのぞいて見たのですが、ここの犬小屋はなかなか立派です。縁の下と異って[やぶちゃん注:「ちがって」。]、ちゃんとした独立家屋なのです。内には柔かそうなワラまで敷いてあります。何を好んでじめじめした縁の下にやって来る必要がありましょうか。

 大沼夫婦はその時、庭の草むしりをしていました。私からのぞかれているとは露(つゆ)知らないものですから、草をむしりながら大きな声を出して、夫婦喧嘩をしていました。

「なんだ。最初から亭主の労働力を予定して買うなんて、そんなムチャな話があるか。俺に一言の相談もせず!」

 これは大沼の声です。すると夫人が、

「だって、もともとそんな具合に出来てるんですよ。夫婦の間柄だから、その位のことして下さってもいいじゃないの!」

「してやらないとは言わん。しかし何故、一応俺に相談しないんだっ!」

「判りもしない癖に、相談出来ますか!」

 二人とも口争いに亢奮して、草花を雑草と間違えて引っこ技き、あわてて植え直したりしていました。なんでも大沼夫人がワンピースの服を買ったらしいのですが、その女唐(めとう)服というのが、背中に縦にずらずらとボタンがついているやつで、着たり脱いだりする時、誰か他人手(ひとで)を借りなければボタンのはめ外(はず)しが出来ない式のものらしいのです。大沼が怒っているのは、そのはめ外しの役目を亭主を想定している、相談なくして亭主を働かせようと企んだ、その点なのです。聞いている中に、私は笑いがこみ上げそうになって来たものですから、あわてて節穴から離れました。大沼夫人というのは、小柄ながら風船玉みたいに肥った、ガラガラ声の女性です。ここら界隈の女の中では、その体軀[やぶちゃん注:「たいく」。]と弁舌によって、ウルサ型に属する傑物なのです。

[やぶちゃん注:「女唐(めとう)服」洋装婦人服。明治一四(一九八一)年には「女唐服屋(めとうふくや)」と呼ばれた婦人服専門の職人が登場していた。]

 まあこう言った具合で、エスの二重生活の原因は食生活にあり、と推定したわけです。でも、それならばそれでよろしい。一日に面桶一ぱいの残飯でもって、押売りや税務役人を撃退出来れば、私としてはむしろ得してることになるでしょう。そう思ってエスの存在を容認していたのですが、必ずしもそうでない事情が持ち上ったのです。それは昨日のことでした。

 昨日の午後です。私が茶の間に寝ころんで、ラジオを聞いていますと、庭先の方で、

「ごめんください。ごめんください」

 と言う女の声がしました。オヤとばかり私は起き直りました。来訪者らしいのに、エスが全然咆え立てなかったからです。変だなと思って縁側に出て行くと、そこに立っているのはまさしく大沼夫人でした。これではエスが咆(ほ)えないのも当然です。私は訊ねました。

「何か御用ですか?」

「ええ、ええ。ひとつ御相談したいことがありましてね」

 ガラガラ声ながら、どこか険を含んだ声音です。私は急いで座布団を出し、縁側に腰をおろして貰いました。見ると夫人は黒っぽいワンピースを着ています。縁に斜めに腰かけている関係上、その背中がすっかり見えるのです。背中の一番上から腰のあたりまで、まがい真珠のボタンが、縦に一列ずらずらと並んでいます。ボタンの数は三十ほどもありましょうか。これじゃ大沼亭主の苦労も察せられますな。私は思わず笑いがむずむずとこみ上げて来て、それを押えるのに苦労しました。

[やぶちゃん注:太字「まがい」は底本では傍点「ヽ」。]

「まあ図々しい」

 夫人がふっとひとりごとを言いました。彼女はさっきから、ちらちらと横目で縁の下のエスの方を見ていたのです。庭先に入って来た時から気にしていた風なのです。

「あのお釜敷きも、あたしんちのだわ。いつの間にくわえて行つたんだろ」

 面桶のことを言っているらしいのですが、私は聞えない

ふりをして、おもむろに訊ねました。

「さて、どういう御用件でございましょう?」

「ジョンの注射代ですよ」

 と夫人はぐいと顔をねじ向け、切口上で言いました。

「ジョンの注射を昨日済ませましたからね、半額お宅で受持っていただきたいのよ」

「ジョン?」

 と私はわざと訝しげな表情をこさえました。

「ジョンというのは、何ですか?」

「何ですかって、そこに坐っているじゃありませんか」

 夫人は憤然とした面もちで、エスの方を指差しました。するとエスはのそのそと縁の下から這い出し、柿の木の根元にうなだれて坐りました。自分のことが問題になっている、それも風向きのいい間題ではないということを、動物的直観力で悟ったのでしょうな。うなだれながら、時々ちらちらとこちらをぬすみ見しているようです。

「半分はお宅で飼ってるんでしょ。注射代半分持つのは、あたり前じゃないの」

「僕はこの犬を別段飼ってるわけじゃありませんよ」

 と僕は抗弁しました。

「エスが勝手に住みついたんですよ。当方に責任はありません」

「そら、今、エスと言ったじゃありませんか」

 と夫人は言いつのりました。

「名前をつけたということは、飼ったということですよ。飼わなきゃ、何で名前なんかつけるんです?」

「いや、僕は昔から、犬はどの犬でも全部エスと呼ぶことに決めてるんです」

「そんな弁解は通りません!」

 そして夫人は縁側をピシャリと叩きました。

「じゃお宅はジョンに、食事なんか全然与えてないのね」

「ええ。でも残飯なんかを捨てると、勝手に食べているようですが……」

「まあ、なんて図々しい言い方でしょう」

 夫人の眉の根がぐいとふくらんだようです。そこら辺の静脈が怒張したんでしょうな。私としても、何も夫人を怒らせたい気持はないのですが、ここで折れると注射代を半分持たねばならないので、必死です。

「大沼はね、初め誘拐罪であなたを訴えるとまで言ってましたのよ。それなのに――」

「誘拐なんかするものですか。こんな薄汚ない犬」

「薄汚なくてはばかり様。これでも三千円出して買ったんですからね」

 こんな見っともない論争が、二十分ほども続いたでしょうか。最後に大沼夫人は、きっと首をふり立てて、宣言するように言いました。

「じゃ、よござんす。どうしてもお払いにならなければ、明日からあたしはここに坐り込みます」

 ギョッとしましたな。きっとあの陣内老人が、あそこの家は坐り込めば金が出る、なんてしゃべったに違いありません。そうでもなければ、大沼夫人が坐り込み戦術を考えつく筈がありません。

 私は今この手紙を茶の間で書いているのですが、縁側には大沼夫人が、手弁当持参で今朝からでんと坐り込んでいるのです。全くうんざりします。僕はもともと気が弱いたちですから、明日にもなれば根負けして、前の陣内老人の場合と同じく、結局注射代半分を大沼夫人に持って行かれることになるでしょう。注射代それ自身はさほど高くはないのですが、エスをうちの飼犬だと認めると、やれ首輪買ったから半分出せとか、人にかみついたから慰籍料を半分持てとか、いろいろ言って来るにきまっているのです。大沼夫人とはそういう女性だと、近所でも評判なのですから。

 それともう一つ。陣内老人がせっせと作っているうちの庭の畠を、エスが遠慮なく踏みつけたり掘り返したりするものですから、いつか老人が文句をつけに来たことがあるのです。その時は、これはうちの犬ではないの一点張りで、お帰りを願ったのですが、ここでうちの犬だと認めれば、大沼夫人が陣内老人にその旨をしゃべるにきまっています。そうすれば二三日中に、作物荒しの弁償をしろと、陣内老人が勢いこんで拙宅に乗り込んで来ることは、火を見るより明かなことです。あれやこれやを考え、行く末を思いやると、眼の先がまっくらになるような気がいたします。

 以上、とりとめもなく近況御報告申し上げましたが、このような事情でございますので、拝借の金子返却の儀、もう暫(しばら)く待っていただけませんでしょうか。いえ、踏み倒そうという気持は毛頭ございません。しょっちゅう気にはかけておりますものの、生来の貧乏性、なかなか金策のめどがつかず、心ならずも不義理を重ねておる次第でございます。事情御諒承の上御寛容下さらば、欣快(きんかい)これに過ぐるものはございません。先ずはお詫びかたがた近況御報告まで。

 貴下の隆盛と万福を切に祈りつつ。草々不一。

[やぶちゃん注:「欣快」非常に嬉しいこと。喜び。]

 

 

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 立秋

 

立秋

 

柳河のたつたひとつの公園に

秋が來た。

古い懷月樓(くわいげつろう)の三階へ

きりきりと繰(く)り上ぐる氷水の硝子杯(コツプ)、

薄茶(うすちや)に、雪に、しらたま、

紅(あか)い雪洞(ぼんぼり)も消えさうに。

 

柳河のたつたひとつの遊女屋(いうぢよや)に

薊(あざみ)が生え、

住む人もないがらんどうの三階から

きりきりと繰り下ぐる氷水の硝子杯(コツプ)、

お代りに、ラムネに、サイホン、

こほろぎも欄干(らんかん)に。

 

柳河のたつたひとりの NOSKAI

しよんぼりと、

月の出の橋の擬寶珠(ぎぼしゆ)に手を凭(もた)せ、

きりきりと音(おと)のかなしい薄あかり、

けふもなほ水のながれに身を映(うつ)す。

 

「氷、氷、氷、氷、…………」

 * 遊女、方言。

 

[やぶちゃん注:最後の注は本文への注記号はないが、「NOSKAI」へのそれ。……それにしても……私が最後に「かき氷」を食べたのは何時だったろう……もう忘れるほどの大昔…………

「懷月樓」既出既注の三柱神社参道入り口の二ツ川に架かる欄干橋を渡った左手にあった明治時代の遊女屋の屋号。現在は「松月文人館」(グーグル・マップ・データ。地図に館名がないが、ストリートビューで確認出来る)となり、一階は川下り乗船場で、二階と三階が北原白秋など地元所縁の文学者らの資料館となっている。当時はこの三階がカフェとなっていたようである。

「サイホン」サイホンラムネの略。所謂、お馴染みの圧のかかったくびれた壜入りのラムネ。

「月の出の橋」月の登った「出(いで)の橋」(既出既注)の意であろう。]

2020/06/25

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 五 /(再々リロード) 凡兆~了

 

       

 ここまで書いたところで奈良鹿郎氏の示教を得た。(『桐の葉』昭和十二年十二月号)同氏が安井小洒(やすいしょうしゃ)氏の『蕉門名家句集』によって示された凡兆の遺珠は左の如きものである。

[やぶちゃん注:「奈良鹿郎」既出既注。「凡兆 三」の末尾の私の注を参照されたい。

「安井小洒」(明治一一(一八七八)年~昭和一七(一九四二)年)は俳人で蕉門を中心とした俳文学研究家にして兵庫の「なつめや書荘」店主。本名、知之。「蕉門名家句集」は昭和一一(一九三六)年に自社から刊行したもの。既出既注であるが、再掲した。]

 塵ながすほどにもふらじ春の雨   加生(新花鳥)

[やぶちゃん注:「新花鳥」汲谷軒好春編。元禄四(一六九一)年刊。]

   餞桃々坊

 須磨の春我も若木に笠ぬがん    凡兆(追鳥狩)

[やぶちゃん注:前書は「桃々坊(たうたうばう)に餞(はなむけ)す」。「桃々坊」は榎本舎羅(しゃら 生没年不詳)は大坂蕉門重鎮の一人であった槐本之道(えのもとしどう)の紹介で入った蕉門俳人。大坂生まれ。後に剃髪した。今までに上がった撰集「麻の実」や「荒小田」の編でも知られる。ウィキの「舎羅」によれば、『貧困と風雅とに名を得たと言われた』。『芭蕉が、大坂で最期の床に就いた時、看護師代わりになって汚れ物の始末までした。去来は、「人々にかかる汚れを耻給へば、座臥のたすけとなるもの呑舟と舎羅也、これは之道が貧しくして有ながら彼が門人ならば他ならずとて、召して介抱の便とし給ふ」(「枯尾華」)と書いている』とある。一句は「源氏物語」の「須磨」にでも拠っている餞別句か、私にはよく判らない。

「追鳥狩」は「おひどがり(おいとがり)」と読み、舎羅自身の編で、元禄一四(一七〇一)年刊である。]

 たのみよる桜や茶屋のよつ柱    同(岨の古畑)

[やぶちゃん注:「岨の古畑」は「そばのふるはた」(「岨」は崖の意)で梅員編。元禄十六年刊。]

   西行寺

 なりけりの切字と花を手むけかな  同

[やぶちゃん注:「西行寺」現在の京都市伏見区竹田西内畑町に嘗てあった西行所縁の寺。白河天皇陵の北に位置し、西行が鳥羽上皇の北面の武士であった頃の邸宅跡と伝えられる。江戸時代には庵室があり、西行寺と称し、境内には月見池や剃髪堂があった。明治一一(一八七八)年に六三〇メートルほど東の伏見区竹田内畑町にある観音寺(浄土宗)に併合され、現在は旧跡には西行寺跡を示す石標のみがある(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。なお、観音寺には西行法師像と伝える坐像が安置されてあるという(とネット上に複数の記載があるが、確認出来ない)。一句は西行の知られた一首「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」(「新古今和歌集」)の今初めて気づいたことを示す詠嘆認識の条動詞連語「なりけり」を俳句の切れ字と分離して転じ、「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」やら、世阿弥の謡曲「西行桜」(ここが舞台)をインスパイアしたものであろう。]

 とり沙汰も無事で暮けり葛の花   同

[やぶちゃん注:マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ変種クズ  Pueraria montana var. lobata の花は秋であるが、「けり」は過去ではなく、詠嘆であろうから、気にしていたある彼に関わる世間の噂或いは評判も悪しくは立たぬと読めて、無事に年も越せそうだというのであろうか。]

 刈株の蕎麦も心や秋のかぜ     凡兆(鏽鏡)

[やぶちゃん注:「刈株」刈り取った跡の切り株。普通は稲のそれだが、ここは蕎麦のそれを指し、稲のそれに通わせて詠嘆したもの。

「鏽鏡」は「さびかがみ」で、舎羅編。正徳三(一七一三)年刊。]

 羊蹄は世に多かほの枯野かな    同

[やぶちゃん注:「羊蹄」は「ぎしぎし」でナデシコ目タデ科スイバ属ギシギシ Rumex japonicus。現行では仲春の季題だが、「枯野」で冬。ギシギシは秋に発芽して、茎を伸ばさずに、地面にへばりつくように株の中心から放射状に多くの葉を広げたロゼット状の姿で冬の寒さを越す。殺風景な枯野にへばりつくように我が物顔のそれを詠じた。私にとっては母から教えられた「すっかんぽ」の名で馴染みの雑草である。]

 わたくしの見ものや雪のみほつくし 同(万句四之富士)

[やぶちゃん注:「みほつくし」はママ。川流れなどにある杭であるが、歴史的仮名遣は「みをつくし」が正しい。上五は「自分だけの」の謂いであろう。

「万句四之富士」は「まんくよつのふじ」で野坡編。正徳五(一七一五)年自序。]

 出るからは花なき在も花見かな   同(百曲)

[やぶちゃん注:「出る」は「でる」であろう。「在」は「ざい」で里。

「百曲」は「ももまがり」で市山らの編で、享保二(一七一七)年刊。]

   上巳

 住よしや河掘添て春の海      同

[やぶちゃん注:「上巳」は「じやうし(じょうし)」で、中七は「かはほりそえて」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、「上巳」は『本来三月上(かみ)の巳(み)の日の意だが、のちには三月三日のことと定められた。いわゆる大潮の日に当たり、潮の引いたあとの浜が潮干狩に最適になる』とあり、「住よし」は『大阪湾に臨む摂津住吉の浦のこと。古来、和歌にも詠まれたところで、眺めが美しかった。『滑稽雑談』(正徳三年刊)に「貞徳師云、潮干とばかりは雑なり。住吉の潮干は春なり」とある』と注された上で、『摂津住吉の浦の潮干の風景である。美しい住吉の浜の干潟に潮干狩の人たちが戯れに掘った溝がわずかに海水を引き入れており、その溝続きに穏やかな春の海がひろがっているというのである。人々が掘った小さな溝を大げさに「河掘添て」といったのであろう』とある。]

   大和紀行の時

 老の手の籠におどるや山清水    同

[やぶちゃん注:「籠」はシチュエーションからして山駕籠に乗っているのであろう。]

 唐僧も見るや吉野の山桜      同

[やぶちゃん注:「唐僧」は「からそう」と読みたい。歴史詠風に渡来僧の視線に吉野の桜をぶつけたところに着想の新奇さはある。]

 五月雨や苔むす庵のかうの物    同(柴のほまれ)

[やぶちゃん注:「庵」は「いほ」であろう。「柴のほまれ」は宇白編宝暦八(一七五八)年刊。]

 以上のうち「加生」となっている『新花鳥』が元禄四年版、他は『荒小田』以後に属する。句として特筆するに足るほどのものは見当らぬようであるが、埋没している凡兆の作品が、古俳書研究家の手によって次第に発掘されて行くことは感謝に堪えぬ。

 凡兆の一生は詳(つまびらか)でない。その交游等についても委しく事は不明である。去来とは『猿蓑』撰の関係もあり、落柿舎にしばしば来ていることを見ても、相当親しかったものと思われるが、他に徴すべき材料は見当らぬ。其角との交渉は恐らく元禄元年から二年へかけて滞在した時に始まるのであろう。『いつを昔』には十月二十日の嵯峨遊吟及霜月下の七日尚白亭の条に加生の名が見えている。

[やぶちゃん注:「いつを昔」(「何時を昔」であろう)は別名「俳番匠(はいばんしょう)」と言う。其角編で元禄三(一六九〇)年刊。既出既注。]

   凡兆が亭にあそびて炉の南といふことを

 埋火の南をきけやきりぎりす    其角

[やぶちゃん注:「埋火」は「うづみび」。この其角の句の意味は私にはよく判らない。茶道の風炉(ふろ)釜の配置か、或いは席位置か? 識者の御教授を乞う。]

という句も、前書は見えぬが『いつを昔』の中に出ているので、やはり同じ滞在中のものと思われる。

 凡兆は夫妻ともに俳人であった。有名な「我子なら供にはやらじ夜の雪」という句は、『いつを昔』に「加生つまとめ」として出ており、凡兆の妻の作であること、その名を「とめ」といったことをも併せて知り得る便宜がある。其角は嵯峨遊吟の末に

 縫かゝる紙子にいはん嵯峨の冬   其角

の句を掲げ、「加生のつまのぬはれけるなり」という註を加えているから、凡兆の家とは相当親しい交渉があったのであろう。それが元禄四年[やぶちゃん注:一六九一年。]の『猿蓑』乃至『嵯峨日記』になると、羽紅という名に変っている。『猿蓑』にある

   わがみかよはくやまひがちなりければ
   髪けづらんも物むづかしと
   此春さまをかへて

 笄もくしも昔やちり椿       羽紅

[やぶちゃん注:以上は「猿蓑」の「卷之四」にある。「さまをかへて」が尼になるの意。「笄」は「かうがい(こうがい)」。]

の句は、剃髪の年代を推測せしむる唯一の材料であるが、羽紅の名は剃髪と同時に改めたものか、凡兆の改号に伴う現象であるか、その辺のことはわからない。芭蕉は『嵯峨日記』の中で「羽紅尼」といい、「羽紅夫婦」といい、「羽紅凡兆」といい、同日の条に三たび異った書き方をしている。羽紅が凡兆の妻であるかどうかということについては、一時異説もあったようであるが、現在では『荒小田』に「凡兆妻羽紅」とある一事だけで、十分証明出来ると思う。羽紅は凡兆に従って俳諧に入り、芭蕉に親炙する機会の多い婦人の一人であった。『猿蓑』の撰に入るもの幻住庵の「几右日記(きゆうにっき)」を併せて実に十三、女流の首位を占めているのは、必ずしも撰者の妻たるがためのみではない。

 だまされし星の光や小夜時雨    羽紅

 縫物や著もせでよごす五月雨    同

 はるさめのあがるや軒になく雀   同

の如く、力量の凡ならざるために外(ほか)ならぬのである。

[やぶちゃん注:「我子なら供にはやらじ夜の雪」この句には『いつを昔』には「交題百句」の巻頭に配されてあって、

  感心 次郞といふをつれてつまの夜咄に行

という前書がある。「早稲田大学図書館古典総合データベース」の原本の当該部をリンクさせておく。但し、私には前書も含めてよく意味がとれない。識者の御教授を乞う。

「几右日記」「猿蓑」の巻六に、芭蕉の俳文「幻住庵記」と向井震軒による「後題」の後に載る幻住庵での芭蕉の日記というが、訪問客らの発句三十五句のみから成る句記録に過ぎない。その中の羽江の句は一句で、

 石山の行かで果せし秋の風     羽紅

である。]

 凡兆が囹圄(れいご)[やぶちゃん注:牢獄。「囹」も「圄」牢屋の意。]の人となってから、羽紅はどうしていたか、『続猿蓑』に

 春の野やいづれの草にかぶれけむ 羽紅

の一句を存する外は、凡兆が俳書の上に姿を現すまで、羽紅の名もまた表面から消去っている。

 凡兆は出獄後ずっと大坂に隠れ、羽紅と起居を共にしていたものの如くであるが、ただ一つ疑問なのは、元禄十五年の『はつたより』に

 木のまたのあてやかなりし柳かな 江戸凡兆

とあることである。凡兆はこの時分に江戸へ行っていたかどうか、江戸という肩書が他に例のないものであるだけに――この句が前年の『荒小田』にも出ているものであるだけに、いささか首を傾けざるを得ない。誤伝か、誤記か、さもなければ故意に肩書を変えたものか、いずれかのうちと見るより仕方があるまい。

[やぶちゃん注:この句、如何にもストレートな艶句であるが、私は惹かれない。「江戸」とかで宵曲が深く疑っている通り、凡兆の句ではないのではないか? 彼の句としても駄句の部類である気がする。「はつたより」は「初便(はつだより)」で知方編。元禄一五(一七〇二)年序・跋。]

 由来凡兆という作家は、その句によって、その人を勘(かんが)えるのに困難な作家である。『猿蓑』所載の四十四句について見ても、前書附のものは六句に過ぎず、その中でもやや異色あるものはといえば、左の一句あるに過ぎない。

   越より飛驒へ行くとて籠のわたりの
   あやふきところところ道もなき山路
   にさまよひて

 鷲の巣の樟の枯枝に日は入りぬ  凡兆

[やぶちゃん注:「樟」は「くす」。クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora。堀切氏前掲書の評釈に、『飛騨・越中国境の山中の景である。人跡まれな山峡はすっかり夕闇に沈み、黒々と浮き立つようにそびえる巨大な樟の枯れ枝に、大きな鷲の巣がかかっているのが仰がれる。折しも月が落ちて、稜線の空は真っ赤に燃えている、という光景である。雄大で、しかも凄絶な感のある山中の夕景である。一幅の画として、ほとんど人工的とも思えるほど見事に構成された世界を成している。しかも、その光景を見上げている旅人の孤愁のようなものさえ汲みとることができるのである。助詞「の」を重ねた上で、「樟の枯枝に」で一呼吸置き、さらに、「日は入ぬ」と柔かく治定した音調も、よく整っているといえよう』と絶賛され、『凡兆が飛驒へ赴いたのはいつか不明。あるいは一句の表現効果を上げるために、それらしく虚構の設定をしたものか。「籠のわたり」は飛驒・越中の両国を流れる庄川(射水川)の上流白川谷にあったものをさすか。急流の両岸とも絶壁で橋を渡せないので、藤蔓を張り、籠を吊して引き綱で渡る仕掛けがあった』と注されている。昭和五三(一九七八)年(第五版)小学館刊「日本古典文学全集 近世俳句俳文集」で栗山理一氏は本句を揚げて、江戸後期の随筆で伴蒿蹊(ばんこうけい)著「閑田耕筆」(享和元(一八〇一)年刊。見聞記や感想を「天地」・「人」・「物」・「事」の全四部に分けて収載する)から「籠の渡り」の記事を引かれた後、『飛越の国境にはこのような籠のわたりが十余か所もあった』とされる。「閑田耕筆」は私も好きな随筆であるので、「卷之一 天地部」に載る記事を、私のオリジナルで引きたい。底本は原本を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認し(一部にオリジナルにひらがなで歴史的仮名遣で読みを推定で添え、句読点・鍵括弧等を補助した。【 】は二行割注)、そこにある「籠の渡し」の挿絵(本文より少し後ろ)も添えた(裏映りがするのでトリミング補正を加えた)

   *

○懸崕絕壁(ケンカイセツへキ)數十丈屹立(コツリツ)し、下は急流迅瀨(キウリウジンライ)にして、柱を建(たつ)べからざる所、奇巧を用て橋をわたすもの、甲斐に猿橋(サルハシ)、信濃に水内(ミヌチ)の曲橋(マガリハシ)など、圖を見其話をも聞しが、曲橋は信濃地名考に出たれば更にいふべからず。猿ばしは圖を寫とめざりき。其所由は、猿のたくみにならひてかけそめたりしとかや。こゝに、また、此頃、飛驒の人田中記文といふが訪來(たづねきたり)て、其國の藤ばし、「かごのわたり」のことをかたり、且(かつ)記せるものを示さる。[やぶちゃん注:以下、「藤橋」についての語りとなるが、中略する。但し、今回、既にこの条全体を電子化したので、近い内に「藤橋」の絵も添えて、「怪奇談集」にアップするつもりである。]「籠のわたり」は吉城郡中山村に在(あり)て、神通河に架す。川の北は蟹寺(カンテラ)【里人カンテラと稱ふ。】村とて、越中の南鄙なり。「籃(カゴノ)渡」とは橋にあらず。「西域傳」にいへる「度索(トサク)」といふもの歟(か)。其地兩岸絕壁にして、河の流れいちはやく、水に航(フネ)すべからず。崕(キシ)に橋すべからず。故に大索(オホナハ)三筋を張(はり)て崕(キシ)に架(わた)し、懸(カク)るに小籃(カゴ)をもてし、人其中にうづくまるを、籃に兩索(フタツナハ)ありて、前崕(キシ)曳(ヒ)ㇾ之後(うしろ)崕(がけへ)送(ヲク)ㇾ之、南北より相助、からうじて渡る。土人は男女をいはず、手をもてみづから索(ナハ)をたぐりて、たやすく行(ゆき)かひすること、神のごとし。籃は木を揉(タハ)めて幹(モト)とし、底は藤をもてめくらし、編(アム)こと蜘(くも)のあみを結ぶがごとし。三(みつ)の大索、月每に一筋を更(ハフ)るといふ。其往(ユキ)來のしげきこと知るべし。飛驒より越中に行(ゆく)道あまたあれど、此道便(ヘン)なればとかや。此餘椿原荻町共に此國大野郡にして、此籃(カゴ)もて度(わた)ること、同じ。荻町は其地ことに險溢(サカシク)、其河、流(ナカレ)駛(トク)、しかも東崕高く、西卑(ヒク)ければ、階梯(ハシ)をたてゝ登りて、籃に就(ツク)。椿原は是よりも猶、危しとぞ。記者、中山を賦せる古詩の歌体長篇あれど、事に繁(シケ)ければ洩(モラ)しぬ。いにしへ衣笠内府(きぶがさないふ[やぶちゃん注:鎌倉時代の内大臣で歌人であった衣笠家良(建久三(一一九二)年~文永元(一二六四)年)])の御詠とて、其所につたふるは、〽「徒(いたづら)にやすく過來(すぎき)ぬ山藤のかごのわたりもあれば有物(あるもの)を」。おのれにも歌をこはれて、とみに口ずさふ。〽「波分(なみわけ)しまなし堅間かたま」のふることも斐太(ヒタ)にありてふ渡りにぞ思ふ」。

Kagonowatasi

   *

また、堀切氏は前掲書で、『樟は常緑樹で冬枯れはない。「樟」は「鷲」とともに飛驒地方には見られないものとする説もあるし、これを否定する説もある』と注されておられる。因みに調べてみたが、クスノキは飛驒に実際に自生するし(ネット記載で複数確認。植物学的にもクスノキが飛驒に植生しないという謂い自体が植生学的に非科学的である)、鷲類の内でも、例えばタカ目タカ科イヌワシ属イヌワシ Aquila chrysaetos japonica は棲息する(これも確認済み)。ただ、確かに凡兆はその生涯の中で飛驒に行ったことは少なくとも現行の資料の中では確認出来ないことは事実である。しかし、だからと言って、即、否定は出来ぬ。……例えば、君はアイスランドに行ったことがあるか?……マチュ・ピチュやナスカの地上絵を現地で見たことがあるか?……敦煌はどうだ?……礼文島にのみ植生する単子葉植物綱キジカクシ目ラン科アツモリソウ属アツモリソウ変種レブンアツモリソウ Cypripedium marcanthum var. rebunense を目の前で親しく剖検するのを見たことがあるか?……以上に私は総て「イエス」と胸を張って答えられるのだ――孤独な隅の老人と馬鹿にするな――人には相応に人に知られない旅は――ある――ものだよ……]

 これは凡兆の足跡の遠きに及んだ唯一の例である。前書は現在の事のように記してあるけれども、過去における旅中の所見を改めて句にしたものかと想像する。金沢に生れ、京にあって医を業とし、不幸にして囹圄の人となった後、余生を大坂に送った凡兆は、芭蕉や惟然は勿論、其角嵐雪ほどの旅程にも上らずに、その生涯を終ったのであろう。

 かつて沼波瓊音(ぬなみけいおん)氏をして「芭蕉に妾ありき」なる一文を草せしめた『小ばなし』という写本がある。風律(ふうりつ)が野坡その他に聞いた話を書きとめたもので、寿貞が芭蕉の若い時の妾であったという記載もその中から発見されたのであるが、同書はまた野坡の談として次のような一節を伝えている。

[やぶちゃん注:「沼波瓊音」(明治一〇(一八七七)年~昭和二(一九二七)年)は国文学者で俳人にして強力な日本主義者。名古屋生まれ。本名、武夫。東京帝国大学国文科卒。『俳味』主宰。

 以下、底本では全体が一字下げで、冒頭の一だけが上に飛び出ている。前後を一行空けた。]

 

一 凡兆は京の医者にて越度(おちど)の事有(あり)京追放のよしその後家翁の手跡手紙など多く持居[やぶちゃん注:「もちをり」。]申候、払度[やぶちゃん注:「はらひたき」。]よし来てたのみ申候故備中辺へ多くもとめ遣し候

 

 「芭蕉に妾ありき」からの孫引であるが、この記載は出獄後の凡兆について慥に或事実を語っているように思う。凡兆が京を去ったのは、自ら人目を憚ったばかりでなく、処分のために土地を去らなければならなかったのであろう。そういう悲境に沈淪(ちんりん)[やぶちゃん注:落魄(おちぶ)れること。]した凡兆が、芭蕉の筆蹟や手紙の類を金に易(か)うべく、野坡のところへ頼みに来たというのは如何にもありそうな話で、同情に堪えぬものがある。

 土芳の『蓑虫庵集』を見ると、正徳三年[やぶちゃん注:一七一三年。]の条に

   正月廿八日難波尼羽紅に送る
   海なき都に袖しぼる尼と聞へしも、
   いまにつゝがなしと人の云けるまゝ
   便求て申侍る

 白うをにまぎれてゆかし藻汐草

   妻にかはりて凡兆より返し句申候とて

 わびぬれば身は埒もなきもづくかな

ということが出ている。土芳との交渉も久しく絶えておったのを、今なお健在であるとの消息を人から聞いて、その人に托して「白うを」の句を贈ったものらしい。これに酬いた「わびぬれば」の句は、今伝わっている凡兆の句としては最後のものであるが、直接土芳に送ったのでなしに、土芳の消息を齎(もたら)した人に対して示すという程度だったのであろう。故人の情をうれしく思うよりも、先ず現在の境遇を恥ずるという心持が、この句によって窺われるように思う。

[やぶちゃん注:「蓑虫庵集」土芳著。元禄元(一六八八)年から宝永・正徳を経て享保一四(一七二九)年にかけて四十年余りの間に記したものの集成。以上の引用はまことにしみじみとした哀感の交感を湛えていて一読忘れ難い。

「海なき都」と言ったら、現行の認識では奈良しかないが、ここは京都のことか。]

 凡兆の死に関する消息もまた『蓑虫庵集』中にある。

   午の秋
   はつ秋の比難波の老尼羽紅に文して
   申侍る、凡兆子の事さてさて残念
   無申斗候、事過て候へども
   承候まゝなつかしさ申入候

 此秋や夢とうつゝのふたり住

 午というのは正徳四年である。凡兆の訃報は直に伝えられず、程経て土芳の耳に入ったと見える。「事過て」というのがどの位の時間を含んでいるか、「はつ秋の比」とあるのから考えて、亡くなったのがそれ以前であることは疑ないが、何とも見当がつかない。(凡兆を悼んだものとしてはなお「行春(ゆくはる)や知らば断(たつ)べき琴の糸 野坡」「西東どのかげろふに法の糸 許六」等の句がある。野坡は前の『小ばなし』の記事もあり、大坂時代に交渉があったものと思われるが、許六の方はあまり因縁のなさそうな人だけに注意を惹く。両句とも春の季であるところを見ると、凡兆の死はあるいは春だったのかも知れぬ)

[やぶちゃん注:前書の一行字数はブラウザの不具合を考えて私が勝手に変えた。この一句、土芳の優しさがよく表れている佳句である。

「午」「むま」「うま」。正徳四年(一七一四年)は甲午(きのえうま)である。

「無申斗候」「まうすばかりなくさふらふ」。

「行春(ゆくはる)や知らば断(たつ)べき琴の糸 野坡」管鮑断琴の交わりを引いて哀悼する。

「西東どのかげろふに法の糸 許六」この「かげろふ」は「糸遊」のことであろう。春の晴れた日に蜘蛛の子が草葉の先に登って糸を出しては風に乗じて空を浮遊して移動する生態を捉えたもので、漢語では「遊糸」と言う。蜘蛛の糸が光を受けて流れ乱れるさまは薄い絹織物(漢詩では「碧羅」)に喩えられ、蜘蛛の糸が光の加減で見えたり見えなかったりするところから、あるかなきかの儚いものの謂いともなった。「法の糸」は個人的には「のりのいと」と読みたい。「法(のり)の道(みち)」は仏語で「仏道」の意である。彌陀の衆生一切漏らさぬはずの網の目はどこにある?! と凡兆の死に人知れず慟哭して指弾する許六の悼句には飾らぬ深い悲哀が籠っている。]

 土芳は更に享保七年に至って、次のように記している。

   きさらぎ中旬難波の尼羽紅より又
   懇にしたゝめて其内句有、

    心ざしいざもうすべしさくら花

   猶外にも一二句有、其返し消息に
   申遣す

 さくら咲け遠里人のこゝろばへ

[やぶちゃん注:「遠里人」「とほさとびと」。]

 羽紅が凡兆歿後九年まで健在であったことは、この記載によって明である。「こゝろざしいざ申べしさくら花」の一句は、羽江の作として伝わっている最後のものであろう。三度まで句を贈って羽紅を慰めた土芳は、凡兆と如何なる交渉を持っていたか、杳(よう)としてたずぬべくもないのを遺憾とする。

[やぶちゃん注:前書の一行字数はブラウザの不具合を考えて私が勝手に変えた。前書中の羽紅の一句は頭を下げ、前後を一行空けた。この句も土芳の羽紅への思いやりに富んだいい句である。宵曲の述懐するように、その経緯(いきさつ)を知りたくなるほどに、である。]

 丈艸の書いた『猿蓑』の跋には「洛下逸人凡兆去来」といい「偶会兆来吟席」[やぶちゃん注:正字化して訓読すると、「偶(たまた)ま兆(てう)・來(らい)の吟席に會(くわい)す」。]といい、常に凡兆を先に書いている。子規居士は「大方凡兆の方が年上ででもあったからであろう」と解しているが、しばらくこの説に従う時は、去来の歿年五十三、凡兆はこれに後るること九年であるから、六十を大分越えていたわけである。凡兆の後半生は悲惨であったに相違ないが、そういう境遇に陥りながらも、京を去る遠からざる難波(なにわ)の地に、老妻と残生を共にし得たことを思えば、一概に悲惨とのみいい去るべきではないかも知れぬ。凡兆の句が歿後久しきにわたって正当な評価を得なかったのは、気の毒といえば気の毒であるようなものの、伯楽の出ずるに遇わぬ限り、千里の馬といえども槽櫪(そうれき)[やぶちゃん注:馬の飼料を入れる槽(おけ)。飼葉桶(かいばおけ)。転じて馬小屋の意もある。]に伏すのが世の常態である。衆愚の盲拝を受けるのが望なら、去って月並国(つきなみこく)の民(たみ)となるに如(し)くはない。少くとも現代においては、凡兆は天下知己なきことを憂えぬであろう。

[やぶちゃん注:宵曲の毅然たる正当な凡兆への評として心打たれる。凡兆はユダである。ユダは先鋭的なキリスト教布教推進者として復権されねばならないのと同じく、すこぶるシネマティクな詩想を持った凡兆も、今、復権されねばならない!

 山嶽の高さを云々する者は、その最高峯を計らなければならぬという。凡兆の高さを論ずる場合には『猿蓑』一部で十分である。明治以来の凡兆論は常にそれであった。しかし凡兆その人の面目を『猿蓑』だけに限ろうとするのは、頂上だけで富士を談ずるのと同じく、異論を生ずる虞がある。本文は即ち従来閑却されていた方面から、凡兆を観察したに外ならぬ。『一葉集(いちようしゅう)』の遺語によれば、芭蕉は凡兆に向って「一世のうち秀逸の三五あらん人は作者也、十句に及ぶ人は名人也」と告げたというのである。人を見て法を説く芭蕉は、凡兆に対してはかくの如き垂示の必要を認めたのであろう。この芭蕉の標準に従っても、凡兆は慥に作者の域を超えて名人の域に入っている。しかもそれを芭蕉の生前、『猿蓑』一部で果しているに至っては、何人もその超凡の資と異常なる努力とを認めざるを得まい。凡兆の全盛期は極めて短かったが、本質的に見て真に全盛の名に負(そむ)かぬものであった。

[やぶちゃん注:「一葉集」「俳諧一葉集」。仏兮(ぶっけい)・湖中編に成り、文政一〇(一八二七)年刊。言わば、松尾芭蕉の最初の全集で、芭蕉の句を実に千八十三句収録し、知られる俳文・紀行類・書簡・言行断簡(存疑の部なども含む)をも所収する優れものである。大正一四(一九二五)年紅玉堂書店刊の活字本の国立国会図書館デジタルコレクションの「569」ページ四行目に出る。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 櫨の實

 

櫨の實

 

冬の日が灰いろの市街を染めた、――

めづらしい黃(きい)ろさで、あかるく。

濁川に、向ふ河岸(かし)の櫨(はじ)の實に、

そのかげの朱印を押した材木の置場に。

 

枯れ枯れになった葦(あし)の葉のささやき、………

潮の引く方へおとなしく家鴨(あひる)がすべり、

鰻を生けた魚籠(うけ)のにほひも澱(とろ)む。

 

古風な中二階の危ふさ、

欄干(てすり)のそばに赤い果(み)の萬年靑(おもと)を置いて、

柳河のしをらしい縫針(ぬひはり)の娘が

物指(ものさし)を頰にあてて考へてる。

 

何處(どこ)かで三味線の懶(ものう)い調子、―─

疲れてゆく靜かな思ひ出の街(まち)、

その裏(うら)の寂しい生活(くらし)をさしのぞくやうに

「出(いで)の橋」の朽ちかかつた橋桁(はしげた)のうへから

*YORANBANSHO の花嫁が耻かしさうに眺めてゆく。

 

久し振りに雪のふりさうな空合(そらあひ)から

氣まぐれな夕日がまたあかるくてりかへし、

櫨(はじ)の實の卵いろに光る梢、

をりをり黑い鴉が留まつては消えてゆく。

 * 嫁入のあくる日盛裝したる花嫁綿帽をかぶりて
   先に立ち、澁き紋服の姑つきそひて、町内及近
   親の家庭を披露してあるく、風俗花やかなれど
   も匂いと古く雅びやかなり。

 

[やぶちゃん注:「櫨(はじ)」既出既注であるが、再掲する。ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneumウィキの「ハゼノキ」によれば、『果実を蒸して圧搾して採取される高融点の脂肪、つまり木蝋』(もくろう)『は、和蝋燭(Japanese candle)、坐薬や軟膏の基剤、ポマード、石鹸、クレヨンなどの原料として利用される。日本では、江戶時代に西日本の諸藩で木蝋をとる目的で盛んに栽培された。また、江戶時代中期以前は時としてアク抜き後焼いて食すほか、すりつぶしてこね、ハゼ餅(東北地方のゆべしに近いものと考えられる)として加工されるなど、救荒食物としての利用もあった。現在も、食品の表面に光沢をつけるために利用される例がある』とし、『日本への渡来は安土桃山時代末の』天正一九(一五九一)年に『筑前の貿易商人神屋宗湛や島井宗室らによって中国南部から種子が輸入され、当時需要が高まりつつあったろうそくの蝋を採取する目的で栽培されたのがはじまりとされる。その後』、『江戶時代中期に入って中国から琉球王国を経由して、薩摩でも栽培が本格的に広まった。薩摩藩は後に』慶応三(一八六七)年の『パリ万国博覧会に』『このハゼノキから採った木蝋』『を出品している』。また、『広島藩では』一七〇〇年代後半から『藩有林を請山として貸出し、商人らがハゼノキをウルシ』(ウルシ科ウルシ属ウルシ Toxicodendron vernicifluum)『ともに大規模に植林、製蝋を行っていた記録が残る』とし、『今日の本州の山地に見られるハゼノキは』、これらの『蝋の採取の目的で栽培されたものの一部が野生化したものとみられている』とある。

「魚籠(うけ)」ここでは魚籠(びく)生け簀のように使用している情景が思い浮かぶ。但し、本来の「うけ」は「筌」で川漁に使う古くからある漁具で、細い竹を編み、筌口(うけぐち)を二重にしてしかも内側のそれは内部で中央に窄まる形に成してあり、外形全体は一方が窄まって閉鎖された間延びした砲弾型となっている。ともかく筌口から内部の餌の匂いに惹かれて中に入った魚は外に出られない仕組みになっている。水路や堀底の魚道に一晩仕掛けておき、ウナギ・ドジョウ・ナマズ・ウグイや中大型のエビ・カニなどを捕る道具を指す。或いは、筌口側をしっかり閉鎖し、尖塔状の部分を水面に出して杭に固定し、獲れたままを生け簀代わりとしているのかも知れない。

「萬年靑(おもと)」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科オモト属オモト Rohdea japonica。本邦には古くから西日本を中心に自生する。ウィキの「オモト」によれば、『革質の分厚い針のような形の葉が根元から生え』、四〇センチメートル『ほどの大きさに育つ。夏』頃、『葉の間から花茎を伸ばし』、『淡い黄緑の小さな花を円筒状に密生させる。秋ごろにつく実は赤く艶のある液果で』、『鳥が好む』。『赤い実と緑の葉の対照が愛され、俳諧では秋の季語。観賞用としても古くから栽培され、江戸中期に日本で爆発的に流行し、斑が入ったものや覆輪のあるものなどさまざまな種類が作出された。これらの品種を含む古典園芸植物としての万年青(おもと)は現在も多くの品種が栽培されている』とある。

「出(いで)の橋」この中央の沖端川に架橋する橋(グーグル・マップ・データ)。藩政時代の城下への入り口に当たった。

YORANBANSHO」註で意味は分かるが、現行、こう呼ばれているかどうか、この行事が普通に行われているいるかどうかは、ネット検索では不思議なほど掛かってこない。御存じの方はお教え願えれば幸いである。

 なお、この詩篇は見開き右ページ「300」で終わり、左ページには挿絵目次で『鄕里「柳河沖ノ端」』と題した写真が差し込まれてある。]

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 四

 

     

 俳書に現れたところだけを以て見れば、凡兆の俳句生活は元禄二年[やぶちゃん注:一六八九年。]から正徳年間[やぶちゃん注:一七一一年~一七一六年。]に及ぶわけで、その間二十余年にわたるのだから、決して短い方ではない。けれども宝永以後[やぶちゃん注:宝永(一七〇四年~一七一一年)元年以降の十三年間。]の作品は、分量においていうに足らず、元禄年間[やぶちゃん注:元禄は十七年に宝永に改元。]の句といえども、前後二つに分れて中間が相当とぎれている。凡兆の俳句生活は年代の長い割に空白が多いのである。

 『曠野』に二句、『いつを昔』に四句、『華摘』に一句をとどめたのみで、さのみ有力な作家とも思われぬ凡兆がどうして去来と共に『猿蓑』の撰に当るような重要な役割をつとめるようになったか、その間の消息については何も伝わっていない。当時芭蕉は『奥の細道』の大旅行を了えて関西に入り、京洛附近に優遊しつつあった。京都居住者たる凡兆ここにおいて大に芭蕉に親灸し、作品の上に驚くべき飛躍を示すに至ったのであろう。

[やぶちゃん注:「優遊」のんびりと心のままにするさま。]

 加生の号は『華摘』の記載によって、元禄三年の夏までは用いられたものと推定出来る。『卯辰集』や『百人一句』に従えば四年まで持越せるようでもあるが、当時の句集は現代の出版物と違って、こまかい月日まではわからぬから、妄(みだり)に先後を定めるわけに行かず、句集によってその境界(きょうがい)を定めることは困難である。殊に『卯辰集』所載の句が『猿蓑』にあると同じ「渡りかけて藻の花のぞく流かな」で名前が「加生」になっていることは、いよいよその決定を困難ならしむるものといわざるを得ない。よってここでは大づかみに、加生は『猿蓑』刊行の元禄四年を以て凡兆と改め、作句の上に著しい進歩を示したということにする。

 『猿蓑』は一朝一夕にして成ったものではない。自らそこに至るべき径路がある。しかも『猿蓑』刊行当時を以て蕉門俳諧の最も緊張充実せる時代とすることには、恐らく何人も異論はあるまいと思う。『猿蓑』は実にこういう盛時の京洛を背景として生れ、俳壇の総帥たる芭蕉の指揮の下に成ったのである。たとい加生時代に人の目を牽くような成績を示しておらぬにせよ、芭蕉が特に凡兆を抜いて去来と共に撰に当らしめたのは、大に見るところがあったために相違ない。

 『猿蓑』撰集の一事は、慥に凡兆の名を不朽ならしめた。凡兆は『猿蓑』によって著れた第一の人として、十分にその実力を発揮したが、単に句数において集中に冠(かん)たるばかりでなく、句々皆誦するに堪えたることを多(た)としなければならぬ。撰者がその集に自己の句を多く載せることは、芭蕉の遺語にも「撰集に撰者の句あまた入る事、むかし千載集の時再勅許有て俊成卿の歌加増せられたることあり、当時俳譜撰者憚(はばかり)なくともゆるすべき事となり」とあり、歌の例に倣ったものらしいが、多く入れると同時に粒を揃えるには、人知れぬ努力を要するわけである。『猿蓑』の凡兆の如く、撰者の責を重んじた例はけだし稀であろう。(『猿蓑』の凡兆については先輩の説が已にこれを悉(つく)しているから、蛇足を加える必要はないが、その句だけ少し左に引用して置く)

 鶯や下駄の歯につく小田の土   凡兆

[やぶちゃん注:「小田」は「おだ」で「小」は接頭語で当該語彙を和らげる働きのそれと採る。小さな田圃ではなく、すっと意識の中に取り込まれるような親和性のある田の姿を意味するものである。中七座五は普通なら汚れた歩き難さや不快を意味するところが、ウグイスの鳴き音とともに「おだ」の「お」音が春到来の軽くステップしたくなるような心地よさへと見事に変化しているのである。凡兆、これ、ただの「凡」ではない。]

 花ちるや伽藍の枢おとし行く   同

[やぶちゃん注:「枢」は「くるる」。戸締まりのために戸の桟から敷居に差し込む止め木或いはその仕掛けを言う(「とぼそ」とも読む)。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『参詣人の人影も絶えた閑寂にして清浄な大寺院の夕暮である。折からひとりの寺の番僧が現われ、御堂の重い扉を閉め、扉の桟(さん)をごとんと落として立ち去っていった。その小さな音が境内に余韻を引く中で、庭の桜がはらはらと散るという情景である。ひっそりとした寺院の夕闇の中で、無表情なひとりの寺僧の動きが鮮やかに浮かび上がってくる。その上、境内の閑寂さの中に、小さく響く枢(くるる)の音がいっそう幽寂を深め、春の夕べに桜の散る艶なる背景の中で、なにやら物悲しい情趣を盛り上げている。〝さび〟ある句趣と評すべきであるが、古来の和歌的な落花の情緒を一新したところ、全く俳諧の新しみでもある』とある。また、「行く」に注されて、『これを動作の反覆の意にとって、各堂の扉を順々に閉めて廻るさまとする解もある』と紹介されておられる。なお、堀切氏は凡兆を高く評価しておられ、その眼目のつけ方が鋭く、私の及ぶ域ではない。故に以下、かなりの量の引用を示すことをお許し戴きたい。]

 灰捨て白梅うるむ垣根かな    同

[やぶちゃん注:堀切氏は前掲書で評釈されて、『白梅の咲く垣根の下し、運んできた白い灰をぶちまけると、軽い灰かぐらが舞い上がり、鮮やかな純白に見えていた白晦の花びらが、灰かぐらのヴェール越しに、一瞬心なしか不透明に曇ったように見えた、というのである。光沢のある清楚な梅の花びらが、少しぼかしたようになって、かえって艶な気配を帯びてくるさまをとらえたものである。動きの中のある一瞬を、繊細な感性の働きによって鋭くつかんでいる。白梅の美を表わすのに、目常的で卑俗な「灰」との配合をもってしたところが、いかにも俳諧らしい』とされる。因みに、「梅の牛」(盛水編。延享四(一六八七)年刊)では下五が「根垣かな」とする、ともある。]

 髪剃や一夜に金精て五月雨    同

[やぶちゃん注:底本は「かみそりやひとよにさびてさつきあめ」と読んでいる。「一夜」は「いちや」の方がいい。同じく前掲書で堀切氏は本句を挙げて、『物みなしたたるき』(じめじめとして湿っている様子)『五月雨の候、つい昨夜も使った剃刀をとり出してみると、思いもかけず赤錆』(あかさび)『が浮いていたのである。「髪剃や」という強い対象の提示によって、まず具象性が導かれ、「一夜に金精(さび)て」という率直に驚きを含んだ表現によって、時の推移と変貌に対する微かな心のゆらめきが象徴されてくる。そこに哀憐の情も牛じてくるのである。「一夜に金精て」は誇張のようにもみえるが、やはり湿気の多い五月雨時の体験に基づくものであろう。「五月雨」の本情が見事にとらえられてかり、単に対象を切りとっただけではない俳趣の構成が成立しているのである。なんでもないような日常的世界の中に凡兆の詩心の確かさが光っている句である』と讃しておられる。全く以って同感である。]

 市中は物の匂ひや夏の月     同

[やぶちゃん注:「市中」は「いちなか」。同じく堀切氏の評釈。『真夏の街中(まちなか)の宵の口は、昼の暑さも消えやらず、雑多なものの入り交じった、すえたような匂いがむんむんとして、むし暑さを増長する。だが、地上とは対照的に、屋根の上には清涼な夏の月が仰がれるのである。一句、市中の暑さをとらえながら、伝統的な夏の月の本情としての涼しさをも詠み込んでいるのである。市中の庶民の生活の場の感覚的な把握のしかたと、伝統的な月の風情ヘの詠嘆とが交錯してくるところに、俳諧の世界の新しさがある。表現のリズムはひきしまって単純にみえるが、詠出された世界は単純な叙景ではない』と適確に鑑賞されておられる。また、「市中」は「まちなか」と読む説もあるとされ、『凡兆の住む京の街であろう』と注される。市中雑踏の広角から嗅覚に移り、さらにティルト・アップして涼しき夏の月を映像に差し入れるこれは、只者のやれることではない。]

 すゞしさや朝草門に荷ひ込    同

[やぶちゃん注:読みは「すずしさや//あさくさ/もんに//になひこむ」。同じく堀切氏の評釈。『夏の朝早く、露に濡れたままの青い刈草を門の中へかつぎ込んでいる情景が、いかにも涼しそうに見えるのである。庄屋など、ある程度格式のある農家の朝であろうか。刈草は飼料にしたり、緑肥としたりするためのものである。「すずしさや」と主観的に爽涼の感をまず打ち出し、次いで「朝草門に荷ひ込」と印象鮮明で、しかも動きのある叙景を重ねてゆく句法に、まったく隙(すき)がない。「門」とはね、これを「荷ひ込」と受ける語勢にも音調上の働きがある』と絶賛されておられる。「朝草」に注され、『農家で、馬の飼料などにするため、早朝に草を刈りとること。「朝草刈」は涼しい間の一仕事としての意味もあるが、露を含んだ青草はまだ柔らかく刈りやすいのである』とされ、座五は『荷ひ込(こみ)」ともよめる』とされる。]

 あさ露や鬱金畠の秋の風     同

[やぶちゃん注:「鬱金畠」は「うこんばたけ」。単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ウコン属ウコン Curcuma longa。本邦では古くから生薬とともに黄色染料の原料として栽培されていた。やはり堀切氏の評釈を引く。『芭蕉葉に似た大きな鬱金(うこん)の葉に朝露が結び、その葉をはたはたとひらめかして秋風が吹き渡っているという、欝金畠の朝景色である。季節からみて、広葉に交じって白い花も咲いているのであろう。明け方の清涼な感じがよく出ている。一句「あさ露」「鬱金畠」「秋の風」と季語が重なっていることについての議論があるが、「秋の風」の爽涼感で統一されるであろう。平明な叙景句だが、「秋風」に「鬱金畠」を配したところに新しみがある』とある。もと自由律で今も季語を嫌悪する私は季重ねなどを問題にするのは俳句の早期滅亡の元凶の一つと心得る。]

 百舌鳥なくや入日さし込女松原  同

[やぶちゃん注:「もずなくやいりひさしこむめまつばら」。「女松」は一般には球果植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora の異名である。樹皮が黒褐色を呈するマツ属クロマツ Pinus thunbergii とよく似ているものの、樹皮が有意に赤っぽく、葉がやや細くて柔らかであり、手で触れてもクロマツほど痛くない。そこから、クロマツが「雄松」と呼ばれるのに対して、「雌松」と呼ばれるのである。同じく堀切氏の評釈。『赤松の立ち並んでいる林に秋の夕日がさし込み、赤みを帯びた松の幹がほてったように輝いて美しい。折しも、周囲の静閑な空気を突き破るように、キィーキィーと鋭くかん高い百舌鳥の鳴き声が聞こえてきた、というのである。赤松原の鮮明な視覚的風景と百舌鳥のけたたましいような鳴き声とが見事に配きされて、高雅で清楚な秋の景趣が描き出されている。「入日さし込」によって「女松原」の空間のひろがりが表わされ、また「女松原」の「女」の一字によって「さし込む」人目のやわらかさが感じられてくるのも妙である』。私の偏愛する鳥「百舌鳥」(モズ)の博物誌については、私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵙(もず) (モズ)」を是非、参照されたい。]

 初潮や鳴門の浪の飛脚舟     同

[やぶちゃん注:堀切氏の前掲書の語注に、「初潮」は『陰暦八月十五日の大潮のこと。力強い高波になる。秋の季題』とあり、「飛脚舟」は『急ぎの連絡のため、日和や風向きに無関係に急行する小舟。飛脚小早(こばや)ともいう、数丁の艪で漕ぐ』とあり、評釈は、『一年中で潮の最も高くなる初潮の夜、満月の皓々と照る下、激しく渦を巻く鳴門海峡を、白い波しぶきをあげながら、一艘の飛脚舟が勇壮に疾走してゆく光景である。迫力満点のダイナミックな画面構成の句であるが、凡兆の足跡から推して、おそらくは想像によって描いたものであろう。「鳴門の浪の」と「ナ」の韻を重ねて弾みをつけた音調上の効果も見逃せない。森田蘭氏の『猿蓑発句鑑賞』には、この句の背景に『平家物語』巻六「飛脚到来」の一場面――義仲挙兵に動揺した平氏一門に、さらに鎮西・伊予からも平家離反の知らせを運ぶ飛脚舟が到来して風雲急を告げるという場面があることを指摘しているが、その当否はともかく、実景というよりは想像の句であることは間違いないようである』とある。「平家」の歴史詠とする解釈は私は語るに落ちた解釈と思う。]

 肌さむし竹切山のうす紅葉    同

[やぶちゃん注:中七は「たけきるやまの」。堀切氏前掲書評釈。『竹山では竹を伐っている。周囲の山ではうっすらと紅葉がはじまっている。その紅葉の色を眺めながら、堅い竹の幹を鉈(なた)で伐る音のひびきを聞いていると、そぞろに肌寒く感じられてくる、というのである。若草色の竹にうす紅葉の色彩の配合、冷やかな竹の感触とその竹を伐る音のさびしいひびき――それらがおのずと初五「肌さむし」に統合されてくるような句法である』。]

 時雨るゝや黒木つむ屋の窓あかり 同

[やぶちゃん注:堀切氏の前掲書では、かなり長い鑑賞と注が附されてある。幾つかの注を引く。「黒木」は『生木を黒くいぶした薪。八瀬・大原・鞍馬などから京の町へ売りに出されたもの。大原木(おはらぎ)・竃木(かまき)ともいう。黒木を積み蓄えるのは、冬仕度としてである』とされ、「窓あかり」は以下の諸説を挙げておられる。『⑴窓から漏れる灯影、⑵窓からさし込む光、の二説があるが、ここは⑴を中心に解した。⑴の用例として西村真砂子氏は『古典俳句を学ぶ()』において、嵐竹の付句「蛙なく窓のあかりに舟寄て」をあげている。▽古注にも「つみ置(おき)たる黒木に時雨のかかりたるを、閑窓の内より詠(なが)め侘たる作也」(『猿蓑さがし』)とみる説と「黒木つむ屋の軒かたむきてかすかに見ゆる窓明りはいかなる白拍子の親もとにやとゆかし」(『猿蓑爪じるし』)ととらえる説とがあるが、この句の形象の特色は、作者の視点が、瞬時において内外自在な転換をなすことによって、そこに形象の重層性を生じさせているところにあろう。なお、森田蘭氏の『猿蓑発句鑑賞』は、この句を実景からの着想とせず、謡曲『野宮』で光源氏と六条御息所の対面する場面に、黒木の鳥居と小柴垣があることから、この「小柴垣」を「黒木」にして、庶民の家屋に舞台を変えて趣向したものと解している』。以下、堀切の評釈を掲げる。『時雨降る夜、「黒木つむ屋」の軒も傾き、微かに漏れる窓明かりに、ひっそりと暮らす人たちの生活の息遣いも思いやられるのである。寒中に備え黒木を軒近くまで積み上げた情景を遠望する体』(てい)『であるが、作者の心は窓の内の人と交流している。「窓あかり」は一般に外光による窓の明るみをいうところから、一句を室内にむける吟として、時雨の音を聞く寒々とした室内で、外に積み上げた黒木の間の小窓から明かりのさし込むのをとらえた景とみる解が多いが、それでは「黒木つむ屋」の構図が生きてこない。一句の視点を〝実(じつ)〟にとらえるのではなく、単なる写生を超えて対象と自己とが一体化したような高い句境を想うべきなのである。いずれにせよ、伝統的な時雨の佗しい風情と俳諧的な仄(ほのか)な生活の匂いとが見事に配合されて、無限の詩情を漂わしている』と本句の詩的映像を見事に再現しておられる。]

 禅寺の松の落葉や神無月     同

[やぶちゃん注:堀切氏の評釈。『禅寺はとくに閑静な地が多い。初冬の穏やかな日ざしの下、きれいに掃き清められた禅寺の庭に、少し色の変わった松の落葉が、わずかに散りこぼれているという情景である。いかにも神無月にふさわしい冬枯れの景色なのである。「神無月」に連想されやすい「紅葉」をいわず、常緑樹の「松の落葉」のみを点出したところが効果的であり、凡兆らしい緻密で格調の高い句法となっている』。真正のモノクロームの映画の持つ多様な微妙な心的な陰影による色彩感覚が再現されたものと言えよう。]

 古寺の簀子も青し冬がまへ    同

[やぶちゃん注:堀切氏の評釈。『森閑とした古寺がある。いま冬支度をする時期を迎え、薪を積んだり、雪囲いをしたり、庫裡(くり)を 繕ったりしているところであるが、その中でとりわけ張り替えたばかりの竹の簀子縁の青さが印象的に映るのである。また、その青竹の色によって、逆に周囲の冬枯れの景色も想いやられるのである』。]

 炭竃に手負の猪の倒れけり    同

[やぶちゃん注:「すみがまにておひのししのたふれけり」。堀切氏の「倒れけり」の注によれば、『⑴目の前で倒れた、⑵倒れていた、の二説があるが、評釈に示したような意味で、ここは、⑴とみた』とある。山中の炭焼き竃がロケーションであるなら、強いリアリズムとして、私は⑴以外は考えられない。⑵では――山を歩いていてふと見たら、既に手負いの猪だったものが遂に疲れ切って竃に突き当たって死んで居った――という間の抜けたものになってしまい(或いは素材の事実はそうであったかも知れぬが)、スカルプティング・イン・タイムを眼目とする凡兆にして⑵は詩想としてはあり得ない。堀切氏の評釈も、『猟師に撃(う)たれて、さんざん荒れ狂った手負いの猪が炭竃に突き当たって倒れ込んだというのである。人里離れた冬山に血に染った猪が倒れているという凄絶な光景であろう。これを今まさに目前で倒れたように、動的に、ドラマチックに構成してとらえたところが俳諧の手づまである。古来「臥す猪の床」という歌語もあるように、風雅の世界の中で詠まれてきた猪を、山中の炭焼の竃のところに見出しているのも俳諧らしい着眼といえよう』とある。]

 呼かへす鮒売見えぬあられかな  同

[やぶちゃん注:堀切氏の評釈。『寒鮒売りが威勢のよい呼び声で表を足早に通り過ぎてゆく。大急ぎで門口に出て、大声で呼び返してみたが、もうその姿は、折から激しく降る霰に視界をさえぎられて見えなくなっていた、というのである。庶民の日常生活の一コマをとらえて、見事に詩の世界につくりあげている』。『生活の中の一瞬の動作の機微を、自然との交錯の中で巧みに描きとめている』。語注されてこの「寒鮒売り」のそれは『琵琶湖でとれる近江鮒か。寒中の鮒は脂肪に富んで美味という。その鮒を生きたまま桶に入れて天秤でかつぎながら行商するのであろう』とされる。]

 下京や雪つむ上の夜の雨     同

[やぶちゃん注:堀切氏の評釈。『下京の家並みには雪が一面に積もっている。夜になると、その降り積もった雪の上にしとしとと雨が降りそそいできた。だが、そんな寒々とした佗しさの中でも、下京の人たちは心を寄せあって団欒(だんらん)のくらしをしているのである。「雪つむ上の夜の雨」という鋭い感覚で切りとられた情景の中に、「下京や」という庶民的な情緒が探り起こされているのである。冷たい雪に覆われていても、窓から洩れる家々の灯りに生活のぬくもりが感じられるからである』とされる。なお、堀切氏も指摘されておられるが、これは「去来抄」の「先師評」で、

   *

  下京や雪つむ上のよるの雨   凡兆

此句初(はじめ)冠(かんむり)なし。先師をはじめ、いろいろと置(おき)侍りて、此冠に極(きは)め給ふ。凡兆「あ。」トとこたへて、いまだ落(おち)つかず。先師曰、「兆、汝、手柄に此(この)冠を置(おく)べし。若(もし)まさる物あらば、我(われ)二度(ふたたび)俳諧をいふべからず。」ト也。

去來曰、「此五文字のよき事ハたれたれもしり侍れど、是外にあるまじとハいかでかしり侍らん。此事他門の人聞(きき)侍らバ、腹いたく、いくつも冠置(おく)るべし。其よしとおかるゝ物は、またこなたにハおかしかりなんと、おもひ侍る也。」。

   *

まさに禅問答そのものだが、さすれば、これは厳密には中七座五が凡兆、上五が芭蕉の合作ということになる。凡兆が離れて行くのは、こうした芭蕉の絶対の自信が、或いは彼にはかなり五月蠅く感ぜられたのかも知れぬ。]

 ながながと川一筋や雪の原    同

 これらの句が明(あきらか)に示している通り、凡兆の客観趣味なるものは、平面的にこまかいというよりも、内面的に厚み乃至深みを持ったものである。平面的なこまかさならあるいは企て及ぶであろう。この重厚な滋味に至っては遂に如何ともすることが出来ない。

 凡兆の句は『猿蓑』所載のものを最高峯として、その前後に少しく散在しているが、『猿蓑』の句と重複するものは存外少い。『西の雲』『卯辰集』『挑の実』等に一句ずつ見えるに過ぎぬ。凡兆が如何に『猿蓑』に主力を集中したかは、この一事を以て想像することが出来る。

[やぶちゃん注:「西の雲」かの遂に芭蕉に逢えずに亡くなった金沢の俳人小杉一笑の兄ノ松(べっしょう)の編に成る一笑追善集である。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 65 金沢 塚も動け我が泣く聲は秋の風』を参照されたい。]

 『猿蓑』中心の山は六年に至って一先ず尽きる。『柞原集(ははそはらしゅう)』の十一句、『薦獅子集(こもしししゅう)』の一句、『曠野後集』の二句、『弓』の三句、いずれも俳句年代からいえば『猿蓑』と大差ないものであろうが、『猿蓑』に比べると皆見劣りがする。『曠野』から『猿蓑』へ驀進した凡兆は、頂上を極むると同時に、直に低下せざるを得なかったのであろうか。篩(ふるい)にかけた作品が悉く『猿蓑』に萃(あつま)り、いささか劣るものが他の集に廻ったものと解すべきであろうか。客観趣味の本尊として凡兆を崇める上からは、爾余の作品はあるもなおなきが如きものである。

 凡兆前期の俳句生活が意外に早く募を閉じたについては、彼が罪に坐して獄に下ったということも考えられる。凡兆が蕉門に入ったのは何時頃かわからぬが、元禄三、四年の交(こう)にあっては最も芭蕉に親しい一人であった。

 『嵯峨日記』のはじめに芭蕉を送って落柿舎に来たのも凡兆であり、落柿舎滞在の半月ばかりの間に、なお二度も訪ねて来ている。羽紅と共に落柿舎に一泊した時などは、一張の蚊帳に五人も寝るのだから、誰も眠ることが出来ず、「夜半過る頃よりもおのおの起出て、昼の菓子盆など取出て暁ちかきまで話明す」という風であった。その時「去年(こぞ)の夏凡兆が宅に臥(ふし)たるに二畳の蚊屋に四国の人ふしたり、おもふこと四(よつ)にして夢も又四くさと書捨てた事もなど云出して[やぶちゃん注:「いひいだして」。]笑ひぬ」ともある。「去年の夏」というのは元禄三年で、幻住庵時代に当るから、芭蕉も時に山を下って凡兆の家などに泊ったことがあるらしいのである。それほど親しい交渉のあった凡兆が、芭蕉の最後の病牀に駈付けておらぬばかりでなく、追悼の一句すら寄せておらぬというには、何か不可能な事情が伏在すると見なければなるまいと思う。

 元禄六年を限りとして、一先ず凡兆の句が見えなくなること、芭蕉病歿当時の消息が明(あきらか)でないこと、この二つの事実から推定すれば、凡兆の下獄は元禄四年以後七年以前の出来事と見てよさそうである。更に傍証を挙げるならば、この前にもちょっと記したように、『韻塞』が「門前の小家もあそぶ冬至かな」を特に「不知作者」としていること、『俳譜猿舞師』が「猪の首の強さよ年の暮」を「読人しらず」にしていることも算う[やぶちゃん注:「かぞう」。]べきであろう。『韻塞』の撰者たる李由は何が故に『猿蓑』集中の句を採って「不知作者」としたか。凡兆の苦を憐んでこれを採り、獄中にあるのゆえを以てその名を省(はぶ)いたのだとすれば、元禄九年はなお獄にあったのである。「猪」の句は当時において凡兆の句たることを証明する材料が見当らぬけれども、もしこの「猪」が年の「亥」を利かせたものとすれば、元禄八年のわけになる。亥年のことはなお再考を要するとしても、この二条はどうも凡兆の下獄と関係ありそうな気がする。

 凡兆の出獄に至っては下獄よりも更に見当がつかない。しかし芭蕉歿前からその跡を絶った凡兆の句が、『荒小田』に三十九句も迸出(へいしゅつ)[やぶちゃん注:勢いよく出ること。]することは、獄中にあっては望み難いことであるから、元禄十四年頃にはとにかく世の中に出ていたものと想像する。獄中の作もあったかも知れぬが、凡兆も恐らくは愧じて示さず、舎羅も凡兆のためにそういう句は採ることを避けたであろう。『猿蓑』と『荒小田』との間には十年の歳月があり、右の如き重大事件を含んでいるにかかわらず、その間の消息を伝える句は一つもない。『猿蓑』と『荒小田』とだけを対照すれば、句に格段の相違を認め得るから、その理由を十年の歳月と、凡兆境遇の変化とに帰し得ぬこともないけれども、『猿蓑』に続いて現れた『柞原集』『薦獅子集』『曠野後集』『弓』等の諸集の句は、『猿蓑』よりもむしろ『荒小田』の句風に近いので、一概に断定は下しかねる。但(ただし)説明の便宜上、『猿蓑』中心の時代を前期とするに対し、『荒小田』以後をしばらく後期と呼ぶだけの話である。

 凡兆の句の散見する諸集は、決して多いというわけに行かない。柴田笥浦氏は北国筋の句集にその句の採られていないことを挙げて、早く生国(しょうこく)加賀を離れた理由にしているが、『卯辰集』の一句はともかく、『柞原集』の十一句が発見された今日では、そう断言も出来ぬようである。われわれのいうところも、すべて現在までにわかった点を単位とするので、新材料が出れば直に訂正しなければならぬが、今日までのところでは前期の句と後期の句とはあまり交錯しておらぬかと思う。ただ『柞原集』にあった「身ひとつを里に来なくか鷦鷯(みそさざい)」の句が一つ、『荒小田』に載っているに過ぎぬ。反対に前期同士にあっては、多からぬ諸集に同じ句が重出するように、後期の諸集にあっても、同一句の重出がいくつか認められる。中間が切断されているだけに、凡兆の句を前後二期に分けることは、必ずしも無理ではなさそうである。

[やぶちゃん注:「鷦鷯」既出であるが、再掲しておく。スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 巧婦鳥(みそさざい)(ミソサザイ)」を参照されたい。小さな体の割りには声が大きく、囀りは高音の大変に良く響く声で「チリリリリ」と鳴く(引用元で音声が聴ける。私は彼の囀りが好きだ)。また、地鳴きで「チャッチャッ」とも鳴く。]

先生は今日 故郷を去り――永遠の真の《故郷喪失者》となった――

 私は國を立つ前に、又父と母の墓へ參りました。私はそれぎり其墓を見た事がありません。もう永久に見る機會も來ないでせう。

 私の舊友は私の言葉通りに取計らつて吳れました。尤もそれは私が東京へ着いてから餘程經つた後の事です。田舍で畠地などを賣らうとしたつて容易には賣れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取つた金額は、時價に比べると餘程少ないものでした。自白すると、私の財產は自分が懷にして家を出た若干の公債と、後から此友人に送つて貰つた金丈なのです。親の遺產としては固より非常に減つてゐたに相違ありません。しかも私が積極的に減らしたのでないから、猶心持が惡かつたのです。けれども學生として生活するにはそれで充分以上でした。實をいふと私はそれから出る利子の半分も使へませんでした。此餘裕ある私の學生々活が私を思ひも寄らない境遇に陷し入れたのです。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月25日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十三回より。下線太字は私が附した)

2020/06/24

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 三

 

       

 同じ年の十二月に柴田笥浦氏編の『凡兆句集』が出た。この書には当然『荒小田』の句も取入れられており、総計百十三句、これまで凡兆の句を集めたものの中で、最も多数に上っていることはいうまでもない。その中から『荒小田』所収のものを除き、『俳家全集』その他に見当らなかった句を左に挙げる。

[やぶちゃん注:「同じ年の十二月に柴田笥浦氏編の『凡兆句集』が出た」これは前章「二」の頭まで遡っての謂いで、「竹冷文庫」の一冊として星野麦人校訂に成る「荒小田」が覆刻された大正一四(一九二五)年のことを指す。同年十二月に天青堂の俳句叢書の一冊として「凡兆句集 附 羽紅女句集」として出版されている。編者は「しばた すほ」と読む。本名は勉治郎。俳人で俳諧研究家であった以外は詳細事蹟不詳。同初版は国立国会図書館デジタルコレクションの画像で総て読め、一発で一冊丸ごとダウンロード出来る。]

 大としをおもへば年の敵かな   凡兆(去来抄)

[やぶちゃん注:「敵」は「かたき」。一年の掛け買い借金の総支払いをせねばならぬ大晦日というのは、考えてみると年来の仇に毎年末に必ず遭って対峙しているようなものではないか? 毎年巡って来る大敵じゃ! 大晦日さへなければ太平じゃのに! と諧謔して言い放ったもの。但し、この句については、「去来抄」の「先師評」に、

   *

   大歲をおもへバとしの敵哉  凡兆

元の五文字「戀すてふ」と置て、予が句也。去來曰、「このほ句に季なし。」。信徳曰、「『戀櫻』と置べし。花騷人のおもふ事切也。」。去來曰、「物に相應あり。古人花を愛して明るを待、くるゝをおしみ、人をうらみ山野に行迷ひ侍れど、いまだ身命(しんみやう)のさたに及ず。『櫻』とおかば、却て『年の敵哉』といへる處、あさまに成なん。」。信德(しんとく)、猶、心得ず。重て先師に語る。先師曰、「そこらハ信徳がしる處にあらず。」ト也。其後凡兆、「大歳を」と冠す。先師曰、「誠に是の一日千年の敵なり。いしくも置たる物かな。」と、大笑し給ひけり。

   *

と出ているので、作者はやや微妙である。訳文風に注しておくと――最初に向井去来が、

 戀すてふおもへばとしの敵哉  去來

と「千年の恋」を詠じようとしたものの、季詞がないので困って信徳に相談した。

◎「信德」は伊藤信徳(寛永一〇(一六三三)年~元禄一一(一六九八)年:芭蕉より十歳年上)で京都の豪商で俳人。当初は高瀬梅盛に師事するが、談林派に転じ、延宝五(一六七七)年に江戸に下って松尾芭蕉・山口素堂と百韻三巻を興行、翌年「江戸三吟」として刊行するど、蕉門と親しく交わっていたが、貞享・元禄(一六八四年~一七〇四年)にかけて、芭蕉と信徳の俳壇的地位がともに高まって拮抗するにつれ、仲は疎遠となったが、元禄期の京俳壇を代表する存在であった。

さても、彼は去来の千年の「恋」を残しつつ、

「されば、

 戀櫻おもへばとしの敵哉    信德

とするがよい。風狂人は『桜』の散るを惜しんで新春の到来とともに咲かばすぐ散る桜を愛でるものなれば、それを仇とせばよかろう」

と応じたのだが、去来は

「いや、ものには分相応の釣り合いというものがある。確かに、古えより、文人墨客は桜の花を愛(め)で、夜の明くるを待かね、日の暮るるを惜しみ、その瞬く間に散り消えゆくをば人の心の変わりやすさにさえにたとえて恨みつつも、山野に行き迷いてまで観桜致しはすれど、さりとて、これ、生死(しょうじ)に関わる如き『仇』であったためしはない。しかも、『戀櫻』では『千年の恋』と『桜への思い』があからさまになるばかりか、その『恋』と『桜』二つの方が思いもしなかった対立分離を成し、対関係のように剝き出しに浮き上がってきてしまって、拙者が当初の創意した句想とは全くかけ離れた、訳のわからぬ句になってしまう。」

と答えた。しかし信徳はその反論に承服しなかった。

 そこで再度、師芭蕉に伺いを立てたところが、

「その辺りの俳趣は信徳の認知出来るところでは、これ、ない。」

とのみ答えた。

 ところが、後、凡兆がこの句に「大歲を」と被せた。

 それを聴いた芭蕉は「流石は凡兆じゃ! まことに、これ、『一日千年の敵(かたき)』ではないか! いや! 実に見事にかく言い置いたものじゃのう!」

と呵々大笑しなさったのであった――というのである。則ち、本句は実は中七座五は去来のものが元であって、上五のみが凡兆という合作ということになる。しかも、この「去来抄」の記載から、一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の本句の評釈によれば、これは凡兆が「猿蓑」の撰に携わっていた元禄四(一六九一)年頃のエピソードと推定出来るのである。]

 猪の首のつよさよ花の春     同(俳人百家撰)

[やぶちゃん注:「猪」は「ゐのしし」。堀切氏の前掲書では本句を評釈されて(但し、堀切氏は「猿舞師」に基づいて引いているため、宵曲が後で述べるように、

 猪の首のつよさよ年の暮

の句形である)、『元緑七年の暮、罪を得て獄中にあったときの吟である。不運にして、いま獄中に年の暮を迎えようとしているが、来年は亥の年である[やぶちゃん注:翌元禄八(一六九五)年は乙亥(きのとゐ)であった。]――あの猪(亥)の首の強さを見習って、これからはまた何物にも負けず、真っしぐらに進んでゆきたいものだ、と決意を表明した句である。獄中にあっても、なお傲然(ごうぜん)たる意気の強さを失なわない凡兆の姿を象徴しているのである』とある。また、本句の出所の一つとして堀切氏が挙げておられる高桑闌更(享保一一(一七二六)年~寛政一〇(一七九八)年:生家は加賀金沢の商家。和田希因に学び、蕉風復古を唱えて京で芭蕉堂を営んだ)編「誹諧世説」(天明五(一七八五)年刊)の原本を「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典総合データベース」に見つけた(三種ある内の中央のものを用いた)ので、当該部「凡兆獄中歳旦の說」を以下に電子化しておく(一部は後の「附記」で宵曲も引いてはいるが、尻が切れてしまっている)。歴史的仮名遣に一部誤りがあるが、総てママである。

   *

    凡兆(ぼんちやう)獄中(ごくちう)歳旦(さいたん)の說

凡兆は、もと金城の產(さん)にて、洛(らく)に住(ぢう)し、醫業(いぎやう)をもて世わたりとす。嘗て罪有(つみある)人にしたしみ、其連累をかふむりて、獄中(ごくちう)に年を明(あか)しけるに、其明(あく)る年(とし)牢中(ろうちう)にて、

   猪(いのしゝ)の首(くび)のつよさよ花の春 凡兆

   陽炎(かげらう)の身にもゆるさぬしらみ哉

なと、聞(きこ)へたるに、聞人淚(なみだ)をおとさずというふ事なし。かくて身にあやまりなき申ひらき、上天(しやうてん)に通じ、程(ほど)なく累絏(るいせつ)の中を出てふたゝひ悅びの眉(まゆ)をひらきけるに、あたの此世をあさましとのみ思ひとりけるにや、果(はて)は亡名(ばうめい)してすがたしれずなりにけるとぞ。

   *

「あたの」は判読に迷ったが、「徒(あだ)の」で「空しい・はかないものである」の意で採った。個人的には――堀切氏や宵曲に悪いが――「花の春」の方がこのエピソードに残すに優れた表現だと私は思う。]

 かげろふの身にもゆるさぬ蝨かな 同

[やぶちゃん注:「蝨」は「しらみ」。前注参照。]

 藪蔭の足軽町や残る雪      同(俳人百家集)

[やぶちゃん注:「俳人百家集」江戸後期の川柳作家で五世川柳を襲名した緑亭川柳(天明七(一七八七)年~安政五(一八五八)年:本名は雅好、通称は金蔵。幼くして父を亡くし佃島の漁師に養われた。後に魚問屋・名主となった。二世川柳柄井弥惣右衛門に川柳を学んだ)の編したもの。この句、如何にもつまらぬ句である。]

 ひめゆりやちよろちよろ川の岸に咲く 同(画讃真蹟)

   神祇

 鈴虫や浮世にそまぬ神の庭    同(真蹟短冊)

 川音の芒ばかりとなる夜かな   同(俳諧発句全集)

[やぶちゃん注:「俳諧発句全集」不詳。しかしこの句は私は好きだ。]

 くれて行く秋や三つ葉の萩の色  同(三河小町)

[やぶちゃん注:「三河小町」白雪編。元禄一五(一七〇二)年刊。]

 萩の葉やいかなる人の指の跡   同

 くだけたる船の湊やほとゝぎす  同

[やぶちゃん注:強烈な台風が過ぎた後の港の廃景に、生き生きとした鋭い不如帰の一声を添えた対位法的リアリズムが斬新でよい。]

 真蹟によるものは姑(しばら)く措(お)く、後人の手に成った類題集その他のものは、多少疑問の点がないでもない。例えば「猪」の句、「かげろふ」の句を挙げた緑亭川柳(りょくていせんりゅう)の『俳人百家撰』の如きは、子規居士のいわゆる「編輯家」の編著で、時代も遥に下っており、その内容も信憑するに足らぬ俗書である。居士は早く明治二十七年[やぶちゃん注:一八九四年。]中にこの書の杜撰を指摘している位だから、凡兆の二句の如きも目に触れていたに相違ないが、これを採って『俳家全集』に収めなかったのは、けだしその書の資料とし難いためであろう。『凡兆句集』の編者たる笥浦氏も『百家撰』の記事を以て典拠の明ならざるものとし、「信用の置かれぬのを遺憾とする」と断じているにかかわらず、両句を『百家撰』によって挙げたのはどうしたものであろうか。「猪の首の強さよ」の句は、種文(しゅぶん)編の『俳諧猿舞師(さるまわし)』(元禄十一年[やぶちゃん注:一六九八年。]刊)に特に「読人しらず」としてこれを掲げている。但『猿舞師』は下五が「年の暮」となっているが、『百家撰』の典拠が明でないならば、これに従うより仕方がなさそうである。『韻塞』に「門前の小家もあそぶ冬至かな」が「不知作者」となっていることは前にも一言した。かつて『猿蓑』において作者の明になっている句を、わざわざ「不知作者」として掲げるには何らかの事情がなければならぬ。『韻塞』は元禄九年刊であるから、『猿舞師』より二年早い勘定になるが、とにかくこの辺に至って凡兆のために名を裏(つつ)む必要を生じたのではあるまいかと想像する。

[やぶちゃん注:既に述べた通り、凡兆の釈放は元禄一二(一六九九)年か翌年頃と考えられているから、以上の事実からは最低でも三年か四年ほどは下獄していたことになる。]

 「かげろふ」の句は『百家撰』以外何に出ている句かわからず、『凡兆句集』がこれを冬の部に入れている理由も明瞭でない。それよりも更に不審なのは、同書の後記に

[やぶちゃん注:確かに不審である。ここである。「かげろふ」(陽炎)は春の季題であり、「蝨」(しらみ・虱)は季題としての使用例が極めて少なく、歳時記でも「三秋」或いは「秋」としたり、「夏」としたりしていて信用におけない。

 以下引用は全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

「かけろふ」の句は草士(そうし)編の『ねなし草』にも採られているし、他の一句も確かな反証がないから、一応採録することにした。因に附言して置きたいのは、この「かけろふの」の句は『ねなし草』に「囚にありしとき」と前書を附してあるが、編者の草士は盲人であって、記億を辿って編輯したので、従って誤謬を伝えないともいえないから、暫く『俳人百家撰』のままにして置いた。

[やぶちゃん注:以上は「凡兆句集」の「後記」のここから次のページにある。

「草士(そうし)編の『ねなし草』」宝永六(一七七七)年序・跋。]

 

とあることである。草士が自ら諳(そらん)じた百句を並べて『ねなし草』と題したことは、集中に「やつがれ二十とせ眼を愁へて諸集にくらく万境にうとし、そらんじたる百句を爰にならべけるに虚空のねなし草とぞなれる」とある通りであるが、盲目の一事を以て収にその内容に不信用の札を貼るのは、いささか早計に失しはしないだろうか。笥浦氏のこの言は十分『ねなし草』を点検された結果と思われるが、「かげろふの」の句は『ねなし草』のどこにも見当らない。集中唯一の凡兆の句は「かゝる身を蝨のせむる五月かな」で、「囚にありしとき」の前書はこれについているのである。『ねなし草』の出版は宝永六年であり、これから逆算すると、二十年前は『猿蓑』出版以前に当る。草士は芭蕉歿後に出現した俳人でもなさそうだし、巻首に尚白の序もあるから、さほど信頼すべからざる書とは思われぬ。盲人の記億はむしろ目あきよりいいものがありはせぬかという気もするが、とにかく「囚にありしとき」の前書が「かげろふの」の句でなしに、「かゝる身を」についている以上、『ねなし草』に対する今の説は的を外れたわけである。「かゝる身を」の句は子規居士も『俳家全集』中にこれを収め、笥浦氏も『袖草紙(そでぞうし)』によってこれを採録している。両句共に獄中において蝨に悩まされることを詠じたらしいが、緑亭川柳はどこから「かげろふの」の句を得来ったか、『百家撰』が杜撰の書であるだけに、今少し確実な出所を知りたいと思う。

[やぶちゃん注:「尚白」(慶安三(一六五〇)年~享保七(一七二二)年)は近江大津の人で医を業とした。姓は江左(こうさ)。本姓は塩川。初め貞門・談林の俳諧を学んだが、貞享二(一六八五)年に芭蕉の門に入った。近江蕉門の長老として、「孤松(ひとつまつ)」「夏衣(なつごろも)」などの俳書を編したものの、蕉風後期の展開について行けず、芭蕉から離反した。芭蕉より六歳つ年下。既出既注であるが、再掲した。

「袖草紙」片石編。享保二一(一七三六)年刊。]

 笥浦氏はまた「凩や廊下のしたの村すゞめ」という夕兆(せきちょう)の句が、従来しばしば凡兆に誤られていることを指摘している。これは正にその通りで、『有磯海』を見れば自ら明な事実であるが、『凡兆句集』にも同様の誤が全然ないわけではない。

[やぶちゃん注:「夕兆」以上は「凡兆句集」の「後記」のここに出、

   *

大須賀乙字編「春夏秋冬」外數多の書籍に

  凩や廊下のしたの村すゞめ

を凡兆の句として採錄してゐるが、此句は夕兆といつて、有名な浪化上人の連衆の一人で、越中井波の人の句である。浪化編「有磯海」に出てゐるのを、夕と凡とを見誤つたものであらう。

   *

とある。「有磯海」は正しくは「浪礒海 浪化集上」で、浪化編で元禄八(一六九五)年刊である。]

     馬の息ほのかに白しけさの霜

の句を『類題発句集』によって収めているが如きはそれである。「俳諧文庫」の『類題発句集』には「凡兆」となっているけれども、『有磯海』に

     馬の息ほのかに寒しけさの霜  民丁

とあるのみならず、『俳句分類』は同じく『類題発句集』から「夕兆」として挙げているから、凡兆になったのは活字本以後の誤ではないかと思われる。『有磯海』所載の句が二度まで凡兆と誤られたのは、偶然かも知れぬが不思議な事実というべきであろう。

[やぶちゃん注:「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典総合データベース」の「有礒海」の当該部で確認出来た。そこには「民丁」の号の右上に「せゝ」とあるので、滋賀大津の膳所の近江蕉門の俳人である可能性が高いことが判る。]

 『三河小町』は『荒小田』より一年おくれて元禄十五年に出版された。集中に収められた凡兆の句は三句に過ぎぬが、他のいずれの俳書にも見えず、後の類題集等にも採録されぬ句ばかりである。但[やぶちゃん注:「ただし」。]句としてはあまり面白いものではない。

 凡兆の句の蒐集は『凡兆句集』の出現によって一段落を告げた形であったが、私はその後もまだ気長に捜す態度を捨てなかった。活字になって出版される元禄期の俳書の中には、極めて稀に凡兆の句がある。野紅(やこう)撰の『小柑子(しょうこうじ)』、知方(ともかた)撰の『はつたより』――これら集中のものは各一、二句に過ぎぬが、いずれも『荒小田』所収の句と重復していた。『俳家全集』にも『凡兆句集』にもあって、三宅嘯山(みやけしょうざん)の『古選』以上に遡れなかった「煤掃や餅の序になでゝおく」の句が、『元禄百人一句』によって加生時代の作たるを慥(たしか)作得たような、小さな発見もあった。そういう中で新に見出し得た凡兆の作は大体次の如きものである。

[やぶちゃん注:「野紅撰の『小柑子』」元禄一六(一七〇三)年自跋。

「知方撰の『はつたより』」書名は「初便(はつだより)」で元禄十五年序・跋。

「三宅嘯山の『古選』」三宅嘯山(享保三(一七一八)年~享和元(一八〇一)年)は儒者で俳人。京生まれの質商であったが、儒者としては青蓮院宮の侍講を務めた。一方、望月宋屋(そうおく)に俳諧を学び、炭太祇・与謝蕪村らと交わり、漢詩にも優れ、中国白話小説にも通じた。彼の「俳諧古選」(これが正式名称)などの評論では元禄期への復帰を提唱した。

「元禄百人一句」江水編。元禄四(一六九一)年成立。]

 月晴てさし鯖しぶき今宵かな     加生(江鮭子)

[やぶちゃん注:「つきはれてさしさばしぶきこよひかな」。堀切氏の前掲書の評釈に、『盆の会食でのことであろうか。宵の空は晴れて月は皓々と照っているが、食事に供された刺鯖の味はやけに渋いことだというのである。塩づけにした刺鯖はもともと舌を刺すほど塩辛いものであるが、その感触を明月の夜の晴れやかな雰囲気と対照させたのであろう』とされ、「月晴て」で秋の季題、「さし鯖」は『鯖を背開きにして塩でつけ、二枚をひと重ねとして、これを一刺という。仏事につながる行事に用いるもので、特にお盆の会食などには必ず出されたもの』とされ、これも『秋の季題』とある。

「江鮭子」はこれで「あめご」と読む。蕉門で芭蕉の之道(しどう:伏見屋久右衛門。大坂道修町の薬種問屋の主人で大坂蕉門の重鎮の一人であり、芭蕉の最後を看取った一人である。芭蕉の大坂行の一つは、彼が近江膳所の医師で近江蕉門の重鎮の一人であった浜田酒堂と対立していた和解仲介の目的があった)編で元禄三(一六九〇)年自序。因みに、書名はサケ目サケ科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae の地方異名。アマゴ(但し、一説には独立種とする見方もないではないが、研究が進んでいない)。]

 こりもせで今年も萌る芭蕉かな    凡兆(弓)

[やぶちゃん注:「萌る」は「もゆる」。本句は芭蕉へのあからさまな批判句として知られる。押切氏の前掲書の評釈では、『今年の春もまた、性懲りもなく芭蕉の芽が萌え出てきたことだ、という句意である』が、実は凡兆が加わった「猿蓑」の『撰集の終わったあと、師芭蕉から離反していった凡兆の、師に対するあてこすりの意を露骨に表わしたものであろう』とある。ここにある「弓」は元禄六(一六九三)年九月刊の壷中編になる俳諧選集「俳諧弓」であるが、これは『越人・野水・凡兆らによる反芭蕉の風を含んだ撰集であったとされる』とある。]

 蜻蛉の藻に日をくらす流かな     同

[やぶちゃん注:「蜻蛉」は「とんぼう」、「流」は「ながれ」。堀切氏の前掲書評釈に、『川の流れの上にちょっと先端を出した水草に止まっていた蜻蛉が、つういと飛び去っていったかと思うと、しばらくしてまた元のところへ戻ってくる――そんなことを何度もくり返しながら蜻蛉は日を暮らしているように見える、というのである、叙景的な構図の句であるが、そこに時間的な経過も表わされているのである、「藻に日をくらす」とはかもしろいとらえ方である』とある。私の好きな句である。]

 雪ふるか燈うごく夜の宿       同

[やぶちゃん注:「燈」は「ともしび」。同じく堀切氏の評釈。『冬の夜、外では雪が降っているのであろうか、室内の狐灯の下に静かにすわっていると、灯火の焔(ほのお)が微かにゆらめいているというのである。物音一つしない中で、寒さは部屋の中までひしひしと迫ってくるのである。句調も緊密で、冬の夜の情趣がよくとらえられている』とある。全く以って同感の佳句である。]

 若草に口ばしぬぐふ烏かな      同(曠野後集)

[やぶちゃん注:「曠野後集」(あらのこうしゅう)は荷兮編元禄二(一六八九)年序。同じ荷兮編の「曠野」の四年後(序による)の撰集。]

   越人にあふて

 をとこぶり水のむ顔や秋の月     同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書評釈に、『元禄三年八月、近江幻住庵の芭蕉を訪問した折、同門の越人に会し、初対面の挨拶として詠んだ句である。秋の月が皓々と照る下で、水を飲むあなたの男ぶりがまことに美しいというのである』とあり、『元禄三年八月四日付千那宛芭蕉書簡に「加生、越人へ挨拶」として出る句』で、「礦野後集」には『「越人にあふて」と前書』とある。]

 植松やそのやどり木の山つゝじ    同(柞原集)

[やぶちゃん注:「柞原集」は「ははらそはしゅう」と読む。句空編で元禄五年刊。人の植植えた松の根の絡まる窪みであろうか、宿り木のようにして山躑躅が咲いているというのであろうが、どうも博物テンコ盛りで私は気に入らない。映像は「山つゝじ」に次第にアップしてゆくのであろうが、「植」「その」「やどり木」的なと、説明的なマルチ・カメラであって感動の焦点がすっかりぼけてしまっている。]

 たがために夜るも世話やくほとゝぎす 同

 うつくしく牛の瘦たる夏野かな    同

 綿ふくや河内も見ゆる男山      同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書評釈に、『晴れた日、男山に登ってみると、遥か河内の方まで見渡せるひろびろとした眺望がひらけ、麓のあたりには、白く咲いた綿畠の風景が続いている。綿吹くころの晩秋の澄み切った空が目に浮かぶような気持のよい句である』とされ、綿(アオイ目アオイ科ワタ属アジアワタ Gossypium arboretum は、『夏期に、淡黄色または白色の五弁花を開いたあと、花の季節が終わると、子房が発達して桃の実のようなかたちの蒴果(さっか)』(果実の内で乾燥して裂けて種子を放出する裂開果のうちの一形式名。果皮が乾燥して基部から上に向って裂ける。身近なものではアサガオ・ホウセンカなどがそれ)『となり、やがて成熟して乾燥すると三つに裂(さ)けて、内部の白い棉毛を露出するようになる。これを開絮(かいじょ)と呼び、俳諧では「綿吹く」または「桃吹く」という。秋の季題』と注され、「男山」は『都の南部にある山。山頂に石清水八幡宮がある』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 七夕の夕月や鈍(どん)に暮かぬる  同

[やぶちゃん注:この読み、無論、底本のルビなのであるが、どうも「どん」は私は生理的に気に入らない。これは「にび」ではないのか? 月が出ているが、まだ濃鼠(こいねず)の空で暮れかねていて、天の川や牽牛も淑女も未だよく見えぬと言うのであろう。

 白露と花にかへつゝ芋畠       凡 兆

[やぶちゃん注:この芋は里芋(単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科サトイモ属サトイモ Colocasia esculenta であろう。本邦のサトイモは一般には「花が咲かない」と言われる(但し、実際には着花することはある。着蕾した株の中心に、葉ではなく鞘(さや)状の器官が生じ、次いでその脇から淡黄色の細長い仏炎苞を伸長させる。花は仏炎苞内で肉穂花序を形成する。以上はウィキの「サトイモ」による)ことから、上五と中七が腑に落ちる。サトイモの葉の露は物心ついた頃からの私の偏愛物である。]

 富士の野や鹿臥とこの片さがり    同

[やぶちゃん注:「鹿臥とこの」は「鹿(しか)臥(ふす)とこの」。]

 枯るほど鵜の来てねるや松の色    同

[やぶちゃん注:「枯る」は「かるる」。]

 くま笹のうき世見あはすかれ野かな  同

[やぶちゃん注:冬に向けて隈取をした熊笹(ここでは種群ではなく、大型の葉を持った笹類と私は摂る)の葉の群生は、何となくそれぞれの葉の個群が互いに顔を見合わせるような感じはする。また、熊笹の類は山地に多く、「うき世」との境界にもある。]

 『俳家全集』において加えられた十八句、次いで補われた六句、『荒小田』の三十四句(重複の分を除く)、更に『凡兆句集』において追加された十句を合せると、総計百十二句になる。『凡兆句集』は全部で百十三句あるけれども、「馬の息」の一句は削除しなければならぬからである。『猿蓑』の四十四句以外に多く伝わらぬと称せられた凡兆の句が、百を超えただけでも驚かなければならぬのに、「弓」以下の十四句を加えれば、殆ど三倍近くの数になろうとしている。明治時代の凡兆論が『猿蓑』に限って論ぜられたのは、あの時代としては已むを得ないが、現在これだけの句が発見された以上、凡兆論の内容も当然修正されなければならぬわけである。『猿蓑』の価値を尊重するの余り、他の句を顧みようとせぬのは、研究に忠実ならざるばかりでなく、凡兆に忠実なる所以でもない。

 われわれは手許に集った材料を一切ぶちまけて、『猿蓑』以外の方角から、少しく凡兆の面目を窺って見ようかと思う。古俳書の多くが好事家の手に帰し、徒(いたずら)に高閣(こうかく)に束(つか)ねられていることも久しいものである。大正末葉以来、凡兆の句が頻に発見されたについても、その一半は古俳書覆刻の功に帰すべきであろう。例えば『荒小田』一部だけにしても、もっと早く人の目に触れる機会があったならば、凡兆研究の上に何らかの影響を与えていたに相違ない。われわれはこの意味において、古俳書の続々活字になって現れることを希望している。最近目についた『柞原集』の九句の如きも、『加越能古俳書大観(かえつのうこはいしょたいかん)』の出版によってはじめてその機を得たわけであるが、古俳書の中にはこういう凡兆の句がまだいくらもあって、寂然(せきぜん)と声を収めているのではないかと思うと、何となく歯痒(はがゆ)いような感じもする。凡兆のような資料の乏しい作家にあっては、一句といえども軽々に看過することは出来ない。類題集中にのみ伝えられている句の出所を突止めて、時代の先後を考える必要もある。網は今後も長く張って置かなければならぬが、しばらくこの辺を以て一区切にしようとするのである。

[やぶちゃん注:「高閣に束ねる」書物などを高い棚の上に束ねて載せたまま読まずにほうっておくの意。「晋書」の「庾翼(ゆよく)伝」に拠る故事成句。庾翼が才名高かった杜乂(とがい)と殷浩(いんこう)を重んぜずに、彼らの書いた書物を高閣に束ね上げ、「天下が泰平になってから二人の任を論議しよう」と語ったことに由る。

 以下、の「附記」は前が一行空けで、全体が二字下げポイント落ちである。]

 

   (附 記)

 その後奈良鹿郎氏の示教によって「かげろふの身にもゆるさぬ蝨かな」は闌更(らんこう)の『俳諧世説(はいかいせせつ)』に出ていることを知り得た。「凡兆獄中歳旦の説」の題下に「凡兆はもと金城の産にして洛に住し医業をもつて世わたりとす、嘗て罪有人(つみあるひと)にしたしみ其連累(れんるい)をかふむりて獄中に年を明し[やぶちゃん注:「あかし」。]けるに、其明る[やぶちゃん注:「あくる」。]年牢中にて」とあって「猪の首」及「かげろふ」の二句を記し、「聞人(きくひと)涙をおとさずといふ事なし、身にあやまりなき申しひらき上天に通じ、程なく累絏(るいせつ)の中を出て[やぶちゃん注:「いでて」。]ふたゝび悦びの眉(まゆ)をひらきけるに」云々と出ている。『俳人百家撰』の記載はこれに拠ったことは明[やぶちゃん注:「あきらか」。]であるが、闌更は果して何に拠ったものか、当時の俳書に所見のないものだけに、更にその出所を慥めたいような気がする。

[やぶちゃん注:「奈良鹿郎」(なら しかろう)(明治二二(一八八九)年~昭和三五(一九六〇)年)は神奈川県出身。門司において吉岡禅寺洞を知り、俳句を志し、高浜虚子に師事した。『ホトトギス』同人。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) /「柳河風俗詩」パート 柳河

 

柳 河 風 俗 詩

 

[やぶちゃん注:パート標題。]

 

 

柳河

 

もうし、もうし、柳河(やながは)じや、

柳河じや。

銅(かね)の鳥居を見やしやんせ。

欄干橋(らんかんばし)を見やしやんせ。

(驛者は喇叭の音(ね)をやめて

 赤い夕日に手をかざす。)

 

薊の生えた

その家は、………

その家は、

舊(ふるい)いむかしの遊女屋(ノスカイヤ)。

人も住はぬ遊女屋(ノスカイヤ)。

 

裏の BANKO にゐる人は、………

あれは隣の繼娘(ままむすめ)。

繼娘(ままむすめ)。

水に映(うつ)つたそのかげは、………

そのかげは

母の形見(かたみ)の小手鞠(こてまり)を、

小手鞠を、

赤い毛糸でくくるのじや、

淚片手にくくるのじや。

 

もうし、もうし、旅のひと、

旅のひと。

あれ、あの三味をきかしやんせ。

鳰(にほ)の浮くのを見やしやんせ。

(馭者は喇叭の音をたてて、

 あかい夕日の街(まち)に入る。)

 

夕燒(ゆふやけ)、小燒(こやけ)、

明日(あした)天氣になあれ。

 * 緣臺、葡萄牙の轉化か。

 

[やぶちゃん注:最後の注は「BANKO」に対するものであるが、注記号が打たれていない。註が詩篇と同ポイントなのはママ。

「銅(かね)の鳥居」現在の福岡県柳川市三橋町高畑にある三橋神社の鳥居(グーグル・ストリートビュー。そのまま振り返ると、次の欄干橋が見える)。

「欄干橋」同前の三柱神社参道入り口の二ツ川に架かる(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「遊女屋(ノスカイヤ)」「Noskai 屋(遊女屋)」で既出既注。小学館「日本国語大辞典」に「のすかい」で娼妓・遊女の方言とし、九州で広汎に見られるようである。語源は記されていないが、熊本の方の記載を見ると、「のすかい」で「いやな感じがする」「風紀上よろしくない」という意であるとある。

「住はぬ」「すまはぬ」。

BANKO(椽臺)」注の「葡萄牙」は「ポルトガル」語。既出既注であるが、再掲しておく。柳川で各家庭の玄関先などに置かれた畳一畳分ほどで高さ六十センチメートル程の杉材で造られた縁台。サイト「月刊『杉』WEB版」の橋本憲之氏の『特集 西鉄柳川駅「学ぼう! つくろう! 駅前広場でモノづくり」』の「モノ づくりをとおして」の解説と写真を見られたい。

「鳰」カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ Tachybaptus ruficollis。国字。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) たんぽぽ

 

たんぽぽ

 

   わが友は自刄したり、彼の血に染みたる

   亡骸はその場所より靜かに釣臺に載せら

   れて、彼の家へかへりぬ。附き添ふもの

   一兩名、痛ましき夕日のなかにわれらは

   ただたんぽぽの穗の毛を踏みゆきぬ、友、

   時に年十九、名は中島鎭夫。

 

あかき血しほはたんぽぽの

ゆめの逕(こみち)にしたたるや、

君がかなしき釣臺(つりだい)は

ひとり入日にゆられゆく…………

 

あかき血しほはたんぽぽの

黃なる蕾(つぼみ)を染めてゆく、

君がかなしき傷口(きずぐち)に

春のにほひも泌み入らむ…………

 

あかき血しほはたんぽぽの

晝のつかれに觸(ふ)れてゆく、

ふはふはと飛ぶたんぽぽの

圓い穗の毛に、そよかぜに、…………

 

あかき血しほはたんぽぽに、

けふの入日(いりひ)もたんぽぽに、

絕えて聲なき釣臺(つりだい)の

かげも、靈(たまし)もたんぽぽに。

 

あかき血しほはたんぽぽの

野邊をこまかに顫(ふる)へゆく。

半ばくづれし、なほ小さき、

おもひおもひのそのゆめに。

 

あかき血しほはたんぽぽの

かげのしめりにちりてゆく、

君がかなしき傷口(きずぐち)に

蟲の鳴く音(ね)も消え入らむ…………

 

あかき血しほはたんぽぼの

けふのなごりにしたたるや、

君がかなしき釣臺(つりだい)は

ひとり入日にゆられゆく…………

 

[やぶちゃん注:前書きはポイント落ちで行も詰まってあるが、敢えて同ポイントで行間も明けて示した。但し、底本では全四行のところ、ブラウザでの不具合を考え、六行に分かった。

「中島鎭夫」序の「わが生ひたち」の「9」に既出既注であるが、これは特に再掲する。所持する書籍ではこれが如何なる人物か分からなかったが、複数のネット記事を並べてみることでやっと判明した。以下はリンク先以外の信頼出来る資料も参考にしてある。彼は白秋の親友で中島鎭夫(なかじましずお(しづを) 明治一九(一八八六)年五月九日~明治三七(一九〇四)年二月十三日)のことである。ペンネームは白雨(はくう)。享年十九(満十七歳)。中学に入学した白秋は級友と回覧雑誌を作って歌作・詩作にいそしみ、後期には校内で文学会を組織して新聞『硯香』小説や論説なども書いたが、低能教育の弊風を非難する内容の一文が学当局の忌諱に触れ、問題となったりした。その交流の中でも最も親しかったのが中島鎭夫であった。左大臣光永氏の「北原白秋 朗読」の本篇の解説に『「白秋」「白雨」、どちらもペンネームに「白」の字がついてますが、これは彼ら文学仲間の連帯の証でした』。『中島青年はみずから文芸部を発足し、生徒の』八『割近くが部員になったということですから、行動力とリーダーシップがあったようです』。『ところが中島青年がトルストイの『復活』を回し読みしていたところ、普段から文芸部をよく思わない教師から難癖をつけられ、退学に追い込まれます』。『当時』(明治三七(一九〇四)年)『は日露戦争に突入した年で、ロシア文学を愛好しているだけで非難の対象になったのです』。『中島青年はこの疑いに名誉を傷つけられ、自らの潔白を証明するため、短刀で喉を突いて自刃しました』。『中島青年は死に際して自分のぶんも文学の志を遂げてくれと白秋に遺書を遺します』。『一番の親友を失った白秋の心中は想像するにあまりあります。白秋はその気持ちを「林下の黙想」という詩に託して「文庫」に投稿』、『この詩は審査員に絶賛され』、明治三七年四月号に『全文掲載されます』。『そしてこの年、白秋は中学を中退し、父に内緒で上京。本格的に文学の道を歩み始めたのでした』とある。また、「西日本新聞社」公式サイト内の「日本がロシアに宣戦布告をした3日後のこと…」という記事は、『日本がロシアに宣戦布告をした』三『日後のこと。現在の福岡県柳川市で』十七『歳の文学少年が命を絶った。中島鎮夫(しずお)、ペンネームは白雨(はくう)。後に国民的詩人となる北原白秋の大親友である』。『白秋の回想によると、鎮夫は神童肌の少年で、語学に堪能だった。英語に加え独学でロシア語も勉強していたことから「露探」(ロシアのスパイ)のぬれぎぬを着せられる。汚名に耐えきれず、親戚の家の押し入れで、喉を短刀で突いた。「あなたを思っている」との遺書を白秋に残して』早朝に逝ったのであった。『教室で鎮夫の死を知った白秋はぽろぽろ泣いて駆けつけ』、『友の遺骸を板に乗せ、タンポポが咲く野道を家まで運んだ』とある。サイト「ブック・バン」の「【文庫双六】自死した親友を悼む白秋の悲しみ――川本三郎」には、『白秋は鎮夫を愛していた。「二人は肉交こそなかったが、殆ど同性の恋に堕ちていたかもわからないほど、日ましに親密になった」とのちに回想している』ともある。日露戦争の明治天皇の「露國ニ對スル宣戰ノ詔勅」が正式な宣戦布告で、これは明治三七(一九〇四)年二月十日であった(事実上の開戦はこの二日前の同年二月八日の旅順港にあったロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)であったが、当時は攻撃開始の前に宣戦布告しなければならないという国際法の規定がなかった)。以上に出る「林下の黙想」は三百行にも及ぶ長詩らしいが、その内、探し出して電子化したいと考えている。

「釣臺」台になる板の両端を吊(つ)り上げて二人で担いでゆく運搬具。担架の駕籠舁き方式である。

 本篇を以って「TONKA JOHN の悲哀」パートは終わっている。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 接吻後

 

接吻後

 

怖ろしきその女、

なつかしきその夜。

 

翌(あけ)の日は西よりのぼり、

恐怖(おそれ)と光にロンドン咲く。

血のごとく赤きロンドン。

 

われはただ路傍(みちばた)に俯し、

靑ざめてじつと凝視(みつ)めつ。

 

血のごとく赤きロンドン。

ロンドンに

彈(は)ねかへる甲蟲(かぶとむし)、

――ある事を知れるごとくに。

 

はねかへる甲蟲、

われはただロンドンに

言葉なく顫へて恐る。

――わが生の第一の接吻(キス)。

 

[やぶちゃん注:「ロンドン」既出既注。双子葉植物綱ナデシコ目スベリヒユ科スベリヒユ属マツバボタン Portulaca grandiflora の柳川での異称。由来不祥。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 水銀の玉

 

水銀の玉

 

初冬の朝間(あさま)、鏡をそつと反(かへ)して、

綠ふくその上に水銀の玉を載すれば

ちらちらとその玉のちろろめく、

指さきに觸るれば

ちらちらとちぎれて

せんなしや、ちろろめく、

捉へがたきその玉よ、小(ちい)さき水銀の玉。

わかき日の、わかき日の、ちろろめく水銀の玉。

 

[やぶちゃん注:「水銀」現在は有毒な水銀ではなく純銀が用いられるが、古くは錫と銅の合金を土台として、その上に純錫と水銀で映りやすくするように上塗りを施したものが普通であった。しかし、年が経つと鏡面が曇ってくるので、これを磨いて今一度、純錫と水銀を塗って修復する「鏡磨き」が冬の間に回って来たという。水銀の有毒性がよく認識されなかった頃は、或いは「鏡磨き」が水銀の一滴を鏡箱の中に修繕の印として滴らして返すようなことがあったのではなかろうかと私は夢想する。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 思

 

 

堀端(ほりばた)に無花果(いちじゆく)みのり、

その實いとあかくふくるる。

 

軟風(なよかぜ)の薄きこころは

腫物(はれもの)にさはるがごとく。

 

夏はまた啞(おふし)の水馬(すいま)、

水面(みづのも)にただ彈(はぢ)くのみ。

 

誰か來て、するどきナイフ

ぐざと實を突(つ)き刺せよかし。………

 

無花果は、ああ、わがゆめは、

今日(けふ)もなほ赤くふくるる。

 

[やぶちゃん注:標題は「おもひ」でよかろう。

「水馬」半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目アメンボ下アメンボ上科アメンボ科 Gerridae のアメンボ類。本邦で代表的なタイプ種はアメンボ(ナミアメンボとも呼ぶ)Aquarius paludum であるものの、一般には知られていないが、アメンボ類は驚くほど種が多く、他にオオアメンボ Aquarius elongatus(体長一・九~二・七センチメートルで、日本最大種)・ヒメアメンボ Gerris latiabdominis・コセアカアメンボ Gerris gracilicornis・エサキアメンボ Limnoporus esakii などがよく見られる。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 水馬(かつをむし)」を参照されたい。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 兄弟

 

兄弟

 

われらが素肌(すはだ)のさみしさよ、

細葱(ほそねぎ)の靑き畑(はたけ)に、

きりぎりすの鳴く眞晝に。

 

金(きん)いろの陽(ひ)は

匍ひありく弟の胸掛にてりかへし、

そが兄の銀(ぎん)の小笛にてりかへし、

護謨(ごむ)人形の鼻の尖(とが)りに彈(は)ねかへる。

 

二人(ふたり)が眼に映(うつ)るもの、

いまだ酸ゆき梅の果、

土龍(もぐら)のみち、

晝の幽靈。

 

素肌にあそぶさびしさよ、

冷(つ)めたき足の爪さきに畑(はたけ)の土(つち)は新しく、

金(きん)の光は絕間なく鐵琴(てつきん)のごと彈ねかへる。

 

かくて、哀(かな)しき同胞(はらから)は

同じ血脈(ちすぢ)のかなしみのつき纒(まと)ふにか、呪ふにか、

離れんとしつ、戯(たはむ)れつ…………

 

みどり兒は怖々(おづおづ)と、あちら向きつつ蟲を彈(は)ね、

兄は眞靑(まさを)の葱のさきしんと眺めて、唇(くち)あてて

何かえわかぬ晝の曲、

ひとり寥(さみ)しく笛を吹く、銀(ぎん)の笛吹く、笛を吹く。

 

[やぶちゃん注:太字「しん」は底本では傍点「ヽ」。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 金縞の蜘蛛

 

金縞の蜘蛛

 

ゆく春のあるかなきかの糸に載り、

身を滑(すべ)らする金縞(きんじま)の蜘蛛(くも)。

雨ふれば濡れそぼち、

日のてれば光りかがやく金縞の蜘蛛。

その靑き金縞の蜘蛛。

 

怪しくも美くしき眼は

晝の年增(としま)の秘密をば見て見ぬふりにうち顫へ、

うら耻かしき少年の夢を見透かし、

明日(あす)死ぬるわが妹の命(いのち)をかひたと凝視(みつ)むる。

 

ゆく春のあるかなきかの絲に載り、

身を滑(すべ)らする金縞の蜘蛛。

人來(く)れば肢(あし)を縮(ちゞ)め、

蟲來(く)れば捕(と)りて血を吸ふ金縞の蜘蛛。

ただ一日(ひとひ)靑く光れる金縞の蜘蛛。

 

[やぶちゃん注:太字「ひた」は底本では傍点「ヽ」。

「金縞の蜘蛛」節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科ジョロウグモ科ジョロウグモ属ジョロウグモ Nephila clavata ととってよかろう。可能性としての多種及びジョロウグモ類の博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 絡新婦」を参照されたい。]

2020/06/23

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 怪しき思

 

怪しき思

 

われは探しぬ、色黑き天鵞絨(びろうど)の蝶、

日ごと夜ごとに針(ピン)を執り、テレビンを執り、

かくて殺しぬ、突き刺しぬ、ちぎり、なすりぬ。

鬼百合の赤き花粉を嗅ぐときは

ひとり呪ひぬ、引き裂きぬ、嚙みぬ、にじりぬ。

金文字の古き洋書の鞣皮(なめしがは)

ああ、それすらも黑猫に爪をかかしつ。

 

われは愛しぬ、くるしみぬ………顫へ、おそれぬ。

怪しさは蠟のほのほの泣くごとく、

靑き蝮(まむし)のふたつなき觸覺のごと、

われとわが身をひきつつみ、かつ、かきむしる。

美くしき少年のえもわかぬ性の憂欝。

 

[やぶちゃん注:標題は無論、「あやしきおもひ」と読む。

「テレビン油」既出既注であるが、再掲する。turpentine。テレピン油或いはターペンタインとも呼び、マツ科 Pinaceae の樹木のチップ或いはそれらの樹木から採取された松脂を水蒸気蒸留することによって得られる精油で、油彩絵具の溶剤として知られる。当該油を指すポルトガル語「terebintina」(テュルビンティーナ)が語源。

「靑き蝮(まむし)のふたつなき觸覺のごと」爬虫綱有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii のは鼻孔と眼の間に一対ある頰窩 (きょうか:loreal pit) と呼ばれる赤外線を感知するピット器官(pit organpit の原義は「窪み」)を指して言っているものと採る。視力が弱い爬虫綱有鱗目ヘビ亜目の構成種が持つ優れものの対恒温動物認識器官である。彼らは闇の中でも対象生物の体温を識別して確実に襲うことが出来る、まさに白秋の謂う「ふたつなき觸覺」なのである。アメリカが開発した赤外線誘導の短距離空対空パッシヴ・ミサイル「サイドワインダー」(Sidewinder)はマムシ亜科ガラガラヘビ属ヨコバイガラガラヘビ Crotalus cerastes のピット器官にヒントを得たことによる命名である。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 水中のをどり

 

水中のをどり

 

色あかきゐもりの腹のひとをどり、

水の痛(いた)さにひとをどり。

腹の赤さは血のごとく、

水の痛さは石炭酸を撒(ふ)るごとし。

 

時は水無月、日は眞晝、

ゐもりの小さきみなし兒は

尻尾(しつぽ)もふらず、掌(て)も開(あ)かず、

たつた、ふたつの眼を開(あ)けて

ついとかへりぬひとをどり………

 

風はつめたく、山ふかく、

靑い松葉が針のごと光りて落つるたまり水。

 

色あかきゐもりの腹のひとをどり、

水の痛さにひとをどり。

 

[やぶちゃん注:「色あかきゐもり」両生綱有尾目イモリ亜目イモリ科イモリ属アカハライモリ Cynops pyrrhogaster。比較的近年になってフグ毒と同じテトロドトキシン(tetrodotoxinTTXC11H17N3O8 )を持つことが判明し、腹の赤黒のおどおどろしい斑点模様は他の動物に有毒物質の保持を知らせる警戒色と考えられている。但し、手で触れる分には全く問題なく、私の知る限り、本邦ではアカハライモリのテトロドトキシンで重篤に陥ったり、死亡した事例は聴いたこともない。

「石炭酸」既出既注だが、再掲しておく。フェノール(phenol)。特異な臭いを持つ無色又は白色の針状結晶又は結晶性の固形物で、水にやや溶け、弱い酸性を示す。化学式はC6H5OH。元はコールタールの分留により得たもので、防腐剤・消毒殺菌剤とする。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 尿する和蘭陀人

 

尿する和蘭陀人

 

尿(いばり)する和蘭陀人…………

あかい夕日が照り、路傍の菜園には

キヤベツの新らしい微風、

切通のかげから白い港のホテルが見える。

 

十月の夕景か、ぼうつと汽笛のきこゆる。

なつかしい長崎か、香港(ホンコン)の入江か、葡萄牙(ポルトガル)? 佛蘭西(フランス)?

ザボンの果(み)の黃色いかがやき、

そのさきを異人がゆく、女の赤い輕帽(ボンネツト)………

 

尿する和蘭陀人………

そなたは何を見てゐる、彎曲(ゆみなり)の路から、

斷層面の赤いてりかへしの下から、

前かがみに腰をかがめた、あちら向きの男よ。

 

わたしは何時も長閑(のどか)な汝(そなた)の頭上から、

瀟洒な外輪船(ぐわいりんせん)の出てゆく油繪の夕日に魅(み)せられる。

病氣のとき、ねむるとき、さうして一人で泣いてゐる時、

ほんのしばらく立ちとまり、尿する和蘭陀人のこころよ。

 

[やぶちゃん注:「輕帽(ボンネツト)」bonnet。婦人・小児用の帽子で、付け紐を頤(あご)の下で結ぶタイプのものを言う。庇のあるなしは問わない。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) BALL

 

BALL

 

柚子(ゆず)の果(み)が黃色く、

日があかるく、

さうして熱(あつ)い BALL.

 

觸(ふ)れ易いこころの痛(いた)さ、

何がなしに

握りしむる BALL.

 

投げるとき、

やはらかな掌(てのひら)に

なつかしい汗が光り………

 

受けるとき、

しみじみと抱く音、

接吻(せつぷん)…………

 

日が赤く、

柚子(ゆず)の果(み)が黃色く、

何處(どこ)かで糸操りの車。

 

なつかしい少年のこころに

圓い、軟(やはら)かなBALL

やるせなさ…………

 

柚子(ゆず)の果(み)が黃色く、

日があかるく、

さうして投げかはす BALL.

 

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 雨のふる日

 

雨のふる日

 

わたしは思ひ出す。

綠靑(ろくしやう)いろの古ぼけた硝子戶棚を、

そのなかの賣藥の版木と、硝石の臭(にほひ)と…………

しとしとと雨のふる夕かた、

濡れて歸る紺と赤との燕(つばくらめ)を。

 

しとしとと雨のふる夕かた、

蛇目傘(じやのめ)を斜(はす)に疊んで、

正宗を買ひに來た年增(としま)の眼つき、…………

びいどろの罎を取つて

無言(だま)つて量る…………禿頭(はげあたま)の番頭。

 

しとしとと雨のふる夕かた、

巫子(みこ)が來て振り鳴らす鈴(すゞ)………

生鼠壁(なまこかべ)の黴(かび)に觸(さは)る外面(おもて)の

人靈(ひとだま)の燐光。

 

わたしは思ひ出す。

しとしとと雨のふる夕かた、

㕚首(あいくち)

を拔いて

死なうとした母上の顏、

ついついと鳴いてゐた紺と赤との燕(つばくらめ)を。

 

[やぶちゃん注:「硝石」序の「わが生ひたち」の「3」に出て既注であるが、再掲しておく。同じく硝酸塩鉱物の一種。火薬原料として知られる有毒であるが、漢方では消癥(しょうちょう:体内に出来た腫物を癒す)・通便・解毒の効能があり、腹部膨満・腫瘤・腹痛・便秘・腫物などに用いる。

「正宗」サイト「耳寄りな話題」の『日本酒の銘柄「○○正宗」なぜ全国各地に? 商標の壁、昔も今も』によれば、『日本酒の銘や社名に「正宗」を使う蔵元は全国に多い。元祖は中堅酒造会社の桜正宗(神戸市)だ。正宗が全国へ広がった経緯を探っていくと、商標の管理という日本企業が今日直面する問題が浮かび上がってきた』。『桜正宗は』享保二(一七一七)年『創業の老舗』で、第十一『代目当主の山邑太左衛門氏』『の説明によると、当時、灘地域(神戸市、兵庫県西宮市)では酒銘を競っており、「助六」や「猿若」など歌舞伎役者に関する酒銘が多かった。同社も役者名を取り「薪水」を使っていたが』、当時の第六『代目山邑太左衛門は酒銘が女性的で、愛飲家にふさわしいか悩んでいたという』。この六代目が昭和一五(一八四〇)年、『京都の元政庵瑞光寺の住職を訪ね、机上の「臨済正宗」と書かれた経典を見て「正宗」がひらめいた。正宗の音読み「セイシュウ」が「セイシュ」に近く縁起も良さそうだと思ったようだ。ただ、同寺の現在の住職、川口智康』氏は『この由来について「昔のことでわからない」とのこと』。『酒銘へのこだわりだけでなく』、六『代目が酒造りにかける情熱はすさまじかった。今日の吟醸造りの原型となる「高精白米仕込み」に取り組んだほか、西宮で酒造に適した「宮水」を発見、灘が最大の産地となる原動力になった。桜正宗など灘の清酒は「下り酒」と呼ばれ』、『江戸で爆発的に売れた』同じく享保二年から『江戸で灘の清酒を扱う酒類卸、ぬ利彦(東京・中央)の中沢彦七社長』『は「正宗は吉原や藩主の屋敷で評判を呼び、江戸庶民に広がった」と話す』。『人気が高まるにつれ、正宗の名にあやかる蔵元が全国で続々と現れた。正宗の名は普通名詞となり』、明治一七(一八八四)年に『政府が商標条例を制定した際、桜正宗は正宗を登録したが』、『受け付けられなかったほど』に既に銘酒と同義の一般名詞化されていると判断され、『特許庁は「慣用商標の中で代表的な事例の一つ」(商標課)と説明。そこで桜正宗は国花の「桜」をつけた』とある(以下、記事は続くが、略す)。]

梅崎春生 猫男

 

[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年八月号『文藝春秋』初出。後の作品集「B島風物誌」に収録された。梅崎春生三十三歳。「桜島」によるデビューから二年後の作品である。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第二巻を用いた。

 本文中にストイックに注を附した。

 本篇はツイッターのフォロワーが電子化を希望されたので、それに応えるために電子化したものである。【二〇二〇年六月二十三日 藪野直史】]

 

   猫  男

 

 雨戸をたたく音で、眼がさめた。浅くまどろんでいたせいで、いきなり皮膚をたたかれたような気がした。天窓が薄明りをたたえている具合からして、夜明けに間もないらしい。あおむけに寝たまま聴き耳をたてていると、また雨戸をたたく音がして、それと一緒になにか呼ぶ声がした。私の名を呼んだらしかった。

 こんな早くから誰だろうと思ったが、それでも放っておく訳(わけ)にもゆかないので、渋々起きあがって廊下にでた。強盗かも知れないとちょっと考えたから、廊下にでるついでに、部屋のすみにある麦酒(ビール)瓶を右手ににぎった。夜明けの強盗とはあまり聞かないが、近頃のことだから、どんな定石外れがあるか判らない。と言っても、盗られて惜しいものがある訳じゃない。盗られて困るものがあるとすれば、それは私の生命だけだ。

 音のしないようにそろそろ桟(さん)を外し、雨戸を三寸ばかりあけてのぞいたら、妙な男がすぐそこに立っていた。まだ暗さがそこらにためらっている具合なので、直ぐは判らなかったが、異様な服装をしている。ちょっと見た感じでは、銅版画にでてくる苦行僧に似ていた。雨戸のすきまからのぞく私の顔にむかって、それが丁寧にお辞儀をした。そのお辞儀のやり方で、丹吉だということがすぐに判った。[やぶちゃん注:「ためらっている」ちょっと普通の使い方ではないが、明け方の暗さが辺りに残っているの意。曙の初め頃ととれる。「丹吉」は「にきち」と読んでおく。]

「わたしです。丹吉です。へえ」

 感じがへんだと思ったら、身にまとうものは下着だけである。ズボンも穿(は)いていない。なまじろい、むきだしの脚に、大きな兵隊靴をはいている。それも泥まみれだ。それから私が提(さ)げた麦酒瓶をみて、あわてたように掌をふった。

「どうぞ。どうぞ、おかまいなく。昨晩たんと飲んだんで、もういけません」

 いい気なことを言っていると思いながら、私はすこし乱暴に雨戸をあけてやった。

「どうしたんだね。その恰好(かっこう)は」

「ええ。ええ。今、そのちょっと何したものですから」

 寒いのか、鳥肌たった双の腕を、よじり合せるようにしながら、上目づかいで私の方をみた。丹吉の素肌をみるのは、これが始めてだが、新しい消ゴムみたいになま白くて、へんにぶよぶよした感じであった。その中に骨のあることを全然かんじさせないような恰好で、軟体動物という言葉を私はすぐ聯想(れんそう)した。

「まあ、上れよ」

 すこし経(た)って私がそう言った。丹吉はちょっとためらうような形をみせたが、それでも泥靴をすぽっと脱いで、のこのこと縁側に上ってきた。見ると靴下もはいていない。泥の滲んだ足のうらを、雑巾にやけにこすりつけた。

 火鉢のまえにすわって、いろいろ問いただしてみると、言うことがあいまいで、どうもはっきりしない。何だか急に元気がなくなった風である。泥酔して駅のベンチに寝ていたら、眼がさめてこんな恰好になっていたという。もちろん金入れもなくなっていたから、その駅から一番ちかい私のところに歩いてきたというのだが、ぽつりぽつりしゃべりながら、丹吉はしきりに肩をすくめたり、腕をよじったりした。寒いのだろうと思ったが、また恥かしがっているような調子でもあった。

「で、電車賃と、できたら洋服一着かして呉れませんか」

「そりゃ貸してもいいけれども、トミエさんが心配してるだろう」

「ええ。おかみさんは慣れっこです。しょっちゅうのことだから」

 そう言って、始めてぶわぶわと笑った。丹古の顔のかたちは、小さなフライパンに似ている。肉づきのいい方だが、全体としては小柄だ。身の丈も五尺そこそこだろう。瞼がぼったりとふくらんでいて、その下で小さな眼球が、絶えず小刻みに動く。さだまった箇所に視線を固定させることがないようだ。話するときも、ちらっちらっと見るだけで、決して真正面からこちらを眺めたりしない。その小さな真黒い眼球のうごきには、なにか残忍なものを感じさせるときがある。この男の素姓[やぶちゃん注:ママ。]を、私は深くは知らない。奥さんのトミエさんとは、かなり前からの知合いだけれども。

 で、仕方がないから、押入れを探して、古洋服を一着出してやった。丹吉はほっとしたように、立ち上っていそいで服を着けたが、すこし大きすぎた。袖口に掌が入ってしまうし、上衣の裾がずいぶん下までくる。ハイド氏のような恰好になった。

「いささか大きすぎますな、これは」

 そう言いながらも、袖をまくり上げたり、ズボンをたくし上げたりした。そしてどうにか収まりがつくと、すこし元気がでてきたようである。安心したような顔になって、また火鉢の前にすわりこんだ。

 やがて夜も明けてきたようだから、朝飯をつくろうというので、電熱器に飯盒をかけた。丹吉は煙草も盗られてしまったといって、私の煙草を何本も吸った。半分ほど吸うと、灰につきさしたりして、じつに贅沢(ぜいたく)な吸いかたをする。それからいろいろ、とりとめもない話をした。トミエさんとの間に、子供はまだできないのか、というようなことも私は聞いた。

「ええ。まだですよ。ひとり欲しいとは思っているんですが」

「仲良くはしているんだろう?」

「ええ。それがね」丹吉の言いかたはへんに曖昧になった。「ちかごろ、猫などを飼ったりしましてねえ」

「ほう。猫をね」

「猫って、何なんでしょう」嘆息するような声でそう言った。「猫という動物は、南方からきたもんでしょう。日本にきて、もう何干年になるか知らないけれども、まだ気候に慣れないんですね。ひとの寝床に入りたがってばかりいて」[やぶちゃん注:ネコの起原種はヨーロッパやリベリアが起原地と考えられている。]

「毛皮着ているくせに」

「猫が暑がるのは、一年のうち三日しかないというじゃありませんか」

 ぼったりした瞼の下で、丹吉はにらむような眼付をした。

 飯が焚き上ったので、膳をだして食事をすました。丹吉はあまり食べなかった。御飯を三四粒箸にのせて、口にはこぶような食い方をする。なにかぼんやり考えているようにも見えるが、瞳はしょっちゅうちらちらと動いている。そして丹吉は丁寧(ていねい)に頭をさげた。

「どうも相済みませんでした。御馳走さまでした。おいとまいたします」

 何か本を貸してくれというので、本棚から飜訳小説などを出してやった。縁側に出て靴をとりあげた。縁側にたって、靴をはく丹吉の後姿を見おろしていると、服が大きいので、抜衣紋(ぬきえもん)みたいになっていて、襟(えり)筋に長いうぶ毛がぼやぼや密生しているのが、眼についた。それは粉をふいたように、背中のずっと奥までつづいているらしかった。なんとなく寒気だつような気持になって、視線を庭の方にそらしていると、うつむいて靴の紐(ひも)をむすんでいた丹吉が声を出した。

「服の方は明日でもお返しにあがります」

「いいよ。そのうちでいいよ。靴下を君は穿(は)かない習慣かね?」

「いいえ。昨夜まで穿いていたんです」

「だって靴ははいているじゃないか。盗られた訳はないだろう」

「ええ。ええ。ほんとに妙な泥棒です」

 背をかがめているせいか、丹吉の声はほんとに苦しそうに聞えた。そしてひょいと背を伸ばして立ちあがった。

「すみまぜんが、煙草をもう一本」頰がすこしあかくなって、うす笑いをしているようである。「この次、煙草の葉をもって参りますよ。うちの庭のすみに、近頃煙草が生えてきましてね」

「種子でも植えたの?」

「いいえ。吸殼からです」

 私があきれて黙っていると、丹吉は弁解するようにつけ足した。

「ええ。なにね、近頃の煙草は粗悪でしょう。だからなまの芽がのこっていたんですよ」

「ずいぶん大きくなったのかい」

「もう二尺ほどになりました」

 じゃその中に持ってきてくれ、と弑が言い、丹吉はお辞儀をして、朝の光のなかを煙草をふかしながら帰って行った。大きな靴をはいているくせに、足音を立てないような歩き方だ。ぶかぶかの上衣の裾が、風にゆれながら、門の外に消えるのを見とどけて、私は部屋にもどってきた。なんだかひどく眠く、だるい気がした。膳の上の、丹吉のつかった食器は、きれいに乾いていて、箸(はし)も乾いたままきちんと置かれてあった。それを見ると、妙に不快な感じがした。丹吉の歳は、いくつか知らない。おそらく二十七八だろう。ときどき何とはなくやってくる。万年筆のいい出物があるから買わないかと言ってきたり、秘密刊行の書物を安くゆずりたいなどと言ったりする。本気で言っているのかどうか、判らない。本職はどこかの撮影所につとめているというのだが、そこでどんな仕事をしているのか知らない。

 あのうぶ毛の密生した、なま白い肉体に、私の服がくっついていることを考えると、背中が痒(かゆ)くなるような感じがした。

 翌日もってくるという話だったが、姿をみせないで、一週間ほどもすぎた。あの古服が急に要るわけでもないのだが、すこし気になったから、丹吉のうちの近くに用事があったついでに、ちょっと寄ってみた。

 丹吉の家はマッチ箱みたいな四角な家で、せまい庭が申し訳のようについている。昼頃だったから、丹吉は留守で、その庭でトミエさんが洗濯をしていた。私の顔をみて、おどろいたような表情になって立ちあがった。石鹼にぬれた掌が、つやつやと美しかった。

「留守ですのよ。御用事?」

「いや。ちょっと通りかかったもんで」

 あの夜のことを丹吉がどう話しているか判らないから、私はすこし用心した。それから縁側に腰かかけて、しばらく話をした。トミエさんは以前にホールではたらいていたことがあって、そこで私も知り合ったのだが、丹吉と一緒になるについても、二三度相談をもちかけられたことがある。(へんな感じのひとだけれど、あたしと是非いっしょになりたいというのよ。どうしたらいいかしら)こんなことを私に言っているうちに、とうとう決心したと見えて、結婚してしまった。トミエさんはもともと思い切りがいい。単純な顔立ちであったけれども、今日見るトミエさんの顔は、なにかふしぎな翳(かげ)を帯びているようである。この一年間苦労したせいかも知れないと考えたから、そう聞いてみた。[やぶちゃん注:「ホール」は飲物や軽食も出すダンス・ホールであろう。]

「べつに苦労というほどでもないけれど、あの人はへんなのよ、すこし」

「しょっちゅう酒のむらしいね」

「ええ。酒も飲むわ」

 トミエさんは空をみて、まばゆいような眼付をした。私は煙草かふかしながら、洗濯盥(だらい)のむこうに生えている植物をながめていた。それは三尺ほどの高さの、葉のひろい植物であった。あれが煙草の葉であるものか、などと考えながら、じっと眼をそこにおとしていた。葉の形からいえぱ、それは確かに蓖麻(ひま)であった。私の視線に気づいたらしく、トミエさんはぽつんと言った。[やぶちゃん注:「蓖麻」キントラノオ目トウダイグサ科トウゴマ属トウゴマ Ricinus communis の異名。種子から得られる油は下剤の蓖麻子(ひまし)油として広く使われているが、種子には致死性の高い猛毒のタンパク質リシン (ricin)を含む。]

「あんなものに肥料をやったりして、せっせと丹精しているんですよ。どういうつもりでしょう」

「へんだというのは、そんなこと?」

「台所に鼠がでるからと言って、近所の岩崎さんから猫の仔をもらってきたんですよ。そしてその猫を、ひどくいじめるの。まるで楽しみにしてる位」

「嫉妬しているんじゃないかしら」

 ふと頭にうかんだままを、私は口にすべらせた。トミエさんはぎょっとしたように私を見て、そして眼を伏せた。

「――ええ。ひどく嫉妬ぶかいところもあるのよ。あの人は」

 声が急にしずんだように響いたので、私はあわてて言葉をついだ。

「でも、嫉妬は愛情の変形ですよ」

「そのくせあたしに、男をつくれと責めるんです」

「男をつくれ?」

「ええ。男をつくれって」

 顔をあげたトモエさんの額が、すこし薄赤くなっていた。私はその時、なぜかうぶ毛の沢山生えた丹吉の背筋を、ありありと思いうかべた。痛痒(いたがゆ)いような感じが、私の背中にもはしった。

「撮影所には毎日かよってる?」

「ええ、そうでしょう。毎日出てゆくから」

「丹吉君は、カメラマンだったかしら」

「いいえ。俳優だというの」とトミエさんは物憂げな口調でこたえた。「ねえ。丹吉とわかれて、またホールにもどろうかしら」

「なぜ?」

「だってあの人、すこし変なんですもの。いっしょに暮していても、いらいらするだけで、すこしも楽しくないのよ」

 廂(ひさし)のトタン板をばりばり踏んでゆく跫音(あしおと)がした。そして樋(とい)のところから、茶色の猫がまっさかさまに飛び降りた。私たちの方を見むきもしないで、庭をのろのろと横切り、蓖麻(ひま)の葉のしたにかくれた。

 丹吉といっしょになるとき、トミエさんが私に相談したその口調を、私は今想いだしていた。あの時も、私ははかばかしく相談にはのらなかったが、今も何とも言えなかった。トミエさんの顔をちらと眺めただけで、私はだまっていた。トミエさんの顔は、ひどく疲れたような表情をうかべて、いっぺんに五つ六つも歳とったような感じがした。それは何故か、かすかにいやらしい感じを私にあたえた。

 洋服のことはとうとう言わずじまいで、私は戻ってきた。おっかけるように丹吉からのハガキが来た。線の細い字体で、ハガキいっぱいに書かれていた。上衣をまだ返さない詫びと、暇があったら撮影所にあそびにきて呉れという文面であった。机の上にそれを置いてながめると、字のひとつひとつにも柔毛(にこげ)が生えているようで、すこし変な感じがしてきたから、私はそれを文箱の一番下にしまった。

 それから暫(しばら)く丹吉夫妻のことは忘れていた。そのうちに私は急に金が要ることがあって、いろいろ考えていると、その古服のことを想いだした。あれは兄貴からもらった服で、いい生地だったから、すこし古びているけれども、かなり良い値になるにちがいなかった。そう思いつくと、私は突然丹吉に腹がたってきた。あれから二箇月にもなるのに、戻しにきもしない。どうせ体に合わないのだから、あまり使用していないにきまっている。そう思って、手紙をかきかけたが、撮影所に行く方が早いと考えて、私はでかけた。

 撮影所などというものは、どんな処にあるのかと思ったら、畠のまんなかに建っていた。変てつもない薄ぎたない建物で、すすけたような衣服の男や女が、うろうろしていた。門番に通じて、しばらく待っていたら、丹吉がでてきた。私を見ると立ちどまって、丁寧(ていねい)にお辞儀をした。

「暫くです。ごぶさたしております。ええ」

 見ると、ズボンはちがっているが、上は私の上衣を着ている。袖口は内側に折って縫いつけてあるらしく、丁度(ちょうど)合っているが、裾はそのままなので、まるで法被(はっぴ)の形である。ぶわぶわ笑いながら近づくと、袖口をさしだして自慢するような口調で言った。

「うまく縫いこんでありますでしょう。私が針をもってやったんです」

 縫いこむのもいいけれど、早く戻して呉れないと困る、と私が言いかけたら、判っております、判っております、なにはともあれ、と言いながら、私を構内へみちびき入れた。仕方がないから丹吉の後について、丹吉の説明を聞きながら、セットなどを見て廻った。此の前とちがって、丹吉はおそろしくべらべらしゃべった。そして建物の間をいくつも通りぬけて、だだっぴろい食堂のようなところへ、私を連れて行った。一番すみっこに腰をおろして、珈琲とパンを食べた。パンを食べながら、丹吉はすこしくたびれた表情になっていた。しゃべりくたびれたんだろう。丹吉の円い肩に服がしっとりかぶさっていて、これが私の服かと思うと、すこし厭な気分がした。ぶよぶよした肩の厚さが、服の生地の上からも、まざまざと感じられた。ここでもぽつりぽつりと話を交した。丹吉は食べているパンを、ふと珍しそうに眺めたりしながら、近頃米の配給が少くなったことを、こぼしたりした。

「昨晩も今朝もスイトン。昼の弁当がパンでしょう。ところがね、先刻あなたがいらっしゃったというんで、門まで急ぐとき、くしやみが出ましてね。そのとたんに鼻の穴から、御飯粒がひとつ飛び出してきましたよ。どういうんでしょうね、これは」[やぶちゃん注:「スイ トン」「水団」と書く(「トン」は唐音)。小麦粉を水で捏(こ)ね、適当な大きさに千切って野菜などとともに味噌汁・すまし汁などに入れて煮た食物。]

「どういうんだろうね。スイトンでは、力が出ないだろう」

「粉もそろそろなくなってくるし、今晩から南瓜ですよ。近所に大坪さんという南瓜作りの名人がいましてね、この人から安く買ってくるんです」

 話がだんだん貧乏くさくなってくるので、洋服を返せなどとは言い出せなくなってしまった。物憂く相槌をうつ私の顔を、丹吉はぼってりした瞼の下から、いつものようにちらちらとぬすみ見た。それから食堂に入ってくる俳優を、指さして名前を教えながら、次々それらの噂話を聞かせて呉れた。

 「あの女優は、とても淫乱で、今年始めから男を三人もかえたそうですよ」

 それは私も名を知っている女優であった。それから、どの男優は女がいないと一日も眠れないとか、どの女優は化粧をおとすと眼に隈が黒く出ているとか、下着がいつも汚れているとか、そんな話ばかりをしゃべり出した。そうすると急に元気づいたらしく、食堂のなかを見廻す丹吉の表情は、まるで獲物をねらう動物のような、ふしぎないらだたしさが満ちてきて、ふと人間が変ったような気がした。

 耳たぶのうしろの部分がうすぐろく汚れていて、そこだけざらざらと毛ばだっているようであった。丹吉が首を廻すたびに、そこが変に眼についた。

 食堂を出て、鉄屑がちらばった雑草道を、門の方に戻りながら、私が聞いた。

「トミエさんは元気かね」

「ええ。おかみさんは元気ですよ。ときどきあなたの噂などしますよ」

「この間逢(あ)ったときは、なんだか元気がないようだったが」

「え。いつ逢ったんです?」丹吉はなにかまごついたような表情をして、ちらりと私の顔を見た。「そうだったかな。聞いていて、わたしが忘れたのかな」

「洋服を戻してもらいに行ったんだよ」

「ええ。ええ」と急に元気づいたような声になった。「あなたはダンスはあまりお上手じゃないそうですね。おかみさんが、そんなことを言っていましたよ」

「そう。うまい方じゃないな」

「右足を出すのか左足を出すのか、踊る最中に立ちどまって、かんがえるそうじゃありませんか。そんなこと、嘘(うそ)ですか」

 門まで来たから、丹吉は立ちどまって、何か口の中で言いながら、れいのやり方で深々とお辞儀をした。そして急に素気ない顔になって、跫音(あしおと)をたてないような歩き方で、砂利道をもどって行った。

 門を出て駅にあるきながら、自分がひどく疲れているのに私は気がついた。頭の入口まできて、直ぐ思い出せそうなことが、ついに思い出せない時のような、いらいらした感覚が私にのこっていた。丹吉はダンスはうまいだろうな、とそんなことをぼんやり考えながら、夕陽の道をあるいた。私の長い影が、畠のなかを踊るように動いた。それを横目で見ながら、どうもあの洋服は取り返せそうにもないな、とも思った。うまくだまされたような気もした。

 所用の金は、それから二三日奔走して調達した。雨が降ったり風が吹いたり、憂欝な天候が、しばらくつづいた。丹吉やトミエさんや洋服のことも、時々思い出した。丹吉のことはあの日食堂のなかで、他の俳優の悪口をしゃベっている印象が、まず記憶によみがえるらしかった。それは妙になまなましく、私の胸にのこっていた。耳たぶのうしろのよごれた色合いを思い出すとき、丹吉の黒い小さな眼球の動きが、なにか影をふくんだ記憶として、私にもどって来た。いっしょに暮しているといらいらする、と言ったトミエさんの言葉を、私はぼんやり思ったりした。そしてあの洋服一着が、丹吉と私を架(か)けわたす橋になっていることを思うと、その古服の色調や仕立や生地の手ざわりを、私はなにか遠いような感じで想い出した。そしてふしぎなことには、その感じは、この前トミエさんに逢ったときの、へんに老(ふ)けた顔の印象に、いきなり結びついていた。丹古が着ている古服を思い出す前に、私はトミエさんの顔や体のことをかんがえていたのかも知れなかった。――一年ほど前、私は毎日ホールに通って、トミエさんとおどっていた。その時の気持は、とつぜん断ち切れたように、私の記憶の中に死んでいたのだが。

 それから半月ほども経ったある大風の日、私は映画館を出て、ぼんやり夕方の街をあるいていた。ひろい道は塵(ちり)や埃(ほこり)をはらわれて、舐(な)めたようにしらじらと光っていた。その上を風がつぎつぎ走って行った。そして曲角からでてきた丹吉と、私はそこでひょっこり出逢った。丹吉は私の姿に気づかぬらしく、何時もの柔かく足を踏む歩調で、鋪道(ほどう)をあるいていた。あの私の上衣を着ているのだが、風をはらんで背中がふくれあがり、まるで戦国武士の母衣(ほろ)のようであった。そのたびに丹吉は、かろやかによろめく形であった。[やぶちゃん注:「母衣」は日本の武士の道具の一つで、本来は背後からの矢や石などから防御するための甲冑の補助具で、兜や鎧の背に巾広の絹布を附けて風で膨らませたもので、圧倒的に集団戦に移行した戦国時代後期には実用性が低下し、単に敵味方に自分の存在を示すための標識としての旗指物の一種となった。参照したウィキの「母衣」の画像をリンクさせておく。]

 私が声をかけたら、びっくりしたように振りむいた。そしてあわててお辞儀をした。

「どうしたんだね。ひどく暗い顔をしてあるいているが」

「どうもしませんよ」

 丹吉は私を見てから、風をはらむ上衣をしきりに気にするふうであった。左手にもった風呂敷づつみで、しきりに裾をおさえつけた。そしてちらりちらりと私を見ながら、

「洋服も、そして御本もまだお返しにあがりませんで」

 風を正面にうけるためか、丹吉は頰にりきんだような笑いを浮べていた。そしてここの近くに、行きっけの飲屋があるというので、しきりに私をさそいたがった。

「実はそこへゆく途中なんで」

「しかし、いいのかい。そんな金があったら、大坪さんから南瓜を買った方が、よくはないの」

「いいんです。ええ。いいんです。すこしお金が入ったんですから、お詫びのしるしに」

 そして裏道にある小さな店へ、私を連れて行った。私も酒はきらいではないのだから、のこのこついて行った。傾いたような安普請(ぶしん)の店で、花模様の壁紙が一面にすすけていた。変な女が三四人いて、ぼんやり腰かけていた。丹吉は店の中に一歩踏みこむと、急に元気がでたらしく、ひどく口数が多くなった。私たちは酒をのんだ。大風の吹く巷(ちまた)から、いきなり風のない部屋にきたので、皮膚の外がわにじんじん慄える感じがのこっていた。しかしそれも酒が廻ってくると、酔いといっしょになって、身内にしずんできた。丹吉は風呂敷を解いて、二三冊の本を私に見せた。

「ひとから頼まれたんですけれど、買いませんか」

「このデスマスク集は面白そうだな」

 写真版になったデスマスクが、頁にひとつずつ収まっていた。私はそれをぱらぱらめくりながら、

「くるしそうな顔で、死んでるのもいるな」

「あんたは大丈夫ですよ。ほんとに大丈夫ですよ。ほんとに。きっと安らかな死顔ですよ」

 酔いが幾分廻ったと見えて、丹吉は妙に力をいれて、言葉をくりかえした。

「だってあなたは幸福人ですよ」

「いつか僕が貸した本も、こんな風に、売っちまうんじゃないのかい」

「うそですよ。うそですよ」ぶよぶよとふくれた掌をふった。「あれ、読みましたよ。あれはいやらしい小説でしたよ。一晩眠れませんでしたよ。なんて言いましたかねえ。そら、あれさ、『猫いらず』」

「『水いらず』、だろう」[やぶちゃん注:「水いらず」はジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre 一九〇五年~一九八〇年)の一九三八年の作品(Intimité)。]

「そうです。そうです」と丹吉はあわてたようにうなずいた。「あれも近いうちにお返しにあがりますよ」

 丹吉が酔ったのを見るのは、今日がはじめてだが、身体がぐにゃぐにゃになっているくせに、眼はすこし大きくなって、赤い血管の走る白眼のなかを、小さな瞳が迅速に動いた。そして声がだんだん甲高くなって、いつもの丹吉の声とはまるで違ってきた。私も次第に酔ってきて、そこら中がちらちらするような気分になってきた。

「猫いらずだなんて、誰かを殺す気かい」

「冗談ですよ。いやだな。少し酔ってきましたね」

 そう言いながら、丹吉はがぶがぶ酒をのんだ。そして舌を鳴らした。私もつぎつぎ盃を乾しているうちに、窓の外には夜が蒼然と降りてきたらしい。ときどぎ門牌(もんぱい)にふきつける風の音がした。上衣にこだわっていた気持がどこかに融けてしまって、どうでもいいような気分になった。丹吉を前に据(す)えて飲んでいるのだけれども、なんだか遙かにヘだたって、別々に飲んでいるような気がした。[やぶちゃん注:「門牌」寺の門の前に立てて法会などの行なわれることを一般の人に知らせる高札や、その寺や宗派の主義・主張を表わす標語などを書いて門前に掲げる札を言うが、ここはただの飲み屋の看板のこと。]

 丹吉の顔はあかくなって、小さなホットケーキみたいに見えてきた。煙草がなくなったので、丹吉のシガレットケースから、一本抜いて火を点けた。酔った口の感覚にも、巻煙草の紙くさい味がした。

「これは手製だね。お宅の庭に生えたやつとはちがうだろうね」

「いいえ。あれはまだですよ。その中に差上げますよ」

「要らないよ。あれ吸うと、下痢をするよ」

「いやだな。変てこなことを言ってるよ。冗談がすきな先生だよ」丹吉は妙に中性的な身のこなしで、私の方に手を伸ばした。「思い立ったことを、くじくようなことを言うよ」

 うすく赤くなった手首が、上衣の袖口から出ていた。丹吉は甲高い声をたてて笑いだした。そしてちらっちらっと私をにらんだ。

「君は何にも信じていないんだろ?」

 ふと頭にうかんだままを、私は舌にのせていた。うまく呂律(ろれつ)が廻らない。丹吉が何か答えたようだが、それもはっきりしなかった。丹吉はますます陽気になって、立ち上って店の中をあるき廻った。姿が見えなくなったと思ったら、どの隙間から入ったのか、いつのまにかスタンド台のむこうに首を出していた。

「今晩は、わたしがバーテンをやりますよ。昔、やったことあるんだよ、一年ばかり。ヤエコもヨシコもツヤコも、今日はお客様だよ」

 女たちも笑ったりさわいだりしながら、丸椅子に乗った。丹吉は、へい、へい、と女たちの注文をとって、料理場に出たり入ったりして、サイダーを持ってきたり、ゆで卵を運んできたりした。女たちは笑いさざめきながら、それを食べた。

「旦那、なににいたしますか。おい。旦那」

 そんなことを言いながら、私のところにも寄ってきた。暑いのか上衣を脱いでいて、はだけた襯衣(シャツ)のあたりから、軟かそうな胸の一部が見えた。電燈の光の反射では、そこにも長いうぶ毛がちりちりと密生しているらしかった。

「なかなか堂に入ったもんじゃないか」私は掌でだるい顎(あご)をささえながら舌たるく言った。「これで料理が出来りゃ、女房なんぞ要らないだろう」

「女房? おかみさん?」丹吉も舌たるい調子でこたえた。「うちのおかみさんはだめですよ。交感神経がくるってら」

「別れっちまえよ」

「別れてやろうか」手を伸ばして女のゆで卵のかけらを、唇の間におしこみながら、「そしてあたしはヨシコさんと結婚するよ」

「いやよ」と女がわらった。「ぞっとするわ。あんた、この前酔っぱらって、身体が利かないんだって白状したじゃないの」

「嘘ばかり言ってら」丹吉の眼球は急にちらちら動いた。それは光線の具合か、へんに残忍な感じのする乾いた眼付であった。そして酒を湯呑みについで、ぐっとあおった。

 それからまた沢山飲んで、あやめもわからなくなってしまった。丹吉の甲高い声と、女たちの笑い声が耳のそばで渦まいて、気がついたら、看板まぎわになっていた。勘定になったら、丹吉はすこししか持っていないので、残りは私がはらった。女たちに送られて外に出ると、風は相変らず吹いていて、足を動かさなくとも、自然に前にすすむような気がした。

 丹吉は郊外電車の終電に間に合いそうにもないとあわてながら、風のなかで、私にふかぶかとお辞儀をした。

「どうも御免ください。二三日うちにかならずお伺いします。へえ」

 急に正気になったような声をだして、そう言ったと思うと、風の巷(ちまた)を、背をすこし曲げて、駅の方に一目散に走って行った。上衣が風にふくれあがって、まるで大きな猫が走ってゆくようだった。月の光がおちている白っぽい舗装路を、稲妻のようにその後姿は駈けて行った。

 翌朝は、あまりいい酒ではなかったと見えて、私は二日酔いで大いに難渋した。

 それから十日も経つけれども、丹吉はまだやってこない。どうにかしてあの服を取りかえしたいと思うが、丹吉のあのぶよぶよした身体付きを思いだすと、なにかやり切れない気持におそわれるから、つい取りに行かないでいる。

 

梅崎春生 猫と蟻と犬

[やぶちゃん注:昭和二九(一九五四)年九月号『小説新潮』初出で、翌年の昭和三〇(一九五五)年九月河出書房刊の作品集「紫陽花」に収録された。梅崎春生三十九歳。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第四巻を用いた。

 頭に出る「ジェローム・K・ジェロームの『ボートの中の三人』」はイギリスの作家ジェローム・クラプカ・ジェローム(Jerome Klapka Jerome 一八五九年~一九二七年)はユーモア旅行小説で原題は“Three Men in a Boat, To Say Nothing of the Dog!”(「ボートの中の三人の男――犬は数に含めず!――」)である。ウィキの「ボートの中の三人」によれば、『イングランド南西部のキングストン・アポン・テムズ区からオックスフォードまでのボートでのテムズ川の旅が記されて』おり、当初は、『ユーモア小説ではなく歴史的、地理的な展望書として構想されていた』。三名の『登場人物は、作者のジェローム自身と』二『人の友人がモデルで』、一人は後にバークレイズ銀行の取締役となったとあり、三人の『旅の供になる犬の存在は創作である』とある。また、ウィキの「ジェローム・K・ジェローム」や同英文ウィキによれば、若くして父母を亡くし、鉄道会社に『雇われ、初めは線路沿いに落ちた石炭の回収をした』が、後には『ハロルド・クリッチトン (Harold Crichton) の芸名で役者』となり、とある移動劇団に加わったが、鳴かず飛ばずで、二十一歳の時に『舞台生活に見切りを付け』、『ジャーナリストになろうとして随筆や風刺文や短編小説を書いたが、大半は不採用だった』。その後、『教師、梱包業者、事務弁護士の秘書』を経て、一八八五年の“On the Stage - and Off(「舞台で――舞台を降りて」)で成功し、『このユーモラスな本が刊行された事は、さらなる戯曲や随筆への道を開いた』。続いて一八八六年には演劇集団での経験をユーモラスに回顧した随筆集“Idle Thoughts of an Idle Fellow”(「怠惰な仲間の怠惰な雑念」)を出した。一八八八年六月に結婚、新婚旅行はテムズ川を小さなボートで下り、帰る早々、この「ボートの三人の男」を執筆、『すぐに大当たりし』、『現在にいたるまで刊行され続けている。その人気たるや、テムズ川の(公式に登録された)ボート数が出版から一年で』五〇%も『増加したほどであ』った。『テムズ川への観光客の誘致にも大きく寄与し』、初版発行から二十年間の『うちに、全世界で百万部以上が販売され』、『映画、テレビ、ラジオ、舞台劇、そしてミュージカルにもなった。その文体は、(イングランドに限らず各所で)多くのユーモア作家や風刺作家に影響を与えた』。同作が今も読まれ続けている『理由は、そのスタイルと、時代・場所の変化に影響されない関係性をうまく選択したことにあると言えるだろう』。『本の売り上げがもたらした経済的な安定によって、ジェロームは全ての時間を執筆に費やすことが』出来るようになったが、その後に書いた『いくつかの戯曲、随筆、小説』は、「ボートの三人の男」の『成功を再現することは決してなかった』。後、雑誌編集者などを務めた。一八九八年にはドイツへの短い滞在を元に“Three Men on the Bummel”(「ドイツ『ブラリ散歩』の三人の男」)という「ボートの三人の男」の続編を書き、『同じ登場人物たちを外国での自転車旅行に再導入してはみたものの、この本は前作のような生命力と歴史への深い洞察を発揮することができ』ず、『穏やかな成功を見たに過ぎなかった』。その後に書いた戯曲や自伝的小説も成功せず、第一次世界大戦では志願兵となろうとするも既に五十六歳で『あったので、イギリス陸軍に拒否され』てしまい、『それでも何かがしたかった彼は、フランス陸軍の救急車運転手に志願した。戦争体験は、義娘のエルシーの死』などともに『彼の精神を滅入らせたと言われる』。一九二七年六月、ロンドンへの『自動車旅行中』に『麻痺的な発作と脳出血に襲われ』、二週間、『病院で寝たきりの状態』のまま亡くなった、とある。私は未読であるが、「Project Gutenberg」のこちらで原文が全文読める。幸いにして梅崎春生が紹介しているシークエンスは「CHAPTER I.」のまさに冒頭にあることが判る。最初に本を読んでいる場所はこれまた仰々しくも“the British Museum”(大英博物館)である。我々にも普通にしばしば起る軽い関係妄想に拠る強迫神経症的症状と言える。

 同じく重要なバイプレイヤーとして登場する「秋山画伯」は「立軌会」同人の画家秋野卓美(大正一一(一九二二)年~平成一三(二〇〇一)年)がモデルである。元「自由美術協会」会員で、梅崎春生より七つ年下である。「カロ三代」「犬のお年玉」、エッセイ「二塁の曲り角で」にも登場する(リンク先は総て私の電子テクスト)が、どれも、ここに出るようにちょっとエキセントリックな人物に造形されてある。梅崎春生は、彼とかなり親しかったようである。

 文中にも簡単な注を挿入した。

 本篇はツイッターのフォロワーが電子化を希望されたので、それに応えるために電子化したものである。【二〇二〇年六月二十三日 藪野直史】]

 

   猫と蟻と犬

 

 どうも近頃身体がだるい。なんとなくだるい。身休の節節が痛んだりする。身体だけでなく、気分もうっとうしい。季節のせいかも知れないとも思う。仕事のために机の前に坐ろうとすると、膝や尾底骨あたりの神経が突然チクチクと痛み出してくる。だから余儀なく机を離れると、痛みは去る。そんなふしぎな神経障害がある。仕事をするなというのだろう。

 ジェローム・K・ジェロームの『ボートの中の三人』という小説がある。その中で主人公がある日、医書か何かを読んでいると、あらゆる病気が自分にとりついているのを発見する件(くだ)りがある。私の場合も、新聞雑誌などで売薬の広告を見るたびに、その大半が私の症状にぴったり適していることを発見してギョツとするのである。あまたの売薬が私から買われるのを待ちこがれている如きだ。

 と言って、あらゆる売薬を買い込む資力は私にはないし、そこで一切の広告には眼をつぶることにして、胃が痛ければセンブリ、腸が悪ければゲンノショーコ、そんな具合にもっぱら漢方薬にたよっているが、漢方薬は効能が緩慢なせいか、まだはっきりした効果はあらわれないようだ。しかしこれらの漢方薬のにおいを私は近頃好きになってきた。あのにおいは私をしっとりと落着かせ、かつ心情を古風にさせる。私小説でも書きたいな、という気分を起させる。今書きつつあるこの文章も、漢方薬のにおいの影響が充分にあるようだ。[やぶちゃん注:「センブリ」双子葉植物綱リンドウ目リンドウ科センブリ属センブリ Swertia japonica 当該ウィキによれば、『ゲンノショウコ、ドクダミと共に日本の三大民間薬の一つとされていて』、『昔から苦味胃腸薬として使われてきた、最も身近な民間薬の一つである』とあり、また、『和名』『の由来は、全草が非常に苦く、植物体を煎じて「千回振出してもまだ苦い」ということから、「千度振り出し」が略されて名付けられたとされている』。『その由来の通り』、『非常に苦味が強く、最も苦い生薬(ハーブ)といわれる』。『別名は、トウヤク(当薬)、イシャダオシ(医者倒し)ともよばれる』。『別名の当薬(とうやく)は、試しに味見をした人が「当(まさ)に薬である」と言ったという伝説から生まれたとされる』とあった。私は飲んだことがないが、小学生中学年から知識としては、よく知っている。所謂、植物の学習漫画の中に、それが出てきたからである。]

 そんなある日、年少の友人の秋山画伯が訪ねて来た。そして私の顔を見ていきなり言った。

「顔色があまり良くないじゃありませんか」

「うん。どうも身体がだるいんだ」

 そこで私は私の症状をくわしく説明した。その間秋山君は黙ってじろじろと私の顔を観察していた。

「漢方薬なんかじゃ全然ダメです!」私が説明し終ると、秋山君は断乎として宣言した。「あんた近頃雨に濡れたことがあるでしょう」

「うん。そう言えば一箇月ばかり前、新宿で俄(にわ)か雨にあって、濡れ鼠になったことがあるよ」

「そうでしょう。きっとそうだと思った」秋山君は腹立たしげに指をパチリと鳴らした。「新宿なんかで濡れ鼠になるなんて、そんなバカな話がありますか。そんな時にはパチンコ屋に入るんですよ。そうすれば雨に濡れずにすむし、暇はつぶせるし、それに煙草が沢山稼げるし――」

「うん。でも僕はパチンコにあまり趣味を持たないもんだから」

 秋山君は大へんなパチンコ好きで、そしてこの私をもパチンコ党に引き込もうとの魂胆で、ある日一台の古パチンコ台を私の家にえっさえっさとかつぎ込んできた。店仕舞のパチンコ屋から三百八十円で買って来たものだと言う。同好者を殖やそうというところは、パチンコもヒロポンに似ているようだ。私はそのパチンコ台を縁側に置き、一週間ばかり毎日ガチャンコガチャンコとやってみたが、一向に面白くない。秋山君の期待に反して、むしろパチンコに嫌悪を感じるようになったほどである。パチンコ屋に入るくらいなら、まだしも雨に濡れて歩く方がいい。第一あのパチンコ屋の地獄のような騒がしさは、頭が痛くなる。私はおそるおそる言った。

「やっぱりあの時の雨に濡れて、潜在性の風邪でもひいたのかな」

「そうじゃありませんよ。そんな暢気(のんき)なことを言ってる」秋山君はあわれみの表情で私を見た。「放射能ですよ」

「放射能?」

「ええ、そうですよ。ビキニの灰ですよ。ビキニの灰が雨に含まれて、それがあんたの身体にしみこんだんですよ」[やぶちゃん注:一九五四年三月一日、当時アメリカの信託統治領であったビキニ環礁でのアメリカ軍によって行われた水爆実験「キャッスル作戦」(Operation Castle)の一つブラボー実験(Castle Bravo)を指す。当時の和歌山県東牟婁郡古座町(現在の串本町)のカツオ漁船第五福龍丸はアメリカが設定した危険水域外で操業していたにも拘わらず、多量の放射性降下物(「死の灰」)を浴び、無線長だった久保山愛吉氏は約半年後の本篇初出と同じ九月の二十三日に満四十歳で亡なった。]

「本当かい、それは」

 私は少々狼狽を感じてそう言った。

「本当ですとも。近頃の病院に行ってごらんなさい。白血球減少の患者がぞろぞろやって来ますから。今どきの雨に平然と濡れて歩くなんて、よっぽど世間知らずだなあ。僕の家でも旅射能雨が漏ってくると大変だから、屋根をすっかり修繕したくらいですよ」

 秋山君の家というのは、彼が三年ほど前買い込んだ古家で、見るからに雨が漏りそうな家だ。この家はまことに変った家で、金を出して買い取ったとは言うものの、まだ所有者は秋山君の名義になっていない。杉本という人の名義になっている。その杉本某はどうしているか。数年前に詐欺か何かをはたらき、そのまま逃走、目下どこにいるかさっぱり判らない。その間に第三国人が介入していたりして、金を出したのは秋山君だが、その家は秋山君の所有とはきっぱり断じ切れないという大変入りくんだ関係になっている。このことは別に小説に書いたから、ここでは省略するけれど、要するにこうなったのも秋山君が世間知らずであったからだ。その世間知らずの秋山君から、世間知らずだなあ、と嘆息されて、私は心中ますます狼狽を感じた。しかし表面だけはさり気なく、

「でも、僕が雨に濡れたのは、その日だけだよ。それで僕が放射能にあてられたとすれば、毎日のように濡れている人、たとえば郵便配達人やソバ屋の出前持ちなんか、もっとひどくやられそうなもんじゃないかね」

「そう思うのが素人(しろうと)のあさましさです」と秋山君は自信ありげに断定した。「あんたは放射能と白血球の関係について、何も知らんようですな。白血球というやつはどこで製造されるか。これは肝臓で製造される。いいですか」[やぶちゃん注:一般的には正しくない。赤血球・白血球・血小板などの血球を造血しているのは通常は骨髄である。但し、再生不良性貧血や白血病などによって骨髄の造血能力が低下した場合、肝臓や脾臓で代償的に造血が行われる。これは髄外造血と呼ぶ。]

 したがって肝臓の弱い者は、ちょっとした放射能にもすぐに影響されて、その機能を弱められ、白血球の生産高ががた落ちとなる。というのが秋山君の論理であって、どうもいささかあやふやだと思ったが、念の為にも一度訊ねてみた。

「しかし君は、僕の肝臓は弱っているという仮定の上に立って、論議をすすめているようだが――」

「仮定じゃありませんよ。事実ですよ」と秋山君は私をにらみつけるようにした。「あんなに毎晩酒を飲んで、肝臓が正常であるわけがないじゃありませんか。そういうのを心臓が強いというのです」

 肝臓が弱くて心臓が強けりゃ世話はない。

「それじゃあ訊(たず)ねるけれども、肝臓というのはどこにあるんだね?」

 すると今度は秋山君がやや狼狽の色を見せて、両掌で自分の身休をぐるぐると撫で回すような仕草をした。まるで肝臓のありかを探し求めるような具合にだ。きっと肝臓の正確な位置を知らなかったに違いない。だから私は追い打ちをかけるように言葉をついだ。

「それに雨に濡れるのは人間だけじゃない。牛馬は言うに及ばず、鳥や虫なども濡れっぱなしだろう。それなのにピンピン生きてるのは変な話じゃないか」

「動物だって弱ったり死んだりしてますよ」秋山君は元気をとり戻した。「あんたもちゃんと調べたわけじゃないでしょう。大弱りしていますよ。現にカロだって、近頃めっきり元気がなくなったです」

「え。カロが?」

 

 カロというのは私の家の歴代の猫の名で、三代目までつづいて若死にしたものだから、もう飼うのはよそうと思っていたところ、秋山君がその系譜の断絶を惜しみ、わざわざ自分の家の仔猫をバスケットに入れ、私の家にかつぎ込んできた。すなわち四代目カロというわけである。パチンコ台だの仔猫だの、よく色んなものをかつぎ込みたがる男だ。

 私の家に来て以来、カロはめきめきと大きくなった。憎たらしいほど肥ってきた。

 秋山君の話では、このカロの母親は素姓正しい猫で、それ故カロにも充分にシツケがほどこしてあるとのことだったが、どうもそうとは思えない。毛並みは黒ブチで、器量もそれほど優秀ではなかった。性格は歴代のカロのうちで一番ひねくれていて、子供の手をひっかいたり噛みついたりする。子供の方では遊ぶつもりで抱いたりかかえたりするのだが、その手をカロがひっかき嚙みつく。協調の精神というものが全然無いのだ。そしてひっかきの効果を絶大ならしめるためか、毎日縁側や戸袋に爪を立てて磨(みが)いている。だからうちの子供の顔や手足には爪あとの絶えたためしがなかった。

 そんなに爪を磨(みが)いて、それなら鼠(ねずみ)をとるかと言うと、これは全然とらない。鼠がそこらでごとごと音を立てても、聞き耳を立てることすらしない、どうも鼠をとることが我が家に利益をあたえる、そのことを知っていて、わざと鼠をとらないのではないかと思われる節(ふし)がある。ではどういうものをとるかと言うと、トカゲ、蛾(が)、モグラなど。そんなものをとったって、うちでは一向に有難くない。迷惑するばかりである。モグラなんか地中にもぐっているからこそモグラと言うのだろうが、それをどういう方法でつかまえるのか、ちゃんとくわえてのそのそと縁側に上ってくる。モグラの死骸は実に醜怪な感じがするものであるから、私を始め家人一同悲鳴を上げて逃げ回る。逃げ回る私たちをカロは快心の微笑をうかべながら追っかけるのだ。こうなるともうどちらが主人か判らない。我が家に在任中にカロはモグラを五匹ほどとった。

 そしてカロは、良く言えば野心的、悪く言えばバカなうぬぼれ猫で、庭に降り立つ雀(すずめ)をねらうのだ。植込みのかげにかくれていて、雀がやって来るとパッと飛びつくのだが、さすがに雀の飛び立つ方が早くて、一度もつかまえたためしがない。雀には羽根があるが、カロには羽根がない。飛び立った雀を追って、カロは手あたり次第の庭樹のてっぺんまでガリガリとかけのぼる。これでカロは雀を空中まで追っかけたつもりなのである。たいていの猫なら、四五度そんなことをやったら諦(あきら)めるものだが、カロは諦めない。性こりもなく雀をねらって植込みのかげにひそんでいる。なんという愚か猫であろうと思うのだが、この私にしても宝くじが発売されるたびに、今度こそは二百万円ぐらい当ててやろうとセッセと買い込んでいるから、あまりカロを笑えた義理でもない。万一雀をつかまえたら、私はそれを取り上げて焼鳥にしてやろうと空想していたが、とうとうカロは一羽もとらず仕舞いであった。

 カロの罪状のうちで最大のものは、火鉢の中に大便を排泄(はいせつ)することであった。これには家中が大迷惑した。砂を入れた木箱が台所の土間においてあるにもかかわらず、カロは火鉢に排泄する。もちろん火鉢に炭火が入っている時は、排泄しない。排泄しようとすれば火傷(やけど)するからである。空火鉢の中の排泄物は灰にくるまっているから、うっかりするとわからない。そこでそのまま炭火を入れたりするとたいへんだ。炭火で熱せられた猫の糞がどんなにおいを発するか、これは経験者でないと判らないだろう。あのにおいは確かに人間に極端な厭世観をうえつけるようだ。まさしく絶望的なにおいである。それが家の中だけでなく、戸外にまでただよう。ある時このにおいをかいで、我が家の庭で仕事していた植木屋さんが、脚立(きゃたつ)からすってんころりんと落っこちて足首をネンザした。

 だから火鉢に火がない時は、折畳み式の碁盤をひろげて蓋(ふた)をするようにしたが、時にはそれを忘れることもある。忘れたらもう最後で、その忘れの瞬間をカロは耽々(たんたん)とねらっている。よほどカロの尻は灰に執着しているらしい。さらに悪いことには、やがてカロは火鉢から折畳み碁盤を引きずり落す方法を習得してしまったのだ。引き落されないためにオモシが必要となってきたわけだ。カロは肥っていて力もあるから、『小説新潮』[やぶちゃん注:本篇の初出誌である。]を五冊や六冊乗っけても、もろともに引きずり落してしまう。ついに思い余って家族会議を開き、カロを捨てることに衆議一決した。

 そしてある夜、私はカロを風呂敷につつんで、うちから一町ほど離れた神社の境内に捨てに行った。もちろんカロは相当の抵抗をこころみ、風呂敷のすきまから前脚を出して、私の手の甲をひっかき出血せしめたが、私はそれに屈せず境内にたどりつき、カロを遺棄して一目散に走って帰ってきた。早速手の傷を手当して、ささやかな祝杯を上げた。そこまではよかったけれども、翌朝起きて見ると、縁側の一隅にカロが平然とうずくまり、しきりに爪をといでいたのである。私は半分がっかり、半分怒りがめらめらと燃え上った。

「おい、カロが戻っているよ」と私はどなった。「よし。今晩は絶対に戻って来れないところに捨ててきてやる」

 その夜の私のいきごみは大へんなものであった。先ず荒れ狂うカロを風呂敷に包みこみ、さらにそれを買物籠の中に入れ、夜の八時頃我が家を出発、約一時間近くぶら下げて歩いた。カロの帰巣感覚を狂わせるためにあっちへ曲ったりこちらに折れたりしたので、直線距離にすればそれほどのことはなかったかも知れない。とにかく静かな住宅地帯に来たから、私はとある一軒の住宅の塀ごしに、買物籠もろともエイヤッと投げ、また一目散に走ったまではよかったが、あんまり紆余曲折(うよきょくせつ)したために私の帰巣感覚まで狂ってしまって、とうとう私自身が道に迷ってしまった。行人や交番に道を聞き聞き、やっと家にたどりついたのは、もう十一時過ぎである。家中のものが心配して、起きて私を待っていた。

「もう大丈夫だ」と私は皆に説明した。「途方もなく遠いところの人の家の庭にほうりこんで来たから、もう戻ってくる気遣いはない」

「買物籠と風呂敷は?」

「そんなの一緒くたにほうり込んでやったよ」

「そりゃ困る。あの風呂敷にはうちの名が入ってるのよ」

「あ、そうか」

 と私は自分の手違いに気がついたが、もうやってしまった以上は仕方がない。そこでそれはそれとして、またその夜も祝杯をあげた。どうも嬉しいにつけ悲しいにつけ酒ということになる傾きがある。

 ところがこの度も、翌々日の昼頃カロは舞い戻ってきた。庭の生垣をくぐって、矢のように縁側に飛び上ってきた。見ると尻尾をいつもの三倍ぐらいにふくらませている。猫という動物は恐怖におそわれると、尻尾をふくらませる習性があるのだ。帰り着くまでにさまざまの恐怖や苦難に遭遇したにちがいない。

「また戻ってきやがったよ」と私は嘆息した。「もうこうなったら仕方がない。カロを捨てるより、火鉢を片づけることにしましょう。その方がかんたんだ」

 そろそろ火鉢も不要な季節になっていたから、押入れの中に奥深くしまいこんだ。カロは二三日火鉢を求めてあちこち探し歩いているようだったが、たかがネコ智慧だから押入れの奥とは気がつかなかったらしい。まもなく諦めたようである。

 しかしカロを継続して飼おうと翻意(ほんい)したのも束の間で、それから一週間ほど経(た)ったある日、カロがまた事件をひきおこした。よその鶏におそいかかって、これを負傷せしめたのである。

 

 その鶏は近所のどこで飼っているのかつまびらかにしないが、維大な雄鶏であって、身の丈も二尺はゆうにある。散歩を趣味とするらしく、私の庭にも時々やってくる。私の庭をあちこち傲然(ごうぜん)と歩き回って、しきりに何かを食べているから、一体何を食っているのだろうと眺めてみると、蟻(あり)を食っている。蟻を食う鶏なんか始めて見た。蟻は蟻酸と言って酸性であるらしいから、それを食べるところを見ると、きっと胃酸欠乏症か何かにかかっているのだろう。[やぶちゃん注:ニワトリはアリを普通に食べる。烏骨鶏が捕食している動画を確認出来た。]

 しかし無闇に蟻を食われては私もすこし困るのだ。

 私の庭には蟻が沢山いて、種類も四種類、それぞれの場所に巣をつくっている。花壇をかこむ石の下に住んでいるのが大型の蟻、ボタンの木の下に中型の蟻、門柱のところに小型の蟻、それから肉眼で見えないような超小型の赤蟻が縁の下あたりに住んでいる。この超小型には私は興味がない。あまり小さ過ぎるから、興味を持ちようがないのだ。あとの三種類の生態にはそれぞれ興味がある。生態そのものより、それをかまうことに興味がある。

 蟻の巣というものは複雑な構造を持っているようで、大中小そのどれでもいいが、穴のひとつにストローをさしこみ、煙草の煙をふうっと吹き入れると、他の穴のすべて、飛んでもない遠くの小さな横穴からも、モヤモヤと煙が立ちのぼる。上野駅の地下道よりも復雑な構造を持っているらしいのだ。蟻というやつは水は嫌うようだが、煙草の煙には割に平気である。

 しかし蟻の穴にジョウゴを立てて水を流し入れる遊び、これは全然面白くない。バケツ一杯の水を使ってもあふれることはなく、平然と吸い込むだけだからだ。内部では蟻や卵や食物が水びたしとなり、大あわてしているだろうが、それが目で見えないから面白くない。

 砂場の砂をフルイでこして、細かい砂だけをえらび、それを穴に流し入れるのは、これは面白い。穴が大きくてもすぐにいっぱいになるのもあるし、小さくてもいくらでも砂が入るのがある。これをやると蟻たちは大あわてして、表に出ているやつは右往左往して復旧工事にとりかかる。内部のもそうだろう。そしてものの二時間も経たぬ間に、砂はすっかり処分されて、元の穴の形になっている。実際蟻の勤勉ぶりには驚く。中にはあまり勤勉でないやつもいるけれども。[やぶちゃん注:鋭い観察である。ごく近年、アリやハチの働きアリの中に仕事をしている振りをして、怠けている個体が有意に認められることが研究者によって報告されているのである。]

 ボタンの下の中型の蟻の巣にむかって、私は砂を詰め、復旧されると見るや直ちに砂を詰め、二日にわたって十数回砂攻撃を試みたことがある。するとさすがに蟻たちもつくづく考えたと見え、縦穴式のやつを全部横穴式に変えてしまった。横穴式のやつは砂を入れても入口にたまるだけで、奥には入って行かないのだ。

 とにかく蟻というやつは、退屈してるのか必要に迫られているのか、しょっちゅう巣の整備をやっている。新規に穴をあけたり、またつぶしてみたり、営々と働いている。こういう労働の現場、すなわち穴の近くに、砂糖をひとつまみ置いてやる。そうするとたちまち蟻の個々の性格があらわれてくる。

 第一の型は砂糖があると知っていながら、仝然見向きもせずせっせと働くやつ。

 第二は労働を全然放棄して砂糖に頭をつっこんでなめるやつ。

 第三はその中間のやつで、ちょっと砂糖をなめては働くやつ。

 以上の三つの型がある。この間も砂糖をやって眺めていたら、穴の中からひときわ頭の大きい蟻が一匹這(は)い出して来て、おどろいたことには、砂糖に頭をつっこんでいる連中に飛びかかり、ひとつひとつ嚙み殺してしまった。私は蟻の生態について学問的には何も知らないけれども、見た限りでは、この蟻は憲兵的役割を持っているらしかった。こんなのがいては蟻の世界もあまり住みよくなさそうである。

 大、中、小の蟻たちは我が庭において、大休繩張りをさだめて闘争はしないようであるが、これを人工的に喧嘩させることは出来る。たとえば花壇の石をめくり、その下にたむろしている大蟻たち(羽根をもったやつもいる)をすばやくシャベルですくい上げ、大急ぎでボタンの木の下に運ぶ。中型蟻の穴の近くにおくと、大蟻たちは突然の環境の変化に大狼狽、右往左往して中蟻の穴の中に這い込むやつもいる。すると中蟻たちは敵が来襲してきたとかん違いして、そこで猛烈なとっくみ合いや嚙み合いが始まるのだ。ふつうの考えからすると、大型のが強そうだが、なにしろ大蟻は狼狽しているし、ホームグラウンドではないし、それに中蟻の方は無数に穴からくり出して来る。大蟻一匹に対して中蟻は三匹も四匹もかかるから大へんである。またたく間に敵味方の死屍ルイルイということになり、逃げる奴は逃げ、そして事は落着する。羽根をもったやつは戦闘力は全然持たない。そこらをウロチョロした揚句に嚙み殺されるか、あるいはブーンと飛び立ってどこかに逃げてしまう。私は蟻の羽根はあれは飾りだとばかり思っていたが、実際に飛ぶ。かなりの飛翔力を持っているようだ。

 この人工的喧嘩は、大を中に、中蟻を門前の小蟻にはこんだ場合には成立するが、逆の場合はあまり成立しにくいのだ。たとえば中蟻を大蟻の穴にはこぶと、中蟻はもう動顚(どうてん)して、戦わずして四散して逃げてしまう。万一大蟻の穴に這い込もうとしても、番兵蟻に一コロで殺されてしまう。とても喧嘩にはならない。

 私の見た限りでは、我が家の蟻で一番封建的なのは大型蟻である。封建的と言っても見た感じだけなのだが、一例をあげると大型蟻は必ず穴の入口に番兵を置いている。巣の表玄関とでも言うべき大きな穴には常時五匹ぐらい、あとは穴の大きさに応じて三匹とか一匹とか、それぞれの員数を配置している。中型蟻と小型蟻は、時々番兵らしきものを見かけるが、常任番兵はいないようだ。大型にくらべて若干民主的な感じがする。民主的と言っても憲兵みたいなのがいるわけだから、比較しての話だ。

 蟻についてはまだまだ書くことがあるけれども、はてしがないから止めにする。とにかくこの愛すべき蟻たちを、近所の雄鶏がつつきに来る。うちの子供たちはこの雄鶏にオートバイというあだ名をつけた。ふつうの鶏を自転車だとすると、これはオートバイぐらいに堂々としているからである。このオートバイにむかって、ある日カロが飛びかかった。

 オートバイはよそもののくせに、我が家の庭を横柄に我がもの顔で闊歩(かっぽ)する、そのことをカロはかねてから面白く思っていなかったらしい。それを今まで放っておいたのは、オートバイがあまりにも堂々としているし、また油断やすきが見出せなかったのだろう。その日はオートバイはすこし油断をしていた。あたりを見回してもカロの姿は見えなかったからである。見えぬも道理、カロは柿の木の上にのぼっていた。だからオートバイは安心して蟻をつつき散らしていた。

 そのオートバイめがけて、カロは柿の木を逆落しにかけ降りて、背後から飛びかかったのだ。けたたましい鳴声やうなり声が交錯して、羽毛が飛び散り、脚がすばやく動き、そしてオートバイが戦闘体制をとり戻した時は、もうカロは縁の上にサッとかけのぼっていた。すばやく一撃をあたえて、サッと反転したわけである。オートバイはあちこち爪を立てられ、脚も負傷したらしく、びっこを引きながら生垣をくぐって退却して行った。

 庭に散らばった羽毛は、子供たちがよろこんで拾い集め、帽子のかざりにした。

 私は秋山君に手紙を書いた。カロの今までの罪状と、ついにその被害は家の中だけでなく、近所の鶏にも及んだこと。この度は鶏の負傷だけですんだが、もし将来嚙み殺すような事態が起きれば損害賠償ということにもなりかねない。そうすれば困るのは私である。そこで申し憎いことだがカロをお返ししたいと思うが、都合は如何、ということを問い合わせてやった。前に二度捨てに行ったことは、秋山君に悪いから伏せて置いた。

 秋山君はそれから三日目に訪ねて来て呉れた。もう即座に引取る気で、古バスケットをぶら下げている。私を見てすぐに言った。

「カロがそんな悪事を仕出かしましたか」

「そうなんだよ。これもひとえに僕の不徳のいたすところかも知れないが」

「そうでしょうな。もともと素姓の正しい猫なんだから」

秋山君は憮然たる表情をした。「じゃ、とにかく引取りましょう」

 そこで私は秋山君を招じ上げ、そえもののカツオブシがわりと言うわけではないが、一席の宴を張って秋山君を歓待した。宴果てて秋山君はカロをバスケットに押し込み、タクシーに乗って帰って行った。儀礼上タクシー代は私が受持った。秋山君の家は私の家と十キロ以上離れているし、しかも夜のタクシーだから、カロの帰巣感覚も相当に狂ったらしい。作戦が図に当ったわけだ。

 以下は秋山君が話して呉れたのだが、その夜タクシーを降りて家につき、バスケットを開いたところ、カロは矢庭に外に飛び出して、秋山君の家の周囲をぐるぐると七八回回ったという。この新しい家の形や大きさ、そんなものをはかると同時に、方向感覚を調整するためだったらしい。秋山夫妻が黙ってそれを見ていると、カロは闇をにらんでしきりに小首をかたむけていたが、やがて思い決したように西南の方角めがけて走り出し、またたく間にその姿は闇に没してしまった。私の家は秋山家から大体西南方に当るのである。

 しかしカロはついに私の家には姿をあらわさなかった。一週間目に再び秋山家に戻って来た。行けども行けども私の家が見当らないものだから、諦(あきら)めて秋山家に戻ることにしたらしい。げっそりと瘦せて、折からの雨に濡れ鼠になっていたそうである。秋山君は早速縁側に上げて、タオルで全身をふいてやり、ミルクを飲ませてやると、やっと人心地(?)がついてニャアと啼(な)いた。すなわちこれで秋山家に飼われたいと意志表示をしたのである。

 ところが秋山家にはもう一匹猫がいる。マリと言って雌猫で、カロの母親にあたるのだ。カロとちがって大へん小柄で、こんな小柄な猫からカロみたいな大猫がよく生れたと思われるほどだ。カロは生後直ぐ我が家に来たのだから、マリを自分の母親とは知らないらしい。またマリの方も、カロを伜とは思っていないようだ。猫なんてまことに薄情な動物だから、そんなものだろう。

 で、秋山家は猫が二匹になった。二匹になったからには、食事も二倍要る。それをどういう具合にして与えるかというと、大きな皿に二匹分一緒に盛って台所に置いてやると、先にマリの方が食べ始める。カロはすこし離れたところに坐って、マリが食べ終るのをじっと待っている。マリが食べたいだけ食べて皿を離れると、その残りをカロがいただくということになる。カロが先に食べるということは絶対にない。休力はカロの方が強そうだが、マリにひたすら遠慮しているのだ。食う量もマリが皿の三分の二ほども食べてしまうから、カロは残る三分の一、すなわちマリの半量というわけだ。

「やはり放射能のせいですな」秋山君は確信あり気に言った。「あんたの家に戻ろうと、一週間も街をさまよったでしょう。あの一週間は相当に雨が降った。それで濡れ鼠になり、すっかり放射能にしみこまれたんですな。だから食量も少く、すっかり元気がなくなったです」

「その逆で食量が少いから、元気が出ないんじゃないかね」と僕は反問した。

「そうじゃありませんよ。そんなに空腹なら、マリを押しのけても食べる筈です」

「やはりマリに遠慮してるんだよ。猫というものは人につくものでなく、家につくものらしいからね。家につくからには、どうしてもその家の先任猫に勢力があるんじゃないかな」

「そんなことはありません」秋山君は頑強に言い張った。

「どうしたって放射能ですよ。あんたも気をつけたがいい。世田谷区産の野菜は特に放射能が強いという話ですからね」

「そんなものかな」私は半信半疑でうなずいた。秋山君の意気ごみに圧倒されたような形である。

 そう言えば他にもやや不思議なことがある。うちにエスという飼犬がいて、どこからか迷い込んできたのをそのまま飼っているのだが、これが近頃元気がない。エスの住居は私の家の玄関脇で、その犬小屋も秋山君がつくって呉れた。なかなか堂々たる板小屋で、入口に『梅崎エス』という表札までかかっている。堂々たると言っても、犬小屋のことだから、中は一部屋である。次の間つきというわけには行かない。

 このエスが二箇月ほど前から、妙に神経質となり、とくに花火の音を怖がるようになった。近くの商店街などで景気づけに花火を上げる。するとエスはあわてふためいて泥足のまま家の中に上ってくる。一部屋だけの犬小屋の中でじっとしているのが怖いらしいのだ。この犬も割に大柄で、それに恐怖にかられているから、家から外に押し出すのには一苦労する。足をつっぱって出まいとするのを、首輪を持って引きずり出さねばならない。とても女子供には出来ない仕事で、もっぱら私の役目になっている。

 この間私が不在の時に花火が上って、エスはのこのこと縁に上ってきた。それから泥足のまま座敷に入り、床の間にでんと坐り込んで、押せども引けども動かない。蠅(はえ)叩きでピシピシ叩いても頑として動かず、二時間も坐り込んでいたそうだ。間もなく私が帰って来て、力まかせに外に放り出してしまったが、何故そんなに花火の音を怖がるのか判らない。放り出すと哀しそうな目付きで私を見て、こそこそと犬小屋の中に入って行った。「どうも犬の癖に花火を怖がるなんてダラシがなさすぎる」と私は半分怒って言った。「花火が怖いようじゃ、とても泥棒や押売りよけにならないぞ。抵抗療法でその臆病癖を矯正(きょうせい)してやる」

 私はそこで街に行って、鼠花火を二十個ばかり買って来た。一個五円である。それからエスの首輪をクサリでつなぎ、クサリの別の端を竹の垣根に結びつけた。エスは不安そうに私の動作を上目使いでうかがっている。お前の臆病癖を治すためにこんなことをやるのだ、と私はエスに言い聞かせて、おもむろに鼠花火を三個地面に置いた。エスは判っているのか判っていないのか、おどおどした眼でそれを見ている。家中の者は縁側に立って眺めていた。人間だって気が狂えば、電気ショックというべらぼうな療法をほどこされるのだ。鼠花火如きは荒療治の中に入らない。二十個ぐらいも鳴らしたら、エスもその音に慣れてしまうだろう。そういう算段であった。

 私はマッチをすり、三個いっぺんに火をつけた。すると三個は三方に飛び散り、シュシュシュシュと火をふきながら、コマ鼠のようにキリキリ舞いを始めた。エスはそれを見て愕然としたように一声ほえ、懸命に走り出そうとしたが、クサリで垣根につながれている。その垣根の竹がポキッと折れる音がした。そのとたんにキリキリ舞いしていた風花火の一つが、ちょっと宙に浮き上ったと思うと、おそろしい勢いで私のズボンの裾に飛び込み、私の脛毛(すねげ)を焼いてパパンと破裂した。

 縁側から見物していた家人たちの言によると、その瞬間私は大声を立てて三尺ばかり飛び上ったそうである。

 エスは折り取った垣根の一部もろとも、一目散に表の方に逃げて行った。

 私はよろめきながら縁側に腰かけ、ズボンをまくり上げた。鼠花火は脛(すね)にはいのぼり、それからふくら脛(はぎ)に回って破裂したらしいのだ。見る見るそこらの皮膚が赤く腫れ上ってくる。皆がしんけんな表情でそこをのぞきこんだ。

「は、はやく油薬を持ってこい」と私は呶鳴った。「早くしないと俺は死んでしまう」

 急いで持って来た油薬を塗りながら、家人が言った。

「まあ、まあ、こんなに火ぶくれになって、さぞかし熱かったでしょう」

「熱いのなんのって、世界の終りが来たかと思ったぐらいだ」と私は言った。「そ、そんな乱暴に塗るんじゃない。皮がやぶれてしまうじゃないか」

 結局この火傷(やけど)が治るのには二週間という日時が要った。全治二週間の火傷というわけだ。

 残りの十七個の鼠花火は、腹が立って仕様がないから、近所のドブ川の中にたたきつけてやった。エスに対する抵抗療法もそれっきりだ。結局こんな療法を思いついたばかりに、私はひどい火傷を負い、垣根はこわされたという勘定になる。引きあった話ではない。

 だからエスは今でも花火が上ると、依然として家宅侵入してくる。そこで近頃では犬小屋にクサリでつなぎ、家に侵入出来ないようにしているが、それでも花火がつづけざまにポンポン上ると、エスはもう身も世もなくなるらしく、あの重い犬小屋を引きずって右往左往する。

 秋山君に聞けば、これも放射能のせいだと言うに違いない。

 オートバイはカロから襲撃されて以来、我が家の庭に姿をあらわさないようである。では、蟻たちは幸福であるかと言うと、このところ長雨がつづいたせいか、晴間にも表にあまり出て来ない。数も少しは減少したのではないかと思う。蟻なんていうものは、地面の下に巣をつくる関係上、雨が降れば雨はその巣にしみこむだろう。すると蟻の数が減ったのは放射能のせいでないとは、私も断言出来ないのである。もっとも蟻に肝臓があるかどうかは、寡聞(かぶん)にして私も知らない。

 

叔父一家の変容――【注意!】「先生」は靜に逢う以前に恋をしている事実を見逃してはならない

 私の性分として考へずにはゐられなくなりました。何うして私の心持が斯う變つたのでらう。いや何うして向ふが斯う變つたのだらう。私は突然死んだ父や母が、鈍い私の眼を洗つて、急に世の中が判然見えるやうにして吳れたのではないかと疑ひました。私は父や母が此世に居なくなつた後でも、居た時と同じやうに私を愛して吳れるものと、何處か心の奥で信じてゐたのです。尤も其頃でも私は決して理に暗い質ではありませんでした。然し先祖から讓られた迷信の磈(かたまり)も、强い力で私の血の中に潜んでゐたのです。今でも潜んでゐるでせう。

 私はたつた一人山へ行つて、父母(ふぼ)の墓の前に跪づきました。半は哀悼の意味、半は感謝の心持で跪いたのです。さうして私の未來の幸福が、此冷たい石の下に橫はる彼等の手にまだ握られてでもゐるやうな氣分で、私の運命を守るべく彼等に祈りました。貴方は笑ふかも知れない。私も笑はれても仕方がないと思ひます。然し私はさうした人間だつたのです。

 私の世界は掌(たなごゝろ)を翻へすやうに變りました。尤も是は私に取つて始めての經驗ではなかつたのです。私が十六七の時でしたらう、始めて世の中に美くしいものがあるといふ事實を發見した時には、一度にはつと驚ろきました。何遍も自分の眼を疑つて、何遍も自分の眼を擦(こす)りました。さうして心の中であゝ美しいと叫びました。十六七と云へば、男でも女でも、俗にいふ色氣の付く頃です。色氣の付いた私は世の中にある美しいものゝ代表者として、始めて女を見る事が出來たのです。今迄其存在(ぞんざい)に少しも氣の付かなかつた異性に對して、盲目(めくら)の眼(め)が忽ち開(あ)いたのです。それ以來私の天地は全く新らしいものとなりました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月23日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十より)



因みに――初出中の「伯父」は呆れることだが――総て漱石の「叔父」の誤りである。

「先生」の数え十六、十七歳は旧制中学の終わりである。「先生」はしっかり新潟美人に惹かれているのである。迂闊な学生の「私」とは訳が違うのである。それを多くの研究者(在野の私も含めて)はこの記載と先生の初恋の認識を全く無視しているのは全く「迂闊な」ことである。

2020/06/22

明日は梅崎春生の二作品の電子化に特化する

明日は梅崎春生の二作品の電子化に特化することにした。

……以下、「枕」の余談である……

……一年ほど前のことである。たまたま検索の途中、私の梅崎春生の電子化注について、私のフル・ネームを挙げて、

――「青空文庫」に梅崎春生があるのに、わざわざ自分でご苦労さまにも電子化して、何だか注まで施している人がいる――

と言ったニュアンスで語り出した上に、私の「桜島」に挿入してある作品分析注を「こういうことはするべきではない」といった見当違いの如何にも饐えたインキ臭い批判(注が不快なら読まなければよい。目障りならコピー・ペーストして「サクラエディタ」などのソフトでテクストの[やぶちゃん注:]を一発一括削除すればよい。私の電子テクストは消毒滅菌された教科書のようなかっちりした優等生様々のものではないのはどれもそうだ)をした「青空文庫」御用達能天気似非文学識者ブロガーの記事を見つけたのだが、こいつは「青空文庫」のシンパサイザーとしても救い難い低能の輩或いは「青空文庫」の誰彼から慫慂されて自己肥大の背伸びをした回し者としか思えない、文章も如何にも下手糞なる御仁なのであった。

何より、語るに堕ちているのは、第一が、「青空文庫」の梅崎春生の公開データは今日2020年6月22日現在の時点でも、たったの15篇のみ(作業中に至っては2篇という貧しさだ)なのである。その内、全文掲載(但し、「青空文庫」は本文のみ)で私の公開分とダブるのは「桜島」と「幻化」だけであるが、

梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】

梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】

は以上を読まれれば判る通り、孰れも私のそれは「青空文庫」を加工データにしてさえいない全くの独自の完全オリジナルな作成になるものである(「青空文庫」に先を越されて悔しかったのは特に私の偏愛する「蜆」一作だけである。無論、屋上屋のマスターベーションはいやだから私は涙を呑んで電子化していない)。

現在、私のサイトの目録では、64篇(サイト版「桜島」「幻化」と一部のエッセイを含む。しかも総てに亙って私の「オゾましい」オリジナル注附きである)を挙げてある。それ以外に私は私のブログ・カテゴリ「梅崎春生」で、沖積舎版第Ⅶ巻の詩・日記・随筆・文芸時評総て(優に200タイトル以上)をも電子化注しており(先のサイト目録の小説のかなりのものはここにある)、私の梅崎春生の電子化注作品の数は凡そ「天下」の「青空文庫」などお話にならない優位な数の電子化を行っているのである。このブロガーは「200余」篇と「15」篇の違いさえも判らぬ救い難い大馬鹿としか思えぬのであった。

ともかく、その糞記事を見て以来、梅崎春生の電子化はキリ番アクセスの時だけに限定し続けてきた。――読む奴が阿呆しかいないのなら、やるこっちも阿呆だ――と思うたからである。

閑話休題。

さて。先般、私はツイッターを脱会したつもりだったのだが、とある別ブラウザ・ソフトを用いてたまたま開けてしまったところ、未だ嘗てのアカウントに表面上、問題なくアクセス出来ることが判り、今日、開けてみたところ、「メッセージリクエスト」という一回も使ったことのなかったものに、梅崎春生の二篇の作品電子化の要望が旧フォロワーから5月21日に打たれてあったことを遅まきながら発見したのであった(そういうところは私も救い難い大阿呆とは言えようぞ)。

これに応えないのは、梅崎春生を愛する私、以上のように異様なコダワりの電子化をしている私にとっては、すこぶる気持ちの悪いことなのである。

されば、その方の求めた梅崎春生の二作品を明日、電子化に特化して(他の電子化注を停止して)完成することにしたのである。

――私はもう失うべきものは総て失った気がしている。誰(たれ)の親愛も信ずる気もなくなった。しかし、将来の誰かの僅かな細い繊細な琴線に触れ得る何ものかを私の非力が少しでも成し得るとなら、私はそのやれることをやるべき義務と権利があると秘かに信じている――

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 幻燈のにほひ

 

幻燈のにほひ

 

わが友よ、わが過ぎし少年の友よ、

汝(な)は知るや、なつかしき幻燈の夜景を、

ほの靑きほの靑き雪の夜景を、――

水車(みづぐるま)しづかにすべり、霏々として綿雪のふる。

 

ふりつもる異國の雪は陰影(かげ)の雪おもひでの雪。

いつしかと眼に滅えぬべきかなしみの映畫なれども、

その夜には

小(ちい)さなる女の友の足のうら指につめたく、

チクタクと薄き時計もふところに針を動かす………

 

いとけなきわれらがゆめに絕間(たえま)なくふりつもる雪。

ふりつもる「時」の沈默(しじま)にうづもれて滅(き)ゆる昨日(きのふ)よ。

淡(あは)つけきわが初戀のかなしみにふる雪は薄荷(はつか)の如く、

水車しづかにすべり、ピエローは泣きてたどりぬ。

 

ほの靑きほの靑き幻燈の雪の夜景に

われはまた春をぞ思ふ、

マンドリン音(おと)をひそめしそのあとの深き恐怖(おそれ)に、

ふりつもる雪、ふりつもる雪、…………ゆゑわかぬ性の芽生は

靑猫の耳の顫へをわが膝に美くしみつつ。

 

[やぶちゃん注:「霏々として」「ひひとして」。雪が飛び散るように降りしきる様子を言う。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 朱欒のかげ

 

朱欒のかげ

 

弟よ、

かかる日は喧嘩(いさかひ)もしき。

紫蘇(しそ)の葉のむらさきを、韮(にら)をまた踏みにじりつつ、

われ打ちぬ、汝(なれ)打ちぬ、血のいづるまで、

柔(やはら)かなる幼年の體(からだ)の

こころよく、こそばゆく手に痛(いた)きまで。

 

豚小屋のうへにザボンの實黃にかがやきて、

腐れたるものの香に日のとろむとき、

われはまた汝(な)が首を擁(だ)きしめ、擁きしめ、

かぎりなき夕ぐれの味覺に耽る。

 

ふくれたるその頰をばつねるとき、

わが指はふたつなき諧樂(シムフオニ)を生み、

いと赤き血を見れば、泣聲のあふれ狂へば、

わがこころはなつかしくやるせなく戯(たは)れかなしむ。

 

思ひいづるそのかみの TYRANT.

狂ほしきその愉樂(ゆらく)…………

今もまた匂高き外光の中

あかあかと二人して落すザボンよ。

その庭のそのゆめの、かなしみのゆかしければぞ、

弟よ、

かかる日は喧嘩(いさかひ)もしき。

 

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 晝のゆめ

 

晝のゆめ

 

酒倉の强き臭(にほひ)を嗅ぐときは

夏のさみしく、

油屋の黃なる搾木(しめぎ)をきくときは

秋のかなしく、

少年の感じ易さは、怪しさは、

あはれ、ひねもす、

金文字の古き蘭書に耳をあて

黑猫の晝の瞳に見るごとく、

冬もゆめみぬ、ゆゑわかぬ春のシムフオニイ。

 

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 感覺

 

感覺

 

わが身は感覺のシンフオニー、

眼は喇叭、

耳は鐘、

唇は笛、

鼻は胡弓。

 

その病める頰を投げいだせ、

たんぽぽの光りゆく草生(くさぶ)に

肌(はだへ)はゆるき三味線の

三の絲の手ざはり。

 

見よ、少年の秘密は

玉蟲のごとく、

赤と靑との甲斐絹(かゐき)のごとく、

滑りかがやく官能のうらおもて。

 

その感覺を投げいだせ――

黑猫は眼を据ゑてたぶらかし、

酸漿(ほほづき)は眞摯(まじめ)に孕(はら)み、

綠いろの太陽は酒倉に照る。

 

全神經を投げいだせ、

紫の金の蜥蜴(とかげ)のかなしみは

素肌をつけてはしりゆく、

いら草の葉に、韮(にら)の葉に。

 

げに、幻想のしたたりの

恐れと、をののきと、啜泣き、

匿(かく)しきれざる性のはづみを彈ねかへせ、

美くしきわが夢の、笛の喇叭の春の曲。

 

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 夜 / 挿絵「生膽取」

 

 

夜(よる)は黑…………銀箔(ぎんぱく)の裏面(うら)の黑。

滑(なめ)らかな瀉海(がたうみ)の黑、

さうして芝居の下幕(さげまく)の黑、

幽靈の髮の黑。

 

夜は黑…………ぬるぬると蛇(くちなは)の目が光り、

おはぐろの臭(にほひ)のいやらしく、

千金丹の鞄(かばん)がうろつき、

黑猫がふわりとあるく…………夜は黑。

 

夜は黑…………おそろしい、忍びやかな盜人(ぬすびと)の黑、

定九郞の蛇目傘(じやのめがさ)、

誰だか頸(くび)すぢに觸(さは)るやうな、

力のない死螢の翅(はね)のやうな。

 

夜は黑…………時計の數字の奇異(ふしぎ)な黑。

血潮のしたたる

生(なま)じろい鋏を持つて

生膽取(いきぎもとり)のさしのぞく夜。

 

夜は黑…………瞑(つぶ)つても瞑つても、

靑い赤い無數(むすう)の靈(たましひ)の落ちかかる夜。

耳鳴(みみなり)の底知れぬ夜(よる)。

暗い夜。

ひとりぼつちの夜。

 

夜…………夜…………夜…………

 




Ikigimoori_20200622125001

    Ikigimo tori.             

 

[やぶちゃん注:底本ではエンディングが第四連の「生(なま)じろい鋏を持つて」以下で右ページ「256」目一杯に配され、見開き左ページに挿絵「生膽取」が配されてある。上に配した画像は国立国会図書館デジタルコレクションの底本と同じ初版本画像(但し、モノクロームである。しかし、デッサンには却ってコントラストが生じて都合がよい)をダウン・ロードし、底本と比較しながら、汚損(額の有意な点は汚損の可能性があるが、初版も同じであるので消さずに残した)を可能な限り除去した。下方の手書きの「Ikigimo tori.」は赤で記されてあるので下方に活字で追加しておいた。

「定九郞」(さだくらう)は既出既注だが、再掲しておくと、浄瑠璃「仮名手本忠臣藏」五段目に登場する人物で、百姓与市兵衛を殺して金を奪う放蕩無頼の武士で、実は元は塩冶の家老斧九太夫嫡男の大野群右衛門。六段目で、勘平に猪と間違えて撃ち殺されて惨めに死ぬ。彼が、雨の中、蛇の目傘を広げて見得を切るのは浮世絵にもされた名場面の一つである。

「死螢」「しにぼたる」と訓じておく。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 太陽

 

太陽

 

太陽は祭日の喇叭(らつぱ)のごとく、

放たれし手品つかひの鳩のごとく、

或は閃めく藥湯(やくたう)のフラフのごとく、

なつかしきアンチピリンの粉(こな)ごとし。

 

太陽は紅く、また、みどりに、

幼年の手に回(まは)す萬華鏡(ひやくめがね)のなかに光り、

穀物の花にむせび、

薄きレンズを透かしてわが怪しき函のそこに、

微(ほの)かなる幻燈のゆめのごとく、また街(まち)の射影をうつす。

 

太陽はまた合歡(カウカ)の木をねむらせ、

やさしきたんぽぽを吹きおくり、

銀のハーモニカに、秋の收穫(とりれ)のにほひに、

或は靑き蟾蜍(ワクド)の肌に觸れがたき痛みをちらす。

 

太陽は枯草のほめきに、玉蜀黍(たうもろこし)の風味に、

優しき姉のさまして勞(いたは)れども、

太陽は太陽は

新らしき少年の恐怖(おそれ)にぞ――身と靈との變りゆく秘密にぞ、

あまりにも眩ゆき判官(はんぐわん)のまなざしをもて

ああ、ああ、太陽はかにかくに凝視(みつ)めつつ脅かす。

 

[やぶちゃん注:「藥湯(やくたう)のフラフ」「藥湯(やくたう)」は銭湯或いは天然温泉で、「フラフ」は語源に諸説あるが、オランダ語の「旗」を意味する「Vlag」を採っておく。ここはそうした「薬湯」であることを示した幟旗(のぼりばた)の意と解釈する。

「アンチピリン」アンチピリン(国際一般名・英国一般名:Phenazone/アメリカ英語一般名:Antipyrine)はピラゾロン(pyrazolone)誘導体であるサリチル酸(salicylic acid)様の鎮痛解熱薬の一つで、頭痛・リウマチ・月経痛などに用いられる。体温調節中枢に作用し、皮膚血管を拡張することにより、熱の放散を活発にするが、副作用としてピリン疹や血液障害を生ずることがある。ドイツ人化学者ルートヴィヒ・クノール(Ludwig Knorr)が初めて合成し、一八八三年に特許を取得した(以上はウィキの「アンチピリン」及びそのリンクする英語版で一部を修正した)。一八八三年年は明治十六年で北原白秋の生まれる二年前であり、従ってこの薬剤名はトビっきりの新薬の名であることになる(本詩集は明治四四(一九一一)年刊行であっても、本詩篇は少年期の記憶(という設定)だからである)

「合歡(カウカ)」既出既注。マメ目マメ科ネムノキ亜科ネムノキ属ネムノキ Albizia julibrissin。なお、後の昭和三(一九二八)年アルス刊の北原白秋自身の編著になる自身の詩集集成の一つである「白秋詩集Ⅱ」の本篇(国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ画像)でもここに関しては『カウカ』と同じルビが振られている。私の最も偏愛する花である。

「蟾蜍(ワクド)」ヒキガエル(両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus)のこと。二〇〇七年南方新社刊の坂田勝氏の「かごしま弁入門講座 基礎から応用まで」によれば、鹿児島の大隅地方では、「ひきがえる」の方言でも『ワクド系の「ワッドラ」と呼ぶ地域が多い。「ワクド」の「クド」は古語で「かまど」を指し、「ひきがえる」は家や家の中心である「かまど」を守るという俗信がある』とある。この連はかなり技巧が施されてあり、描出主体は「太陽」で、それ「はまた合歡(カウカ)の木をねむらせ、」「やさしきたんぽぽを吹きおく」るけれども、「銀のハーモニカに、」また、「秋の收穫(とりれ)のにほひに、」「或」いは「靑き蟾蜍(ワクド)の肌に」対して、「觸れがたき痛み」(触れなば、激しい疼痛を引き起こすような眩暈の痛み)「をちらす」というのである。

「あまりにも眩ゆき判官(はんぐわん)のまなざしをもて」私は「九郎判官義経の眼差しのような魅力的にして『あまりにも』鋭い感じの眼差しの如く」の意で採る。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 秘密

 

秘密

 

桑の果の赤きものかげより、午後(ひるすぎ)の水面(みのも)は光り

奇異(ふしぎ)なる新らしき生活(いとなみ)に蛙らはとんぼがへりす。

 

ねばれる蛇の卵見ゆ、かつは臭(にほひ)のくさければ

*ガメノシユブタケ顰(しが)めつつ毛根を水に顫はす。…………

 

かなたこなたに咲く花は水ヒアシンス、

その紫に蜻蛉(とんぼ)ゐてなにか凝視(みつ)むれ、一心に。

 

そのとき、われは桑の果の赤きかげより、

祭日(まつりび)の太鼓の囃子(はやし)厭はしく、わが外の世をば隙見(すきみ)しぬ。

 

かの銀箔(ぎんぱく)の歎(なげ)きこそ魔法つかひの吐息なれ、

皮膚の痛みにえも鳴かぬ蛙の、あはれ、宙がへり。

 

かかる日にこそわが父母を、かかる日にこそ、

眞實(まこと)ならずと來て告げむ、*OMIKAの婆に心おびゆる。

 1. Omika の婆。Omika と呼ぶ狂氣の老婆なり。
   つねにわが酒倉に來てこの酒倉はわがものぞ、
   この酒もわがものぞ、Tonka John 汝もわが
   ものぞ。汝の父母と懷かしむ彼やつらは全く
   赤の他人にてわれこそは汝が母ぞよとわれを
   見ては脅かしぬ。
 2. ガメノシユブタケ。水草の一種、方言

 

[やぶちゃん注:「蛙」北原白秋は今までの詩篇でも一貫してルビを附していないから、読みは「かへる」でよいと考える。

「ガメノシユブタケ」複数回既出にてオリジナルに既に考証した通り、次連に出る「水ヒアシンス」と同種で、単子葉植物綱ツユクサ目ミズアオイ科ホテイアオイ(布袋葵)属ホテイアオイ Eichhornia crassipes(英名:Water Hyacinth)の異名。あたかも違うに記されてあるが、水生植物ここでウィキの「ホテイアオイ」を引いて確認しておくと(下線太字は私が附した)、『湖沼や流れの緩やかな川などの水面に浮かんで生育する水草』で、『葉は水面から立ち上がる。葉そのものは丸っぽく、艶がある。変わった特徴は、葉柄が丸く膨らんで浮き袋の役目をしていることで、浮き袋の半ばまでが水の中にある。日本では、この浮き袋のような丸い形の葉柄を布袋(ほてい)の膨らんだ腹に見立てて「ホテイアオイ(布袋のような形をしているアオイ)」と呼ばれるようになった。茎はごく短く、葉はロゼット状につく。つまり、タンポポのような草が根元まで水に浸かっている形である。水中には根が伸びる。根はひげ根状のものがバラバラと水中に広がり、それぞれの根からはたくさんの根毛が出るので、試験管洗いのブラシのようである。これは重りとして機能して、浮袋状の葉柄など空隙に富んだ水上部とバランスを取って水面での姿勢を保っている』。『ただし、全体の形は生育状態によって相当に変わる。小さいうちは葉も短く、葉柄の浮き袋も球形っぽくなり、水面に接しているが、よく育つと浮き袋は楕円形になり、水面から』一〇センチメートルも『立ち上がる。さらに、多数が寄り集まったときは、葉柄は細長くなり、葉も楕円形になって立ち上がるようになる。水が浅いところで根が泥に着いた場合には、泥の中に根を深く下ろし、泥の中の肥料分をどんどん吸収してさらに背が高くなり、全体の背丈は最大で』一メートル五〇センチメートル『にもなる』。『こうなると』、『葉柄はもはや細長く伸びて浮袋状では無くなる。なお、この状態で水中に浮かせておくと、しばらくして葉柄は再び膨らむ』。『夏に花が咲く。花茎が葉の間から高く伸び、大きな花を数個』から『十数個つける。花は青紫で、花びらは六枚、上に向いた花びらが幅広く、真ん中に黄色の斑紋があり、周りを紫の模様が囲んでいる。花が咲き終わると花茎は曲がって先端を水中につっこむ形となり、果実は水中で成長する』とあり、白秋はこの繁茂する水面下の藻のような草体部と花を別々なものと詩的に分離し(意識的には腑に落ちる)、かく述べているのである。

「かの銀箔(ぎんぱく)の歎(なげ)き」太陽光が水面に反射して起こす照り返しのハレーションを言っていよう。

「ねばれる卵見ゆ、かつは臭(にほひ)のくさければ」個人的には、これは山地のみでなく平地や特に水辺を好むヤマカガシ(有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ヤマカガシ属ヤマカガシ Rhabdophis tigrinus)の卵と思われる。産卵は夏で六月~八月にかけて行われ、土中・石の下・落葉の下などに、一度で二~三〇個、平均すると一〇個前後の卵を産む。長さ三センチメートルほどの楕円形を成し、白いが、産み落とされた卵同士はくっついた塊りを形成する。相互にくっつくということは何らかの母体由来の体液によるものと思われるから、蛇体特有の腥さがあるものと考えられる(私はヤマカガシの卵は見たことがないので推測である)。なお、かなり知られるようになったが、本種は毒蛇で、そのマウスの半致死量は本邦最強の猛毒を持つ蛇である海産のヘビ亜目コブラ科セグロウミヘビ属セグロウミヘビ Pelamis platura次ぎ、本邦の陸産ヘビ類ではマムシ(ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii)やハブ(クサリヘビ科ハブ属ハブ Protobothrops flavoviridis)よりも実は強い猛毒を保持する。但し、毒牙が上顎の奥歯にあること、それ二ミリメートル以下と短いため、過去、ヒトの咬傷死亡例が極めて少なかったことから、長く無毒蛇とされてきたが、一九七四年に有毒種と認定された(一九七二年・一九八二年・一九八四年の三例の死亡例報告がある)。

OMIKAの婆」「お美加」「お美香」「お美佳」「お美嘉」などが想起されるが、幕末から明治初期にかけての民間の女名はカタカナ「ミカ」か、ひらがな「みか」が圧倒的に多い。……思い出すことがある。中学時代、富山県高岡市伏木の勝興寺の近くに住んでいた。その近くに知的障害を持った老女がいた。同級生らは彼女のことを「めどっちゃん」或いは「みどっちゃん」と呼んで馬鹿にしていた。怒ると、石を投げてきた(私はそれを離れて見ていた)。意味が判らなかった私が訊ねると「あの婆さんはあれで何と『みどり』って名前なんや」と返ってきた。彼女は私の家のすぐ近くの銭湯に来ては、営業時間が過ぎても湯につかっていて、仕方なしに番台の主人が十円を渡すと、にこにこして帰っていったそうだ。私の亡き母はよく彼女の背を洗ってやったが、それはそれは垢だらけだったそうだ……]

2020/06/21

三州奇談續編卷之五 濱鶴の怪女 /三州奇談續編卷之五~了

 

    濱鶴の怪女

 本鄕の北村何某の咄に、

「予壯年の時は射獵漁釣(しやれふぎよてう)を好みて、甚だ山海に夜遊(よあそび)せしかども、怪靈とても、危しと覺えしことゝてもなし。然るに結句賑はしき祭戾りに、只一度異(あや)しみを見し。」

となり。

[やぶちゃん注:「本鄕」不詳。実はこの話、怪女の出現する橋(「岡野」橋、別名「津田橋」)を特定出来ないでいる。唯一、以下の「田鶴濱」が現在の七尾湾西南奥の七尾市田鶴浜(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であることぐらいしか、判らないのである。但し、後で出る「高畠」は鹿島郡中能登町高畠であろう。さすれば、その間の田鶴浜地区に近い橋と踏め、最後にその橋の下を流れる川は「三階の村を廻」って流れるというところから、これは七尾市東三階町・西三階町(グーグル・マップ・データ航空写真)のことと判り、恐らくは伊久留川・二ノ宮川或いはそれが合流して田鶴浜の東で七尾湾に注ぐ川尻川に架かる橋とは読める(則ち、三階地区より北ということである。何故なら、この三階地区までは実測で「一里」を越えてしまうからである)。グーグル・ストリートビューで橋名板を確認してはみたが、見当たらない。結果して地元の識者の御教授を乞うものである。

 

「寬政年中[やぶちゃん注:一七八九年~一八〇一年。]の事と覺えたり。田鶴濱の秋祭に出で、夜も九つ頃獨り歸りしことありしに、一里許戾りて岡野とて橋あり。【津田の橋共云ふ。】爰に五七軒も里家あり。此所常に妖怪ありとは聞えしが、其夜は酒氣多く、聊(いささか)も怪靈に心付かず。ふらふらと路を千鳥に步みて樂(たのし)み來りしに、祭り戾りの人は一時許前に皆々通り盡せしにや。前後に人は一人もなかりし。彼の橋に掛りて半ば渡り向ひを見れぱ、橋詰の欄干の上に女一人、

『すつく』

と立ちて居る。頭に何もかぶらず、髮を引揚げ結びて、着る物はしかと見えず、紺の木綿の前垂をしたり。打笑ふ口大いに裂けて齒黑(くろず)み、

『きよろきよろ』

と見え渡りて、顏付四面[やぶちゃん注:四角く角ばっていることらしい。]なるやうにて、あだ[やぶちゃん注:「粗略に」の意か。]白く甚だ醜し。足は慥(たしか)に一本にて立ちし樣に見ゆる。前垂も短く、下は一尺許もあらん、足頸あらはに出で、一本の樣に覺えし。此時に心付きて、

『扨は。聞及びし此橋の邊(ほとり)の妖怪ならん。』

と急度(きつと)心付きしかば、

『爰を逃げては叶(かな)はじ、先をとらんものを。』

と、小脇差に氣を付け、力足(ちからあし)を踏みしめて、靜かに橋の上を步み見るに、折々は心空(うつろ)になりて、踏む所橋か雲かを分かず。

 氣朦朧として、

『仙士と月宮(げつぐう)に登るとかや聞きしも、斯(か)くや。』

と思ふ躰(てい)今思へば危し。

 故に欄干を片手に捕ヘて、慥に心を落付けて、一足一足するどくして、彼(か)の怪女に近付き見し。

 妖怪は物云ふ如く聞えしを、聞取らんと心を定むる折から、幸なる哉(かな)向ひの少し高き坂の上より、松明(たいまつ)灯(とも)したる里人二三人連(づれ)にて來たり。是(これ)に妖物も氣を取られてやありけん、又立去る時節にやありけん、何方(いづかた)へか飛ぶやうに見えしが、忽ち消えて見えず。

 依りて暫く待つうちに、松明の火近付き、見れば日頃見知りし里人どもなり。嬉しく打寄り、其事を語れぱ、

『夫(それ)はいつもの妖怪なり。今宵は御歸路(ごきろ)心許(こころもと)なし。此方(こなた)に泊りて明朝歸り給へ。』

とて、四、五町[やぶちゃん注:四三六~五四五メートル強。]傍(そば)の里へ伴ひて、一夜宿りて翌朝歸りしが、惣身(そうみ)汗になりしを覺えし。

 此里人ども申しけるは、

『去年の今頃にや、高畠の驛の馬士(まご)[やぶちゃん注:馬子。]久助と云ふ者、爰にて妖女に逢ひて久しく煩らひし。扨は其者にぞ候はん。是も田鶴濱へ荷をおろし、酒に醉ひて打伏し、夜更けて馬に打跨(うちまたが)り一人歸りしが、彼の橋向ひの四五軒見ゆるはづれの家の軒のつま[やぶちゃん注:軒先。]に、惡女の姿見えし。紺の前垂は慥に見えしとなり。此馬士は醉心(よひごこち)に實(まこと)の女子(をなご)かと心得、馬を橫乘(よこのり)にして、惡口(あつこう)[やぶちゃん注:ちょっかい。]にても云ひ懸けんと、橋を渡りて馳せ寄るを、彼の惡女屋根の上より、

「ふわ」

と飛びて、馬士が首を押へ、逆樣に取りて引下げゝる。

 其力量面色(めんしよく)の勇氣、只巴女(ともゑじよ)・板額(ばんがく)の輩(やから)が馬上に敵をかき首にする樣(さま)も斯くやらん。

 爰にて馬士(まご)聲をばかりに、

「人殺しよ、出合へよや、助けよや、」

と呼ぶ。然れども聲出でずやありけん、聞付けざりしが、頻りに數聲(すうせい)叫ぶに、漸々(やうやう)と此家居より聞付けて、里人ども走り出づる程に、妖女は馬士を道の傍(かたはら)の草中(くさなか)へ投げ捨て、行衞見えずなりし。村人、

「藥よ、湯よ、」

とひしめき、馬士を呼(よび)助けて歸す。

 是より三十曰許も腰立たずして臥居たりと聞きし。

 是躰(このてい)の事往々あり。

「大方、靑鷺か、鶴かの類(たぐひ)の、妖をなすにてありぬべし。」

と、日頃に申し沙汰する所なり。足下(そつか)は幸(さいはひ)に早く人通りに逢ひて、無難目出たし。』

と申しき。

 是のみ、我が二十年夜行(やかう)の中(うち)の、一つ物語りなり」

と咄されし。

 能く見合すに、世に云ひ傳ふ「見越入道」とは何か其樣(そのさま)變りて、捕へて人を引提ぐる躰(てい)なれぱ、其さま逞しき白面(はくめん)の惡女なり。實(げ)にも飛行(ひぎやう)の者かと思はれて、橋を飛ぶ躰(てい)少し音ありて輕し。偖(さて)は田鶴濱の名によせて、蒼鶴(あをづる)などの類(たぐひ)にやと思ひ廻せども、いかにしても口嘴(くちばし)と覺しき長きものは曾てなし。若しまた飛行(ひぎやう)を兼ぬるは風狸(かぜだぬき)などの類(たぐひ)にや。

 又跡に聞合(ききあは)すに、

「此橋へ下る水の水源は『白醜人(シラシウト)の池』といふ。山入(やまいり)に隱れて、其奧山根にくゞり入りて、何十里と續きたらん、底知れず。」

となり。

「日頃に惡蛇ありて、所々折々、怪をなす。傍(そば)に立ちて池を望むに、すさまじき風ありて、多くは迯歸(にげかへ)る。」

と告ぐる。

「尤も雨乞をなすに、必ず、靈あり。鐡の屑を投込む時は、日を經ずして、暴風暴雨、起る。」

と云ふ。

 此水三階の村を廻りて此橋へ流來(ながれきた)るとなれば、蛇妖なるも亦測られず。然れども其妖怪の躰(てい)、身輕に飛隱るゝ躰を思へば、龍蛇の躰とも思はれず。只地名の「白醜人」、何とやら甚だ心怪し。是等若し「白醜人」と云ふ者ならんか。

 越前には「白鬼女」と云ふ川を聞けり。

 天地は廣し。人間の目屆かずして、名付け落したるもの世に多からん。此邊(このあたり)にも聞くに「熊木のしらむす」、「島の路のよろうど」、「所口(ところぐち)のよとり」、「荒山越(あらやまごえ)の風のさむろう」、又は世に能く云ふ「北國のくわしや」・「かま鼬」など、夫(それ)と形を見定ぬもあやし。

[やぶちゃん注:「巴女・板額」先の「氣化有ㇾ因」の「木曾殿の妾(めかけ)巴(ともゑ)の前(まへ)、和田の家を出で遁れ來り、此石黑氏に寄宿して、此渡りに老死すと云ふ」の私の注とそのリンク先の私の記事を見られたい。

「靑鷺」鳥綱ペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属亜アオサギ亜種アオサギ Ardea cinerea jouyi。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 蒼鷺(アオサギ)」を見られたい。アオサギは私自身、孤高の哲人のような雰囲気を持った妙に人間的な妖しさを感ずる好きな鳥である。怪奇談でもしばしば登場する。

「鶴」分類と博物誌はやはり私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶴」を参照されたい。ポジティヴに長命とされ目出度いだけに、魔をも反動的に引き込むと言える。鳴き声は私には禍々しいぐらいだ。

「見越入道」手っ取り早いく、相応の原文も見たくば、私の「柴田宵曲 妖異博物館 大入道」を見られるに若くはあるまい。

「蒼鶴」そういう種はいない。敢えてツル類に求めるよりも前のアオサギと同義でよかろう。

「風狸」中国本草書由来の実在しない幻獣。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 風貍(かぜたぬき) (モデル動物:ヒヨケザル)」を見られたい。

「白醜人(シラシウト)の池」不詳。「山入に隱れて、其奧山根にくゞり入りて、何十里と續きたらん、底知れず」というのでは、調べる気にもなりません。巨大な鍾乳洞の奥の地底湖って感じだけど、能登にそないなものがあるとは今以って聴いたことは、ありませんて。このようなまがまがしい「地名」池名も現存しない。

「此水三階の村を廻りて此橋へ流來るとなれば、蛇妖なるも亦測られず」という因果関係の謂いは、私が馬鹿なのか、意味が判らない。

『越前には「白鬼女」と云ふ川を聞けり』現在の福井県鯖江市を流れる日野川の古名。現在でも、市内のここに白鬼女橋(袂の右岸に白鬼女観世音菩薩がある)が架かる。こばやしてつ氏のサイト「ゆかりの地☆探訪 ~すさまじきもの~」の「白鬼女橋(福井県鯖江市)」によれば、『地元にはいろいろな伝説があるのだが、それぞれの伝説に「白鬼女」という名称の由来が盛り込まれている。伝説には「白衣」や「鬼女」や「白蛇」等のキーワードが登場し、それなりの由緒があって説得力がある』ものの、『一般的には、日野川の昔の名称であり、大伴家持の万葉歌にも詠われた「叔羅川(しくらがわ)」の別の読み方「しらきがわ」が変化したものとされている。「白鬼」の字が当てられ、そこに伝説の「女」がくっついたのだろう』とある。

「熊木のしらむす」「熊木」は熊木川であろう。現在の中島町を流れる(「川の名前を調べる地図」)。「しらむす」は正体不明。漢字も想起出来ない。

「島の路のよろうど」全く不詳。一応、「しまのみち」と読んではおく。「よろうど」は漢字も軽々には想起出来ない。

「所口のよとり」「所口」は七尾の中心部で、七尾の別称とも。現在、七尾市所口町がある。「よとり」は正体不明。「夜鳥」か?

「荒山越の風のさむろう」「荒山越」は鹿島郡中能登町芹荒山峠のことであろう。「風のさむろう」は「風の三郞」か? 正体は不明。

「北國のくわしや」「くわしや」は「火車」でこれは古くから広く知られたかなりメジャーな妖怪で死者の亡骸を奪うとされた。特に悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる。形状は空中を飛翔する正体不明の獣様のものであるが、ウィキの「火車」によれば、「北越雪譜」の「北高和尚」に天正年間(一五七三年~一五九三年)、『越後国魚沼郡での葬儀で、突風とともに火の玉が飛来して棺にかぶさった。火の中には二又の尾を持つ巨大猫がおり、棺を奪おうとした。この妖怪は雲洞庵の和尚・北高の呪文と如意の一撃で撃退され、北高の袈裟は「火車落(かしゃおとし)の袈裟」として後に伝えられた』とあるので、麦水が「北國の」と言ったのはこの伝承を暗に指しているものと考えてよかろう。

「かま鼬」「鎌鼬」。私の「古今百物語評判 序・目録 卷之一 第一 越後新潟にかまいたち有事」の本文とそれに附した私の注のリンク先の私の記事を参照されたい。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 春のめざめ

 

TONKA JOHN の悲哀

 

[やぶちゃん注:パート標題。]

 

 

春のめざめ

 

JOHN, JOHN, TONKA JOHN,

*油屋の JOHN, 酒屋の JOHN, 古問屋(ふつどいや)の JOHN,

我儘で派美(はで)好きな YOKARAKA JOHN.

SORI-BATTEN!

 

南風(はえ)が吹けば菜の花畑のあかるい空に、

眞赤(まつか)な眞赤な朱(しゆ)のやうな *MEN

大きな朱の凧(たこ)が自家(うち)から揚る。

SORI-BATTEN!”

 

麹室(かうじむろ)の長い冬のむしあつさ、

そのなかに黑い小猫を抱いて忍び込み、

皆(みんな)して骨牌(トランプ)をひく、黃色い女王(クイン)の感じ

SORI-BATTEN!”

 

女の子とも、飛んだり跳(は)ねたり、遊びまはり、

今度(こんど)は熱病のやうに讀み耽る、

ああ、ああ、舶來のリイダアの新らしい版畫(はんぐわ)の手觸(さは)り。

SORI-BATTEN!”

 

夏の日が酒倉の冷(つめ)たい白壁に照りつけ、

ちゆうまえんだに天鵞絨葵(びらうどあふひ)の咲く

六月が來た、くちなはが堀(ほり)をはしる。

SORI-BATTEN!”

 

秋のお祭がすみ、立つてゆく博多二〇加のあとから

戰(いくさ)のやうな酒づくりがはじまる、

金色(きんいろ)の口あたりのよい日本酒(につぽんしゆ)。

SORI-BATTEN!”

 

TONKA JOHN の不思議な本能の世界が

魔法と、長崎と、和蘭陀の風車に

思ふさま張りつめる…………食欲が躍る。

SORI-BATTEN!”

 

父上、母上、さうして小さい JOHN GONSHAN.

痛(いた)いほど香ひだす皮膚から、靈魂の恐怖(おそれ)から、

眞赤(まつか)に光つて暮れる TONKA JOHN の十三歲。

SORI-BATTEN!” SORI-BATTEN!”

 1. 油屋、酒屋、古問屋。油屋はわが家の屋號にて、
   そのむかし油を鬻ぎしといふにもあらず。酒造の
   かたはら、舊くより魚類及穀物の問屋を業とした
   るが故に古問屋と呼びならはしぬ。
 2. Yokaraka John. 善良なる兒、柳河語。
 3. 朱のMen.朱色人面の凧、その大きなるは直徑十
   尺を超ゆ。その他は槪ね和蘭凧の菱形のものを用ゆ。
 4. Gonshan. 良家の令孃。柳河語

 

[やぶちゃん注:太字「ちゆうまえんだ」(既出既注。白秋の実家の庭園の名)は底本では傍点「ヽ」。註記号と註が対応していないのはママ。註は底本では七行であるが、ブラウザの不具合を考えて、八行に分かった。最後の「柳河語」の後に句点がないのはママ。

SORI-BATTEN!」既出既注。「そうだけどさぁ!」の意の方言。

「博多二〇加」これで「はかたにはか(はかたにわか)」(「○」が「輪」ならば「にわか」であるが、当て字なので歴史的仮名遣で示しておく)。平凡社「百科事典マイペディア」によれば、『仁輪加とも記す。俄』(にわか)『狂言の略。もと座興のために催した一種の茶番狂言』で、洒落・滑稽を主として、『終りを落(おち)で結んだ。江戸時代に吉原』・『島原などで流行したが』、後に『専門の俄師』(にわかし)『も生まれ』、『寄席(よせ)などで道具』・『鳴物入りで興行。吉原年中行事の吉原俄や大阪俄』・『博多俄などがあり』、『俄師では明治末年の鶴屋団十郎が有名だった。この俄から曾我廼家(そがのや)(曾我廼家五郎)』・『楽天会などの喜劇が生まれた』とある。独特の面を附けて演ずることで知られる。グーグル画像検索「博多にわか」をリンクさせておくが、実は私はこの面が生理的に激しく嫌いである。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 靑い鳥

 

靑い鳥

 

せんだんの葉越しに、

靑い鳥が鳴いた。

『たつた、ひとつ知つてるよ。』つて、

さもさもうれしさうに、かなしさうに。

 

日の光に顫へながら、

今日(けふ)も今日(けふ)も鳴いてゐる。

 

『棄兒(すてご)の棄兒の TONKA JOHN

眞實(ほんと)のお母(つか)さんが、外(ほか)にある。』

 註 わが幼き時の恐ろしき疑問のひとつは、わが母は
    眞にわが母なりやといふにありき。ある人は汝は
    池のなかより生れたりと云ひ、ある人は紅き果の
    熟る木の枝に籠とともに下げられて泣きてゐたり
    しなど眞しやかに語りきかしぬ。小さき頭腦のこ
    れが爲めに少からず脅かされしこと今に忘れず。

 

[やぶちゃん注:註は底本では五行書きであるが、ブラウザの不具合を考え、六行で示した。

「せんだん」ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach

 本篇を以って「生の芽生」パートは終わっている。]

2010年に行った完全シンクロニティ『朝日新聞』初出版電子化(注釈附)の本文の再校訂を完了した

カテゴリ『夏目漱石「こゝろ」』で2010年(……もう十年も経ったのだねぇ……)に行った完全シンクロニティ『朝日新聞』初出版電子化(注釈附)の本文の再校訂(当時の本ブログ・システムやエンコードでは表示出来ない字が非常に多かったために新字の混在が甚だしかった)を先程、総て終了した。なお、サイト版の方

 

朝日新聞連載「心」(「上 先生と私」パート初出)

朝日新聞連載「心」(「中 兩親と私」パート初出)

朝日新聞連載「心」(「下 先生と遺書」パート初出)

 

は一括変換出来るので、数年前に既に修正済みである。ただ、現役高校生らしきアクセスがしばしばブログにあるようなので(教授時期やテスト期間とリンクするので判る)、ブログもちゃんとしたかったのである。

――特にこのコビッド19騒ぎで、「こゝろ」の授業は省略される可能性が高そうですから、是非とも、私のブログ版を一日一章宛てに読んで戴ければ、「こゝろ」を愛してもいない国語教師の中途半端な即席速攻授業を受けるよりも、遙かに貴方にとっては有益だと思う気持ちもあるのです。――しかも……その内……きっと「こゝろ」は高校の国語では教えなくなります……教科書にも載らなくなります……そうして……若者たちには「私」も「先生」も「K」も「静」も……きっと知られなくなります…………

 

2020/06/20

三州奇談續編卷之五 菱脇の巨鰻

 

    菱脇の巨鰻

 今濱を出で、子浦(しほ)・杉の谷(や)・飯(いひ)の山など續く。左に大湖(おほうみ)を見る。是羽喰(はくひ)の海なり。「萬葉集」にも、

  志乎路からたゞ越くれば羽喰の海の

        朝なぎしたりふね梶もがも

此江の上流を「菱脇(ひしわけ)の汀(みぎは)」と云ふ。菱脇の名は「平家物語」にも見ゆ。則ち羽喰の海の北表(きたおもて)にして、大町・金丸(かなまる)と云ふ村に接し、千路(ちぢ)の人家を西に見る。桑・麻生ひ、靑田渺々たる汀なり。此西の際(きは)は美女山の麓なり。美女山は橫に折臥(をれふ)して七里に續く。遊女の打倒れたる形にも似たらんや。一の宮は此尾先(をさき)にして、此山の麓は一の宮神社祭禮の日、七尾へ出る神輿(みこし)の道なり。羽喰の海菱脇にては四角に見ゆ。是れ眼(まなこ)窄(すぼ)きが故ならん。子浦(しほ)・本江(ほんがう)・永光寺(ようくわうじ)の麓にては、此海を川の如く帶の如く細く見えしに、菱脇に下り立てば見るほど大(おほい)に替る。扨は幅も又數里に及ぶと思はるれ。此所(ここ)は長如庵公の歸國の時、畠山及び黑瀧の衆と合戰ありし所。實(げ)にも山兩方に對し、中廣く平(たいら)かなれば屈强の戰地、信州桔梗(ききやう)が原の地の理に良々(やや)似たり。此戰ひ如庵公勝(かち)に及びて、後(のち)能登一國悉く隨從すと聞ゆ。

[やぶちゃん注:「菱脇の巨鰻」は「ひしわきのおほうなぎ」と読んでおく。

「今濱」は現在の石川県羽咋郡宝達志水町今浜(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「子浦(しほ)」宝達志水町子浦

「杉の谷」子浦の北西に同発音の宝達志水町杉野屋(すぎのや)(グーグル・マップ・データ航空写真)がある。ここは御覧の通り、丘陵に挟まれた谷のような地形である。

「飯の山」その杉野屋のさらに北西に石川県羽咋市飯山町(いいやままち)がある。

「羽喰(はくひ)の海」干拓で今は羽咋川の幅広の中流部にしか見えない邑知潟(おうちがた)のこと。後注「菱脇の汀」にリンクしたスタンフォド大学の地図を参照のこと。

「萬葉集」「志乎路からたゞ越くれば羽喰の海の」「朝なぎしたりふね梶もがも」巻第十七の「守大伴家持の、春の出擧(すいこ)に諸郡を巡行し、時に當りて、屬(つづ)れる所の歌九首」中の第五首(四〇二五番。「出擧」は春に農民に官の稲を貸し付けて、秋に三割から五割の稲とともに貸与分を回収した貸借制度を指す)、

   氣太(けだ)の神宮(かむみや)に赴き參り、海邊を行く時に作れる歌一首

 之乎路(しをぢ)から直(ただ)越え來れば羽咋の海(み)朝凪(あさな)ぎしたり船楫(ふなかぢ)もがも

「氣太の神宮」現在の石川県羽咋市寺家町(じけまち)の能登一宮気多大社。但し、当時の能登は分立しておらず、越中国に属していた。「之乎路(しをぢ)」は富山県の氷見から石川県の羽咋に至る道の当時の地域呼称。限定するならば、まさに先の宝達志水町子浦附近に同定出来る。下句は「如何にも穏やかに朝凪しているではないか。ああ、あそこに舟を漕ぎ出したいものだ」の意。

「菱脇の汀」現在の石川県羽咋市菱分町(ひしわけまち)であるが、ここの北西の現在の羽咋川の川幅が有意に広くなっている部分は、往時は大きな邑知潟が広がっていた。スタンフォード大学の「國土地理院圖」(明治四三(一九一〇)年測図・昭和九(一九三四)年修正版)の「邑知潟」を見ても、現在との有意な違いがはっきりと判る。

『菱脇の名は「平家物語」にも見ゆ』どこにどう出てくるのか、多少は調べてみたものの、私には判らなかった。識者の御教授を是非とも乞うものである。

「大町」羽咋市大町が北東に他の複数の町を挟んであるが、これは後発のもので、昔は大きな潟湖であったことをお忘れなく。菱分周辺は嘗ては殆んど田圃であった。先のスタンフォードの地図を見よ。

「金丸」旧邑知潟北東岸の石川県鹿島郡中能登町金丸及びその南の石川県羽咋市金丸出町

「千路(ちぢ)」琴分の東の旧邑知潟対岸に当たる羽咋市千路町(ちじまち)

「美女山」菱分から東北に六・六キロメートルほど離れた、石川県鹿島郡中能登町能登部上(のとべかみ)にある眉丈山(びじょうざん)のこと。サイト「YamaReco」の「中能登「眉丈山丘陵」縦走~「雨の宮古墳群」探訪をかねて~」の下方の写真の説明の中に眉丈山は丘陵で、『長細すぎて、画面に収まり切』らないとあるのは、ここで麦水が『橫に折臥(をれふ)して七里に續く』とあるのと一致し(但し、実際は十六キロメートルで四里強しかない)、さらに『「眉丈山」の名前の由来は、羽咋市神子原町(みこはらまち)の山の上から、北側にあるこの丘陵を見たときに、美人』『の左の眉毛(まゆげ)のように見えたからだそうで』、『眉毛(びもう)山=美女(びじょ)山=眉丈山』となったそうであると説明されてある。

「一の宮神社」前の家持の歌で既注。

「眼(まなこ)窄(すぼ)き」自然地形或いは気象によって視野狭窄が生ずることを言っていよう。

「本江」羽咋市本江町(ほんごうまち)

「永光寺」羽咋市酒井町にある曹洞宗洞谷山永光寺(ようこうじ)

「長如庵公」複数回既出既注の、戦国から江戸初期にかけての武将で、織田家の家臣、後に前田家の家臣となった長連龍(ちょうのつらたつ 天文一五(一五四六)年~元和五(一六一九)年)のこと。「如庵」は彼の戒名。ウィキの「長連龍」を見られたい。

「畠山」同じく上記のウィキを見られたい。天正五(一五七七)年の上杉謙信の侵攻によって宗家は絶えた。

「黑瀧の衆」「近世奇談全集」は『愚瀧の衆』とするが、戦国に暗愚な私には不詳。識者の御教授を乞う。

「信州桔梗(ききやう)が原」長野県塩尻市街の北方から西方に広がる台地。西縁は奈良井川の深い侵食谷で限られるほか、東・北も浅い谷などで限られた火山灰土壌から成り、中世の宗良(むねなが)親王と小笠原長基(ながもと)との合戦や戦国末期に数度の戦場となった場所。但し、現在、それらの古跡は残っていない。古くは上記から北の松本市出川付近までの広域呼称であった。リンク地図ではその広い古い範囲を画面内に示した。]

 

 邊(このあたり)「四つ柳」といふ所の醫家某の話に、

 「元來此海は鰻の多き所にて、秋の末に及びては此鰻ども大海へ落つる。其時は羽喰川に網を張りて多く取得る。能く石麻呂(いはまろ)が夏瘦(なつやせ)を治すべし。

 然るに元文年中の頃にや、三十年ばかりも先と覺ゆ。葉月も過ぎての菱花(ひしのはな)は亂れ盡きて、水桔梗(みづききやう)の猶殘りたる冷風ながら、未だ午時(ひるま)は暑くして水邊を好む時なりし。予此汀に立休らひ、四方の躰(てい)を見居たるに、其日は風もなく漁舟一つも出でず。不思議の寂寥たる詠(なが)めなりしに、水面(みなも)に多く小さく黑き物立つこと夥しく見ゆ。怪しみて能く見るに、沖抔(など)猶多く、水を一二寸許(ばかり)出でて物を植ゑたる如し。ふしぎに思ひ、汀に能く寄りて是を見るに、鰻の頭(かしら)を出したるなり。足元の淺き波間にも、筆程の小首を出(いだ)したる小鰻共、人をも恐れず眞直(ますぐ)に立居(たちを)る躰(てい)なり。

『是はいかに』

と見るに、暫くして千路(ちぢ)の岸の方と覺え、

『ざわざわ[やぶちゃん注:ママ。]』

と音あり。怒潮(どてう)の風に起(おこ)るが如きながら、只一路に魚波(うをなみ)さだつ[やぶちゃん注:「騷立つ」。ごたごたする。]氣色にて、大町村の方へ登る。

 此時多くの鰻鱺(うなぎ[やぶちゃん注:「まんれい」でもよい。])の顏皆此方(こなた)へ向ふ。暫くして海の中へ打寄るやうに見えしが、眞中に大きさ一升樽程の黑き物、一尺許水面にさし上(あが)りて見ゆる。十四五町[やぶちゃん注:一・五~一・六キロ強。]も向(むか)ひのことなれば、此程を圖(はか)るに、近付けば二升樽か三升樽許の大(おほい)さにて、二三尺も水上の高さなるべし。其躰(てい)先づ黑きやうなる薄赤みの光あり。髭長く左右にはぬる。又烏帽子の折れたる如きもの後ろに見え、甚だ赤き筋も交り見ゆ。其頭(かしら)水に浮み出づるに、一同に數多(あまた)の鰻首(かうべ)を以て水を叩くこと二度なり。其音

『ばたばた』

と聞え、千杵(せんしよ)の碪(きぬた)[やぶちゃん注:砧に同じ。]暮時に起(おこ)るが如し。水煙(みづけむり)立てゝ慥(たしか)に禮(れい)物(もの)する氣色(けしき)なり。

 二度終りて後(のち)、此大頭(おほがしら)の者水に沉(しづ)みて見えず。又向ひの岸に立波(たてなみ)して下(しも)へ行くやうに見えしが、前後四方の鰻ども、一せいに從ふ振りにて、一時(いつとき)許は湖中(うみなか)に音ありて止まず。其時刻に至りては、漸々(やうやう)漁舟の網を打つ者も出で見えしが、跡にて尋(たづぬ)るに、

『不獵にて一疋も取り得ず』

とか咄しける。

 其年落鰻(おちうなぎ)甚だ數(かず)なく、何方(いづかた)ヘ從ひ行きしや、羽喰の川に鰻を見ることもなかりしが、十月過ぎて冬半(なかば)より又々多く取れたると聞えし。河伯(かはく)の魚臣(ぎよしん)をひきゆるは、古本(こほん)にも出で、前段放生湖(はうじやうのうみ)にも書きたれば、夫(それ)は衆魚を引き、殊に必ず赤鯉(あかごひ)の從ふことも聞きしに、是は只鰻鱺のみなり。扨は一家々々の別ありて、其行(ゆく)所替るにや。其理(ことわり)量るべからず。去れば此事を古き漁人に問ひしに。

『此海に限り必ずあることにて、大小は替れども、大方は隔年程に伏從(ふくじゆう)[やぶちゃん注:「服從」に同じい。]の躰(てい)見ゆることあり』

と云ひし。

 其人なくなりても十年餘なり。

 其後此年迄一向斯くの如きこと見たりと云ふ者なし。

 而して此海に領論起る。臣從の鰻鱺いかなる應ならん、不思議なり。

 思ふに其所(そのところ)は千路(ちぢ)より十町許上(か)み、一つ木の松の向ひ邊りの海中なりし』

と、美女山の川尻へ越ゆる峠の道をあてに、海へ指さして敎へられし。

[やぶちゃん注:「四つ柳」羽咋市四柳町。麦分の東直近。

「石麻呂が夏瘦」「万葉集」巻第十六の大伴家持の「瘦せたる人を嗤咲(わら)へる歌二首」の第一首(三八五三番)、

 石麿(いはまろ)にわれ物申す夏瘦に良(よ)しといふものぞ鰻(むなぎ)取り食(め)せ

に拠る、「夏バテによる夏痩せ」の言い換え。

「元文年中」一七三六年から一七四一年。吉宗の治世。「三州奇談」完成は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定されるから、「三十年ばかりも先と覺ゆ」は概ね合致する。

「葉月」陰暦八月。

「菱花(ひしのはな)は亂れ盡きて」フトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ Trapa japonica の開花は夏から秋の七月から十月にかけてで、取り敢えずは合致する。

「水桔梗」キク亜綱ゴマノハグサ目タヌキモ科タヌキモ属ムラサキミミカキグサ Utricularia uliginosa か。情報少なく、同定不能。

「河伯」水神。次の注のリンク先の私の当該注を参照されたい。

「前段放生湖」「三州奇談續編 卷之一 龜祭の紀譚」を指す。

「赤鯉の從ふ」前のリンク先の「夫は何とやら古き本にも聞きし咄しなり。若や『東湖の赤鯉』の云ひ違へにや」の私の注を参照。

「一家々々の別」水族の種類に拠ってその従う眷属・家臣が異なること。

「此海に領論起る」羽咋の漁師間で海域の漁業権の争いが発生したということであろう。

「千路(ちぢ)より十町許上(か)み」ということは、一・九キロメートルも上流ということになる。完全な淡水域である。

「美女山の川尻へ越ゆる峠の道をあてに」最後は「その道辺りを目視して」の謂いであろう。

 最後に。この巨大な祖神的ウナギは何か? 私は叙述から真っ先に想起したのは、その突き出た頭部とするもののミミクリーから、異様に巨大な

刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ属カツオノエボシ Physalia physalis

であった(厳密には医師が視認出来たのはその気泡体だけであるが)。多くの水面上部にいる鰻が激しく礼をするかの如く跳ね上がるのは、その触手の刺胞に刺されて苦しんでそうするのだと思ったからである。気泡体が高さ一〇センチメートルの個体でさえ、触手体は周囲一〇~三〇メートルに広がり、海中は非常に広い範囲で危険である。汽水である邑知潟の最深部の淡水域まで来ると言うのも、自立的指向性運動性能を全く持たない彼らにして、おかしくはなく、風に吹かれれば、どこまでも行く。しかも淡水域に入り込んで死んでも、彼らは各部が独立した特化した群体なのであり、刺胞体の刺胞機能や毒は完全に維持される(刺胞の発射も純粋に物理的であって死後に渚に上がって乾燥しても長くしっかり射出機能と強毒が保たれる)。しかしこれ、残念ながら、同種は日本海側に出現することは普通は、ない。若狭湾で稀れに漂着が認められるから、能登に来ないとは言えないものの、まあ、そうそうはなかろう(元気なそれをたまたま現認したとすれば、この話は生物学的にも特異点の貴重なケースと言えるかも知れない)。そこはちょっと残念だ。

実は今一つの可能性を考えてはいる。それは小型のクジラが鰻を一気呑みするために水中で直立し、頭部を突き上げて下顎のみを水面に平行に九〇度近く開いた可能性だ。しかし、そのようにいくら何でも邑知潟の最奥部の深さが、小型のクジラが立ち泳ぎ出来るほどに深かったというのは考え難いから、これもダメか。

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 苅麥のにほひ

 

苅麥のにほひ

 

あかい日の照る苅麥に

そつと眠れば人のこゑ、

鳥の鳴くよに、欷歔(しやく)るよに、

銀の螽斯(ジイツタン)の彈(はぢ)くよに。

 

ひとのすがたは見えねども、

なにが悲しき、そはそはと、

黃ろい羽蟲がやはらかに

解(と)けて縺(もつ)れて、欷歔(しやく)るこゑ。

 

あかい日のてる苅麥に、

男かへせし美代はまた

鷲(あひる)追ひつつその卵

そつと盜(と)るなり前掛(まへかけ)に。

 

[やぶちゃん注:「螽斯(ジイツタン)」これはもうそのオノマトペイア(通常音写は「ギー! チョン!」)によると思われる方言からも直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属ニシキリギリス Gampsocleis buergeri に比定してよい。同種群は「機織虫(はたおりむし)」「機織女(はたおりめ)」「ぎす」「ぎっちょ」などの多様な異名を持つ。因みに、私のような関東の人間の知っているそれはヒガシキリギリス Gampsocleis mikado である。但し、ここでは実は種同定は無効である。何故なら、それは麦畑で男と密会した「美代」の「鳥の鳴くよに、欷歔(しやく)るよに」聴こえる声の比喩としての、「銀」で出来た幻想の「螽斯(ジイツタン)」が「彈(はぢ)くよに」なのであって、実際のキリギリスやその鳴き声ではないから。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) たはむれ

 

たはむれ

 

菖蒲の花の紫は

わが見物のこころかな。

かつは家鴨(あひる)の尻がろに

水へ滑(すべ)るは戲(おど)けたる

道化芝居の女かな。

軍鷄(しやも)のにくきは定九郞か、

與一兵衞には何よけむ。

 

カステラいろの雛(ひよこ)らは

かの由良さんのとりまきか、

ぴよぴよぴよとよく歌ふ。

禿げた金茶(きんちや)の南瓜(ボウブラ)は

九太夫どのか、伴内か、

靑い蜻蛉(とんぼ)の息絕えし

おかると名づけ水くれむ。

銀の力彌の肩衣(かたぎぬ)は

いちはつぐさか、――雨がへる

ぴよいと飛び出た宙(ちう)がへり、

靑い捕手(とりて)の幕切(まくぎれ)は

ええなんとせう、夜の雨に。

 

[やぶちゃん注:既に序の「わが生ひたち」の「7」で「定九郞」は浄瑠璃「仮名手本忠臣藏」五段目に登場する人物であることを注したが、以下、「與一兵衞」(よいちべえ:現代仮名遣。以下同じ)・「由良」(ゆら)・「九太夫」(くだゆう)・「伴内」(ばんない)・「おかる」・「力彌」(りきや)も総て同外題の登場人物である。私は判るので注は附さない(私は大阪国立文楽劇場で通し狂言(丸一日)で総て見ている)。ウィキの「仮名手本忠臣藏」にかなり詳しい全体のシノプシスと「主な登場人物」一覧が載るので、判らない方はそちらを参照されたい。

「菖蒲」単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属ノハナショウブ変種ハナショウブ Iris ensata var. ensata。多くの植物識別の苦手な人のために言っておくと、アヤメ(キジカクシ目アヤメ科アヤメ属アヤメ Iris sanguinea)文字通りで花弁(外花被)を覗いて文目(あやめ)模様があるのがアヤメであり、そこに文目がなく、しかも葉に硬い中肋があるのがハナショウブ、文目がなく、しかも葉に中肋がなくて同一の平行脈だけで平滑(手触りで判る)であればカキツバタ(アヤメ属カキツバタ Iris laevigata)である。これが手軽に一瞬で判る識別法である。

「いちはつぐさ」単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属イチハツ Iris tectorum 。アヤメ類の中で一番先に咲くので「一初」である。識別? 外花被中央部に白い鶏冠(とさか)状の突起が目立って抜きん出るので容易に判る、というより、白秋はここで「銀の力彌の肩衣」と言っているのは、「力彌」は大石主税がモデルであるが、作中の姓は大星であり、そこから「銀」の所縁があると同時に、まさにその鶏冠様の突起が花の「肩衣」に見えることからかく洒落たものと読める。嘗ては藁葺き屋根の棟の上に高々と鮮やかに咲いていたものだった。種小名の“tectorumとは「屋根の」という意で、まさに昔、屋根に植えて大風から家屋を防ぐ「屋根菖蒲」としての呪術的意味をちゃんと持っていたからなのである。是非とも私の「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 4 初めての一時間の汽車の旅」や、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一)』を読まれたい。私は四十二年前の二十一の時、鎌倉十二所の光触寺への参道沿いの左手にあった藁葺屋根の古民家の棟に開花しているのを嘗ての恋人と一緒に見上げたのが最後であった。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 二人

 

二人

 

夏の日の午後(ひるすぎ)………

瓦には紫の

薊ひとりかゞやき、

そことなしに雲が浮ぶ。

 

酒倉の壁は

二階の女部屋にてりかへし、

痛(いた)いやうに針が動く、

印度更紗のざくろの實。

 

暑い日だつた。

默(だま)つて縫ふ女の髮が、

その汗が、溜息(ためいき)が、

奇異(ふしぎ)な切なさが………

 

惱ましいひるすぎ、

人形の首はころがり、

黑い蝶(ヂュウツケ)の斷(ちぎ)れた翅(つばさ)、

その粉(こな)の光る美くしさ、怪しさ。

 

たつた二人、…………

何か知らぬこころに

九歲(ここのつ)の兒が顫へて

そつと閉(し)めた部屋の戶。

 

[やぶちゃん注:「蝶(ヂュウツケ)」の濁音「ヂ」+拗音「ュ」の表記はママである。前の「にくしみ」では一貫してルビは「チユウツケ」であった。を私はこれを生前のアンドレイ・タルコフスキイ(Андрей Арсеньевич Тарковский/ラテン文字転写:Andrei Arsenyevich Tarkovsky 一九三二年~一九八六年)に撮って貰いたかった。それは確かに日本版「鏡」(Зеркало:音写「ジェルカラ」。一九七五年ソヴィエト公開。一九八〇年日本公開)のワン・シーンとなるであろう。

「印度更紗のざくろの實」色の換喩による修飾。「印度更紗」はその生地の一番知られた基調色は柘榴(フトモモ目ミソハギ科ザクロ属ザクロ Punica granatum)の熟した実の外殻皮と同じ強い臙脂色である。]

2020/06/19

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 赤き椿

 

赤き椿

 

わが眼(め)に赤き藪椿。

外(そと)の空氣にあかあかと、

音なく光り、はた、落つる。

いま死にのぞむわが乳母の

かなしき眼(め)つき…………藪椿。

 

醜(みにく)き面(かほ)をゆがめつつ

家畜(かちく)のごとく、はた泣くは、

わが手を執(と)るは、吸ひつくは、

憎(にく)く、汚(きた)なく恐ろしき

最愛(さいあい)の手か、たましひか。

 

かの眼(め)に赤き藪椿

小さき頭腦(あたま)にあかあかと、

音なく光り、はた、落つる。

 

[やぶちゃん注:フロイト流に言うと、本質的には、口唇期にイソギンチャクのように固着してそれを永久に忘れられないのが、北原白秋という生き物である。しかも彼はそれに成人後も異常に固執することで、汎性的な閉じた世界で独自に特殊な不全な変性を繰り返しながら、不完全な奇形的な複製を陸続と生み出しながら増殖して、それが彼の詩人としての詩想の脳内に共生しているのだと私は思う。而して、その中心に彼は〈自分の代わりに死んだ〉乳母を――マリア――或いは――独自の――反マリア(これは私の弁証学的な「正」「反」の言い回しに過ぎないものでキリスト教とは無縁と言ってよい。白秋がバテレン語をお洒落な言語として使用しているのと同じ程度に下劣である)――としてがつっしりと据えているように感ずるのである。こうした閉じられた系の中では絶対的と思われる世俗的道徳的正誤や善悪は完全に無化され、それを認知すべき術(すべ)は永遠にないのである(ゲーデルの不完全性定理がそれを証明している)。そもそも自己や想念を完全に複製し続けることは出来ない。それを恐らく北原白秋は感性的に認知していたのだという気がする。それが、私が彼をある意味、偏愛する理由でもあると感ずる。何故そんな奇体なことが分かるのかって? 私がそうだからさ!!!

「藪椿」あまり認識されていると思わないので言っておくと、我々が「椿」と呼んでいるのは、ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ヤブツバキ Camellia japonica が正しい標準和名である。]

三州奇談續編卷之五 瀧聲東西


    瀧聲東西

 末森古城の南方は寳達山なり。此峰を東に下る碎きたる如き山間は、彼末森合戰の頃ほひ、佐々内藏助をあらぬ方に導きし田畑兵衞と云ふ者の住む里なり。今に加州公の御扶持を蒙り、山役(やまやく)の業を相勤めけり。此里を相河村と云ふ。

[やぶちゃん注:標題は「らうせいとうざい」と読んでおく。「瀧」の音は「ロウ」であるが、漢音では歴史的仮名遣が「ラウ」、呉音ではそのまま「ロウ」である。前までの特に三話の続編。従って、「麥生の懷古」「古碑陸奥」「今濱の陰石」「末森の臼音」までに注したことは記さない。

「山役」元来は山林に於ける伐木に対して課せられた租税の一種を指すが、ここはそうした藩領内の森林の保守・管理とその租税の徴収に係わる仕事の意。

「相河村」これは表記がおかしい。「田畑兵衞」前条で注した通り、現在の石川県羽咋郡宝達志水町(ほうだつしみずちょう)沢川(そうごう)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)及び富山県高岡市福岡町(まち)沢川(そうごう)附近の旧沢川(そうごう)村の土豪である。この「そうごう」という現在の特殊な地名呼称を見られたい(私は絶対読めない)。また、スタンフォード大学の「國土地理院圖」の「石動」(明治四二(一九〇九)年作図)を見ても、そこでは何んと『澤川(ソーゴー)』と長音符になっているのである。則ち、これは或いは、この「澤(沢)」を当時の口語でも既に「そー」「そう」と特殊な発音をし、それを聴いて麦水は勘違いし、歴史的仮名遣「さう」の「相」と誤まり、「川」もやはり特殊な読みで「ごう」であるからして、聴き取った相手が「川(かは)で『ごう』と読むなり」とでも言ったのを「ごう」なら「がう」或いは「が」で「河」なのであろうと勝手に解釈して漢字を当ててしまったものではないかと推理した。大方の御叱正を俟つ。

 

 此所に「たるみの瀧」と云ふあり。落つること數十尺に及ぶ。然るに此瀧月每に下(しも)十五日・上(かみ)十五日と落つる所を替ゆるなり。幾度試みても変ること相違なし。尤も下る水路はありと云へども、風に依るか、木の葉の隔(へだつ)るに依るか、若しくは汐時(しほどき)に依るか、或は西に落ち、或は東に落つるなり。ふしぎ目(ま)のあたりにして、其理(ことわり)を分つべき方なし。樵夫牧童瀧聲を心當(こころあたり)にして、路を取り失ふこと度々なり。其地の人さへも斯くの如し。增(ま)して偶(たまたま)に通ふ人は、大に心置かざれば路次(ろし)を過(あやま)つこと甚し。思ふに田畑兵衞が、圖らず山中にて佐々内藏助成政が襲軍の大兵に行き合ひて、迫つて敎導に賴まる。田畑兵衞心利きて、加州前田公へ忠せんと思ひ、末森の奧村永福(ながとみ)公其備へ未だ全く備(そなは)らざりしを考へて、忽ち跪(ひざまづ)きて敎導をうけがひ、あらぬ道に誘ひ、小徑(こみち)より身を迯(のが)れて、佐々が富山勢を途中に暇(ひま)を入れしめ、其勇英を挫(くじ)かしむ。是は機轉の利(き)きたるばかりにあらず。元來「たるみの瀧」の水を吞みて、天然に早く途(みち)を迷はすに心付きて、鋭氣をたるますに及ぶ術、肺肝に浮(うか)みたる物とこそ思はるれ。生得(しやうとく)に自然の妙を受くる、皆其土の然らしむるものか。「たるみ」の號、何をこそたるますべけん。天然の稱相應せるか。去れば唐土(もろこし)の柳宗元世を退きて溪に居す。則ち溪を號して「愚溪」と云はしむ。或夜「溪の神」夢に來りて怒りて曰く、

「汝何ぞ我を辱かしむること爰に至るや。我れ淸流を發して人民を育ひ、炎天に雨を迎へて里翁の願ひを安んず。然るを『智溪』と稱せずして『愚溪』と云はしむ。且つ潮州に『惡溪』あり。是は惡魚住みて人民を惱ますによると聞く。其名理(ことわ)りなり。汝何の理ありて我を愚とするや。」

 柳宗元謹みて謝して曰く、

「神怒ることなかれ。夫れ『貪泉』は溪に貪ぼりし金玉のあるを見ず。人是を吞めば寳貨を思ふ故となり。我れ此地に移りて愚となるを覺ふ。然れば愚溪の名其理に當るにあらずや。夫れ世に智と稱せられんより、愚は甚だ安し。我爰に甘んず。神又爰に心なきか。」

 谷神(こくしん)悟りて、

「汝朝廷にありて名高し。而して爰に遁れて愚となるを思ひて爰に甘んず。然る時は我れ又『愚溪』ならざらまく欲すとも得べからず」

と。

 終(つひ)に辭し去るとかや。

 其名其地に應ずる事は、神も又知らずとなり。

 然らば「たるみの瀧」の「たるませる」の理も、何の譯(わけ)と云ふを測らず。「たるみ」の水、業(げふ)をしてたるましむることなかれ。

[やぶちゃん注:「たるみの瀧」石川県羽咋郡宝達志水町宝達に「樽見が滝」として現存する。「石川県観光連盟」公式サイト内のこちらで画像が見られ、そこに『宝達山中にある落差30メートルの滝です。容易にたどりつくことができない難所にあるため、「幻の滝」といわれています』ともある。「YamaReco」の「宝達山の樽見滝(陰陽滝)へ」を見ると、『ふつうの「登山道」ではありません。伐開していないヤブを歩きます。作業道からの入口にも目印はありません。滝・沢への転落、道迷い注意です』とあって、距離は九キロメートルであるが時間は休憩を含めて六時間二十分かかっておられる。この方曰く、遠望した瀧は三段のようであるとされ、また雌瀧(後述)らしきものも写しておられる。そこでその登攀された方も言及しておられる「石川県羽咋郡誌」を国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して電子化する。まず、「第一章 總論」の「瀑布」より(一部の清音を濁音化した)。

   *

樽見瀧。寳達山の東に在りて兩條注下せり[やぶちゃん注:「そそぎくだせり」。]、高さ詳ならず[やぶちゃん注:「つまびらかならず」。]、一は庭島阪に發し、一は樽見淵と稱する山湫[やぶちゃん注:「やまいけ」と訓じているか。山中の小さな水溜まり。]に源す。樽見湫[やぶちゃん注:「たるみいけ」と読んでおく。]は方なるものと圓なるものとあり。廣さ共に九尺に満たずと雖も、旱天も涸るゝことなく、俗に之を蛇池と稱す、兩流合して子浦川となる、能登名跡志に寳達山に陰陽の瀧ありといふもの、或はこの樽見瀧をいふか、其事は河川中子浦川の條に之を述べたり。

   *

次に、「第十七章 北莊村」の最後にある「雜記」の「蛇池」。

   *

蛇池。樽見瀧の水源は俗に之を蛇池と稱す、廣さ九尺内外なれども、其の深さ知るべからず、四境寂寞一種の靈氣を帶ぶ、この水流れて子浦川となる、昔澤川[やぶちゃん注:「そうごう」。]に一富家あり、祖先以來一代惡人なれば、次代は必ず善人なるを常とせり、然るに惡人の戶主たりし時、權威を弄し非道を敢てして之を快とせしかば、爲に怨を抱くもの幾人なるを知らず、或年村民寺院を再建せんが爲め、多數の木材を蒐集せるに、彼れ之を用ひて妾宅を起さんとするなど、無道の行爲屢なりき、其後彼の病死するや、一天俄かにかき曇り、雷鳴頻りなりしが、葬儀の際落雷して忽ち棺槨[やぶちゃん注:「くわんくわく(かんかく)」。柩(ひつぎ)。]の所在を失ひ、其の一女子は發狂して樽見淵に至り、身を池中に投じて死せり、世人其娘が蛇體に變ぜることを傳へ、水を稱して蛇池といひ、旱天の時は鎌などを投入して雨乞をなすに必ず驗ありといへり。

   *

次に「第一章 總論」の「河流」の「子浦川」の本文の後に記された参考引用の第一の部分。

   *

〔能登名跡志〕寳達山の條、

陰陽の瀧と云て不思議なる瀧あり、瀧口二つに成て有、雄瀧と云は銚子口より水落て、一月の中、上十五日水落て、越中氷見庄小米川等の源なり、雌瀧は下十五日洞口から水落ちて、能州子浦川の源なり、誠希代不思議の瀧也、

編者云雄瀧雌瀧のこといかゞ、こは樽見瀧のことなるべしといへり、

   *

「月每に下十五日・上十五日と落つる所を替ゆるなり」この現象が現在も真実あるのかどうかは不明。ただ「若しくは汐時に依るか」と、原因を月の運航による潮汐現象の影響かと言っているのは陰暦のそれに合わせた疑似科学的理由として面白い。

『元來「たるみの瀧」の水を吞みて、天然に早く途を迷はすに心付きて、鋭氣をたるますに及ぶ術、肺肝に浮みたる物とこそ思はるれ』「樽見」という名に「弛(たる)み」(ゆるみ・油断)を掛け、また「瀧」・「水」・「吞む」・「浮み」と縁語を重ねた諧謔的文章である。

「柳宗元」(七七三年~八一九年)は中唐の文学者にして政治家。河東 (山西省永済県) の人、柳河東とも呼ばれる。七九三年、進士に及第し、校書郎・藍田尉を経て礼部員外郎となり、王叔文をリーダーとする反宦臣派の少壮官僚として朝政の改革を志すも、挫折し、邵(しょう)州刺史、次いで永州司馬に左遷させられ、後に柳州(江西省)の刺史となって任地で没した。詩文に優れ、散文では古文運動の提唱者として韓愈とともに「韓柳」と並称され、詩では自然詩人の系列に数えられ、盛唐の王維・孟浩然と中唐の韋応物とともに「王孟韋柳」と呼ばれる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。但し、「世を退きて溪に居す」とあるが、以上の通り、彼は致仕せず、地方の閑職のまま不遇のうちに亡くなっており、事実に反する。以下の文章は彼の「愚溪對」に拠る。リンク先は「維基文庫」の原文。繁体字であるから、麦水の訳を対応させれば、概ねその通りであることが判る。

「潮州」上記「愚溪對」では『閩』(びん)とある。潮州は現在の広東省東端の潮州市附近閩州は現在の福建省附近相当の古い広域地名で、福建省はその潮州市に接しているから、問題ない。「中國哲學書電子化計劃」の同文では「惡溪。在潮州界。」と割注がある。

「貪泉」同じく「中國哲學書電子化計劃」の同文の割注に「廣州二十里、地名石門。有水曰貪泉。飮者懷無厭之欲。晉吳隱之賦詩曰「古人云此水、一歃懷千金。」。』とある。

「溪に貪ぼりし金玉のあるを見ず」「し」は「て」の誤りではないか?

「谷神」「老子」六章に拠る道家思想の人智を越えた玄妙なる不滅の道(タオ)の喩え。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) たそがれどき

 

たそがれどき

 

たそがれどきはけうとやな、

傀儡師(くぐつまはし)の手に踊る

華魁(おいらん)の首生(なま)じろく、

かつくかつくと目が動く………

 

たそがれどきはけうとやな、

瀉に墮(おと)した黑猫の

足音もなく歸るころ、

人靈(ひとだま)もゆく、家(や)の上を。

 

たそがれどきはけうとやな、

馬に載せたる鮪(しび)の腹

薄く光つて滅(き)え去れば、

店の時計がチンと鳴る。

 

たそがれどきはけうとやな、

日さへ暮るれば、そつと來て

生膽取(いきぎもとり)の靑き眼が

泣く兒欲(ほ)しやと戶を覗(のぞ)く…………

 

たそがれどきはけうとやな。

 

[やぶちゃん注:「けうとやな」「けうと」は平安以来の形容詞「けうとし」(氣疎し:「け」は接頭語で「気」由来の「何とも言えず」「なんとなく」の意を添える)の感動を表わす語幹の用法。ここは「人気(ひとけ)がなく寂しくて気味が悪いことよ」の意。

「傀儡師(くぐつまはし)」「傀儡子」とも書き、「くぐつし」「くぐつ」「かいらいし」とも呼ぶ。木偶(でく/もくぐう:本体を木で作った人形)又はそれを操る芸人やグループを指し、流浪の民や旅芸人の内で、狩猟と、傀儡(人形)を使った芸能を生業とした集団を起源とする。平安時代には既に存在し、後代になると、普通の旅回りの芸人の一座をも指した。後の人形芝居や人形浄瑠璃のルーツであるが、そうした経緯は参照したウィキの「傀儡子」を見られたい。ただ、ここで幼い白秋の描写するそれは、第一連全体を見るに、本格的な小屋掛けの人形芝居とは私には思われない(だとすると、家の者に連れられて入った小屋掛けのそれとなるが、シチュエーションとしてそれだと(それを映像にしてしまうと)、私には激しい違和感があるのである)。しかし、明治の中期までそうした門付芸としての古典的な一人で操る傀儡師が生き残っていたのかどうか、調べて見ても判然としない。識者の御教授を乞う。

「瀉に墮(おと)した黑猫の」既に序の「わが生ひたち」の「7」に、『恰度、夏の入日があかあかと反射する時、私達の手から殘酷に投げ棄てられた黑猫が黑猫の眼が、ぬるぬると滑り込みながら、もがけばもがくほど粘々(ねばねば)した瀉の吸盤に吸ひ込まれて、苦しまぎれに斷末魔の爪を搔きちらした一種異樣の恐ろしい點彩𤲿』という比喩表現の中に出現する。この部分、全体を読んで戴きたいが、比喩でありながら、実はその『』夏の入日があかあかと反射する時、私達の手から殘酷に投げ棄てられた黑猫が黑猫の眼が、ぬるぬると滑り込みながら、もがけばもがくほど粘々(ねばねば)した瀉の吸盤に吸ひ込まれて、苦しまぎれに斷末魔の爪を搔きちらした一種異樣の恐ろしい』光景部分は実は事実であることが判る。少年は残酷なものである。私はこの一行を青年期に見た瞬間、自身のおぞましい記憶が蘇った。……小学校の恐らく三年か四年の頃のことだ……友人たちと三人で学校帰りに小猫を拾った……誰もしかし、それを家に連れ帰って飼えるわけではなかった……けれども水はもう張っていない泥沼のような広い葦原があった……僕らはその小猫をそこに投げ入れた……鳴き声が聴こえた……誰からともなく、石礫を投げ始めた……三人とも黙々と投げ始めた……何度か投げているうちに鳴き声は消えていた……僕らは暫く耳を澄ませた後、互いに……「俺の石じゃないよな?」……と言い合った。そうしてそこで皆そそくさと別れて去った……今はマンションが建っているそこを通ることがある……私の耳には今でもその五十五年も前の子猫の鳴き声が……聴こえる……

「鮪(しび)」スズキ目サバ科マグロ族マグロ属 Thunnus のマグロ類の古称。縄文時代の貝塚から既にマグロの骨が出土しており、「古事記」・「日本書紀」・「万葉集」にもこの「しび」の名で記されてあり、古くから食用魚とされていたことが判る。従って「しび」の語源を探るのは難しいが、小学館「日本国語大辞典」の「語源説」には、『⑴シシミ(繁肉)の約転か〔大言海〕。⑵シシハミの反〔名語記〕。』(これはよく意味が判らないが、「肉(しし)食(はみ)」の反切(はんせつ:漢字の発音を示す伝統的な方法の一つで、二つの漢字を用いて一方の声母と、他方の韻母及び声調を組み合わせてその漢字の音を表わすもの)『⑶シシベニ(肉紅)の義〔日本語原学=林甕臣〕。⑷煮ると白くなるところからシロミ(白身)の義〔名言通〕。⑸時によりシブイ(渋)味がしてシビレルところから〔本朝辞源=宇田甘冥〕。』とある。焼津の「マルコ水産」公式サイトにも、鎌倉時代には『鮪を「宍魚」と書いて「しび」と読んでいたそうです。(「宍」という漢字は「獣の肉」を意味しており、鮪の赤身が獣の肉に似ていることからそう付けられたようです。)』とあった。全体に赤いという点では確かに特異点で、そう呼んだとしても私はおかしいとは思わない。]

三州奇談續編卷之五 末森の臼音

 

    末森の臼音

 一日今濱の人々と末森の城跡に上る。尾[やぶちゃん注:尾根。]續きの山峰廻りて自(おのづか)らの空堀(からぼり)となる。此間に椀・膳抔(など)を貸す洞穴あり。樵(きこり)路を迷はす幽谷あり。嶺上の道は北海を見盡して景云ふ許(ばかり)なし。本丸・二の丸・兵粮藏(ひやうらうぐら)等の跡、其間大いなり。ほのかにきく、末森は古へより大城(おほしろ)にして、奧村公の栅(とりで)に用ひ給ひしは、元來古城地の上に構へられしと覺ゆ。谷切れ山廻(めぐ)りて、眞(まこと)に天のなせる城地(じやうち)なり。東方は佐々成政が富山より押向ひたる笠懸・壺井山と云ふ峰なり。北方に長家(ちやうけ)の救援ありたりし白子濱の松も見ゆ。山上甚だ廣く、自(おのづか)らの谷切(たにぎれ)あり。今は土崩れ岩欠け碎けても、猶其廣きを見る。且つ兩方に石動・寳達の二山高く折れ臥したり。嶺上笹生ひ茂りて、松甚だ物寂びたり。天籟常に多くして膽寒し。獨步すべからず。東方の谷を「御花畑」と云ふ。是れ彼(か)の戰(いくさ)の日、米を以て馬を洗ひし計略を用ひし所なりと沙汰す。思ふに其頃是等の長計には及ぶべからず。水の手を取り切りて攻上がると聞き、城中必死の勢を以て能く防戰を遂げたるものと思はるれ。軍書の「七國志」には出だせり。是奧村氏をして危急絕地の躰(てい)を示し、其日の働きを强くせんと欲せしならん。予千秋氏の家に就て、國君の祖の感狀を讀むに、千秋氏の職・忠古今に秀で、勇氣の勵み奧村公に劣らず。故に加祿褒賞のことあり。然れば七國志の文の用、返りてかたかたをなみする害あり。此故に爰に告ぐ。又奧村公の室(しつ)御鍋(おなべ)御前侍女を率(ひき)ゐて働き、壯勇の名士と云ふとも及ぶべからず。且つ其心利きて粥餅を搗きて軍中の兵士へ分け與へ、其勢をねぎらひ、勇を勵ましむ。今に於て俗諺となれりと云ふ。其勇魂響きてや、此所にある木魂(こだま)餅を搗く如し。試(こころみ)に谷に入りて聲を發するに、兩方の嶺にこたへて、餅臼の拍子の如し。里人甚だ快しとして、古へを稱すること限りなし。將(ま)た山上には水氣ありて水猶出づ。今以て掘穿(ほりうが)ちて水を溜むれば、五七千人の口を濕すに足れり。城地はふしぎなるものなり。近年鐡門の跡虎口(ここう)と云へる山岸(やまきし)に、百合の鮮かに咲きたる、實(げ)に姫百合の名あるも、鬼の名の働きも聞えてけりと、或人の、

  勇々(をを)しさや虎口の百合の脛(はぎ)高き

さとかたは田畑兵衞の佐々が猛勢を誑らかしたる道と語りけるに、同じく、

  さとかたや 斑猫(はんめう)導く 山ふか見

など興じながら、猶此話の聞捨て難く、其奧をさがすことになん及びし。

[やぶちゃん注:「奧村公の栅(とりで)に用ひ給ひしは、元來古城地の上に構へられしと覺ゆ」の「構へられし」は底本では「構へられじ」であるが、打消推量・意志では意味が上手く取れない。「近世奇談全集」によって特異的に訂した。

「今濱」「麥生の懷古」に既出既注。

「末森の城跡」石川県羽咋郡宝達志水町竹生野(たこの)のここ「麥生の懷古」の注も参照。国土地理院図で見ると、自然の要害であることが手に取るように判る。

「椀・膳抔(など)を貸す洞穴あり」所謂、「椀貸(わんかし)伝説」である。池・沼・塚・洞穴などで、膳椀を頼めば貸してくれるとする伝承で、全国に広く分布している。椀を貸してくれるのはそれぞれの主(ぬし)である山姥・大蛇・狐・河童などと言われており、また、不心得者がいて,借りた椀を返さなかったため。以後、貸して貰えなくなったという話が附隨する。この伝説の由来については、木地屋 (きじや) と呼ばれた椀作りの工人との沈黙交易の歴史が説話化されたとする説と、土器の出土の謎を説明しようとするところから生れたとする説の二つがある。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠ったが、私のブログ・カテゴリ「柳田國男」『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一』(ここで「沈黙貿易」も説明されてあり、注も施してある)以下で十五回で詳述されてあるので、興味のある方は是非読まれたい。

「奧村公」奥村永福(ながとみ 天文一〇(一五四一)年~寛永元(一六二四)年)は織豊から江戸前期の武士。加賀金沢藩士。前田利家・利長・利常三代の藩主に仕えた。天正一二(一五八四)年、この末森城を守り、佐々成政の軍勢を撃退したことで知られる。尾張以来の前田家家臣で金沢藩八家の内の奥村宗家初代。

「笠懸」不詳。東方向なら、似た名前に羽咋郡宝達志水町原の棚懸城跡があり、標高二六三メートルの山頂に築かれている。すぐ東が富山県氷見市棚懸。

「壺井山」不詳。坪井山砦跡が近くにあるが、ここは末森城の南南西で東はない。但し、個人サイト「北陸の城跡」の「坪井山砦跡」に、『末森城の出城として末森城から交代で、守将が守っていたが、佐々成政(富山城)・神保氏張(守山城)の軍に攻略され、末森の合戦では佐々軍の本陣になる』とあるので、当時の状況的にはここであっても問題はない。

「長家の救援」「末森城の戦い」では長連龍(つらたつ)の軍が利家の救援軍として駆けつけ、利家に「抜群の活躍比類なし、真実頼もしく候」と賞されている。但し、実は実戦には参加しておらず、合戦後に危険を顧みずに駆けつけた点を利家から賞されたのであった(ウィキの「長連龍」に拠る)。

「白子濱」北なら、出浜か千里浜である。

「自らの谷切あり」自然に生じた攻めるに難い深く食い込んだ谷がある。

「米を以て馬を洗ひし計略を用ひし所なり」籠城戦ではかなり知られた籠城側の計略。城攻めではまず包囲網によって水を絶つことが肝要である。その際、籠城側は、まだ城内には水が豊富にある、と敵に思わせるために、包囲軍から見える所で白米を馬に浴びせ、馬を洗い始める。遠くからこれを見ると、米が水のように見え、包囲軍は水断ちの効果はないと勘違いするという守りの機略であるが、実際にはしょぼくてすぐばれそうな気はする。

『軍書の「七國志」』江戸中期の小説家で近世最大の軍書作家と称される馬場信意(のぶおき/のぶのり 寛文九(一六六九)年~享保一三(一七二八)年)の「北陸七(しち)國志」。

「千秋」「末森城の戦い」で奥村とともに籠城した武将千秋範昌(せんしゅうのりまさ)の後裔であろう。

「感狀」主に軍事面において特別な功労を果たした下位の者に対し、上位の者がそれを評価・賞賛するために発給した文書のこと。

「故に加祿褒賞のことあり」「加能郷土辞彙」の千秋範昌の項に、「末森城の戦い」の『後』、『十六日利家は、押水の内千俵の地を加增して之を賞し、前後八千五百六十俵を受けた。範昌歿後一子彦兵衞幼にして五百石を受け、爲に家道衰へたが、後裔相襲』(つ)『いで藩に仕えた』とある。

「返りてかたかたをなみする害あり」「なみする」は「無みする」「蔑する」で形容詞「無し」の語幹に連用修飾語を作る接尾語「み」の付いた「なみ」に動詞「す」の付いたものの連体形で「そのものの存在を無視する・ないがしろにする」の意。却って奥村公以外の人々を蔑(ないがし)ろにしてしまう弊害がある。

「粥餅」「望粥」「餅粥」(もちがゆ)のことであろう。古くは望(もち)の日、特に正月十五日に作った小豆(あずき)粥のこと。後世は「望」を「餅」の意にとり、実際の餅を入れて煮た。「搗きて」とあるから、餅入りであろう。

「鐡門の跡虎口と云へる山岸に、百合の鮮かに咲きたる、實(まこと)に姫百合の名あるも、鬼の名の働きも聞えてけり」「鐡」・「虎口」・「山岸」(切り立った崖)というおどろおどろしいシチュエーションに対して、対照的に「百合の鮮かに咲き」、それが実に「姫百合」という名の花で「ある」というのも、「鬼」神・武神の命「名の働きも」自然、感じられるものだ、という謂いであろう。単子葉植物綱ユリ目ユリ科ヒメユリ Lilium concolor。五~六月、橙・赤・黄色などの杯(さかずき)状の星形の小花を開く。本邦の自生地では群生せず、まばらに生えることが多い。

「勇々しさや虎口の百合の脛高き」女たちが和服の袖を引き上げて脛が見えるのも構わず、武士(もののふ)らと籠城戦に働くさまをスーパー・インポーズしたものであろう。

「さとかた」麓の村里のある方。

「田畑兵衞の佐々が猛勢を誑らかしたる道」「田畑兵衞」は現在の石川県羽咋郡宝達志水町(ほうだつしみずちょう)沢川(そうごう)及び富山県高岡市福岡町(まち)沢川(そうごう)附近の旧沢川(そうごう)村の地付きの豪族。個人サイト「赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!」の『【北陸七国史】「能登末森城の戦い」を左右した「五位庄沢川村 田畑兵衛の裏切り」!!』に、『五位庄の中に在り、しかも県境の要衝に当たる「沢川村」は丁度、両城の中間に当たり、しかも、網の目の様に張り巡らされた山道の結節点に当たる。その「沢川村」を束ねていた土豪の田畑兵衛は佐々軍に味方すると見せかけて佐々軍を遠回りさせ山中で迷子にさせて佐々軍の末森への参陣を業と遅らせた。この身内と思っていた田畑兵衛の裏切りは、赤丸、柴野の佐々軍にとっては思いもかけなかった。このまさかの裏切りで、前田利家軍の応援部隊が到着して、佐々軍は末森城を落とせなかった。この戦いでの失策は実質的に佐々軍の敗北に直結し、その後、前田軍の連絡で越中に攻め寄せてきた豊臣秀吉の大軍は富山市の呉羽山に本陣を設け、出城の安田城を築いて富山城の佐々軍に対峙した。成政は秀吉から「僧の姿で本陣に詫びに来れば許す」とする書状を受け取り、戦う事無く敵陣の中を歩いて秀吉の下に出向いた。途中、敵陣の将兵が嘲笑う中を成政は一人、呉羽山を登り』、『秀吉の下に膝を屈した』。『その後、九州熊本に転封になった成政は予てからの知り合いの秀吉の妻ねねに越中富山の立山に咲く珍しい「黒百合」を献上するが、この黒百合が「不吉」だと噂されて、遂には一揆の責任を取らされて成政は切腹させられた』とある。地図画像を用いて判り易く説明されており、さらに先に出た「北陸七國志」の「田畠兵衞嚮導」を画像で読むことが出来る。必見!

「斑猫」昆虫綱有翅昆虫亜綱新翅下綱Coleopterida 上目鞘翅(コウチュウ)目食肉(オサムシ)亜目オサムシ科ハンミョウ亜科 Cicindelini Cicindelina 亜族ハンミョウ属ハンミョウ(ナミハンミョウ)Cicindela japonica。人が近づくと飛んで逃げ、一〜二メートルほど飛んでは着地し、度々、後ろを振り返る。往々にしてこれを繰り返すことから、そのさまを道案内に喩え、「みちおしえ」「みちしるべ」という別名を昔から持つ。本種に関しては、博物誌として私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 斑猫」の本文及び私の注を必ず参照して欲しい。かなり強い毒性を持つ鞘翅目Cucujiformia 下目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科 Meloidae に属するツチハンミョウ(土斑猫)類と本種を混同してはいけないからである。

「など興じながら、猶此話の聞捨て難く、其奧をさがすことになん及びし」は「三州奇談續編」に入ってから、異様に多くなった「次回のお楽しみ」的な「続く」を示すやり方である。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 敵

 

 

いづこにか敵のゐて、

敵のゐてかくるるごとし。

酒倉のかげをゆく日も、

街(まち)の問屋に

銀紙(ぎんがみ)買ひに行くときも、

うつし繪を手の甲に押し、

手の甲に押し、

夕日の水路(すゐろ)見るときも、

ただひとりさまよふ街の

いづこにか敵のゐて

つけねらふ、つけねらふ、靜こころなく。

 

[やぶちゃん注:幼児や少年期にありがちな病的とは言えない強迫的追跡妄想である。私もそんな遠い昔の記憶がある(但し、それはしかし、私の場合、妄想起原ではなく、都会から田舎に戻った結果、激しいいじめに逢ったことによるトラウマであったという点では、トンカ・ジョン白秋のような甘い幻想とは無縁であったが)。

「うつし繪」現在のシールの起原と考えてよい小児玩具である。平凡社「世界大百科事典」によれば、人物や花などの絵を色刷りにしたもので、これを水にぬらして腕や手の甲にはりつけると、絵が台紙から離れ、肌に移って染まるものである。江戸末期には木版刷りで入墨を模したものがあったとある。私の少年時代には普通に駄菓子屋で売られていた、懐かしいものである。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) アラビアンナイト物語

 

アラビアンナイト物語

 

鳴いそな鳴いそ春の鳥。

菱(ひし)の咲く夏のはじめの水路(すゐろ)から

銀が、みどりが…………顫へ來て、

本の活字(くわつじ)に目が泌みる。

 

鳴いそな鳴いそ春の鳥。

赤い表紙の手ざはりが

狂氣(きやうき)するほどなつかしく、

けふも寢てゆく舟の上。

 

鳴いそな鳴いそ春の鳥。

葡萄色した酒ぶくろ、

干しにゆく日の午後(ひるすぎ)に

しんみりと鳴る、櫓の音が………

 

鳴いそな鳴いそ春の鳥。

ネルのにほひか、酒の香か、

舟はゆくゆく、TONKA JOHN.

魔法つかひが金の夢。

 註 酒を搾り了れるあとの濕りたる酒の袋を
   干しにとて、日ごとにわが家の小舟は街
   の水路を上りて柳河の公園の芝生へとゆ
   く。わが幼時の空想はまたこの小舟の上
   にて思ふさまその可憐なる翅をばかいひ
   ろげたり。

 

[やぶちゃん注:註は底本では四行書きであるが、ブラウザの不具合を考え、六行に分かった。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 午後

 

午後

 

わが友よ、

けふもまた骨牌(トランプ)の遊びにや耽らまし、

かの轉(ころ)がされし酒桶(さかをけ)のなかに入りて、

風味(ふうみ)よき日光を浴(あ)び、

絕えず白きザボンの花のちるをながめ、

肌さはりよきかの酒の木香(きが)のなかに日くるるまで、

わが友よ、

けふもまた舶來のリイダアをわれらひらき、

珍らしき節つけて『鵞鳥はガツグガツグ』とぞ、そぞろにも讀み入りてまし。

 

[やぶちゃん注:「リイダア」reader。ここは恐らく幼児用の絵入り初級英語読本であろう。

「鵞鳥はガツグガツグ」古からある英語の童謡で知られた数え歌の“Five Little Ducks”があり、その一節に“Mother duck said, "quack quack quack quack,"”と出る。「q」音は発音し難く、また、児童には「g」にも見違える。音写の「クワック」は「ガツグ」に近い。無論、「duck」はアヒルで、ガチョウと同じ目的でガンカモ科マガモ Anas platyrhynchos を家禽化した全くの別種ではあるが、小児には区別はつかないことが多いから、この注は必ずしも無効ではあるまい。拘るなら、“Goose crow gabble-gabble”だが、この英語のオノマトペイアは逆に頭音「ガ」は一見一致して見えても(但し音写は「ギャブル」に近い)、「ツグ」とは到底読めない。]

2020/06/18

三州奇談續編卷之五 今濱の陰石


    今濱の陰石

 此妙法輪寺の旦越(だんをつ)なる、今濱の酒肆(しゆし)見推なる人の元に宿る。爰に陰隲(いんしつ)の奇話を聞く。

[やぶちゃん注:「妙法輪寺」「麥生の懷古」に既出既注。

「旦越」檀越。「だんをち」と読んでもよい。寺や僧に布施をする信者。檀那。檀家。梵語の「ダナ・パティ」(「施主」の意)の漢訳。

「今濱」「麥生の懷古」に既出既注。

「酒肆」酒屋。

「見推」不詳。しかし、如何にも俳号っぽく、麦水の知人と思われる。

「陰隲」天が人の行為を見て善悪を定めて禍福を下すこと。「書経」(尚書)の「洪範」に見える語で、元は天が無言のうちに民を安定させること。転じて「陰徳」の意にも用いられる。]

 

 主(あるじ)夜話に曰く、

「我家に二十年許(ばかり)先きに、色々快(こころよ)からざること多かりし程に、心憂く覺(おぼえ)しことありしに、其頃怪しき隱士[やぶちゃん注:隠者風体の者。]來りて此近邊に住めり。山伏に似て修驗者にもあらず。佛に依らず儒にあらず。先(まづ)道士とか稱すべき風なり。折節我家にも來り、異國の物語りなどして興ぜしが、或時我に問ひて申しけるは、

『此家は土中にたゝる物あり、何か思ひ當り給ふことなきか』

と云ふ。予曰く、

『此頃は少し心にかゝることもあり。いかにや』

と云ふに、隱士うなづきて、

『左(さ)候べし。是[やぶちゃん注:とあるある物。]を乾ける砂中に置く、此故に祟ることあらん。探し見給へ』

と云ふ。依りて普(あまね)く探しけるに、替れる物何もなし。其後二ヶ月ばかり經て、穴藏を掘ることありしが、土中一丈許も下に至りて一の石を得たり。人工にして人工ならず。天工にして壺の形をなし、削れるが如き石なり。

 是を彼の隱士山伏に示す。隱士の曰く、

『是なり。是は上古の神主なり。則(すなはち)陰隲の一にして、「陰石」と云ひ、水氣を守りて、水源に是を水に浸して置きなば、家運長久、萬事穩かなるべし』

と云ふ。

 依りて夫より向ひの[やぶちゃん注:「に」とあるべきところ。]切石の水舟(みづぶね)を拵へ、此中に置く。是より後は心懸りの事ども悉く去りて、いつしか不快の思ひ止み、近くは益(ますます)家業を增し盛になるを覺ふ[やぶちゃん注:ママ。]。

『試みに見給へ』

とて、泉水より取出して示さるゝに、其形七八寸許にして、靑き斑紋ひしとあり。蓋(ふた)の只(ただ)明(あ)く許にして、天工自然なり。打廻し見れば、手なき人の如くに見ゆる所もあり[やぶちゃん注:両腕がない人の形のように見える感じもある。]。是も水神ならんを知る。」

 其山伏躰(てい)の人を尋ぬるに、

「其士は此地を立去りて、十七八年を經たり」

と云ふ。又所以を問ふべき道なし。

 今日(こんにち)を以て見れば靈驗甚だし。陰隲を祭ると云ふこと、何に出でたることにや。因(ちなみ)もありげに聞こゆ。

 又「蛇床(へびどこ)」と覺えて、米俵の上ヘ蛇咥(くは)へ來りて、枕して臥居(ふしゐ)たる石二つを示さる。

「是は目(ま)のあたりに藏の中に折々あり」

となり。蛇必ず此石を咥へ來りて枕して睡る。人の追ふ時か、或は俵の崩れたる時の如きには、驚きてや落し去ることあり。白石にして鳥帽子の如く、筋(すぢ)色々あり。書くが如く銀光入り交りたる小石なり。世に能く見る石ながら、目(ま)の邊(あた)り蛇(へび)床(とこ)とするを見る故、爰に記しぬ。

 思ふに此邊(このあたり)は石少(すくな)し。蛇も又石を愛するか。

 秦(しん)の國に蟹なし、故に蟹の甲を門に懸くれば妖邪入らずと聞えたり。

 鬼魅又是を知らずして尊むにや。

 然らば多きは靈薄く、稀なるは靈多し。藥物を遠きに得る、其理(ことわり)も又あるか考ふべし。

[やぶちゃん注:「秦(しん)の國に蟹なし、故に蟹の甲を門に懸くれば妖邪入らずと聞えたり」出典未詳。それらしいものが載りそうな漢籍を検索してみたが、ない。識者の御教授を乞う。これは戦国時代の秦としか思えないが、当時の秦は完全な内陸で、そもそもが世界的にも完全な淡水産カニ類は極めて少ない。因みに、同様の風習は本邦にも多く、鬼面蟹・平家蟹・武文(たけぶん)蟹・島村蟹などと呼ばれる、おどおどろしい顔に見える甲羅を持つヘイケガニ(節足動物門甲殻亜門軟甲綱十脚目短尾下目ヘイケガニ科ヘイケガニ属ヘイケガニ Heikeopsis japonica)及びその仲間(詳しくは私の『毛利梅園「梅園介譜」 鬼蟹(ヘイケガニ)』を参照)は古くから戸口の魔除けとされ、静岡県では巨大なタカアシガニ(短尾下目クモガニ科タカアシガニ属タカアシガニ Macrocheria kaempferi)の甲羅に恐ろしい顔を彩色して描き、魔除け(或いは子供用の魔除け)として飾る習慣がある。また、長野県小県(ちいさがた)郡などには「蟹の年取」という正月行事があり、サワガニ(短尾下目 Brachyura 上科サワガニ上科サワガニ科 Potamidae 属サワガニ属サワガニ Geothelphusa dehaani)を串に刺して戸口に挟んだり、「蟹」の字や絵を張って流行病除(はやりやまいよ)けなどにする。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 監獄のあと

 

監獄のあと

 

廢(すた)れたる監獄(かんごく)に

鷄頭さけり、

夕日の照ればかなしげに

頸(くび)を顫はす。

 

そのなかにきのふまで

白痴(はくち)の乞食(こじき)、

髮くさき女の甘き恐怖(おそれ)もて

虱(しらみ)とりつる。

 

ある日、血は鷄頭の

半開(はんかい)の花にちり、

毛の黃なる病犬(やまいぬ)の

ひとり光りぬ。

 

そののちはなにも見ず、

かの犬も殺されて

しどけなき長雨の

ふりつづく月はきぬ。

 

廢れたる監獄に

鷄頭さけり、

夕日のてればかなしげに

頸(くび)を顫はす。

 

[やぶちゃん注:「監獄のあと」不詳。まさか翌年、自分が監獄入るとは思ってもいなかったろう。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) わが部屋

 

わが部屋

 

わが部屋にわが部屋に

長崎の繪はかかりたり、――

路のべに尿(いばり)する和蘭人(おらんだじん)の――

金紙(きんがみ)の鎧もあり、

赤き赤きアラビヤンナイトもあり。

 

わが部屋にわが部屋に

はづかしき幼兒(をさなご)の

ゆめもあり、

かなしみもあり、

かつはかの小さき君の

なつかしき足音もあり。

 

わが部屋に、わが部屋に

奇異(ふしぎ)なる事ありき、

かなしきはそれのみか、

その日より戶はあかず、…………

せんなしや、わが夢も、足音も、赤き版古(はんこ)も。

 

わが部屋に、わが部屋に

弊私的里(ヒステリー)の從姉(いとこ)きて

蒼白く泣けるあり。

誰なれば誰なればかの頭(あたま)

醫者のごと寄り添ひて眠(ね)るやらむ。

 

わが部屋にわが部屋に、

ほこらしく、さは二人(ふたり)。

 

[やぶちゃん注:本篇のシークエンスは既に序の「わが生ひたち」の「8」に、

   *

 Tonka John の部屋にはまた生れた以前から舊い油繪の大額が煤けきつたまま土藏づくりの鐵格子窓から薄い光線を受けて、柔かにものの吐息のなかに沈默してゐた、その繪は白いホテルや、潚洒な外輪船の駛しつてゐる異國の港の風景で、赤い斷層面のかげをゆく和蘭人と読んでおく。]の一人が新らしいキヤべツ畑の垣根に腰をかがめて放尿してゐるおつとりとした懷かしい風俗を𤲿いたものであつた。私はそのかげで每夜美くしい姉上や肥滿つた氣の輕るい乳母と一緖に眠るのが常であつた。

   *

と散文化してあった。「駛しつて」は「はしつて」、「肥滿つた」は「ふとつた」。

「版古(はんこ)」立版古(たてばんこ)のことか。ウィキの「立版古」によれば、『江戸時代後期から明治期にかけて流行ったおもちゃ絵の一種で』、『あらかじめ絵柄の印刷された一枚の紙からたくさんのパーツを切り抜き、設計図にそって組み立て、一種のジオラマを完成させて楽しむものである。「組上げ灯籠」「組上げ絵」などともいう。歌舞伎の名場面などに題材を取るものが多かった。制作者は絵の才能と同時に、限られた紙面にうまくパーツを配する技術も要求された』。『おもちゃ絵の中では歴史があり、江戸時代中期にはすでに制作されており、歌川芳藤らが得意としていた。江戸時代後期には葛飾北斎らも制作に当たった。明治時代中期に流行したのちは廃れ、大正時代以降はあまり見かけられなくなった』。

「弊私的里(ヒステリー)」(オランダ語:hysterie/ドイツ語:Hysterie/英語: hysteria)は『幕末から明治期初期には「歇以私的里(ヘイステリ)」というオランダ語に漢字を当てたものも用いられていたし、明治末の『辞林』(一九〇七年)にも「弊私的里(ヘイステリ)」とある。英語に漢字を当てたものとしては「歇私的里(ヒステリイ)」「歇斯的里(ヒステリ)」などが用いられた』と坪井秀人「偏見というまなざし 近代日本の感性」二〇〇一年青弓社刊)にあった。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 紙きり蟲

 

紙きり蟲

 

紙きり蟲よ、きりきりと、

薄い薄葉(うすえふ)をひとすぢに。

何時(いつ)も冷(つめ)たい指さきの

靑い疵(きず)さへ、その身さへ、

遊びつかれて見て泣かす、

君が狂氣(きやうき)のしをらしや。

紙きり蟲よ、きりきりと

薄い薄葉(うすえふ)をひとすぢに。

 

[やぶちゃん注:鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目ハムシ上科カミキリムシ科 Cerambycidae のカミキリムシ類は本邦だけでも八百種ほどが知られる。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 夕日

 

夕日

 

赤い夕日、――

まるで葡萄酒のやうに。

漁師原に鷄頭が咲き、

街には虎剌拉(コレラ)が流行(はや)つてゐる。

 

濁つた水に

土臭(つちくさ)い鮒がふよつき、

酒倉へは巫女(みこ)が來た、

腐敗止(くさどめ)のまじなひに。

 

こんな日がつづいて

從姉(いとこ)は氣が狂つた、

片おもひの鷄頭、――

あれ、歌ふ聲がきこえる。

 

恐ろしい午後、

なにかしら畑で泣いてると、

毛のついた紫蘇(しそ)までが

いらいらと眼に痛(いた)い。…………

 

赤い夕日、――

まるで葡萄酒のやうに。

何かの蟲がちろりんと

鳴いたと思つたら死んでゐた。

 

[やぶちゃん注:本篇の内容は実に序の「わが生ひたち」の「2」の中で非常に具体的に描写されており、本篇はその反歌のようにさえ見える。また、コレラ及び本篇の推定時制は「靑き甕」の私の注を見られたい。

「漁師原」序で注したが、再掲する。これは恐らく沖端の漁師村の中の地域内での限定地名呼称であろう。現在の地名としては現認は出来ない。但し、私は本来は「りやうしばる(りょうしばる)」と読んだのではないかと疑っている。九州では有意な岡や野原は「原(ばる)」と呼称されるからである。因みに、私の亡き母は鹿児島出身である。

「腐敗止(くさどめ)のまじなひ」醸造中の酒槽の中の酒が暑さのために腐るの防ぐための咒(まじな)い。火入れして未開封の日本酒は腐らないが、樽の中の製造過程の生酒あるはその前の状態では腐る。種田山頭火の彼名義で父がやっていた酒蔵は山口県吉敷郡大道村(だいどうそん)にあった(現在の防府市の南西端)が、山頭火と父のダブル放蕩で二年に亙って酒を腐らせ、数年後に破産し、彼の破滅的流浪の遠源の一つとなった。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 爪紅

 

爪紅

 

いさかひしたるその日より

爪紅(つまぐれ)の花さきにけり、

TINKA ONGO の指さきに

さびしと夏のにじむべく。

  Tinka ongo. 小さき令孃。柳河語。

 

[やぶちゃん注:前詩「いさかひのあと」との組曲である。「爪紅(つまぐれ)」はそちらの注を参照されたい。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) いさかひのあと

 

いさかひのあと

 

紅(あか)いシヤツ着てたたずめる

TONKA JOHN こそかなしけれ。

白鳳仙花(しろつまぐれ)のはなさける

夏の日なかにただひとり。

 

手にて觸(さは)ればそのたねは

莢(さや)をはぢきて飛び去りぬ。

毛蟲に針(ピン)をつき刺せば

靑い液(しる)出て地ににじむ。

 

源四郞爺は、目のうすき、

魚かついでゆき過ぎぬ、

彼(かれ)の禿げたる頭(あたま)より

われを笑へるものぞあれ。

 

憎(にく)き街(まち)かな、風の來て

合歡(カウカ)の木をば吹くときは、

さあれ、かなしく身をそそる。

君にそむきしわがこころ。

 

[やぶちゃん注:「白鳳仙花(しろつまぐれ)」「つまぐれ」は「爪紅(つまぐれ)」で紅い鳳仙花の花の異名であり、九州或いは熊本附近の方言異名である可能性が個人ブログ「tukusi34のブログ」の「つまぐれ(爪紅)ホウセンカの異名」で指摘されてある。フウロソウ目ツリフネソウ科ツリフネソウ属ホウセンカ Impatiens balsaminaウィキの「ホウセンカ」によれば、『本来の花の色は赤だが、園芸品種の花には赤や白、ピンク、紫のものがあり、また、赤や紫と白の絞り咲きもある』とある。

「源四郞爺」不詳。

「合歡(カウカ)」ルビはママ。後発の諸本でもほぼ同じであるが、後の昭和三(一九二八)年アルス刊の北原白秋自身の編著になる自身の詩集集成の一つである「白秋詩集Ⅱ」の本篇(国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ画像)では『ガフカ』と濁っている。音読みならば「カフクワン」或いは「ガフクワン」であるが、或いは方言口語読みなのかも知れぬ。マメ目マメ科ネムノキ亜科ネムノキ属ネムノキ Albizia julibrissin。音読みは後者の「ガフクワン(ゴウカン)」が普通。私の最も偏愛する花である。]

「先生」の過去の具体な告白が、今日、始まる

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月18日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十七回

一気に父母を亡くした時(推定十七歳)から始まるというのは、どう考えてもおかしい。

(「先生」は学生の「私」に直接に出生地の地方名或いは県名ぐらいは言ったであろう。でないと、私の好きな(四十一)の明治天皇崩御の報知の直後の私が弔旗を実家の門に掲げるシークエンス、

 私は黑いうすものを買ふために町へ出た。それで旗竿の球を包んで、それで旗竿の先へ三寸幅のひら/\を付けて、門の扉の橫から斜めに往來へさし出した。旗も黑いひら/\も、風のない空氣のなかにだらりと下つた。私の宅の古い門の屋根は藁で葺いてあつた。雨や風に打たれたり又吹かれたりした其藁の色はとくに變色して、薄く灰色を帶びた上に、所々の凸凹さへ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黑いひら/\と、白いめりんすの地と、地のなかに染め出した赤い日の丸の色とを眺めた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。私はかつて先生から「あなたの宅の構へは何んな體裁ですか。私の鄕里の方とは大分趣が違つてゐますかね」と聞かれた事を思ひ出した。私は自分の生れた此古い家を、先生に見せたくもあつた。又先生に見せるのが恥づかしくもあつた。

の叙述がしっくりと腑に落ちてこないからである。)

上記の注で、私は以下のように書いた。

自分の過去を学生にのみ確かに語ることへの非常な拘りを持っている先生の書き方としては唐突な気がする。この頭に実は簡単な出身地(私の推定は新潟)に関わる叙述と生年及び生家の梗概等が簡単にでも語られるのが私は『普通』であると思う。そして先生が、それを省いてここから書いた、とは思われない。そうした年譜的事実の省略は文章に不自然さを齎さない。だから、今まで気づかなかったのだ。しかし、こうして指摘すると、あたかも源氏が11歳から17歳の青年になるまでが描かれないのと同じく、妙に不満なのである。私は少なくともおかしいと思うのである。私が先生で遺書を書くとしたら、こんなは書き方は絶対しない。数行でいいのだ。必ず生年と家柄を述べるであろう。生家への言及は実際、(五十九)で「私の家は舊い歴史を有つてゐる」と現われる。決して先生は財産が相応にある自家の家系について決して無関心ではなかったはずだ。その財産のルーツについて語るべき義務もあると思われるし、先生は『語ったはずである』。――だとすれば、やはり、その部分は「私」によって省略されたものと私には思われるのである

私は現在――先生の「遺書」は全文ではなく、学生の「私」によって恣意的にカットされた部分が厳然としてある――と確信している。

そうして先生の「遺書」パートはそれを勘案した上で、読まれなければならない、そのカットされた内容を想起し、推察せねばならないという茫漠とした地平に於いて、やはり今も「こゝろ」は解けない謎の書物であり、在り続ける、と言いたい――

2020/06/17

カテゴリ「怪奇談集」1000話達成

カテゴリ「怪奇談集」は2016年9月に始めてより、4年足らずしか経っていないのだが、先程の投稿で丁度、1000話となった。もっと倍以上の年月やってきた気になっていた。いや、思えば、遠く来たもんだなぁ…………

三州奇談續編卷之五 古碑陸奥

    古碑陸奥

 右に記す麥生(むぎを)・竹生野(たこの)の邊(あたり)、城下めきたる町名(まちな)の付きたる里多し。思ふに往古源の順(したがふ)能州任官の頃、此あたりにも館(やかた)して、暫く都會の趣ありと覺ゆ。道じるし・碑など、文明・天文の頃迄は銘ある瓦石(ぐわせき)のあちこちに立てありしが、元來此邊(このあたり)石なき所なれば、村里の礎(いしずゑ)に用ひ、寺院堂社の塔婆などに直し用ひて、慥(たしか)に夫(それ)と知るべきものなし。今にても全き物を得ば、石摺(いしずり)となして古銘の證跡なるを顯(あらは)すべきに、惜(をし)きことかな今はひとつもなし。適々(たまたま)公境と私境との領境(りやうざかひ)の橋に交(まぢ)りありし。享保の頃迄は一字か二字か顯(あらは)れありしが、今は松板(まついた)に換りて、其石は何にかなりはてゝなし。惜むべし。

「此地今も末森に城主ありて、地に好事の者も住むならば、何ぞ拾ひ出(いだ)して懷古の思ひの種とせんに、口をし口をし」

と、妙法輪寺の住僧憤られし。

[やぶちゃん注:「麥生(むぎを)・竹生野(たこの)」前条「麥生の懷古」を参照。地名の読みもそちらの私の注を必ず参照されたい。独自に最も適切と私が判断したもので振ってあるからである(「近世奇談全集」では前者を『むぎふ』、後者を『たかふの』とするが、従えない)。

「源の順」源順(みなもとのしたごう 延喜一一(九一一)年~永観元(九八三)年)は平安中期の貴族・歌人で学者。嵯峨源氏で、大納言源定(さだむ)の曾孫にして左馬允源挙(こぞる)の次男。官位は従五位上・能登守。「梨壺の五人」の一人にして「三十六歌仙」の一人である。嵯峨天皇の子であった源定第六子であったが、淳和天皇の猶子となり、賜姓源氏で降下した)を祖とし、その子(三男か)源至は左京大夫に進んだが、至の子であった挙は正七位下相当にしか進めず、しかも延長八(九三〇)年には急死した(至は「伊勢物語」第三十九段に色好みでけしからぬ歌を詠んだエピソードの主役として登場している)。ウィキの「源順」によれば、『順は若い頃から奨学院において勉学に励み博学で有名で、承平年間』(九三一年~九三八年)に二十歳代の若さで『日本最初の分類体辞典『和名類聚抄』を編纂した。漢詩文に優れた才能を見せる一方』、和歌にも優れ、天暦五(九五一)年には『和歌所の寄人』(よりうど)『となり、梨壺の五人の一人として『万葉集』の訓点作業と『後撰和歌集』の撰集作業に参加した』。天徳四(九六〇)年の内裏歌合にも出詠しており、様々な歌合で判者(審判)を務めた。特に斎宮女御・徽子女王とその娘・規子内親王のサロンには親しく出入りし』、貞元二(九七七)年の斎宮『規子内親王の伊勢国下向の際も群行に随行している』。『しかし、この多才ぶりは伝統的な大学寮の紀伝道』(元は歴史(主に中国史)を教えた学科。後に漢文学の学科である文章道(もんじょうどう)と統合して歴史・漢文学の両方を教える学科となった)『では評価されなかったらしく、文章生に補されたのは和歌所寄人補任よりも』二年後の天暦七(九五三)年で四十三歳の時であった。天暦一〇(九五六)年に『勘解由判官に任じられると、民部丞・東宮蔵人を経て』、康保三(九六六)年に『従五位下・下総権守に叙任される(ただし、遥任)』。康保四(九六七)年には『和泉守に任じられる。しかし、源高明のサロンに出入りしていたことが、任期中の』安和二(九六九)年に発生した「安和の変」(藤原氏による他氏排斥事件の一つ。謀反の密告により左大臣源高明が失脚させられた)『以後の官途に影響を与え』、天禄二(九七一)年の『和泉守退任後』、天元三(九八〇)年或いは前年に『能登守に補任されるまで長い散位生活を送った。なお、この間の』天延二(九七四)年には『従五位上に叙せられている』。勅撰歌人として「拾遺和歌集」に二十七首が入集されて、後の勅撰和歌集には五十一首が採られている。『大変な才人として知られており、源順の和歌を集めた私家集『源順集』には、数々の言葉遊びの技巧を凝らした和歌が収められている。また『うつほ物語』、『落窪物語』、『篁物語』の作者にも擬せられ、『竹取物語』の作者説の一人にも挙げられ』ている、とある。老齢(七十歲)でもあり、遥任国守かと思ったが、個人サイト「国府物語」の「能登国」の記載を読む限り、驚異の実務国守であったようである。「安和の変」に絡んだ見せしめか。能登国府跡は発掘されていないが、まさに順自身の記した「和名類聚抄」巻五「國郡部第十二」の「北陸郡第六十三」の「能登國」には「能登國國府在能登郡」とあり、先のリンク先によれば、『現在の七尾市古府の総社』(ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『の近くか、七尾市府中町』(ここ)『のあたり』にあったと推定出来るとある。但し、「麥生・竹生野」からは北東に二十七キロ以上離れている。

「城下めきたる町名の付きたる里多し」どのような名を指しているか不明。現行地名にはそれらしいものは私は認めない。

「文明・天文」スパンが長過ぎる。文明は一四六九年から一四八七年で、その後、長享・延徳・明応・文亀・永正・大永・享禄を挟んで、天文(一五三二年から一五五五年)となり、実に八十六年もある。

「公境と私境との領境の橋に交りありし」加賀藩の藩領の中の私的な領地の間に架けられた橋の石材に交じっていたという意か。

「享保」一七一六年から一七三六年。

「今は松板(まついた)に換りて」「三州奇談」の完成は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定されているから、「今」はその頃で、「橋の石材部は皆、松板材に替えられてしまっていて」の意であろう。

「末森に城主ありて」前条「麥生の懷古」で注した通り、末森城は既に元和元(一六一五)年の「一国一城令」で廃城となっている。

「妙法輪寺」前条「麥生の懷古」に既出既注。]

 

 次でに陸奧の話をなして云ふ。

「我は津輕に住みたる者なれば、略々(ほぼ)聞きたり。是は今云ふ『壺の石文(いしぶみ)』と稱する石、仙臺の傍(そば)にあれども、是はいつの代にか作意したる形代(かたしろ)なり。其(その)實(まこと)の石文と云ふは、津輕七戶(しちのへ)の内の壺村と云ふにあり。其地は壺川と云ふ流(ながれ)あり。此内松淵と云ふ所に四五丈許の石、川水に中ば橫(よこたは)りてあり。水の方へ潛り見れば、『曰本中央』の文字も見ゆると云ふ。是ぞ實の『壺の碑』と稱すべきなり。

 石文やつがるの遠に有と聞えて世の中をおもひはなれぬ

と、『拾玉集』に淸輔がよめるも慥なる證據なり。仙臺の石碑は石小さし。其上あたりの鄕に『壺』の字の所なし。仙臺は世々の都會なる故に移して引きたると見ゆ。古跡を新しく作ることは、奧州のならはしなり。多賀の城跡に里程を記したるは別物なり。里程も合はず。實は南部の壺村四五丈許(ばかり)の石、『是ぞ田村丸(たむらまろ)などの弓筈(ゆはず)にて彫りし』など云ひ傳ふる壺の石碑なるべし。文字見えざるが爲に、中頃の似せ物にまけたると見ゆ。此事は小野氏道敬、神道の禳占して誓(せい)を立て爰を證すといへり。仙臺は繁榮の地なれば其物を殘し、南部は奧の末なれば其物隱る。爰の北地も海道の往來繁き所ならば、いか許(ばかり)『萬葉』以來の古歌に合せて古蹟も作るべきに、寂寞と人通り絕えたる所なれば、物を作意することもなく、昔の儘に荒果(あれは)て、村里にかはる迄なり。あなかしこ、爰等の地名いたづらに見捨つべからず」

とて、欠石(かけいし)などを集めて、昔物語りありしも又尊きなり。

[やぶちゃん注:この妙法輪寺の住僧が永く津軽に住んでいた者であって、失われた石碑の話として、語り出しているのであり、後半は厳密には「三州」の奇談とは言い難いが、この能登の地で聴いた他郷の奇談として許せるものではある。

「壺の石文(いしぶみ)」これは征夷大将軍坂上田村麻呂(天平宝字二(七五八)年~弘仁二(八一一)年)が巨石の表面に矢の矢尻で文字を書いたと伝承されていた碑を指す。これを芭蕉も実見して「奥の細道」に記している。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅26 壺の碑』の本文と、その真贋について詳しく記した私の注を参照されたい。そちらを十全に読んで戴いたものとして、以下、注する。

「津輕七戶(しちのへ)の内の壺村」現在、「日本中央の碑」の発見場所と保存されてある場所とが異なる。実際に見つかったとされる前者は青森県上北郡東北町字千曳(ちびき)で、当該の石はそこから西に二キロ半ほど離れた、上北郡東北町字家ノ下にある「日本中央の碑歴史公園」の「日本中央の碑保存館」に保存されている。しかし「壺川」、現在の坪川は発見地より南西に四キロほど離れた位置を流れる。この流域は現在の上北郡七戸町内を貫流してはいるものの、「松淵」という場所は不明である。則ち、ここで麦水が言っている場所は、まず、以下に現代になって発見された「日本中央の碑」のあった場所とは有意に離れているということであり、以下、見る通り、サイズも全く違うのである。なお且つ、現在のこの「日本中央」と刻んだ石はウィキの「つぼのいしぶみ」にある通り、昭和二四(一九四九)年六月に東北町の千曳神社の近くにある千曳集落の川村種吉が、千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間の谷底に落ちていた巨石を、「袖中抄」(十二世紀末に編纂された僧顕昭作の歌学書)などにある伝説を確かめてみようと、大人数でひっくり返してみたところ、石の地面に埋まっていた面に、この「日本中央」という文面が彫られていたというのである。この碑、僅か七十一年前の発見なのである。但し、この伝承自体の信憑性はどうなのかという点では、こちらでPDFで読める「七戸町町史」第二巻の「古代」の「第四章 壺の碑伝説と都母村」(6090ページ。全文掲載。「都母村」は「日本後記」に出る坪村の原型で「つも」と読むか)を読む限りでは、眉唾ではなく、実際にあったと充分に考えられるもののようには感じられる。そこで筆者は坂上田村麻呂をともに征討に参加し、後を引き継いだ形でこの坪村まで到達している文室綿麻呂(ふんやのわたまろ 天平神護元(七六五)年~弘仁一四(八二三)年)と読み換えた上で極めて高い信憑性があると結論づけている。無論、現在の石の真否は別としてである。

「四五丈」十二~十五・一五メートル。現在の「日本中央の碑」は高さ一・五メートルしかない。

「石文やつがるの遠に有と聞えて世の中をおもひはなれぬ」これを「拾玉集」で「淸輔がよめる」と言っているのは訳が分からないし、「えて」もおかしいぞ?! 「拾玉集」は天台僧で関白藤原忠通の子にして九条兼実の弟慈円(久寿二(一一五五)年~嘉禄元(一二二五)年)の私家集(成立は南北朝になってからの正平元/貞和二 (一三四六) 年)でっせ? これは藤原清輔(長治元(一一〇四)年~治承元(一一七七)年)の「清輔集」の「雑」の部に、

 石ぶみや津輕(つかろ)の遠(をち)にありと聞くえぞ世の中を思ひ離れぬ

と載る一首である。「清輔集」は所持しないので、複数の信頼し得る記載を総合して漢字に換えた。「つかろ」は津軽の古称。

「田村丸」坂上田村麻呂のこと。

「弓筈(ゆはず)」弓の木製の本体の両端。弓弭 (ゆはず) 。通常は弓本体と同じ木製であるが(木弭(きゆはず))、補強のために骨・角(つの)を彫刻して弓の両端に嵌めたり(骨弭・角弭)、金銅や銀などの金属で作って被せた金(かな)弭もあるので、石面を削ってもおかしくはない。

「小野氏道敬」不詳。小野篁や道風の後裔か。

「禳占」「じやうせん(じょうせん)」或いは「はらひうら」か。神を祀ってお祓いをして卜占することか。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 水蟲の列

 

水蟲の列

 

朽ちた小舟の舟べりに

赤う列(なみ)ゆく水蟲よ、

そつと觸(さは)ればかつ消えて、

またも放せば光りゆく。

 

[やぶちゃん注:「水蟲」これは渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ属ヤコウチュウ Noctiluca scintillans と考えてよい。「いや、夜光虫は赤くなんか光らない!」――どこに、赤く光ると書いてある? これは入り江の岸に近くにある「朽ちた小舟の舟べりに」「赤う列(なみ)ゆく」のであって、赤く光っているなどとはどこにも書いてない(本邦に棲息する自発的・疑似自発的発光生物で明らかに鮮やかに赤く光るものはいないだろう)。ヤコウチュウが大発生すると昼間に赤潮として現認出来る。その色は濃く、毒々しい赤錆色・赤茶色を呈する。春から夏にかけての水温上昇期に大発生が起こり易く、かなりの頻度で発生を見ることが多いが、発生規模が狭く小さく、本種自体に毒性を認めないことから、深刻な海洋生物被害を引き起こすことは稀れである。ホタルと同じく「ルシフェリン(luciferinルシフェラーゼ(luciferase)反応」(後者の酵素によって前者が酸化されて発光するシステム。因みに、この名は「堕天使・悪魔」である「ルシファー」(Lucifer:原義は「光りをもたらす者」である)に由来する)による。ウィキの「ヤコウチュウ」によれば、『ヤコウチュウは物理的な刺激に』反応して『光る特徴があるため、波打ち際で特に明るく光る様子を見る事ができる。または、ヤコウチュウのいる水面に石を投げても発光を促すことが可能である』とある通りである。「それじゃ、光り方がおかしいじゃないか?!」って? わざわざちゃんと白秋は掬うシーンに「そつと觸(さは)ればかつ消えて」と言っているじゃないか。静かに掬ったその一毬(ひとまり)を「ぱっ!」と海面に「またも」捨て「放せば光りゆく」のは少しもおかしくはないのだよ。因みに、「夜光虫」を扱った最も優れた深い思索に富んだ散文詩は、私は小泉八雲の「夜光蟲」であると思う。私が電子化した岡田哲蔵訳で読まれたい。私は何度も夜光虫を見たが、八年前、隠岐の海士町で夜に乗った半潜水型海中展望船「あまんぼう」で見たそれには激しく感動した。

「先生」が遺書を書く真意(意義)とその目的表明が、今日、示される

 其上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私丈の經驗だから、私丈の所有と云つても差支ないでせう。それを人に與へないで死ぬのは、惜いとも云はれるでせう。私にも多少そんな心持があります。たゞし受け入れる事の出來ない人に與へる位なら、私はむしろ私の經驗を私の生命と共に葬つた方が好(い)いと思ひます。實際こゝに貴方といふ一人の男が存在してゐないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで濟んだでせう。私は何千萬とゐる日本人のうちで、たゞ貴方丈に、私の過去を物語(ものかた)りたいのです。あなたは眞面目だから。あなたは眞面目に人生そのものから生きた敎訓を得たいと云つたから。

 私は暗い人世(じんせい)の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。然し恐れては不可せん。暗いものを凝と見詰めて、その中から貴方の參考になるものを御攫(おつか)みなさい。私の暗いといふのは、固(もと)より倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男です。又倫理的に育てられた男です。其倫理上の考は、今の若い人と大分(だいぶ)違つた所があるかも知れません。然し何(ど)う間違つても、私自身のものです。間に合せに借りた損料着(そんれうぎ)ではありません。だから是から發達しやうといふ貴方には幾分か參考になるだらうと思ふのです。

 貴方は現代の思想問題に就いて、よく私に議論を向けた事を記憶してゐるでせう。私のそれに對する態度もよく解つてゐるでせう。私はあなたの意見を輕蔑迄しなかつたけれども、決して尊敬を拂ひ得る程度にはなれなかつた。あなたの考へには何等の背景もなかつたし、あなたは自分の過去を有つには餘りに若過ぎたのです。私は時々笑つた。あなたは物足なさうな顏をちよい/\私に見せた。其極(きよく)あなたは私の過去を繪卷物のやうに、あなたの前に展開して吳れと逼(せま)つた。私は其時心のうちで、始めて貴方を尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中(なか)から、或生きたものを捕(つら)まへやうといふ決心を見せたからです。私の心臟を立(たち)割つて、温かく流れる血潮を啜(すゝ)らうとしたからです。其時私はまだ生きてゐた。死ぬのが厭であつた。それで他日を約して、あなたの要求を斥ぞけてしまつた。私は今自分で自分の心臟を破つて、其血をあなたの顏に浴せかけやうとしてゐるのです。私の鼓動が停(とま)つた時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出來るなら滿足(まんそく)です。

   *

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月17日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十六回より。太字は私が施した。

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 白粉花

 

白粉花

 

おしろひ花の黑きたね

爪を入るれば粉のちりぬ。

幼(をさ)なごころのにくしみは

君の來たらぬつかのまか。

おしろひ花の黃(きな)と赤、

爪を入るれば粉のちりぬ。

 

[やぶちゃん注:ナデシコ目オシロイバナ科オシロイバナ属オシロイバナ Mirabilis jalapaウィキの「オシロイバナ」によれば、『南アメリカ原産で江戸時代始めごろに渡来。花が美しいため観賞用に栽培されるが、広く野生化もしている』。『茎はよく枝分かれして灌木状となるが』、『節がはっきりしていて、木質化はしない。全体にみずみずしい緑。花は赤、黄色、白や絞り模様(同じ株で複数の色のものもある)などで、内、白と黄の絞りは少ない。花は夕方開き、芳香がある。このため和名としてはユウゲショウ(夕化粧)とも呼ばれるが、この名はアカバナ科』(フトモモ目アカバナ科 Onagraceae。マツヨイグサ属 Oenothera などが属する)『のものにも使われているので注意を要する。英語ではFour o'clock、中国語では洗澡花(風呂に入る時間から)、煮飯花(夕飯の時間から)などと呼ばれる。夜間に開き』、『花筒が長いので口吻の長い大型の夜行性鱗翅目でなければ吸蜜は困難である。日本のオシロイバナでは主にスズメガ』(鱗翅目スズメガ科 Sphingidae)『が吸蜜し、送粉に関わっている。オシロイバナは網状脈である』。『花弁はなく、花弁に見えるのは』萼(がく)で、『基部は緑色でふくらんでいる。また花の根元にある緑色の』萼『のようなものは総苞』(そうほう:花序全体の基部を包む葉が変化した器官)『である。花が咲き終わった後、がくは基部を残して脱落し』、果実(種子を一個含む)が萼の『基部に包まれたまま熟して全体が黒い種子のようになる。種子には粉状の胚乳があり、これからオシロイバナの名がついた。根はいも状になり、暖地では冬に地上部が枯れてもこの地下部が生き残り』、『次の年に根から芽を出す』。『根や種子に窒素化合物のトリゴネリン』(trigonelline)『を含み、誤食すると嘔吐、腹痛、激しい下痢を起こす』。根は利尿や『関節炎の生薬として処方され』、『葉は切り傷』などにも効果がある、とある。私の好きな花である。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) にくしみ

 

にくしみ

 

靑く黃(き)の斑(ふ)のうつくしき

やはらかき翅(は)の蝶(チユウツケ)を、

ピンか、紅玉(ルビー)か、ただひとつ、

肩に星ある蝶(チユウツケ)を

强ひてその手に渡せども

取らぬ君ゆゑ目もうちぬ。

夏の日なかのにくしみに、

泣かぬ君ゆゑその唇(くち)に

靑く、黃(き)の粉(こ)の恐ろしき

にくらしき翅(は)をすりつくる。

 

[やぶちゃん注:先に「蝶(チユウツケ)」という方言読みについてであるが、ネットで見ると、筑後方言に「蝶々」を「ちょうちょまんげ」「ちゅうちゅうまんげ」と呼び、熊本弁に「ちょちょけ」があるものの、「ちゅうつけ」は見当たらない。しかし、「ちゅうちゅうまんげ」の後半部を短縮圧縮して「ちゅうっけ」と変化したと見るならば、奇異な方言ではないとは思われる。

 次に「靑く黃(き)の斑(ふ)のうつくしき」「やはらかき翅(は)の蝶」で、「ピンか、紅玉(ルビー)か、ただひとつ、」「肩に星ある蝶」を考える。「ピン」は「pin」で、一針で衣服や髪に留め付ける球状の装身具のその頭部の宝石の謂いであろう(「紅玉(ルビー)」の対語表現であるから、白玉(はくぎょく)か真珠のようなものをイメージしていると読まねばおかしい)。「靑」・「黃」に以上の「ピン」の白と「紅」の組み合わせを考えると「ただひとつ」というのが(片羽根で考えた際)、紅以外では当てはまらないものの、色彩構成とその美しさからは、非インセクターの私でも国蝶である鱗翅目(私は圧倒的に多い蛾(ガ)を含むこのタクソンを「チョウ目」と一般に呼ぶことに甚だ違和感を持っている) Lepidopteraアゲハチョウ上科タテハチョウ科コムラサキ亜科オオムラサキ属オオムラサキ Sasakia charonda であろうと思う。ウィキの「オオムラサキ」によれば、『日本に分布する広義のタテハチョウ科』Nymphalidae『の中では最大級の種』で、『成虫は前翅長』で五~五・五センチメートルほどで、『オスの翅の表面は光沢のある青紫色で美しい。メスはオスよりひと回り大きいが、翅に青紫色の光沢はなくこげ茶色をしている』。『日本での地理的変異はやや顕著』で、『北海道から東北地方の個体は翅表の明色斑や裏面が黄色く、小型。西日本各地の個体は一般に大型で、翅表明色斑が白色に近く、かつ裏面が淡い緑色の個体も多い。九州産は翅表明色斑が縮小し、一見して黒っぽい印象を与える。日本以外では、裏面に濃色の斑紋が出現した型が多く見られ、また、雲南省からベトナムにかけての個体群は明色斑が非常に発達する。』同種の『南限は宮崎県小林市』(グーグル・マップ・データでここ)である。

「目もうちぬ」は判然としないが、後の四行から考えれば、その蝶の羽根をとろうとしないので、私はそれで彼女の目をも打った、の意であろうと私は思う。それは「夏の日なかのにくしみ」の表現としてしっくりくるからである。そんな乱暴なことをされながらも「泣かぬ君」であった「ゆゑ」、不満の収まらぬ私は、さらに「その」彼女の「唇(くち)に」、蝶の「靑く、黃(き)の粉(こ)の恐ろしき」を「にくらしき翅(は)を」、羽根ごと、「すりつくる」のである、と読む。大方の御叱正を俟つ。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 銀のやんま

 

銀のやんま

 

二人(ふたり)ある日はやうもなき

銀のやんまも飛び去らず。

君の步みて去りしとき

銀のやんまもまた去りぬ。

銀のやんまのろくでなし。

 

[やぶちゃん注:「銀のやんま」トンボ(蜻蛉)目不均翅(トンボ)亜目ヤンマ科ギンヤンマ属ギンヤンマ亜種(東アジア産)ギンヤンマ Anax parthenope juliusウィキの「ギンヤンマ」他によれば、『頭から尾までは』七センチメートル、翅長は五センチメートルほどの『大型のトンボである。ヤンマとしては体長に比して翅が長い。頭部と胸部が黄緑色、腹部が黄褐色をしている。オスとメスは胸部と腹部の境界部分の色で区別でき、オスは水色だが』、『メスは黄緑色である。翅は透明だがやや褐色を帯びていて、メスの方が翅色が濃い。昔は』東京附近では『オスを「ギン」、メスを「チャン」と呼んでいた』。『基亜種は日本を含む東アジア、インド、カザフスタンまで分布する。日本に分布する』本亜種は『日本の他に島嶼部も含めた東アジア全般に生息する』(北海道では稀れ)。『湖、池、田など、流れがないか、もしくはごく緩い淡水域に生息する。ヤンマ類の中では馴染み深い種類で、各地にいろいろな方言呼称がある』。『成虫は』盛夏に最も多く、『昼間に水域の上空を飛び回る。飛翔能力は高く、高速で飛ぶうえにホバリングなどもこなす』とある。「やんま」は大形のトンボの総称で古くからあり、漢字では「蜻蜒」などと書く。この呼称はトンボの古名「ゑむば」「えば」が転じたとする説、「山蜻蛉(やまゑんば)」の義とする説などがある。因みに、その「ゑむば」自体もよく判らず、「羽の美しい」の意で「笑羽(ゑば)」からとする説、四枚ある羽が重なっていることから「八重羽(やゑば)」が転じた説など多数ある。]

2020/06/16

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) おたまじやくし

 

おたまじやくし

 

おたまじやくしがちろちろと、

粘(ねば)りついたり、もつれたり、

靑い針めく藻のなかに

黑く、かなしく、生(いき)いきと。

 

死んだ蛙が生(なま)じろく

仰向(あふむ)きて浮く水の上、

銀の光が一面(いちめん)に

鐘の「刹那(せつな)」の音のごとく。

 

おたまじやくしの泣き笑ひ

こゑも得立てね、ちろちろと、

けふも痛(いた)そに尾を彈(はぢ)く、

黑く、かなしく、生(いき)いきと。

おたまじやくしか、わがこころ。

 

[やぶちゃん注:最後の一行が一篇を鮮烈に生かしている。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 猫

 

 

夏の日なかに靑き猫

かろく擁(いだ)けば手はかゆく、

毛の動(みじろ)けばわがこころ

感冒(かぜ)のここちに身も熱る。

 

魔法つかひか、金(きん)の眼の

ふかく息する恐ろしさ、

投げて落(おと)せばふうわりと、

汗の綠のただ光る。

 

かかる日なかにあるものの

見えぬけはひぞひそむなれ。

皮膚(ひふ)のすべてを耳にして

大麥の香(か)になに狙(ねら)ふ。

 

夏の日ながの靑き猫

頰にすりつけて、美くしき、

ふかく、ゆかしく、おそろしき――

むしろ死ぬまで抱(だ)きしむる。

 

[やぶちゃん注:「ふうわり」はママ。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 靑いとんぼ

 

靑いとんぼ

 

靑いとんぼの眼を見れば

綠の、銀の、エメロウド、

靑いとんぼの薄き翅(はね)

燈心草(とうしんさう)の穗に光る。

 

靑いとんぼの飛びゆくは

魔法つかひの手練(てだれ)かな。

靑いとんぼを捕ふれば

女役者の肌ざはり。

 

靑いとんぼの奇麗さは

手に觸(さは)るすら恐ろしく、

靑いとんぼの落(おち)つきは

眼にねたきまで憎々し。

 

靑いとんぼをきりきりと

夏の雪駄で蹈みつぶす。

 

[やぶちゃん注:「靑いとんぼ」とあるQ&Aサイトの本篇の種に対する質問への回答は、トンボ目不均翅(トンボ)亜目ヤンマ科ルリボシヤンマ属ルリボシヤンマ亜種ルリボシヤンマ Aeshna juncea juncea と比定推定があった。その回答は、『体の青いことと目の描写に近いのはルリボシヤンマです。光の弱いときや見る角度によってエメラルド色の目に部分的に緑色に見えたり、銀色に見えたりします』とあった。但し、とすれば、この詩篇は故郷柳川の少年時の記憶ではないことになる。ウィキの「ルリボシヤンマ」によれば、同種は九州での棲息は確認されていないからである。しかし、それは恐らく問題ではない。ズバり、ヤンマ科アオヤンマ属アオヤンマ Aeschnophlebia longistigma もいるのだが、古河義仁氏のブログ「ホタルの独り言 Part 2」の「アオヤンマ」によれば、『日本のアオヤンマ属は、アオヤンマとネアカヨシヤンマ』Aeschnophlebia anisoptera の二種のみであるが、こちらも『本種は、北海道から九州まで生息しているが、九州はごく一部の県でしか確認されていない』とある。添えられた写真はまことに美しい。そのような白秋の幻想の「靑いとんぼ」で私はいいのだと思う。

「エメロウド」エメラルド(emerald)。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 螢

 

 

夏の日なかのヂキタリス、

釣鐘狀(つりがねがた)に汗つけて

光るこころもいとほしや。

またその陰影にひそみゆく

螢のむしのしをらしや。

 

そなたの首は骨牌(トランプ)の

赤いヂヤツグの帽子かな、

光るともなきその尻は

感冒(かぜ)のここちにほの靑し、

しをれはてたる幽靈か。

 

ほんに内氣(うちき)な螢むし、

嗅(か)げば不思議にむしあつく、

甘い藥液(くすり)の香(か)も濕(しめ)る、

晝のつかれのしをらしや。

白い日なかのヂキタリス。

 

[やぶちゃん注:「ヂキタリス」ここではタイプ種であるシソ目オオバコ科ジギタリス属ジキタリス Digitalis purpurea を一応、挙げておくウィキの「ジキタリス」によれば、『地中海沿岸を中心に中央アジアから北アフリカ、ヨーロッパに』二十『種あまりが分布する。一・二年草、多年草のほか、低木もある。園芸用に数種が栽培されているが、一般にジギタリスとして薬用または観賞用に栽培されているのは』前掲『種である』。日本には江戸時代に既に伝来している。『学名のDigitalis(ディギターリス)はラテン語で「指」を表す digitus に由来する。これは花の形が指サックに似ているためである。数字の「桁」を意味する digit『やコンピューター用語のデジタル(ディジタル、digital)と語源は同じである』(「指で数える」の意)。『西洋では暗く寂れた場所に繁茂し不吉な植物としてのイメージがある植物とされる。いけにえの儀式が行われる夏に花を咲かせることからドルイド達に好まれると言われる。「魔女の指抜き」「血の付いた男の指」などと呼ばれていた地域もある。メーテルリンクは、「憂鬱なロケットのように空に突き出ている」と形容している』。『ジギタリスには全草に猛毒があり』、『観賞用に栽培する際には取り扱いに注意が必要である。ジギタリス中毒とも呼ばれる副作用として、不整脈や動悸などの循環器症状、嘔気・嘔吐などの消化器症状、頭痛・眩暈などの神経症状、視野が黄色く映る症状(黄視症)などがある』。『ジギタリスの葉を温風乾燥したものを原料としてジギトキシン、ジゴキシン、ラナトシドCなどの強心配糖体を抽出していたが、今日では化学的に合成される。古代から切り傷や打ち身に対して薬として使われていた』。一七七六年に『英国のウィリアム・ウィザリングが強心剤としての薬効を発表』『して以来、うっ血性心不全の特効薬としても使用されている。以前は日本薬局方に』上記タイプ種を『基原とする生薬が「ジギタリス」「ジギタリス末」として医薬品各条に収載されていたが』二〇〇五年一月に『ともに削除された』。『ゴッホが「ひまわり (絵画)」などで鮮やかな黄色を表現したのは、ジギタリス薬剤の服用による副作用だったのではないかという説もある』。『晩年の作品「医師ガシェの肖像」にはジギタリスが描かれている』。『花の形がユニークで美しいので、花壇用に栽培されている』。五月から六月に『播くと、ほぼ一年後に開花する。タネはかなり細かいので、浅い鉢に播き、受け皿で吸水させて発芽させる。水はけのよい土地を好むが、高温多湿にやや弱く、日本の暖地では栽培しにくい』とある。私が「一応」と書いたのは、この最後の記載で、柳川や熊本などでは本種を栽培するのは難しいのではないかと考えたからである。螢が飛来する以上は温室や管理された家屋内ではおかしいからである。白秋は毒薬となる「ジキタリス」をここに幻想として持ち込んだに過ぎず、実際に見ているのは、花の形が袋状ということでやや似ているキキョウ目キキョウ科ホタルブクロ属ホタルブクロ Campanula Campanula ではないかと疑っているのである。

「ヂヤツグ」トランプの十一の「ジャック」(英語:Jack)。意味は「従者」(原義は「男・少年」)であるが、モデルは多くの説があり、神話上の英雄・勇士や騎士とされる。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 道ぐさ

 

道ぐさ

 

芝くさのにほひに

夏の日光り、

幼年のこころに

*Wasiwasi 啼く。

 

伴(つれ)にはぐれて

うつとりと、

雪駄ひきずる

眞晝どき。

 

汗ばみし手に

羽蟲きて、

赤き腹部(はら)すり、また、消ゆる、

藍色の眼(め)の美くしや。

 

つかず離(はな)れぬ

その恐怖(おそれ)、

たらたら坂を

またのぼる。

 

芝くさのにほひに

夏の日光り、

幼年のこころに

Wasiwasi 啼く。

  * 油蟬の方言。

 

[やぶちゃん注:「油蟬」セミ亜科アブラゼミ族アブラゼミ属アブラゼミ Graptopsaltria nigrofuscata。詳しくは、そうさ、私の『小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「二」』が、よろしかろう。……しかし乍ら、これはアブラゼミではないのではないか? 方言の「Wasiwasi」は「ワシワシ」で、これは「ワッシ・ワッシ」であり、こう音写する蟬はセミ亜科エゾゼミ族クマゼミ属クマゼミ Cryptotympana facialis の「本鳴き」にこそ相応しいからである。「いや! 柳川や九州ではアブラゼミの鳴き声をこう聴くのだ!」或いは「アブラゼミをワシワシと呼ぶのだ!」と言われると困るのだが、まず、アブラゼミの鳴き声は一般に「油で物を揚げるような鳴き声」に基づくともされるものの、その鳴き声は「ジィ……」或いは「ジジジジジ……」「ジリジリジリ……」であって抑揚がないから、「ワシワシ」とは到底オノマトペイアしない。さらに「平成29年度 私たちの科学研究 熊本県科学研究物展示会(第77回科学展)入賞作品集」PDF)を見てみよう。そこに優賞を獲得した当時の阿蘇市立一の宮小学校四年生の長尾優輝君の作品「あれ?!この鳴き声はだれ? ~ぼくのうちにくるセミパート4~」で、優輝君は鳴き声の特徴として、

クマゼミは①「本鳴き」を「ワシワシ」、②「鳴き前」を「ジュルジュル」、③「鳴き後」を「ジュジュジュー」

と音写しておられるのに対し、

アブラゼミは①を「ジー」、②を「ギヴッギヴッ」、③を「ヂィー」

と音写しておられるのだ。次に、福岡在住の駄田泉氏のブログ「旧聞SINCE2009」の「福岡のセミはミンミンと鳴かない」を見られよ。

   《引用開始》

 ところで、タイトルでも書いたセミの鳴き声の話である。以前、この話題で家族と話をしていて少し驚いたことがある。セミの鳴き声は「ミーンミーン」だと信じているのだ。私の知る限り、このように鳴くミンミンゼミは九州の平地にはいない。この鳴き声を九州で聞くことができるのは、山間部などごく限られた地域だ。九州生まれ九州育ちの彼女が、ミンミンゼミの鳴き声を聞いて育ったわけがないのだ。

 しかし、東京で制作されたテレビ番組の中では、当然ながらこの地に生息しているミンミンゼミが鳴いている。実生活の中でセミへの関心がまったくなかったので、テレビから聞こえてくる鳴き声の方が刷り込まれてしまったのだろう。彼女だけの話かと思ったが、念のため、身の回りの九州人に同じような質問をしたら、やはり「ミーンミーン」と答えた人が少なからずいた。結構興味深い話ではないかと思う。

 では、九州のセミは何と鳴くのか? 近年、生息しているのは圧倒的にクマゼミが多く、鳴き声は昆虫図鑑などでは「シュワッシュワッ」などと表現されている。ただし、福岡では「ワシワシ」と聞こえる人が多く、中高年世代の間ではセミ自体もワシワシの名前で呼ばれている。透明な羽根を持った巨大なセミで、鳴き声も大音量。私の子供時代は生息数が少なく、かなり貴重な存在だった。

 おぼろげな記憶だが、梅雨が明けると、まず小型のニイニイゼミが頼りない声で鳴き出し、続いて比較的大型で全身茶色のアブラゼミが登場。ほぼ同時期、クマゼミが限られた木に現れる。最後にツクツクボウシが物寂しげな鳴き声で「夏休み」の終わりを告げ、子供たちを絶望的な気分にさせるという流れだった。ところが、現在はクマゼミがいきなり「ワシワシ」騒ぎだし、ニイニイゼミの声を聞くことはほとんどなくなった。クマゼミが都市化に適応して生息域を広げたという話を聞いたこともあるが、実際のところはどうなのだろう。

 セミ捕り少年など滅多に見ない世の中だ。昔は悪ガキを警戒して高い木にしかいなかったクマゼミたちだが、今では低い木に鈴なりなっていたりする。すっかり安心しているのだろう。

   《引用終了》

ここで駄田泉氏の仰るように、近年の都市化に適応してクマゼミは棲息域と個体数を増やしたのであるかも知れない(それはウィキの「クマゼミ」にも書かれてある)。だから、「明治二十年代から三十年代前半(一八八七年(白秋満二歳)から一九〇二年頃)にはクマゼミは殆んど柳川辺りにはおらんかったんや!」と立証出来るというのなら、私は退場するが、『福岡では「ワシワシ」と聞こえる人が多く、中高年世代の間ではセミ自体もワシワシの名前で呼ばれている』と書かれたそれは、私の方にやや分がある。「蟬自体の総称だ!」という逃げはだめだ。だったら、わざわざ白秋は「油蟬」とは記さないだろうという私の反論を完封は出来ぬからだ。ただ、気になったことは別に一つはある。それは「和漢三才図会」の「虫類」のセミ類の記載には「油蟬」の記載がないからである。今日、実はそれに気づいて、少し「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚱蟬(むまぜみ)」(馬蟬。私はそこでこれをクマゼミに比定同定した)に追記をしたのであるが、どうも「油蟬」(アブラゼミ)と「熊蟬」(クマゼミ)は江戸時代中期頃には混同されていた可能性が高いようで、それがずっと尾を引いて民間では一緒くた(鳴き声も姿もちゃんと観察すれば全然違うんだが)にされ続け、明治期のその頃までは同じ種のように呼び慣わされていた可能性はある。だとしても、音韻に脅威の敏感さを持つ北原白秋にして聴き違える可能性はないと私は思うのだ。ここで少年の白秋が聴いているのは確かに正真正銘「ワシワシ」と鳴く、真正のクマゼミである、としたいのである。大方の御叱正を俟つ。

【2020年6月17日:追記】いつも情報をお寄せ下さるT氏より以下のメールを頂戴した。

   《引用開始》

「クマゼミ」で、正解と思います。

・追加の補足情報

①第二連に「眞晝どき」と時間帯が書かれています。
ウィキペディアの「アブラゼミ」に『オスがよく鳴くのは午後の日が傾いてきた時間帯から日没後の薄明までの時間帯である』とある通り、小生の思い出でも、「アブラゼミ」は真昼(一時過ぎ)の蝉取りでは啼かないので、探しにくく、捕まえようとすると、「一声啼いて」飛んで居なくなります。「アブラゼミ」 は早朝(9時頃まで)の印象です。

②江戸後期の小野蘭山の「重修本草綱目啓蒙」(「本草綱目啓蒙」でも同じ)より。

蚱蟬 「アカゼミ」「クロゼミ」(江戸)【中略】「ユウゼミ」(筑前)【中略】
蚱蟬ハ大ニシテ翅ノ色黄赤クスキトホラズ八月ニ至リ未ノ刻以後多ク鳴【中略】 故ニ「啞蟬」ト云俗名「ナハセミ」(「和名鈔」)「オシゴロウ」(備前)「イゝシゼミ(筑後方言「啞」ヲ「イゝシ」ト云)【中略】
馬蜩ハ「ムマセミ」(「和名鈔」)「クマゼミ」(京)【中略】「 ワシワシゼミ」(筑後)【中略】形「アカゼミ」ヨリ大ニシテ身黒ク羽スキトホリテ綠脈(スチ)アリ鳴聲モ大ナリ 「アカセミ」ヨリ微シ[やぶちゃん注:「すこし」。]後レテ出【後略】

(国立国会図書館デジタルコレクションの「重訂本草綱目啓蒙」こちらから)とあり、 本草家も 「アカセミ」 は 「眞晝どき」には啼かないと、認識しています。

   《引用終了》
Tさん、ありがとう御座います!]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) かりそめのなやみ

 

かりそめのなやみ

 

ゆく春のかりそめのなやみゆゑ

びいどろの薄き罎に

肉桂水(につけい)を入れて欲(ほ)し、

カステラの欲し。

 

鉛の汽車の玩具(おもちや)は

紫の目に痛(いた)し。

銀紙(ぎんがみ)を透かせば黑し。

わが乳母の乳(ちち)くびも汚(きた)なし。

 

硝子戶に日の射(さ)せば

ザボンの白い花ちりかかり、

なんとなう溫かうして心空腹(ひも)じ。

 

カステラをふくみつつ、その黃いろなる、

われはかの君をぞ思ふ、

柔かき手のひらのなつかし。

小(ちい)さきその肩のなつかし。

 

かかる日に、かかる日に、

からし菜の果(み)をとりて泣く人の

その肩に手を置きて、

手を置きて、ただ何となく寄り添ひてまし。

 

[やぶちゃん注:「肉桂水(につけい)」序のの「8」で既出既注。所謂、シナモンを効かせた「ニッキ水」のこと。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 毛蟲

 

毛蟲

 

毛蟲、毛蟲、靑い毛蟲、

そなたは何處(どこ)へ匍ふてゆく、

夏の日くれの磨硝子(すりがらす)

薄く曇れる冷(つめ)たさに

幽(かすか)に幽(かすか)にその腹部(はら)の透いて傳(つた)はる美しさ。

外の光のさみしいか、

内の小笛のこいしいか、

毛蟲、毛蟲、靑い毛蟲、

そなたはひとり何處へゆく。

 

[やぶちゃん注:「こいしい」はママ。

「靑い毛蟲」種は同定出来ない。何故なら、まずここで言っている「靑」が実際の濃い青であるのかどうかが、不明だからである。我々は全く以って緑色なのに馴染みのそれらを藩無意識的に「青虫」と総称して呼称している(「緑虫」とは絶対に言わない)。さらにその馴染みの「青虫」のように体表に棘を持たないそれらも実は無意識に「毛虫」と呼ぶ傾向を実は大いに皆、持っている。しかして、この「靑い毛蟲」では色も実は判らず、毛があるのかどうかも判然としないのだ。但し、「幽(かすか)に幽(かすか)にその腹部(はら)の透いて傳(つた)はる美しさ」という表現は、毛(棘)が全くない「芋虫」(実際には全くないものはそれほど多くないように思われる)、或いはごく短いか(いわゆる「青虫」の類は拡大してみると、殆んど細かな短い毛が生えている)、或いは、虫体の上部背面のみに棘が集中していて下腹部には毛がなく、表皮が露出している可能性もあるからである。これが昆虫愛好家ならば、それぞれの条件下で複数の適切な複数の種を提示されるであろうが、残念ながら私は生理的に陸生昆虫類が苦手なのである。それでもネット上の複数のケムシ・イモムシの図鑑を調べてはみたが、やっぱり、あかん! 気持ちが悪くなった。インセクターの方にお任せする。悪しからず。個人的には毛のない青虫をモデルとして仮想の空間の幻想のそれを想起してイメージする。それでよい詩篇であると思っている。]

ついに「先生」の「遺書」の開示が今日から始まる――


實をいふと、私はこの自分を何うすれば好(い)いのかと思ひ煩つてゐた所なのです。此儘人間の中に取り殘されたミイラの樣に存在して行かうか、それとも…其時分の私は「それとも」といふ言葉を心のうちで繰返すたびにぞつとしました。馳足(かけあし)で絕壁の端迄來て、急に底の見えない谷を覗き込んだ人のやうに。私は卑怯でした。さうして多くの卑怯な人と同じ程度に於て煩悶したのです。


『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月16日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十五回 より)


誰(たれ)も冒頭の『‥‥』のリーダに注目せねばならない!!!――

 

*なお、前回述べた通り、『大坂朝日新聞』は公開のズレが生じており、この回も二日遅れの6月18日(木曜日)の掲載であり、西日本の読者は「遺書」がここから(六十一)までが、二日遅れとなり、(六十二)で一旦、一日遅れに挽回するものの、「先生」が抜け駆けして「お孃さんを下さい」とやらかす(九十九)では又しても五日遅れ(『東京』が7月31日(金)であるのに対し、『大阪』は8月4日(火))となってしまい、(百)では六日遅れ、Kの自死直後の重大なシークエンスである(百三)ではさらに実に一週遅れとなり、この七日のズレが維持されたままに、「心」は終わるのである。即ち、西日本と東日本の読者には致命的な認知遅延が発生してしまうのである。

 

2020/06/15

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 水面

 

水面

 

ゆふべとなればちりかかる

柳の花粉(こな)のうすあかり、

そのかげに透く水面(みのも)こそ

けふも *Ongo の眼つきすれ。

 

またなく病(や)めるおももちの

君がこころにあまゆれば、

渦のひとつは色變(か)えて

生膽取(いきぎもとり)の眼を見せつ。

 

恐れてまたも凝視(みつ)むれば

銀の *Benjo のいろとなり、

ハーモニカとなり、櫂となり、

またもかの兒の眼(め)となりぬ。

 

柳の花のちりかかる

樋(ゐび)のほとりのやんま釣り、

ひとりつかれて水面(みづのも)に

薄くあまゆるわがこころ。

  Ongo. 良家の娘、小さき令孃。柳河語。
  Benjo. 肌薄く、紅く靑き銀光を放つ魚、小さし。同上。

 

[やぶちゃん注:「Ongo」の序の「2」の「Gonshan(良家の娘、方言)」の注を参照。

Benjo」条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科タナゴ亜科タナゴ属 Acheilognathus の淡水産タナゴ類及び近縁種及び、別種であるがそれに似た形状の魚の総称としておくべきであろう。狭義にはタナゴ Acheilognathus melanogaster の和名であるが、以下の引用を見ても、到底、一種に限ることは出来ない。「ANA釣り倶楽部」の「九州の釣り情報」のズバり、「福岡県・柳川」のページに、『タナゴは日本に』十八『種いるコイ科の小魚で、その多くは春に産卵期を迎える。柳川ではタナゴ類を総称して「ベンジョコ」と呼ぶ。「便所?」と驚く人もいるかもしれないが、実際は「紅(=ベニ)、雑魚(=ジャコ)」が訛ったものと思われ、産卵期になると』、『鮮やかに色づくタナゴのオスの特徴から来ているらしい』。『春から初夏は水路の各所でベンジョコが見られる。柳川にはアブラボテとヤリタナゴが最も多く、カネヒラも比較的出会える機会は多い。また九州にのみ生息するカゼトゲタナゴやセボシタビラも柳川で釣ることはできる。これらはすべてタナゴの仲間だ。また、フナやライギョ、当地でミズクリセイベイと呼ばれるオヤニラミ、さらにドンコ、ヌマムツ、カワムツ、オイカワ、イトモロコ、モツゴなどもいる。フナは「釣りはフナに始まり、フナに終わる」という言葉があるほど、日本人にはもともと馴染みの深い魚だが、最近は全国の川でコンクリートの護岸整備などが進み、フナが当たり前のように釣れる川がむしろ少なくなった。そうした中で、日本の原風景のような水辺が残る柳川では今もしっかりとフナが泳いでいる。人の営みが間近な水辺に、これだけの淡水魚が泳ぐ環境は全国的にも貴重なものだ』とある。この内、「アブラボテ」はそれこそ私が序の「1」で白秋が言う「シユブタ(方言鮠(ハエ)の一種)」に同定した魚である。但し、「小さし」(コサシ)という異名には巡り逢えなかった。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 糸車 / 附・萩原朔太郎鑑賞文

 

糸車

 

糸車、糸車、しづかにふかき手のつむぎ

その糸車やはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。

金(きん)と赤との南瓜(たうなす)のふたつ轉(ころ)がる板の間(ま)に、

「共同醫館」の板の間(ま)に、

ひとり坐りし留守番(るすばん)のその媼(おうな)こそさみしけれ。

 

耳もきこえず、目も見えず、かくて五月となりぬれば、

微(かす)かに匂ふ綿くづのそのほこりこそゆかしけれ。

硝子戶棚に白骨(はつこつ)のひとり立てるも珍(めづ)らかに、

水路(すゐろ)のほとり月光の斜(ななめ)に射(さ)すもしをらしや。

糸車、糸車、しづかに默(もだ)す手の紡(つむ)ぎ、

その物思(ものおもひ)やはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。

 

[やぶちゃん注:「水路(すゐろ)」はママ。というより、この時代は「水」の「スイ」という音の歴史的仮名遣は「すゐ」と考えられていた。現代では「すい」が正しいことが判っている。

「共同醫館」所謂、共同診療所で、複数の専門の異なる医師が定期的に巡回で診療を行う施設。従って「硝子戶棚に」「ひとり立」ってい「る白骨」は患者への説明用の骨格標本である。

 さて、本篇については、萩原朔太郎が「現代詩の鑑賞 詩の構成と技術」(厚生閣昭和五(一九三〇)年刊「日本現代文章講座」第五巻所収。後に萩原朔太郎の単行詩論集「純性詩論」(昭和一〇(一九三五)年第一書房刊)に収録された)の中で採り上げて、かなり細かな分析を行っている。以下に示す(底本は昭和五一(一九五六)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集」第九巻を用いた)。三好達治・北川冬彦の鑑賞の後に続く。

   *

 北川君の散文的な詩の對蹠[やぶちゃん注:「たいせき」が正しいが慣用読みで「たいしよ(たいしょ)」と読むケースが甚だ多く、朔太郎も失礼乍らそう読んでいる可能性が極めて高い。元来は「足の裏を互いに合わせる」の意で、そこから「正反対」の意である。]として、次に北原白秋氏の詩を引例しよう。北原白秋氏は既に「韻律の詩人」であり、韻文以外のどんな文學をも一切所有しない――散文を書いても自然と韻文になつてしまふやうな種類の――詩人である。そしてそれ故にまた、眞の生れたる天稟[やぶちゃん注:「てんぴん」。天賦。]的の詩人でもある。次に揭げる一篇は、名詩集「思ひ出」の中にある「糸車」と題する詩である。 

[やぶちゃん注:ここに題名を除いた本詩篇が入る。但し、

・「金(きん)」「轉(ころ)がる」「間(ま)」のルビがない。

・『「共同醫館」』の前後の鍵括弧表記がない上に、「純正詩論」では「醫館」を「醫院」と誤っている。

・「留守番(るすばん)」のルビもない。

・致命的なのは、その次の一行空けが存在せず、インターミッションがなく、全一連で示されてしまっていることである。

・また同じく致命傷として「微(かす)かに」を「仄かに」と誤り、しかもルビを振っていないために、読者は皆、「ほのかに」と誤って訓じてしまう。

・「綿くづ」は「綿屑」、「ゆかしけれ」は「床しけれ」と漢字にされてある。

・「白骨(はつこつ)」のルビはなく、「珍(めづ)らかに、」のルビと最後の読点さえも除去されてある。

・「水路(すゐろ)」のルビなく、「斜(ななめ)」はルビなしで「斜め」となり、「射(さ)すも」のルビもない。

・「紡(つむ)ぎ、」もルビと読点を勝手に除去している。

・「物思(ものおもひ)」はルビなく、代わりに「夕」に『ゆふべ』と勝手にルビする。

と甚だ酷(ひど)い引用となっている。萩原朔太郎は他者の文章や詩篇をこのように勝手に改変・改竄してしまう異様な癖がある。自身の内在律に従って、それをある意味で半ば無意識、半ば正統という確信犯でやっているとも思われるような病的な可能性さえも疑われるほどである。恐らく、彼は自分の詩がこんなことをされたら黙っている男ではなかったと請けがっておく。これが――「てふ」は「ちょう」ではなく「てふ」と発音すべきだ――と豪語した男の実体であることは、知っておかれた方が大失望の危険がアブナくないと思う(但し、私は詩人としては萩原朔太郎を最も偏愛してはいる)。] 

この詩の表現しようとしてゐるものは、一つのイマヂナリイの、官能の夢の中に漂ふ仄かな淡い悲しみである。ところで言語は、さうした「官能の夢」を語り得ない。それを語り得るものは、世界にただ音樂あるのみである。そこで詩人は、かうした場合に音樂家に變つてしまふ。卽ち彼の文學する言葉を、そのまま樂器に變へて使用するのである。「如何にせば言葉を樂器に變へ得るか?」詩作上に於けるこの最も重要な技巧を知らうとするものは、先づこの詩について學ぶがよい。

「糸車、糸車、しづかにふかき手のつむぎ」先づ冒頭の一行を讀め。默讀でも好いから、靜かに繰返して讀んで見給へ。何といふ落付いた、靜かな美しい音樂があることだらう。糸車、糸車と二つ言葉を重ねたのは、車が𢌞轉する感じを、現はすためであり、最も有效に使用されてゐる。次の「しづかにふかき手のつむぎ」で fukaki tumugi との間における、音韻の徵妙な中和性を味つてみる必要がある。それが丁度糸車の音もなく靜かに𢌞つてゐる柔らかい感じを現してゐるのである。これがもし「しづかにふかき」でなく「しづかに𢌞す」であつたとしたら、到底かうした美しい音樂は構成されない。諸君が詩作する場合に於ては、何よりも先づかうした音樂の構成に注意し、一語一語の音韻に注意することが必要である。

「その糸車やはらかにめぐる夕ぞわりなけれ」で前の行を受け、詩の第一節が終つてゐる。ここまで讓み續けて來ると、あたかも黃昏の物佗しい世界の中で、音もなく靜かに𢌞つてゐる糸車の響が、ほのかな心の耳に聽えて來る感じがする。そしてここまでは、人間もなく景物もなく、どこか知れない宇宙の中で、ただ糸車だけが獨りで𢌞つてゐるのである。次の行に移つてから、初めてそれの空間的所在が明示されて來る。卽ちそれは「金と赤との南瓜のふたつ轉がる共同醫館の板の間に、ひとり坐りし留守番の媼(おうな)」が𢌞してゐる糸車なのである。かくの如く、初めにぼんやりと糸車を出し、次にその位置や所在を明示するのは、漠然たる夢の印象を初めに强く感じさせ、後に次第に現實を見せるための手法であつて、かうしたイマヂナリイの詩の構成上では、最も有效に用ゐられる技術である。

 さてここで「金と赤との南瓜」を點景したのは、奇想天外の着想であり、且つ如何にも白秋氏らしい技巧である。前の二行を讀み終つて、靜かな黃昏のやうな情緖に浸つてゐる讀者は、この奇警な南瓜に打つかつて、急に眠から起されたやうに喫驚させられる。詩に於けるこの「不意打ち」は、白秋氏ばかりでなく、多くの詩人の好んでやる手法であつて、詩の單調を破り、變化と刺激をあたへる爲に最も有效な手段である。詩もやはり戰術と同じく、常に讀者の豫期しない意想外の隙をねらつて、一時敵をまごつかせ、混亂に陷らせる工夫が必要である。しかしその混亂は、後の行の進行と共に、直ちにまた整理され、安靜の狀態に引きもどされるやう、十分に用意されたる不意打ちでなければならない。白秋氏の詩の場合では、この「金と赤」とが色彩してゐるトカゲのやうな感覺を、詩のイメーヂしてゐる官能の世界の中で、仄かに這ひ步く神祕な物影に漂はしてゐる。そしてこの巧妙な手品の種は、後にだんだんと解つてくる。

 ここでまた「共同醫館」といふイメーヂを配景したのは、或る田舍風の、臺所などの廣くひつそりとした物侘しい地方の古い醫院を思はせる爲である。つまり「共同醫館」といふ言葉の中に、あまり患者の來ない、田舍の古く寂びれた醫院を思はせるやうなイメーヂがあるからで、詩を作る人たちは、かうした言葉の聯想性に對して敏惑でなければならない。その薄暗く、佗しくひつそりとした共同醫院の臺所に、田舍から雇はれた留守番の老婆が、ひとりで音もなく糸車を𢌞してゐる。その臺所の暗い隅には、永遠の靜物のやうに、南瓜が二つ點がつてゐる。すべてが靜かに沈默して、黃昏のやうな意味をもつた詩境である。

 第二聯に移つて「耳もきこえず、目も見えず」の次に「かくて五月となりぬれば」と續け、ここで急に調子を變へて高くしてゐる。この轉調もまた讀者にとつて不意打ちである。「耳もきこえず、目も見えず」の沈んだ陰氣の詩句を續けて、不意に「かくて五月となりぬれば」の朗々とした明るい調子が、大洋の浪のやうに急に盛り上つて來ようとは、だれにも豫期できないことである。だがこの不意打ちは、何といふ心地よい不意打ちだらう。前の陰氣な詩句をうけて、心が低く沈んでゐるところへ、急にこの海潮音のやうな、五月の薰風のやうな詩句が出るので、一時にさつと胸がひらけて、心が自ら靑空高く飛翔して來る。實に詩の魅力する所以の不思議がここにあるので、音樂を持たない散文では、到底この樂しい魔法は使へないのである。

 次行に移つて「仄かに匂ふ綿屑のそのほこりこそ床しけれ」は、前行の五月を受け、初夏新綠の頃の明るい空氣を、官能のちらばふ綿屑の影に匂はせたのである。「硝子戸棚に白骨のひとり立てるも珍らかに」とここで「白骨」を出したのは醫者の家であるから當然の話であるが、詩の構成上の手法としては、硝子戸棚と共に或る冷たい、空氣のひえびえとした感覺を匂はせるためのテクニックである。そして尙ほこの「白骨」は、第一聯の「金と赤の南瓜」に於ける色彩の刺戟的なイメーヂと對照して、詩の背後に或る縹渺とした神祕的の夢を影づけてゐる。そこで次行の「水路のほとり月光の斜めに射すもしをらしや」が、前行の冷たい空氣の感覺を受けつぎながら、同時にまたその銀色の月光で、詩境の背後にある神祕の夢を照らさせるべく、巧みに用意深く構成されてゐるのである。

 詩がここまで進んで來た時、もはや老婆の影は何所かに消えて無くなつてゐる。この詩の表象しようと意志したものは、糸車をくる老婆の姿ではなくして、そのモチーヴの音樂が象徵するところの、或る縹渺とした、言葉では觀念が捕捉できない、一つの純官能的なイメーヂなのである。故に詩の最後になつては、老婆も、南瓜も、臺所も、共同醫館も、すべて皆どこかへ消えてなくなつてしまつてゐる。そしてただ「糸車、糸車、しづかに默す手のつむぎ、その物思ひやはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。」のモチーヴだけが、再度また最初のやうにどこかの時空の中で夢のやうに聽えて來る。かくて首尾相合し、詩が完全に終つてゐるので、實に白秋氏のこの詩の如きは、構成上に於ても技巧上に於ても、名人の至藝を盡した名作である。讀者は百の駄詩をいたづらに讀むよりは、かうした名作一篇を硏究して、よろしく自ら自得すべきである。

   *

引用は酷(むご)いが、解析はすこぶる的確である。但し、一言言うと、私は留守の媼は板敷の待合室で糸車を回していていいし、二つの南瓜が転がっているのも、そこでいい。台所である必要は、私には、ない。また、白秋の詩篇全体の意図は「糸車に巻き取られてゆく糸」に表象されるところの儚い命の夢、限られた生の死への順調なる傾斜、「媼=魔女」の「紡ぐ生と死の糸車」へのメタモルフォーゼに他ならぬと私は感じている。その点で、硝子戸棚の中の骨格標本はケタケタと笑ってよいのだとさえ、思うていることを言い添えておく。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 赤い木太刀

 

赤い木太刀

 

赤い木太刀をかつぎつつ、

JOHNはしくしく泣いてゆく。

水天宮のお祭(まつり)が

なぜにこんなにかなしかろ。

 

悲(かな)しいことはなけれども、

行儀ただしく、人なみに

御輿(みこし)のあとに從へば、

金(きん)の小鳥のヒラヒラが

なぜか、こころをそそのかす。

 

街(まち)は五月の入日どき、

覗(のぞ)き眼鏡(めがね)がとりどりに

店をひろぐるそのなかを、

赤い木太刀をかつぎつつ、

JOHNはしくしく泣いてゆく。

 

[やぶちゃん注:「木太刀」「きだち」。

「覗き眼鏡」「のぞきからくり」(「覗絡繰」「覗機関」)に同じ。江戸後期に発生した大道芸の一つ。大きな箱の中に物語に応じた絵を数枚納めて置き、箱の両側に立った二人が、物語に節をつけてうたいながら綱を引き、絵を順次転換させる装置。これを前方の穴或いは凸レンズ入り眼鏡から覗かせて料金をとった。]

 

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) どんぐり

 

どんぐり

 

どんぐりの實(み)の夜(よ)もすがら

落ちて音するしをらしさ、

君が乳房に耳あてて

一夜(ひとよ)ねむればかの池に。

 

どんぐりの實はかずしれず

水の面(おもて)に唇(くち)つけぬ

お銀小銀のはなしより

どんぐりの實はわがゆめに。

 

どんぐりの實のおのづから

熟(う)れてなげくや、めづらしく、

祭物見(まつりものみ)の前の夜(よ)を

二人ねむれば、その胸に。

 

どんぐりの實のなつかしく

落ちてなげけば、薄(うす)あかり、

かをる寢息(ねいき)のひまびまや、

どんぐりの實は池水に。

 

[やぶちゃん注:「しをらしさ」はママ。正しい歴史的仮名遣は「しほらしさ」。なお、本篇を読んだ殆んどの読者は知られた童謡の「どんぐりころころ」の楽曲や歌詞を重層させるであろうが、本篇が書かれた当時、「どんぐりころころ」は未だ存在していない。「どんぐりころころ」(作詞・青木存義(ありよし 明治一二(一八七九)年~昭和一〇(一九三五)年:宮城出身)/作曲・梁田貞(やなだただし 明治一八(一八八五)年~昭和三四(一九五九)年:札幌出身)の出版は本詩集刊行から十年後の大正一〇(一九二一)年或いは翌年なのである。

「お銀小銀のはなし」本邦の「継子いじめ」譚の知られた一つの型で、妹が継子である姉を継母の迫害より守るというもの。三浦佑之氏の「継子譚と家族」によれば、所謂、知られた西洋の「シンデレラ型」では、『実母が死んだあとに二人の娘をつれた継母が入ってきて、三人がかりで』前母の主人公である娘『をいじめるという語り口である。そこでは、両方の子供たちの間に血縁関係はなく、しかも連れ子たちの方が年上と設定されているから、連れ子は母を亡くしたか弱い少女をいじめる憎ったらしいかたき役に専念できるのである』。『ところが日本の昔話をみると、多くの場合、母に死なれた娘の家に後添いがやってきて、その女と父との間に子供が生まれるというふうに語られる。そうなると、継子と実子との関係は腹違いの姉妹ということになり、しかも継子は必然的に姉の立場に立つことになる。そこでは、わが子かわいさに継子をいじめる継母という設定は可能だが、か弱い少女を実子もいっしょになっていじめるという語り口が不安定になってしまい、実子と継子との対立は曖昧にならざるをえない。たとえば、「お銀小銀」という話型では、継母が継子のお銀を殺そうとしてさまざまな悪巧みを考えると、そのたびに腹違いの妹小銀が察知して姉の危機を救い、最後は父と姉妹で幸せになるというふうに語られていて、主人公はやさしさと知恵をもった妹の小銀のほうだと思わせるような継子いじめ譚もでてくることになる』とある。]

三州奇談續編卷之五 麥生の懷古

 

    麥生の懷古

 麥生(むぎを)と云ふは里の名なり。羽喰(はくひ)郡押水の鄕、則(すなはち)末森古城の下なり。往昔の繁榮の都會にやありけん。此邊の村々に一條・二條等の名、或は何町何丁何小路(こうぢ)の名殘る。竹生野(たこの)村迄の間、地平かにして古碑・古樹多し。國君菅公末森後援御勝利の後、此麥生の村の民家を濱表(はまおもて)へ引遷(ひきうつ)し、今濱(いまはま)と名付く。故に爰には寺院のみ殘る。妙法輪寺と云ふあり、丘陵物さびたり。是(ここ)は往古(わうこ)法輪寺とて、天台宗山門の下なりけるを、中頃日像上人の勸めに歸して法華となり、寺號に妙の字を加へて今日猶榮えます。此向ひの松の中に、彼(かの)式内四十三座の中(うち)相見(あひみ)の神社立(たち)給ふ。所から物たりて、今は藁葺の纔(わづ)かながら、境内は廣く淸淨の地なり。此麓には八幡宮の社建てり。是は朝夕に莊嚴(しやうごん)輝きて、金光(きんくわう)燦爛(さんらん)として、神事祭禮も相撲などありて近鄕の賑ひを寄せ、新來(しんき)の宮立(みやだて)ながら時めき見ゆ。憶ふに國祖の菅君、彼(かの)末森戰勝の御陣場なれば、此八幡は陣貝(ぢんがひ)を集めて祭るのよし聞ゆ。尤も左(さ)もあるべき躰(てい)なり。されば押水(おしみづ)の鄕の名、所以(ゆゑ)あるかな。

[やぶちゃん注:「麥生(むぎを)」現在の石川県羽咋郡宝達志水町(ちょう)麦生(むぎう)附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。読みはスタンフォード大学の「國土地理院圖」の「石動」の読みを判読した結果である(「ヨ」のように見えるが、下部のそれは一画目の右下方がはみ出ており、この下方の横線に見えるのは河川の一部である。「フ」「ウ」ではない。とすれば、「ヲ」としか判読出来ないが、ただ、一画目の右縦が直角に下がっているのは気にはなる)。但し、歴史的仮名遣ならば「むぎお」が正しく、現在の行政地名のそれは転訛した口語音「むぎゅう」から転じたものと推測される。「近世奇談全集」では『むぎふ』とルビを振る。

「羽喰(はくひ)郡押水の鄕」現在の宝達志水町は旧押水町(おしみずまち)と旧志雄町とが合併したもので、旧町名は旧町内の紺屋町地区にある「押しの泉」に由来する。ウィキの「宝達志水町」の旧押水町についての記載によれば、『昔、弘法大師がこの地を通った時に水を求めたところ、老婆が一杯の水を恵んでくれた。その礼として大師が杖で岩を押したところに清水が湧き出たという弘法水伝説が残されている』とある。この中央付近ストリートビューで確認出来る。これが後で麦水の言う「押水(おしみづ)の鄕の名、所以(ゆゑ)あるかな」の謂われであるが、後段で麦水が言うように、水利がよい(ということは洪水の危険も高いわけだが)というのが、本来の地名由来であろう。

「末森古城」石川県羽咋郡宝達志水町竹生野(たこの)のここ。東に麦生地区がある。ウィキの「末森城(能登国)」によれば、末森山(標高一三八・八メートル)に『所在したため、この名で呼ばれたが、「末守」あるいは「末盛」と記した資料も残る(『信長公記』など)。曲輪は山中に点在し』、合計面積は実に三万平方メートルにも及ぶ。当初、『畠山氏の家臣で地頭職であった土肥親真』(どいちかざね)『によって築城されたとされるが、詳しくは不明』。天正五(一五七七)年に『越後国より侵攻してきた上杉謙信に降伏、斎藤朝信らが末森に入ったとの記述がある。その後、そのまま親真が城主として配された』。しかし、天正八年に『加賀国の一向一揆を鎮圧した織田氏家臣の柴田勝家らが侵攻してくると、再び降伏。土肥氏は同地に改めて配された前田利家の与力的な立場となったため、これ以後』、『前田家が支配することとなる』。『なお、この際に土肥親真は前田利家の妻芳春院(まつ)の姪を娶るが、末森城に在したため「末守殿」と呼ばれた』。『末森城は加賀国と能登国を繋ぐ交通の要所であり』、天正十二年に『徳川家康に同調した佐々成政が、この城を攻めたが』、『城主奥村永福』(ながとみ)『が死守(末森城の戦い)。この勝利により前田利家の能登・加賀統治の基礎が築かれたとも』されるが、元和元(一六一五)年の『一国一城令により廃城とな』った。『本丸主門は、金沢城鶴の丸南門として移築されていたが』、宝暦九(一七五九)年に『火災によって焼失してしまっている。本丸は、津幡町加賀爪へ移転され、加賀藩主代々の御旅屋として利用された』が、明治一〇(一八七七)年『に火災によって焼失』して現存しないとある。

「此邊の村々に一條・二條等の名、或は何町何丁何小路(こうぢ)の名殘る」現在は残念ながら確認出来ない。こういう旧地名は残すべきだったと心から思う。

「竹生野(たこの)村」「近世奇談全集」では『たかふの』とルビを振るが、現在の宝達志水町竹生野(たこの)に拠った。

「國君菅公」菅原道真の末裔と称した藩祖前田利家。

「末森後援御勝利」前注の「末森城の戦い」を指す。

「今濱(いまはま)」現在の麦生の西方の海岸沿いに宝達志水町今浜が今浜新地区を挟んで現存する。

「妙法輪寺」麦生に現存する。山号は宝栄山。日蓮宗。今浜村の法華堂五兵衛邸で日像(文永六(一二六九)年~康永元/興国三(一三四二)年:俗姓は平賀氏。下総国出身。房号肥後房から肥後阿闍梨と称された。日蓮宗四条門流の祖。建治元(一二七五)年に日蓮の高弟であった兄の日朗に師事した後、日蓮の直弟子となった)が法輪寺(妙法輪寺の前身)の真言僧哲源律師と法論し、感銘した哲源は法輪寺を日蓮宗に改宗し、後に寺を妙法輪寺と改名し、自らも日源を名乗ってその開基となった。日源は元中三/至徳三(一三八六)年示寂。

「式内四十三座」「延喜式」の神名帳には能登国には大社一座一社(名神大社。現在の石川県羽咋市寺家町にある能登国一宮の気多神社に比定される)及び小社四十二座四十二社を記載する。

「相見(あひみ)の神社」相見神社 (式内社・大海郷(おおみのごう)総社)「石川県神社庁」公式サイトの解説によれば、『式内社にして大海(相見=押水)一郷の総社。奥村永福の崇敬篤く、相見明神、相見権現と称された。社伝によれば、此の地の民を苦しめた大鷲を退治された大国主命が、須勢理姫と逢われたところから』「愛見の郷」と『名付けられ』、『相見神社と称したというが、実は海神族奉祀の社であろう』とある。

「八幡宮の社建てり」恐らくは現在は宝達志水町今浜に移っている今濱八幡神社であろう(それでも麦生地区や相見神社にごく近い)。「石川県神社庁」公式サイトの解説によれば、『元、式内社相見神社の境内摂社であったが、末森城主奥村永福の崇敬特に篤く、享保』二〇(一七三五)年に『今浜向山に遷祀し、後、安政』五(一八五八)年、『同親王山の現在地に遷座され』、『遠国よりの奉賽が多かった。社殿には北前船等の絵馬が多く奉納せられている』とある。

「陣貝(ぢんがひ)」戦さの陣中で軍勢の進退などの合図に吹き鳴らした法螺貝のこと。]

 

 爰は河押入りて淵池となるもの、此邊所々多し。田畠の利となれば、「湯」と云ふものに取りて水を所々へ分つ【「湯水」古名なる。今は「用水」と云ふ。】其中に「忍水池(おしみいけ)」と云ふあり。鱗(いろこ)一つ取りても惜み給ふとて、昔より此池に獵(れふ)をなさず。此妙法輪寺の老僧の物語りに、

「『おしみ池』には、享保の頃にや一つの怪しき事を聞きし。一水涯(みづぎは)四五尺許(ばかり)去りて、水は腰に至る程の底に、巾着(きんちやく)の如きもの見ゆ。村人立寄りて、

『あれは何(なん)ぞ』

と沙汰するに、いかに見ても巾着と覺しくて、根付なども見え、葉隱れに藻の下に見ゆ。適(あつぱ)れ見事なる物に見えしかば、

『誰(だれ)取りに入れ、彼れ取に入れ』

といへども、日頃靈(れい)ある池なれば恐れて入る者なし。

 翌日も打眺めけるに、もとの所に

『ふらふら』

としてあり。何(いづ)れも

『扨は岸を通る人の落したるにや。今少し奧は脊丈(せたけ)もかくるゝ深みなればあぶなき物なり』

とて打捨(うちす)て畑業(はたわざ)に掛り居る。

 晝上(ひるあが)りの頃、一人欲深(よくぶか)き者、水練も利(き)きてやありけん、潜かに飛入りて其巾着を取りて岸に上るに、紐と覺しくて蓴菜(じゆんさい)の如き物付きて隨ひ來(きた)る。

 此者嬉しく、只走り走りて畠人(はたびと)どものある所へ來(きた)る。凡(およそ)一町計(ばかり)も來りけるに、紐は猶付き來りし。

 爰にて二三人打寄り、

『巾着を取りて來りしか』

と取廻(とりまは)し見るに、一尺許去りて、根付と見えたる、赤き色にて緣(ふち)を括(くく)りたる物あり。藻(も)の實(も)と見えたり。

 扨(さて)巾着は皮とは見えながら、何とも知れず。したたかに重かりしかば、

『目を引き見る』

とて、手の上にすゑて試(こころ)むる内に、彼(かの)蔓(つる)の紐の如き物一しやくり引く如く覺えしが、巾着手の中(なか)を飛出(とびい)で、空中を飛びてもとの池へ引入りたり。

 人々驚き、跡を見ずして逃歸(にげかへ)れり。

 巾着は慥(たしか)に見たる者二三人もありしが、其大(おほい)さは人々見樣(みやう)違ひ、『一尺四方許』と覺し者もあり、『五寸許』と覺えし者もあり。皮にてやありし、生類(しゃうるゐ)にてやありし、是はしかと知れず。

『其後(そののち)又(また)池に出づることなし』

と村人の云ひし。

 我は見ざることなれば、實正(じつしやう)慥(しか)とは云ひ難し。されども二三人も見たる者、近年迄存命せしが、今はなし」

と語られき。

 此物元來草實(くさのみ)の類(たぐひ)か、又は古器(こき)の類ひか、神の惜み給ふにぞあるらん。されども取りたる人も、さして煩(わづら)ひもせで恙(つつが)なく居りしことは慥に見たり。

 付き來(きた)る紐の如きものは蔓とは見えながら、一町許も引來(ひききた)るは何糸にやありけん。

「ぬめぬめ」

としたることゝ、根付(ねつき)の藻玉(もだま)なりしことは慥に覺ゆ。巾着は丸き物にて重し。池を上(あが)りし時は、小さかりしが、次第にふえたり。今思へば、中は何ぞ生物(いきもの)にやありけん。

「鷄(にはとり)[やぶちゃん注:「近世奇談全集」は「鶉(うづら)」とする。その方が不定サイズにはしっくりくる。鶏卵ではデカ過ぎだ。]の玉子の如き物六つ七つ入りし樣(やう)に覺し」

と、取來(とりきた)る里人の、

「夢の如くに覺えし」

と常々云ひし。

[やぶちゃん注:『「湯」と云ふものに取りて水を所々へ分つ【「湯水」古名なる。今は「用水」と云ふ。】』こうした呼称を私は知らないが、調べてみると、金沢市の公式サイト内の金沢での水利事業の解説の中に、『用水利用』として『釜湯=消火用水源』という記載を見出した(画面表示が異常に大きいのでリンクはさせない。ルビもないから「ゆ」と読んでよいか)。

「忍水池(おしみいけ)」現在、この名の池は確認出来ないが、多数の池塘があるので、現地の方なら判るかも知れない。御教授願えれば幸いである。

「鱗(いろこ)」主に魚などの水生動物の総称。

「享保」一七一六年~一七三六年。

「四五尺」一・二一~一・五一メートル。

「一町」一〇九メートル。

「目を引き見る」「目を挽きてみむ」の意であろう。鋸樣のもので引き割ってみようとしたものと採る。

「彼(かの)蔓(つる)の紐の如き物一しやくり引く如く覺えしが」蔓のような後に続いている奇体な水草の如き附属物が物体の内部に引き上げるように「シュッ!」と入っていったかのように見えたが。

 さても。この奇体な巾着様物体の私の推理である。これは恐らく、

動物界外肛動物門掩喉綱(えんこう)掩喉目ヒメテンコケムシ科カンテンコケムシ Asajirella gelatinosa

であろうと私は踏む。カンテンコケムシ個虫は一ミリメートル(それでも淡水産コケムシ類では大きい)しかないが、その群体は二〇センチメートルに達することがある。広瀬雅人氏の論文「日本産淡水コケムシ類の分類と同定」(『日本動物分類学会誌』二〇一二年発行・PDF)によれば、本種はアジアでしか確認されておらず、本邦にもともと棲息していた淡水産コケムシであり、この群体塊の形は以下に私が述べるオオマリコケムシの群体に似ているともある(但し、『個虫の口上突起が赤くないことと浮遊性休芽の形態』が有意に異なること『で容易に区別できる』とされる)。同種は本邦では準絶滅危惧種とされる希少種でお見せするに相応しい写真を見出し難いのであるが、

「京都府公式」サイト内の「京都府レッドデータブック2015」の同種の画像と解説

「兵庫県立 人と自然の博物館」公式サイト内の『キリンビアパーク神戸のビオトープ池に「カンテンコケムシ」が出現』(スイレンの葉柄に着生した同群体)

写真共有サイト「フォト蔵」の「カンテンコケムシ1」とする写真

などを見られたい。②のような固着を呈した部分はまさに本文の藻の紐状を呈していることが判り、③は「巾着」という表現が腑に落ちる形であると言える。

 実は当初はその大きさから、ボール状群体の直径は数メートル(最大個体は二・八メートル弱)を越えることもある掩喉目オオマリコケムシ科オオマリコケムシ属オオマリコケムシ Pectinatella magnifica を考えたが、同種の本邦での発見は一九七二年の山梨県河口湖が最も古いもので、当時棲息していた可能性はない(同種は北アメリカ東部原産で一九〇〇年頃に中央ヨーロッパに持ち込まれたという。以上はウィキの「オオマリカンテンコケムシ」に拠った)。

 他に考えたのは、両生綱有尾目サンショウウオ亜目サンショウウオ科サンショウウオ属クロサンショウウオ Hynobius nigrescens)の卵体で、白い楕円状の卵塊のかなり大きなものが一対、透明な粘体に包まれているのであるが(私は富山に居た時分に裏の溜池で実見したものは全体(長軸)が十五センチメートルほどあった)、これは相応に大きいが、こんなに固くないから違う。これが、海産の生物であるなら、もっと候補を増やすことが出来るが、淡水産では私はカンテンコケムシしか挙げることが出来ない。もっと相応しいものがあるとなれば、是非、御教授あられたい。なお、私の同定には元の池に飛び戻るという奇体な行動様態を事実として考証要素に加える余地は全くない(その場合は妖怪・妖獣まで裾野を狸の金玉並みに広げねばならぬ)。悪しからず。]

北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 汽車のにほひ

 

汽車のにほひ

 

汽車が來た、――釣鐘草(つりがねさう)のそばに、

何時(いつ)も羽蟻(はあり)が飛び、

黃色(きいろ)い日があたる。

 JOHN は母上と人力車(じんりき)に。――

頭(あたま)のうへのシグナルがカタリと下る。面白いな。

 

もうと啼く牛のこゑ、

停車場(ステーシヨン)の方に白い夏服(なつふく)が光り、

激しい大麥の臭(にほひ)のなかを、

汽車が來る…………眞黑な鐵(てつ)の汗(あせ)の

靜まらぬとどろき、とどろき、とどろき…………

 

汽車が奔(はし)る…………眞面目(まじめ)な兩(ふたつ)の眼玉から

向日葵(ひぐるま)見たいに夕日を照りかへし、

焦(ぢ)れつたいやうな、泣くやうな、變に熱(あつ)い噎(むせび)を吹きつける。

油じみた皮膚のお化(ばけ)の

西洋のとどろき、とどろき、とどろき、とどろき…………

 

汽車が消ゆる…………ほつと息をして

釣鐘草が汗をたらし、

生れ變つたやうな日光のなかに、

停(とま)つた人力車が動き出すと、

赤い手をしたシグナルがカタリと上る。面白いな。

 

[やぶちゃん注:二箇所の太字「カタリ」は底本では傍点「ヽ」。

「釣鐘草(つりがねさう