北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 怪しき思
怪しき思
われは探しぬ、色黑き天鵞絨(びろうど)の蝶、
日ごと夜ごとに針(ピン)を執り、テレビンを執り、
かくて殺しぬ、突き刺しぬ、ちぎり、なすりぬ。
鬼百合の赤き花粉を嗅ぐときは
ひとり呪ひぬ、引き裂きぬ、嚙みぬ、にじりぬ。
金文字の古き洋書の鞣皮(なめしがは)
ああ、それすらも黑猫に爪をかかしつ。
われは愛しぬ、くるしみぬ………顫へ、おそれぬ。
怪しさは蠟のほのほの泣くごとく、
靑き蝮(まむし)のふたつなき觸覺のごと、
われとわが身をひきつつみ、かつ、かきむしる。
美くしき少年のえもわかぬ性の憂欝。
[やぶちゃん注:標題は無論、「あやしきおもひ」と読む。
「テレビン油」既出既注であるが、再掲する。turpentine。テレピン油或いはターペンタインとも呼び、マツ科 Pinaceae の樹木のチップ或いはそれらの樹木から採取された松脂を水蒸気蒸留することによって得られる精油で、油彩絵具の溶剤として知られる。当該油を指すポルトガル語「terebintina」(テュルビンティーナ)が語源。
「靑き蝮(まむし)のふたつなき觸覺のごと」爬虫綱有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii のは鼻孔と眼の間に一対ある頰窩 (きょうか:loreal pit) と呼ばれる赤外線を感知するピット器官(pit organ:pit の原義は「窪み」)を指して言っているものと採る。視力が弱い爬虫綱有鱗目ヘビ亜目の構成種が持つ優れものの対恒温動物認識器官である。彼らは闇の中でも対象生物の体温を識別して確実に襲うことが出来る、まさに白秋の謂う「ふたつなき觸覺」なのである。アメリカが開発した赤外線誘導の短距離空対空パッシヴ・ミサイル「サイドワインダー」(Sidewinder)はマムシ亜科ガラガラヘビ属ヨコバイガラガラヘビ Crotalus cerastes のピット器官にヒントを得たことによる命名である。]
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