北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 夕日
夕日
赤い夕日、――
まるで葡萄酒のやうに。
漁師原に鷄頭が咲き、
街には虎剌拉(コレラ)が流行(はや)つてゐる。
濁つた水に
土臭(つちくさ)い鮒がふよつき、
酒倉へは巫女(みこ)が來た、
腐敗止(くさどめ)のまじなひに。
こんな日がつづいて
從姉(いとこ)は氣が狂つた、
片おもひの鷄頭、――
あれ、歌ふ聲がきこえる。
恐ろしい午後、
なにかしら畑で泣いてると、
毛のついた紫蘇(しそ)までが
いらいらと眼に痛(いた)い。…………
赤い夕日、――
まるで葡萄酒のやうに。
何かの蟲がちろりんと
鳴いたと思つたら死んでゐた。
[やぶちゃん注:本篇の内容は実に序の「わが生ひたち」の「2」の中で非常に具体的に描写されており、本篇はその反歌のようにさえ見える。また、コレラ及び本篇の推定時制は「靑き甕」の私の注を見られたい。
「漁師原」序で注したが、再掲する。これは恐らく沖端の漁師村の中の地域内での限定地名呼称であろう。現在の地名としては現認は出来ない。但し、私は本来は「りやうしばる(りょうしばる)」と読んだのではないかと疑っている。九州では有意な岡や野原は「原(ばる)」と呼称されるからである。因みに、私の亡き母は鹿児島出身である。
「腐敗止(くさどめ)のまじなひ」醸造中の酒槽の中の酒が暑さのために腐るの防ぐための咒(まじな)い。火入れして未開封の日本酒は腐らないが、樽の中の製造過程の生酒あるはその前の状態では腐る。種田山頭火の彼名義で父がやっていた酒蔵は山口県吉敷郡大道村(だいどうそん)にあった(現在の防府市の南西端)が、山頭火と父のダブル放蕩で二年に亙って酒を腐らせ、数年後に破産し、彼の破滅的流浪の遠源の一つとなった。]
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