三州奇談續編卷之四 溫泉の喧嘩
溫泉の喧嘩
角力(すまふ)は壯士の贔負(ひいき)[やぶちゃん注:「贔屓(ひいき)」に同じい。]する者なれば、不破・山上が輩(やから)別して贔負に取持ちければ、此者ども是(これ)に志(こころざし)合ひて、彌々(いよいよ)深く交りける。依ㇾ之(これにりて)何となく西田宇太夫は一本立(いつぽんだち)と成りて、何かにつけ胸に据ゑ兼ることのみ多し[やぶちゃん注:「一本立」とは対立関係にある対象が西田一人に集中することとなったことを言う。]。湯入(ゆいり)ども唄ふ歌も、
「何と歎くぞ川原の柳」
と云ふを、
「河原毛の柳」
といへば、必ず西田面色替りて怒りたる程に、兎角折りしもあると、
「河原毛」
といふことを多く云ひければ、
『扨こそ彌々河原山が蹴たり』[やぶちゃん注:「河原山」の表記はママ。]
と氣立ちして、眼(まなこ)鋭(する)どに
「くるくる」
と見廻すこと多かりし程に、角力取どもも何とやら底氣味惡く、終(つひ)に湯本を仕廻(しま)ひ、妓女どもを返し、我も湯を立ちて戾り支度(したく)するなり。
さればいかなる朝の秋山風、笠松のさそひてや來ぬらん、不破次右衞門湯より上り掛けに、次郞助に對して[やぶちゃん注:「次郞助」は「山上次右衞門」のことらしい。]、
「彼河原毛に蹴られたる腰ぬけ殿は何方におはすことぞ」
と、快く笑ひて見廻す所に、こなたの懸簀(かけす)の内より、西田宇太夫腹立ち眼(まなこ)に
「ゆらり」
と出で、
「腰ぬけ是に罷在(まかりあ)る。只今の通(とほり)今一應仰聞(おほせき)けられよ」
と白眼(にら)み付けて云ひければ、不破次右衞門少しも驚かず、
「いや是は手前は申さねど、はやり歌に唄ひ申す。御耳には今入りましたか」
と云ひければ、
「いや拙者踊り場にて蹴られしことはかくれも御座らぬ。今とても其(その)蹴たる奴が知れましたら眞二(まつふた)つと存ずる。されども必には誰彼(だれかれ)荷擔して大勢と存ずれば、迯隱(にげかく)れて出(いで)ますまい」
と。齒を喰ひしばつて申しけるに、折節「笠松おろし」「一の瀨嵐」吹(ふき)まじへてやありけん、不破次右衞門何とか心にあたりしや、詞(ことば)を換へて答へけるには、
「いや大勢でも御座るまい、迯隱(にげかく)れも致すまい。もし又此次右衞門蹴(けり)ましたら何となさる」
と立ちければ、西田は愈々風(かぜ)氣(き)にあたり、心(こころ)夢中の如く前後を忘れ、
「其許(そこもと)なればかく仕る」
と、拔打(ぬきうち)に肩先きへ切付(きりつ)くる。
次右衞門頭(かしら)をはづせども、肩先より首廻(まは)りへかけて深手なれば、脇差を拔きて是を拂ひ、受流(うけなが)し受流して、湯宿理兵衞が座敷まで退(しりぞ)き、『我刀を取らん』と引きて行く。
此の間に又手疵數ケ所蒙りける。
既に理兵衞が座敷に入りけるを、西田宇太夫も續きて飛入りけるに、内には大勢在合(ありあ)ひて、宇太夫を引伏せ、次右衞門に刀を渡し、快くとゞめの刀さゝせてけり。
次右衞門起返(おきかへ)れば手疵深し。
側(そば)なる山上次郞助を呼び、
「首打ち給はれ」
と座す。
次郞助不ㇾ透(すかさず)首打落し、
「さて終りを如何に」
と尋ぬる所、片岡佐兵衞申しけるは、
「我は花見以後喧嘩には馴れたり。只我下知に從ふべし」[やぶちゃん注:この「下知」は藩の下す最終的判断としてのそれではなく、片岡がこれから言う「周囲の者たちへの指図」を指す。]
とて、四方を下知し、
「先づ去るべき者は速(すみやか)に去るべし。殘る者は我が下知を聞くべし。只今にても所々より檢使の者來(きた)らば、云ふべきやうはかくかくなり。
――『宇太夫亂心の躰(てい)にて俄(にはか)に來り、次右衞門へ切りかけ申候。次右衞門「何事」と申候得(まうしそふらえ)ども、更に聞入れず、又切り付け申して候ゆゑ、次右衞門飛込み引伏(ひきふし)候(さふらふ)て、とゞめの刀指通し申候。偖(さて)次右衞門、次郞助に申し候は、
「我等深手を負ひ、とゞめをさし申す時に、何やら刄(やいば)にこたへて候間(さふらふあひだ)、刀の切味(きれあぢ)甚だ心許(こころもと)なく候。御不(ごふ)しやうながら[やぶちゃん注:御不祥。不吉にして穢らわしくお厭なことにて御座れども。]介錯(かいしやく)御賴申度(おたのみまういしたく)候」
と申候ヘば、次郞助
「御尤には候へども、只今相果(あひはて)らるゝ人に力を添へ申(まうす)儀は致し難し」
と、辭退申候へども、
「西域(せいいき)の李馮竇(りまとう)も申さずや、『友は我が身の半にして第二の我れなり』と。然らば其許(そこもと)を見かけ御賴申(おたよりまうす)儀に候。尤も佐兵衞殿を始め、村中役人(むらうちやくにん)・宿の亭主見屆け申し、證據も多く候間、是非御賴申候」
よしに付き、次郞助是非なく佐兵衞を受人(うけにん)に取り、村中何れもの檢分の前にて、最期の暇乞(いとまごひ)の盃事(さかづきごと)して、小謠(ちいさきうたひ)を二番うたひ候て、快く切腹仕り候ゆゑ、介錯仕つて候。是も武士道の格かと覺え申候と存候。其外餘事更々無ㇾ之(これなし)』――
と申聞かされば、いかなる檢使なりとても一言もなく、其上の詮議あるベからず。介錯の儀は駿河敵討(かたきうち)に先例あり、少しも驚くことにあらず。村中(むらうち)も能く心得給へ。箇樣(かやう)にすれば我らにも何の御構(おかまひ)なく、村中も事早く濟むなり。却(かへ)りて褒美の詞(ことば)に頂(あづか)り、武道の欠(か)くる道少しもなく、諸奉行一言も不審立てまじ」
と、詞凉(ことばすず)しく云ひ放つにぞ。
各(おのおの)に同心し、村中も早く濟むを喜びて、敵味方此詞を賴むにぞ。
誠に辯說ふしぎなり。
[やぶちゃん注:本話は前の「蹴飛西田」の完全な続きである。最後の台詞は構造がやや複雑なので、ダッシュを用いた。
「檢使」事件調査のために派遣される役人。前の「三州奇談後編卷三 七窪の禪狐」にも登場したが、検死や犯行現場の鑑識なども行う。
「李馮竇」【2020年6月3日改稿】いつも情報を頂戴するT氏より、これは「利瑪竇」(りまとう)の誤りで、かのイタリア人イエズス会員・カトリック教会司祭で明朝宮廷に於いて宣教活動や文化啓発に活躍したマテオ・リッチ(Matteo Ricci 一五五二年~一六一〇年)のことで、『「友は我が身の半にして第二の我れなり」というのは利瑪竇の「交友論」に出る』一文との御指摘を戴いた。当該原文は、
吾友非他、旣我之半。乃第二我也。故當視友如巳焉。友之與我雖有二身、二身之内其心一而已。
相須相佑爲結友之由。
である。漢文原文は関西大学が画像公開している「重刻二十五言」一巻(意大利)RICCI,MATTEO(利瑪竇)撰「交友論」の24コマ目で視認出来る。
「駿河敵討」不詳。識者の御教授を乞う。
「敵味方」ここでは「敵」は相応しくない。その場に居た誰も彼もの謂いである。]