三州奇談續編卷之五 瀧聲東西
瀧聲東西
末森古城の南方は寳達山なり。此峰を東に下る碎きたる如き山間は、彼末森合戰の頃ほひ、佐々内藏助をあらぬ方に導きし田畑兵衞と云ふ者の住む里なり。今に加州公の御扶持を蒙り、山役(やまやく)の業を相勤めけり。此里を相河村と云ふ。
[やぶちゃん注:標題は「らうせいとうざい」と読んでおく。「瀧」の音は「ロウ」であるが、漢音では歴史的仮名遣が「ラウ」、呉音ではそのまま「ロウ」である。前までの特に三話の続編。従って、「麥生の懷古」・「古碑陸奥」・「今濱の陰石」・「末森の臼音」までに注したことは記さない。
「山役」元来は山林に於ける伐木に対して課せられた租税の一種を指すが、ここはそうした藩領内の森林の保守・管理とその租税の徴収に係わる仕事の意。
「相河村」これは表記がおかしい。「田畑兵衞」前条で注した通り、現在の石川県羽咋郡宝達志水町(ほうだつしみずちょう)沢川(そうごう)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)及び富山県高岡市福岡町(まち)沢川(そうごう)附近の旧沢川(そうごう)村の土豪である。この「そうごう」という現在の特殊な地名呼称を見られたい(私は絶対読めない)。また、スタンフォード大学の「國土地理院圖」の「石動」(明治四二(一九〇九)年作図)を見ても、そこでは何んと『澤川(ソーゴー)』と長音符になっているのである。則ち、これは或いは、この「澤(沢)」を当時の口語でも既に「そー」「そう」と特殊な発音をし、それを聴いて麦水は勘違いし、歴史的仮名遣「さう」の「相」と誤まり、「川」もやはり特殊な読みで「ごう」であるからして、聴き取った相手が「川(かは)で『ごう』と読むなり」とでも言ったのを「ごう」なら「がう」或いは「が」で「河」なのであろうと勝手に解釈して漢字を当ててしまったものではないかと推理した。大方の御叱正を俟つ。]
此所に「たるみの瀧」と云ふあり。落つること數十尺に及ぶ。然るに此瀧月每に下(しも)十五日・上(かみ)十五日と落つる所を替ゆるなり。幾度試みても変ること相違なし。尤も下る水路はありと云へども、風に依るか、木の葉の隔(へだつ)るに依るか、若しくは汐時(しほどき)に依るか、或は西に落ち、或は東に落つるなり。ふしぎ目(ま)のあたりにして、其理(ことわり)を分つべき方なし。樵夫牧童瀧聲を心當(こころあたり)にして、路を取り失ふこと度々なり。其地の人さへも斯くの如し。增(ま)して偶(たまたま)に通ふ人は、大に心置かざれば路次(ろし)を過(あやま)つこと甚し。思ふに田畑兵衞が、圖らず山中にて佐々内藏助成政が襲軍の大兵に行き合ひて、迫つて敎導に賴まる。田畑兵衞心利きて、加州前田公へ忠せんと思ひ、末森の奧村永福(ながとみ)公其備へ未だ全く備(そなは)らざりしを考へて、忽ち跪(ひざまづ)きて敎導をうけがひ、あらぬ道に誘ひ、小徑(こみち)より身を迯(のが)れて、佐々が富山勢を途中に暇(ひま)を入れしめ、其勇英を挫(くじ)かしむ。是は機轉の利(き)きたるばかりにあらず。元來「たるみの瀧」の水を吞みて、天然に早く途(みち)を迷はすに心付きて、鋭氣をたるますに及ぶ術、肺肝に浮(うか)みたる物とこそ思はるれ。生得(しやうとく)に自然の妙を受くる、皆其土の然らしむるものか。「たるみ」の號、何をこそたるますべけん。天然の稱相應せるか。去れば唐土(もろこし)の柳宗元世を退きて溪に居す。則ち溪を號して「愚溪」と云はしむ。或夜「溪の神」夢に來りて怒りて曰く、
「汝何ぞ我を辱かしむること爰に至るや。我れ淸流を發して人民を育ひ、炎天に雨を迎へて里翁の願ひを安んず。然るを『智溪』と稱せずして『愚溪』と云はしむ。且つ潮州に『惡溪』あり。是は惡魚住みて人民を惱ますによると聞く。其名理(ことわ)りなり。汝何の理ありて我を愚とするや。」
柳宗元謹みて謝して曰く、
「神怒ることなかれ。夫れ『貪泉』は溪に貪ぼりし金玉のあるを見ず。人是を吞めば寳貨を思ふ故となり。我れ此地に移りて愚となるを覺ふ。然れば愚溪の名其理に當るにあらずや。夫れ世に智と稱せられんより、愚は甚だ安し。我爰に甘んず。神又爰に心なきか。」
谷神(こくしん)悟りて、
「汝朝廷にありて名高し。而して爰に遁れて愚となるを思ひて爰に甘んず。然る時は我れ又『愚溪』ならざらまく欲すとも得べからず」
と。
終(つひ)に辭し去るとかや。
其名其地に應ずる事は、神も又知らずとなり。
然らば「たるみの瀧」の「たるませる」の理も、何の譯(わけ)と云ふを測らず。「たるみ」の水、業(げふ)をしてたるましむることなかれ。
[やぶちゃん注:「たるみの瀧」石川県羽咋郡宝達志水町宝達に「樽見が滝」として現存する。「石川県観光連盟」公式サイト内のこちらで画像が見られ、そこに『宝達山中にある落差30メートルの滝です。容易にたどりつくことができない難所にあるため、「幻の滝」といわれています』ともある。「YamaReco」の「宝達山の樽見滝(陰陽滝)へ」を見ると、『ふつうの「登山道」ではありません。伐開していないヤブを歩きます。作業道からの入口にも目印はありません。滝・沢への転落、道迷い注意です』とあって、距離は九キロメートルであるが時間は休憩を含めて六時間二十分かかっておられる。この方曰く、遠望した瀧は三段のようであるとされ、また雌瀧(後述)らしきものも写しておられる。そこでその登攀された方も言及しておられる「石川県羽咋郡誌」を国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して電子化する。まず、「第一章 總論」の「瀑布」より(一部の清音を濁音化した)。
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○樽見瀧。寳達山の東に在りて兩條注下せり[やぶちゃん注:「そそぎくだせり」。]、高さ詳ならず[やぶちゃん注:「つまびらかならず」。]、一は庭島阪に發し、一は樽見淵と稱する山湫[やぶちゃん注:「やまいけ」と訓じているか。山中の小さな水溜まり。]に源す。樽見湫[やぶちゃん注:「たるみいけ」と読んでおく。]は方なるものと圓なるものとあり。廣さ共に九尺に満たずと雖も、旱天も涸るゝことなく、俗に之を蛇池と稱す、兩流合して子浦川となる、能登名跡志に寳達山に陰陽の瀧ありといふもの、或はこの樽見瀧をいふか、其事は河川中子浦川の條に之を述べたり。
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次に、「第十七章 北莊村」の最後にある「雜記」の「蛇池」。
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○蛇池。樽見瀧の水源は俗に之を蛇池と稱す、廣さ九尺内外なれども、其の深さ知るべからず、四境寂寞一種の靈氣を帶ぶ、この水流れて子浦川となる、昔澤川[やぶちゃん注:「そうごう」。]に一富家あり、祖先以來一代惡人なれば、次代は必ず善人なるを常とせり、然るに惡人の戶主たりし時、權威を弄し非道を敢てして之を快とせしかば、爲に怨を抱くもの幾人なるを知らず、或年村民寺院を再建せんが爲め、多數の木材を蒐集せるに、彼れ之を用ひて妾宅を起さんとするなど、無道の行爲屢なりき、其後彼の病死するや、一天俄かにかき曇り、雷鳴頻りなりしが、葬儀の際落雷して忽ち棺槨[やぶちゃん注:「くわんくわく(かんかく)」。柩(ひつぎ)。]の所在を失ひ、其の一女子は發狂して樽見淵に至り、身を池中に投じて死せり、世人其娘が蛇體に變ぜることを傳へ、水を稱して蛇池といひ、旱天の時は鎌などを投入して雨乞をなすに必ず驗ありといへり。
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次に「第一章 總論」の「河流」の「子浦川」の本文の後に記された参考引用の第一の部分。
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〔能登名跡志〕寳達山の條、
陰陽の瀧と云て不思議なる瀧あり、瀧口二つに成て有、雄瀧と云は銚子口より水落て、一月の中、上十五日水落て、越中氷見庄小米川等の源なり、雌瀧は下十五日洞口から水落ちて、能州子浦川の源なり、誠希代不思議の瀧也、
編者云雄瀧雌瀧のこといかゞ、こは樽見瀧のことなるべしといへり、
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「月每に下十五日・上十五日と落つる所を替ゆるなり」この現象が現在も真実あるのかどうかは不明。ただ「若しくは汐時に依るか」と、原因を月の運航による潮汐現象の影響かと言っているのは陰暦のそれに合わせた疑似科学的理由として面白い。
『元來「たるみの瀧」の水を吞みて、天然に早く途を迷はすに心付きて、鋭氣をたるますに及ぶ術、肺肝に浮みたる物とこそ思はるれ』「樽見」という名に「弛(たる)み」(ゆるみ・油断)を掛け、また「瀧」・「水」・「吞む」・「浮み」と縁語を重ねた諧謔的文章である。
「柳宗元」(七七三年~八一九年)は中唐の文学者にして政治家。河東 (山西省永済県) の人、柳河東とも呼ばれる。七九三年、進士に及第し、校書郎・藍田尉を経て礼部員外郎となり、王叔文をリーダーとする反宦臣派の少壮官僚として朝政の改革を志すも、挫折し、邵(しょう)州刺史、次いで永州司馬に左遷させられ、後に柳州(江西省)の刺史となって任地で没した。詩文に優れ、散文では古文運動の提唱者として韓愈とともに「韓柳」と並称され、詩では自然詩人の系列に数えられ、盛唐の王維・孟浩然と中唐の韋応物とともに「王孟韋柳」と呼ばれる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。但し、「世を退きて溪に居す」とあるが、以上の通り、彼は致仕せず、地方の閑職のまま不遇のうちに亡くなっており、事実に反する。以下の文章は彼の「愚溪對」に拠る。リンク先は「維基文庫」の原文。繁体字であるから、麦水の訳を対応させれば、概ねその通りであることが判る。
「潮州」上記「愚溪對」では『閩』(びん)とある。潮州は現在の広東省東端の潮州市附近閩州は現在の福建省附近相当の古い広域地名で、福建省はその潮州市に接しているから、問題ない。「中國哲學書電子化計劃」の同文では「惡溪。在潮州界。」と割注がある。
「貪泉」同じく「中國哲學書電子化計劃」の同文の割注に「廣州二十里、地名石門。有水曰貪泉。飮者懷無厭之欲。晉吳隱之賦詩曰「古人云此水、一歃懷千金。」。』とある。
「溪に貪ぼりし金玉のあるを見ず」「し」は「て」の誤りではないか?
「谷神」「老子」六章に拠る道家思想の人智を越えた玄妙なる不滅の道(タオ)の喩え。]
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