北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 赤足袋
赤足袋
肩越しにうかゞふ子らに、
沙彌(しやみ)が眼(め)はなべて光りぬ。──
日の一時、水無月まなか、
大なる鐃鈸(ねうはち)ひびき、
亡者(まうじや)めく人びとあまた
香爐焚き、棺衣(かけむく)めぐり、
群れつどひ、兩手(もろて)あはせぬ。
長老は拂子(ほつす)しづしづ
誦經(ずきやう)いま、咽び音(ね)まじり、
廣澄(ひろす)みぬ。――七歲(ななつ)の我は
興なさに、此時膝に
眼うつせば、紗(しや)の服がくれ、
だぶだぶの赤足袋。――をかし、
髯づらに淚ながれき。
『南無阿彌陀。』――沙彌(しやみ)が眼光り、
拂子(ほつす)ゆれ、風湧く刹那、
一齊に念佛起り、
老若も、男女も、子らも、
赤足袋も、咽(むせ)ぶと見れば、
層高(きはだか)の銅拍子(どびやうし)、――あなや、
われ堪へず、――笑ひくづれき。
[やぶちゃん注:「沙彌」「長老」本来なら「沙彌はサンスクリットの「シュラーマネーラ」の漢音写で「息慈」などと訳し、出家して沙弥十戒を受けているものの、比丘(びく)となるための修行中の若い僧(通常は青少年)を限定して指すが、ここは全体に概ね「僧」の意で均して使用しており、「長老」もそこではかく限定されつつも、後では結局、丸坊主一緒くたに使っている。「しゃみ」という発音を白秋が詩語として好んだに過ぎないと私は思う。
「鐃鈸」自序「わが生ひたち」の「6」の冒頭で既出既注。同じシークエンスである。]
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