北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 汽車のにほひ
汽車のにほひ
汽車が來た、――釣鐘草(つりがねさう)のそばに、
何時(いつ)も羽蟻(はあり)が飛び、
黃色(きいろ)い日があたる。
JOHN は母上と人力車(じんりき)に。――
頭(あたま)のうへのシグナルがカタリと下る。面白いな。
もうと啼く牛のこゑ、
停車場(ステーシヨン)の方に白い夏服(なつふく)が光り、
激しい大麥の臭(にほひ)のなかを、
汽車が來る…………眞黑な鐵(てつ)の汗(あせ)の
靜まらぬとどろき、とどろき、とどろき…………
汽車が奔(はし)る…………眞面目(まじめ)な兩(ふたつ)の眼玉から
向日葵(ひぐるま)見たいに夕日を照りかへし、
焦(ぢ)れつたいやうな、泣くやうな、變に熱(あつ)い噎(むせび)を吹きつける。
油じみた皮膚のお化(ばけ)の
西洋のとどろき、とどろき、とどろき、とどろき…………
汽車が消ゆる…………ほつと息をして
釣鐘草が汗をたらし、
生れ變つたやうな日光のなかに、
停(とま)つた人力車が動き出すと、
赤い手をしたシグナルがカタリと上る。面白いな。
[やぶちゃん注:二箇所の太字「カタリ」は底本では傍点「ヽ」。
「釣鐘草(つりがねさう)」キキョウ目キキョウ科ホタルブクロ属ホタルブクロ Campanula Campanula のホタルブクロ(螢袋)のことか、若しくは狭義の同属のフウリンソウ Campanula medium を指している。現在は改良品種が学名のラテン名「小さな鐘」をそのまま用いてカンパニュラ(カンパヌラ)などとも呼ばれる。フウリンソウ Campanula medium は園芸では正式和名のフウリンソウよりもツリガネソウ(釣鐘草)と呼ぶことの方が多いらしい。ウィキの「カンパニュラ」の「ふうりんそう」の項(画像あり)には(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)、『この仲間では最もポピュラーな植物。草丈二メートルくらいになる二年草だが、秋まきで翌春開花する一年草に改良された品種もある。花色には青紫・藤色・ピンク・白などがあり、上手に育てると、花径一〇センチメートル近い花が数十輪咲き、花壇の背景などに植えると見事である』とある。但し、後者のフウリンソウの本邦への移入は明治一〇(一八七七)年頃で、詩篇内時制の明治二十年初頭に踏切の道端に咲くには早過ぎる。ここは我々に馴染みの深い前者、ホタルブクロの異名と採るべきであろう。なお、「汽車」とこの属名「Campanula」から、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のカンパネルラを想起される方も多かろう(イタリア語「Campanella」は「鐘」を意味し、同語源である)が、残念ながら、遺稿である「銀河鉄道の夜」の刊行は昭和一六(一九四一)年のことで、本詩集刊行に三十年後のことである。
「羽蟻(はあり)」蟻(昆虫綱ハチ目ハチ亜目有剣下目アリ上科アリ科 Formicidae)・白蟻(昆虫綱網翅上目ゴキブリ目シロアリ科 Termitidae)類の中で初夏から盛夏にかけての交尾期に羽化して巣から飛び立った女王蟻と雄蟻の総称。]
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