「先生」の遺書 届く
「頭を冷やすと好(い)い心持ですか」
「うん」
私は看護婦を相手に、父の水枕を取り更へて、それから新しい氷を入れた氷嚢(ひようなう)を頭の上へ載せた。がさ/\に割られて尖り切つた氷の破片が、囊(ふくろ)の中で落ちつく間、私は父の禿げ上つた額の外(はづ)れでそれを柔らかに抑へてゐた。其時兄が廊下傳(づたひ)に這入(はいつ)て來て、一通の郵便を無言の儘私の手に渡した。空いた方の左手を出して、其郵便を受け取つた私はすぐ不審を起した。
それは普通の手紙に比べると餘程目方の重いものであつた。並の狀袋(じやうぶころ)にも入れてなかつた。また並の狀袋に入れられべき分量でもなかつた。半紙で包んで、封じ目を鄭寧(ていねい)に糊で貼り付けてあつた。私はそれを兄の手から受け取つた時、すぐその書留である事に氣が付いた。裏を返して見ると其處に先生の名がつゝしんだ字で書いてあつた。手の放せない私は、すぐ封を切る譯に行かないので、一寸それを懷に差し込んだ。
(『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月13日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十二回より)
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遂に今日、「私」のところに「先生」の「遺書」が届く(但し、『大坂朝日新聞』購読者は二日遅れで6月15日(月曜日)であった)。
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