北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 幽靈
幽靈
覺醒(めさ)むれば
しんしんと水の音(ね)近し、
わが乳母の心音(しんのん)かそは
夜(よ)は暗く……耳鳴す………靑葱畑………
いづこにか夜芝居の篠(しの)きこゆ、本釣(ほんつり)きこゆ、
恐ろしき道すがらその肩にかぢりつき、
手をのべてからめども、首すぢは『お岩』のごとく、
髮のけの靑かりしかな、韮(にら)の香の噎(むせび)さへしつ。
月もなく、星もなし、
然(しか)れども或るものは戯(たはむれ)れのごと
黃なる毛のにほひして走り過ぐ――
わが乳母の魂(たま)ぎりし聲、
ゆくりなく、眼(め)に入りし
蒼き火の光なき幻影(まぼろし)。
銀色の憂欝に、夜は靑く輝(かがや)きわたり、
しんしんと水の音冴えつ。
倒れしは、わが乳母か、息絕えしその背(せ)より
ふと見れば
幽靈は冷(ひや)やかにほほゑみぬ。――あなやそは乳母。
[やぶちゃん注:「戯(たはむれ)れのごと」はママ。
「篠(しの)」篠笛(しのぶえ)の略。篠竹をそのままに使った横笛で、通常は七穴で、音域の高低により十二もの種類がある。長唄囃子や浄瑠璃の囃子・歌舞伎の下座音楽或いは祭囃子・里神楽・獅子舞などに用いる。
「本釣(ほんつり)」「本釣り鐘(がね)」の略。浄瑠璃の囃子方や歌舞伎の下座音楽の一つで、小形の釣鐘を撞木で打つ鳴り物による効果及びその楽器を指す。作中の時刻を知らせるほかに凄みのある感じを表わすのにも用いる。]
« 北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) / 石竹の思ひ出 附・「生の芽生」パート標題画像 | トップページ | 北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 願人坊 »