石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 眠れる都
眠れる都
(京に入りて間もなく宿りける駿河臺の新居、窓を開
けば、竹林の厓下、一望甍の谷ありて眼界を埋めたり。
秋なれば夜每に、甍の上は重き霧、霧の上に月照りて、
永く山村僻陬の間にありし身には、いと珍らかの眺
めなりしか。 一夜興をえて匇々筆を染めけるもの
乃ちこの短調七聯の一詩也。「枯林」より「二つの影」ま
での七篇は、この甍の谷にのぞめる窓の三週の假住
居になれるものなりき。)
鐘鳴りぬ、
いと莊嚴(おごそか)に、
夜は重し、市(いち)の上。
聲は皆眠れる都
瞰下(みおろ)せば、すさまじき
野の獅子(しゝ)の死にも似たり。
ゆるぎなき
霧(きり)の巨浪(おほなみ)、
白う照る月影に
氷(こほ)りては、市を包みぬ。
港(みなと)なる百船(もゝふね)の
それの如、燈影(ほかげ)洩(も)るる。
みおろせば、
眠れる都、
ああこれや、最後(をはり)の日
近づける血汐(ちしほ)の城(しろ)か。
夜の霧は、墓(はか)の如、
ものみなを封(ふう)じ込(こ)めぬ。
百萬の
つかれし人は
眠るらし、墓の中。
天地(あめつち)を霧は隔(へだ)てて、
照りわたる月かげは
天(あめ)の夢地にそそがず。
聲もなき
ねむれる都、
しじまりの大いなる
聲ありて、露のまにまに
ただよひぬ、ひろごりぬ、
黑潮(くろじほ)のそのどよみと。
ああ聲は
晝(ひる)のぞめきに
けおされしたましひの
打なやむ罪の唸(うな)りか。
さては又、ひねもすの
たたかひの名殘の聲か。
我が窓は、
濁れる海を
遶(めぐ)らせる城の如、
遠寄(とほよせ)に怖(おそ)れまどへる
詩(うた)の胸守らつつ、
月光を隈(くま)なく入れぬ。
(甲辰十一月廿一日夜)
[やぶちゃん注:前書の二ヶ所の句点の後の字空けは見た目を再現した(別名一箇所は次が同じく記号であるため空いて見えない)。
前書に記されているそれはまさに本処女詩集刊行を目論んで上京した直後の事実に基づく。明治三十七甲辰(きのえたつ:一九〇四年。啄木満十八歳)の十月三十一日に上京、暫くは本郷区向ケ岡弥生町の村井方に止宿したが、十一月八日に神田区駿河台袋町の養精館に移り、そこを同月二十八日に引き払って牛込区砂土原町の井田方に転居した。「三週」は文字通りそこにいた期間を指しているのである。この中央附近(男坂上の右手)に養精館はあった(グーグル・マップ・データ航空写真)。今まで気がつかなかったが、私は大学時代にこの直ぐ近くの印刷会社でアルバイトをしていたのを思い出した。
初出は明治三十七年十二月号『時代思潮』で、「新聲二首」という総題で、次の「二つの影」とともに発表された。特に有意な異同を感じない。]
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