北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 苅麥のにほひ
苅麥のにほひ
あかい日の照る苅麥に
そつと眠れば人のこゑ、
鳥の鳴くよに、欷歔(しやく)るよに、
銀の螽斯(ジイツタン)の彈(はぢ)くよに。
ひとのすがたは見えねども、
なにが悲しき、そはそはと、
黃ろい羽蟲がやはらかに
解(と)けて縺(もつ)れて、欷歔(しやく)るこゑ。
あかい日のてる苅麥に、
男かへせし美代はまた
鷲(あひる)追ひつつその卵
そつと盜(と)るなり前掛(まへかけ)に。
[やぶちゃん注:「螽斯(ジイツタン)」これはもうそのオノマトペイア(通常音写は「ギー! チョン!」)によると思われる方言からも直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属ニシキリギリス Gampsocleis buergeri に比定してよい。同種群は「機織虫(はたおりむし)」「機織女(はたおりめ)」「ぎす」「ぎっちょ」などの多様な異名を持つ。因みに、私のような関東の人間の知っているそれはヒガシキリギリス Gampsocleis mikado である。但し、ここでは実は種同定は無効である。何故なら、それは麦畑で男と密会した「美代」の「鳥の鳴くよに、欷歔(しやく)るよに」聴こえる声の比喩としての、「銀」で出来た幻想の「螽斯(ジイツタン)」が「彈(はぢ)くよに」なのであって、実際のキリギリスやその鳴き声ではないから。]