北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 靑き甕
靑き甕
靑き甕にはよくコレラ患者の死骸を入れたり、
これらを幾個となく擔ぎゆきし日のいかに恐
ろしかりしよ、七歲の夏なりけむ。
『靑甕(あをがめ)ぞ。』――街衢(ちまた)に聲す。
大道に人かげ絕えて
早や七日、溝に血も饐(す)え、
惡蟲の羽風の熱さ。
日も眞夏、火の天(そら)爛(たゞ)れ、
雲燥(い)りぬ。――大家(たいけ)の店に、
人々は墓なる恐怖(おそれ)。
香(かう)くすべ、靑う寢そべり、
煙管(きせる)とる肱もたゆげに、
蛇のごと眼のみ光りぬ。
『靑甕(あをがめ)ぞ。』――今こそ家族(やから)、
『聲す。』『聽け。』『血糊(ちのり)の足音(あのと)。』
『何もなし。』──やがて寂莫。――
秒ならず、荷擔夫(にかつぎ)一人、
次に甕(かめ)、(これこそ死骸(むくろ)、)
また男。――がらす戶透かし
つと映る刹那――眞靑(まさを)に
甕なるが我を睨みぬ。
父なりき。――(父は座(ざ)にあり。)――
ひとつ眼の呪咀(のろひ)の光。
『靑甕(あをがめ)ぞ。』──日もこそ靑め、
言葉なし。――蛇のとぐろを
香(かう)匐(は)ひぬ、苦熱の息吹(いぶき)。
また過ぎぬ、ひひら笑ひぬ。
母なりき。――(母も座(ざ)にあり。)――
がらす戶の冷(つめ)たき皺(しわ)み。
やがてまた一列、――あなや、
我なりき。――靑き小甕に、
欷歔(さぐ)りつつ黑き血吐くと。
刹那見ぬ、地獄の恐怖(おそれ)。
[やぶちゃん注:前書は、二行書きであるが、ブラウザでの不具合を考え、三行配置とした。
「靑甕」民俗社会で何故、青い甕に遺体を入れたのかは判然としないが、当時流行したコレラ(細菌 Bacteria ドメインプロテオバクテリア門 Proteobacteria ガンマプロテオバクテリア綱 Gammaproteobacteria ビブリオ目 Vibrionales ビブリオ科 Vibrionaceae ビブリオ属コレラ菌 Vibrio cholerae を病原体とする疾患)は「古典型」「アジア型」と呼ばれる、現在、我々が知っている「エルトール型」(一九〇五年にエジプトのエルトール(El-Tor)で最初に発見された)とは異なるものであった。大森弘喜氏の『1832年パリ・コレラと「不衛生住宅」――19世紀パリの公衆衛生』(二〇〇四年三月発行『成城大学経済研究』所収・PDF)によれば、この「アジア型コレラ」は(コンマを読点に代えた)『「通常のコレラ」とは比較にならないほどの悪性種であった。その症状は、前駆症状である下痢に始まる。次第に下痢も嘔吐も頻繁になり、排泄物は米のとぎ汁様になる。脈拍が弱まり』、『めまいと精神錯乱がおこる。発熱と悪寒,体温低下と脱水症状が続くうちに、やがて戦慄のなかで死んでゆく。顔の形相はすっかり変わり、脱水症状のために骨と皮だけになって死に至る。皮膚や爪は青紫色または鉛色に変色するところから、「青い恐怖」とも称される。[ラルース『医学大事典』]潜伏期間は極めて短く』、『数時間から数日で発病する。罹患してから死亡に至る時間も短く,平均で3~4日である』。『1832年』のフランスの『パリ・コレラでは正確なデータが得られた4907人のコレラ死亡者の罹患時間は、平均で61時間8分、つまり二日半であった。[「1834年コレラ委員会報告」p70]わが国で「三日コロリ」と俗称されたのも故なしとはしない。また』、『わが国ではその猛々しさと民衆の恐怖を示すためか,「虎狼痢」・「虎列刺」の当て字が使われ,コレラ錦絵では虎に見立てられて描かれた』。『その致死性(患者に占める病気死亡者の割合)は極めて高く,1832年パリの事例では最初の半月余の致死率は53.85%』に達したという記載があることから、コレラ罹患の死亡遺体(ふふや爪が時に青紫に変色すること)と「青」の親和性があることが判る。或いは同色による呪的な緩衝効果、所謂、類感呪術的な封じ込めとも思われる。なお、コレラ流行の史料では明治二三(一八九〇)年と明治二八(一八九五)年に特異点で国内で大流行している。前者なら白秋は数えで六歲、後者なら十一歳で、前書から前者の翌年終端期のことかと思われる。
「寂莫」はママ。「寂寞」で「じやくまく(じゃくまく)」或いは「せきばく」で、「ひっそりしていてさびしいこと」を意味する。
「ひひら笑ひぬ」「ひひらぐ」は「ぺらぺらと喋りまくる」或いは「馬が嘶(いなな)く」の意であるが、この主語は後の「母」ではなく、コレラで死んだ遺体で、少年の白秋の奇体な幻想ホラーと読むべきであろう。或いは母の激しい嗚咽をかく換喩したものととっても私はよいように思っている。]
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