石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 夢の宴
夢 の 宴
一
幻にほふ花染(はなぞめ)の
朧(おぼろ)や、卯(うづき)月、夜を深み、
春の使(つかひ)の風の兒(こ)は
やはら光翅(つやば)の羽衣を
花充(み)つ枝にぬぎかけて、
熟睡(うまい)もなかの苑(その)の中
千株櫻(ちもとざくら)の香の夢の
おぼろをおぼろ、月ぞ照る。
二
ここよ、これかのおん裾(すそ)の
縺(もつ)れにゆらぐ夢の波
曳きて過ぎます春姬が、
供奉(ぐぶ)の花つ女(め)つどはせて、
明日(あす)の淨化(じやうげ)のみちすじを
評定(はかり)したまふ春の城。
春は日ざかる野にあらで
夢みて夢を趁(お)ふところ。
三
さりや、萬枝(ばんし)の花衣、
新映(にひばえ)つくる櫻樹(さくらぎ)の
かげに漂ふ讃頌(さんしよう)も
聲なき夢の聲にして、
かほり、はたそれ、この國の
溫(ぬる)みよ、歌よ、彩波(あやなみ)よ。
まろらの天(あめ)の影こそは
舞ふに音なきおぼろなれ。
四
『梅』は北濱(きたはま)海人(あま)が戶へ。
『柳』は、玉頰(たまほ)ゆたかなる
風の兒(こ)を率(ゐ)て、狹野(さぬ)の邊(べ)の
發句(ほく)の翁(おきな)の門を訪へ。
『さくら』と『桃』は殿軍(しんがり)の
女(め)の子(こ)をここにつどへよと、
評定(はかり)のあとに姬神の
下知(げち)それぞれにありぬれば、
今宵のわかれ、いざやとて、
夢いと深き歡樂(くわんらく)の
宴(うたげ)は春のいのちかも。
しろがね黃金すずやかに
つどひの鳥笛(とぶえ)仄(ほの)に鳴(な)り、
苑は『さくら』の音頭(おんど)より
ゆるる天部(てんぶ)の夢の歌。
五
見れば、吹きみつ夢の花、
櫻のかげの匂ひより
つどひ寄せたるものの影、──
和魂(にぎたま)、人のうまいより
のがれて、暫し逍遙(さまよ)ふか、──
あゆみ輕(かろ)らに、やはらかに、
蹠(あなうら)つちをはなれつつ、
裸々(らゝ)の美肌(うまはだ)ましろなる
乳房(ちぶさ)ゆたかに月吸(す)ひて、
百人(もゝたり)、千人(ちたり)、萬人(よろづたり)、
我も我もと春姬が
小姓(こしやう)の撰(えり)に入らむとか、
つどひよせては、やがてかの
花つ女(め)どもに交(まじ)りつつ、
舞(まひ)よ、謠(うたひ)よ、耻(はぢ)もなき
めの苑生(そのふ)の興(きやう)なかば。
六
もつれつ、とけつ、めぐりつつ、
歌の彩糸(あやいと)捲(ま)きかへす
舞の花輪(はなわ)は、これやこれ
捲きてはひらく春宵の
たのしき夢の波ならし。
波の起伏身にしめて
舞へば、うたへば、暫しとて
眠りの床をのがれ來(こ)し
和魂(にぎたま)ただになごみつつ、
夢は時なき時なれば、
(ああ生(せい)ならぬ永生(えいせい)よ)
かへるを忘れ、ひたぶるに
天舞花唱(てんぶくわせう)の夢の人。
月はおぼろに、花おぼろ、
おぼろの帳(とばり)地にたれて、
いま天地の隔てさへ
ゆめの心にとけうせて、
永遠(とは)を暫しの天の苑。
七
月は斜(なゝ)めに、舞倦(うん)じ、
快樂(けらく)やうやう傾ぶけば、
見よや、幾群(いくむれ)、いくそ群、
みたり、五人(いつたり)、つどひつつ、
歌の音なきどよみにか
ゆられて降(ふ)れる葩(はなびら)に
みどりの髮(かみ)をほの白き
花のおぼろの流れとし、
惜しむ氣(け)もなく羽衣を
土に布(し)きては、花の精(せい)、
また人の精(せい)、ともどもに
夢路(ゆめじ)深入(ふかい)る睦語(むつがたり)。
或は熟睡(うまい)の風の兒が
ふくらの頰(ほゝ)に指ついて、
驚き覺(さ)むる兒が顏を
『あら笑止(しやうし)や』と笑(ゑみ)つくり、
或は『柳』の精(せい)が背(せ)の
枝垂(しだり)の髮を、たわわなる
さくらの枝に結びては、
『見よこれ戀のとらはれ』と
乳房をさへて打囃(うちはや)す。
ああ幻のきよらなる
ここや、淨化(じやうげ)の愛の城。
八
この時ひとり供奉(ぐぶ)の女(め)が、
匂ひなまめく圓肩(まろかた)の
髮を滴(した)だるはなびらを
そと拂ひつつ、語るらく、
『ああこのうまし夢(ゆめ)の宴(えん)
すぎて幾夜のそのあとよ、
ゆめの心のあとは皆
あつき眞夏(まなつ)の火(ほ)の室(むろ)に
やかれむのちの如何にぞ』と。
きくや、忽ち花『さくら』
肉(しゝ)ゆたかなる胸そらし、
『ああ悲しみよ、運命よ、
夢は汝等(なれら)の友ならず。
笑(ゑみ)よ、おぼろよ、愛よ、香よ、
いで今、更に一(ひと)さしを、
春の門出に、この宵の
わかれに舞ふて、うたへとよ』と、
立てば、『げにも』と、まためぐる
夢の波こそ春の音(ね)や。
九
かくて、やうやう夜はくだち、
かへり見がちに和魂(にぎたま)の
わかれわかれて、姬神が
花幔幕(はなまんまく)の玉輦(たまぐるま)
よそひ新たになりぬれば、
風の兒はまづ脫(ぬ)ぎ置きし
光(つや)ある羽(はね)の衣をきて、
黃金の息を吹き出すや、
朝よぶ鐘の朗々(ろうろう)と
花のゆめをばさましつつ、
『淨化(じやうけ)の路に幸(さち)あまれ
光あまれ』と、ひとしきり
つちに淡紅(とき)なる花摺(はなず)りの
錦布(し)き祝(ほ)ぐ櫻花。
東の空にほのぼのと
春の光は溢れける。
(甲辰十二月二日)
[やぶちゃん注:第二章の「みちすじ」はママ。第七章の『あら笑止や』の太字「あら」は底本では傍点「ヽ」。「朗々(ろうろう)と」のルビはママ。
「熟睡(うまい)」「味寢」などと漢字表記する万葉以来の古語。「うまは」「快い」を示す造語成分で、「気持ちよく熟睡すること」。古くは「安寢(やすい)」が単に「安眠」であったのに対し、「男女が気持ちよく共寝すること」を指した。
「淨化(じやうげ)」この読みは一般的なものではない(「じやうくわ(じょうか)」が普通で私はこの「じやうげ(じょうげ)」という表記も発音も聴いたことがない)。しかし啄木の確信犯で、閉じられた詩篇世界内での秘蹟としてのそれを限定して予定調和する語であろう。
「狹野(さぬ)の邊(べ)」在所不詳の歌枕。一説には現在の和歌山県新宮市佐野とも、大阪府泉佐野市と貝塚市に跨る佐野地区とも、兵庫県たつの市新宮町佐野ともされる。
「鳥笛(とぶえ)」鳥の鳴き声を真似るように作った笛。当初は鳥刺しの狩猟具。
初出は明治三八(一九〇六)年十月号『しらはと』。有意な異同を認めない。]
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