「先生」の過去の具体な告白が、今日、始まる
『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月18日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十七回
一気に父母を亡くした時(推定十七歳)から始まるというのは、どう考えてもおかしい。
(「先生」は学生の「私」に直接に出生地の地方名或いは県名ぐらいは言ったであろう。でないと、私の好きな(四十一)の明治天皇崩御の報知の直後の私が弔旗を実家の門に掲げるシークエンス、
私は黑いうすものを買ふために町へ出た。それで旗竿の球を包んで、それで旗竿の先へ三寸幅のひら/\を付けて、門の扉の橫から斜めに往來へさし出した。旗も黑いひら/\も、風のない空氣のなかにだらりと下つた。私の宅の古い門の屋根は藁で葺いてあつた。雨や風に打たれたり又吹かれたりした其藁の色はとくに變色して、薄く灰色を帶びた上に、所々の凸凹さへ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黑いひら/\と、白いめりんすの地と、地のなかに染め出した赤い日の丸の色とを眺めた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。私はかつて先生から「あなたの宅の構へは何んな體裁ですか。私の鄕里の方とは大分趣が違つてゐますかね」と聞かれた事を思ひ出した。私は自分の生れた此古い家を、先生に見せたくもあつた。又先生に見せるのが恥づかしくもあつた。
の叙述がしっくりと腑に落ちてこないからである。)
上記の注で、私は以下のように書いた。
自分の過去を学生にのみ確かに語ることへの非常な拘りを持っている先生の書き方としては唐突な気がする。この頭に実は簡単な出身地(私の推定は新潟)に関わる叙述と生年及び生家の梗概等が簡単にでも語られるのが私は『普通』であると思う。そして先生が、それを省いてここから書いた、とは思われない。そうした年譜的事実の省略は文章に不自然さを齎さない。だから、今まで気づかなかったのだ。しかし、こうして指摘すると、あたかも源氏が11歳から17歳の青年になるまでが描かれないのと同じく、妙に不満なのである。私は少なくともおかしいと思うのである。私が先生で遺書を書くとしたら、こんなは書き方は絶対しない。数行でいいのだ。必ず生年と家柄を述べるであろう。生家への言及は実際、(五十九)で「私の家は舊い歴史を有つてゐる」と現われる。決して先生は財産が相応にある自家の家系について決して無関心ではなかったはずだ。その財産のルーツについて語るべき義務もあると思われるし、先生は『語ったはずである』。――だとすれば、やはり、その部分は「私」によって省略されたものと私には思われるのである。
私は現在――先生の「遺書」は全文ではなく、学生の「私」によって恣意的にカットされた部分が厳然としてある――と確信している。
そうして先生の「遺書」パートはそれを勘案した上で、読まれなければならない、そのカットされた内容を想起し、推察せねばならないという茫漠とした地平に於いて、やはり今も「こゝろ」は解けない謎の書物であり、在り続ける、と言いたい――
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